ARMORED CORE 2 EXCESS

 ファンファーレ。
 見事に調和した数十のトランペット音が電子増幅を受け、街中の端末という端末から溢れ出る。そして祝砲。突然の大音響に驚く子供、待ちかねたとばかりに俯いた顔を持ち上げる男女。中央幹線とそこから分かれる第一環状幹線の沿道には、分厚い人垣が何層にも積み重なっている。道路脇の高層建築――企業ビル然り、政府官庁然り――の窓からは高みの見物を決め込んだ賢しい者どもが顔を覗かせる。
 しかしその片隅で、幾人かの老人はぐっと奥歯を噛みしめ浮かれた街を後にするのであった。裏通りの闇の中へ、何かから逃げ出すようにいそいそと。
 花火が上がった。火薬を使った本物の花火である。気の弱い子供が一斉に鳴き声をあげる。この迫力、胸の奥底を突き上げるような轟音は、ホログラフ投影と合成音ではとても再現できないものだった。
 そして白い鳩が一斉に天空へ舞い上がる。数百。いや数千。数え切れないほどの羽音。こちらはホログラフである。その有様は、遠目には白いドームのようですらあった。それを突き破って真打ちが登場する。派手に飾り立てられたパレードである。軽快なマーチに合わせて無数の車両が街を練り歩く。1kmにも及ぶ大行列。中にはアニメのキャラクターにコスプレしたMT――装甲をハリボテで覆って加工したもの――や蛍光色に輝く戦車も混ざり、衆人の笑いを誘う。
 その行列のほぼ中央、最も重要な高官が乗る車両の周りには、紅い二足ACと青い四足ACの姿もあった。
 
「見たまえよ、とんだ道化だ」
 その男はぽつりと呟いた。揶揄の言葉が口から滑り出るたび、彼の長い髪が揺れる。細い絹糸のようにさらりと流れるそれは、パレードの放つまばゆい光を浴びて明るい小麦色に輝く。そして青白い瞳もまた、硝子玉のようにぎらりと光るのだった。
 190にも届こうかという長身の、若い男である。手に弄ぶワイングラスの底には、僅かばかり残った赤黒い液体がゆらゆらとたゆたっている。ふわりと鼻をくすぐる甘い香り。普段なら彼を悦ばせるそれすらも、今宵の騒がしい行列を前にしては全く無力にすぎなかった。
「よい余興ではありませんか」
 彼に応えたのはねっとりと糸を引く深いな声だった。低く、濃く、鈍重な声。一度耳にすれば決して忘れないであろう奇妙な声である。部屋の片隅に佇んでいた灰色の男が放つ声であった。
「いつものご機嫌伺いはなしか、ノイエ」
「然り」
 ノイエの唇がにぃっと吊り上がった。その顔に奇怪な笑みが浮かぶ。両の瞳は大きく見開かれ、鋭い犬歯が唇の隙間から覗く。そしてなにより、灰色の外套を纏った全身から放つ冷たい刃物のような気配。
 彼は――クラウスは、配下であるはずのこの男に恐怖している自分に気付いた。ノイエは忠実な猟犬などではない。ただ目的が一緒だから協力しているだけ、形式上部下として動いているだけなのである。だからこそ信頼できる。ただの部下は裏切るが、ノイエは目指すところが同じである限り決して裏切らないのだから。
「民衆は平和という言葉に惹かれます。たとえそれが暴君の口を吐いて出たものであってもね」
「わかっている」
 グラスを口許に持ち上げ、クラウスは最後のワインを飲み干した。
 苦い。今日はやけに、そればかりが舌に残る。ワインが悪いわけではない。普段飲んでいるものと同等、あるいはそれ以上の良質なものである。しかし消えることのないぴりぴりとした苦味。おそらくこれから起こることを予感しているのだろう、とクラウスは考えた。彼の舌は敏感だ。様々な味、臭い、女の感情、そして未来までも感じ取ってしまう。
「何があった」
 問いかけられ、ノイエは闇の中で薄ら笑いを浮かべた。先の楽しそうな笑みとは違う。そこには何の感情もない。うすっぺらい紙のような笑顔である。これがノイエにとっての愛想笑いなのだろう。
「『スフィクス』が一体奪取されました。奪ったのはギア研究班のルドルフ・フォーゲル」
 瞬間、クラウスが弾かれたように顔を上げた。ノイエが事も無げにあっさりと言い放ったこと、それは彼らの命運が風前の灯火であることを示すものである。『スフィクス』は絶対に必要なものだ。彼らが『組織』にとりいるために、そして――
「ご安心を」
 主の動揺を感じ取ったのか、あるいは。ノイエの笑みは片時も絶えることがなかった。凍り付いた蝋人形のように静止して、ただじっと闇を見据えているのであった。いや、彼が見ているのはその向こう。浅はかな闇を越えた先にある、何人も立ち入ることのできない狂気の深淵である。
「全ては、我が手の内に」

HOP 6 The exclusive Tower

象牙の

「なんだかなぁ、なんかちょっとなぁ」
 操縦桿を倒したり上げたりひねったり、トリガーを引いたり離したり。ウェインはしきりに、新しくなった愛機の具合をがちゃがちゃ試していた。無論操縦は自動設定にしてあるので、操縦桿をどう動かそうが影響はない。青い四足ACは、パレードの進行に合わせてゆっくりと道路を滑っていく。目の前には護衛対象となる車両、その前にはユイリェンの駆るペンユウの姿もある。
 今の機体はあなたに向いていないわ。突然ユイリェンがそんなことを言い出して、あれよあれよという間にワームウッドを改造してしまったのである。大昔の伝説のレイヴンに似せて造った青い四足ACは、ほとんど原型を止めないまでに変貌してしまった。
 マシンガン内蔵型だった腕部は通常マニュピレータに換装され、代わりに右腕にマシンガン、左腕にレーザーブレードを持たせる。必殺の兵器であったレーザーキャノンも連装ミサイルと交換し、コア内部にはミサイルを誘導する浮遊デコイ弾まで装備されている。
 ああ。ウェインは溜息を吐いた。もはや彼の愛機には彼の趣味など全く反映されていないのであった。しかし反論することもできない。射撃が下手、回避が下手、格闘戦の方が得意――ユイリェンが指摘したウェインの性質は、自分でも痛いくらいに自覚していることだったのだから。
「なんだかなぁ」
 それでも彼は、ぼやかずにはいられないのだった。
 
 ユイリェンは鬱陶しそうに眉をひそめた。それでも手に持った科学雑誌からは目を離さない。アルケミスト――フォトサイエンス社の論文系学術雑誌――には、火星における現行レクテナの稼働効率と地球におけるそれとの対比による経済的価値とからめた設置規模の算定実験に関する論文が掲載されている。火星開発特集記事の一環である。その隅の方に木星開発の可能性について述べた論文も添付されており、それがユイリェンの目を惹いた。
 しかし彼女の好奇心は、相棒のぼやきによってかき乱されるのである。なにしろ護衛任務の最中である。いつでも連絡が取れるように通信は開きっぱなしにしてあるのだが、おかげで聞きたくもない愚痴が漏れてくる。
「気に入らないなら」
 ぱたんと雑誌を閉じて、ユイリェンは軽く溜息をついた。
「後で直しておくわ」
 座席の後ろにある収納スペースを開き、中に雑誌を放り込む。普段は工具や長期戦のための食料を入れる場所である。精々カバン一つ分程度の容量しかないが、変B5版の本を入れる分には不足はない。
 改めてユイリェンは周囲を見回した。豪華なパレード、沿道を埋め尽くす見物客、ビルの壁に反射してただの騒音となり果てたマーチ。それが全て自分に――自分が乗っている愛機ペンユウに集まっているような気がした。真紅の塗装に身を固めたペンユウはパレードカーにも引けを取らない派手派手しさだったし、実際彼女の方を向く視線も少なくなかった。普段兵器をみることなど滅多にない民衆にとっては、ACの物珍しさだけでも十分に魅力的である。
『あ、いや、気に入らないとかそうじゃなくて』
 ウェインは慌てて訂正した。彼がよくやることだった。何か言いかけて、ユイリェンの気に障ると感じたらすぐに取り消す。人の顔色ばかりうかがっている――それは彼の人の良さを示すものではあったが、同時にそのことが肝心なものを遮ってしまっているのだった。
『なんていうのかなぁ、俺にも結構こだわりとかあって……その』
「はっきり言えばいいわ」
 ユイリェンに冷たく一蹴され、彼は思わず黙り込んだ。なんだかんだと言っても半年の間寝食を共にした仲である。お互いについて多少は心得があるのだ。ユイリェンはウェインの言いたいことなど手に取るようにわかっていたし、ウェインにも彼女が自分の意図を理解しているということがわかっていた。
『……伝説のワームウッドに似せて造ってたんだ。憧れてるんだよ。なのに』
 
