ARMORED CORE 3 SILENT LINE
Supplementary biography

「こちらプロフ」
 ゲズィヒトシュリフテンは白黒パンダ柄の巨体を水面に沈め、高々と水柱を立ち上らせた。ラインリバーに腰までつかった巨人の頭に、雫が煌めきながら降り注ぐ。ゲズィヒトはカメラアイをきゅるきゅる動かして目を凝らし、あの灰色の迷彩を探す。
 ちぇ、とプロフは舌を打つ。夕暮れの川沿いは朱に染まって風流だ。
「見失った」
 まったく、風流だ。
『こちらのレーダーにも反応ありません……撤退命令です、レイヴン』
「あのさ、オペレータ」
『はい?』
「これって任務失敗になるのか? 報酬は出るのかねぇ」
『それは私の管轄外ですので、無責任な応答はしかねます。レイヴン、帰投してください』
「オーケイ、了解」
 夕焼けがプロフの目に飛び込む。モニタ越しの赤い光に、プロフは思わず目を細める。まだ開発の進んでいない森がまるで燃え上がるかのよう。プロフはなんとはなしにコックピットのハッチを開き、機体の上に這い登る。コアブロックの上に器用にあぐらを掻き、夕焼けの森を眺めながら、煙草に火を付ける。煙が何かに引き寄せられるみたいに天へと昇る。
 下ではぴちゃりと水音が聞こえる。ラインリバーのゆるやかな流れが、ゲズィヒトの装甲板を撫でて過ぎていく。赤く小さな輝きに満ちた水面は、ちりばめられた無数のルビー。光を浴びていっそう濃くなる水の黒は、敷き詰められた天鵞絨の絨毯。森の木々と夕日が織りなすのは、精緻なステンドグラス。
 まったく風流だ。煙草も美味い。
 ふと、プロフは頭の上から高く澄み切った声のすることに気付いた。背中の方からだった。肩越しに振り返り、上を見上げた。煙草の煙が天へと昇っていた。
 対岸には白い大きな建物があった。21号病院と、看板の文字が言っていた。その遥か上の方、病院の屋上から、それは響いていた。
 なじかは知らねど 心わびて
 昔の伝えは そぞろ身にしむ

 歌。
 屋上に立つ少女。
 彼女の長い髪は、夕日を浴びて黄金のように燃え上がる。
 楽しげで、しかし哀しげで、今にもどこかへ消えてしまいそうな、はかない歌声。赤い夕暮れの空のようにその声は澄み渡り、プロフの心を震わせる。
 さびしく暮れゆく ラインの流れ
 入日に山々 赤くはゆる

 歌い終わった少女が、視線をゆっくりと降ろす。
 プロフ。
 おかしなはなしだ、とプロフは思う。こんなにも離れているのに、なぜだか。
 触れ合えた気がした。

 ラインの乙女 -Dir Frau der Rhein-

 ローレライというのが、ツジギリXに付けられた新しいコードネームだ。
 もちろん、伝説に登場するライン河の魔女にちなんだ名前だが、プロフはこれがあんまり気に入っていない。だいたいここがラインリバーと名付けられたのだって、単に川の様子が記録に残っているライン河にそっくりだというだけの理由に過ぎないのだ。きっと今でも、本物のライン河はサイレントラインの向こうの広々とした世界のどこかで、ゆったりと流れているのだろう。
 それに、ツジギリXという名前が、けっこう気に入ってもいた。
 ツジギリX――もとい、ローレライが現れ始めたのは一ヶ月程まえのことだ。はじめは新人レイヴンのACが、瓦礫の中から見つかった。パイロットは既に死んでいて、機体の記録ディスクには、環境光迷彩を施した灰色の軽量二脚型ACの機影が映っていた。コーテックスには登録されていない機体だった。
 それから一ヶ月で、ローレライに殺されたレイヴンは5人。生き残ったが完膚無きまでに敗北したレイヴンは3人。コーテックスはこのツジギリ事件に対してすぐに対策を講じたが、魔女退治に乗り出したレイヴンまでもが返り討ちに遭い――
 こうしてプロフにお鉢がまわってきたというわけだ。

 プロフは何本めかの煙草に火を付けた。不健康な煙を肺一杯に吸い込みながら、まえの吸い殻をつま先で踏み消す。大きな黒蟻が寄ってきて、興味深そうにいくつかの吸い殻を舐めて回る。吸い過ぎには注意しろよ、とプロフは蟻に言ってやる。
 川沿いの公園には、彼の他に人っ子一人いやしなかった。
 プロフだって、本当ならこんなところでのんびり座っているような性分ではない。だが家にいたらコーテックスのしつこい嫌味につき合わなきゃならないし、おまけに最近妙な黒い虫が湧くようになった。気持ち悪いので、いま殺虫剤で部屋をいぶしているところだ。帰るころには大規模な自然破壊は完了しているだろう。
 そういうわけで、プロフはこうして木陰のベンチに腰掛け、無駄に肺ガン危険性を増大させている。
 ベンチに灰が落ちる。慌てて払うが、木製に見えたベンチには焦げ目ひとつない。プラスティック製だ。興ざめ。
 プロフはぐったりと背中を投げ出し、ゆったりしたラインリバーの流れを見遣った。昨日はちょうどこの辺りで、ローレライを見失ったのだ。そうしたら、歌が聞こえてきて――
 うるわしおとめの いわおに立ちて
 こがねのくしとり 髪の乱れを

