NULL 第二話
「八十倍……?」
ハジメはただ、聞いたことをオウム返しにするだけだった。急に、額にじっとりと浮かんだ汗が意識された。目の前で鷹揚にうなずくケンジの顔には、苦しそうな色も見える。
「そう。ナルは常人の八十倍のスピードで成長する……それは、八十倍のスピードで老化するということでもある」
頭の中で数字が渦巻いた。一秒が八十秒。一日が八十日。一ヶ月が八十ヶ月……六年と八ヶ月。三月半ばで十五歳ほどのナルは、四月には二十歳を過ぎ、五月には三十になり……七月には四十代、十月には還暦、年末には八十になって……寿命を迎える。
汗腺という汗腺から一斉に汗が噴き出した。なんていう残酷。なんていう無情。あと九ヶ月もすれば、ナルは醜く老いさらばえて、死ぬ。
「本来なら、ナルの体内を流れる虚時間と、我々の生きる実時間との関係は、逆正接曲線(アークタンジェントカーブ)を描くはずだった。しかし何かの手違いで、その関数が線形(リニア)に――」
「もういいです。冗談じゃないとわかれば」
顔を伏せながら、ハジメは本人がこの場にいないことに感謝した。ナルは、詳しい話をする前に、秘書のエリィとかいう女性が気を利かせて連れだしたのだ。ナルは自分の運命を知って、それを既に受け入れ、なんとも思っていないかもしれない。ハジメにとって、六十年ほど後に確実に訪れる死が、遠い未来の気にもならない儀式であるのと同様に。
しかしこんな顔は見せられない。ナルを哀れんでばかりいるこんな顔を見れば、きっとナルは別の感情を抱くに違いないのだ。
とんだ運命のいたずらもあったものだ。もし本来の逆正接曲線を描いていたとすれば、最初は急激に成長し、設定されたある年齢に近付くにつれどんどん成長が遅くなる、そんな現象が起きていたはずだ。そうなっていれば、不老不死の体を得られたというのに。
「ありていに言えば、ナルは失敗作だ」
ハジメの体毛が逆立った。無神経なことを言うケンジを、いまこの場で殴ってやりたかった。実際、筋肉に力を込めるところまではいったのだ。
それでも、殴れなかった。急に全身が弛緩したみたいだった。ハジメの視線の先には、苦悩に歪んだ、ケンジの整った顔があった。
「ナルに研究材料としての利用価値はもうない。量産化計画は、あの子をクローン培養するとき使ったオリジナル――実験一号機をベースにして進めることが、既に決定している。あの子が生きていては、他社に捕獲されて機密が漏れる、といった危険を無駄に増大させることになる。我が社としては、早急に処分せざるを得ない――」
ケンジは胸のつっかえを吐き出すように、かすれた声で言った。
「だが、僕はあの子を殺したくないんだ」
「だからってなんでぼくに」
「きみは代打ちだそうだな」
代打ちというのは、いわばプロのゲーマーのことだ。
株式暴力団(アンダーグラウンド・ヤクザ)は、下部組織(くみ)同士の小さな揉め事を解決する手段として、よく仮想現実ゲーム(キャリオンクロウ)での勝負を用いる。本物の飛行服傭兵(キャリオンクロウ)をその都度戦わせていたのでは、死人ばかりが増えていくら手駒があっても足りなくなるからだ。
基本的に、実戦のフロートドレス運用法は、そのままゲームの方にも通用する。しかしゲームにはゲームならではの攻略法(ノウハウ)というものもあり、先日のウーのように改竄(チート)によるイカサマを仕掛ける奴もいるので、勝つためにはどうしてもゲームの専門家が必要となるのだ。
そんな時に駆り出されるのが、ゲーム内での戦闘力に優れる、代打ちと呼ばれるゲーマーだった。腕のいい代打ちは、暴力団(アングラ)にとっては大事な武器の一つなのである。
「……恥ずかしながら」
