ナル(改訂版) 1:ダメ男と家出娘
結局直したくなってしまったので直すことにしました。
まずは1章目。ここはちょっとした修正だけですが、「プロローグ」は削除しました。
このおッ!
ハジメは最後の気力を振り絞り、全身をぴったり包む質量制御飛行服(フロートドレス)の制御コンプにコマンドを送った。そのとたん、腰の両脇にくっついた、刀の鞘のような形のジェット推進器(バーニア)二基が、一斉に青白いプラズマを放出する。
ハジメの体は一瞬で五十五MPS(メートルまいびょう)まで加速され、千里中央(センチュー)の上空へと飛び上がる。全面ガラス貼りのきらきら光るデザイナー・ビルに寄り添うように、真っ直ぐ太陽めがけて上昇し、タイミングを見計らってガラスの壁を蹴りつける。
ぱきん!
完全な調和を保っていたビルのガラスが、小さな音を立ててひび割れる。千里中央(センチュー)の空に飛び散る無数の細かなガラス片。光のシャワーのようなそれを後方カメラで確認しながら、ハジメは更に加速する。フロートドレスは、着た人間の体重を千分の一まで縮小してくれる。わずか六十グラムの体重なら、人間はキックの反動だけで遥か上空まで跳び上がれるというわけだ。
次の瞬間、さっきまでハジメが飛んでいたデザイナー・ビルの外壁ガラスを、無数の徹甲弾が打ち砕く。SMG(サブマシンガン)の掃射だ。光のシャワーはたちまち光の大豪雨となり、悲鳴をあげる眼下の人混みへと降り注ぐ。
無茶をするっ。
ハジメが顔をしかめた瞬間、制御コンプが神経リンクを通じて警告を送ってくる。敵のロックオン電波を感知。後ろから追いかけてくる敵――近藤の「闇御津羽」にロックされたのだ。
すぐさまハジメは《重心移動/(8・0)》をコマンドする。フロートドレスが体の一部分だけの体重を千倍に引き戻し、それを利用して重心を移動させる。X軸方向に+8、右手のあたりに重心がずれて、ハジメの体は急速旋回する。
ふたたび重心を中央に戻し、ハジメは稲妻のような鋭角カーブをなし遂げた。ウーの放ったSMGの9ミリ弾が、虚しく空を貫いて過ぎる。
脳が悲鳴を挙げている。コンプは警告を送りどおしだ。すでに三回戦の最終戦、ハジメの疲労は頂点に達している。度重なるコマンド入力による脳神経の疲労で、ハジメの視界はぐるぐる回っている。
おちつかなけりゃ。脳を休ませなけりゃ。焼き切れそうな脳みそで、ハジメは自分に言い聞かせる。
『逃げてばかりかぁハジメッ!』
公共周波数で飛び込む通信。送り主はもちろん近藤だ。
『ランカークロウの名前が泣いてるなあ! そんなんじゃあいつは取り戻せないなあ!』
にっくき近藤。恵比須アーケードのトップランカー、近藤。暴力団(ヤクザ)の幹部の息子で、散々好き勝手をしてくれた近藤。殺しても殺したりない近藤。ぼくから……
『優子は可愛いよなぁーハァージメェーッ!』
ぼくから優子を奪った近藤ッ!
「このやろおォおおおおおおッ!」
ハジメの脳が焼き切れる。コンプにコマンド急速反転バーニア全開推力最大真ッ正面に近藤を捉えて一直線に突撃する。ひはーとかけはーとか叫びながら近藤の放ったミサイル群。非自律誘導タイプのペンシルミサイル。まるで蜘蛛の巣のようなその弾道。
「《アクティヴ》!」
思わず口を吐いて出た、悲鳴のようなコマンドに応え、ハジメの背中にくっついた翼のような高機動型増加推進器(アクティヴ・ブースター)が、小刻みにプラズマを放出する。常識外れの高機動力を得たハジメの体は、網の目を縫うかのようにいともたやすくミサイル群を回避する。
ハジメの行く手を阻むモノはない。目の前には真っ黒なフロートドレスに身を包んだ近藤の姿。右手を大きく振りかぶる。下腕全体を覆う格闘戦用手甲(ガントレット)の内蔵コンデンサは充電完了。
一撃必殺のパンチを叩き込んでやる!
ハジメが歯を食いしばった瞬間、近藤が急速上昇する。無駄だ。この距離まで近付いて、誉田の最新型フロートドレス「ヴィクセン・アクティヴ」を振り切れるはずがない。ハジメはすぐさまコマンド送信、近藤を追って自身も上へ旋回する。
相手の軌道は読めている。コンプがはじき出した予測軌道への突入コースを指示しながら、ハジメは渾身のコマンドを送る。
「《インパクト》ォッ!」
磁気レールに電流が注がれる。フレミング左手則の洗礼を受け、金属ピストンが加速する。繰り出す拳。右腕が風を切って唸ると同時に、猛烈な勢いの金属ピストンが叩き込まれる。これがヴィクセン・アクティヴの最強装備、インパクト・ピストン・パンチ。
ハジメの拳が空を貫く。
空だけを。
「消えた!?」
コンプのはじきだした予測軌道に反して、近藤の姿はどこにもなかった。ハジメは慌てて周囲を見回す。探すのはMAF航跡(ウェーキ)だ。フロートドレスが飛行した後、空に残るわずかな白い輝き……それさえ見つければ、近藤がそこに行ったかなんてすぐにわかるのだ。航跡(ウェーキ)、航跡(ウェーキ)、航跡(ウェーキ)は!
『航跡(ウェーキ)は見つかったかい?』
声。
電波を介するまでもなく聞こえる肉声。
真後ろから。
ハジメはすぐさま振り返り、再び拳を
一瞬、ハジメの意識が寸断された。
気が付けば、全身汗だくになって、パイロットブースにへたりこんでいた。頭には脳波リンク・ヘルメットをかぶったまま。周囲で大勢の人間が、熱狂的な叫び声をあげている。どこか遠い世界で。
全てが、何もかもが、遠ざかってしまったような気がした。
ここは恵比須のアーケード街でも一番大きなゲームセンターだ。蒸し暑い雨の夜だ。真昼のさわやかな千里中央(センチュー)ビル街などではない。さっきまで没入していた仮想世界の光景が、頭に一瞬で飛び込んでくる。まるで圧縮されていたエアバッグが一気に膨らむみたいに。
負けた。
ぼくは、負けたんだ。
呆然とハジメは、明滅する画面を見つめ続けた。敗北の表示がそこに刻まれていた。隣のパイロットブースからは、いけすかないにやにや顔をした近藤が、ヒーロー気取りでゆっくり出てきた。集まっていた観客に手を振って応える。実際ヒーローだろう。ハジメには非現実的な光景だが。
人形のように整った、美しい金髪の女が――優子が、妖艶な笑みを浮かべて近藤に寄り添う。近藤は優子の肩を抱く。やめろ。優子が瞳を閉じて、唇をそっと突き出す。やめろ。近藤は乱暴に、所有権を主張するかのように、彼女の艶やかで真っ赤で柔らかい唇を!
「うッ」
ハジメはパイロットブースから転がり出ると、胃の中身をヘルメットの中にぶちまけた。たまらずメットを脱ぎ捨てる。ひどいめまいが襲ってくる。長時間、脳波リンクに意識を集中しすぎた弊害だ。「接続酔い」というやつだ。
「げェッ」
ハジメのうめき声に、周囲の視線が集まる。近藤のとりまきのちんぴらどもが集まってくる。頭上で何か言っている。だれかの脚がハジメの顔を蹴り上げる。それすらも非現実。別のだれかの脚が、ハジメの頭を吐瀉物に押しつける。それすらも非現実。だれかの腕が、ハジメの襟首をひっつかみ、ゲームセンターの入口まで引きずっていって、雨の降りしきる道路に放り投げる。それすらも非現実。
ハジメは冷たい大粒の雨に打たれながら、ゲームセンターの入口に佇む、近藤と優子の姿を見上げた。
「ごめんね、ハジメ」
優子の涼しげな声が、雨音をかいくぐって聞こえてくる。
「もう来ないで」
近藤と優子は互いにじゃれ合いながら、ゲームセンターの喧噪の中に消えていった。
雨に濡れる通りに、ハジメはそのままゴミのように転がっていた。歩道を歩く人々は、まさに足元のゴミを避けるように、ハジメを避けて歩いた。車道の車は時折、水たまりの上を走ってハジメに水をひっかけた。雨はハジメの上に降り続けていた。
どれもこれも非現実。
このまま眠っていれば、死ねるだろうか?
ハジメは静かに目を閉じた。
どのくらい時間が経ったかしれない。
ハジメはふと、何か暖かいものを感じて目を覚ました。薄く開いた瞼の向こうに、赤い、ビニールの傘が見えた。傘はハジメの上に優しくさしだされ、ハジメを打ちのめす雨粒を防いでくれていた。
暖かいものは、ハジメの頬に触れていた。
はっとして首を巡らせる。白くて細くて優しくて暖かい指が、ハジメの頬をなで、かわいらしい花柄のハンカチで、ハジメの口元についた吐瀉物の残りをふき取っていた。
目の覚めるほど美しい、花よりもかわいらしい、どんな炎よりも暖かい、一人の少女がそこにちょこんとしゃがみこんでいた。
ハジメのそばに。ハジメを慈しみ、護るように。
これも、非現実?
