ARMORED CORE EPISODE 2

純白ホンキィトンク・ラヴ

 青い空が見える。
 太陽が燦々と照り輝き、白い光を放つ。緑色の草達は、それを全身で浴びて、恵みを享受していた。ここは生き残った大地。人間によって滅ぼされた地上に残った、数少ない楽園の一つ。
 ここの存在は誰も知らない。彼女を除いて。
 彼女は小屋の戸を開けて、光が降り注ぐ外へと歩み出た。強い陽射しが彼女の白い肌を焼く。不意に吹き抜けた風に、彼女の白いスカートが少しはためいた。
 彼女はつばの広い、真っ白な帽子をかぶっていた。それは太陽の助けを借りていっそう鮮やかに輝いた。
 純白の世界が、そこにはあった。
 
 彼は隅のテーブルでバーボン・ウィスキーをすすった。そして辺りをさり気なく見回す。薄暗くて広大なパーティ会場。幾つも並べられたテーブルには、それぞれ鷹揚に酒を交わす身なりの整った男達。ある者は下品な笑いを浮かべて、またある者は無表情を装って。美しい女達が彼らのグラスになみなみと酒を注ぐ。彼はまた、バーボンを少しだけ口に流し込んだ。
 ――ぼったくりだ。
 彼は表で平静を装いながらも、心の中では苦虫を噛みつぶしていた。
 あるテーブルに付いていた男が立ち上がった。そして、ひときわ美しい女を従えて、奥の扉の向こうへ消えていった。
 別に珍しいことではなかった。これは、そういうパーティなのである。金さえ払えば、会場の中にいるどんな女性でも、夜の相手をしてくれる。そのかわり、法外な入場料を払い、バカ高い酒を飲まなくてはならない。
 ――だいたい、会場に入るだけで三万コームだと? 無茶苦茶もいいところだ。
 彼はもう一度心の中で毒づいた。彼はこのパーティの常連ではない。むしろ、こんな場所とは程遠い貧乏人である。しかも彼はこういう類の商売が非常に嫌いだった。にもかかわらず彼がここに来た理由はただ一つ。仕事だから、である。
 彼は相場の十倍はするバーボンをまた少し飲んだ。酔いはない。彼は結構酒に強い。彼はグラスの中身を乾かしながら、遠くの方を見遣った。そして、よく見慣れたものを視線の先に認めると、一瞬だけその手を止めた。
 すっかり空になったグラスをテーブルに置くと、彼はロング・コートをはためかせて立ち上がった。すぐさま会場の隅に控えていた男が駆け寄ってくる。
「いかがいたしましょう?」
 突然の質問だが、ここでは、どうする、と聞かれれば問われていることは一つしかない。
「あの、左の隅にいるアジア人の女」
 彼は、目立たないように気を付けながら指さした。男がその方向を確認する。そして納得したようだった。
「あいつにしよう」
「かしこまりました」
 男は彼を、部屋へと案内した。
 
「はー……全く、金ってのはあるところにはあるのねぇ……」
 彼女はパーティ会場の奥の方で誰にともなく呟いた。肩までの黒く艶やかな髪。小さく突き出た鼻。深みのある黒い瞳と、彼女にしては珍しく口紅で色づいている唇。誰が見ても、彼女がアジア系の血を引いていることは明白だ。
 彼女は名をリンファという。リンファは、このパーティの接待嬢の制服をまとい、男達に愛想笑いを振りまいていた。しかし、そろそろうんざりしてきている。
「エリィ、ちょっと」
 リンファは横にいた恐ろしいほどの美人を引っ張って、会場の外へ逃げ出しだ。会場でピアニストが弾く美しい音色がドアの向こうから微かに聞こえる以外は全く静かなものである。
「ほえ? りんふぁちゃん、なになに?」
 リンファが引っ張ってきた女性は、口の中をもごもごさせながら言った。妖艶な容姿にそぐわない、とろとろとした口調である。 彼女の名はエリィ。リンファの相棒である。いつもは三つ編みにしている赤毛を今日はストレートに伸ばし、野暮ったい眼鏡もはずしている。そしてリンファと同じ制服に身を包めば、もはや普段とは別人のようになってしまっている。その美しさたるや、女のリンファが見とれてしまったほどである。
「エリィ、何本気になって食べてんのよ!
 早く仕事終わらせて帰るよっ!」
「りょ〜か〜い。えへへ〜」
 彼女らの仕事とは、このパーティの接待ではない。リンファの本職はレイヴン。荒廃した世界で暗躍する、無敵の傭兵である。レイヴンは主に企業からの依頼で、護衛、襲撃、奪取、テロ、その他諸々の闇の仕事をこなす。とはいっても、生身で戦うわけではない。ACと呼ばれる大型ロボットがレイヴン達の武器。信頼できる相棒なのである。
 リンファは先日、とある企業から依頼を受けた。その内容は……「アルバート=マックスとイリーガル社の癒着を示す証拠を手に入れる……遊び半分でできるような仕事じゃないわよ」
「あいあい。わかってますます」
 ……本当にわかっているのだろうか?
 イリーガル社といえば、ACやMTのジェネレーターの最大手。総資産は千億コームを越える大企業である。最近急速に業績を伸ばしていて、工業系企業のトップに立つプログテック社に迫る勢いだ。とはいえ、まだまだその差は大きいのだが。
 対して、アルバート=マックスは悪名高い裏の世界の元締めである。彼の名は、ここアイザック・シティに住む者なら子供でも知っている。確かに、この二者が癒着しているとなれば、かなりのスキャンダルになるだろう。敵対企業がイリーガル社を潰しにかかる口実としては十分すぎるものがある。
 まあ、依頼主のことには深く詮索しないのがレイヴンとして長生きする秘訣である。リンファとしてはそんな企業間の争いなど、はっきり言ってどうでもよい。大事なのはこのパーティの主催者がアルバート=マックスであるということだ。
 アルバート=マックスはこのパーティには必ず顔を出す。というよりも、彼の住処がここなのである。癒着の証拠をつかむにはこれ以上の機会はない。
「とりあえず、なんとか抜け出して……」
 リンファが言いかけた、その時だ。ドアが少し開き、その中からまだあどけなさの残る女性が顔を見せた。リンファ達と同じ制服を着ている。このパーティ会場で知り合った……確か、名前はキャロルとかいったか。
「あの……リンファさんとエリィさん、よね。どうしたの?
 どこか具合でも?」
「あ、ううん、大丈夫。心配しないで」
「そう? ならいいんだけど……あ」
 キャロルは小さく声をあげた。彼女の視線がリンファ達の後ろに向けられる。リンファはそれを追って振り返った。
 このパーティの接待役は女性ばかりではない。黒っぽい服で身を固めた男も、客の案内役として会場に控えている。リンファ達に近付いてきたのは、そんな案内役の中の一人だった。
彼はリンファの顔を見るなり手招きをした。
「君。ご指名だ」
「え、あたし!?」
 このパーティで指名といえば、意味は一つしかない。要するに、一晩男の相手をするのである。もちろん、リンファはそんなのは御免だった。
 しかし、この状況で嫌がればそれこそ怪しまれる。それだけは絶対に避けなければならない。
「5番の部屋だ。すぐに行けよ」
「は、はい……わかりました……」
 それだけ行って去っていく男の背中を見つめながら、リンファは頭の中で状況を打破する方法を必死に探していた。……が、そんな都合のいい方法はすぐには見つからなかった。
 ――エリィ、なんとか助けてよ……
 祈るように相棒に目を遣ったとき、彼女は一体いつの間にとってきたのか、パーティの料理を皿一杯にかかえて頬張っているところだった。
「えええええりぃぃぃぃぃっ! あんたねぇぇぇぇぇ!」
「うにゃぁぁぁぁぁ」
 リンファはエリィのほっぺたをつねって伸ばさずにはいられなかった。
 そんなリンファ達を見つめ、キャロルは眉をひそめていた。
 
