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2006年06月27日
「強い女性が好きだな」
って袖星くんが言ったので、剣道部に入りました、私。
この町の中学校は丘の上にあって、盆地の町が一望に見渡せる。大きな校舎のそばにちょこんと並んで、じっと町を見下ろしている道場。その頭上を覆う立派な桜の木は、青々とした葉っぱの奥にたくさんのセミたちを抱いていた。
夏休みを目前に控え、どことなくそわそわし始めた道場の中に、気持ちのいい風がふっと吹き抜けた。
「イァアーッ!」
裂帛の気合いが爆発のように響き渡った。
だんっ、と力強い足踏みが板張りの床を揺らす。剣道着を身につけた小柄な剣道部員が、一回り体の大きい部長目がけて踏み込んでいく。低く。速く。全体重を竹刀に載せて、敵の脇腹目がけて繰り出す最速の一撃。だが敵は軽く身を引いて、その攻撃を切り払う。
ばしっ!
空を裂く衝撃。
瞬時、構えが崩れ、
「小手!」
「小手あり!」
次の瞬間、勝負はついていた。
――負けたぁーっ!
議論の余地もない完敗に、小柄な剣道部員は爽快な気分さえしていた。静かに試合場の中央へと移動すると、きちんと手順を踏んで礼をする。ほとんど体は自動的に動いた。何百回と繰り返し、動きが体に染みついているのだ。何しろ部長は人一倍作法に厳しい人だったから。
緊張したまま、しずしずと試合場の枠の外に出て……
「ぶはあっ」
ほくとは面を脱ぎ捨てた。
ショートヘアが汗でべっとり貼り付いた顔に、吹き込んでくる風は最高に気持ちよかった。
「ほくちょ、お疲れっ」
正座して模擬戦を見学していた洋子が、ほくとの袴をちょいちょいと引っ張りながら、にかっと笑った。洋子はほくとのクラスメイトで、小学校のころからの親友だ。何の因果か、部活まで同じのを選んでしまった。
ちなみに、ほくとよりちょっと強い。
「また負けちゃったねえ、ほくちょ」
「はは……やっぱ先輩、強いわ」
「だしょー? あたしもこないだバーンってなったらここんとこがグワーンてそれで……」
大げさな身振り手振りで何事か熱弁する洋子であったが、擬音語ばっかりで何言ってるのか全然分からなかった。
と、ほくとは不意に、窓の外の光景に目を奪われた。
風が吹き抜けていく、木枠の格子窓。その向こうには、フェンスで囲まれたテニスコートが見えるのだ。今しも男子テニス部の部員たちが、かぱん! と軽快な音を響かせている。その中の一人……一際背の高い男の子に、ほくとの視線は釘付けになった。
かぱん!
フォア・ハンドで、力一杯ボールを打ち込み、それでゲームセット。
練習試合を終えた彼は、他の部員達にコートを明け渡して、自分はフェンスに背中を預けた。がしゃん、と金属音が響き渡る。とくん、とほくとの胸が脈打つ。何かに気付いてくれたのだろうか。こちらの視線を感じていたのだろうか。彼がふと振り返り――
視線があった。彼が、よっ、と手を挙げて挨拶してくれた。
ほくとは、熱っぽい顔を風に晒しながら、胸の前で小さく手を振って返した。
「ははん。」
「よっこ!?」
突如ほくとの背中にしなだれかかってくる、汗くさい何か。言うまでもなく洋子である。ほくとは思わずタジタジ後ずさろうとするが、洋子の両腕ががっしりその体を抱きしめて離さない。洋子は窓の外めがけてぶんぶか腕を振り回し、
「やっほー! そーっでぼーっしくぅーん! キャー!」
「よ、よぉ」
洋子のハイテンションには、袖星真弓も敵わない。苦笑しながら手を振る彼。洋子はほくとの耳元でぼそぼそと、
「ほれ。あんたもなんかゆえ」
「い、いいよいいってば……」
「何を照れているのかな~? これが目当てで剣道部入ったくせにぃ~?」
――それだけが目当てじゃないよ!
まあ、それも目当てではあるのだが。
などと浮かれていたその時。
「こらっ! 何やってる、そこ!」
びくうっ!