 そう、ちょうどこんな……
「あ?」
 思わず声をあげ、プロフは歌の聞こえる方を見る。少し向こうの木陰に、年の頃は十四五の少女が一人、ちょこんと腰掛け、口を大きく開けてきれいな声を響かせている。腰まで届きそうな長くて艶やかな髪が、白い肌の上に黒く映える。
 まるで作り物のように整い、まるで硝子のように脆そうな、そんな少女だった。
 プロフの声に気付いて、少女が閉じていた目を開く。吸い込まれそうな黒い瞳が、プロフをじっと見つめる。そして突然、弾かれたように立ち上がり、木陰から飛び出して、走り去ろうとする。くるぶしまで覆うクリーム色のスカートが、ひらりと優しく揺れる。
「あっ、おい、ちょっと、待って」
 思わず声が出る。
 少女が立ち止まる。翼のように黒髪を揺らして振り向き、おずおずとプロフの顔を見る。その頬がほんのりと桜色に染まる。プロフはその姿に見とれながら、なんで呼び止めたのかとぐるぐる思考を巡らせて、
「そのまま」
 ようやく口実を思いつき、言った。
「歌ってくれないか」
 少女の髪が太陽に照らされ、金色に染まる。少女は一瞬戸惑うと、恥ずかしげにはにかみ、おずおずと、プロフの座るベンチの隣に近付いた。木陰に入って髪が黒に戻る。少女は胸の前で指を組み、ラインリバーの流れを見つめ、息を大きく吸い込んで、歌い始める。
 うるわしおとめの いわおに立ちて
 こがねのくしとり 髪の乱れを
 すきつつ口ずさむ 歌の声の
 くすしき力に たまも迷う

 歌はそこで終わる。いつのまにか目を閉じて聞いていたプロフは、ふと瞼を開け、側に立つ少女を見上げる。少女はじっと見つめている。ラインリバーのゆったりとした、のんびりとした、あるいは遅々とした、黒い流れを。
 プロフは微笑み、
「きれいな歌だな」
 と、声をかける。少女はプロフを見ると、また頬を赤く染めて、優しくはにかむ。

 プロフと少女は並んで公園沿いの並木道を歩く。木陰と日向の規則正しいリズムに、時折、車のモーターが奏でる不協和音が水を差す。小鳥はチィチィ鳴きながら木から木へ飛び移り、時には黄色くなった木葉が一枚、少女の肩に落ちたりもする。
 プロフはそれを指でつまんで取ってやる。少女は消え入りそうな声で、ありがとう、と言う。
「このへんに住んでるのかい」
 少女は無言で頷き、木々の向こうにそびえ立つ大岩、白い病院を見る。
「入院患者」
 はん、とプロフは息を吐く。昨日のあれは、見間違いじゃなかったってわけだ。
「病人が外出歩いていいのかよ」
「よくない」
 少女は微笑んで、
「帰ったら、叱られる」
 プロフは苦笑を返す。肝の据わったガキだ。
 妙なガキもいたものだ。背丈はプロフの胸ほどまでしかない。たぶん5フィートか、もうすこし。腕も脚も首も細くて、肌も透き通るレース地のように白くて、吹けば飛びそうな女の子だ。でも、ときどき妙に大きく見える。
「ね」
 と、その少女が言う。
「レイヴンなのね」
 プロフは面食らって、
「なんで知ってんだ」
「昨日、見た」
「……いい目してるぜ」
「レイヴンさんも、見たでしょ、わたし」
 ますますいい目だ。あのとき、直線距離にすればゆうに50mは離れていたというのに、顔までしっかり憶えてるとは。もちろんそれは、プロフにとっては驚くべきことではない。プロフの両目は、いろいろな機能を加えた埋め込み品だ。暗視、望遠、偏光、赤外線、お手の物。
 プロフは後ろ頭を掻いて、
「言いふらすなよ」
 と、つっけんどんに言う。
「えー」
「おれたちは恨み買い取り屋なんだ。寝首を掻こうってやつはごろごろしてるのさ」
「ふーん」
 少女はいきなり立ち止まる。両手を腰の後ろで組んで、ふらふら体を揺らしながら、すくい上げるような視線をプロフに送る。はにかみながら、
「ね、レイヴンさん」
「だからやめろって」
「えー」
「プロフ」
 仕方なしにプロフは言い、
「名前」
 と付け足す。少女はきょとんとして、小首を傾げる。
「教授《プロフェッサー》?」
「まさか」
「職業人《プロフェッショナル》?」
「そりゃまあ確かに」
「放蕩者《プロフリゲート》?」
「耳が痛いな」
「神性の陵辱《プロファネイション》?」
「よしてくれ」
 少女はくすくす笑う。プロフは肩をすくめる。そうしてしばらく、日差しの下で立っている。ふと、道の横から老人が一人、看護婦に付き添われて出てくるのを見る。自分たちが邪魔になってることに気付いて、慌てて脇に避ける。老人は頭を下げながら、公園の方へとぼとぼと歩いていく。
 気付けば、病院の入口のそばまで来ていたのだ。
「ね、プロフ」
 少女の方に向き直ると、彼女はまた、あの優しい微笑みを見せていた。日差しの下で、また黒髪が黄金に染まっていた。肌はますます真っ白で、自ら輝いているようにも見えた。
「また、歌聴いて」
 一瞬戸惑うが、しかし、
「ああ」
 と笑いながら答えを返せる。
「501番。五階のいちばんはしっこ。わたしの部屋」
 そう言い残して、少女はぱたぱた駆けていく。建物の影に少女は入り、彼女の髪がまた美しい黒の輝きに戻る。若い看護婦が病院から飛び出してくる。少女を見下ろして、がみがみと何かを怒鳴りはじめる。少女は、始終肩を縮めて、黙っている。ひとしきり怒鳴ると、看護婦は肩を怒らせて病院に戻っていく。
 少女がこちらを見る。手を振る。プロフも手を振り返す。少女はあらん限りの大声で、
「フラウ!」
 プロフが呆気にとられていると、
「なまえっ」
 と、付け足す。そして病院に駆け込んでいく。明るい太陽の下にまた静寂が戻る。小鳥が見計らったかのようにチィチィと声を上げる。風が吹き抜ける。木葉が舞い上がり、何処かの空へ飛んでいく。
 プロフはしばらく、余韻に浸るかのように立ち尽くしていた。耳の奥に響きは残ったままだった。フラウ。フラウ。フラウ。何度も何度も、踊りを踊るように、その響きは回転を続けていた。
 プロフは煙草に火を付けた。

