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2013年01月25日

 ■ 「最高傑作の仕上げ方」

 最高傑作。
 まるで小学生が「最強のヒーローは誰?」と論議を白熱させるときのように、無邪気に、無神経に、彼女はそれを要求した。彼女――マネージャー――女性ではあるが、彼の性的嗜好からはかけ離れた――は、何も理解していない。彼の性格も。彼の生み出すものの価値も。少なくともその本質的価値には一切の理解を示さず、ただ金銭的価値のみをマネージャーは見ている。
 だからマネージャーの発言は、ただ、こう捉えるべきなのだろう。これまでで一番稼げる作品を書けと。
 くたばれ、薄っぺらい価値観のクソ女。
 いかに無理解な言葉とはいえ、最高傑作という単語の重みは、ずっしりと彼の心にのしかかった。書いてみたい。確かに、興味がある。俺の最高傑作とは一体何なんだ? そう呼べるような作品は一体何処にあり――如何にすればそれをものすことができるのか?
 考える。考える。考えれば考えるほど、頭脳が、心が、たった四文字の漢字に囚われていく。初めは純然たる無理解への怒りだったはずの感情が、いつしかどうしても最高傑作を仕上げねばならないという、妄想にすら似た執念へと変わっていく。
 書きたい。
 俺の最高を。
 筆は進んでいる。指先の動きは軽い。物語はたゆまず織り上げられていく。間違いない、これは面白い作品になる。ここ数年では最高の出来と言ってもいいだろう。その確信を持って、彼は暗い部屋の中、ひたすらにキーをパンチし続けた。怒濤のように2byte文字が迸るのを見るにつれ、暗い歓びが彼の胸を満たしていく。見ていろ。お前の横っ面にこの原稿を叩きつけてやる。
 だが――
 書き始めて、何時間が過ぎただろうか。
 少なくとも、夜が明け、再び日が沈む程度の時間は過ぎた頃。ふと、彼は指を止めた。
 qwertyに載せられた10本の節くれ立った指が震えている。
 集中が、途切れた。
 確かに出来はいい。面白い。売れるだろう。マネージャーの言う意味で最高傑作にもなりうるだろう。あの女を満足させる程度なら、これで充分。
 だが――これが最高傑作と言えるのか?
 太陽の中に浮かぶ黒点のように小さかった疑惑は、一瞬にして膨れあがり、瞬時に彼をがんじがらめに縛り上げた。動かない。指が、脳が、心が凍り付く。書けない。違う。これは、違う。
 これは俺の最高傑作などではない!
 なぜなら――!
 彼は、突然頬を歪ませ、ひきつった笑みを浮かべた。ただひとり、暗い部屋で光を放つ液晶パネルを見つめたまま。自分が奇妙な顔をしているのがよく分かる。自分がどれほどの異常者、変人であるかは知っている。それゆえに彼は生きて来れたし、その異常性こそが、彼の作品の源泉であったはずだ。
 沈黙が、部屋を支配した。
 気付いてしまったのだ。
 一体何が最高傑作なのか。
 どうすれば最高傑作が生まれるのか。
 気付いてしまったのだ。
 永い永い逡巡の後、彼は不意に席を立った。部屋を出て、トイレに向かい、出すものを出した。それから台所へ。冷蔵庫の中はゼロ・カロリーのコークと安物のチーズばっかりだ。大さっぱに一掴み取り出して、封を開く。炭酸を喉に流し込む。炭酸はいい。なんだか内臓が溶けて、弾けて、内側から違うものに変われるような気がするから。それにゼロ・カロリーも好きなのだ。そこには甘味と健康という矛盾する二つの欲望の相克が集約されているし、人類のテクノロジーの勝利と、そのほほえましいまでの浅はかさが詰め込まれているからだ。
 世界で一番好きな飲み物。それも思いっきり冷えたやつ。堪能した。
 満足の溜息を吐き、彼は再び仕事部屋に戻る。
 電源を入れっぱなしだったPCの前に腰を下ろし、静かに目を閉じる。
 世界が――消えた。
 彼の意識、否、存在全てが物語を紡ぐことのみに集中した。その他の全てが消失し、この世はたった一つ、巧みに編まれ、構築されていく言葉の精密機械のみに集約された。迷いはない。ためらいもない。指が奔る。自在に、奔放に、何より舞うような美しさでもって。
 物語は、彼にとっても前例がないほどの凄まじい速度で完成に向けて驀進した。あと50枚。普段ならこれだけでも5、6時間はかかるところ。だが。
 時間の多寡など人の生み出した幻想に過ぎない!

 翌朝、メールで連絡を受けたマネージャーは、彼の自宅まで原稿を取りに行き、玄関に鍵も掛けない作家の不用心に呆れた後――仕事部屋でキーボードの上に伏している彼を見て、疲れ果てて眠っているのだと考えた。そして彼を起こす愚を避けたばかりか、そっと毛布を彼の肩にかけた。彼女は彼女なりに、作家を愛していたものと見える。そしてマネージャーは、もちろん原稿を持っていった。
 その作品は紛れもない最高傑作となり、過去最高の売り上げをも記録した。
 なぜなら――死んだ作家は、もう二度と、それ以上の作品を描くことはないからである。

THE END.


※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:奇妙な彼 必須要素:この作品を自分の最高傑作にすること 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2013年01月25日 01:43

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