いや、これは――
「だいじょうぶ?」
少女はハジメの手を握った。
ハジメは夢中で、その手を強く握り返した。
少女はにっこりと微笑んだ。
そこから先の記憶は、ハジメにはない。雨に溶けたか、風に飛ばされたか、炎に焼き尽くされたか。いずれにせよ、思い出は彼方。遥か彼方の、零(ナル)の世界に落ちて消え去った。
それが、ナルとの出会いだった。
1:ダメ男と家出娘
目を開くなり、ハジメは息を詰まらせた。
水色カーテンの隙間から、差し込んでくる朝日。まるで寝起きの瞳を突き刺すようだ。ハジメは目を細め、もじもじと体を動かす。外から聞こえてくるのは、すぐ向かいの小学校へ登校してくる、子供たちのはしゃぎ声か。幼さが放つ無尽蔵の元気が、ハジメの半分眠った意識を容赦なく揺さぶっている。
ハジメはたまらなくなって起きあがった。自分の臭いが染みついたベッドの上で、あぐらをかき、大きく背伸びをする。その瞬間、猛烈な頭痛に襲われて、ハジメは小さく呻いた。
これは「二日酔い」だ。といっても酒を飲んだわけではない。脳波リンクへの長時間の接続は、脳に重大な混乱を引き起こす。ちょうど、車や酒に酔ったときのように、嘔吐や頭痛を伴う不快感を味わわされるわけだ。それがいわゆる「接続酔い」というやつだが、程度が激しければ翌日以降も症状が――
「優子」
ハジメははっとして、小さく彼女の名前を呟いた。そうだ。全てを思い出した。昨日の夜、ハジメは恵比須のゲームセンターで、優子を巡ってトラブルを起こし、近藤……トップランカーの近藤に……
負けて、そして。
ハジメはようやく、そばで安らかな寝息を立てる、少女の存在に気付いた。
少女は昨日とおなじ、ありふれた淡い色のブラウスにプリーツスカートという格好をしていた。ソックスは、脱いで床に放り投げてある。少女の荷物らしい大きなボストンバッグは部屋の隅だ。少女はハジメのベッドのそばに座り込み、ベッドに突っ伏せて、かわいらしい寝顔を晒している。裸足が意味ありげにぴくぴくと動いた。
そうだった。昨日は、倒れているところをこの少女に助けられたんだ。
記憶は少女と出会ったところから飛んでいる。ちっとも覚えていないが、この二日酔いの具合からして……かなりの醜態を晒したに違いない。見ず知らずの、年の頃ならまだ十四五の、少女にだ。
情けないったらありゃしない。
ハジメは痛む頭を抱えながら、そっとベッドから立ちあがった。そして自分がくるまっていた毛布を少女の肩に掛けてやる。気持ちよく眠っているのを邪魔しないように、飽くまでも優しく、ゆっくりと。
それにしても――かわいい。
こうして近くでまじまじと見ると、抱きしめたくなるような衝動に駆られる。思わず手を伸ばしかけた自分に驚いて、ハジメは慌てて手を引っ込めた。顔が紅潮しているのが分かる。心臓の鼓動もいつもより早く、そして強い。一体何を考えてるんだ。相手は見たところ中学生、どう大きめに見積もっても高校生くらいだというのに。
邪念霧散邪念霧散。心の中で唱えながら、ハジメはぶんぶん頭を振る。おかげで頭痛がますますひどくなり、ハジメはよろけて、漫画だのゲームの攻略本だのでいっぱいの本棚へ寄りかかった。
ふと目にはいるのは、本棚の一番上の段を陣取った、エロ本の背表紙の群れ。
……これはまずい。
月並みだが押入の中にでも放り込んでおこう。少女が目を覚ます前に、とハジメが慌ただしく部屋の片付けに勤しみ、最後のエロ本を押し入れにぶちこんだ、ちょうどその時。
「んー!」
背後で女の子の声がする。振り返ると、あの少女が目を覚まし、気持ちよさそうに背伸びをしているところだった。
……ギリギリセーフか。ハジメは胸を撫で下ろした。
ハジメがかけた毛布が、少女の肩からずり落ちる。それを不思議そうに見下ろしてから、少女は立ちすくむハジメの姿にようやく気付いた。
「あ」
そのたった一音節の声が、矢のようにハジメの胸に突き刺さる。
心臓が一際高く、脈打つ。
「だいじょうぶっ!?」
少女は立ち上がり、すがりつくようにハジメににじり寄った。少女の身長は、ハジメの胸ほどまでしかない。必死の目で、下からじっと、ハジメの瞳を見つめてくる。ハジメはできるだけ優しく、と心がけながら微笑むと、穏やかな声で応えた。
「え、あ、いや……平気、です。ありがとう」
「そっか、よかった! ……ん」
ぐぎゅうぅぅぅぅ。
少女のお腹が元気よく声を挙げた。
ほんのり頬を赤くして、少女は目をパチパチさせている。
「あ……うん。ご、ごはん食べてく?」
一も二もなく、少女は頷いた。
「昨日は、ごめん」
向かい合わせに座ったちゃぶ台の上には、トーストと目玉焼きと、紙パックの麦茶が一リットル。ハジメたちの朝食はそれだけだった。
一人暮らしのハジメは食器もろくに揃えてはいないので、トースト用の平皿も一枚きりしかない。しかたがないのでハジメのぶんは、底の深いスープ皿に盛っている。少々不格好だが、悪くはあるまい。
少女――ナルと名乗った少女は、目玉焼きを乗せたトーストの角にかじりつくと、しばらくもごもごと噛みしめていた。不思議そうにしばたたかせる目が、窓から差し込む朝日に照らされ、きれいに輝いている。ひとしきり見つめて、ハジメをどぎまぎさせた後、ナルはトーストをごくりと飲み込んだ。
「んーん。いいの。わたしも寝る所がなかったから……泊めてもらって助かっちゃった」
「寝る所がないって……」
訝しがるハジメに、ナルはまたにっこり微笑んで見せた。それ以上聞かないで、とかいう意味合いだろうか。深入りするのを諦めてハジメがトーストをぱくつきはじめると、ナルはずい、と身を乗り出した。吸い込まれそうな深い色の瞳が、ますますハジメに近付いてくる。
「ね、それよりさ」
「え?」
「何してたの? あんなところで寝っ転がって」
「……別に好きで寝てたわけじゃないよ」
「じゃ、なに?」
ハジメはうつむき、琥珀色をした麦茶の水面に視線を落とす。ゆったりと揺れるその水面に、奴らの顔が映っているようにさえ思える。近藤。優子。たくさんの嘲笑。汚物にまみれた自分。
「負けたんだ。近藤に。『キャリオンクロウ』で」
キャリオンクロウというのは、未来都市大阪で戦う飛行傭兵をモチーフにした、脳波リンク方式のシューティング・ゲームである。しかし、たかがゲームと侮ってはいけない。ひとたび脳波リンク・ヘルメットをかぶれば、まるで本当に未来世界へ入り込んだかのような、臨場感溢れる世界が広がる。脳が負荷に耐えきれず接続酔いを起こすほどなのだから、その情報量たるや推して知るべし、である。
恵美須、新世界あたりのいかがわしいゲームセンターでは、ヤクザやチンピラたちがこいつを使って賭けゲームまでやっている。つい昨夜、ハジメと近藤がやったように。
ナルの目がまるまると見開かれる。彼女も、そのあたりの事は知っているらしい。
「近藤って……近藤五郎? 近畿のトップランカー?」
……というより、やけに詳しい。彼女も筋金入りのゲーマーか。
「そう、その近藤」
「有名人だ! ねね、どうだったの? 勝負」
ハジメはぽりぽり頭を掻く。だから負けたと言っているのに。
「三回勝負で……一本目だけは取ったよ」
「すごーいっ!」
ナルの腕が伸びてきて、ハジメの手のひらを包み込む。ぎゅっと握りしめられた手を通じて、ナルの温もりが伝わってくる。僅かに擦れる肌と肌。押しつけられた柔らかさ。ハジメは思わず硬直する。ナルの放つ嵐のような感情に、一瞬身をすくめる。
「すごいじゃない! トップランカーから一本取るなんてすごいすごいっ!」
「いや……その……」
一通り面食らった後、ハジメは照れくさくなってそっぽを向いた。
「すごくなんかないよ。ぼくは……負けたんだ。優子をとられて、かっとなってつっかかって、そのくせ完璧に負けて、あのていたらくさ。かっこわるいよ、ほんと」
ぼそぼそと独り言のようにつぶやくハジメに、ナルは小首を傾げる。
「優子って?」
「女の子」
「彼女?」
「……っていうか、ぼくが勝手にそう思ってただけっていうか……」
ますます落ち込むハジメを、ナルは優しい視線で見つめた。笑っている。嘲っているのではない。心の底から、ハジメを祝福して、笑っている。
「かっこいいよ」
ハジメは弾かれたように顔をあげた。
「女の子のために、あんなになるくらいまで、真剣になれるのって。かっこいいよ」
打ちのめされた気がした。昨日ハジメを打ちのめした、あの冷たい雨とは違う。ハジメ自身が、恥ずかしさや自己嫌悪から認めようとしない自分自身を、あっさりと認めるその言葉。怒りや哀しみや悔しさで曇っていた視界が、きれいに開けたような気がした。
ハジメは大きく深呼吸して、息を吐いた。トーストに目玉焼きを乗せて、大口あけてかぶりつく。ナルは満足げにそれを見ると、
「ね、再挑戦してみたら?」
再挑戦。もう一度、近藤と戦う。そんなことに意味があるわけではない。いまさら勝ったところで、優子が戻ってくるわけではない。そうではなくて、ただ――
負けた自分に勝つために。
矜持、のために。
ハジメは口の中のトーストを、麦茶で胃に流し込んだ。決意はもうできていた。ハジメは握り拳を作ると、力を込めたそれをじっと見つめた。
「次は勝つ」
「その意気その意気! じゃ、食べ終わったらさっそく……」
と、その時だった。部屋の隅で、電話が小さく音を立てる。だれかからかかってきた電話に応対するのは、録音されたメッセージ。昨日から留守電をオンにしたままだったのだ。慌ててハジメは立ち上がり、受話器を取
『もしもし? 母さんじゃけえど!』
……ろうと伸ばした手が止まる。
ハジメの額に冷や汗が滲む。年齢を重ねて少し疲れた女性の声。子供の頃からさんざん聞き慣れた声だ。
『就職決まったん? あんたももう二十二なんじゃけえ、いつまでも親の脛かじりょうらんと、しっかりせられえよ。お父さんの会社も色々大変なんじゃけえ……これ聞いたら電話ちょうだい。じゃあね』
ぴーっ。三月五日月曜日午前八時三十六分です。
沈黙。
体中の筋肉を軋ませながら、ハジメは振り返った。澄まし顔のナルに、引きつった笑顔を向ける。
「はは……実家から……」
ナルはにっこり微笑んでそれに応えた。この微笑みはどういう意味だろうか。あまり深く考えたくはないが。