 仕方がない。悪いけど、相手の男にはしばらく眠っていてもらおう。
 リンファは決意して、5番の部屋へ向かった。ポケットには即効性の睡眠薬が入った注射器が入っている。しかし、そんなことをすれば正体がばれるのは必至。もう一刻の猶予もない。ここを乗り切ったらすぐにでも行動を起こすつもりだった。
 部屋はすぐに見つかった。渡された鍵を使って、ドアを開ける。あとはここにやってきた不運な男を眠らせれば当面の安全は確保できる。
 リンファは部屋に踏み込んで、中を見回した。薄いピンクに内装は統一され、お世辞にも品がいいとは言えない。ただ、さすがにベッドだけはいいクッションを使っているようだが……
 リンファの思考はそこで止まった。
 かちゃっ。
 小さな音がして、背中に硬い物が触れる感触があった。今まで何度か同じ経験をしている。   
 ――拳銃。
 迂闊だった。まさか、もう正体がばれていたとは……リンファは背中を冷たい汗が流れるのを感じた。
「こんなところで何をしている?」
「……?」
 後ろからかかった声は、聞き覚えがあるものだった。まだ若い、優男の声である。リンファはゆっくりと振り返り、そこに見知った顔を認めた。
「ヨシュア!」
「バカ、声が大きい!」
 男はリンファの口を手のひらで無理矢理塞ぐと、周囲を確認してドアを閉めた。この部屋は消音設計。ちょっとやそっとの音は外には漏れないようになっている。安心して話が出きる状況になってから、彼は手を放した。
「リンファ、こんなところで何をしている?」
「バイト」
「レイヴンが娼婦まがいのバイトとは、堕ちたものだ」
「冗談よ。本気にしないでくれる?」
 リンファは憮然として答えた。
 この男は以前知り合った同業者で、名をヨシュアという。百九十を越える身長と鋭い眼光が特徴的な、それなりのナイスガイだが、手足が長いせいか、少し痩せすぎて貧相なようにも見える。
しかしレイヴンとしての腕前は文句なく一流で、そのことは身をもって体験したリンファが最もよく知っている。
「で、本当は何をしていたんだ?」
「仕事に決まってんでしょ」
「もしかしてイリーガル社か?」
 ずばり言い当てられ、リンファは顔をしかめた。ひょっとしてイリーガル社とアルバートの癒着の話は有名なのだろうか?
 リンファの顔色を見て図星と見抜いたのか、ヨシュアは興味を失ったように溜息をついた。
「それで? あんたこそ何してんのよ?
 まさか、本気で遊んでたわけ?」
「まあな。たまにはこういうのもいいだろう」
 冗談めかして答えると、ヨシュアは突然リンファの腕をつかんだ。不意のことに驚き、リンファは目を見開く。呆気にとられるリンファの腰に、ヨシュアの手が伸びた。
「君を指名したのは僕だ。相手をしてくれるんだろ?」
「げっ!? 冗談じゃな……!」
 必死にリンファはヨシュアを振りほどこうとするが、見た目の細さにそぐわない力で硬く握られた腕は全く動かない。逆に体勢を崩してベッドに押し倒された。
 薄笑いを浮かべたヨシュアの顔が目の前にある。自然と顔が紅潮していくのがはっきりとわかった。自分の腕を押さえつけるヨシュアの力強さ、その体の重みと温もり、小さな金属音、彼の顔に浮かぶ妖艶な笑み……
 ……小さな金属音?
 リンファが異状に気付いたときには、もうヨシュアはリンファを放して立ち上がっていた。手が動かない。リンファが自分の背中の方を見ると、そこには後ろ手に手錠をかけられた自分の両腕があった。
「おやぁ?」
「何をその気になってんだ。僕があんたみたいなガキ相手に本気になるとでも思ってるのか?
 こっちの仕事を邪魔されては困るんでな。そこで大人しくしておけ」
「ガ……ガキィ!?」
 激高したリンファが立ち上がる……が、両腕を拘束されているせいでバランスが取れず、ヨシュアの軽い足払いでまたベッドへと倒れ込んだ。
 呆れたような表情でリンファを見下ろしながら、ヨシュアはドアを開けて外へ半歩踏み出した。
「そうやってすぐムキになるところがガキなんだよな。
 あのメカニック……エリィだったか? あいつも来てるだろうから、後で助けに来るように言っておいてやるよ」
「あっ! ちょっと待……」
 リンファの文句から逃げるようにヨシュアはドアを閉めた。鍵をかける音が小さくリンファの耳に届いた。
「あンの野郎ッ!」
 叫びながらリンファは立ち上がろうとして、もう一度転んだ。
 
 パーティ会場は広い。
 一階部分には幾つものテーブルが並べられているだけだが、二階のVIP専用フロアにはカウンターバーやビリヤード台も置かれ、幾人かが女性をはべらせてそれに興じている。人々はみな、それぞれにこの闇のパーティを楽しんでいた。彼らのほとんどは企業のトップか、でなければ裏の世界の大物である。見る者が見れば戦慄を覚えずにはいられないほどの顔が揃っている。
 そんなパーティの客達のなかに、ざわめきが起こった。
 最初は二階の壁際、ドアのすぐそばからだった。そこではある男がブランディーのグラスを片手にビリヤードに興じていたが、彼は弾かれたようにドアから入ってきた男を見上げた。
 銀色の短髪。若く頑丈な彼の肉体を象徴する広い肩幅。それによく似合う黒のスーツ。そして何よりも、まるで飢えた野犬のような青白く不気味に輝く瞳。
 アイザックシティの闇を牛耳る狼、アルバート=マックスその人である。
 アルバートは左右の客達と挨拶を交わしながらゆっくりと歩いた。彼の後についてざわめきも移動する。バーテンダーが近づき、ワイングラスを手渡す。その中身には口を付けずに、アルバートはたっぷり時間をかけて会場の中央にあるステージへ上った。
 側に仕えていた黒服の男がアルバートのスーツの胸に小さなマイクを取り付けた。アルバートは周りを見回し、ざわめきが収まるのを待った。ざわめきはなかなか収まらなかったが、逆にそれが彼を満足させた。
 アルバートは静かに右腕を持ち上げた。ただそれだけで、会場の全ての人々が水を打ったように静まりかえった。そして、徐にアルバートは口を開いた。
「諸君」
 アルバートの声は適度に低く、えも言われぬ迫力があった。
「今日は我が宴へようこそ。思う存分楽しみ、そしてストレスと金を棄てて帰っていただこう」
 小さくだが、笑いが起こった。そしてアルバートが手に持っていたワイングラスを掲げると人々はそれを真似た。
「乾杯」
 あちこちでガラスがふれあう音が響いた。アルバートはその様子を見届けると、ステージから降りた。
 不意にアルバートに黒服の男が近付き、何かを耳打ちした。アルバートはワインを一口飲み、男に小さな声で告げた。
「すぐに行く、と伝えろ」
 男は敬礼一つすると素早く立ち去った。アルバートはまた周囲の客達に愛嬌を振りまきつつ会場を後にした。
 
「せぇーのっ!」
 気合い一発、リンファはドアに体当たりを仕掛けた。しかし、頑丈なドアはびくともしない。逆にはじき飛ばされ、尻餅をついた。
 痛みをこらえてリンファは立ち上がった。とりあえずこの部屋から抜け出さないことには仕事にならない。数歩後ずさって勢いを付け、もう一度ドアに……
 ぶつかる前に、ドアが開いた。突然のことに対応できず、開いたドアの向こうに飛び出した。そこにいた女性を巻き込んで盛大に転ぶ。
「どぅわっ!?」
「きゃっ!?」
 手錠のせいで手を付くことはできないが、リンファは何とか膝立ちになった。そして、自分の下敷きになっている女性に目を遣る。
 リンファと同じ制服に、茶色いセミロングの髪。キャロルだった。リンファは慌ててキャロルの上から飛び退いた。
「ご、ごめん……でも、一体どうして……?」
「リンファさんの様子がおかしかったから、あとをつけてみたの。
 そうしたら、リンファさんが入った部屋に変な黒いコートの男が入っていって……」
 キャロルは上半身を起こすと、髪の中から何かを取りだした。小さな黒いヘアピンが光を受けてきらめく。まさか、とリンファの口が歪んだ。
「閉じこめられちゃったみたいだから、これで鍵を開けたの」
「へー……ヘアピンで鍵開けるのって本当にできるんだ……」
「後ろ、向いて。手錠も外してあげる」
 リンファは言われるままにキャロルに背中を見せた。様子は見えないが、かちゃかちゃと金属の触れ合う音がして、やがて両手を拘束していた重みが消えた。
 リンファは自由になるなり立ち上がった。手を差し伸べてキャロルが立ち上がるのを助け、服の埃を払い落とした。
「ありがと。たすかったわ」
「いいの。それより、気を付けてね。ワケありなんでしょ?」
 リンファは目を丸くした。よく気の回る人である。もう一度笑顔で礼を言ってからリンファは駆けだした。とりあえずエリィと合流して、すぐにでも行動を起こさなければならない。
 その背中を見つめながら、キャロルはポケットの中をごそごそと探り、中身を取りだした。彼女の手のひらの上に、二つの鍵が横たわっていた。
 