 フラウは部屋の灯を付けた。
 病室の壁は病的なまでに白く、清潔だった。吐き気がした。このまやかしの清潔に嫌気が差した。もう何年、ここで暮らしているだろう? 二年……いや、三年になるか。この虚構が詰め込まれた牢獄に押し込められてから。
 何が清潔。何が純白。つきつめれば、世界はみんな気持ち悪いつぶつぶから出来ているというのに。あるいは薄汚いひもから出来ているというのに。
 フラウは棚の上に畳んであった病室着を広げ、ベッドの上に放り投げると、スカートのホックを外して脱ぎ捨てた。シャツはばたりと風を起こしながら空を舞い、ふわふわゆっくりとベッドに落ちた。下着一枚になって、棚から小さな鏡を取り出す。棚の上に立てて置く。
 鏡に映った自分を見ながら、露わになった平らな胸に手を添える。指先で微かな膨らみをなぞる。ため息が出る。泣きたくなる。
 傷口。
 目を懲らさなければ見えないほど小さく薄い傷口。
 だが決して消えることのない傷口。
 鏡を閉じる。
 病室着をむしり取って、乱暴に袖を通す。

「チッ」
 と、舌を打ちながらプロフはトリガーを引く。ゲズィヒトの右腕に装備されたバズーカが火を噴き、馬鹿でかい砲弾を雨の空に解き放つ。砲弾は一直線に空気を裂いて、ローレライの灰色の装甲板に迫る。だがローレライは脚部のバネを利かせて飛び上がり、難なくそれを避ける。軽量級のお家芸だ。
 きゅうう、とローレライが泣いている。ゲズィヒトはすぐさま左手を掲げる。ローレライの背から青白い光が溢れ出して、猛烈な加速度でそのボディを押し出す。オーバードブースト。時速800kmオーバーで突進しながら、ローレライは両手のライフル二丁を乱射する。ゲズィヒトの左腕シールドがそれを辛うじて受け止める。そのまま二機はすれ違う。大急ぎでゲズィヒトは旋回する。
「小兵が、ちょこまかと」
 武器を切り替え、肩に装備した自律攻撃装置のロックオンを完了し、
「うるさいねぇッ!」
 プロフの指がトリガーを引く。肩のポッドから3機の自律攻撃装置オービットが展開され、着地したばかりのローレライを取り囲む。青いプラズマビームの掃射が始まる。プロフは間髪を入れずまた武器を切り替える。今度は右肩のミサイルだ。灰色の魔女をサイトに捉え、ロックオン。
 じじ。その音はプロフにも聞こえた。
 レーダーがビープを送ってくる。目標消失。オービットたちも敵の姿を見失い、戸惑いながらあたりを浮遊する。チッ、とプロフはまた舌を打つ。電磁ステルスだ。ローレライがこれほどの猛追を全て振り切っている理由。奴には、電磁的に透明になるデバイスが装備されている。その証拠に、せっかくミサイルがロックオンしたのも無駄になる。
 だが打つ手なしってわけじゃない。目には見えているんだ。武器をバズーカに戻し、目を凝らして手動で照準をあわせ、
 ローレライが宙に舞う。
 ゲズィヒトの真上。
 左腕を、上へ。
 ライフル弾の雨がゲズィヒトの頭へ降り注ぎ、左腕のシールドがそれをなんとか防ぎ止める。だがシールドの耐弾性もそろそろ限界だ。プロフは脇のスイッチを押し込む。ゲズィヒトの背中にプラズマがチャージされる。子犬の悲鳴、とよく形容される音を立て、オーバードブーストが発動する。背中が弾ける。ゲズィヒトの巨体が弾ける。
 地震のような音をたてて、遥か遠くにゲズィヒトは着地する。振り返る。
 もう、ローレライの灰色の装甲板は、どこにも見えはしなかった。