「いやあ、なかなか仕事みつかんなくてさ……こないだもEMO社の面接落ちちゃって。今はバイトと仕送りで暮らしてるんだけど……かっこわるいよね、ほんと」
「うん。ちょーかっこわるいね」
ハジメはがっくりうなだれた。
「ま、かっこよくなるためには……努力あるのみ! ねっ」
浪速区恵美須町――
通天閣で有名なパチンコと風俗の街「新世界」と、旧世紀から電気街として名を馳せていた「日本橋」とのちょうど間に、恵比須アーケードはある。表向きは、子供が学校をサボって遊びに来るような昔ながらのゲームセンターに過ぎないが、一歩地下に踏み入れば、そこは暴力団が管理する高レートの違法カジノだ。
ハジメが昨日近藤と対戦したゲームセンターは、その二つの間くらいに属する店。違法の賭ゲームはよく行われるが、警察局が積極的に検挙したがるほどには科罰的ではない。正式な暴力団構成員になれないちんぴらが集まる店だった。
今日は練習だ。そんな店では頻繁に対戦を要求されて、静かに練習することなどとてもできそうもない。そこで、ハジメとナルがやってきたのは、アーケードからすこし外れたところにある、場末のゲームセンターだった。
ハジメも、ここに店があることは知っていたが、中にはいるのは初めてだった。薄暗い店内のあちこちで、高精細モニタが明滅している。一人台も対戦台も一通り揃っているが、数は少ないし、バージョンも古い。
先客は、店の一番すみにある脱衣麻雀と向かい合ってる、おちこぼれ大学生ふうの男一人だけ。男はちらりと入口のハジメたちを一瞥すると、ナルの姿を見て一瞬目を丸くして、ふたたびモニタに視線を戻した。何事にも興味がない、といったふうで、無感動にツモボタンを弾く。
ハジメはふと、一番近くの小型筐体に視線を落とした。耳に馴染んだテーマ曲が流れてくる。ソードーソー、ファーミレーミードー。懐かしさで胸が詰まる。
「すっげ……『宇宙大戦アトミック』だ。まだ動いてる店があったなんて……」
「昨日みつけたんだ、ここ」
ナルが得意げに胸を張った。目指すのは、もちろん店の奥にある、一番大型の筐体……「キャリオンクロウ」だ。パイロットブースが二つしかないワンライン台。それも、バージョンは二年程前から更新されていないらしい。
もっとも、さっきの『宇宙大戦アトミック』が十数年前の基盤であることを考えると、この店にしてはがんばって更新しているほうなのだろうが。
「さーてとっ」
ナルはご機嫌だった。鼻歌を歌いながら、パイロットブースのハッチを引き開けて、スカートのポケットから取り出した百円玉をいそいそと投入する。
筐体を前にすると、何となくそわそわしてくる……それはゲーマーという生き物の、拭いがたい習性である。
ナルもよっぽどの筋金入りらしい。ハジメと一緒で。
小気味よい電子音を聞きながら、ナルはヘルメットを手早くかぶり、
「ほら、隣入って。わたしが訓練つけたげる」
「訓練ってさ……」
腐っても、ハジメは近畿のサードランカーである。ナルがどれだけやり込んでいるのか知らないが、中学生やそこらの少女に負けるほど落ちぶれてはいない。
そんな事情を知ってか知らずか、ナルはハジメを置いて、ハッチを閉めてしまった。自分が遊びたいだけじゃないだろうな? と、ハジメは頭を掻いた。
しかたなくハジメも、ブースに潜り込んだ。お手並み拝見と行こう。
「手加減、しないからね」
「あったり前でしょ!」
ナルは得意げに、パイロットブースの中で声を出した。
画面が暗転し、脳波がゲームとリンクする。網膜投影HUDの映像を見つめながら、ハジメは神経を集中させていく。ゲームが始まる。
ウォーミング・アップだ。軽く捻って、ナルにいいとこ見せてやる。ハジメの頭は、そんな下心で一杯になる。にやっ、と意地の悪い笑みを浮かべて、
「十五秒で終わらせてやるさ」
三秒だった。
ハジメは昼食にと立ち寄った牛丼屋で、元気に牛丼を掻き込むナルを横目に見ながら、頭を押さえてうずくまっていた。
ここの牛丼屋は、安くて腹も膨れるので、恵比須に来た人間にとっては、ありがたい店である。なにしろ賭ゲームで有り金をほとんどすってしまうような奴も少なくないのだ。チェーン店の常として、味の方は美味くもなくまずくもなくという中途半端なものだが。
「ハジメ、食べないの?」
食べられる状況にないことはわかって欲しいものである。ハジメはお茶だけをずるずるすすりながら、うらめしそうにナルを睨んだ。
結局――
ナルの戦いぶりは、強いとかすごいとかそういう次元を通り越して、すでに神業の域に達していた。
そりゃあ、フロートドレスの最高速は、パーツ構成次第で百二十MPSを超える。二百メートル離れた相手に二秒弱で接近することも不可能ではない。凄まじいまでの動体視力と反応速度があれば、五十MPS以上で逃げるハジメを、刀の一撃で突き殺すことも、絶対に無理とは言い切れない。
しかしいくらなんでも……三秒とは。
思わず溜息が漏れる。
ハジメの、ランカークロウとしてのプライドは、ズタズタに引き裂かれたのだった。
その後、呆気にとられたハジメにナルが科した「特訓」……これまた凄まじいものだった。思い出すだけで接続酔いのめまいがひどくなる。おまけに、この牛丼のむせかえるような臭い。勘弁してもらいたい。
「なーんだ。あのくらいで音を上げちゃって、情けないの」
「あのくらいって……一体何者なんだ、きみは」
「んー? 悪の秘密組織が作った恐怖の人造人間、かな」
冗談めかして答えると、ナルはにやりと笑って見せた。屈託のない笑みの裏には、それ以上訊くなというニュアンスが、ありありとにじみ出ている。しかし。
「いったんうちに帰らなきゃ、家族とかも心配してるんじゃないのか」
まだ十四五の女の子が、おそらくは無断で外泊していて、家族が心配しないはずがない。ひょっとしたらもう警察に届けが出ているかもしれない。
もちろんこんな強力な対戦相手がいるのは、特訓のためにはありがたい。それでも、こんな少女をいつまでも連れ回し続けるのは、気が引けた。
「その『家族』とも、ちょっと、ね」
「ケンカか何か?」
「そんなとこかなあ」
ただの家出少女か。ハジメは気付かれないように、小さく鼻息を吹いた。
「戻らなきゃだめだよ。家族なんだろ? ずーっとつきあっていくんだから……ケンカしても、それを乗り越えなきゃさ」
「うん……」
ナルは少しうつむくと、いきなり牛丼のどんぶりを抱えて、残りを一気に口に放り込んだ。ろくに噛みもせずに、お茶でそれを流し込む。そうして全部平らげると、ナルは湯飲みをカウンターに置き、ハジメの目を見て悪戯っぽく笑った。
「よしこうしよう!」
「こうって?」
「ハジメが近藤に勝ったら、わたしはうちに帰る」
「……なんじゃそら」
「それまでわたしは、ハジメん家(ち)に泊めてもらう!」
「おいおいっ!」
「いーじゃないのよー、絶対勝つんでしょ? それまでコーチが必要でしょ? ね!」
要するに、ナルもきっかけが欲しいだけ、ということか。言い出したら曲げそうにないし、確かに練習相手もしてほしい。ハジメは小さく微笑んだ。
「わかった、そうしよう」
「よし決まり! んじゃーさっそくー、練習メニューを練り直さなきゃねー。あのくらいで接続酔いしちゃうってことは、ゲームの後半は神経がばてちゃってるんだろうし……基礎体力の向上に対G訓練、技術的にもまだまだ未熟だから……」
頭を捻りながら指折り数えるナルを見て、ハジメは微笑みをひきつらせる。その指の一本一本が、一体どんな単位で折られているのやら。ナルはそんなハジメの不安を知ってか知らずか、元気よくハジメの肩を叩いた。
「がんばろうね、ハジメっ!」
「お、お手柔らかに……」
特訓は過酷を極めた。
近所の神社の石段は、空の果てまで続いているかのように見える。新緑の向こうにかすんで見える青空。憎たらしいくらいの青空。ハジメは汗だくになりながら、駆け足で石段を登っていく。
一体どこから持ち出したのか、竹刀を振り回しつつその後をちょこちょこついて来るナルは、
「特訓そのいち! 『過酷! 地獄っ、のっ、石だ……げふっ、おえっ」
……コーチの方が息切れしてどうする。
万博記念公園そばの遊園地。
「特訓そのにわああああああああああああああああ!?」
二人の乗ったジェットコースターは錐揉み回転しつつ空の彼方へ消えていく――
「とどめの特訓そのさん!」
二人並んでパイロットブースに潜り込み、ゲームの世界に没入する。
積み上げたコインの山は、見る見るうちに塵と消えた。
「そして一日の終わりには……あっ、あぁん……いぃ」
紅潮した頬。しっとりと濡れた肌。ナルの口から漏れるのは、暖かい吐息。
「あっ、き、効くー! もーちょい右ね」
ハジメは風呂上がりのナルの背中をマッサージしているのだった。なんで自分がこんなことしてるんだか疑問に思いつつも、指示通り右に親指をずらす律儀なハジメであった。
「……ナル」
「んー?」
「このトレーニングの効果は?」
しばらく無言で考え込んでから、ナルは静かにこうこう言った。
「主に肩こりと背中のこりに」
ぐいっ。
「ぃぅわいたたたたたたいたいいたいいたいー!」
既視感。
ハジメは背筋を走る悪寒に、神経を研ぎ澄ます。淀川上空をモチーフにした仮想空間の中、ハジメの前を逃げ続けているのは、「闇御津羽(クラミツハ)」。トップスピードを重視した、近藤の愛機である。
「近藤ミラー」。
「ミラー」は、日本各地域のトップランカーの行動パターンを正確にコピーした、疑似人格AIである。最新版のキャリオンクロウに、話題作りの新要素として組み込まれているものだ。これに勝つことは、近藤本人に勝つこととほとんど等しい。
近藤ミラーが動かす闇御津羽(クラミツハ)の機動は、小回り重視のはずの「ヴィクセン・アクティヴ」にも劣らない。ハジメは必死にコマンドを飛ばして追いすがり、近藤ミラーが疲れに一瞬意識を飛ばしたその時を狙って、推進器(バーニア)を全開する。
淀川の煌めく水面を切って、ハジメの体が闇御津羽(クラミツハ)を追いつめる。振りかざした右の拳。手甲(ガントレット)の金属ピストンの起動をコマンド。
しかし次の瞬間、闇御津羽(クラミツハ)がハジメの眼前で急上昇した。
既視感。
同じだ。あの時と。近藤に破れたあの時と!
