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2015年08月05日
お題:緩やかな狂気 必須要素:とんかつ 制限時間:30分
世界がとんかつになる日
目覚めたら、世界が揚げ物になっていた。
何が何だか分からないのは俺も同じだ。あまり責めないでもらいたい。
ともあれ、ある朝、いつものようにアラームにたたき起こされ、軽くパンの一枚も喉に詰め込んで、いつものように外に出た。そこで俺は絶句したのだ。通りを行く通勤通学の人々が、ひとり残らず、香ばしく香る揚げたてのとんかつになっていたのだ。その衣は見事なまでにキツネ色で、見るからにさっくさくとして、朝の煮えたくった胃袋でさえ、むしゃぶりつきたいと思うほどだったのだ。
「俺は変になった」
「こんにちは」
後ろから追い抜きざまに声をかけてきたのは、鶏のからあげである。揚げた後、酢醤油のたれに漬け込んで、南蛮漬けにしてある。炒めたネギの風味がたれから染みこんで、なんともいえずよい匂いがする。
あ、いや。同じマンションの別の階に住んでいる、同年代のお姉さんだ。少なくとも彼女の声ではある。鶏の南蛮漬けは、ぼんやりつったっている俺を、変な目で見ながら(たぶん……なにしろ表情など全く分からないので確証はない)、足早に駅へ去っていった。一体あの、歩いているのは、どうやっているのだろう。ずりずりと、アスファルトと衣を擦っているようにしか見えず、極めて動きにくそうではあるが、当人たち(当肉たち?)は、少しも不便を感じてはいないようだ。
混乱しながら駅に向かう道中は、さながら脂の祭典であった。海老天、掻き揚げ、コロッケ、くしかつ、珍しい紅しょうがのてんぷらも居る。あ、フィッシュカツだ! 薄いサカナのすり身にカレー粉練りこんで、衣つけて揚げたものだ。徳島名物。あれはうまいぞ。
などと品評会している場合ではない。
どうやら、他人がみんな揚げ物に見えるようになってしまったらしい。人間だけではない。散歩している犬も、植え込みの草花までもだ。俺はうんざりと溜息を吐く。俺が変になったのか。それとも、世界のほうが変なのか。なんにせよ困るのは、電車で通勤しているだけで、すばらしく腹が減るということだ。さっきまで食欲がなかったのが嘘のよう。脂、脂、魅惑の衣……揚げ方の悪い揚げ物は、見るだけでも胸がむかついてくるものだが、これまた妙なことに、周りの人間たちが変身した揚げ物は、どれもこれも腕の確かな職人の手によるような感じで、カラッとうまそうに揚がっているのだ。
俺は好奇心に駆られ、電車の中で、うっかり、近くの揚げ物に触れてしまった。ああ、幻視ではない。手触りも完全に衣だ。ちょっとパン粉とか取れてしまった。どうしよう、このパン粉。周りの揚げ物たちは、何にも気にしてないようではあるが。
電車から降りて、コインロッカーの置くの、物陰に飛び込んで、とうとう俺は、かじってしまった。よく揚がった衣のかけら。
……うまい。
まるで全身に脂がしっとりと馴染んでいくかのようだ。じんわりと、涙が込み上げるほど、うまい。たかが衣ひとつ、が。
もし、もし……だ。
あの揚げ物を、丸ごと、頭から、かじることができたなら……
ジューシーな、ズシンと満腹中枢を刺激する見事なとんかつを、この腹に収めることができたなら……
いや、何を考えているのだ。あれは揚げ物ではない。人間だ。たぶん。
だがよくよく考えてみると、人間ととんかつにどれほどの差があるというのだろう。
衣の中に、肉がある。人もかつも同じ。衣を着て、その中に、うまみ溢れる肉を隠して。少々乾いた肉も、悪くなりかけた肉も、しっかり衣をつけてしまえば、油の力でそれなりには食えるようになる。よい肉は、油がますます引き立てる。食いすぎれば胸焼けして、よくて病院行き。悪くすれば寿命を縮める。それでも食わずにはいられない、油……
……よし。
俺はすっかり憑かれていた。食ってやる。相手は肉だ。食ってやる。心に決めて、俺は、手近な、とってもうまそうな、わかわかしい肉に忍び寄る。
だが俺は疲れてもいた。だから気づかなかったのだ。忍び寄る俺の背後から忍び寄る、恐るべき捕食者の存在に。
誰かが俺にかじりついた。
凄まじい痛みが俺を襲った。だがどうすることもできなかった。俺は一撃でやられてしまい、横たわり、食い尽くされるのを待つしかない。衣がざっくりと切られた。と、そこでようやく俺は気づく。
俺がおかしいのか。
世界がおかしいのか。
答えは……両方だった。
世界が揚げ物であるように、俺もまた、極めてジューシーな、とんかつの姿をしていることに、半ばまで食べられてようやく、気がついたのだった。
THE END.
投稿者 darkcrow : 2015年08月05日 01:32
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