ほくとと洋子は二人して飛び上がった。見れば、さっきほくとと試合をしていたあの鬼部長が、それこそ剣のような鋭い視線で二人を睨みつけていたのである。その迫力ときたら、部長も女性であるということを忘れてしまいそうになるくらい。
「道場の中で、浮ついたことを……そんな下心で竹刀を握るなっ!」
ぴしゃりと言い放たれて、ほくとは体の芯まですくみ上がった。部長が肩を怒らせて更衣室に帰っていくのを見送ってしまうと、洋子と抱き合って安堵の溜息を吐く。
ほくとはそっと、テニスコートの方に視線を遣った。
袖星は、もう自分の練習に戻ってしまっていた――
その日の夕方のことだった。
練習を終えたほくとは、忘れ物を取りに教室に戻っていた。差し込む夕日で朱に染まった二年C組の教室。木目の綺麗な、お気に入りの自分の机。ほくとはそっと、隣の机に視線を送った。計算用紙代わりに使われて、汚れに汚れた誰かさんの机。クラスの誰よりサイズの大きな、1号の立派な机……
袖星真弓の机。
――触ってもいい、かな?
恐る恐る、ほくとは手を伸ばしていく。
「あれ? ほくと……さん?」
びびくうっ!?
ほくとは弾かれたように立ち上がった。教室の入口の所で、夕日をバックに佇むその姿。黒塗りシルエットになっていても見間違えるわけがない。袖星くんである! 見られた? 机触ろうとしてたの分かった!? 内心あわてふためくのを必死に抑え、ほくとは冷静に応えてみた。
「そでぼしくゅん!?」
無理だった。
が、鈍感な袖星は何も気付かなかったようである。幸か不幸か。
「よお……どしたの? こんな時間に」
「ん? うん、ちょっと、忘れ物……」
「そっか。俺もさ……」
お互いぼそぼそと言いながら、微妙に視線を逸らしてしまう。袖星は、不自然なロボットみたいな動きで、ほくとの隣の自分の席に寄っていった。その中からノート一冊取り出して鞄に詰め込み、なぜかぴたりと動きを止める。
何か待ってるみたいに。あるいは、何か躊躇ってるみたいに。
セミの声だけが響く沈黙の後、袖星はおずおずと、
「さ、さっき……さあ」
「ん」
「試合、かっこよかったよな」
じわじわじわっ、と喉の奥のあたりから熱いものが込み上げてきた。
「へへ、でもダメだね。部長が強くって、負けちゃった」
「でも、ビシッとしてて……」
「ん……」
そしてまた沈黙。
今度は、ほくとの方から沈黙を破ってみた。
「あのね、今度の日曜……」
「え?」
「試合なんだ。市の総体の予選」
「あ、そうなんだ! 出るの?」
「うん! あのね、個人戦で……試合、多分二時頃から始まって……」
と、そこまで言って、そこから先が喉から出なくなった。酸欠の金魚よろしく口をぱくぱくさせるが、ちっとも声が出てこない。言いたくてしかたがなかったのに。「だから、応援しにきてほしいな」って言いたかったのに。まるで肺が石化してしまったかのよう。
「奇遇だよな。実は俺も、今度の日曜試合なんだ」
――げ。
「あ、でも俺も市総体だから同じ日なのは当たり前か」
そうだった。ほくとの望みはこれで潰えた。がっくり肩を落としたくて仕方がなかった。
「お互い頑張ろうよ。勝てるといいな、ほくと……さん!」
「う、うん!」
――うん! じゃねーだろ、私。
で、話は終わってしまった。ぎこちなく手を振りながら出て行く袖星くんを見送って、彼の姿が見えなくなった瞬間、
「だはぁっ! き、緊張したぁ~……」
ほくとは椅子に崩れ落ちた。
間が悪いったらない。袖星くんに試合を見て貰いたかった。そうしたら……
――好きになってくれたかもしれないのに。
「うー」
じた。
「ううう~っ」
じたばたじたばた。
椅子にへたり込み、机に突っ伏したまま、ほくとは手足をばたばた振り回していた。距離が近づくようで近づかない。この微妙な焦痒感。たまったものではなかったのである。
(続く)
投稿者 darkcrow : 2006年06月27日 01:01
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