闇御津羽(クラミツハ)を追ってハジメも急上昇。そして闇御津羽(クラミツハ)のほうに視線を落とす。ハジメの予想が当たっているなら、闇御津羽(クラミツハ)は――
いない!
予想通り、敵の姿はどこにも見えない。フロートドレスの動きを示すMAF航跡(ウェーキ)も見あたらない。慌てるな。ハジメは自分に言い聞かせる。全ては予想通り。何もかもうまく行く。
――下よ!
仮想世界の外から、ナルの声が聞こえてくる。そう、下だ。
コマンド、《重心移動/(0・―8)》!
脛に重心を移動させ、ハジメは前に倒れるように宙返りする。そして捉えた真下の光景。そこには、停止していた推進器(バーニア)を再びふかして、ハジメの背後を取ろうと上昇してくる闇御津羽(クラミツハ)の姿があった。
――捉えた!
ナルの歓声。
「《アクティヴ》!」
高機動型増加推進器(アクティヴ・ブースター)が起動する。こちらに気付かれたことを悟ると、闇御津羽(クラミツハ)は慌ててSMGの弾をばらまく。しかし電撃にも似たハジメの高機動が、そのことごとくを回避する。
こんどこそ。右腕を振りかぶる。手甲(ガントレット)にコマンド。
「《インパクト》ォッ!」
こんどこそ。
ハジメの右腕のピストンが、闇御津羽(クラミツハ)のボディを正面から貫いていた。
しばらく実感がなかった。
パイロットブースのなかで、脳波リンク・ヘルメットもかぶりっぱなしで、ハジメはじっと明滅する画面を見ていた。あの時と同じに。あの時と同じ非現実を感じながら。
あの時と一つだけ違ったのは、勝利を告げる画面の表示だけ。
「近藤ミラー」、撃破。
「やったぁーっ!」
パイロットブースの扉を開けて、ナルが中に飛び込んできた。呆然とシートに座り続けるハジメに、ナルは力強く抱きつく。その体の柔らかさが、暖かさが、少しずつハジメに現実感を取り戻させる。そうだ。耳を澄ませば――
聞こえてくる。パイロットブースの外のざわめきが。
「すっげぇー、ミラーに勝ったぜ!?」
「見たかよ今のマニューバ……」
「本職かなんかじゃねえの?」
ハジメはメットを脱いで、パイロットブースから歩み出た。いつのまにか筐体(ハード)の後ろに集まっていた観衆(ギャラリー)が、一際大きな歓声でハジメを迎えてくれる。
そばに寄りそうナルの顔を見つめる。ナルはにっこり微笑み、ハジメを促す。ハジメはおずおずと手を持ち上げると、観客たちに応えて見せた。
「一週間ぶり……か」
恵比須アーケードのゲームセンターに、近藤と……そして優子は、いた。
いつもどおり、「キャリオンクロウ」の賭ゲームで、荒稼ぎをしていたんだろう。近藤の隣のパイロットブースから、真っ青な顔で這いだしてきたのは、その哀れな被害者。一週間前のハジメそのものだ。もうだれも彼に見向きしない。敗者だから。一文無しだとわかっているから。
ハジメは歯を食いしばった。ハジメには見向きもせず、ブラックアウトした画面を鏡代わりにリップを塗り直している優子を見つめながら。
「新しい彼女のお披露目か、ハジメ」
近藤の視線が、ハジメの後ろのナルに注がれる。当のナルは近藤の言葉など意にも介さず、ただひたすら、むせかえるような煙草の臭いに鼻をひくひくさせている。
「お前に勝負を申し込みに来た」
近藤の眉がぴくりと動いた。彼を取り囲むちんぴらたちの薄ら笑いが、波紋のように広がっていく。
「いやだね。面倒なだけだ」
「逃げるのか?」
「やだねェ、いつの時代の煽り文句だよ……どうせ賭ける金もありゃしないんだろ。おれは得にならないことはしないんだ」
言われてハジメは言葉に詰まる。財布の中身はほとんどからっけつ。銀行にも最低限の生活費しか残っていない。どんなに訓練して強くなっても、近藤を土俵に引っ張り上げられなけりゃ、何にもならない。サラ金にでも飛び込んでなんとかするか、それとも……
「いいじゃない」
優子が横から、涼しげな声を挟んだ。
真っ赤な口紅が、空気圧でケースの中に引っ込んでいく。見覚えのある金色のケース。ハジメが有り金はたいてプレゼントした、どこだかのブランドの口紅だ。かつて自分の手から希望と欲望にまみれて放れていったその口紅が、優子の胸元にしまい込まれるのを見て、ハジメの背筋に微かな悪寒が走る。
優子。心の中で名を呼んでも、彼女はこちらを向いてはくれない。
「勝負してあげなよ」
「でもなあ」
「もし勝ったら、あの子がここで裸になる、っていうのはどう?」
息が詰まる。
周囲の視線が一斉にハジメに――いや、ハジメの後ろのナルに注がれた。ナルは事情を理解しているのかしてないのか、きょときょとと周囲を見回し、目を瞬かせている。
まずい。ナルを巻き込むわけにはいかない。ここは一度引き下がって――
と、ハジメの脳が焦りに支配されはじめたその時。
「いいよ」
事も無げにナルが言い放った。
「そんな、ナルっ」
「黙ってて」
浮き足立つハジメを、ナルの冷たい呟きが抑えた。
「そのかわり、ハジメが勝ったらあなたが裸になる。これで、条件は平等、ね」
水を打ったように、あたりはしんと静まりかえった。
誰一人声を発する物はない。ただ、ゲームの音声だけが虚しく響くだけ。
異様な雰囲気に、ようやくハジメは気付いた。言い出した当の優子がまた、目を丸く見開いて動揺している。ハジメの性格を知り尽くしている優子は、ハジメを引き下がらせるために、適当でバカな条件を提示したのだ。
なんてことだ。ずっと年下のナルのほうが、よほどハジメより根性が座っている。
「なぁに、その顔? まさか自分から言い出しといてイヤだとか言わないよね。トップランカーの色女(イロ)だもん、そのくらいの分別はあるよね。ねー、近藤さん」
成り行きを見守っていた近藤が、突然にやりと笑みを浮かべる。その視線は、まさぐるような粘っこい視線は、ナルに釘付けだった。気に入られたというわけか。近藤に。
「面白い、それでいこう。明後日なら予定が空いてる。ただし一本勝負だ。時間が惜しいからな」
「ちょっと、五郎!」
抗議する優子の腰をぐいと抱き寄せ、近藤は改めてハジメを睨み付ける。
「負けやしないから大丈夫さ。お互いに……な、ハジメ」
拳を握りしめることしかできない。
ハジメには、それしかできない。
アーケードを出て、地下鉄の駅へ向かう道を行きながら、ハジメはずっと無言だった。
歩幅を広げて、一人で先に歩いていこうとするハジメ。それをちょこまかと追いかけるナル。ゲームセンターを出てからずっとこの調子だ。ハジメの放つ、怒りだか何だかの気配が、ナルに声をかけることをためらわせる。
「……ねー」
ナルはとうとう、痺れを切らして、おそるおそる声をかけた。
「なに怒ってるの? うまくいったのに」
ハジメの脚が止まった。
ハジメは鬼気迫る勢いで振り返り、ナルの肩を強く掴んだ。その目にいつもの穏やかさはない。
「なんであんな勝手なことを言ったんだ!」
頭ごなしのその言い方で、ナルの心にも火がついた。ハジメに負けじと爪先立って、なるたけ自分を大きく見せると、ありったけの大声を振り絞ってつっかかる。
「勝手? 勝手ってなによ! ああでも言わなきゃ勝負できなかったのよ! あのまま引き下がればよかったっていうの!?」
「優子は口からでまかせを言ってただけだ! あそこは一旦引き下がるべきだったんだ! それに近藤は本物のヤクザなんだぞ、いざとなりゃ……」
はっとして、ハジメは声のトーンを落とす。周囲の視線はハジメ達に集まっていた。こんな往来の真ん中で大声を出せば当然だ。ハジメはナルの腕を乱暴に引っ張って、裏路地に連れ込んだ。
「いざとなりゃ……脱がされるくらいじゃ、その……わかるだろ?」
言葉を選びながら、しどろもどろになりながら、それでもナルを聡そうとするハジメの顔を、ナルは両手で優しく包み込んだ。ハジメの体が一瞬、固く硬直する。頬を擦る手のひらの感触。自分の瞳を、自分の瞳だけをじっと見つめている、ナルの黒くて深い瞳。
「わかってる」
「ならどうして」
「ハジメが勝つってことも、わかってるから」