「イリーガル社の者が来ただと?」
「専務のクライド=カーチスのようです」
 足を止めることなく尋ねたアルバートに、一人の大男が丁寧な口調で答えた。そのまま、廊下を進むアルバートの後ろに付いて歩き始める。
 アルバートもかなりいい体格をしているが、その男はそれをさらに一回り上回っていた。彼の名はジョルジュ=ミニオン。アルバートの右腕として仕える男である。とはいえ、どちらかというと腕っ節だけでのし上がってきたような男で、お世辞にも賢明さは感じられない。
 アルバートはむしろそのジョルジュの愚鈍さを評価していた。頭のいい手下なら他にいくらでもいる。しかし、彼が求めるものは頭脳ではない。彼は自分の側にジョルジュを置くことで常に自分の行動を反省しているのである。
 廊下を歩きながら、アルバートは振り返りもせずに口を開いた。
「ジョルジュ、お前は俺を裏切るか?」
「いいえ、決して」
「イリーガル社の連中と通じれば、俺を蹴落とすこともできる。
 男は、いつか頂点に立つという野望を持ってしかるべきだ」
 ジョルジュは何も答えようとはしなかった。アルバートは落胆の溜息をついた。そして興味を失い、話題を変えた。
「今日はクライド一人か?」
「はい。しかも予定外です。何か企んでいるのかも……」
 ジョルジュの声が止まった。廊下の向こうから千鳥足の男が近付いてきている。ロングコートを着た陰気な男だ。おそらく酔ってパーティ会場から迷い込んでしまったのだろう。会話を聞かれるのはまずいが、さしあたって無理に排除する必要はなさそうだった。
 アルバート達は男とすれ違った。その時、ふらふらしていたせいで酔っぱらいの肩がジョルジュと当たったが、それだけだった。
 やがて酔っぱらいは曲がり角の向こうに消えていった。
 
 応接室のソファに腰掛けていた男が立ち上がり、アルバートに軽く礼をした。アルバートも礼を返し、男の向かい側のソファに腰を落ち着けた。ジョルジュはその斜め後ろに仁王立ちする。
 この男がイリーガル社専務クライド=カーチスだ。ネズミ色のスーツからはセンスが感じられないが、眼鏡の奥に光る曲者の瞳はアルバートも気に入っている。
「どうも、本日は突然のことで申し訳ありません」
「いえ、かまいませんよ。
 ですがこちらも予定が積んでいましてね。簡潔にお願いします」
 それでは、とばかりに、クライドは眼鏡のズレを直し、身を乗り出した。
「本日はイリーガル社としてではなく、個人的にお願いに参りました」
「ほう、私にできることでしたら」
 アルバートは目の前の冴えないサラリーマンの口調に、何か妙なものを感じ取った。全身から吹き出す雰囲気。たとえるなら群のボスと対峙する雄ライオンのような雰囲気である。
「アルバートさん。あなたに、イリーガル社に対して仕手をしかけていただきたい」
 
 トイレの中で、ヨシュアは一人で眉をひそめていた。
 あまりスマートではないが、このパーティ会場で一人になれる場所といえば、ここくらいのものである。もっとも、イヤホンを耳に当てているだけなら音楽を聴いているとでも思われるだろうが、念には念を入れておきたかった。
 酔ったふりをしてジョルジュのスーツの裾に取り付けた盗聴器が、ヨシュアに彼らの会話を送り続けている。
『失礼、今なんと?』
『聞き間違いではありませんよ、ミスター・アルバート。
 我が社に対して仕手戦を仕掛けていただきたいと、そう申し上げたのです』
 ヨシュアはもう一度眉をひくつかせた。
 仕手とは、株取引の技法の一つである。まず圧倒的資金である企業の株を買い占める。その企業の株の30%ほどを手にすれば、株主としてはかなり大きな顔ができる。そしてそれが50%を越えたとき、企業の実権は株主に移ることになる。企業としては、どこの馬の骨とも知れない人間に会社を支配されるわけにはいかない。だからこそ企業側が仕手側の株を多少の高額ででも買い取ろうとするのである。
 仕手が成功すれば膨大な金が手にはいる。もし資金が尽きるまで企業側が耐え抜いた場合、仕手側は全財産を失うことになる。いわば超高レートのギャンブルのようなものである。
「イリーガル社専務クライド=カーチス……裏切るつもりか」
 ヨシュアは納得してイヤホンを耳に強く押し込んだ。さらにはっきりと密談が聞こえてきた。
『貴方の資産は百億コームを越える。これだけあれば、我が社の株を50%所有することも可能です』
『ふむ、確かにそうかもしれん。だが、そうすることで私に……いや、そもそも君に何の利益があるというのかね?』
『わずか数年でイリーガル社は急速に成長を遂げました。当然、それをよく思わない方々もいらっしゃる』
 ――工業系トップのプログテック社、か。
 ヨシュアは勝手に想像したが、あながちはずれてはいない。今のご時世、イリーガル社を蹴落とそうとする企業など他にはありえない。
『それはプログテック社の連中のことかね?』
『その通りですよ。
 貴方は仕手によって膨大な利益を得る。プログテック社は大量の売り抜けによって株価が下がったイリーガル社を握りつぶす。そして私は、プログテック社で然るべきポストに就く』
『成程。同時に私はイリーガル社に代わって工業系第一位のプログテック社にコネができる、というわけか』
 アルバートの口調に、僅かに楽しんでいるような色が混じった。
 
 アルバートはソファから立ち上がった。そのまま右手をクライドに差し出す。
 ――握手。
 クライドは最初少し面食らった様子だったが、やがて口の端をにぃっと吊り上げた。そして、眼鏡を直して立ち上がり、アルバートのごつごつした手を握った。
「君の策略に私も乗らせてもらおう。よろしく頼む。
 それにしても、君のような真面目な人間がよく企業を裏切る気になったものだ」
「貴方がいつもおっしゃっていたではないですか……」
 クライドは満面の笑みを浮かべてアルバートを見据えた。アルバートはこういう目をした男が大好きだった。そこには野心の持つ危険さと美しさが共に孕まれていた。
「男はいつか頂点に立つという野望を持ってしかるべきだ、と」 アルバートは軽く笑った。背中の方では相変わらずジョルジュが仁王立ちしているが、このサラリーマンを見習って欲しいものだ、と思った。
「さあ、あまり長居をすると上に気付かれる恐れがある。
 今日はこの辺りで切り上げましょう。おってこちらから連絡しますよ」
「感謝します、ミスター・アルバート」
 クライドは最初と同じように礼をした。ジョルジュがすかさずドアを開け、クライドのために道を作った。そのとき、一瞬だがアルバートの目にジョルジュの背中が映った。
 ――!?
「ジョルジュ、背中に付いているのは何だ!?」
 ジョルジュはしばらく唖然としていたが、やがて自分の背に手をやった。指先に何かが当たる。小さくて硬い物……慌ててはぎ取るり、手のひらに載せ、まじまじと見つめた。
 盗聴器だった。
 
