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2014年05月29日
※この作品は「書き出し.me」で執筆しました。
『夢』
「あのー、すいません……この右から2番目にある『夢』っていくらで買えますか?」
ぼくの問いに、古書店の主はめんどくさそうに顔を上げた。
伸ばし放題になった癖毛と、白く染まったあごひげは、この雑多な店内とぴったりはまっている。そこそこ広いスペースに、本、本、また本。古いもの、新しいもの、名書に奇書にクズみたいな書。整理もされず、本棚にもおさまらず、棚の上にも足元にも山のように平積みされている。人一人が生涯を費やしても決して読みきれない知識の土塁。価値があるのかないのかも定かではないが、少なくとも圧倒的ではある情報に囲まれながら、しかし、店主の手元にあるのはコンビニ売りのエロ雑誌だ。
店主のにごった視線を受けて、ぼくは彼の背中にあるラックを指差した。彼がゆっくりと顔を向ける……大丈夫なのか、この男。少し酔っ払っているんじゃないのか。不安がるぼくに後頭部を向けたまま、彼はじっくりと、背表紙のタイトルを見つめる――『夢』。
「1000円」
ハードカバーの古書としては、微妙な値段だ。プレミアムがつくほどではないが、見向きもされないクズでもない。念のため、ぼくは尋ねる。
「8%込み?」
「え?」
聞いたぼくが馬鹿だった。
青い紙幣をカウンターに滑らせると、店主はうすのろく古書を取り出し、じんわりとぼくのほうに押し付けた。その動きがどこか不気味で、ぼくは一瞬ためらう。本が2センチ近づく。紐しおりが手招きするように揺れる――ぼくは無意識に、硬い背表紙を掴む。
とたん、店主の手が引っ込み、気がつけば紙幣は彼のポケットの中。その手の素早いことといったら、獲物に襲い掛かるウツボのようだ。
とにかくも、ぼくは受け取ってしまった。
『夢』。
帰りの電車で表紙を開く。数ページ、目を通す。物語に入りかけたところで、満員電車に満ちる白い視線に気づき、やむなく中断する。黒いハードカバーを胸に押し付けるように抱きながら、ぼくは海底のワカメのように大人しく揺れるしかない。
駅に着き、マンションに帰る道すがらでも、ぼくは本を開いた。車に轢かれそうになった。ようやく車どおりの少ない裏路地についたころには完全に日が暮れていて、表紙のタイトルさえろくに判読できなかった。ため息をつき、家路を急ぐ。我慢して、家でゆっくり読もう。
マンション“バレーナ”にたどり着き、3階の1Kでぼくは寝転がる。飲み物を引き寄せ、クッションを背中に敷き、いざ、分厚い表紙を重々しく開く。
どうやら小説のようだ。小説か随筆か他の何かかなんて全く知らずに、タイトルだけで買ったのだ。ページをめくる。しゅらり、とこすれる。質のいい紙が弧を描き、ピンとはじけて右に流れる――
後のことは記憶にない。
奥付まで読み込み、裏表紙を閉じ、気がつけばもう10時を過ぎていた。
いまさら夕飯を作るのも食べに出るのもめんどくさくなり、ぼくは着替えもしないで横になった。
明かりを消して、目を閉じて。まどろみかけたころ、ぼくはふと気づく。身を起こして横を見れば、テーブルに乗ったあの本の表紙が、闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
『夢』。
この本、前に読んだことあるな。
あれは、いつのことだっけ。
翌日の仕事は手につかなかった。ぼくは気もそぞろにキーボードを叩き、客に愛想をし、上司に頭を下げた。何も考えなくても習い性で勝手に体が動くのだから楽なものだ。体のことは無意識に任せて、ぼくはじっと記憶を掘り下げ続けた。
確かに読んだ。読んだはずだ。読んだような気がする――
本当に、読んだっけ?