「やっぱ酷いよ。勝手に変えちまうなんて」
 胸の奥にあるわだかまりを、ウェインは必死に吐き出した。それでも言葉は歯の裏側で力を失って、口を出る頃には弱々しい呟きになってしまうのだった。後に残るのは不安だけだった。こんなことを言って、ユイリェンが機嫌を悪くするんじゃないだろうか。嫌われるんじゃないだろうか。そんな否定的な考えばかりが頭を汚していく。
 ウェインは誰とも争いたくないのだった。自分のせいで争いが起こるのが耐えられないのだった。口を開けば誰かを傷つける。腕を振り上げれば誰かを傷つける。それが嫌だから、彼はいつも無難な言葉で水を濁し、曖昧な笑顔で気を紛らわせる。それでも時折、抑えきれない激情が溢れ出てしまう。それが嫌で仕方なかった。
『気に入らないのなら、後で直しておくわ』
 さっきと同じ事を、同じ調子で彼女は繰り返した。
『私はただ、あなたが……』
 
 はっと気付いてユイリェンはうつむいた。一体何を言おうとしていたのか、おぼろげにも思い出せなかった。言葉をつまらせた瞬間に忘れてしまったのである。もしかしたら、あえて忘れようとしていたのかもしれない。
「あなたが使いやすい方がいいと思っただけよ」
 それでお互いだんまりだった。さっきまでの愚痴も、ぱらぱらとページをめくる音も、すっかりコックピットから消え失せていた。妙な気分だった。もう話題がない、それだけのことだ。なのにどうして、こんなに息苦しいのだろう。僅かに指先を動かすことさえはばかられる空気がそこにある。
 どうしようもなく重苦しい沈黙をうち破ったのは、外部から入り込んだ通信だった。
『護衛部隊各機に通達。都市外周部より飛行MT多数接近中。臨戦態勢に入れ』
 敵。その通信を聞くなり、ユイリェンは操縦桿に手をかけた。丁度よいタイミングだった。いいかげん、まるで棺桶の中のような空気には辟易していたところである。戦闘をしていれば気も紛れる。
『敵機はコバヤシコーポレーション製可分離MTエアーシャーク、機数24。所属はグリーントルーパー』
『おいおい』
 思わずウェインが声をあげた。この程度で驚いてもしかたがないことである。テロリストがどこの製品を使おうとも自由だし、それが企業の責任となるわけでもない。
 それより驚くべきなのはこんな高級機を24も揃えてきたことである。エアーシャークは可分離型、飛行ユニットを装着して長距離航行をした後、それを切り離しての地上戦が可能なタイプである。性能は申し分ないがその分価格は高く、複雑な構造のおかげで整備にも手間がかかる。とてもコストパフォーマンスが高いとは言えない代物である。おそらく全機で1000万は下るまい。
 本来ならテロリストに手の出せる価格ではない。グリーントルーパーは地球環境保護という奇抜な旗印をかかげていることで有名だが、具体的にそれほど大きな騒ぎを起こしたという記録はない。テログループの中でも規模は小さい部類に入るはずである。
 そうなると、何者かが後ろ盾になっていると考えるのが自然である。無論それが誰なのかなど、ただの傭兵には関係ない話ではあったが。
『各機、GP隊形で展開。車両護衛を最優先とせよ』
 そのとき、ペンユウのレーダーが敵影を捉えた。
 
「ユイリェン、座標ちょうだい。もう入ってる?」
『今送ったわ』
 さすがに仕事が速い。ウェインは思わず苦笑した。少々気まずくなったとしても、戦闘が始まればいつも通りである。そういう意味では争い事も歓迎できるのかもしれない。
 ペンユウのレーダーが捉えた敵座標がワームウッドに送られてくる。キーボードを軽く叩いてそれをFCSに登録していく。レーダー範囲の違いから、いつも敵影を先に捉えるのはペンユウの方である。だからこうして座標だけ受け取り、早い内から登録を済ませておくのだ。ウェインの弱点――プログラムの遅さ――をこうして補っているのである。
「ごめん、ユイリェン」
 手は止めず、ウェインはぽつりと呟いた。
 
 何かミスでもあったのだろうか。ユイリェンはふと顔をあげた。
『やっぱ俺、この機体使ってみるよ。せっかく作ってくれたのに、ふいにしたくないからさ』
 しばらく彼女は呆然と聞いていたが――やがて顔をうつむけて、ふっと微笑んだ。馬鹿馬鹿しい、そんなことをまだ悩んでいたなんて。それでも何かが可笑しかった。どうしようもなく馬鹿馬鹿しいはずなのに、嬉しいような楽しいような、不思議なあたたかさがそこにあるのだった。とてつもなく重い何かに引き寄せられているようで、さっきとは違う息苦しさがあって、ユイリェンにできたことはただ小さく、そう、と相づちを漏らすことだけだった。
 
 これでようやく、胸のつっかえがとれた。安堵の溜息をつきながら、ウェインは操縦桿にてをかけた。
「さあ」
 新しくなった愛機に思いを馳せる。こいつには新しい名前が必要だ。いいのをつけてやらなければならない。こいつはもう伝説の模造品ではなく、彼自身の心強い相棒なのだから。
 ……『ダガー』。それが新しい名前。『ワームウッド†』。
 呼吸を整え、モニターを睨み付ける。ようやくワームウッド†のレーダーにも敵影がちらほらと映り始める。戦いは近い。自分の脈拍も、呼気も、指先の感触も、何もかもが戦いの方向を向いている。そして彼は一気に息を吐き出した。
「行くぜっ!」
 
 
 
 男は暗い路地を駆け抜けた。両腕で黒いブリーフケースを抱きしめて、もつれそうになる脚を必死で前へと押し出していく。背後に聞こえる喧噪は、終戦記念日のパレードである。賑やかで軽快な音がやけに憎たらしく耳を突く。遠くで響く音は、どんなに軽やかなメロディであってもなぜか寂しく聞こえるのである。自分だけが楽園から取り残されたような、奇妙な孤独感がそこにある。
 彼は濃い茶色の短髪と、黒く澱んだ青色の瞳を持っていた。歳の頃は30前、ダークグレイのスーツがようやく似合い始めた頃である。細面で目つきが鋭く、歳よりは多少若く見える。
 路地を抜けた先は人影の全くない脇道だった。普段なら通行人もいて然るべきだが、今宵の祭りに人々は引きつけられているのである。たとえいたとしても、数ある路上駐車車両の一台などは気にも留めないだろう。
 ただ一人、その男を除いては。
 男はさりげなく周囲の様子をうかがいながら、道の脇の停車した黒い乗用車に歩み寄った。抱いていたブリーフケースは左手に持ち換え、あくまで自然な会社員を装う。もっともその額に浮いた冷や汗を見れば、ただごとでないことは一目瞭然なのではあるが。
「中へ」
 後部座席の脇まで近づくと、中から低い男の声がした。それと同時に音もなくドアが開く。男は一瞬ためらってから車の中に入り込んだ。
 途端に高級な煙草の甘い香り――煙草を吸わない彼でも不快に感じないほどの――が彼の鼻を衝いた。できるだけ音を立てないように彼は慎重にドアを閉めた。例のケースは丁寧に膝の上に乗せる。
 車内にいるのは、彼の他に二人。運転席と後部座席に一人ずつ、多少色の違いはあれども彼と似たり寄ったりの服装をした目立たない男である。しかし彼らの放つ異様な気配、殺意にも似た警戒の視線は、彼らがただの会社員などではないことを如実に物語っていた。
「望みの物はここにある」
 言いながら男はブリーフケースを右の手のひらで撫でた。冷や汗が止まらない。こうしている一瞬にも、見つかるのではないかという思いが拭えない。ひょっとしたら自分は尾行されていたのではないのか。次の瞬間にでも、横手から突然現れた拳銃が自分のこめかみを撃ち抜くのではないか。不安だけがもくもくと膨れあがっていく。
「中を確認する」
「だめだ」
 後部座席の男が伸ばした手を、彼は慌てて払いのけた。毅然とした目つきで横の男を睨み付ける。
「こいつは光に弱い。熱にも、冷気にも、衝撃にもだ。このケースを開けた途端に全ては終わる。中を見たいなら温度調整した電波暗室で、対CBR装備をしてからだ。
 頼む、信用してくれ。第一あんたたちを裏切ったって僕にはなんの利益もないだろう。僕はただ、こいつを封印して家族と静かに暮らしたいだけなんだ」
 隣の男は黙って彼の話を聞いていたが、やがて懐から三枚のカードを取り出した。それを半ば押しつけるように、彼の手に渡す。彼は不思議そうに手の内にあるカードを見つめた。
「これは?」
「三人分の偽造IDだ。以後はそれを使え。お前の家族は郊外の廃屋にいる。これから二日はそこに身を隠せ。望み通り二日後のマリネリス便に席を取っておいた。それから」
 事務的な口調で説明しながら、男はさらに一枚のカードを彼に手渡した。こちらはどこでも見るマネーカードである。彼ははっと顔をあげた。
「1000万入っている。好きに使え」
「こんなもの、僕は要求していない」
「我々は仕事に対して正当な報酬を支払う。お前の働きに1000万では不足だが、あまり高額では怪しまれるのでこれだけだ」
 彼は息を詰まらせた。これだけ、で1000万とは豪儀なことだ。これだけあれば働かなくても喰うに困ることはないだろう。無論、拒否する理由もない。彼はIDカードと一緒にそれをポケットの中に押し込んだ。
 しかし彼は知らない。自分の仕事の正当な価値というものを。彼はこの100倍の額を請求しても、決して妥当とは言えないのである。仕方のないことだった。彼はケースの中身を、とてつもなく危険なゴミ程度にしか認識していないのだから。
 彼はブリーフケースを持ち上げ、静かに男の方に差し出した。男が両手でそれを受け取るのを確認してから、ゆっくりと手を放す。そして彼は一言付け加えた。
「一つだけ、保証してくれ」
 彼の瞳は使命感で溢れていた。彼が成さねばならない。これは天が彼に与えた使命――いや、彼の業を償うために必要な贖罪なのである。
「そいつは絶対に世に出さないと。固く封印して、誰にも触れさせないと」
 男はしばしの沈黙の後、答えた。はっきりと、自信に満ちて。
「保証しよう」
 