「気付かれたか……」
 ヨシュアは舌打ちをして便器から立ち上がった。
『さっきの酔っぱらいか……俺としたことが、気付かなかったとは……』
 これはアルバートの声だ。妙に大きな声が伝わってくる。盗聴器のすぐ側で話している証拠だった。
『誰だか知らないが、盗み聞きとはいい趣味だ。
 ……生きて帰れると思うな』
 小さな音と共に盗聴器から伝わる音が途切れた。踏みつぶしたか、地面に叩き付けたか。どちらにしろ、盗聴器はもう役に立たないようだ。
 ヨシュアはイヤホンを耳から外し、ポケットの中の受信機をトイレのゴミ箱に放り込んだ。
「さすがは裏の元締め、怖い怖い」
 口をすぼめて息を吐く。完全に馬鹿にした口調である。それもそのはず、ここまでは完璧にヨシュアのシナリオ通り。
「さァて……本番、行くか」
 トイレのドアを蹴り開け、ヨシュアは外に飛び出していった。
 
「あー、りんふぁちゃんだー」
 リンファはその光景を見るなり硬直した。一体どうやってくすねてきたのか、エリィは山と積まれた料理を片っ端から口に放り込んでいた。
 ――あ……あたしがピンチのときにこォの娘ッ子は……
「あのねぇぇぇぇエリィィィィィ!?」
「うにゃぁぁぁぁぁおかえりりんふぁちゃぁぁぁぁん」
 全く、この状況でお帰りもなにもなさそうだが、リンファにほっぺたを引き延ばされなからもエリィはいつもの調子を崩さなかった。
「まあいいわ。こんなことしてる場合じゃないし。
 ヨシュアがここに来てるの」
「よしゅあくんですかぁ〜。おしごとですかぁ〜?」
「多分ね。もうゆっくりしてる暇はないわ」
「は〜い、りょ〜か〜い」
 今回の仕事には、エリィの協力がかかせない。まずリンファが騒ぎを起こす。それに乗じてエリィが内部からハッキングを仕掛け、癒着の証拠となるデータを盗み出すのである。もしハッキングに失敗した場合は、リンファが直接最深部に乗り込んで要る物を盗ってくる予定だ。
「じゃあエリィ、予定通りにね」
「あいあい」
 軽く返事をしたエリィにうなずくと、リンファは適当に走り出した。
 
「い、一体どういうことです!?」
 クライドの狼狽えようは半端なものではなかった。親企業を裏切ろうとしている最中なのだから多少の異常事態に過剰反応するのも無理はないが、こんな状態ではぼろを出す恐れがある。アルバートにとっては、クライドを落ち着かせることが最初の急務だった。
「侵入者です。なに、心配はありません。顔もわれていますし、すぐにつかまえますよ。
 それより今は身の安全を最優先なさった方がいい。
 ……ジョルジュ」
 アルバートの呼び声にジョルジュは何をしていいのかわからず立ち尽くした。
「専務をお宅まで送って差し上げろ。安全確保が第一だ」
「了解しました。さあ、こちらへ」
 ジョルジュはまだ不安そうな表情のクライドの背を押して、応接室の外へ連れ出していった。
 とりあえず当面の邪魔者は排除した。あとはあの酔っぱらいを装っていたコートの男をなんとかしなくてはならない。アルバートは専用の通信機のスイッチを入れた。この会場の中にいる全ての部下に同時に命令が送れるようになっている。
「侵入者だ。早急に排除しろ。身長は百九十p以上。黒いロングコートを着た男だ。レイヴン、もしくは企業のエージェントの可能性がある。射殺してもかまわん」
 これで優秀な部下達がネズミ取りに動き出す。この緻密な網をくぐり抜けられるネズミはいない。アルバートはそう自負していた。
「ドブネズミめ……俺を甘く見るなよ」
 
 このパーティ会場はアルバートの住処である。客に解放されている部分も多いが、立入禁止になっている場所がほとんどである。知られてはならない秘密が隠してあるとすれば、そういう場所以外にはない。
 リンファは手の中の爆破スイッチを握りしめた。これを一押しすれば、パーティ会場に仕掛けておいた爆薬が炎を吹く。無駄に死者を出さないように爆発力は押さえてある。ある程度中心部に近付いてから爆発させれば格好の陽動になる。
『ね〜ね〜りんふぁちゃ〜ん』
 突然通信機からエリィの声が聞こえてきた。胸ポケットの端末のスイッチを押して答える。
「なに?」
『だめなの〜。だいじなデータはぁ、ネットからかくりされてるのぉ』
「了解。こっちでなんとか探してみる」
『それとね〜、しんにゅうしゃがいるとかさわいでるよぉ〜。
 くろいコートきたおとこのひとだってぇ〜』
 黒いコートの男……どうやらヨシュアが見つかったようである。リンファは鼻で笑った。人を閉じこめたりした報いだ。お陰でこっちから敵の目も逸れる。
「わかった、ありがと。エリィは早めに逃げて。
 ……また料理食べたりしちゃだめよ」
『あいあ〜い、ばいばいりんふぁちゃ〜ん』
 エリィからの通信はそれで途切れた。ここからが本番である。リンファは手の中のスイッチを押した。
 …… ……
 遠くから振動が伝わってくる。これで騒ぎはいっそう大きくなったはずである。
 リンファはすぐさま奥へ向かって駆けだした。今回はACが使えない。従って、迅速な行動が勝負の決め手だ。エリィがハッキングして手に入れた地図を頼りに、目指すはアルバート=マックスの私室。
 ――次の角を右だ。
 リンファは曲がり角を一気に駆け抜けた。
 ……その時!
「うわわわわっ!?」
「きゃっ!?」
 角の向こうから走ってきた男と、リンファは真正面から激突した。互いにはじき飛ばされ、尻餅を付く。
 リンファは痛みに顔を歪めながら相手に目をやった。黒いコートの貧相な男……ヨシュアである。
「あ、リンファ」
「ヨシュア! あんたさっきはよくもっ!」
「……話は後だ!」
 ヨシュアは立ち上がるが早いかリンファの手を引いて駆けだした。その表情にいつもの余裕はない。額には脂汗が浮かんでいる。 リンファは突然背中に悪寒を感じ、走りながら振り返った。そこにいたのは、紛れもなく銃を構えて狙いを定めている黒服の男!
 バシュッ!
 空気が抜けたような間抜けな音がした。これは……サイレンサー付きの拳銃のようだ。
「うそぉぉぉぉ!?」
「こっちだ!」
 続けて飛来する数発の弾丸を避けて、二人は角を曲がった。不意にヨシュアが手を放した。リンファにうなずきかける。
 次の瞬間、警戒することもなく角を曲がってきた黒服の男にヨシュアの拳がめりこみ、同時にリンファの肘打ちで男は完璧に気絶した。
 走り回ったせいでリンファは息が切れている。深呼吸して心臓をなだめ、小さく息を吐く。
「……ったく……なんであたしまで追いかけられなきゃなんないのよ」
「盗聴してたのがバレてな。さっきからこの繰り返しだ。
 参ったよ、早いとこアルバートにお目にかかりたいんだがな」
 ヨシュアはにぃっと口の端を吊り上げ、右手をさしだした。
「そこで……ここは一時休戦・協力する、ってのはどうだ?」
 リンファはこいつのこういうところが嫌いだ。クールなのかと思えば妙に間抜けなこともしてみせるし、そもそも敵同士だったのに急に協力を申し出たりする。しかも急に裏切るから信用もできない。
 しかし今回はリンファにも余裕がない。ここはどうやら協力するのが吉、のようである。
 ガスッ!
 リンファの肘がヨシュアのみぞおちに食い込んだ。思わずうずくまり、呻きをあげるヨシュア。
「OK、一時休戦よ。
 ……ちなみに、それはあたしを閉じこめてくれたお礼だから」
「くそ……根に持ちやがって……」
 