ハジメを激励するための出任せには、聞こえなかった。
「ハジメががんばったってこと……強くなったってこと、わたし、知ってるから」
心からそう思っているのだと、ハジメには感じられた。
ハジメはナルの手を握ると、優しくそれを降ろした。ハジメの目は、もうナルを見てはいない。暗闇の中に浮かぶ、地上の灯りに掻き消されそうな月を、じっと見上げている。
「ぼくは勝つ」
握りしめた拳に力を込める。
「絶対に」
それを奴に、叩き込むために。
「ハジメの勝利を祈って!」
「かんぱーい!」
仁井光弘の音頭に合わせて、みんなのグラスがかちりと音を立てた。
どこかのまっとうな企業に就職が内定した仁井は、がっしりした背の高い体育会系の男。宝塚マニアの美月(みつき)みそのは、途中で転科したせいで単位が足りなくなり、まだ史学科の学部生をやっている。
ハジメにとっては、数少ないが大切な友人たちだった。
ハジメの狭い1Kは、たった二人に押しかけられただけで、すし詰めのような状態になった。ちゃぶ台一つでは机が足りないので、ゲーム機を置いてある机まで引っ張り出して、酒の缶とつまみを山と詰んでいる状況である。四人もいれば、空き缶が増えるスピードも並大抵ではない。
「いやーしっかし意外だったな」
仁井が、グラスのビールを飲み干すなりハジメをつついた。
「こんな女の子を連れ込んでるなんざ思いもよらなかったぜ」
「つっ、連れ込むとか言うな! ナルは……その、コーチだよ、ちょっとした」
「ええー」
ベッドの上にちょこんと腰掛けて、ナルはにやにや笑っている。手元のグラスをくるくる回しながら、
「ゆうべはあんなに激しかったのにぃ。きゃ」
三人組の視線が一気にハジメに集まった。ハジメはずりずり後ずさり、
「してないっ! 何にもしてないぞ! 冗談で言ってるんだから本気にするなよ!」
「ま、そういうことにしとこうか」
これで当面、特に仁井にはロリコンロリコンとおちょくられ続けるハメになるだろう。ハジメはがっくりうなだれると、手元のチューハイをちびちびすすった。
「ねーねーそれでさ」
美月が横から話に割り込んだ。もうそうとう酒が進んでいるらしい。ほんのり頬を赤く染めながら、宝塚女優を意識した大げさな身振りで、ハジメに擦り寄ってくる。どうもハジメは、美月に見つめられるのが苦手である。まるで射抜くかのように丸まると目を見開いて、じっとハジメから目を離さないのだ。
「特訓してどうだったの? 必殺技とかできた?」
「必殺技っていうか……近藤の必殺技を破る方法は見つけた」
おおっ、と二人がどよめく。近藤の強さを知らない者はいないのだ。
「近藤の必殺技っていうのは、こう、近藤が逃げてて、ぼくがそれを追いかけてる時に……」
と、ハジメは手のひらを水平にして掲げ、左手の指先が、右手の手首を追いかけている形を作る。左がハジメ、右が近藤を表している。突然、右手――近藤が、ハジメの頭の上まで急上昇した。
「こんなふうに、いきなり上昇する。するとぼくのほうも、追いかけようとして慌てて上昇軌道を取る」
斜め上に指先を向けて上昇する左手。
「ところがこの時、ぼくは斜め上を向いてるから、前方に少しだけ死角ができるんだ。そこで近藤は、ぼくの死角に入った瞬間、MAFを切る」
「MAFって?」
美月が小首を傾げた。仁井はアメリカ人みたいに肩をすくめて、
「空を飛ぶ魔法」
「おー、なるほど」
ハジメはこほんとせき払いすると、気を取り直して再び手を掲げた。近藤が上昇して、ハジメもそれを追って上昇したところまでをもう一度再現する。
「それで……MAFを切ると、近藤は空が飛べなくなって、こう落ちる」
近藤を表す右手が、すとんとハジメの膝の上まで落ちていった。
「これで完全にぼくの足元……死角に入り込めるわけだ。ぼくが水平飛行に戻った時には、近藤の姿も見えないし、MAFを切って下降しているから航跡(ウェーキ)も残さない。近藤は戸惑ってるぼくの背中側に上昇して、攻撃」
「じゃあじゃあ、そこまでわかってるなら、次は大丈夫だよね?」
「うん。相手の動き方さえわかっていれば、見失わないよ」
と、そのとき。
「うりゃー!」
さっきから黙りこくっていたナルが、背中からハジメに向かってダイブした。バランスを崩したハジメは壁の柱に頭をぶつけて小さく呻く。ナルは体をくねらせながら、ハジメのふとももに頬をなすりつけ、
「かーいじゅーヒーザマークラー」
「か、怪獣?」
どうも様子がおかしい。ハジメははっと気付くと、ナルの持っている空のグラスをひったくる。鼻を近づけ臭いを嗅げば、鼻腔をつんと突くアルコールの香り。
「ちなみにナル酔ってないからねー?」
「酔っぱらいはみんなそう言うんだ! 誰だよナルに酒飲ませたの!」
「俺だ!」
仁井が元気よく右手をあげた。ぴんと一直線に伸ばして二の腕を耳にくっつけ、角度は斜め45度。完璧だ。
「ちなみにあたしも飲ませました!」
「二人して何考えてんだよ!? この子は未成年だぞ! ……だよね?」
と、尋ねてみてもナルの返事は返ってこない。一人慌てるハジメの膝の上で、ナルは気持ちよさそうに寝返りを打つ。仁井は、ナルのよだれがハジメの膝にしたたるのを見下ろしながら、
「そういやこの子何歳なんだ? 若く見えるだけで二十歳こえてるかもしれんだろうが」
「いくらなんでも、そんなことは……」
「おーいナルちゃーん、おとしいくちゅー?」
ナルは目を瞬かせると、やおら指を三本にゅっと突きだし、
「みっちゅー!」
「ホラ見ろ!」
「何がだ!?」
ぴんぽーん。
その時、玄関のベルが鳴った。ハジメはナルの頭を持ち上げ、ベッドから引っ張ってきた枕の上に優しく乗せると、席を外して玄関に向かう。一体こんな時間に誰だろうか。他の友達が、話を聞きつけて押し掛けてきたのかもしれない。
ハジメは玄関のドアを押し開けた。
隣の家のおじさんが般若の形相で立っていた。
「……今何時だと思ってるんですか! 少し静かになさい!」
「す、すいませんすいません……」
ハジメはぺこぺこ頭を下げた。
仁井たちは、終電ギリギリの時間まで騒ぐと、名残惜しそうに帰っていった。
アパートの前まで二人を見送ったハジメは、一人、とぼとぼと自分の部屋へ続く螺旋階段を上る。ゴムの靴底とアルミの階段が触れ合い、夜空にか細い音を響かせる。ハジメが見上げた空は、月もなく、暗い。
雲もないのに、暗い。
ハジメは身震いして、部屋へ急いだ。
部屋の中では、ナルが一人で待っていた。まだ酒が抜けない、火照った頬。ベランダのガラス戸を開けて、じっと、月のない空を見つめる瞳。微かに震える指。ハジメが帰ってきたことに気付くと、ナルはそっと、ハジメの方に指を伸ばした。
「ハジメ」
「ん?」
「触って」
心臓が大きく鼓動するのがわかった。
それを悟られまいと、ハジメは息を止める。息を止めて、血が上った頭を冷まそうとする。ナルがどうして、何を考えて、こんなことを言うのかは分からない。しかし――従いたかった。ナルの肌に触れたかった。
でもハジメには、できなかった。
ハジメの心にはタガが嵌っていた。優子という名のタガ。
裏切られてもなお、優子はハジメを縛っている。ハジメの心を規定している。
ハジメは目をそらした。ナルの真っ直ぐな視線に、耐えきれず。
「変なの。いまごろ怖くなってきて……勝負の約束したときのこと、思い出して……危ない橋、渡ってたね」
「そうだよ。だから言ったじゃないか」
「うん……大声だしたりして、ごめんね?」
「いや……」
言葉も満足に出てきやしない。
ナルは立ちあがった。有無も言わせなかった。ただ、流れるようにハジメに歩み寄ると、その胸の中に体を埋めた。ナルの細い腕が、ハジメの背に回される。指先がハジメを撫でる。雪のように白い指先。目には見えないのに、なぜかその色がわかった。
「なっ」
声が上擦る。再び大きく鼓動する心臓。今度こそ、聞かれたに違いなかった。
「ナル、なにを……」
「触られてると、安心する」
ナルが小さく呟く。