 
 
「車両の護りをお願い」
 近づきつつあるレーダーの光点を横目に見ながら、ユイリェンは相棒に通信を送った。
『ユイリェンは?』
「飛び込んで攪乱するわ」
『了解』
 そうこうしている間に敵影は目前まで迫ってきている。きゅうう、という甲高い悲鳴のような音。飛行MTが風を切る音である。少しずつ音は大きくなり、やがて爆音が頭上を駆け抜ける。ビルの間の空を一瞬横切ったのは、まぎれもなく敵のMT部隊である。
「着地までに半分減らして」
『無茶言うぜ』
 MT部隊は空中を旋回して、道路と平行に飛行する。平べったい無数の三角形が空を飛ぶ姿は、まるで海中を泳ぐエイか何かのようであった。その優雅な三角形の中で炸薬が弾ける。切り離された飛行ユニットの残骸が、ゴトゴトと地上に落下していく。運悪くそれが命中したらしいパレードカーの一つが、バチッと火花を上げて停止した。途端に巻き起こる悲鳴、怒号。見物人たちは我先にと裏路地へ飛び込み、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
 やがてMT部隊の降下が始まった。24機の内6機ずつがパレードの最前列と最後尾に降下し、残りは中央部――つまりユイリェン達のいる辺りに飛び込んでくる。やはり狙いはこの辺りの高級官僚たちらしい。
 見え透いたことを。苦笑しながらユイリェンは無造作に引き金を引いた。
 どんっ!
 爆音が夜の街に響き渡る。ペンユウの放ったエナジーバズーカの砲弾は、高速落下するMTを完璧に捉えていた。その音が引き金となり、パレードの各部から対空砲火の嵐が巻き起こる。パレードに扮装していた護衛機が一斉に動き始めたのである。回避もおぼつかず、次々と撃ち落とされていくMTたち。機体は高級でも、どうやらパイロットは素人同然のようである。
 ユイリェンの指は絶え間なく動く。目標を捉えるたび、ろくに狙いもせずに引き金を引き――そして敵機がまた一つ火花となる。敵部隊の降下が完了するまでの10秒ほどの間に、彼女は既に5機ものMTを撃墜してしまっていた。
『凄いなぁ、相変わらず』
「そっちは?」
『2機だけ』
 ウェインにしては上出来である。これで12機いた敵機は、半分以下の5機にまで減少した。あとは敵陣の中心にユイリェンが突撃して、分散したところをウェインが各個撃破すれば終わりである。
 きゅうぅ。ペンユウが泣いている。青い光がその背に灯る。最大限まで蓄積したエネルギーを、ペンユウは一気に吐き出した。過加速走行に突入した機体がガクガクと振動する。圧倒的速度で突進する機体の中にあっても、ユイリェンは眉一つ動かすことすらなく操縦桿を握っていた。
 その動きに気付いたMTたちが一斉に射撃を始める。しかし撃ち出された徹甲弾はペンユウのシールドにはばまれ、あらぬ方向へとはじき飛ばされた。
 ユイリェンの手が操縦桿を離れ、キーボードの上で踊った。腕部のリミッターを一時解除し、シールドユニットに過剰電力を出力する。力を増したレーザーは下腕全体を覆うまでの大きさに膨れあがった。
 左手で再び操縦桿を握る。MTに向かって全速で突進しながら、ペンユウは大きく左腕を振り上げた。
 次の瞬間、拳と共に叩き付けられた高出力のレーザーが、MTの装甲を粉々に打ち砕いた。シールドも原理はレーザーブレードとほぼ同じ。リミッターを解除する手間はあるが、うまく使えばこういう攻撃も可能なのである。接近戦においてはバズーカよりも有効だ。
 ペンユウは過加速走行を解除し、ブースターを逆噴射してその場に停止した。背後にいたMTがその背を狙って銃口を向ける。
 
 ずふっ。
 次の瞬間、生々しい音をたてて光の刃が装甲に食い込んだ。そのMTは、不運にもユイリェンを狙ったばかりに寿命を縮めたのである。ワームウッドの左腕から延びた、青白いレーザーブレードによって。
「ダセェな、まったく」
 ブレードを消し、ウェインは周囲の様子を確かめた。自分を中心とした円周上に、残るMT3機が並んでいる。さらに悪いことには――今の行動が気を惹いたのか、銃口は全て彼の方を向いていた。
「マジ?」
 銃弾が三方から同時に迫る。鎖のように連なった機関砲弾は容赦なくワームウッドに降り注いだ。慌てて操縦桿をひねり倒すウェイン。それに反応した愛機がぐるぐると身をひねり、どうにか全ての弾を回避する。我ながら見事な操縦である。おそらく二度と同じ操縦はできないだろうが。
 そのとき、爆音が遠くで響いた。彼を狙っていたMTの一機が弾け飛ぶ。エナジーバズーカの砲撃を受けたのである。そしてもう一発、二発。銃撃が止んだ。もはやこの近辺のMTは、全て鉄くずと化したようである。
 
『悪い、助かった』
「そう」
 気の入らない答えを返し、ユイリェンは胸にため込んだ息をふっと吐き出した。前方と後方で攪乱にあたっていた部隊も既に全滅し、今回の護衛任務はこれで一段落である。しかし――
 心に何か引っ掛かるものを感じながら、ユイリェンはただじっとモニターに映る光景を見つめ続けていた。
 
 
 
