夏越 2
夜が明け、眩しい太陽が知らぬ間に頭上を通り過ぎ、また夜がやってきても、なお夏越の心は迷いばかりに満たされていた。
私は捨てられる。突如突きつけられたその事実による猛烈な不安感が、今の夏越の全てだった。今まで夏越は、ただ役目を果たすことだけを考え、気が狂いそうになるほど長い時間をこの制御室の中で過ごしてきた。他には何も要らなかった。他のA級オートマトンたちが人間社会の中に溶け込み、人間たちと楽しく過ごしていることは「知って」いた。だがそんな物には毛ほどの魅力も感じなかった。
与えられた役目を正確かつ精密かつ能率的にこなしている。人間にはとても真似のできない仕事を完璧に成し続けているという事実だけが、夏越を満たしてくれたのだ。
思えば、10年前にハチノス――製造されたばかりのA級オートマトンを集めて基礎教育を施す、国立の学園島――を卒業した頃の夏越には、これほど強い仕事中毒の症状はなかったかもしれない。だが人間やA級オートマトンとの関わりを断ち、密閉された制御室に籠もり続けた10年という月日は、彼女にとって長すぎた。かつて経験したことがあるはずの楽しかった記憶は過去の物となり、夏越は今やプラントの部品と成り果てていたのである。
私にはここしかない。このシートに座り、プラントを制御する、それしかないのに。今さら人間たちの中に放り込まれて、四六時中引きつった笑顔を浮かべていろというのか?
こんな不安の中にいる位なら、まだ破棄されると聞いたほうがマシだった。
ただ一つだけ救いだったのは、夏越が休まなくてもよいということだった。
オートマトンも人間同様、疲労もすれば休息もする。ただしその疲労は身体のバランス制御によるものがほとんどで、生産ラインに致命的なエラーが発生しない限り動く必要のない夏越や、プラントに居並ぶ固定設置オートマトンたちなどは、基本的に休息を必要としない。
だから夏越は、休むことなく仕事に打ち込むことができる。普段なら12時間に1回でいいはずのプログラムチェックを6時間に1回行えば、考える暇が無くなるのに十分な程度には、忙しくなれた。体を――いや、この場合は電脳を動かしていれば、余計な煩悩から解放されるのだ。
……と。
今日4度目のプログラムチェックに没頭していた夏越は、ぴくりと胸を震わせた。女性型オートマトンの胸部が膨らんでいるのは、その中にサブコンピュータを内蔵しているためだ。そのサブコンピュータが、NLCコードを通じて流れ込んできた異質な情報に反応し、僅かに動いたのである。
なんだ、この感じ?
感覚の正体は監視カメラが捉えた僅かな異常だった。夜空の星が瞬いた。それ自体はどうということはない。大気中には様々な塵が紛れているのだから、星の光が遮られることくらいあるだろう。
だが夏越は予感した。これは単なる自然現象などではない。理由は無かった。いわばカンだ。人間にも、そしてオートマトン自身にも制御しきれないほど複雑化した電脳が、無意識下で何らかの証明を行ったのに違いなかった。
では、自然現象でないとすれば?
何かが星光を遮った……一体何が?
まさか、
「侵入者!?」
思わず夏越が叫んだ瞬間、
どんっ!
彼女の全身を貫くような衝撃が襲った。瞬時に制御室の天井が崩れ落ち、真っ白な粉塵と共に冷たい夜風が舞い込んでくる。夏越は慌てるあまりNCLコードを外すのも忘れ、シートから飛び上がった。
そして目にした。
蒼。
粉塵の中で、淡く輝く蒼い光があった。その光が人型をしていることに気付くのに、少しの時間を要した。人間? 確かに長身の男に見える。黒髪はぼさぼさと長く、手足はまるでしなやかな鞭のよう。漆黒のロングコートが風に乗って舞い降りるに従って、蒼い光は次第に薄れていく。光を放っているのはコートの裏地らしかった。
だがこんなもの、人間であるはずがない。
夏越には一目で分かった。胸の中のカオティック・インフレーション機関が共鳴の疼きを感じている――
「オートマトン……」
夏越の呟きに応えるかのように、けたたましい警報が鳴り響いた。同時に灯る赤い回転灯が、埃にまみれた制御室に、血に濡れたかのような壮絶な姿を浮かび上がらせる。
「……あ」
その光で夏越は我に返った。相手に見とれている場合ではない。こいつはプラントの天井を突き破って飛び込んできた、暴力的な侵入者なのだ。夏越は目を閉じる。NLCコードに意識を集中させ、警備部に報告を――
が、情報が光速で伝わるよりも早く、コートの男は夏越に肉薄した。次の瞬間男は片腕で夏越を強く抱きすくめ、体をひたりと密着させた。今まで殆ど触れたことのない男というものに抱かれ、夏越は思わず胸を高鳴らせる。
しかし男は夏越の恐れたような……あるいは期待したようなことは何もしなかった。ただ有無を言わせず、夏越の体中をまさぐって、コードというコードを全て抜き取った。気付いた時にはもう遅い。夏越は全ての連絡手段から遮断され、スタンドアローン状態へと陥っていたのだ。
「何を!」
「静かに」
叫ぶ夏越の唇に、男はそっと人差し指を押し当てた。
「お前に危害を加えるつもりはない……が、暴れるならその限りでもない。分かるな?」
夏越は何も応えなかった。だが、沈黙をイエスの意思表示と受けとったか、男は腕の力を緩めて夏越を解放した。体が自由になるなり夏越はふらつきながら後ずさり、すくい上げるように男を睨む。
「何者だ? 何をする気だ?」
「くせ者で、ある物を盗み出す気なんだ」
「……はあ?」
夏越は思わず素っ頓狂な声を挙げた。
A級とはいえオートマトンは人間の道具である。本来なら、プラントに押し入った強盗が目的をペラペラ話すことなどありえないはずなのだ。同じオートマトンである夏越はそれを実感的に知っているだけに、その驚きは人間が感じるそれよりも遥かに大きな物だった。
「喋った方が何かと都合がいい」
まるで料理のコツでも説明するかのように、男は軽い声で言う。見れば、回転灯の中浮かび上がる男の表情は穏やかで、とても凶悪な強盗オートマトンには思えなかった。
「このプラントに、厳重に閉鎖された区画があるはずだ。そこに入りたい。協力してくれ」
しれっと馬鹿げたことを言い放つ男に腹が立ち、思わず夏越は叫んだ。
「そんな協力できるものか!」
「あるんだな、そういう区画」
この男、カマを掛けたのだ。まんまと情報を引き出されたと知ると、夏越は屈辱に唇を歪めながらそっぽを向いた。
「あったから……どうだといんだ」
「案内してくれないなら、俺はこのプラントを片っ端から爆破する」
CI機関が止まるかと思った。このプラントの制御を任されている夏越は、プラントを正常に稼働させることを最優先の目的として設定されている。こんなことを宣言されれば、男の言いなりになるしかなくなってしまう。
そしてそれ以上に……このプラントは夏越の全てだったのだ。
情けない、どこの馬の骨とも知れないこんなオートマトンの思うままに動いている――
「……分かった」
苦渋の表情で言う夏越に、男は満足そうに笑った。その笑いがいっそう夏越を苛つかせるのだ。
「ありがとう……急ごうか。じき警備の連中がやってくる」