「まだ捕まらないのか?」
 アルバートは通信機に向かって怒鳴った。彼が命令を出してからはや一時間。今までこれほど時間がかかったことは一度もない。
 それだけでも苛ついているというのに、通信機の向こうの部下もなかなか答えようとしない。
「どうした? 早く答えろ!」
『す、すいません……残念ながらまだ……
 どうやら侵入者に仲間がいたらしく、手間取っております』
「何? 一体何者だ?」
『女です。接待嬢の制服を着ていますので、おそらく雇われるふりをして忍び込んだものと思われます』
「チッ……この大胆な手口、どうやらレイヴンのようだな。
 わかった。しかしだからといって言い訳にはならん。一刻も早く捕まえろ」
 アルバートの口調がさっきとはうってかわって落ち着いたものになった。普通に考えれば、冷静になったとみなせるだろう。しかし彼に限っては違う。アルバートは、頭に血が上れば上るほど、落ち着き払った行動を取るようになるのだ。
 それは常に四面楚歌の闇の世界で生きていくために必要なことだったのかもしれない。すぐにかっとなって殴りかかっているようでは、詭道(だましあい)の世界を渡り歩くことはできいのだ。
 アルバートの部下はみんなそのことを心得ている。通信している部下も例外ではなく、慌てて返事をして、通信を切った。
 アルバートはソファに身を投げ出した。目を閉じて頭を整理する。
 自分にイリーガル社を裏切るよう勧めてきたクライド。これはいい。バックボーンにプログテック社を持つのなら願ったり叶ったりだ。そして、レイヴンとおぼしき二人組。恐らくそいつらを雇ったのはイリーガル社と敵対する、あまり規模の大きくない企業だろう。自分とイリーガル社の癒着の証拠をつかみ、堂々とイリーガル社を潰しにかかるに違いない。
 ――まてよ。アルバートの脳裏に一つの考えが浮かんだ。もしかしたら、これは利用価値があるかもしれない。
 アルバートは徐に立ち上がった。思いつきを実行に移すために、自分の部屋を後にしようと、ドアノブに手をかける。
 ドアはアルバートが力を加えるまでもなく自然に開いた。驚くアルバートの目に、一組の男女の姿が映った。
「……貴様らッ……!」
「ハァイ、ミスター・アルバート」
 二つの銃口がアルバートの胸に向けられた。
 言うまでもなく、リンファとヨシュアだった。
 
「リンファ、お先にどうぞ」
「あ、そう? それじゃあ……」
 リンファは手錠で手を縛られ床に座らされたアルバートを見下ろした。
「イリーガル社の裏帳簿……あんたが管理してるはずよね。
 素直に渡してくれたら命は助けてあげるわ」
「そこのコンピューターからデータバンクに入れる。パスワードはIRG―3350Sだ」
 意外にもあっさりとアルバートは口を割った。むしろ、嬉々としているようにも見える。逆にリンファの方が呆気にとられた。
 リンファはアルバートが指さしたデスクの上のコンピューターを動かした。データバンクにアクセスし、言われた通りにパスワードを入力する。しばらく待たされた後、画面に何かの表が表示された。
 間違いない。イリーガル社の不正取引の記録……いわゆる裏帳簿である。これならアルバートとの癒着どころか、イリーガル社が行っていたあらゆる不正行為の証拠になる。
 リンファはすぐさま持ってきたディスクにそれを写し取った。コンピューターが作業を始めたのを確認して、拘束されたままのアルバートに目を遣った。
「不思議がることはない。色々事情があるのだ。
 それに君たちはレイヴンだろう? 仕事さえこなせれば文句はあるまい?」
 アルバートが見つけた利用価値とは、これのことである。仕手を仕掛けてイリーガル社を潰すためには、リンファを雇ったのであろう第三者に同時に攻撃させた方が都合がいい。全て計算ずくである。
 リンファにはその辺りのことは想像が付かなかったが、どちらにしろ損はなさそうだと納得した。
「……まあいいか。ヨシュア、あたしの方は終わったけど」
 リンファが呼んでも、ヨシュアは全く反応しなかった。銃をアルバートに突きつけたまま微動だにしない。
 やがて、ヨシュアは徐に口を開いた。
「シュイジンを知ってるか?」
「……知らない」
 ダンッ!
 リンファは息を飲んだ。飛び散る血しぶき。弾ける肉片。ヨシュアが放った銃弾は、アルバートの左耳を吹き飛ばしていた。
「うぐあぁぁぁぁぁあっ!?」
「もう一度聞く」
 ヨシュアの声は冷たく澄んで、まるで研ぎ澄まされた刃物のようだった。
「シュイジン、という男を知っているか?」
「し……しらないッ! 本当だッ!」
「じゃあ質問を変えよう」
 ヨシュアの持つ拳銃が、今度は右の耳をポイントした。引き金に指をかける。ほんの少し力を加えれば凶弾が弾けるだろう。
 ヨシュアを止めなければ。リンファは漠然と感じた。しかし体は動かなかった。まるで何かに縛られたかのように、指先まで完全に硬直してしまっていた。
「マーサ、という女を知って……憶えているか?」
 アルバートは喉を鳴らした。おそらく知らないのだろう、ということはリンファにも想像がついた。しかし何故ヨシュアがここまで残忍な行動をとるのかは全くわからなかった。
「し……知らない……」
 左の耳が吹き飛んだ。悲鳴を上げ、虫のように床で蠢くアルバートの姿が、リンファの目に映った。
 ヨシュアはもう一度引き金を引いた。今度は弾丸は左肩を貫いた。幾度となく破裂音が響き、両手と両足が順番に打ち抜かれていく。そして最後に顔に銃口が向けられたとき、リンファの金縛りが解けた。
「殺しちゃだめッ!」
 リンファはヨシュアに飛びかかり、その右手をつかんだ。銃口の向きを変えようとするが、それより一瞬早く弾丸は発射されていた。
 弾丸はリンファの右腕をかすり、そしてアルバートの頭に食い込んだ。悲鳴を上げる暇さえ与えられず、アルバートは事切れた。リンファも傷口を押さえてうずくまる。
「……リンファ! 馬鹿なことを……」
 ヨシュアはコートの裏ポケットから消毒薬と包帯を取りだし、リンファの腕に応急処置を施した。レイヴン稼業を続けていると危険も多い。用心深いヨシュアはいつもこのくらいの備えをしている。
 処置が終わるなり、リンファはヨシュアの胸ぐらをひっつかんだ。
「馬鹿はあんたよっ! 一体何考えてんの!?
 殺す必要なんてなかったじゃない!」
「……リンファ、お前この仕事始めてどのくらいになる? まさか、今まで人を殺したことがない、なんて言う気じゃないだろうな?」
「あんないたぶるようなやり方、おかしいよ! どうかしてるんじゃないの!?」
 激しい剣幕で食ってかかるリンファから目をそらして、ヨシュアは立ち上がった。リンファの純粋な瞳の色が、ヨシュアには耐えられなかった。
「おかしくなんかないさ……僕はまともだ」
 ヨシュアの言葉が終わるか終わらないかのうちに、部屋のドアが外側から開いた。入口に立ち尽くし、黒服の男が一人、地面に転がるアルバートの死体を凝視していた。
 ――見つかった!?
 リンファが理解するよりも早く、黒服の男は走り去った。その手には、通信機が握られていた。
「ここまでか……リンファ、話は後だ!」
「逃げんじゃないわよっ!」
 