ハジメは、はっとして、目を見開いた。
不安。痛み。苦しみ。自分を打ちのめす冷たいもの。そこから――
「あったかい」
――救い出してくれたもの。
あの時自分を護ってくれた、あの時自分に優しくしてくれた、ナル。彼女はハジメが求めていたものそのものだった。そしてなんのことはない、彼女の求めているものも――
ハジメはできるだけ優しく、できるだけ温もりが伝わるように、そっとナルの背を抱いた。ナルが腕にいっそう力を込めるのがわかった。お互いの温もりが、最も直接的な手段で、お互いの肌に伝わる。自分が融けていく感覚。流れ出して、どこかへ消えてしまいそうな感覚。
しばらく互いに抱き合った後、ハジメはぽつりと呟いた。
「ナル」
「それ、いいね」
ナルの声には、心なしか元気が戻ったようだった。勢いをつけてハジメの胸から離れると、少し乱れた髪を手櫛でほどく。ハジメを見上げて浮かべる笑顔は、いつものナルと同じだ。
「ハジメの、ナルって呼ぶ声、すごく優しくて、うれしい」
「そう……かな」
照れ笑いを浮かべると、ナルは背伸びしてから、くるりとハジメに背を向けた。ベランダに出ると、物干し竿にかけっぱなしになっていたバスタオルを取ってくる。ナルが来てから一枚新調した、白地に小さな花柄がついたやつだ。
「今日は疲れちゃった。シャワー浴びてくるね」
「あ、うん」
「のぞいちゃだめよー?」
「のぞかないよ」
リビングから出ていくナルを見送り、ハジメは小さく溜息をついた。まだ、腕の中にナルの感触が残っている。背筋を悪寒が走る。自分の心をごまかすように、座布団の上にあぐらをかき、仁井たちが残していった発泡酒の缶を開ける。
喉を過ぎていく泡の感触を楽しみながら、ハジメはふと、リビングから出るナルの姿を思い起こした。
あの時、ナルの後ろにあった本棚――エロ本はすっかり片づけてしまったが、その一番上の段より、ナルの背丈の方がすこし高かったような……
たしか初めて会った次の朝は、ちょうど本棚と同じくらいの背丈だった気がしたのだが。
「成長期かな?」
と、適当に結論づけると、それっきりハジメはそのことを思い出さなかった。
いつものゲームセンターは、平日の昼下がりだというのに満員だった。トップランカー・近藤と、サードランカー・ハジメの再戦。それも、互いの女を賭けて――話題は話題を呼び、大阪中のオタクやちんぴらどもが一堂に会すことになったのだった。
店の真ん中にある、一番派手で目立つキャリオンクロウの大型筐体(ハード)。ステージのようにせり上がったそこの立ち、ハジメと近藤は対峙していた。それぞれの後ろに控えるナルと優子は、固唾を呑んで二人を見守っている。
優子が、面白くなさそうに、顔をそむけた。肌の露出の多いストリート風の服が、体の動きに合わせて波打つ。観衆(ギャラリー)の嘗めるような視線は、あまり気持ちのいいものではない。
「逃げずに来たか。ほめといてやるよ」
近藤が小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、ハジメは無表情に返す。
「いつの時代の煽り文句だよ」
一昨日、近藤がハジメに向けた言葉だった。近藤は顔をしかめ、小さく舌を打つ。ハジメには動揺もなければ、気の迷いもない。ただ真っ直ぐに近藤を睨み続けている。一週間前の激昂した様子とは大違いだ。
「ルールを確認しよう。待ったなしの一本勝負、時間は無制限。装備は自由。場面(ステージ)は千里中央(センチュー)。勝利条件は敵複製思考主体(プレイヤーキャラクター)の死亡。負けた方は、その場でストリップショー開始だ。文句はないな?」
「ああ」
冷たく言い放ち、ハジメはコックピットブースに滑り込む。近藤はもう一度、舌を打った。
ナルはコックピットブースのそばにある、観戦用の小型モニタにしがみつき、じっとそれに目を凝らした。コックピットブースと完全に連動しているのはこのモニタだけで、観衆(ギャラリー)用の大型モニタには、今は千里中央(センチュー)の街並みが映し出されている。
小型モニタの中で、ハジメは流れるように戦闘準備を整えていった。装備の選択。脳波リンクの調整。澱みのない動き。真剣な――ナルに言葉をかけることすら忘れるほど真剣な、ハジメの動き。
「馬鹿よね」
突然、横手から優子が声を掛けた。ナルはちらりと彼女に視線を送り、近藤のコックピットブースに背中を預け、つまらなそうに天井を見上げている優子を一瞥する。真っ赤な口紅が、柔らかそうな唇の上で震えている。
「近藤に勝てるわけないのに」
「ハジメは負けないよ」
ナルはまた、小型モニタに視線を戻した。優子が目を細めてナルを見つめるのも、もう意にも介さない。
「負けるわよ。それで、あんたは酷い目に遭って、終わり。何の為にこんなことするんだか」
「何にもわかってないんだね」
両者の装備設定が、終わったらしかった。観衆(ギャラリー)のざわめきが少しずつ大きくなる。みんなの目は大型モニタに釘付けになって、ナルや優子のほうを見ている人間は一人もいない。
「ハジメは、あなたが好きなんだよ」
優子は溜息をついた。懐から煙草を取り出し、火を付ける。白く細い煙は、観衆(ギャラリー)の熱気に舞い上がり、ゆらゆらと揺れながら、不規則な螺旋を描きながら、天井へ昇って見えなくなる。
「馬っ鹿みたい」
「そうだね」
賭のチップを握りしめている者。録画用の端末を画面に向けている者。似合わないサングラスの奥で、画面を鋭く睨み付けている者。端の方には、ちんぴらの輪に入れず怯えている仁井と美月の姿もある。
「でも、わたし、あなたが羨ましい」
ナルの呟きを合図にしたかのように――
戦いは、始まった。
真っ直ぐ静かにハジメは飛ぶ。千里中央(センチュー)の脇を走る、環状線の多層高架道路(レイヤーズ)の中を。飴のように融けて流れるいくつもの柱や道路を後ろに見ながら、索敵に意識を集中させる。
キャリオンクロウの戦いは、最初の接敵(コンタクト)が一番肝心だ。下手をすれば出会い頭で勝負が決まる。最初の攻撃(ファーストアタック)を死角からでも繰り出せたら完璧。悪くとも敵の第一撃で体勢を崩して後に響かせることだけは避けなければならない。
奴ならどこから来る? 上か、右か、左か――
短距離(ショートレンジ)反射波(クラック)レーダーに反応。
下だ!
ハジメはコンプにコマンドを飛ばし、急いで上昇、道路から離れる。次の瞬間眼下の高架道路が、真下から叩き込まれた高熱炸裂弾の爆発に、赤く加熱して四散する。爆風を切り裂くように現れる漆黒の闇御津羽(クラミツハ)。近藤だ。
『ハッハー! よく避けたな、満点だ』
「戯れるな!」
追ってくる近藤の徹甲弾を避けながら、ハジメは千里中央(センチュー)のビル群に突っ込む。近藤は適当にばらまいているだけ。こちらの神経を疲れさせる策だ。そんなものにわざわざ乗ってやる義理はない。
左の手甲(ガントレット)を背後に向けて、内蔵二連砲身小銃(デュアルライフル)の《トリガー》をコマンド。放たれたライフル弾が近藤を襲い、近藤は急上昇でそれを回避する。
おかえしとばかりに近藤が放った自律誘導ボトルミサイル。ちょうど五百ミリリットルの瓶(ボトル)のような形をした厄介な兵器を、ハジメはビルの影に隠れてやりすごす。ビルの外壁に着弾したミサイルが赤い光を放つのを見て取ると、そのまま外壁にそって急上昇。近藤の頭上を取る軌道を狙う。
『甘いぜ!』
公開周波数で通信。電波の発信源は――
「上かっ」
慌ててハジメはコマンド入力。ハジメの行く手を塞ぐように、ビルの屋上から現れた近藤が無数の徹甲弾を降り注がせる。正確に追ってくる曳光弾の軌跡から逃げ回り、ハジメはビルの壁を蹴る。後に残るのは外壁にきれいなラインを描いた無数の弾痕。
「乱暴だ」
掃き捨てるようにいいながらも、ハジメの意識に焦りはない。近藤の動きはさすがに鋭い。こちらの動きも読まれている。それでも近藤の動きが見える。近藤の攻撃を避けられる。
戦える。今なら、戦える!