 車は静かに走り続けた。輝かしいハイライン・シティを抜け、虚しい荒野の中に延々と延びる道路の上を。一体どこまで行こうというのか、男には分からなかった。ひょっとしたら自分は夢でも見ているんじゃないのか。そんな気がしてくる。ただその微かなまどろみも、同乗している二人の企業工作員と、ポケットの中のカードたちがあっさりと否定するのだ。
「まだ」
 沈黙に耐えきれなくなって、男はついに声をあげた。しかしその途端に首でも絞められたかのように息苦しくなって、つまらない問いかけはそこで途切れてしまった。同乗者たちは身動き一つしない。なんだか怖くなって、男は慌ててぼそぼそと体裁と整えた。
「まだ、着かないのか」
「あと十分ほどだ」
 事務的な口調で答えながら、工作員は懐から小型のGPSを取り出した。男にそれを手渡すと、乱れたスーツの裾を何事も無かったかのように整える。
「森にさしかかったあたりで降ろす。あとはそれに従って進め」
 GPSの小さな小さな画面には、頼りない赤い輝きがぽつんと灯っている。現在位置は中央に固定され、進むべき方向は淡い矢印で示される。縮尺がよくわからないが、森の中のかなり奥まった場所に目的地はあるらしい。
 ウルリケ。エルウィン。彼は妻と息子の名を呼んだ。二人には悪いことをしてしまった。きっとろくな状況説明も受けずに連れ出され、森深い廃屋に閉じこめられているのだろう。さぞ心細いに違いない。許してくれ、これは必要なことなんだ。彼はそう自分に言い聞かせた。
 やがて車は、道の真ん中で停止した。すぐそばには鬱蒼と繁る森がある。このまま道路は針葉樹の森を突き抜け、ロッキー山脈を越え、五大湖北岸を走り、果ては東海岸にまで達するのだ。とはいえ山脈のおかげでこの道路を使う者などほとんどないのだが。
「降りろ」
 工作員は苛つきながらそう言った。
「降りろ」
 二回目は最初よりも低い声であった。男は馬鹿みたいに口を開いて、ああ、と相づちを打とうとしたが、カラカラに乾いた喉は決して震えようとはしなかった。ただ間抜けに呼気が通り過ぎていくのみである。仕方なく男はごくりと唾を飲み込むと、静かにドアを開き、車の横に降り立った。
 ドアが内側から閉められる。車は速やかに加速すると、華麗にUターンして元来た道を引き返していく。その後ろ姿を見送りながら、男はああと声を漏らした。なぜか今度は声が出た。ああ。これで僕の役目も終わりなのか。
 男の顔を白い光が照らした。東の山肌が少しずつ白んでくる。ようやく夜が明ける。彼にとっては実に都合の良い朝日だった。夜中に森に入るなど自殺行為だが、日中であればどうとでもなる。あの工作員たちはそこまで計算していたのかもしれない。
 ポケットの中のカードと右手のGPSを交互に確かめ、男は森へ向かって歩き出した。家族に会える。それだけで、さっきまで曇っていた心が嘘のようだった。夜が明けたように、彼の心も明るく開けていくのだった。そう、彼の役目はもう終わったのだから。あとは火星へと逃げ
 どん。
 それは耳を劈く轟音だった。それと同時に、朝日よりも遥かに強い閃光が彼の背中を照らし出した。熱風が砂煙を巻き上げながら吹き抜けていった。彼の全身から、せっかく収まっていた冷や汗が一気に吹き出した。
 ゆっくりと、彼は振り向いた。赤。まず見えたのは赤だった。そしてもうもうと立ち上るグレイ。下に転がっているのは、あまりにもちっぽけで、歪み、捻れ、バラバラになった黒。
 ――彼がついさっきまで乗っていた乗用車の残骸だった。
 あの黒い乗用車が、爆発か何かを起こして炎上しているのだった。電気自動車だからさほど大きな炎はあがっていない。それでも遠くから眺める惨状はとても哀れで恐ろしく、まるで得体の知れない抽象芸術のような畏怖を彼に与えるのだった。
 もぞっ。炎上する車体の影から、何か黒いものが這いだした。あの工作員だ。運転していた方か、後ろで世話をしてくれた方かはわからない。しかしまだ生きている人がいる。そう思った途端、彼は走り出していた。一直線に車へ向かって。
 頬を突き刺す熱気に耐えながら、彼は地面に蠢く工作員に駆け寄った。顔は黒くただれ、服も焼け焦げている。彼は医者ではないが一目でわかる。おそらくもう長くはないだろう。
「おいっ!」
 工作員を抱き上げ、彼は目一杯叫んだ。工作員の目がうっすらと開く。ひゅー、ひゅーと口笛のような息づかいが聞こえてくる。男は昔見た戦争映画を思い出した。死をリアルに描きすぎて、年齢制限がかかったやつだ。なんてことだろう、あれは全部嘘だったのだ。所詮映画、創作だったのだ。本物の死は、あんなに劇的なものじゃない。静かで、そして不気味極まりないものなのである。
 工作員の腕がぴくりと動いた。黒いブリーフケースを固く握った腕が。男は悲しくなった。こんなになっても、なぜこいつは任務に忠実なのだろう。ともすれば叫び出しそうになるほどの不安を胸の中に押さえつけ、男は工作員からブリーフケースをもぎ取った。そのまま工作員を寝かせ、ゆっくりと立ち上がる。
 ひっ、と男は悲鳴をあげた。左の手のひらにべっとりと血が付いている。手だけではない。膝にも、胸にも、赤くてどろどろした液体がへばりついている。あわてて男はスーツの裾で手を擦った。それで血は取れたが、ねとねとした不快な感触は決して取れなかった。
 そして、彼は見た。立ち上る黒煙の向こう、ゆらめく巨大な影を。
 男は後ずさった。何かがいる。向こう側に、大きな何者かがいる。車は爆発したのではなかったのだ。爆発させられたのである。何者かの、おそらくは巨大兵器の攻撃を受けて弾けたのである。そいつが狙っているのは、多分――いや間違いなく彼の持つこのブリーフケースなのだ。
 ぎらり。煙の中で、赤い瞳が彼を睨み付けた。
「ひあぁっ!」
 転びそうになりながら、彼は踵を返して一気に走った。森の中へ、家族の待つ場所へと向かって。これは渡してはならない。返してはならない。闇の中に、固くよろって、決して誰も触れられないようにしなければならないのである。
 そして彼は、緑深い森の中へと駆け込んだ。
 
 
 殺してくれ。
 うう、ううと彼は呻いた。最初は何のことだか理解できなかった。彼は全くの獣であった。しかし時が過ぎるにつれ、世界の様子を見つめるにつれ、彼はだんだんと自分が変化したのだということに気が付いていった。四つ足で這い、吐息はうなり声となり、両の瞳が赤く不気味に輝く。彼は自分がもはやすっかり変貌してしまい、彼ではない『何か』になったのだと理解した。ただ一つだけ、変わることのない黒い肌だけが、彼が今だ彼である証拠であった。
 殺してくれ。
 彼は哀願した。彼の新たな肉体は彼の意志と関係なく動いていく。光すらとどかぬ森の中を、一歩一歩進んでいく。その度に彼は心の奥底がかき回されるような感覚を抱いた。彼がもし博学であれば、自分の脳の中枢が勝手に使用されているということに気付いただろう。自分が既に兵器の一部でしかないということにも。
 そして、過去の記憶が彼の脳裏を去来した。『組織』。仲間たち。ラウム社。紅。紅いAC。黒髪の女。灰色の――
 どぐん。
 彼の心臓が脈打った。失ったはずの心臓が脈打った。それは彼が元々持っていたものではなく、この新しい肉体の心臓であった。なんということだ。心の内側だけではなく、表層までも蝕まれてしまったのだということに彼は気付いた。彼は完全にこの獣と一体となったのだった。彼と一緒に、この肉体も恐怖しているのだから。
 ――灰色の男。
 彼は吼えた。殺してくれ、と。
 
 
 ざっ。
 足が夜露で濡れた蔦に滑り、彼は斜面を転げ落ちた。土を削り、か弱い草花を引きちぎりながら、3メートルほど転がったところで彼の体がようやく止まる。山歩きなど一度もしたことのない彼にとって、この森はあまりにも残酷だった。しかし行かなければならないのだ。ううと呻きながらも、地に手を付いて立ち上がる。
 彼、ルドルフ・フォーゲルは、手に持ったGPSのみを頼りにかれこれ4時間ばかり森の中をさまよい歩いていた。夜も明けたというのに木々に阻まれ辺りは薄暗く、湿った苔の臭いが鼻を衝く。背筋を駆け抜ける薄気味悪さに、ルドルフはぶるっと肩を震わせた。スーツの汚れも手の擦り傷も気にならなくなっていたが、まだこの冷たい空気にだけは慣れることができないでいる。
「エルウィン」
 その名前はまるで呪文のようであった。彼の肉体はもはや限界にまで達していたが、その名前だけが薄れそうになる彼の意識を必死に引き止めるのだった。あの木の向こう、あの闇の向こうに息子がいる――そんな幻想が、彼の最後の糧となっているのである。
 ブリーフケースを握りしめ、彼は再び足を踏み出した。足は痛み、今にも腐り落ちそうだった。喉が干涸らび、脆くも崩れそうだった。それでも彼はちっぽけな画面の示す先へ、新たな一歩を踏み出した。目の前の大木を避け、その向こうへ。そして。
 森を切り開いて作られた草原の中に、半分朽ちかけた洋館が佇んでいた。
 
