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2015年06月09日

 ■ 「あの坂道の向こう」

お題:絵描きの水 必須要素:美しい情景描写 制限時間:30分


「あの坂道の向こう」

 画材を背負って登る山道にも、いささか辟易してきたところだ。
 夏の日差しは融けた鋼鉄のように熱かった。汗が伝い落ち、乾いた土くれを打ち、靴底がそれを圧し潰す。小石と小石が足の裏で擦れて音を立て、絵描きの論理的怠惰を呼び起こした。目指す山頂までは、まだこの道をたっぷり1時間は歩かねばならない。坂道の先は陽炎の向こうに揺らいで踊る。溜息が零れた。彼はへたりこみ、立てた膝と膝の間に頬をだらしなく挟みこんだ。
 どだい気乗りのしない仕事だったのだ。水筒の水を呷り、再び息を吐く。
 近年の印刷技術の進歩は、絵描きの価値を大いに高めてくれた。印刷物には挿絵がつきもので、そのためには銅版が必要。そして銅版は、多くの場合、水彩画を原画として製作されるのである。
 ほんの百年前ならば、いや十年も前であれば、彼ていどの絵描きは、ろくなパトロンも得られず、それどころか大家の製作所で作業員の役目を務めることさえできず、身内に借金を重ねて鼻つまみ者となり、困窮のうちにどこだかの屋根裏でひっそりくたばっていたことだろう。それが今や、出版屋に先生とまで呼ばれるご身分である。
 しかし――絵描きの市場価値を高めることが、芸術家の尊厳を高めることに繋がるとは限らない。
 むしろ芸術は、大量に作られ、切り売りされ、使い捨てられる、憐れな消耗品へと成り下がった。
 その消耗品を作るのが彼の仕事だ。今の彼の命を繋ぐものなのだ。
 彼は描いた。描きに描いた。どこだかの風景が欲しいといわれればすぐにでも鉄道に飛び乗った。今日もそう。この暑いさなか、重たい画材に潰されそうになり、脚をいためて引き摺り、汗に溺れかけながら、永遠に続くかと思われるこの坂道を、蝸牛よりも情けない足取りで登っていく。
 ――俺はなんで描いてるんだろう。
 もう、彼には分からなくなっていた。
 絵を描くことが何よりも好きだったはずなのに。いつのまにか、効率よくこなすことばかりが筆を支配して、色あせた景色ばかりを量産している。それが出版屋に喜ばれれば、かえって進むべき道が見えなくもなってくる。
 涙でも流れるかと思ったが、浮き出してくるのは汗ばかりだ。
 いつまでたっても、日差しは緩む気配を見せない。
 やむなく彼は立ち上がった。

 山道は続いた。両脇は低い崖に挟まれ、景色はおろか、空さえろくに見えはしない。細長く切り取られた蒼空。雲は淡く流れ行く。
 汗と。
 足音。
 やがてそれすら消え。
 何も無くなった山中を、彼はただ歩き続けた。あと少し。あの岩を越えれば、その向こうに見えてくるはずだ。目指すべき場所が。注文どおりの場所が。あるいは――

 あるいは――

 ようやくたどりついた岩陰から、向こうを覗き込んだ、そのとき。

 翠が拓けた。
 木々は一面に横たわり、空との境は切り裂くかの如く一文字。
 風が打つ。さざなみが森を駆け抜ける。
 ひとときの木の葉ずれが去ったあとにはただ、張り詰めた静寂。
 どこまでも、どこまでも、全ての青と緑とが、姿なき旅人を待ちわびて。
 ――描けるさ。描ける。
 確信に突き動かされて、彼は筆を取った。

 後に開かれた彼の個展では、このとき描かれた原画が代表作として展示され、大いに衆目を集めるところとなったのが、それはまた、遠い先の話である。

THE END.

投稿者 darkcrow : 2015年06月09日 01:35

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