『腕を上げたなハジメ』
推進器(バーニア)全開でハジメは方向転換、一直線に近藤に向かって突撃する。こちらの得意は接近戦。奴がこちらの疲れを狙うつもりなら、一気にカタをつけてやる。脳波リンクを通じて制御コンプの軌道予測系と繋がった脳には、近藤の打ちまくるSMGの徹甲弾も止まって見える。襲い掛かる弾道をくぐり抜け、
「ぼくはお前に勝つために……」
コマンド送信。右手甲(ガントレット)内蔵リニアレールに回路接続。
「強くなったんだ!」
《インパクト》!
繰り出される拳。撃ち出される金属ピストン。近藤はビルの天井を蹴り、一気に上へと飛び上がる。
させない!
ハジメはそのまま、振り下ろした拳をビルの天井に叩き付ける。そして射出されるピストン。その猛烈なエネルギーは、近藤の蹴りを遥かに上回るエネルギーで、ハジメを一気に近藤の頭上まで跳ね上がらせる。
『なにぃっ!』
近藤の焦りの声が聞こえる。いまインパクトを叩き込めば決着は付くが、コンデンサの充電がまだだ。代わりにMAFを全面カット。いきなり千倍に戻った体重の全てを、手甲(ガントレット)に覆われた拳に乗せる。
「おぉォォォォッ!」
ハジメの拳を叩き付けられ、近藤は真っ逆様に墜落する。ハジメはそれを眼下に見ながら、パンチの反動で上昇する体を推進器(バーニア)の調整で押しとどめる。まだだ。まだ勝負はついていない。すぐさま推進器(バーニア)全開、墜落する近藤の後を追う。
網膜投影HUDの隅の、コンデンサマークが緑に変わる。充電完了。
「いける!」
『いける! かよ!』
近藤が推進器(バーニア)をふかして落下軌道から復帰する。ビルの屋上ギリギリのところで直角カーブを描き、そのまま一直線に逃走する。距離を離す気だ。まだ奴には主武装の十八連装ペンシルミサイルポッドが残っている。遠距離戦に持ち込まれるのはまずい。
闇御津羽(クラミツハ)の高出力推進器(バーニア)に追いすがり、ハジメは必死に追跡する。こっちの推進器(バーニア)の安全出力圏を少々オーバーしている。このまま負荷をかけ続ければ、エラーが起きてもおかしくない。しかし、逃がすわけにはいかない。
『生意気だ! そんな戦い方するお前じゃなかったろう! ええ!?』
近藤は反転してバーニアを前に向ける……背面飛行だ。逃げながらこっちに射撃する体勢。ハジメはコマンドリストを展開し、いつでも送信できるようスタンバイ状態に持ち込む。
「ぼくにだって別の顔がある」
『てめえがか? ハッハー、それが……』
ロックオン電波確認。来る!
『生意気だってんだよ!』
近藤が背負ったポッドから、否自律誘導タイプのペンシルミサイルが射出される。発射された十八のミサイルは、空中でさらに分裂し、その数を数百へと増大させた。
多弾頭弾!?
何百というペンシルミサイルが、幾重にも重なり合いながらハジメに襲い掛かる。ハジメは反転、ミサイルとの相対速度を低下させる。追ってくるミサイルの群れを従えて、並木の揺れる遊歩道に突っ込む。ようやく芽吹き始めた灰色の木々を、ミサイルの誤爆がなぎ倒していく。爆風を背中に浴びながら、後部カメラで数を確認。並木の壁をくぐり抜けたのはおよそ百。
「こンのおッっ!」
推進器(バーニア)は全開以上。急がなければ耐久性の限界に達しつつある。急いでたどり着いたのは多層高架道路(レイヤーズ)。見えてきた柱と道路の絡まり合い。ミサイルを引き離すには打ってつけの地形。
「《アクティヴ》!」
柱の中に飛び込んで、コンクリートの林の中を、針を通す正確さで飛び抜ける。追い切れなかったミサイルがどこかの空へ飛んでいき、機動を制御しきれなかったミサイルが柱に衝突して炸裂する。全弾ロストの表示がHUDに浮かび、ハジメはほっと胸を撫で下ろす。
『残念』
上から通信。近藤本体を忘れたいた!
はっとしてハジメは身をひねる。上から降り注いだ高熱炸裂弾が、高架道路ごとハジメを吹き飛ばす。着弾点が近すぎる。ハジメは推進器(バーニア)を全開して、着弾点から全力で遠ざかるコースを取る。爆風の勢いが少なからず相殺され、相対速度の幻の中に融けて消える。
『とどめッ!』
上空から接近してくる近藤。この崩れた体勢を狙って撃たれれば避ける術はない。
どうする? 左の小銃を撃ったくらいでは牽制にもならない。もっと突拍子もないことをして奴の裏を掻けば、予想外の行動ができれば、半秒でも奴に隙ができれば――
左の手甲(ガントレット)。
これだ!
コマンドリストから選択。
「《パージ》!」
装備解除をコマンドされて、左の手甲(ガントレット)のジョイントが切れる。そのまま大きく振りかぶり、真上の近藤目がけて切り離した手甲(ガントレット)を投げつける。
『なぁにぃッ!?』
視界を塞ぐ巨大な弾丸に、一瞬近藤の気が怯む。動きが鈍ったその瞬間。
「《アクティヴ》!」
ハジメの翼が火を噴いた。
青いプラズマの尾を引いて、ハジメは近藤に突撃する。近藤の手が手甲(ガントレット)を払いのける。硬直する近藤。今度は、払いのけられないほど巨大な弾丸。
コンデンサ充電確認。リニアレールに回路接続。
『くそッ』
近藤は小さく悪態を吐くと、推進器(バーニア)全開で逃走する。無駄だ。距離を離せやしない。いくら闇御津羽(クラミツハ)の出力が大きかろうと、高機動型増加推進器(アクティヴ・ブースター)の推力を合わせた脅威の八十MPSから逃げられるはずがない。
「近藤ッ!」
電撃のような軌道を紡ぎながら、ハジメはありったけの声を振り絞った。
「ぼくは勝つ……おまえに勝つんだ!」
『勝つ……おまえが? おれに!? ハッハー! 馬鹿なやつだな! 妄想してるな! 夢見がちだよな、若いもんなァ―――ッ!!』
「夢じゃない!」
その声に答えるかのように、近藤がいきなり急上昇する。
来た!
敢えてハジメもそれを追って急上昇。水平飛行に戻った時には近藤の姿はどこにもない。空を彩るMAF航跡(ウェーキ)の煌めきも。まるで夢でも見ていたかのように、何もかもが幻だったかのように。
だが違う。
「これは、現実だ!」
下へ!
死角に入ったつもりで、今しもハジメの背後に上昇しようとしていた、漆黒の闇御津羽(クラミツハ)がそこにいる。
『……んなっ』
推進器(バーニア)全開。燃料切れの高機動型増加推進器(アクティヴ・ブースター)は重荷になるから即刻《パージ》。全ての余分な重荷を捨てて、ハジメはひとすじの槍となる。
近藤を。
優子を。
ハジメを縛る全てのタガを。
貫き通すための槍。
「《インパクト》ォッ!!」
瞬間。
世界が暗転した。
暗闇の中にとけ込んでいた意識が、現実の隙間に抽出される。
ハジメは目を見開いた。蒸し暑いコックピットブースの中、画面だけが明滅している。体が重い。腕一本持ち上がらない。だが、それが非現実感ではないことに、ハジメは気付いていた。これは疲れ。現実の、疲れだ。
勝つということは現実なんだ。
明滅する画面が、そのことをハジメに告げている。
「ハジメっ!」
外からコックピットブースの戸が開けられた。ナルが中に飛び込んできて、まだヘルメットを脱いでもいないハジメに、ぎゅっと力強く抱きついた。軽い接続酔いのめまいがハジメを襲う。でも、まだ楽しめる範囲のめまいだ。軽い酩酊状態と言ってもいい。
今なら空でも飛べそうだ。
「ナル」
ぽつりと呟き、ハジメはメットを脱ぎ捨てる。その手はそのまま、ナルの柔らかい髪を撫でた。
「ぼくは、勝ったよ」
「うん……うん! おめでとう、おめでとうハジメ!」
ありがとうの代わりにもう一度髪を触り、それからハジメはコックピットブースから這い出す。水を打ったように静まりかえっていた観衆(ギャラリー)が、一斉に怒濤のような歓声をあげた。賞賛も羨望も嫉妬も、全てがいま、ハジメのもとに集まっている。
「うッ」
苦しそうなうめき声に振り向けば、隣のコックピットブースから近藤が転がりだしてくる。吐き出された胃液が床を汚す。ハジメは目をそらせずにいた。顔面を蒼白にして、ゴミのように転がる近藤から。
優子が、彼に駆け寄り、そっと背中を撫でていたからだ。
「ゆ……」
ハジメが何か言いかけたそのとき。
「脱げーっ!」
観客の誰かが、出し抜けに叫んだ。
ハジメは弾かれたように観客を睨み付けた。もう彼らの視線はハジメに注がれてもいない。初めは戸惑っていた観客たちの中に、掛け金の提出を求める声が、波のように広がっていく。
脱げ。脱げ。脱げ。一つの声。いくつもの声。数え切れない悪意が、膨れあがり、場を一つに纏めていく。
「ハジメ……」
背中にナルがすがりついてくる。自分のことではないとはいえ、彼女の恐怖が指先を通じてハジメにも流れ込んでくる。
違う。
怯えて近藤にすがりつく優子の姿に、ハジメは気付いた。
違う、こんなことは。
勢い余った誰かが、ステージの上に昇る。優子ににじり寄っていく。
「いや……」
優子の声。
「やめろっ!」
