NULL プロローグ
 
 円筒形水槽の中で眠っている裸の少女は、見たところ十三、四歳ほどのようだった。
 ブランドもののスーツに身を包んだ若い男は、少女を見上げて小さく溜息をついた。美しい。薄緑色の培養液の中で輝く少女の真っ白な肌は、まるで宝石。胸や腰は流れる水よりも滑らかで、魅惑的な曲線を描いている。そしてその体を包み込み護るように広がるのは、鮮やかな栗色の髪。
 天使だ。彼、小林ケンジに何のためらいもなくそう思わせるほどの美しさを、少女は全身から放っていた。
「虚時間の牢獄に捕らわれた天使……か」
「なんです?」
 秘書のエリィが、ケンジの呟きに目を丸くする。彼女はすらりとした長身を品のいい紺のスーツに包み、凛とした姿勢を崩さない。こんな年端もいかない少女の裸に見取れていたことを悟られまいと、ケンジは努めて平静を装った。
「いや。何度きてもここは臭う。早く出たいね」
 地下研究室は薄暗くカビ臭く散らかりに散らかりまくっていた。ケンジの知る限り、研究者などというのは、自分の興味があること以外には全く無頓着な、社会不適合者と紙一重の連中だ。壁という壁に貼り付けられたメモ、床という床に散乱した仕様書、そこに描かれた謎の記号や言語が、そのことを如実に語っている。
「では手早く説明をすませましょう。この子が、プロジェクトDSの量産化試験零号機、YDS―PT00(ナル)です」
 ケンジは改めて、少女の顔を見上げた。瞼を静かに閉じて、安らかに眠り続ける少女。一見ごく普通の少女にしか見えないこの子が、社運を背負った新型生物兵器の量産機とは。
 そして、その少女の姿をした兵器を、非情にも処分しなければならないとは。
「性能的には申し分ありませんが、失敗作です。搭載した常人の八十倍の成長機能が暴走――」
「成人年齢を過ぎても成長が止まらず、一年ほどで寿命を迎える……か」
「はい」
 ケンジは再び溜息をついた。今度はエリィに見つからないよう気をつける必要もない。
 今この瞬間も、少女の成長は続いている。我々の一秒は、彼女にとっての八十秒。我々の一日は、彼女にとっての八十日。わずか四日と半分で、彼女は一年分だけ成長する。
 どうひっくりかえしても十代前半(ロウティーン)にしか見えないが、実際には受精から二ヶ月しか経っていないのである。本来なら、まだ母親が妊娠したことに気付いてもいない時期だ。
「やはり、オリジナルなしでの量産化計画には無理があります。研究員からは、台湾の実験一号機を呼び寄せるべきだという意見が出ています」
「わかっている」
「それから、試験零号機の処分は近々に――」
「君は」
 ケンジはエリィの言葉を遮った。その視線は、少女の裸体に釘付けになっている。
「もうちょっとやさしい言い方を身につけるべきだよ」
「……すいません」
 そう、少女だ。試験零号機ではない。
 少なくともケンジには、そう見える。
「処分のことは僕が片づける。実験一号機の受け入れ準備は任せた」
「はい」
 処分。処分するのか。この少女を。
 我々の都合で造り出した、この少女を。不幸にも失敗作となり、何の為に産まれたのかも分からないまま、この水槽の中から見える研究室の風景以外を知らないまま、まともな名前さえもつけられないまま、死んでいく運命にあるこの少女を。
 処分、するのか。
 自問を続けるケンジの前で、少女がぴくりと身を震わせた。
 少女の腕が、ためらいがちに動く。
 その瞬間、ケンジの背筋に悪寒が走った。
 天使。
 虚時間の檻に捕らわれた天使。
 少女が、目を開いた。