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2013年04月28日
殺し屋、ハローワークに行く前夜
人に見つかりたくないなら人混みに行け。そこでは誰もお前なんか見ていない。
一人一人の話し声は、それ自体が意味を持つ言葉のはずである。だが人が大勢集まって群衆となり、声がざわめきとなったとき、その言葉は絡み合い、重なり合って、およそ解読不能の雑音に成り果てる。そう言ったのはライプニッツだ。
またこんな言葉もある。木を隠すには、森。
殺し屋は、混雑する銀行の隅で、ベンチに腰掛け、透明なビニルパッケージに手を突っこんで、ピスタチオをぼりぼりやっていた。マットな質感のスーツ。おしゃれなシャツとタイ。だがそれだけ。ごく平凡なサラリーマンのひとり。
そう見せかけて――懐には、完全消音のM8000。
と、銀行手続きを終えて、一人の男がベンチに戻ってきた。彼は疲れ切った顔をして、殺し屋の隣に腰を沈める。叶和圓に火を付け、煙を肺に導入している。男が素晴らしい香りの煙を吸いきったあたりを見計らい、殺し屋は引き金を引いた。
コークのPETボトルを開くよりささやかな銃声が、男を一つの死体に変えた。
仕事は、終わった。殺し屋は席を立った。ピスタチオの袋をポケットに突っこんだ。それが拳銃をしまう動作のカモフラージュだと気付く者は一人もいない。男の死体は、しばらくの間、天を仰ぎ見、物思いに耽る中年男性のようにしか見えまい。死体が何かのきっかけで、どさりと床に倒れるのは、まだ十数秒先の話。そして殺し屋が身を隠すには、それで充分だった。
その、はずだったのだ。
一人の少女と殺し屋はすれ違った。殺し屋は気にも留めない。だが、少女が死体の側に寄っていくのを見て、思わず殺し屋は振り返った。
「ぱぱー」
少女が死体に手を触れる。死体がぐらり、と揺れる。倒れる。鈍い音。瞬間、銀行を満たしていた雑音の層は、流水で洗い流される霜のように、融けて凋んで消えていった。
やがて、耳障りな悲鳴。
泣き声と怒声に包まれ、再びざわめきを取り戻した群衆の真ん中で、少女は父の亡骸に手を掛けたその姿勢のまま、じっと、ただじっと、その場に立ち尽くしていた。
殺し屋は思わず目を逸らす。そして、その光景に目を向けて足早に逃げ去っていった。
「なあ、おい、何年この仕事をやってる?」
と、上司は聞くのだが、それが修辞的疑問文であることが分からないほど殺し屋は馬鹿ではなかった。
「教えてはくれないのか」
「あたりまえだ。いいか、殺し屋のタブー。依頼主を詮索する、ターゲットに肩入れする、仲間を裏切る。お前はその三つを全部犯そうっていうんだから恐れ入るぜ」
「俺はただ、あのターゲットは本当に悪い奴だったのか、と聞いただけだ」
「ほらな」
上司が肩をすくめる。だが、殺し屋だってそれなりに思うところがあって問いつめているのだ。そう簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
「女の子がいた」
「それがどうした。悪人が子作りしちゃいかんというのか」
「そうじゃないが」
「それとも娘がいれば善人だとでも?」
「そうじゃない」
殺し屋は、溜息を吐いて首を横に振った。
そうじゃない、そうじゃない……彼はようやく気付いていた。自分が気にしているのが、善悪とは関係のないところにある、もっと他の――何かである、ということに。まだ、それが何なのか、言葉にならないけれど。
一体何をやっているんだろう。
そう思いながらも、殺し屋の脚は自然とある場所に向いていた。郊外にある一軒家。何の変哲もないサラリーマンの住居に見えるが、綿密に張り巡らされた警備システムが、そうではないことを物語っている。
今、ハリネズミのようなその家で、厳かに葬儀が営まれていた。
殺し屋は――馬鹿げてる――さり気なく、焼香の列に並んだ。
一歩。一歩。前の人が用事を済ませるごとに、彼は前に進んでいく。下を見つめて。ただ石畳だけを見つめて。ようやく玄関先に辿り着いたとき、奥で経を読む僧の姿が見えた。家族らしい人々が大人しく座っていた。そして女性――妻だろうか――の膝の上では、あの少女が、元気よく跳ねていたのだ。
無邪気に。笑って。時折歓声をあげて。
あの子は、父が死んだことに気付いてすらいない。
だが――母親が父の顔を見せようとすると――大人のエゴだ――少女は、ただひたすらにそれを嫌がった。とうとう泣き出した。
殺し屋は、その場からも逃げ出した。
俺は一体、なにをやらかしてしまったんだ――
その夜のことだ。
殺し屋は、転職を心に決めたのだ。
THE END?
お題:煙草と銀行 必須要素:ピスタチオ 制限時間:30分
投稿者 darkcrow : 2013年04月28日 01:29
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