 アルバート=マックス、死亡。その知らせは瞬く間に部下全員に広まっていった。もちろん、ジョルジュも例外ではない。通信機が鳴ったのは、クライドを車で送り届けるため地下のガレージにやってきた時だった。
 ジョルジュは懐から四角い端末を取り出すと、そのスイッチを入れた。
「なんだ?」
『ジ……ジョルジュ! 大変だ、アルバート様が死んだ!』
 通信を横で聞いていたクライドの顔が引きつった。無理もない。今、彼の安全を保証してくれるのはアルバートただ一人なのだから。
『殺ったのは二人組のレイヴンだ。ジョルジュ、どうする?
 このままじゃ組織自体が危ないぜ!?』
「そんな!」
 クライドはジョルジュにつかみかかった。そうしたところで事態が好転するわけではないのだが、混乱したクライドにはただ叫ぶことしかできなかった。
「私はどうなるんだっ!? これじゃあ私は……私は破滅じゃないかっ!」
「うるせぇっ!」
 ジョルジュは自分の胸ぐらを揺するクライドを殴り飛ばした。地面に叩き付けられ、クライドはうずくまった。
「くくく……ザマァねぇぜ……
 何が男なら、だ! 死んじまったら終わりじゃねぇか!」
 ジョルジュは通信機に向かって怒鳴りつけた。無駄に大きい濁声がガレージに響き渡る。
「いいか、今から俺がボスだ!
 今さらレイヴンなんざどうでもいいが、これもけじめだ。絶対にそいつらをぶち殺せ!」
『な……何言ってんだ! お前がボスだと!?
 ふざけんじゃ……』
 ブチッ。
 ジョルジュは相手の言うことに耳を貸さず、一方的に通信を切った。
 彼は本当に、自分が組織を牛耳れると思っていた。自分はアルバートの右腕だった。そしてそのアルバートが死んだ。ならば、自分がその跡を継ぐのが筋というものではないか。
 おそらく、ジョルジュがただのボディーガードだったということに気付いていないのは本人だけだろう。組織の人間は誰一人ジョルジュの命令に従いはしない。
 ジョルジュはふと、あることに思い当たった。
「そうか……レイヴンだったな……」
 ガレージの奥に、普段は整備員以外立ち入らない場所がある。ジョルジュは思った。自分の輝かしいデビューを飾るには、あれを使うのがふさわしい、と。
 次の瞬間、彼はそこへ向かって走り出していた。
 
 もうどの位走っただろうか。リンファの持つ地図を頼りに出口を目指すこと十数分。もう出口は目の前だが、ここまで何一つ障害に出会っていない。
 いないのである。警備員も、追っ手も、誰も。
 これはこの組織がアルバートのワンマン組織であったことの証明である。おそらく、もう組織は再起不能だろう。分裂し、自然消滅していく運命である。
「その扉を抜ければパーティの会場に出るわ」
 リンファが指さす先には、一つの大きな扉があった。ここに来てから何度もお目にかかっている。間違いなく、あの忌々しい宴が開かれていた広間へ通じる扉である。
「なら協力はここまでだ」
「せいぜい死なないように気を付けることね」
 ヨシュアは扉には入らずに廊下の向こうへ消えていった。言いたいことは山ほどあるが、とりあえず今は自分が逃げることが先決である。
 リンファの相棒であるAC『ペンユウ』は、パーティ会場の地下のガレージに隠してある。比較的目立つものだが、滅多に人が寄りつかないような隅なら見つかることはない。
 リンファは瓦礫がちらかり、誰もいなくなったパーティ会場に足を踏み入れた。言うまでもなくリンファが仕掛けた爆弾のせいである。広間の端にある階段を目指し、駆ける。
 ……その時。
「リンファさんっ!」
 突然後ろから声がかかった。リンファは反射的に背後に銃を突きつけた。
「……キャロル……?」
 いつの間にか後ろに立っていたのはキャロルだった。リンファの銃に怯え、両手を控えめに掲げている。
「あの……手、降ろしていい?」
「あ、ごめん……
 まだ逃げてなかったの?」
 リンファは銃を懐にしまい込んだ。とりあえずキャロルには敵意はなさそうだったが、爆発が起きた場所に何故いつまでも留まっているのには何か理由がありそうだった。
「リンファさん、あの赤いAC、あなたのでしょ?」
「え!? ペンユウを見たの!?」
「大丈夫、見つかりにくい所に隠しておいたの。こっちよ!」
 呆然とするリンファの手を引き、キャロルは走り出した。
 
 薄暗いガレージの中で、赤い巨人が立ち上がった。リンファの相棒であるAC、『ペンユウ』である。武装は肩のレーザーキャノンと右手のマシンガン。それに左の手の甲にはレーザーブレードが搭載されており、必要に応じて光の刃が敵を切り裂く。
 そのコックピットのシートに腰掛け、リンファは操縦桿の調子を確認する。右手の微かな動きに反応してペンユウはゆっくりと歩き出した。この快適なレスポンスは、メカニックであるエリィの腕のたまものである。
 リンファはモニター越しにペンユウの足下に目を遣った。そこではキャロルが心配そうにこちらを伺っていた。
 リンファが最初ペンユウを隠していた場所には、一台も車が残っていなかった。つまり、頻繁に使用されていた場所だったわけである。それに対してここはゴミ捨て場だか駐車場だかわからないような場所で、まさに隠すにはうってつけだった。
 それにしても、本当によく気の回る人である。リンファはスピーカーのスイッチを入れて、外に呼びかけた。
「ありがと、助かったわ。あなたも早く逃げて」
 キャロルは軽く手を振ると、ガレージの奥に消えていった。あとは脱出するだけ、である。
 微かな外の灯りを頼りに歩みを進める。出口はそう遠くない。 ……と、その時。
[AC確認]
「!?」
 コンピューターの声に、慌ててリンファはレーダーを確認した。赤い点がレーダーに一つ。距離は五百メートルほど、ここより十数メートル高い位置にいる。ここが地下のガレージだから、相手は地上……というか、地下都市の地面の上にいるらしい。
 一瞬、ヨシュアかとも思ったが、コンピューターの第二声がそれを否定した。
[識別信号確認。イリーガル社製局地防衛用AC『ダルスロース』] ――イリーガル社製!?
 ということは、リンファが盗んだデータを回収するためにイリーガル社が送り込んできたのだろうか? いや、それにしては対応が早すぎる。
 ともかく、リンファは右側にある赤いボタンを押した。
[戦闘モードに移行します]
 これで、戦闘に必要な操作系が全て動き出す。リンファはマシンガンが問題なく動作するのを、二、三発撃って確かめた。慎重に出口のスロープに近付き、レーダーをもう一度確認する。
 相手の『ダルスロース』とかいうACはさっきから全く動いていない。ここの真上に近い場所でじっとしている。
 リンファは訝しがりながらも、ブースターを噴かして一気に上へ飛び出した。
 そこで待ちかまえていたのは、一機の人間型重量ACだった。全身が太く、まるで太った男のようである。肩にはミサイルが装備され、その攻撃力を誇示している。そして白に統一された塗装が目を惹く。
 ペンユウがマシンガンをダルスロースに向けた瞬間、相手から通信が入ってきた。
『くくく……てめぇがレイヴンだな?』
「……話をしている暇はない。見逃してくれると嬉しいが、どうしてもというなら手加減はしない」
 リンファは意識して声を押し殺し、迫力を持たせて言い放った。想像はしていたが、やはり相手の笑い声が漏れ聞こえる。
『女か……フン、女に殺されたんじゃアルバートもザマァねェな。
 まァいいさ、もう終わっちまったことだ。
 とりあえず名乗っとくぜ。俺はジョルジュ。この組織のボスだ』
 リンファは自分の耳を疑った。一体どこの組織のボスが自らACで出陣するというのか。おそらくこいつはアルバート亡き後に勝手にボスを名乗っているだけだろう。リンファはそう納得した。
『正直言ってレイヴンなんざどうでもいいんだがな……
 けじめはつけてやる。死になッ!!』
 次の瞬間、ダルスロースが動いた。肩のミサイルポッドが火を噴き、六発のミサイルが発射される!
 しかし、弾速が遅い。これならば回避は難しくない。リンファはペンユウを操り、真横に飛びすさった。そしてさっきまでペンユウが立っていた場所をミサイルが通り過ぎる……はずだった。 突然、ミサイルが90度向きを変え、ペンユウに迫った!
「うっそぉぉぉぉぉっ!?」
 どんなに叫ぼうが、この状況ではもはや直撃は免れない。リンファは直後に来るであろう衝撃に身をこわばらせた。
 ……その時!
 ガガガガガッ!
 視界の外から降り注いだガトリングガンの弾丸が、全てのミサイルを撃ち落とした。
 間髪入れず、通信が入ってくる。
『苦労してるようだな。手伝おうか?』
「ヨシュア!」
 リンファは、この時ばかりは喜びを隠せなかった。嫌な奴ではあるが、ヨシュアの腕は一流。彼が加勢すれば、まず負けることはないだろう。
 しかし、次のヨシュアの言葉にリンファは沈黙した。
『報酬、半々でどうだ?』
「……………」
『冗談だ。3割にまけといてやるよ!』
 その言葉と同時に、ペンユウの隣に青い蜘蛛のようなACが降り立った。四足タイプ特有の高機動力を誇り、肩のレーザーキャノンと武器一体腕のガトリングガンの火力は凄まじい。
[AC確認。ランカーAC『ワームウッド』]
 ――知れたことを!
 リンファは心の中で自分のACのコンピューターを罵った。
 並んでダルスロースと対峙する二機に、ジョルジュは再び通信を送った。
『そうか……そういやァ二人組ってことだったな。
 いいぜ、二人まとめてかかってこい!』
『正気か、おい?』
 ヨシュアが眉をひそめるのも無理はない。レイヴン二人を相手に一人で戦おうなど、身の程知らずな奴である。
 ダルスロースはゆっくりと、本当にゆっくりと歩き出した。あまりに緩慢な動きで、生身の人間が走った方がまだ速いのではないかと思えるほどである。重量AC最大の欠点、根本的な機動力の不足、である。その代わりに積載能力や装甲の面で優れているのだが……
 その姿は、まさに『のろまなナマケモノ』の名にふさわしい。
『遅いッ!』
 ワームウッドのガトリングガンが弾丸を放った。あの動きでかわせるはずがない。
 ……しかし、弾が突き刺さる直前、突然ダルスロースはブースターを噴かし、それをかわしきった!
『何!?』
「気を付けて! あいつ、反応がやたらいいわ!」
 ダルスロースがミサイルを放つ。さっきとは異なり、真上に数発のミサイルを打ち上げた。ある程度まで上ると、そのミサイルはペンユウとワームウッドに降り注ぐ!
 ワームウッドは持ち前のスピードでなんとかこれを避ける。そしてペンユウは……まっすぐ前に、つまりダルスロースの懐に飛び込んだ!
 ヴンッ!
 左の手の甲からレーザーブレードが飛び出し、ダルスロースを襲った!
 ――しかし!
 ダンッ!
 レーザーブレードが届く一瞬前に、ダルスロースのハンドガンが火を噴いた! 回避などできるはずもなく、三発の弾丸がペンユウのコアに食い込んだ。
「ッ!?」
 ダメージそのものは大したことはないが、衝撃ではじき飛ばされ、ペンユウは片膝を付く。そこを狙ってダルスロースのミサイルが発射された。
『リンファ、動くなよッ!』
 ヨシュアの声に驚き、反射的に操縦桿を握る手を止める。次の瞬間、ガトリングガンの弾がミサイルの全てを撃ち落とした。
 言うのは簡単だが、高速で飛行しているミサイルを撃ち落とすなど容易くできることではない。ヨシュアの腕の証明である。
 しかし今問題なのは、目の前のダルスロースだ。
「助かったわ……それにしても何なのよ、あの反応は? はっきり言って人間技じゃないわよ!?」
『……《キンドル》だ』
 ヨシュアの言葉に、リンファは凍り付いた。
 《キンドル》……化学工業系企業の大手であるヴェスタル・ファナス社が開発した能力強化薬物、アダードラッグの一種である。皮下注射すると、まず精神が高揚し、次に反射神経が異様に強化される。人間の限界を超えた超反応が可能になるが、慣習性や中毒性も非常に強く、あまりの危険性を恐れた大企業によってヴェスタル・ファナス社ごと駆逐されてしまった。
 要するに、まともに太刀打ちできる相手ではない、ということである。
「ちょっと、どーすんの? やばいんじゃないの?」
『まァ見てな』
 ワームウッドが地を滑り、一気にダルスロースとの間合いを詰める。そこを狙って六発のミサイルが同時に飛来する!
『生っちょろいんだよッ!』
 リンファは目を見張った。
 一体どういう風に操縦桿を動かしているのか……ワームウッドはミサイルとミサイルの隙間、AC一体が通り抜けるのがやっと、位の部分を縫うように駆け抜けた!
 しかし、ここからが問題だ。あの超反応をもってすればいかにワームウッドのガトリングガンが素早いとはいえ回避されかねない。
 リンファが見守る中、ワームウッドは……そのままダルスロースに体当たりを仕掛けた!
 流石にこんな原始的な攻撃がくるとは思っていなかったらしく、ダルスロースはまともに体当たりを食らい、吹き飛んだ!
 