 こぎゆく舟人 歌にあこがれ
 いわねも見やらず 仰げばやがて

「けほっ」
 曇り空の下で、フラウは咳き込んだ。屋上のベンチに腰掛けていたプロフは、なぜ歌が途切れたのかわからず、少しの間ぼうっとフラウの顔を眺めていた。なんだかよくわからないが、彼女の病気が悪くなったのか。それとも――
 フラウの視線。煙草の煙。
「ああ」
 火を付けたばかりの煙草を、床に擦りつけて消す。もったいないが、致し方ない。
「悪い」
 フラウの咳が止まる。歪めていた顔がまたあのきれいな微笑みに戻って、もう一度、ラインリバーの流れに目を落とす。お腹の上で指を組んで、大きく息を吸い込み、歌い始める。もう一度、最初から。
 こぎゆく舟人 歌にあこがれ
 いわねも見やらず 仰げばやがて

 聴きながらプロフは、お尻の下が妙に冷たいのを感じた。尻を浮かしてみる。触ってみる。指先に、雨粒の湿りを感じる。歌の途中では舌を打つわけにもいかず、仕方なくプロフは肩をすくめる。そんなプロフを、フラウは歌いながら見ている。
 波間に沈むる 人も舟も
 くすしき魔が歌 歌うローレライ

 ローレライ。
 弾かれるようにプロフは顔を上げる。フラウの顔を見る。フラウは歌い終わり、黒くて長いきれいな髪をたなびかせて、プロフの方へ振り返る。屈託のない笑い。雲が切れて、その隙間から光が差す。スリット。回析現象。固体が分散相の気体コロイド。チンダル現象。
 夢みたいな言葉たちだ。夢みたいな光景だ。
 フラウを世界が祝福している。プロフはそう思った。
「どうだった」
 と、フラウが訊くので、プロフは少し考えてから笑い、
「きれいな歌だな」
 フラウはほっぺたを膨らませる。
「まえとおんなじっ」

『君は、これで一体何度目の失敗になるのか、分かっているのかね?』
「5回……いや、6回か」
 と、プロフは悪びれるふうもない。
 ラインリバー沿いには、作ったはいいものの施工主が倒産して廃棄されてしまった倉庫群があり、その内の一つに、プロフは無断で間借りしている。広い倉庫には彼の自慢のゲズィヒトシュリフテンが仰向けに寝ころがり、その脇には、AC用の武装がいくつか放置されている。どれも青色のビニールシートが被せられ、はためには分からないが、赤外線その他の警備装置で厳重に守られている。
 その倉庫の隅、作業員の休憩所になるはずだった場所に、プロフは居を構えている。とはいえそのねぐらは質素なもので、刑務所の廃棄品を貰ってきたベッドと、安物のテレビと、5世代前のコンピュータと、あとはカフェテーブルに、あちこち破れたビニールのソファがあるだけだ。カップ麺の容器はそこら中に散乱していたし、天井の蛍光灯は今もチカチカ点滅している。薄暗くて、薄汚くい、レイヴンらしい住まい。
『仕事をしていないと判断すれば、こちらにも考えがあるのだがね』
 と言うのは、コーテックスの渉外係だ。40過ぎのおじさんで、若くてフラフラしてるレイヴンなんぞ街のゴキブリ、とでも思っているような類の奴だ。まちがった認識とはプロフも思わないが、コーテックス社員としては多少問題がないとはいえない。
「おたくの依頼は、ローレライの逮捕、それが無理なら破壊、それも無理ならこれ以上被害者を出さないこと、だろ」
 プロフはようやくベッドから上半身を起こし、コンピュータのモニタに顔を向ける。
「少なくとも、おれが奴を追い始めてから、死んだレイヴンはいないはずだがねぇ」
『だが予算には限りがあるのでね。いつまでも根本原因を排除できないようなら、君への依頼を打ち切る準備はある』
 はん、と息を吐きながらプロフは肩をすくめる。
「オーケイ。そろそろなんとかするさ」
『なにぃ?』
「こっちにも色々事情があってね。次あたりが頃合いだ」
 ふたたびベッドに寝ころがり、
「まァ見てな」
 と、プロフは悪びれるふうもない。

 いつものように屋上のベンチのそばで歌い終わると、フラウはプロフの隣に力無く腰掛けた。感想を聞きもしなかった。いつもと同じだが、それでも十分な、たった一言の感想だったというのに。ただフラウは膝の上に両手を載せ、うつむき、じっと自分のつま先を見つめていた。
「気分でも悪いのか」
 とプロフが問うと、小さく首を横に振る。そしてまた黙りこくる。
 プロフは上を見上げる。抜けるような青い空に、小さな白い雲が点々と浮かんでいる。プロフの目には、ゆるやかな雲の動きがよく見える。雲は止まっているように見えながら、刻々と形を変え、刻々と位置を変え、一時として同じ姿をとどめることはない。ちらりと見ただけではわからない変化。しかしプロフの目には見える変化。
 あるいは、誰にでも本当は見える変化なのか。
「むかし」
 フラウは不意に口を開いた。
「こんな風に、歌を聴いてくれるひとがいた」
 プロフはじっと空を見上げている。
「ともだちだった」
 フラウはじっとつま先を見下ろしている。
「大切なひとだった」
 プロフはじっと空を見上げている。
「そいつは、今は」
 フラウはじっとつま先を見下ろしている。
「死んじゃった」
 プロフはじっと空を見上げている。
 肩を抱き寄せる。
 か細い嗚咽を聞き、震える肩を抱き、プロフはごつごつしたその手で、フラウの髪を撫でた。艶のある黒く細い髪だった。指は滑るように流れ落ち、また滝を遡り、同じ事を繰り返した。何度も。嗚咽の静まるまで。震えの止むまで。
 雲が空の果てに流れて消えるまで。