「ウルリケ」
 軋むドアを押し開けて、ルドルフは廃屋へと足を踏み入れた。中は薄暗く、カビと埃の臭いが混沌とたゆたっている。内装はまるで時代錯誤で、見る者に古代ヨーロッパの貴族の屋敷を思わせる。赤い絨毯も壁掛けの肖像画も、埃さえかぶっていなければ立派なものだったのだろう。
 辺りはしんと静まりかえり、ルドルフの呟くような呼びかけだけが虚しく反響する。
「ウルリケ!」
 残る力の全てを振り絞り、彼は腹の底から大声でがなりたてた。
「エルウィン! いないのか!」
 しかし声に応えるものは何もなかった。彼はああと溜息をもらしながら、力を失ってその場に座り込んだ。妻と子は一体何処へ行ってしまったのだろう。目の奥からじんわりと熱いものが染みだした。もう一歩も動けそうにない。意識がだんだんと薄れていく。暗い暗い闇の中へ落ちていく――
 その時、小さな物音が彼を闇の底から引きずり出した。
「……パパ?」
 か細く、甲高い声。まだ声変わりもしていない少年の声である。ルドルフは顔を上げた。そして見た。古びた洋館の奥、赤茶けた扉の影に立つ少年の姿を。綺麗な黒髪と、黒い瞳。知っている顔だった。待ち望んだ顔だった。探し求めた顔だった。
 彼の息子、エルウィンだった。
「エルウィン」
「パパ!」
 エルウィンは一目散に駆けた。暗く心細い空間の中で、ずっと待っていた助け人にむかって。そのまま彼は、膝立ちになった父に抱きついた。涙が止まらない。男の子だ、泣いちゃダメだ。そう思うのに、瞳の奥からは止まることを知らない洪水が押し寄せてくるのだった。
 父は優しく息子の頭を撫で、呟いた。
「すまない。少し遅れてしまった」
 ややあって、奥からこつりと靴音が響いた。固い靴音だった。目を細めて奥を見遣ると、そこには思った通りの女がいる。瞳一杯に驚きと喜びを湛えて、こちらをじっと見つめる女がいる。たった一日会っていないだけの妻だが、込み上げてくる感傷は十年分はあっただろう。
「ルドルフ!」
 妻、ウルリケは夫に駆け寄った。ずっと心細かった。突然家に押し掛けてきた黒服の男たちにさらわれ、こんな森の奥に放り出されたのである。ルドルフがここにやってくる、それまで待て。黒服が言い残した一言だけを頼りに、気が狂いそうになる時間を過ごしてきたのだ。
「これは」
 夫を抱きしめることも忘れ、ウルリケは涙声で問いかけた。
「どういうことなの、一体」
 息子の頭を撫でながらルドルフは立ち上がった。怖かった。真実を伝えたとき、家族は自分を受け入れてくれるだろうか。いつのまにか悪魔に魅せられていた愚かな男を。しかし恐れていてはいけないのだ。その告白が、たとえ自分自身を地に落とすものであったとしても。
「今まで、研究のことを詳しく教えたことはなかったね」
 彼の瞳は決意の色で満ちていた。静かで鋭い視線を、妻も真っ向から受け止める。
「僕が造っていたのは――悪魔だ」
 
 
 
 すう。
 柔らかな寝息が狭苦しい空間の中でそっと横たわっている。ウェインはハンドルを握ったまま、だんだんと自分の体が火照ってくるのを感じていた。ACを積んだトラックで家に帰るまでの間は、彼とユイリェンの二人きり。そして彼女は任務の疲れからか、ドアに寄りかかってすうすうと心地よさそうに眠っているのである。
 ウェインはちらりと助手席を盗み見た。ユイリェンの寝顔は安らかで、普段の冷徹な仕事ぶりを微塵も感じさせない。その姿はまるでただの少女のようであった。襟の隙間から白いうなじが覗き、流れるような黒髪がそれを再び覆い隠す。
「こうして見てるとほんと」
 正面に向き直り、ウェインは軽く溜息を吐いた。
「ただのかわいい女の子、なんだけどなぁ」
 不思議な心地がした。ユイリェンは今、自分のすぐ隣で眠っている。無警戒に、安心しきって。初めてあった時、彼女は恐ろしい敵だった。機械のように冷静な判断、人間とは思えない正確な動き、常人を遥かに越えた加速度への耐性。ユイリェンは強い。彼は以前アリーナトップクラスの対戦を見たことがあるが、あのレイヴン達とユイリェンのどちらが強いかと聞かれたら、間違いなく隣の少女を指さすだろう。実験機『ペンユウ・トゥー』の性能を差し引いても、である。
 しかし今や、彼女は誰よりも弱いのである。もしウェインが今ナイフを抜いて彼女に襲いかかれば、簡単に息の根を止めることができるだろう。もっと別な襲いかかり方もある。それなのにユイリェンは眠っているのだ。こんなにも心地よく。
 ユイリェンの中には、彼女ではない誰かが居るのではないか。ウェインにはそう思えてならなかった。決して彼女と切り離すことの出来ない誰かが。
 彼の思考は突然に中断された。進行方向に黒い何かがある。かなりの大きさを持つそれは、道の真ん中を完全に塞いでしまっていた。それが焼け焦げ、横転した車だということに気付くにはしばらく時間がかかった。周囲にはその残骸も散らばっている。
「おいおい……事故か?」
 誰にともなく呟きながら、ウェインは車の手前でトラックを停めた。トラックを降りて黒こげの残骸に近づいていく。アスファルトで舗装された道を歩くたび、ざりっという摩擦音が不快に響く。金属の破片のようなものが辺り一面に散乱しているのである。
 とがった欠片を踏まないように気を付けながら車の裏へ回り、そこで彼は絶句した。
 二つの黒い影。男が倒れている。全身が焼け焦げ、奇妙な酸っぱい臭いを放っている。慌てて駆け寄り、ウェインは手近な一人を抱き起こした。しかし男の腕と首は力無く垂れ下がり、皮膚は水ぶくれで醜く腫れ上がり、指先一つとして動かない。
 目を伏せながら、ウェインは彼をそっと横たわらせた。立ち上がって辺りを見回すが、やはり他に生存者らしき姿はない。
 そのとき、ばたん、とトラックのドアが音を立てた。見ればそこには眠たそうに目を擦るユイリェンの姿がある。どうやら騒ぎに感づいて起きてしまったようである。彼女はあくびをかみ殺しながら車の残骸に歩み寄り、二つの焼死体を見つけて一瞬だけ眉を歪めた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「起きてたのよ」
 妙に艶めかしい声で呻きながら、ユイリェンは背伸びをした。まだ微睡みの中にあった意識が現実に引き戻される。それと同時に、焼けた鉄の刺すような臭いが鼻を衝いた。もはや車は原型を止めないまでに破壊されている。三つもの大穴を穿たれて。
「AC規格のS型ミサイル。三発……」
 ひょいと脇に目をやると、そこには半径一メートルほどのアスファルトを削り取った穴があった。
「四発」
 閉所での戦闘ではかえって邪魔になるため、AC規格のミサイルは近接信管を採用していない。そのため戦闘機や戦車のそれとは弾痕から容易に見分けがつくのである。
「わかるの?」
「ただのかわいい女の子じゃないもの」
 事も無げに言い放つユイリェンに、ウェインは息を詰まらせた。どうやら彼女は眠っていたわけではないらしい。あの独り言にも、顔を赤くして見取れていたことにも、すっかり気付いていたのだ。思わず彼は額を手で押さえた。後悔先に立たずとはこのことか。
 と、そのとき。
 
 どぐん。
 彼はあああと恍惚の声をあげた。紅と灰が目の前にあった。それは燃えさかる炎と立ち上る黒煙であった。彼が放ったのだ。森の中を駆け抜け、ようやく見つけた古い洋館に向かって炎を放ったのだ。それが彼に与えられた仕事なのだった。あの屋敷にいるはずの男を
 殺す
 ことが。どうしてだかやけに悲しかった。人の命を消すということがこんなに悲しいなんて、彼は初めて気付いたのだった。今まで何人もの人間を消し去ってきたのに、死と血液と硝煙の溢れる戦場を生き抜いてきたのに。今目の前にある死はあまりにも悲しかった。彼は
 殺す
 という事の本当の意味を知ったのだった。それは消えてなくなるということではない。天に昇るということではない。地に堕ちるということではない。まして生まれ変わるということでもない。それは否定するということだったのだ。
 殺す
 ということは、そいつが持つ全てを否定するということだったのである。彼は気付いた。自分自身が否定されたその時に。
 すまない、同士よ。彼はまだ見ぬ獲物に呼びかけた。私はお前を否定しなければならない。なぜなら私の心はもはや私ではないから。私はあの男の指先となってしまったから。私はもう私を止めることができない。そこには私の存在はなく、ただの物質として現れているに過ぎない。お前を否定することは私の意志ではない。しかし私は止まらない。裏切ったお前を否定すると、あの男が決めたからだ。
 