 ――逃げなければ――
 とにかくクライドは今、それだけを考えていた。どこへ、どうやって逃げるか……そんなことは全く思いつかない。それでも逃げなければ、遠くへ行かなければ、あるのはただ死のみ。
 逃げられるはずはないのだ。イリーガル社を裏切り、おそらくプログテック社にも見捨てられるだろうし、頼みの綱のアルバートは死んでしまった。もはやどこにも……表の世界にも裏の世界にもクライドの居場所はない。
 クライドは走った。無我夢中に、ただ灯りが見える方向へ。
 息が切れる。心臓は今にも弾けそうだ。埃を吸い込みすぎて、肺までが痛み出していた。
 クライドはふと前を見た。そう、今までは前すらも見ていなかったのだが……とにかく、前に小さな灯りが見えた。
 地下駐車場から外へ出るための、スロープである。そこから外の灯りが漏れだしていた。
 クライドはスピードを上げようとした。しかし彼にできたのは、震える膝をなんとか前に出すことだけだった。疲労はもう限界だ。それでもクライドは走った。……いや、喘ぎながら前へ進んだ。
 スロープにたどり着いたときにはもう一歩も歩けないような気がしていたが、それでもなんとかスロープを登り切った。
 クライドは辺りを見回した。白い物が見えた。白い、大きな人のような形をした物。それは空を飛びながら、だんだんと大きくなっていった。近付いてきているのだ。
 吹き飛ばされたダルスロースだった。
 
