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2006年06月28日
試合会場の喧噪も、どこか遠い。
剣道着姿のほくとは、試合会場の隅っこにちょこんと正座して、膝の上の防具袋を抱きかかえていた。なんだか気合いが入らない。背筋が自然と丸まっていく。アゴを防具袋の上にのっけておくと、とても楽だ。
広い体育館に6面とられた正方形の試合場の中では、あっちこっちの中学から集まった剣道部員たちが、汗を迸らせて、文字通りしのぎを削っていた。機敏な動き。お腹が震えるほどの気合い。竹刀が爆ぜる軽快な音。
――あんな風に戦っているところを、袖星くんに見て欲しかったなー。なー。なー。
「だらけきっとりますなー、ほくちょ」
「ふぁ~、よっこ~」
トーナメント表を取って戻ってきた洋子は、今にも融けてしまいそうなほくとを見下ろし、たらりと汗を一筋垂らす。
(ふ、ふぬけ……)
まあ、気持ちは分からないではない。洋子はもちろん、ほくとが剣道をやっている動機を知っているし、袖星が試合を見に来れないという話も聞いているのだ。しかしそれにしたって、こんな状態では、試合に負けるどころか怪我さえしかねない。
「あのね。袖星が来られないのはしょーがないじゃない。ならせめて、明日学校で勝利報告できるよーにしろっつの」
「うん……そーする! 絶対勝つぞ!」
「その意気その意気」
必要最小限くらいにはやる気を出したほくとは、防具袋を抱くてを放し、ぐっとガッツポーズしてみせた。洋子は腕組みしつつ、しきりに一人で頷いた。ほくとは良くも悪くも素直で単純なのである。洋子は彼女のそういうところが好きだし、扱いやすくて助かってもいる。
ふと、そのほくとがいらんことに気付いて、洋子の袴をちょちょいと引っ張った。
「あ。そういえば、トーナメント表どうだった? 私の相手、だれ?」
「ん……?」
不意に、洋子がそっぽを向く。ほくとは眉をひそめ、
「……どうしたの?」
「いやー、うん。いいんじゃないか、試合が始まった時のお楽しみとゆーのも。うん」
「なんじゃそら? 貰ってきたんでしょ? 見せてよ」
「あ、そーだ! 帰りに駅前で服見ていきましょう。おーないすあいでぃーあ」
「……見せてってば」
「ところで知ってる? E組の斉藤さんの好きな人って」
「うちの学校D組までしかないよ。いいから見……」
「えーい! 一生懸命話題を逸らそうとしてるのが分からんのかー!」
「分かりやすすぎるのよ!!」
観念した洋子は、ぺたんと床に胡座を掻いた。自分の防具袋を足で引っ張り寄せながら、手の中に隠し持っていたクチャクチャの紙切れを、ほくとに手渡す。彼女が不思議そうにそれを受け取り、ざっと目を通していくのを見守りながら、洋子は祈るように防具袋を抱きしめ……
「……ぶ、ぶ、ぶ、部長が相手ーっ!?」
ほくとが体育館の天井が抜けそうなほどの大声を挙げた。
「どどどどどどーしよ!? 絶対負ける!!」
「だーから見せたくなかったんだ、あたしゃ……」
まともに取り乱したほくとから視線を逸らし、洋子は沈痛な面持ちで防具袋にアゴ載せた。
とうとう……運命の刻が来てしまった。
試合場のラインギリギリに立ち、ごくりとほくとは唾を飲んだ。左腕にきゅっと握りしめた竹刀も、胸と腰を覆う防具も、厳めしい面も、ほくとを護ってくれそうには無かった。
試合場の向こう側に立つ、視線だけで人を倒してしまえそうな女剣士からは。
部長。
――なんでよりにもよって……
人知れずほくとは溜息を吐いた。こういった試合に、学年も段位も関係ない。しかも個人戦である以上、クジ運によっては身内と対戦になることも、ありえないことではない。しかし、いくらなんでも鬼の部長とカードを組むことはないじゃないか。神様のイケズ。
「がんばれー、ほくちょー」
後ろから洋子の声援。あんまり気が入ってないように聞こえるが、彼女がほくとを案じているのは紛れもない事実である。その声にちょっとだけ背中を押された気がして、ほくとはようやく、試合場の中へと足を踏み入れた。
ずん。
部長がそれに応えるように、一歩前へ踏み出す。
床が揺れているような気さえする……。
試合場の中央で、互いを真っ直ぐに見据え、
「礼!」
合図に応えて浅く頭を下げる。下げすぎてはいけない。礼の時も、敵のつま先が見えるようにしておくのだ。なぜなら、人間が動こうとするとき、必ず一番最初につま先が動くから。敵が礼の間に不意打ちしようとしても、つま先さえ注意していれば即座に対応できる。
剣道は武士の礼儀作法の道である。言い換えれば、戦場のノウハウなのだった。
そういうことをほくとに教え込んだのも、この部長だった。頭を上げたほくとは、どことなく気後れしながら、その場にしゃがみ込む……蹲踞の姿勢。竹刀を抜き放ち、立ち上がる。
「……部長」
面の中で、ほくとは呟く。
ぞくりとした。部長は面の横線の奥で、目を爛々と輝かせていた。
敵を見る目。
審判が、す……と右手を挙げ、
「始め!」
「アッ!」
同時に部長の気合い一閃!