 ゴオンッ!
 轟音が耳を劈いた。二人の視線が同時に北を向く。大地に広がる森の向こう、天が赤く燃えている。決して朝焼けなどではない。まぎれもなく、森を灼く炎である。
「戦闘?」
「わからないわ」
 この状況なら、おそらく森を焼いた者はこの車を破壊した者と同一と考えて間違いないだろう。しかしユイリェン達にとっては関係のない争いである。どこかで見知らぬ誰かが傷つこうとも、それは仕方のないことなのだ。
 だが次の瞬間。
 オオ……オ……
 ユイリェンは目を見開いた。遠くから聞こえるうなり声。まるで狼の遠吠えのような、低く、それでいて遠くまで響く声である。しかしただの狼にしては、その声はあまりにも大きすぎた。
 まさか。思うがはやいか、彼女は走り出していた。
 
 
「アクセルを動かしたのか」
 茂みの中から燃え落ちていく屋敷を見つめ、ルドルフは悪態を吐いた。木々をなぎ倒す轟音に気付いて逃げたからよかったものの、あのまま屋敷に止まっていれば彼ら一家の命は無かっただろう。妻も息子も、幸い無事な姿で隣にいるのだが。
 しかし試作二号機アクセルはまだ不安定な未完成品である。自己破壊や暴走の危険性が高い上、下手をすればスフィクスと重合を起こしかねないのである。そんなものを、よりにもよってスフィクス奪還のために派遣するとは。
「何処まで狂っているのだ、ノイエ!」
 吐き捨てるように言うと、ルドルフは息子の肩に手を乗せた。服の内ポケットから三枚のカードを取り出し、今にも泣き出しそうなエルウィンの手に押しつける。それはさっき受け取ったばかりの、マネーカードとIDカード二枚だった。
「いいか、エルウィン。お金と新しいIDだ。明日イースト港を経つ火星行きの船に乗りなさい。席はもう取ってある」
「火星!?」
 驚いて声を上げたのは、エルウィンではなくウルリケだった。無理もないことである。火星へ行くなどという話は一言も聞いていない。火星といえば人生の落伍者が行き着く先である。向こうでは最後の望みを掛けて渡航した移民が、半ば強制労働に近い形で都市開発に従事しているという。まだ確たる統治組織もなく、治安の悪さはオールドアイザックの地下スラムを越えるほどである。
 そんな場所へ行くなどと。「私のためなら火星へ行ける?」というのが男を試すときの決まり文句ではあるが、まさか自分がそんな目に遭うとは思ってもみなかった。
「すまない。しかしこれしかないんだ、僕たちが生き残る道は――」
 ルドルフは立ち上がった。そして、もはや妻と子の顔を見つめることはなかった。ただ燃えさかる炎をじっと睨み付け、右手にぶらさげたブリーフケースを確かめるように握りしめる。彼にはやらねばならないことがある。とても大切な、けじめが。
「行きなさい、二人とも。僕も後から行く。まっすぐ東に行けば、ロッキー線に出る。あとは山と逆方向に進めばハイラインに着くはずだ。さあ」
 ウルリケの見開かれた瞳は、しかして彼の目には映らなかった。見れば心が揺らぎそうだった。戦うなんてできなさそうだった。だから彼はもう見なかった。心から愛した一人の女も、自分の血を受け継ぐ少年も、見るわけにはいかなかった。
「行け!」
 叫ぶと同時に、彼は走った。真っ直ぐに、燃え落ちようとしている館へ向かって。何も耳に入らない。何の熱も感じない。そう、彼には聞こえていなかったのだ。息子が叫んだ最後の一言さえも。
 ――パパ!
 
 
 薄暗い森を駆け抜けていた時、ぴっと通信機が鳴いた。
『ユイリェン! 一体どうしたんだよ!』
 後ろを何とかついてきているワームウッドから、雑音混じりの通信が入る。いきなりペンユウに乗って飛び出したユイリェンを追ってきたのである。来る必要など別になかったのだが。
「奴がいるわ。感じるの」
 ぽつり、とユイリェンは呟いた。自分は一体何を言っているのだろう。こんなわけのわからないことを口走って、まるで頭がおかしいみたいじゃないか。自分でもそう思う。しかしそうとしか言いようがないのだ。確かに感じるのである。奴の存在を。
「よくわからない。でも私は行かなくてはいけないわ」
『ふぅん』
 ゴウッ。背後から近づいてきた騒音が、ペンユウのすぐ横を追い抜いた。青い四つ足の蜘蛛――ワームウッドである。さすがに最高速度では一日の長がある。かなり距離があったはずだが、あっというまにこの有様である。
『よくわからない。でも俺はついて行かなくてはいけないわ』
 おどけて口真似をする彼に、ユイリェンは思わず肩をすくめた。正直に言ってあまり似ていない。溜息混じりに出た答えは、自然と低く押し殺した声になった。
「好きにして」
『……ごめん、そんなに似てなかった?』
「そうね」
 二機は同時に森を抜け、なだらかな草地へと躍り出た。周囲を森に囲まれた広い平地である。おそらくは自然のものではなく、樹木を伐採して人工的に造りだした土地であろう。その証拠に、平地の隅には誰かの別荘らしい真紅の館が弱々しくそびえ立っていた。
 いや、違う。館が赤いのではない。ゆらゆらと揺らぎ、立ち上る赤。鮮やかな風景を汚す灰。モニターに表示された外気温度の異常な数値。
 ――炎。
『おいおい……なんだよありゃ』
 ウェインの呟きとともに、炎がぐらりと傾いだ。もともと丈夫ではなかったらしい館が音を立てながら崩れ落ちる。そして、中にいた『それ』の姿が露わになった。『それ』は赤く輝いていた。炎ではない。炎に包まれ、その中でなお赤い輝きを放っていた。まるで血を練り固めたようなどす黒く不吉な赤。
 『それ』は一歩を踏み出した。ゆっくりと、確かめるように燃え落ちた館の中から這いだした。四つ足で地を這い、赤い瞳は天を貫き、漆黒の毛並みが怪しく照り輝く。『それ』は轟と吼えた。前に聞いたことのある声で。
 ユイリェンもウェインも、『それ』の事を知っていた。この世のいかなる生物とも異なる、異形の狼のことを。
「――ギア」
 『それ』は、かつてフィニールで見た生物兵器と全く同じ姿をしていた。まるで虎のような体つき。しかしどんな虎をも上回る筋肉。真紅のルビーのような瞳を持つ狼の頭。ただ以前と違ったのは、それがはるかに巨大であるということだった。フィニールのギアは全長3メートル少々だったが、今回のこれは一見して8メートル近い。
『あのときの猫ちゃんか。でも随分大きいなぁ』
「おそらく、対機動兵器用の特化型」
 ぎらり。
 ギアは突然に現れた二機のACを睨み付けた。そして低く身を屈め、るるるとうなり声を上げた。目に付くもの全てを破壊する。それが彼に与えられた命令だったのである。
「来る」
 