 ぐず。
 ベッドの上に腰掛けたとたん、フラウは鼻をすすった。プロフは肩をすくめて、ちり紙の箱を差しだす。フラウは顔を真っ赤にして、仕方なく一枚抜き取り、ちん、と小さく鼻をかむ。紙を丸めてくずかごに放り投げると、プロフに可愛らしい照れ笑いを向ける。
「あは」
 プロフもつられて微笑む。
「も、大丈夫。へいき」
「そっか」
「ね、歌、どうだった?」
 プロフは箱を棚の上に戻しながら、
「きれいな歌だったさ」
「いつもとおんなじっ」
 そして二人で声をあげて笑う。もう何度繰り返したかもわからないやりとりだ。いつもとおんなじ。何度でも、おんなじ。非日常は既に日常化した。お互いに幸せを感じている。この奇妙なもたれ合い、方や毎日同じ歌を歌い、方や毎日感想とも言えない同じ感想を返す、この奇妙な関係が、幸せでなくてなんだというのだ。
 変わらないということ、あたりまえになるということ、それ以上の幸せがあるというのか。
 ひとしきり笑い終えて、プロフは右手を持ち上げる。
「じゃあ、そろそろ」
「あ」
 フラウはじっとプロフを見つめる。泣きはらした赤い瞳で。
「ね、プロフ」
 顔まで赤く染めて、そっぽを向き、
「お別れのキス」
 プロフは苦笑する。腰を屈めて、ベッドに片腕をつき、唇を寄せて、フラウの頬に軽く触れた。フラウは躊躇いながら、プロフのごつごつした頬にも返礼をした。無精髭の伸びた、ちくちく痛い頬だった。
 やがてプロフは腰を伸ばし、
「じゃあな」
 と、確認するように言う。今度こそフラウも頷き、それを見たプロフはにやりと笑って、出ていった。ドアのところでもう一度振り返り、軽く手を持ち上げる。フラウは小さく手を振って応えた。
 それっきりだった。
 それっきりだったのだ。

 ごめん、プロフ。
 フラウは言う。声には出さず。音には漏らさず。心の中で。魂の奥底に秘めたまま。

 ビープがけたたましく倉庫の中に鳴り響く。プロフはパイプベッドから跳ね起きて、モニタのスイッチを入れる。すぐさま不機嫌そうな渉外係のバストアップが表示されて、陰鬱な声をプロフに叩き付ける。
『出たぞ。ローレライだ』
「了解。場所は」
『北西区21号病院付近』
 プロフは床を蹴る。

 フラウは言う。
 彼は、ともだちだった。

 ACシステム起動モード/キー挿入/ジェネレーター点火/駆動各部へ電力供給オンライン/システムエンゲージ通常モード/機体各部に異常なし/FCS起動完了/射撃補正調整完了/HUD起動完了/
「急げ」
 ウェルカム・トゥ・AC・シス
「急げッてんだよッ!」

 大切な人だった。

 地面を震わせて、ゲズィヒトは堤防の上に着地する。また地面を蹴飛ばし、小さく空に舞い上がる。もう一度着地。その繰り返し。ACの基本移動動作、蛙跳び機動。長距離を移動するには最も効率の良い移動方法。
 地面が震える。病院はまだ見えない。
「くそっ」
 なんでこいつは軽量型じゃないんだ。あるいはフロート型。四脚型でもいい。
 なんでわざわざ鈍重な重装甲型なんだ。
「くそッ!」
 地面が震える。

 死んじゃった。

 見えた。21号病院。憎たらしいくらいゆったり流れるラインリバー。そして川の中に屹立し、両手の銃の狙いを定める灰色の魔女。入院病棟に向かって。
「やめろォッ!」
 電力供給リミッターを限定的に解放コア背部に電力過剰供給対振動安全装置カット生命維持装置カットプラズマチャージ80%耐振動姿勢ペダルキック重金属プラズマ放出オーバードブースト発動。

 レイヴンに殺されたの。

 トリガーを二度引く。バズーカの砲弾がローレライ目がけて飛びかかり、容易く回避され、あえなく川底に着弾して水柱を立てる。ゲズィヒトは着弾点の手前に着地して、更に巨大な水柱をわざわざ作り、その中に身を隠す。僅か三秒の隠れ蓑だが。
 こちらにもローレライの姿は見えない。レーダーも水に邪魔されて盲目だ。さっきの回避運動から現在の到達地点を予測し、旋回しながら、太い足で川底を蹴る。ゲズィヒトのずんぐりした巨体が再び川の上へ飛び上がる。水柱から躍り出る。予測通り正面にローレライを捉える。そして再び着水する。病棟が互いの射線上に入らない位置をとって。
 すぐさま、迷うことなく左腕シールドを掲げ、飛んできたライフル弾を防ぐ。蛙跳び機動で後退しながら、空中で左右に機体を振り、被弾率を下げる。ACの基本的回避運動。基本。基本。基本の繰り返し。

