警部補ガーランドの最期 3(ボツ)
※この作品はボツになりました※
カビの臭いが鼻を衝く。
外の光も差し込まず、蛍光灯一つ点いていない地下室を、モニタの明滅だけが照らし出す。スチールのデスク。パイプが剥き出しのベッド。鋼鉄のドアには、幾つもの赤い染みがこびりついている。まるで監獄のような狭い部屋の中。
蠍は、割れたコンクリートの破片を、拳の中に握りしめていた。
体を貫く猛烈な痛みを、少しでも紛らわそうと。
体が内側から弾けていくような感覚。始めは、袖星にやられた脇腹の傷だけだった。だがどうだ。日に日に痛みは全身へと転移していく。まるで傷口がどんどん広がっていくかのよう。今や腹が両断され、腕が根本から引き裂かれていく。そんな錯覚。
しかし、何故?
フロートドレスを着せられて、戦場に放り出された途端、体が動く。この痛みにもかかわらず。蠍自身の意志すら越えて。人の限界すら超えて。
「きっ……きさ……まあ……!」
地虫のように醜く這いずりながら、蠍は必死に、そいつを見上げた。
「きさ……何を……したあ!?」
『――君が望んだ通りのことを』
少年は涼しい声で、答えた。
宇宙服にも似た不格好な服を着た少年は、強化ポリマーのヘルメットの中で微笑んでいた。這うしかできない蠍を、哀れを含んだ目で見下しながら。
『君は言ったろう? まだ死にたくない。袖星真弓に復讐する力が欲しいと。望んだ通りになったろう? 力が湧いてくるだろう?』
少年の手が蠍の頬を優しく撫でさすった。
『痛みによって人は強くなる。安いものじゃないか……ね』
「ふざけるなあっ!」
突如、蠍の体がバネのように伸び上がった。獣のように少年に躍りかかると、その小さな体を押し倒しながら、右手に握りしめたコンクリート片を叩きつける。少年の、強化ポリマーで作られたヘルメットに。
びきっ!
音を立て、透明なバイザーが砕け散る。蠍はその一撃で力を使い果たし、少年の上にのしかかるように倒れ込んだ。痛みが爆発のように全身を襲った。だがそれより大きな満足感があった。
公家は、無菌都市東京城(ジャームフリイ)で育った貴族たちだ。免疫機能が極端に弱まってしまったため、東京城の外では無菌フロートドレスを着なければ生きていけない。外気に触れた公家がどうなるか、蠍はよく知っている。
「ふはっ!」
狂気に満ちた笑い声を挙げ、蠍は……
次の瞬間、凍り付いた。
自分の体の下で、何者かがもぞりと動くのを感じた。少年が、事も無げに、ゆっくりと、蠍の体の下から這い出そうとしていた。ウソだ。蠍の体が硬直する。何故動ける? 蠍の体が震える。全身にカビを生やして栄養と水分を全て吸い取られてミイラになって
「死ぬ……と思った?」
少年は、蠍を蹴り飛ばしながら、ゆっくりと立ち上がる。
じゅくっ。
気持ちの悪い音。
「そうだね。普通の公家は、雑菌から身を守るために鎧を纏う」
蠍の、視線の先で。
「だが……僕は違う。この鎧はね……」
割れたバイザーの中で。
肉が、蠢いた。
「迸る僕を辛うじて抑え込む、人の型枠なのさ」
にやついた笑みと共に、少年の頬が弾ける。
粘ついた細胞片を撒き散らしながら、少年の頬から触手が伸びた。触手。肉でできた細い腕のようなものが、何本も、何十本も、際限なくバイザーの割れ目から溢れ出し、蠍の全身を縛っていく。
「なっ……なあ……!?」
少年の異形を前にして、蠍は恐怖に凍り付いた。自由を奪われていく体。目の前で膨張を続ける化け物。痛みすら掻き消すほどの恐怖。蠍は震えて裏返った声で、ようやく一言の問いを吐き出した。
「なんなんだ、お前はあ!?」
「――アンタイトルド」
にやついた笑みで、少年は答えた。
「バロン・アンタイトルド」
難波にほど近い恵美須町には、無数の遊技場……ゲームセンター、パチンコ屋、カジノの類が立ち並び、地下暴力団の重要な資金源となっている。今日も今日とて、昼間から大勢の暇人たちが恵美須遊技場街を賑わしていた。
その時、高層遊技場ビルの隙間から覗く空に黒い影が瞬いた。それに気が付いた者は少なかったし、気に留めた者は皆無に等しかった。鴉か何かとしか思わなかったのだ。ある意味でそれは――
と。
閃光が走り、人々の頭上で大爆発が起こった。
爆風が地上の人々を薙ぎ倒し、その頭上を漆黒の鴉が飛び抜けていく。鴉のばらまいた徹甲弾の雨が、身動き取れない人の群れの中に鮮血を飛び散らせた。ようやく事態を悟った人間が、甲高い悲鳴を挙げる。
「屍鴉(キャリオンクロウ)だ!」
瞬間、恵美須の街を怒号と悲鳴が埋め尽くした。蜘蛛の子を散らすように逃げまどう人々の上で、黒い鴉たちは我が物顔に旋回する。まるで悲鳴に引き寄せられるように、血の臭いをかぎつけたかのように、次々と鴉の数が増していく。やがて空を埋め尽くす黒い雲となった鴉たちは、
ひぃぃぃぃぃん!
一斉に、バーニア・ノズルから共鳴音を響かせた。
屍鴉。金次第でどんな汚い仕事も厭わない、フロートドレスを纏った傭兵どもである。
キャリオンクロウたちの雲が、中央からゆっくりと、二つに割れていった。その間から異様な気配を放つ一羽の鴉が舞い降りる。漆黒のフロートドレスに身を包み、血塗られた抜き身の日本刀をぶら下げ、背には一対の巨大な翼を持つ鴉。体のあちこちが異様に引きつり、小刻みに痙攣を起こすそのさまは、異様というよりも、もはや――
人外の怪物、のような。
「く……くくく……えへへへへ!」
まるで無邪気な子供のように笑いながら、漆黒の鴉はカタナの血糊を振り払った。
「そーでぼーしくーん! あーそーぼ!」
周囲のキャリオンクロウたちの間にざわめきが広がった。大丈夫か、このリーダーは。狂ってるんじゃないのか。だが、叫んだ本人には、そんな雑音など届かない。聞こえていない。彼にはもう、一つの者しか見えていない。
袖星真弓を殺す。
狂気の深淵に没してしまった蠍にとって、その思いが、たった一つだけ残った現実の光だったのだ。