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2013年02月12日
チーズはネズミが食うものだと思うだろう? ところがどっこい、実のところ、ネズミはそれほど乳製品が好きではない。雑食性とはいえ、あれらは基本的に草を好む生き物だ。チーズに含まれる大量のタンパク質、そして脂肪は、小さく貧弱なネズミの消化器官には手に余るらしい。むしろチーズを好んで食うのは、肉食獣――つまり、猫のほうだ。
チーズ屋を営むじいさんの一日は、猫との戦いによって幕を開ける。店先に並べておいた商品を狙って、文字通りの泥棒猫が入り込むのだ。どれほど頑丈な雨戸を閉め、戸締まりを減にしていようとも関係ない。猫は穴を掘る。壁と地面の間に開けられた、ようやく首が通るかどうかというくらいの細いトンネル。それで充分。猫は苦もなく店内に入り込み、今日の獲物を物色する。いずれもすばらしく熟成された逸品ばかり。触れば鞠のような弾力があり、香りはそれだけで人を酔わすほどで、舌に乗せれば塩気と僅かな酸味と濃厚に凝縮された乳の甘みが融け広がり全身に染み渡るような――とにかくじいさんが精魂込めて作った品なのだ。
猫はこともなげに陳列棚に飛び上がり、上品に両手を揃え、首を伸ばしてチーズに齧り付く。
じいさんはたいてい、その瞬間を狙って店の中に躍り込んだ。
「おれのチーズを食うのはどこのどいつだ!」
あとは血で血を洗う格闘戦だ。じいさんが棒やら何やらを振り回す。猫は稲妻のように素早く右へ左へ跳び回り、宙返りして棒を潜り抜けたかと思うと、素早く侵入経路を逆行して逃げていく。後に残されたのは食べかけのチーズ。肩で息をするじいさん。ごちゃごちゃに散らかった店のありさま。
こんな事がもう、何年も続いている。
何より腹が立つのは、猫がかじるのはたいてい、じいさんが最も出来栄えに自信を持っている、会心の逸品であることだった。よりによもって、いちばん価値の高い商品を台無しにして去っていく。腹立たしいといったらなかった。じいさんは様々な策を講じて猫を撃退しようとした。人を雇った。罠をしかけた。寝ずの番で生け捕りを試みたこともあった。
そして猫は――じいさんの試みを嘲笑うかのように、人の足下をすりぬけ、罠を察知し、じいさんがまどろんだ一瞬の隙を突いて、毎度毎度工夫を凝らし、みごとに泥棒猫をやってのけるのであった。
ある時、猫はいつものようにチーズ屋に侵入した。
今日の侵入経路は、天井裏であった。瓦屋根が数枚はがれ、その奥に空いた小さな穴から天井裏に入り込めるのであった。猫は足音を殺して屋根裏を闊歩し、適当なところで爪を天井板に引っかけて、思い切り引っぱり、店へ降りる穴を空けて、そこから下へと身を躍らせたのだった。
猫にこれほどの知恵があるとは驚くべきことだが、それ以上に驚くのは、店の中がしんと静まりかえっていることだった。
いつもなら、チーズ屋のじいさんが姿を見せるはずのタイミングだった。猫は警戒し、耳をとがらせ、鼻をひくつかせて、ライバルの登場を待った。だがなにもない。物音一つ、人の匂い一つ、感じ取れなかった。猫は背筋を伸ばし、首を巡らせて当たりを見回した。そして、陳列棚のチーズには目もくれず――というより、完全に興味を失ったような様子で――店の奥の戸の隙間をくぐった。
この戸の先には、じいさんの住まいがある。猫は今まで、ただの一度もそちらに入ったことがない。入る必要も機会もなかったからだ。なのに今、猫は胸の中にある何だかよく分からないもやもやに突き動かされ、奥へ奥へと脚を進めている。
果たして、じいさんはそこにいた。
猫が来たことに気付いても、じいさんは身動きひとつしなかった。ただ、いつもの鋭い目でこちらを一瞥したのみだ。
やがてじいさんは、ぽつりと言った。
「来ると思っていた。おれは今日は動けん。まあ、好きにするがいい」
じいさんが苦しげに息を吐く。
「三段目のいちばん奥のが、食べ頃だから」
猫は翌日もじいさんの寝床を訪れた。
やはりその日も、じいさんは猫を襲おうとはしなかったのだ。ただじいさんはずっと伏せたまま。猫がそばによると、一言二言声を掛ける。猫には人の言葉は分からない。だが、寝床の横にちょこんと腰を下ろし、尻尾をゆっくり左右にしならせながら、じいさんの顔を見つめている。
「最後はお前といっしょか」
じいさんは笑った。
「そうでなくては」
それから何日かすぎた。ついに猫は、一度たりとも訪問を欠かさなかった。
じいさんは、もう戻らない。
猫もまた、どこかに姿を消して――もう二度と、戻ることはなかった。
THE END.
※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:猫の信仰 必須要素:ドイツ 制限時間:30分
投稿者 darkcrow : 2013年02月12日 03:06
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