 だからわたしは創り出した。

 ローレライが高く天へ飛び上がり、ゲズィヒトの側面へ回り込む。ライフルを掃射する。幸いにも肩の側面シールドがそれを受け止める。さらに幸いにも、ローレライの射線は病院とは逆方向だ。ゲズィヒトは旋回して再びローレライを正面に捉える。そして後退しながら回避運動を繰り返す。
 はん。プロフは胸の息を吐く。堅実な回避運動を繰り返し、にも関わらず装甲板が少しずつ剥がれ落ちるのを感じ、それでもなおプロフの目は狼のそれだ。
 準備は今まで丹念に繰り返してきた。装甲に特化した機体で防御のみに意識を集中し、幾度となく戦いを繰り返し、ローレライの行動パターンを観察することからはじめた。

 彼が認めてくれた、わたしの力で。

 その結果わかった奴の弱点は三つ。
 プロフは再びリミッター解除をコマンドして、オーバードブーストを発動させる。ゲズィヒトは恐るべき勢いのプラズマに押し出され、弾かれるように横へと飛び抜ける。病院からやや離れた位置まで逃げてくると、着地し、ローレライを正面に捉える。ローレライはブースターを全開にして追ってくる。
 一つ。自分の間合いを崩さないこと。ローレライは自分の装備した左右二丁のライフルが最も高い効果を発揮する位置に陣取り、ぴたりと貼り付いて動かない。何が何でも一定の距離を維持する。逆に言えば――
 逃げれば必ず追ってくるし、追えば必ず逃げていく。

 レイヴンに復讐するための剣。

 プロフはFCSがローレライをロックオンしたのを見ると、敢えてそれを解除し、目視でバズーカの砲弾を一発、放つ。惜しい所で砲弾は水柱を立てるだけに終わる。ローレライは水柱を避け、飛び上がりながら、非人間的な精密さでライフルを連射する。回避運動もシールドも間に合わない。ところどころ装甲が悲鳴をあげはじめる。
 だが致命傷は一つもない。相手の位置さえ把握できれば、この装甲を利用して、致命傷を避けることは難しくない。
 二つ。自身がある程度攻撃を受けるまではステルス装置を使わないこと。ローレライは自分が無傷なら絶対に身を隠さない。あの厄介な電磁的透明状態には移行しない。それはおそらく、ステルス装置の使用可能な時間か回数に制限があるためだろうと、容易に予測できる。
 攻撃を当てさえしなければ、猛攻に耐え続けることはできる。

 AC自律制御AI。

 銃弾の雨がゲズィヒトの装甲にいくつもの穴を穿ち、コックピットにレッドランプが灯りはじめたころ、唐突にその瞬間はやってきた。プロフが最初から待ち続けていた瞬間。どんなものの大きさにも限りがあり、永遠や無限というものは、この世界そのもの以外にはありえない。少なくとも、いままでそれがありえたことは、一度もなかった。
 降り出した雨は必ず止む。
 三つ。単位時間あたりの攻撃力だけを重視し、それ以外を全て機動性のために犠牲にした。それゆえに予備武装も持っておらず――
 長期戦になれば必ず弾切れを起こすこと。

 「ラインの乙女」を。

「はん」
 プロフは胸に溜めこんでいた息をようやく吐き出して、ほっと胸を撫で下ろす。実ったのだ。一ヶ月以上も長々かけて積み重ねてきた地道な地均しが。いま、やっと。
「さあて」
 ペダルを踏み込む。
「狩りといこうかねえっ」
 ブーストダッシュで近付いて、ロックオン済みのオービット3基を射出する。小さな自律攻撃ユニットがローレライの周囲を取り囲み、三方からの容赦ない砲火を浴びせる。ローレライは為す術もなく、ただ懸命な回避運動で被弾率を下げ、徐々に後退する。ゲズィヒトが擦り寄ってきたからだ。この期に及んで弱点その一は有効らしい。
 ゲズィヒトはじりじり近付きながら、ロックオンし、肩のミサイルポッドから一発ずつ放つ。命中弾は一つもない。それでいいのだ。これは単に相手を追いつめる為の牽制に過ぎない。追いつめ、必中のタイミングを狙い、ただ一発、右手のバズーカを叩き込めばそれでよい。
 ローレライは見事な機動でオービットの攻撃を回避しながら、後退を続ける。飛び上がり、着水するたびに、川の水が高く舞い上がる。プロフはじっとHUDを睨み、バズーカのトリガーに指をのせたまま、ブースターさえ使わない歩行で距離を詰める。あと少し。この先は緩やかなカーブ。あと少し。
 ず。
 着水した瞬間、ローレライが態勢を崩す。川底の泥に足をとられて。
 今。
 ペダルを踏みつける。ブースターがここぞとばかりにプラズマを吐き、巨体を空へ持ち上げる。FCSがビープを放ってロックオンの完了を告げる。ゲズィヒトはローレライを見下ろせる位置まで移動する。プロフはトリガーにのった人差し指を引
 ゲズィヒトに向けられたライフルの銃口。
 隠し球。
 ペダルを踏み込む。ゲズィヒトが急加速する。ライフルから銃弾がひねり出される。最後の好機。狙っていたのはこちらだけではない。ローレライもまた。背中を汗が伝う。操縦桿をひねり倒す。ゲズィヒトが身を翻す。
 ライフル弾が脇を過ぎ去る。
 ゲズィヒトは半ば倒れ込むように川面へ
 どぉん。
 カメラアイをそちらへ向ける。
 噴煙。
 穿たれ崩れたコンクリート壁。
 引き裂かれ曲がった黒い鉄筋。
 五階のいちばんはしっこ。
 フラウ。

