2013年04月20日
きちんとやりなさい
「きちんとしなさい」
が母の口癖だった。それは私が高校生になっても変わることはなく、私もまた、ずっとその戒律通りに生きている。予習。宿題。復習。きちんとこなす。部活動は美術部。きちんとこなす。面倒な委員会活動……きちんと、こなす。
それは一人前の大人になるために最低限必要な条件である。
「大人の世界は厳しいのよ」
これも口癖。
「きちんとしていなければやっていけないわ」
これも。
勘違いしないでいただきたいのは、私は別に、それが嫌だったというわけではない。やってみれば分かる。初めこそ窮屈だが、慣れてくれば少々の煩わしさなど気にならなくなるものだ。どころか、きちんとすればみな悪い顔はしないし、時には褒められるし、自分自身でもそれなりの満足感が得られる。ああ、私はきちんとやったんだ、という。
山登りをしていて、頂上までたどり着いたとき。だからどうだというわけでもないのに。足下にあるごつごつの岩は、うちの近所のごつごつの岩と、分子構造的にはほとんど差がないだろうに。ただ、頂上にある岩を踏んだというだけで、不思議と心を満たす達成感。あれに似ている。
まあそんなわけだから、私はきちんとやってきたし――今もそうしている。
レモンペーストみたいな絵の具を並べながら、私はカンバスに向かった。美術部室では、部員たちが珍しく勢揃いして、私と同じように小さな四角形とにらめっこしている。おそるおそる筆でカンバスを撫で、顔をしかめたり、眼を細めたり。端で見ていると何やらそれが滑稽で、私は吹き出しそうになる。だがすぐに思い改める――自分だって似たようなものだ。
「コンテストのー、締め切りはー、一週間後なのでぇーっ」
と、部長が何か言っているが、誰も真剣には聞いていない。なにせ、既に分かり切った情報であるから。
「みなさん、きちんと完成させましょーっ! 習作はー、完成させたときはじめて力になるんだよーっ」
「へぇーい」
うら若い女子高生ばかりの美術部だが、その返事はさながら佐渡金山で強制労働に従事させられる罪人のごとしだ。
私もまた、陰鬱な気分で自分のカンバスに目を遣った。思わず目を逸らしたくなった。
そこには何らかの絵が描かれているようだったが――
何か違う。
アートの前提には、まず確信がなければならない筈なのに。
何か違う、という確信だけが、今、私の胸の中でわだかまっているのだった。
もう、一筆も進まなくなって何日になるだろう。私は、停滞していた。ここから先、どう筆を進めていいのか分からない。どんな色を塗ればいい。どんなシルエットを浮かび上がらせればいい。見失った自分の絵を探して、私は見た。美術館の絵を、図書館の画集を、古本屋で手当たり次第に引っ張り出した絵の描いてあるあらゆるものをだ。普段見ないようなものも必要かと思って、思わず18禁コーナーにまで足を踏み入れてしまった。店員に止められた。私は下着まで汗でぐしょぐしょに濡れながら、真っ赤な顔して古本屋を飛び出した。
きちんとしなきゃいけないのに。
何がきちんとなのか分からない。
ただ今は、あまりにも、自分の絵を乗せたカンバスが狭すぎる気がしていた――
事件は唐突に起こった。
それはいつものように、私がカンバスに向かって唸っていたときのことだった。
背後を部長が通りかかり、見かねて、私に声を掛けた。
「ねー、それなんだけどさー」
部長は一つ年上の先輩で、絵は、恐ろしく上手い。誰より上手いから部長をやっている。だが、言わせて貰えば、彼女は上の立場に立つべき人間ではなかった。誰よりも技術に優れることと、人を指導できることは、本来、無関係なのだ。
彼女はやってはならないことをやらかした。
「ここの構図が甘いんだとおもうよーっ。もっとさ、ちょと貸して」
と、止める暇もなく筆をつまみ取り、
「こんな風にがぁーっとぉー」
私のカンバスに一本の線を描き足した。
瞬間。
その瞬間。
私の何かが爆発した。
「何するんだよ!!」
私は彼女に掴みかかった。突然のことに誰も事態を理解していなかった。他の部員たちはもちろん。当事者の部長も。何より掴みかかっている私自身でさえ。なんでこんなことをしているんだ。一体なにを怒っているんだ。
ただ確かだったのは、部長が描いたたった一本の線が、あまりにも、あまりにも素晴らしくて、それだけで私の絵は生き返ったように鮮やかに花開いて、そして、そして!
私の絵ではなくなってしまった。
「何するんだよ……何するんだよ! 何するんだよーっ!!」
私の悲鳴は、いつまでも美術室に木霊して、収まることがなかった……
その夜。
私はなぜか、学校にいた。
自分でも分からない。どうしてそんなことしてるのか。でも、やらねばならない気がした。
学校に忍び込んだ。警備システムの解除キーは持っていた。美術室に入り、そして。
そして私は、書き殴った。
ありったけの絵の具を使い。ありったけのペンキを使い。足りなくなれば石膏でもなんでも使い。壁中に。床中に。ただただ色をぶちまけた。私だけの絵を。私だけの線を。カンバスをはみ出してなお、学校中に広がるように。
翌朝、私は、ぐっちゃぐちゃになった部室の真ん中で、眠っているところを発見された。
満足。
わたしは、きちんとやったんだ。
THE END.
お題:きちんとした快楽 必須要素:レモン 制限時間:30分
投稿者 darkcrow : 2013年04月20日 00:26
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