 二機の中央に突撃してきたギアを、それぞれ左右に展開して回避する。相談したわけでもないのに二人の動きは完璧に一致していた。どちらも心得ているのである。最も回避しやすく反撃に映りやすいタイミングとういものを。
 回避するなり旋回して、ワームウッドはマシンガンを放った。無数の徹甲弾が軽快な連続音と共に飛来し、ギアに迫る。しかしその肉体に触れる直前青白い光の膜があらわれ、全ての銃弾を弾き散らした。
『あれ?』
「レーザーシールド」
『ほんとに獣かよっ』
 どうやらギアには見境のない強化が施されているようである。いくら生物兵器として構成されたとはいえ、高レベルの細胞強化のうえに機械埋め込みなどした挙げ句には安定性を失いかねない。細胞が不可に耐えられなくなれば、戦闘中に突然自己崩壊を起こす可能性もある。
 しかしそんなものを期待して待つわけにもいかない。ゆっくりとギアは旋回し、自分に攻撃を仕掛けた蜘蛛のぎらりと睨み付けた。太い後ろ足で力強く地を蹴り、通常のACを遥かに上回る速度で突進する。その前足の爪に灯る青白い光。まるでそれは、光の爪とでもいうべきものであった。
 こちらはレーザーブレードの応用のようである。あんなものを喰らっては、装甲の薄いワームウッドではひとたまりもない。ユイリェンは慎重に狙いを付け、引き金を引いた。
 キュゴッ!
 ペンユウのエナジーバズーカから、月の光にも似た青い輝きが放出された。光の砲弾は真っ直ぐにギアに迫り、その横っ腹に深く食い込み四散する。衝撃で吹き飛ばされたギアの肉体は砂煙を立てて地面に転がり、それっきり動かなくなる。
『また助けられちゃったよ』
「まだよ」
 彼女の言葉に呼応するように、ギアの筋肉がぴくりと動いた。前足を地に突き、ゆっくりと立ち上がる。その腹部についた焼け焦げた傷跡さえも、じわじわと消え去りつつあった。以前のギアをも遥かに上回る再生能力である。
 慌てて後退しつつ、ワームウッドがマシンガンの引き金を引く。バラバラと無秩序にばらまかれた銃弾は、あるものは見当違いの方向へ飛び去り、またあるものはシールドに阻まれ砕け散る。
 唾液をびちゃびちゃと撒き散らしながら、ギアは力強く地を蹴った。大きく宙に舞い上がり、落ちざまに右前足の爪を振り下ろす。猫科の動物が狩りをするときの動きである。爪に灯った青い光が、ワームウッドの頭上に迫った。
『やられっぱなしだと思うなッ!』
 ヴンッ!
 虫の羽音のような音がして、ワームウッドの左腕から青い光がほとばしる。新搭載のレーザーブレード。格闘戦なら手慣れたものである。ウェインにはギアの動きが手に取るように読みとれた。筋肉の動き、視線、全てが次の行動を指し示している。
 次の瞬間、ブレードと爪が重なり合った。激しい閃光を撒き散らし、高濃度のプラズマ同士が互いに互いを食い合っていく。出力はほぼ同等。二つの刃は同時に消え失せ、不安定だったギアの方が後ろに弾かれ、砂煙を立てながら着地する。
「いい仕事だわ」
 ギアがワームウッドにじゃれている間にロックオンは完了している。ユイリェンは普段使わないスイッチを押し込んだ。ペンユウが肩に装備したミサイルポッドから八発の砲弾が射出され、白い糸を引きながらギアに迫っていく。
 ミサイルは値が張るのであまり使わないようにしているのだが、今回ばかりはそんなこともいっていられない。あの再生能力を上回るにはこの火力が必要なのである。
 轟と吼え、ギアはシールドを展開した。青白い光の盾に阻まれ、ミサイルは次々と弾けていく。徐々に、しかし確実に、シールドの光が弱まっていく。そして次の瞬間。
『大人しく寝てろ!』
 ワームウッドがブレードを構え、防御で手一杯のギアに突進していく。過加速走行を発動させ、さらに速度を高めて一気に刃を突きだした。
 ブレードの先端が光の盾を捉える。本来ならば同等の出力を持つプラズマは、しかしながらミサイルによってそのエネルギーを使い果たされていた。そして光が弾けた。盾は粉々に砕け散り、光の刃がギアの頭蓋に深々と突き刺さる。
「避けて!」
 叫び、ユイリェンは引き金を引いた。きゅぅんと子犬が悲鳴を上げる。エナジーバズーカの砲身に高濃度のプラズマが収束され、電子加速を受けて一気に放出される。青い光の砲弾は、鋭い牙をむいてギアに襲いかかった。
 ずぐっ。
 鈍い音を立て、砲弾は虎の横っ腹に風穴を空けた。
 
「あっぶねぇなぁ」
 背筋にぞくりと冷たいものを感じながら、ウェインは紅い相棒に近づいていった。ギアとワームウッドが密着しているあの状況でバズーカを放つなど、いくらなんでも無謀である。一歩間違えれば、今ごろウェインは天に召されていたことだろう。
『だから避けてと言ったわ』
「あの、だからね、ユイリェンさん」
 この人に何を言っても無駄である。ウェインは溜息を吐いた。
 ワームウッドが丁度ペンユウの真横まで到達する。機体を反転させ、ウェインはモニター越しに虎の残骸に目をやった。ぶすぶすと黒い煙を立てながら、無惨な死骸さらしている。
「しっかし、なんだってあんなのが」
『奴がいるんだわ。この近くに』
「奴って、さっき言ってた?」
 ユイリェンは沈黙した。おそらくは肯定の意味で。
 奴というのが誰のことなのか、ウェインは知らない。ギアと関係があるみたいだから、ひょっとしたら宇宙ステーションで何かあったのかもしれない。しかしユイリェンは話してくれないのである。彼が気絶した後、あそこで何があったのかを。
「まあいいさ。んじゃその『奴』ってのを探して――」
 そのとき。
 視界の隅で何かが動いた。
『ウェイン!』
 ユイリェンの悲痛な叫びも虚しく、無数の黒い弾丸が飛来する。そしてウェインを襲う衝撃。徹甲弾が青い装甲を抉り、弾けていく。
 揺れが収まったときには、シールドで防御して無傷のペンユウと、脚部に三発被弾して黒煙を上げるワームウッドの姿があった。
「ちくしょう、こいつは……」
 ゆらり、と奴は立ち上がった。ギア。腹に空いた大穴も、じゅくじゅくと膿のようなものを吐き出しながら埋め立てられていく。るおぉぉごおあ。ギアが悲しげに、痛々しげに吼える。その背がぱっくりと二つに裂け、その中から細長い金属の筒が姿を見せている。
 ――機銃。
「洒落にならねぇ」
 体内に機銃まで埋め込み、腹部の大部分を失ってもまだ動けるほどの生命力。全てがこれまでの生物兵器の常識を越えている。ワームウッドは脚部に攻撃を受け、機動性を著しくそがれて実質足手まといにしかならない。いくらなんでもユイリェン一人では、こいつと戦うのは――
 ごぐんっ!
 ギアは考える暇さえ与えてくれなかった。吼え声がいっそう大きくなる。もはや苦痛の呻き以外ではありえなかった。ずふっ、ずふっ、と生々しい音を立てながら、背の皮を破って四角い箱が姿を現す。嫌な予感がウェインの背中を駆け抜けた。巨大なミサイルポッドである。
『逃げて!』
「やってるよッ!」
 ウェインの額に冷や汗が浮かんだ。ペダルを踏んでも、操縦桿を倒しても、出力が上がらない。どこか動力系との接続部分に損傷があるのだ。時間を掛ければ動き出すだろうが、このままでは回避ができない。
 るぅおおおおああぁぁぁっ!
 一際大きな叫びとともに、ギアは無数のミサイルを放った。
 
 死んだ。
 彼はそう思った。回避もままならず、十数発のミサイルをその身に浴びて、もはや自分の命は尽き果てたと思った。
 しかし彼は生きている。衝撃で朦朧とした頭で、必死に事態を理解しようとする。右の手のひらを開き、閉じる。重い瞼をゆっくりと持ち上げる。喉を鳴らしてうぅと呻いてみる。死んではいない。何もかもが自由に動く。彼は生きているのだ。
 そして彼は見た。モニターに映る紅い影を。
「……ゆ……」
 紅い影は全身黒く焼け焦げ、ぶすぶすと煙を立ち上らせながら地にうずくまっていた。ぴくりとも動くことはない。装甲板はところどころ剥がれ落ち、スペースドアーマーの内部に溜まったディーゼル燃料が漏れこぼれる。あたかもどす黒い血液のように。
「ユイリェン!」
 ウェインは叫んだ。目の前に転がる、破壊し尽くされたペンユウ。生きている自分。返事をしないユイリェン。全てが一つの方向を指し示した。なんということを。目の奥から熱い何かが込み上げてくる。
 彼女はウェインをかばったのだ。ろくに動きもとれないワームウッドの前で、自ら盾となって。
「なんでだよ」
 固く握った拳が震えた。
「いつも冷静なユイリェンは何処行ったんだよ」
 ぎりぎりと奥歯が音を立てた。
「足手まといかばって傷つくなんて、そんなの」
 瞳が、敵を捉えた。低く身構え、うなり、唾液を垂らし、赤い瞳をぎらぎらと光らせ、次弾をロックしていくギアの姿を。ウェインの指がキーボードの上を踊る。動力をコア背部の特殊加速器と直結し、全てのエネルギーを送り込む。
 過加速走行、発動。
「あんたの役目じゃねぇだろうがぁぁぁぁッ!」
 どんっ!
 空気が震えた。ペンユウすら越えるスピードでワームウッドが宙を舞う。一直線に、敵に向かって。そこを狙ってギアのミサイルが射出される。その数およそ20。まるで蜘蛛の糸のようなミサイルの群が、四方からワームウッドを絡め取る。しかし。
 ぐんっ。ウェインは夢中になって操縦桿をひねり倒した。ぎゅるぎゅると機体が錐もみ回転を始める。ただの無秩序な回転ではない。無数の糸の隙間を、回転しながら縫うようにくぐり抜けていく。
 かつて伝説のレイヴンが得意としたのと全く同じように!
「くたばれッ!」
 耳を劈く轟音を立てながら、ワームウッドの左腕に光の刃が生み出された。刃を真っ直ぐ真横に突き出し、戸惑って立ち尽くすギアの横を駆け抜ける。
 ぞんっ!
 そしてギアの体は今度こそ、真っ二つに両断されていた。
 