 ごめんプロフ。こうするしかなかった。

 雄叫びをあげる。他に何ができたというのだ。
 ペダルを踏み込む。他に何ができたというのだ。
 灰色の魔女に突進する。他に何ができたというのだ。

 彼を裏切りたくなかった。彼を裏切ってしまいそうだった。

 魔女の頭をひっつかむ。
 オーバードブーストを発動する。
 魔女の体を川岸に叩き付ける。

 このままじゃ、本当に――

 砲口をコアブロックに突きつける。
 迷うことなくトリガーを

 あなたを好きになってしまうから。

 引く。
 炸裂。

 さよなら。

 レッドランプはそこら中で怒り狂っていた。いまやシステムというシステムが悲鳴を上げ、たったひとりの侵入者を排除しようと、渾身の力を振り絞っていた。03−INも残る二機すべてを投入したらしい。SERREの機動準備も進めているらしい。
 いまここで一人だけ、逃げることなんてできなかった。
 たとえそれが彼の命令だとしても。
『だめだ。君は生き残らねばならない』
「いや」
『私はここで死なねばならない。そういう計画だ。だが君は違う。君はイレギュラーなのだ。死んではならない』
「いや」
『逃げるのだ』
「いやッ!」
 端末に向かって少女は叫んだ。黒い髪は首の後ろでひとつに束ね、パイロットスーツの上で揺れている。少女の瞳は黒く、海淵のごとく深く、濡れて艶やかに輝き、無機質な端末をじっと見つめている。傍らに立つ巨人は、従者として、騎士として、ただ少女を見守っている。
「わたし、逃げない。あなたが好き。あなたを護りたい」
 端末は沈黙を以て応えた。
「だいじょうぶ。ラインの乙女が手伝ってくれる。ううん、逆かな、わたしがすこし手伝うだけだから。だいじょうぶ。できる」
 端末は沈黙を以て応えた。
 やがて重い口を開いた。
『わかった。乗るがいい』
「うんっ」
 少女は巨人の従者――ACの起動をコマンドし、コックピットハッチを開いて、ワイヤーを垂らさせる。それにしがみつき、ウィンチが自分をたぐり寄せていくのを感じながら、遠ざかっていく地面と端末を見つめる。なんだか地面との距離が、自分と彼との距離のような気がして、不安になる。頭を振り回す。雑念を追い払う。
 コックピットに滑り込み、起動作業を手早くすませる。
 起動完了。
「起動できた。アイビス、ドアを開け」
 胸に小さな衝撃。
 麻酔は容赦なく少女を眠りの深淵へと引きずり込む。
 鎮静剤注射完了/システムエンゲージ通常モード/退避経路を検索/経路設定完了/自動操縦で戦闘領域外へ移動/最重要事項設定パイロット生命維持/
 部屋のカメラは、アイビスの命令を忠実にこなす灰色の魔女の背中をじっと見ていた。
 いつまでも、いつまでも、じっと見ていた。
 じっと見ていた。

 着弾点が近すぎたせいで、バズーカは完全におしゃかだ。ゲズィヒトはそれを川の中に投げ捨て、一瞬、ほんの一瞬だけ沈思黙考した。プロフは弾かれたように顔を上げ、フラウ、とうわごとのようにいいながら、機体を旋回させた。ブースターを吹かして川から飛び上がり、病院の前に着地させた。
 ハッチを開く。ワイヤー伝いに降りる。病棟へ駆け込んでいく。
 職員やある程度動ける病人はすっかり避難してしまったらしく、病棟の中は静寂と、ときおり聞こえるうめき声に満ちていた。患者をほったらかしか、とプロフは舌を打つ。額から、脇から、背中から、冷たくて気持ち悪い汗が一斉に噴き出す。エレベーターの前へ駆け寄る。上行きボタンを押す。その上の数字は遥か上、12階で止まって動かない。もう一度舌を打つ。階段を探す。三段とばしで駆け上る。
 フラウ。
 息が切れる。段につまづいて転びそうになる。手すりを握って耐える。また駆け上る。階段は長い。とても長い。永遠に終わらないほど長い。宇宙の果てまで登っていけるほど長い。
 やがて宇宙の果てにたどり着く。いちばんはしっこ。501番。
  ぎゆ  人  にあ  れ
 聞こえる。歌声が。
 い ねも見や    げ や て
 ドアは既に吹き飛ばされていた。
 波 に  る 人  も
 床は赤く染まっていた。
 くす   が歌  うロー ライ
 人形のように、少女は転がっていた。
「フラウッ!」
 駆け寄り、抱き起こす。少女の黒い髪が、崩れた壁の向こうから差す西日に照らされ、黄金に輝いていた。髪は水の流れるように、指の間から流れて落ちた。少女は目を閉じ、か細く、息を吐いた。
「おいッ!」
 少女が目を開く。
「アイ……ビス……」
 知らない名前。プロフは驚き、しかしすぐに歯を食いしばって、少女を抱きしめる。おれはアイビス。そう自分に言い聞かせる。少女の吐息が耳元にかかる。少女の温もりが腕の中にある。少女の鼓動が、自分の鼓動と一つになる。
「うた……」
 消え入りそうな声で少女は言う。
「ああ」
 プロフは応える。
「きれいな歌だったさ」
 そして少女は目を閉じる。
 プロフは少女を横たえる。
 笑っている。
 少女はしあわせそうに、微笑んでいる。

