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2006年04月19日

 ■ 航跡(ウェーキ)

 いつから俺はこうなっちまったんだろう?
 電話の子機を置いて、俺は机に伏した。無力感が体中を蝕んでいくようだ。求人雑誌に載っていた番号にかけて、面接のアポを取って……スーツのクリーニングが仕上がるかな、という心配。今日のうちに床屋行っておこうかな、という心配。ごちゃごちゃした細かいことばかり悩んで、一番肝心なものが、俺の手のひらの中には欠片も見えない。
 俺に何ができるっていうんだろう?
 初めから、負の答えだけを自分に課した自問。何もできやしないんだ。爆縮していく感情に押しつぶされそうになる。正当な爆縮ならまだいい。その後に核融合が待っているなら。だが俺のそれは、ただ縮んで消えていくだけの……
「くそっ」
 悪態をついた俺の手の中で、求人雑誌のページがくしゃりと音を立てた。

 明日のために準備しなければならないものは、いくつかあった。履歴書と写真はいらないらしい。そのかわり、身分証明書になるものと、職務経歴書を持ってこい、と。
 パソコンに向かい、仕事で使える程度には鍛えられた150KPMのタイピングを披露する。職務経歴書と言っても、決まった書式があるわけではない。好きなように書いてくればいいんだそうだ。俺は頭を捻り、今までの足跡を辿っていく。
 最初は、アルバイトとして塾の講師をやり始めたんだったな。あれは、2回生の5月だった――
 いや、違う。最初は講師で雇って貰えなくて、助手という扱いだったんだ。全面的に生徒を任されるのが講師で、講師の監督のもとで授業をするのが助手。忘れていたが、5年前の俺はそんな評価だったんだ。
 そして、夏休みが開けたころに、やっと一人前の講師として認められた。それが9月。
 2年半そのまま勤めたあと、アルバイトから正社員待遇になった。塾長のもとで教務事務を学んで、さらに1年後。
 12月だったな。あの人がいなくなってしまったのは。
 俺は床に背を投げ出して、天井を見上げたまま溜息を吐いた。もうあれから1年以上も経つのだ。なのにまだ、あのことを消化しきれずにいる。たぶん一生、このままなのかもしれない。あの時受けた衝撃とか、悲劇の主人公となって抱いた決意とか、泣いてしまうほど痛めつけられた記憶とか――消えるはずがない。ただ、消えない傷とうまく付き合っていく術を身につけるだけ。傷の痛みを力に換える方法を。
 翌年1月、教務主任に任命された。
 俺は身を起こした。
 そういえば、俺は教務主任っていう役職だったんだ。なんだか、それっぽいぞ。経歴書に書いておけば高評価なんじゃないだろうか? でも、面接で聞かれそうだな。教務主任ってどんな仕事をしていたんですか? とか。
 俺は腕組みして考え込んだ。主任の仕事は……教室が3つ、講師が5人ほどいて、それをとりまとめる仕事だったんだ。まあ、主任と言えば聞こえはいいが、塾長が姿を消して、その仕事をいくらかでも知っていた俺が、間に合わせとして押しつけられた役目だったのだ。
 それだって、あの時俺は……

「正直言って……」
 社長と事務長に見つめられながら、俺は奥歯を噛みしめた。
「荷が、重いです」
 珍しく、俺は正直に胸の内を打ち明けた。あの時は、空とぼけてなんかいられなかったんだろう。それほど俺が受けた衝撃は大きかった。自分の心を隠すほどの余裕はなかったのだ。
「うむ……」
 社長は深く唸って、数秒沈黙した。
「まあ、実質は名前だけや、責任が変わるわけやない。これからみんなに命令せなあかんこともあるやろし、その時に、何か名前があったほうが言いやすいやろ?」
「はあ……」
 不承不承、俺はその重い役目を担うことになった。
 できるのか、俺に?
 その思いだけが、俺の中で渦巻いていた。

 あの時は、無力感よりも、その場の勢いが勝っていたんだな。実際問題、俺がやるしかない状況だった。できるのか、とか、俺には何もできない、とか、言っているような状況ではなかった。それだけの話だ。
 しかし、今になって思えば、訳が分からないなりにも、主任の仕事はやってきたような気がする。もちろん完璧な仕事なんて望むべくもない。傷だらけ、継ぎ接ぎだらけの、見苦しい足掻きに過ぎない。それでも足掻いてきたという証が、俺の背中の後ろに、まるで航跡(ウェーキ)のように残っている。
 そう、俺の手元にプリント・アウトされた僅か数行の経歴書が、俺の航跡そのものだ。
 主任、か。5人もの人間を纏めていたのか、俺は。
 なんだ。結構やるじゃないか。
 俺は、くしゃり、と経歴書を丸めて、くずかごに放り込んだ。
 そして、もう少し綺麗にレイアウトをいじってやろうと、再びパソコンに向かい合った。

投稿者 darkcrow : 2006年04月19日 23:30

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