 
 
 聞こえる。誰かが自分の名前を呼んでいる。何度も何度も、飽きもせず繰り返す。そんなに呼ばなくても聞こえているのだ。だんだん鬱陶しくなってきて、ユイリェンは静かに両の瞳を開いた。
「ユイリェン!」
 目の前にある、予想通りの顔。今にも泣き出しそうな表情で覗き込む赤毛の男。その向こうには空が見える。自分の座っている場所は柔らかなシート。計器、キーボード、操縦桿。コックピットの中。
 そうか。ユイリェンはようやく思い出した。ミサイルの直撃を喰らって、気絶していたのか。
「……大丈夫?」
 ユイリェンは無言で頷いた。本当な何か言葉を返したかったが、疲れ切った喉はちっとも震えようとしなかったのだ。ただそれだけでも、彼には十分のようだった。
 二本の腕が背にまわされる。力強く体が引き寄せられる。気が付けば、ユイリェンは彼の腕に抱きしめられていた。すぐそばに彼の温もりと吐息が感じられる。それでも何の感情も沸き上がってこないのは、まだ頭が朦朧としているせいなのか、それとも。ただ、良かった、良かったと呪文のように繰り返すウェインの姿が妙に可笑しかった。
 ――馬鹿みたい。
 少しずつはっきりしてくる意識の中で思いながら、ユイリェンはようやく言葉を絞り出した。
「いつまでそうしているの」
「あ」
 限りなく冷静に問いかけられて、慌ててウェインはユイリェンから離れた。一体何をしていたのだ。自然と顔が赤くなる。あんまりにも緊張していたせいで、自制が聞かなくなっていたのである。そう自分を納得させる。
「ご、ごめん」
 肩をすくめながら、ユイリェンは外の様子に目を遣った。もはや生物としての形すら残していないギアの残骸が遠くに見える。頭の先から尻尾まで、まっすぐに両断されている。あれをウェインがやったというのか。
 そして愛機ペンユウの無惨な姿。片膝をついたペンユウの装甲はいたるところで砕け散り、痛々しく駆動部分をさらけ出していた。修理にはかなり手間がかかるだろう。酒瓶の一つも抱えていかなければ、ハーディが機嫌を悪くしてしまいそうだ。
 と。視界の隅に蠢く影が映った。ペンユウの足元から少し離れたあたりに、一人の男が立っている。ぼろぼろのスーツを着た、茶色い髪と青い瞳のヨーロッパ人。見たことはない顔である。
 
「君達!」
 ルドルフは力の限り叫んだ。ミサイルによって破壊されたACのコックピット部分を見上げる。コックピットの中にいる少女と、外装部分にしがみついている少年がこちらに視線を降ろした。なんてことだ。あんな小さな子供たちが、あのアクセルを破壊したというのか。
 いざとなればアクセルとスフィクスを限定重合させて自爆するつもりだったが、アクセルを追って森から出てみれば見知らぬACと戦闘をしている。まさかACの方が勝つなんて思ってもみなかった。
「君達は一体何者なんだ、どうして――」
 
 そのとき、ユイリェンは両の目を見開いた。
 奴がいる。そこに、奴がいる。
 声は声にならなかった。
 
 ――逃げて!
 
 ずぐんっ!
 ルドルフは自分の体の中で熱い衝撃が走り抜けていくのを感じた。力が抜ける。ゆっくりと自分の体が崩れていく。銃弾を撃ち込まれたのだと気付くのに、どれだけの時間がかかっただろうか。気付いたときには、彼はもう草の上に倒れ込んでいた。
 喉の奥から込み上げてきた血を吐き出し、ルドルフはびくんと痙攣した。だんだん意識が薄れていく。ただ、眠りに落ちようとする脳が最後の音を聞き取った。
「哀れだね、君は」
 灰色の、男――
 
 ウェインに支えられながら、ユイリェンはようやく大地に足を降ろした。そして刺すような視線を目の前の男に向ける。灰色の長い髪。灰色のロングコート。灰色の瞳。以前と全く変わらぬ薄っぺらい笑みを張り付け、佇む一人の男。
「ノイエ」
 灰色の男は名を呼ばれ、視線を持ち上げた。もはや地に倒れた哀れな研究員には何の興味もなかった。右手のブリーフケース――その中で呼吸するスフィクスは取り戻したのだから。
「やあ。また会えたね、ユイリェン」
 相も変わらぬねっとりとした気色悪い声でノイエは言った。聞くたびに背筋を悪寒が走っていく声。まるで歌っているような、よく響く声である。しかしこの感覚は。視線を合わせただけで吐き気が込み上げてくるほどの圧倒的威圧感は一体。
「知り合いかよ?」
 あからさまな敵意の視線を絶やすことなくウェインが問う。
「敵よ」
「これは心外だな」
 簡潔で適切なユイリェンの答えを、ノイエは肩をすくめて否定した。それが意味のない否定であることは、ユイリェンの瞳とウェインの握り拳が如実に語っている。しかし右腕に力を込めながらも、ウェインは殴りかかれずにいた。おかしい。全く動きが予想できないのである。普通の相手なら見ただけで次の行動がなんとなくわかるのだが、こいつに関してはそれが当てはまらないのだ。
「君と敵対するつもりはないよ。少なくとも今回はね」
 突如、頭上から爆音が響いてきた。平たい板が空気を叩く音。ヘリのローター音である。軍用の輸送ヘリはノイエの後方に静かに着陸した。風を背に受け、コートをはためかせながらノイエはにやりと笑みを浮かべた。血が凍り付きそうになるほどの冷たい笑みを。
「もうすぐ時は満ちる。もうすぐ」
 ノイエは踵を返し、ヘリへ向かって歩き出した。追うことができない。ユイリェンにせよウェインにせよ、なぜか彼の後を追うことができなかった。懐から銃を取り出して撃つという簡単なことでさえも。
 ヘリの入口に手を掛け、乗り込みかけてからノイエは振り返りもせずに言い放った。
「さようなら、ユイリェン。また会える日を楽しみに――」
 
 
『ハイライン発、月面第三基地経由マリネリス行きのエクセルX12をご利用のお客様にご連絡いたします。まもなく入場ゲートが解放されます。IDカードをご用意の上、第三から第五ゲートの前に並んでお待ち下さい』
 ウルリケは放送を聞いて立ち上がった。白を基調につくられた落ち着いた内装の空港。ひっきりなしに人が出入りするロビーの隅で、彼女は息子と共に椅子に腰掛けていた。時間が来るのを待っていたのである。そして今、その時は来た。
「さあ、行こう」
 彼女はいまだ座ったままの息子の手を取った。うつむき、立ち上がろうとしないエルウィン。ウルリケにはわかった。彼は待っているのだ。父親がやってくるのを。
 ウルリケだって同じだった。今の今まで待っていたのだ。もう彼が死んだと感づいていながらも、最後の望みを掛けて待っていたのだ。しかし彼は来なかった。約束の時間に遅れたことのない彼が。
「パパのことは心配しなくていいの。だから、ね?」
 しばらく沈黙の時が流れた。周囲のざわめきも、無数の靴音も、二人の間の沈黙を破ることはできなかった。重い重い沈黙。まるでそこだけ空気が凝固してしまったかのような、重く固い沈黙である。
『ハイライン発、月面第三基地経由マリネリス行きのエクセルX12をご利用の……』
「ほら!」
 少し強引に手を引くと、エルウィンはようやく立ち上がった。それでもまだ、顔を俯かせたままではあったのだが。
「ぼく」
 エルウィンが顔を持ち上げた。その目に涙は浮かんでいなかった。ただ、ありありと決意の色が――6つやそこらの子供には似つかわしくない色が――浮かんでいるのだった。彼にはもしかしたら、未来が見えていたのかもしれない。これから先、彼自身が歩むことになる未来の姿が。
「いつかまた、会える気がするんだ」
 母には息子が何を言っているのか理解できなかった。でも彼の真剣な心だけは感じ取れたので――ふっと小さく微笑んで、優しくこう応えた。
「――そうね」
 

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