気が付けば、ハジメは声を振り絞って叫んでいた。接続酔いのめまいが酷くなった。バランスを崩しそうになる体を、ナルが必死に支えてくれる。脚に力を込め、踏みとどまり、ありったけの怒りを込めて、ハジメはもう一度、叫んだ。
「やめろ。もういい……もういいんだ。もう……そんなことはやめろ」
それでも、最後には消え入りそうになっていた。
ステージに昇った男は、つまらなそうに舌を打つと、すごすご降りていった。
これでいい。これでいいんだ。ハジメは自分に言い聞かせ、ナルに支えられながらステージを後にする。その背に優子の声がかかった。
「ハジメ」
足が止まった。絶対に止めまいと思っていたのに。それでも足が止まってしまった。あの時と同じ声に。戸惑いがちで、深く澄んだ、冷たい水のような優子の声に。ハジメは肩越しに振り返り、わずかに優子の姿をのぞき見た。床に膝をつき、その膝が吐瀉物に汚れるのも厭わず、優子の右手は気絶した近藤に添えられていた。
ハジメには見せたことのない優しさで、優子は近藤を護っていた。
ハジメは拳を握りしめた。手のひらに爪が食い込んで、じくじくと痛んだ。現実。これも現実。
「色々ありがとう、優子」
震える声で、最後に一言、こう言った。
「さよなら」
そしてもう二度と、振り返らなかった。
早足に歩くハジメを、ナルは小走りに追いかけた。地下鉄の駅に向かって、わき目もふらずに、逃げるように歩いていく。声を掛けても答えない。さりとてこないだのように、怒っている風でもない。
せっかく苦労して勝ったというのに、勝利の余韻に浸ることもない。ナルはたまりかね、ついに大声を張り上げた。
「ねーハジメ! ちょっと待ってよ、どうしたの?」
ハジメは一瞬、ぴたりと立ち止まると――
今度は急に駆けだして、ビルとビルの谷間に飛び込んだ。慌ててナルは追いかける。ハジメの飛び込んだ、日の当たらないコンクリートの狭間にたどり着いた瞬間、ハジメの悲鳴がナルをその場に釘付けにした。
「来るな!」
驚き、ナルは暗くてじめじめした空間に目を凝らす。ハジメはそこに一人立ち、ナルに背中を向け、小さく震えていた。微かなすすり泣きが、ナルにも聞こえた。
「情けない……こんなの、見ないでくれ」
ナルは迷わなかった。
一息に歩み寄り、そっと、ハジメの背中を後ろから抱きしめた。
できるだけ、肌と肌とが触れ合うように。体の温もりが伝わるように。ハジメの震えが、自分にも伝わってくるように。
「好きだった」
ハジメの手のひらが、ナルの手のひらに、すがりつくように添えられた。
「好きだったんだ、優子……」
「ハジメは優しいね」
ナルは微笑む。
「わたしは、優しいハジメが好きだよ」
彼女の腕に抱かれて、ハジメは一人、泣いた。
次の朝目覚めたら、ナルの姿はどこにもなかった。
あの大きなボストンバッグも、朝方洗濯が終わるようにタイマーを仕掛けておいた洗濯機の中身も、みんなきれいに消えていた。いつも通りの朝日が、カーテンの隙間から差し込んでくる。いつも通りにハジメは目を細める。年度末を間近に控えた子供たちのはしゃぐ声が、いつも通りにうるさく響く。
いつも通り。ナルに出会う前と同じ、いつも通りの朝だった。
ちゃぶ台の上には、かわいい丸文字で、手紙がしたためてあった。内容は簡潔なものだった。「約束通り家に帰る」と、ただそれだけ記されていた。
結局、どこの誰だったのかもわからずじまい。わかっているのはナルという名前と、あの優しい笑顔だけ。
これでまた、ハジメもいつもの自分に逆戻りだ。バイトで小銭を稼いで、足りない分は親の脛をかじって、就職活動と、ゲーセン通いに明け暮れる毎日。寂しくなったら悪い女に騙されてみたりする。そんな、堕落した自分に――
でも、少しは変われるだろうか?
少しは、真剣に生きられるだろうか?
ナルがきっかけを作ってくれた気がするから。
「色々ありがとう、ナル」
手紙を大事に握りしめ、ハジメは窓から空を見上げる。眩しい太陽は、雲一つない空に、燦々と輝いている。
「さよなら」
と、その時。電話がうるさく鳴り響いた。
着慣れないスーツに身を包み、ハジメは緊張気味に正面玄関の前に立った。梅田のオフィス街でも一際背の高いこのビル。玄関の上にでかでかと貼り付いているエンブレムは、世界に名だたるEMO社のものである。ソフトウェア開発ではトップクラスの企業だ。
「うっへえ……」
あんまりビルが高いものだから、ハジメは天辺を見上げて溜息をついた。フロートドレスが推進器(バーニア)を全開にしても、上まで昇るのに三秒ちかくかかるかもしれない。
電話は、EMO社人事部からの、採用通知だったのである。前にダメもとで面接を受けてみて、あっさり不採用を喰らったのだが。その不採用通知が何かの間違いだったらしい。
世の中、不思議なこともあるものである。気分が変われば運も向いてくるのだろうか。
しかしどうも、場違いな気がしてならない。颯爽とビルに入っていくサラリーマンたちは、みんな背筋をぴんと伸ばして、堂々としている。いかにも頼れる大人の男という感じだ。それに引き替え自分はどうか。よれたスーツ……これは、一着しかないうえにクリーニングに出す暇もなかったのだから仕方がない。アイロンのあて方が下手でしわのついたシャツも、まあよかろう。しかし、落ち着かなく何度もネクタイの結び目を直している様子は、どうもよくない。慣れていませんよと宣言しているようなものだ。
ちょっと落ち着かないと。いつまでも玄関の前に立ち尽くしているので、いいかげん周囲からも不審の目で見られている。
ハジメは意を決して、靴墨のかかっていない靴で、強化ガラスの門をくぐった。
そして通されたのは、やけに豪華な、ビルの頂上付近に位置する部屋だった。
やたらに柔らかいソファに腰掛け、ハジメはカチカチになりながら、周囲をきょろきょろ見回していた。一体なんだこの部屋は。なんだかよくわからない絵画に、黒い木製のデスク。背の高い本棚には難しそうな本がいっぱい。そして思わず靴を脱いで正座したくなるほどふかふかの、この絨毯。
ひょっとして、ものすごく偉い人のオフィスかなにかだろうか? なんで採用されたばかりの自分がこんなところに? 新入社員と面接するのが、ここの重役のしきたりか何かなのだろうか?
ハジメの疑問をよそに、重たい樫のドアを押し開け、一人の男が入ってきた。重役にしてはまだ若い。三十台半ばといったところだろう。びしっと決まったスーツでなくて、もっとラフな服装をしていれば、ハジメと同い年といっても通じるかもしれない。
そして彼の後からついてきたのは、書類ケースを小脇にたずさえた、見事な脚線美の女性。艶やかな黒髪と、切れ長の目を、ちらりとハジメの方に向ける。美人だ。
ハジメは弾かれたように立ちあがり、固くなった筋肉をがんばって動かして、ぎこちない礼を送った。
「あ、あのっ、ぼくはっ」
「ああ、瀬田ハジメくんだね。待たせて悪かったね」
「え、いや、いいえ……」
涼しい声で言う男性に導かれ、ハジメはデスクの前に立つ。男性は革張りの椅子にどっかりと腰を下ろし、女性はその斜め後ろに控えた。こんな人たち、漫画でしか見たことがない。どこから見ても立派な若社長とその美人秘書だ。
「僕は小林健二。副社長をしている。こっちは秘書の飯田恵里」
やっぱり。背筋が凍るようだ。ここで少しでもヘマをすれば、彼――健二の指先一つで、せっかくの就職口がパーになるかもしれない。
「さて……突然きみを雇用することにしたのは、きみにしかできない特別な任務が発生したからなんだ」
「あ、はあ……」
「まずはきみに引き合わせたい人がいる。入りたまえ」
ぱたん。
ハジメの背中の後ろで、ドアの開く音がする。
次の瞬間。
「ハージメーっ!」
誰かが、ハジメの背中に飛びついた。
慌ててハジメは振り返る。背中から腕を回して、固く抱きついている女の子。見たところ十四五歳で、きれいな栗色の髪をした、抜群にかわいらしい女の子――
「ナル!」
ナルはにっこり微笑んだ。
「なんでここに!? え? あれ? あれ!?」
「落ち着いて落ち着いて、約束通りうちに帰るって言ったでしょ」
「彼女は、我が社の重要人物でね」
悪戯っぽくにやりと笑い、健二は頬杖つきながらハジメを見つめた。まるで値踏みされているような気分だ。実際そうだったかもしれない。
「家出中に出会った瀬田ハジメ君は非常に優秀な人材だから、是非我が社に迎え入れたい……と、こう言うんだよ。彼女は」
大げさ大げさ。
何食わぬ顔で自分にしがみつくナルを見下ろしながら、ハジメはぽりぽり頭を掻いた。
「まあ、そういうワケだから。ナルのことはヨロシク頼むよ」
「あ、はあ……」
……ん?
「はあ!?」
思わずハジメは声を裏返した。
「ちなみに、ナルの荷物は既に君の自宅に輸送しておいたから」
「はあーっ!?」
副社長、秘書のお姉さん、そしてナル。順繰りに見回すが、誰も冗談を言ってる目をしていない。呆然とするハジメに、ナルはいつもと同じ、こちらまで微笑みたくなるような、優しい笑顔を浮かべたのだった。
「よろしくね、ハジメ!」