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2013年02月13日
要は化学平衡と同じ考え方だ。
人間の頭から自然に抜け落ちる髪の毛は、通常、1日に50本程度だという。だがそれと同じ本数の髪が毎日新たに生えてくるので、全体として毛髪の量は変わらない。増加量と減少量が等しいので、一種の平衡状態を作るわけである。
言い換えれば、50本以上の髪の毛が抜けだした時、人の頭部は砂漠化へ向けて進み始めることになる。1日に51本の髪が抜けるなら、1日につき1本ずつ総毛髪数が減っていくわけだ――通常、人の頭髪はだいたい10万本と言われているから、10万日、つまり273年余り。1日に60本抜けるなら27年。1日に100本抜けるなら、5、6年。たったそれだけの時間で、大切な毛髪資源は枯渇する。
……そんな理屈っぽいことばかり考えているから、抜け毛が減らないのだ。
男は鏡を見て溜息を吐いた。彼の脱毛ペースは、とうに限界を超えている。父はさほど髪が薄いほうではない。だが母方の祖父は彼が生まれたときにはほぼ完全に禿げ上がっていた。おでこから後ろに向かって進行していくタイプ――ちょうど、今の彼と同じように。間違いない、遺伝だ。来るべき時がやってきたのだ。
彼は、サラリーマンである。
大学を出てからそこそこ真面目に勤め上げ、徐々に出世し、今では中間管理職と呼べる地位まで登ってきた。だがそのストレスのかかることといったら。自分が仕事をするならいい。ミスも失敗も業績不振も自分のせいだ。しかし他人がやらかしたヘマの責任を背負わなければならない立場というのは……そして、そのうえでヘマばかりする他人に気持ちよく仕事をさせるよう気遣わねばならない立場というのは……これを理不尽と言わずしてなんと言おう。
思えば、年収が上がるのに反比例して、彼の生え際は下がっていったような気がする。これが歳をとるということなのか。やむを得ないことなのか。だが、「何もかもどうでもいい」と割り切れるほど老人にもなりきれない。それが彼の辛いところ。
どうしたものか……彼はその日、悩みに悩んで、ようやく出かける決心をした。
たどり着いたのは駅前の小汚いビルだ。客が訪れるような店舗はほとんどない。入居しているのは企業の事務所ばかりだ。つまりこのビルに足を踏み入れるのは、中の事務所に勤めている従業員ばかりで、人目が非常に少ない。カツラメーカーが店を構えるには、こういう場所こそが好都合。人目につかず、こそこそと入店したがるような客ばかりだからだ。
彼は店の前に立ち、さっきからずっと躊躇っていた。簡単だ、目の前の自動ドアをくぐり、男性スタッフの問診を受け、頭皮の検査を受けて、あとはお任せ。しばらく待てば、きっと素晴らしい髪の毛を作ってくれる。何も悩むことはない、飛び込めば全てが上手く行くのだ。
なのになぜか彼は店にはいることができなかった。廊下の硝子ケースに陳列してある白いプラスティックの頭部模型、その上にのせられたつやつやとした黒いカツラ。今時、ドリフのコントみたいな不自然なカツラなんてありはしないのだ。技術は進歩している。いかに自然に、周囲に悟られないように欠点を覆い隠すか、ただその一転を追求し、いじらしいまでに日本人は技術を研鑽してきたのだ。何も心配することはないはずなのに。
と、自動ドアが開いた。中から客が一人、歩み出てきたのだ。彼は思わず、きびすを返して逃げるようにエレベーターに飛び込んだ。出てきた客の顔も見ることが出来なかった。あの客はカツラをかぶっていたのだろうか。それともまだだったのだろうか。
パネルのボタンをいらいらと連打して、エレベーターの扉を閉める。そのときには、もう、カツラを作ろうなんて気持ちは完全に消え失せていた。
それから、あっちこっちに行ってみた――カツラじゃなくて発毛ならどうか。スプレーだけで髪を増量出来る、なんて商品もある。美容室ならうまく見られる形にしてくれるかもしれない。だがどこへ行っても、彼は店に入る決心ができず、ドアの前をしきりにうろついた挙げ句、背中を向けて立ち去るのだった。
何かが違う気がして。
彼は道ばたの敷石に、行儀悪く腰を下ろした。
夕日が街に沈んでいく。
太陽が一日の役割を終えて、色あせながら消えていく。
なんてきれいなんだろうか。
翌日の月曜日。彼が出社すると、オフィスはちょっとしたざわめきに包まれた。
彼の頭は見事に髪が剃られ、つるっつるになっていたのだ。
彼はぺちんと頭を叩き、おどけてみせる。笑いが起きる。
そう、これでいいのだ。
THE END.
※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:限界を超えた脱毛 必須要素:年収 制限時間:30分
投稿者 darkcrow : 2013年02月13日 01:09
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