ほくとは完全に出遅れた。部長は鋭い踏み込みで、一瞬にして近間に入ってくる。刺すような剣の流れを、ほくとは後退しながら危うくいなし、一歩、また一歩、じりじりと部長の勢いに押されていく。
でも押され続けてはいられない。
「イァアッ!」
ほくとも腹の底から気合いを放ち、胴を狙って一撃を繰り出した。だが力の乗らない剣は、部長の僅かな竹刀裁きに軽くいなされる。瞬間、がら空きになった右の胴に部長の視線が突き刺さり、
「アッ!」
「胴あり!」
赤旗。部長の得点を示す色。
「あちゃー、だめだこりゃ……」
試合場の外で正座していた洋子は、ぺちんと手のひらをおでこに叩きつけた。剣道は三本勝負、一本取られたからといって負けが決まったわけではない。だが……
ほくとは明らかに腰が引けている。そもそも、小柄なほくとは、部長に比べてリーチが短い。その分部長より内側に踏み込まなければ、有効打は放てないのである。なのにほくとは何かを恐れ、知らず知らずのうちに間合いの外へと逃げている。
「先輩が怖いのは分かるけどさあ……せめて袖星がいりゃあなーっ」
一方で、部長は試合場の中央に戻りながら、落ち着いた、しかし敵意に満ちた目でほくとを睨んでいた。弱腰で、どこか怯えた空気を放つ、ほくとを。
部長は生真面目な正確だった。剣道の「道」を重んじ、他人にもそれを要求するところがあった。だから彼女は、ほくとが許せなかった。男にいいところを見せようなんていう、打算や計算に剣道を利用している。それが我慢ならなかった。
ほくとを後輩として可愛がっていただけに。
(道を正してやる)
部長は真っ直ぐな力強い瞳で、ほくとを射抜く。
(くだらない打算など捨てろ、ほくと!)
青空の下、さっきまで人で一杯だったテニスコートは、すっかりがらんとしてしまった。
「あー終わった終わった! 負けた負けたぁ!」
テニス部員が気持ちよさそうに言う。言ってる場合か、と袖星は思う。彼の言うとおり、袖星のチームは惨敗ぼろまけ、箸にも棒にも引っかからないという感じだった。おかげで早く試合も終わり、他の部員達は喜んでさえいる。
そんなんだから勝てないんだぞー、と思わないではない。まあ、他人事ではないのだが。
「よー、真弓」
突然、友人の一人が、仏頂面の袖星にぐいっとのし掛かった。
「真弓言うな、女じゃないんだ」
「おう、悪い。これからどっか行かねえ? 玉転がしとかさー」
「ボーリング? まあ、別にいいけど……」
ふと、袖星の脳裏にこのあいだの記憶が蘇る。
あのね、個人戦で……試合、多分二時頃から始まって……
そう言っていた、確か。
「おい、真弓?」
友人の声も、今の袖星には聞こえない。しばらくぼうっと考え込んだ後、袖星はふいに、自分の自転車に跨った。
「悪い! 俺、行くとこあるから……また今度な!」
「え、おい?」
呆然とする友人たちを置いて、袖星は自転車で走り出した。昼下がりの太陽が、じりじりと袖星の体に焼き付く。気にしてはいられなかった。急げば、まだ間に合うかもしれないのだ。
ほくとの試合に。
(続く)
投稿者 darkcrow : 2006年06月28日 00:41
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