 ズ……ン……
 重い音と砂煙を巻き起こし、ダルスロースは地面に倒れ込んだ。丁度そこは地下へ降りるスロープがある場所だ。もし人がいれば潰されていただろうが……この際それはどうでもいい。
『リンファ、今だ!』
「OK!」
 リンファは操縦桿に付いているボタンを思いっきり押した。マシンガンの弾丸が勢いよく飛び出し、ダルスロースの白い装甲をえぐり取っていく。
 そこにワームウッドのレーザーキャノンも加わり、爆風を巻き上げた。息もつかせぬ連射……二人がボタンから指を放したのは、ダルスロースの周りが完全に荒野と化した後だった。
「……終わった?」
『いくら重装ACでも、これだけの攻撃を耐えるなんて……』
 ――無理だ。
 ヨシュアは最後まで言い切ることができなかった。
 もうもうと巻き上がる煙の中に、白い輝きが見えたのだ。
 輝きはゆっくりと立ち上がり、人の形を取った。
 ダルスロースの装甲はいたる所で剥がれ落ち、傷口から金属骨格が痛々しく顔を見せていた。相当ダメージはあったようだが、行動不能なほどではなさそうである。
『アブねぇところだったぜ……だが、どうやらこいつの装甲のおかげで救われたみてぇだな』
 ヨシュアはちいさく舌打ちをした。どうやらこれは、厄介なことになったようである。
 というのも、ワームウッドの弾薬はもう底を尽きかけていたのである。残っているのはガトリングガン50発分と、レーザーキャノンがたったの3発。かなり余裕がない。
 一方のリンファも、レーザーキャノンは残っているもののマシンガンは既に空っぽである。
『そんだけ撃ってりゃ弾切れだろう? 覚悟しな、ゆっくりと料理してやるぜ!』
 ダルスロースのミサイルが天空へ打ち上げられた! 最上点まで上ると、ペンユウとワームウッドめがけて降り注ぐ!
「ちっくしょぉぉぉぉっ!」
 リンファは操縦桿をなぎ倒した。無理な操縦にもペンユウは俊敏に反応し、なんとかミサイルをかわしきる。
 ワームウッドも後退しながら回避行動を取った。弾薬が尽きかけていても、そのスピードをもってすれば回避はたやすい。
 ……しかし、突然ワームウッドの動きが止まった!
 ガゴォオオンッ!
 空気を振るわせ、ワームウッドの装甲が弾け飛ぶ! ミサイルは直撃である。
「なにやってんの、ヨシュ……」
 文句を言いつつリンファはワームウッドの方に目を遣った。傷つき、四本の足のうち一本が取れかけているワームウッド……その足下に、人がいる!
 リンファは映像を拡大した。茶色いセミロングの髪で、リンファと同じ制服を着ている女性……
「キャロル!?」
 リンファと別れた後で何をしていたのかと思えば、よりにもよってこんな所にいたとは。どうやらヨシュアは、キャロルをかばってわざとミサイルを食らったようである。
 やがて、ヨシュアがスピーカーを通してがなり立てた。
『速く逃げろっ!』
 かなり余裕がないヨシュアの声に、キャロルは弾かれたように走り出した。やはり生身の人間の足だけあって遅い。それでもしばらくの後にキャロルの姿は建物の陰に消えた。
 それにしてもあのヨシュアが見ず知らずの人間をかばうとは。きっと精神的に成長したんだろう、とリンファは勝手に納得した。
『くそっ……悪い、リンファ! 僕は逃げるっ!』
「……は?」
 ――前言撤回ッ!!
 ワームウッドは意外と俊敏な動きで後ろへ下がり始めた。見た目にはダメージは大きそうなのだが……もしかして本当は大丈夫なのか?
 しかし、ジョルジュもそれを黙って見逃すほど甘くはない。すぐさまワームウッドめがけてミサイルを放つ。
『食らうかッ!』
 ワームウッドは、残りのレーザーキャノン三発を近くの建物に向けて連射した。ミサイルは崩れ落ちたコンクリートに着弾し、爆発する。
 そして煙がおさまった時には、すでにワームウッドは全く見えないところまで逃げおおせていた。
 リンファのレーダーにも映っていない。どうやら移動能力はこれっぽっちも低下してはいなかったようである。
『逃げられたか……まぁいい、てめぇだけでも殺してやるぜッ!』
 ……はた迷惑な執念である。
 しかし、リンファはさっきのヨシュアの行動で、既に活路を見いだしていた。
 ダルスロースが毎度おなじみのミサイルを放つ。打ち上げ型ではなく、異様に追尾性能がいい方である。ペンユウはそのミサイルに向かって突っ込んだ。
 そしてミサイルが命中する直前、微かに機体を横にずらし、ミサイルの隙間をすりぬける!
 ――ヨシュアにできてあたしにできないはずがないっ!
 しかし、さすがは追尾性能の高いミサイル、ペンユウの横を通り過ぎた後で、百八十度方向転換する! ミサイルを後ろにしたがえて、ペンユウはまっすぐダルスロースに近付いた!
 
 ジョルジュはほくそ笑んだ。
 敵のACはダルスロースの放ったミサイルを引き連れてこっちに向かっている。どうやら映画とかでよく見る、相手のミサイルを誘導して相手自身にぶち当てる、という戦法のようである。
「見え見えなんだよッ!」
 《キンドル》のおかげで相手の動きはハエがとまりそうなくらいゆっくりとして見える。ジョルジュは慌てることなくブースターを噴かして上空へ飛び上がった。
 ペンユウは……上空のダルスロースにミサイルを誘導するのは無理と判断したのか、そのままダルスロースの足下を通り過ぎた。 ……勝った。ジョルジュは確信した。理由など特にないが、あるいはドラッグの作用で気分が高揚しているせいかもしれない。 しかし次の瞬間。
 ガッ!
 ダルスロースの機体が揺れた。何かが頭上から降ってきて、ダルスロースに当たったのである。
 このとき、もしジョルジュがペンユウの姿を見ていれば、何が起きたのかを理解できたのかもしれない。
 ペンユウはレーザーキャノンを発射して、ダルスロースの側の建物を崩したのである。その破片が、空中へ飛び上がったダルスロースを墜落させることを見越して。
 そして……ジョルジュが最後に見たのは、自分が放った無数のミサイルの姿だった。
 
 派手な爆発音を立てて、ミサイルは墜落したダルスロースに命中した。しかしこれだけではまだ不安だ。
 リンファは引き金を引いた。連射力では劣るが、単発の威力は高いペンユウのレーザーキャノンが、こんどこそダルスロースのコアを狙い違わず貫いていた。
 
 
 太陽のまぶしさも、白い帽子が防いでくれる。彼女は花畑の向こうを見遣った。大きな青い蜘蛛から、降りてくる人影があった。 彼女は大きく息を吸い込んだ。深呼吸をしても差し支えないほど、ここの空気は澄んでいる。地上でこんなことができる場所など、ここ以外にはないかもしれない。
 そよ風が彼女の茶色い髪をたなびかせた。彼女は風を頬に感じながら、蜘蛛から出てきた男が来るのを待った。
 男は、やがて彼女のすぐそばまでやってきた。彼女が真っ白な服で身を包んでいるのに対して、男は全身が真っ黒だった。コートまで着込んでいて、この陽射しの中では少し暑そうだった。
「ひさしぶり、ヨシュア」
「ああ」
 ヨシュア、と呼ばれた男は短く答えた。表情は微笑んでいたが、心の中は曇っているのだろう。彼女には、それが手に取るようにわかった。
「さっきはありがとう、助けてくれて」
「気にするな、キャロル」
 キャロルはセミロングの、茶色い髪を掻き上げた。
「姉さんの敵、討ってくれたんだね」
「シュイジンもだ」
 かつて、シュイジンという名のレイヴンがいた。仕事でヨシュアと出会い、意気投合した二人は数々の依頼を協力してこなしていった。そう、相棒と呼ぶのがふさわしい関係だっただろう。
 そのシュイジンには将来を誓い合った女がいた。名はマーサ。ヨシュアも何度かあったことがある。落ち着いているが、どこかとぼけた感じのする、かなりの美人だった。よくシュイジンを面食いだとからかったものだ。
 しかし……一週間ほど前。マーサの妹であるキャロルから、不意にヨシュア宛のメールが届いた。
 マーサが自殺した、というのだ。
 自殺の数日前、マーサが働いていたバーに一人の男が現れた。アルバート=マックスである。そして、よりにもよってマーサはアルバートに目を付けられてしまったのである。マーサは当然、なんとかして逃げだそうとした。しかし、抵抗も空しく――
 マーサは自殺した。事実を知ったシュイジンは、ヨシュアの制止も聞かず単身アルバートの牙城に乗り込み、そして返り討ちに遭って死んだ。
「でも……約束、違うじゃない」
 キャロルは顔を伏せた。輝くものが頬を伝い、落ちる。
「わたしにやらせてくれるって……言ったじゃない」
 何も、ヨシュアは言わなかった。キャロルはうつむいたまま、ヨシュアの胸に顔をうずめた。小さな嗚咽の声がヨシュアの耳に届いた。
 風が吹き抜けていく。キャロルの帽子が、風に乗って飛んだ。側の赤い花の上に、純白の帽子が横たわった。
 ヨシュアはそっと、手をキャロルの肩に置いた。まだ涙の収まらぬキャロルを優しく引き離す。
 帽子を拾い上げて、砂埃を払う。それをキャロルにかぶせた。
「人の命を背負うには、あんたの腕は細すぎる」
 ヨシュアの声は、深く澄み切って、果てしなく優しかった。
「ここで、静かに暮らすんだ。何もかも、忘れて」
 キャロルは何も答えなかった。
 その姿は悲しみに耐えているようにも、怒りに震えているようにも見えた。
 やがてヨシュアは背を向けて歩き出した。風がコートをはためかせる。花の向こうに消えていく背中を見つめながら、キャロルはその場に崩れ落ちた。大地に座り込んだまま、溢れ出してきた涙で頬を濡らす。
 涙は花の上に落ち、露のように輝いた。太陽の光を浴びて、風が微笑んでいた。
 純白の世界が、そこにあった。
 
 青い蜘蛛にヨシュアが帰り着いたとき、彼が最初にしなければならなかったのは、リンファから届いた苦情のメールを処理することだった。

THE END