「ローレライ」Dir Loreley Searle
ハイネ作詞  近藤朔風訳詞

Ich weiß nicht, was soll's bedeuten,
Daß ich so traurig bin.
Ein Märchen aus alten Zeiten,
Das kommt mir nicht aus dem Sinn.

Die Luft ist kühl, und es dunkelt,
Und ruhig fließt der Rhein,
Der Gipfel des Berges funkelt
Im Abendsonnnenschein.

なじかは知らねど 心わびて
昔の伝えは そぞろ身にしむ

さびしく暮れゆく ラインの流れ
入日に山々 赤くはゆる
Die schönste Jungfrau sitzet
Dort oben wunderbar,
Ihr goldnes Geschmeide blitzet,
Sie kämmt ihr goldnes Haar.

Sie kämmt es mit goldnem Kamme
Und singt ein Lied dabei,
Das hat eine wundersame,
Gewalt'ge Melodei.

うるわしおとめの いわおに立ちて
こがねのくしとり 髪の乱れを

すきつつ口ずさむ 歌の声の
くすしき力に たまも迷う
Den Schiffer im kleinen Schiffe
Ergreift es mit wildem Weh;
Er schaut nicht die Felsenriffe,
Er schaut nur hinauf in die Höh!

Ich glaube, die Wellen vershlingen
Am Ende Schiffer und Kahn,
Und das hat mit ihrem Singen
Die Loreley getan

こぎゆく舟人 歌にあこがれ
いわねも見やらず 仰げばやがて

波間に沈むる 人も舟も
くすしき魔が歌 歌うローレライ

 テレビではニュースが垂れ流しになっていたが、聞く者は誰もいない。女性キャスターはただ無為に喋りつづける。画面が切り替わり、次のニュースへ移る。
『……ンリバー沿いで発生した、レイヴンを無差別に狙った連続襲撃事件に関して、今日午後1時30分、グローバルコーテックス社が記者会見を行いました。そのなかで同社のスポークスマンは、この事件がレイヴンに恨みを持つものが作成したAC自動制御人工知能によるものだと断定し、このような事件が起きたことに対して強い遺憾の意を表明しました。また、この事件を自由競争の上に成り立つレイヴンの諸権利を侵害するものだとして強く非難し、今後同様の事件が起きた際にも断固とした処置をとる方針を明らかにしました。
 コマーシャル、天気予報に続いて、スポーツニュースです。カール・ジョンソンがまた世界記録を更新しました。
 うわぁー、汚れていますねー。一人暮らしの男性は、ついついお掃除をさぼりがち。そんなあなたに朗報です。この全自動掃除機マルチ・クリーナーDがあればもう大丈夫。内蔵されたAIが、お部屋の汚れを自動で察知してきれーいにお掃除してくれます。これ一台で床や壁はもちろん、台所、お風呂やトイレのお掃除にも使えます。外観は世界顔学会の協力で、20代の男性が理想とする女性の姿を実現しました。これなら一人暮らしのお部屋にも花が添えられますね! バストサイズもL・M・S・SSの4タイプをご用意しました。お値段はいずれも19800Cr、お買い得です! 電話番号は』

 木陰の共同墓地には他に人影もなく、ただ、花束を手に立つプロフがいるだけだ。彼の見つめる墓石には名前がない。結局最後までプロフは彼女の本名すら知ることはなかったからだ。まさか「女《フラウ》」だなんて刻むわけにもいくまい。
 ただ、名前の代わりに一言、言葉が添えられている。「やすらかなれかし、ラインの乙女」と。
 プロフはしゃがんで、花束をそっと墓石の前に供えた。太陽が黒い墓石を照らしていた。黄金に光っているように見えた。それは幻覚だったのか。あるいは本当に、きらきらと、輝いていたのか。
 風が吹き抜けた。
 歌が聞こえた。
 プロフは立ち上がり、風の吹いてきた方を見つめた。誰もいなかった。金色の太陽がきらきらと輝き、いくつもの墓石を照らし、そしてそのそばに、黒く長く艶やかな影を生み出しているだけだった。
 風がもう一度吹き抜けた。
 歌はもう、聞こえなかった。
 プロフは歩き出した。帰り道を。背中を丸めて。
 眩しい日差しに目を細めながら、ポケットの中を探る。しまい込んでいた箱は、くちゃくちゃになりながら、まだそこにあった。
 口にくわえる。
 プロフは煙草に火を付けた。

――Sie singt ein Lied dabei.