だんだん自信がなくなってくる。こういうのを既視感というのか。既視感って言葉を覚えたのは小学生のころだった。確か小4のときだったか……。学校の先生が、国語の授業でそんな話をしたのだ。その感覚は昔から人間が持っていたんだ、鎌倉時代の本にも既視感の話が書いてあるんだ、って……。
「あっ」
ぼくは声を挙げた。周囲の数人がこちらにちらりと視線を送る。ぼくは慌ててキーを叩くふりをした。みんなが興味を失い、自分の仕事に戻る。
そうだ。思い出した。
小4のとき。間違いない。
少し背伸びがしたくて、ぼくは親にせがんで買ってもらったのだ。
ハードカバーで1000円もする本を。
ぼくは、何かを忘れている。
有給をとった。
あまり仕事に穴もあけられない。週休とあわせて3連休が限界だ。往復の新幹線と、宿代。あわせて5万弱の旅。ばかばかしい。僅か1000円の本のために。
何年ぶりかで故郷に戻ったぼくは、レンタカーであちこち動き回りながら記憶をたどった。あの本屋。あの時、あの本を買ってもらった本屋。そこに行けば思い出せるかもしれない。雲を掴むような話。助手席に居座る『夢』。手がかりはこれだけ。
ぼんやりと、イメージがあった。本屋の内装や棚の配置のイメージが。とてつもなく広大な本屋で、無数の本棚が森林のように並び、巨大な情報の塊がぼくを押しつぶそうと迫ってくる。そんな記憶。ぼくはかつて住んでいたあたりを駆けずり回り、スマホで検索できる限りの書店を訪ね、記憶に重なる場所を探した……
ない。
ない。
ここでもない……
もう、すっかり疲れ果てた。
コンビニの駐車場にレンタカーを停め、シートに体を埋める。何やってるんだろう。あの本屋を見つけたからってなんだっていうんだろう。
たかがこんな本一冊に、どうして振り回されているんだろう。
確かに、面白いことは面白い。夢中で読みふける程度の面白さはある。でも年をとって、何百という本を読んできた今となっては、「生涯にただ一冊」というほど面白いとも思えない。このくらいの感動、このくらいの没入になら、年に数冊は出会えるのだ。
なのに。
ぼくは逃げ出したい気分になって、顔を横に背けた。
と。
視界に本屋の看板が入った。個人営業の小さな書店だ。古い看板はさびだらけ、汚れだらけで、本当に営業しているのかどうかも怪しい。大手書店、コンビニ、ネット通販、とにかくあらゆるものに押され続けて衰退する一方の、街角の本屋さんというやつだ。
ぼくのイメージにある本屋はもっと大きい。だから、ああいう小さな本屋は目に入っていなかった。
あきらめよう。
そう決めて、ぼくはその書店に向かった。
どうせだめだから。この一軒だけ見たら、もう帰ろう。いつもの日常へ。そう心に決めて。
引き戸を開く。
何十年分も積もりに積もったインクの匂い。
乾いた冷たいそよ風。
表の道を走る車の音が遠く行き過ぎ、取り残される、静寂。
背の低い本棚が、僅か6列。
それすら隙間だらけで、何冊もの本が斜めに、あるいは横倒しになっている。
入り口脇のカウンターでは、小さなおばあさんが一人、じっとパイプ椅子に腰を下ろしていた。
ここだ。
ぼくは確信した。
小さい。あまりにも小さい。頭の中のイメージと違いすぎる。だがこの本棚の配置、店番するおばあさんの顔、そして何より、胸の躍るようなこの香り。
ぼくはあの時、ここにいた。
ぼくは、おばあさんに声をかけた。すこし耳の遠い彼女は、何度かまばたきしながら、ぼくの顔をぼんやりと見上げる。例の本の表紙を見せて、
「あのー、すいません……この『夢』って、昔ここで売ってませんでしたか?」
時が必要だった。
顔を近づけ、じっくりと表紙を見て、そしておばあさんは、にっこりと微笑む。
「ああ、あんときの子じゃ」
ぼくはもう、何も言えない。
「面白い面白いーてはしゃいでねえ。
ぼくも書きたい言うとった。
……だいじにしてくりょおたんじゃねえ」
お礼代わりに、数冊、買って。
ぼくは逃げるように帰りの新幹線に乗った。
新しい本の表紙を開くと、ぼくはまた、あの本のことを忘れてしまった。
でも、読み終われば、今度はすぐに思い出せるだろう。
かばんの中で、あの本はじっと、開かれるときを待ち続けている。
THE END.
投稿者 darkcrow : 2014年05月29日 22:27
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