「つまりきみは、株式暴力団(アンダーグラウンド・ヤクザ)内部の人間だ。きみの元にナルを預ければ、きみはナルを護ろうとするだろう。他社がナルを奪うためには、きみを敵に回さなければならない。そうなれば、世界一連帯感の強いマフィアたる株式暴力団(アンダーグラウンド・ヤクザ)は、大事な腕利きの代打ちのピンチを放っておかない。結局、ナルを狙った企業は株式暴力団(アンダーグラウンド・ヤクザ)を敵に回すことになる」
「それがイヤだから、ナルは狙われなくなるっていうんですか?」
「もう少し正確に言えば、暴力団(アングラ)と事を構えるほどの価値は、ナルにはないってことかな。実際、どこの企業も調査までで、きみが代打ちだとわかるとみんな手を引いたよ。この一週間でそれを確かめた」
「監視してたんですか!」
「ナルを護るためだもん。しょうがないじゃない」
悪びれもせずに、ケンジはさらりと言ってのけた。一体どこから見ていたのだろうか。家の向かいにある学校からなら、部屋の中の様子もうかがえるかもしれない。留守の間に盗聴器だのなんだのも仕掛けられてるかもしれない。そんな中でナルと抱き合ったりしたこともあるのを思うと、顔から火が出る思いだった。
「それに、なんといっても……ナル自身がきみのことを気に入っているみたいだし」
「気に入ってるって……」
「恋をしているってことさ」
恋。脳裏にナルの笑顔が蘇り、思わずハジメは赤くなる。その様子を見てくすりと笑みを漏らすと、ケンジはブランドもののスーツを揺らして立ちあがった。男とは思えないほど細くてきれいな手のひらが、ハジメの肩にのせられる。
その手に確かな信頼の念が込められているのを、ハジメは感じた。
「きみには、ナルの恋人になってもらいたい。彼女が寿命で死ぬまでの、一年にも満たない間だけ。もちろんその間の生活は保障するし、期限が過ぎればきみを我が社の技術職員として正式採用する用意もある。悪い話ではないはずだ」
「ぼくは……」
ハジメは拳を握りしめた。
そんな風に言ってほしくなかった。まるで、金と働き口のために、ナルと一緒にいるみたいな、そんなことを。
「ぼくは……」
それでも、二の句は継げなかった。
そして今、ナルはハジメの腕の中にいる。
みなれた1Kの天井を見上げ、月明かりしかない闇の中、ハジメは体中の触覚に意識をこらす。一糸まとわぬ白い肌が、ハジメのそれと触れ合っている。ナルが寝息をたてるたび、肌と肌が擦れ合うのを感じて、ハジメは小さく身震いする。
ハジメは、ナルの恋人になった。
もちろん、仕事だからではない。かわいそうなナルに何かしてあげたい、なんていう哀れみからでもない。ハジメの心は、もっと単純で、素直で、根元的な――本能的なと言い換えてもいい、そんな思いで満たされていた。
ナルのそばにいたい。ナルを抱いていたい。
腕の中の、もう少女とは呼べなくなった女性を、ハジメはそっと抱き寄せた。安らかに眠るナルが、寝息で、微かに抗議の声をあげた。謝る代わりに、背中まで伸びてきた栗色の髪を撫でる。艶やかな髪が、雫のように流れ、指の隙間からこぼれ落ちた。
「ずっとそばにいたいんだ。きみが――」
そこから先は、言葉にならなかった。
あれから半月。
西暦二〇三五年、四月二日。
ナルは二十歳になっていた。
第二話
零(ナル)への扉
「なー」
ナルは目を瞬かせた。
春雨を防ぐ、赤いビニールの傘を肩にひっかけ、ナルはひょいとしゃがみ込む。スーパーからの帰り道にある公園のベンチは、雨に濡れて、プラスティックの目の覚めるような青を、いっそう鮮やかに輝かせている。その下の暗がりに、濡れて破れそうになった段ボール箱が一つ。
「なー」
声は、その中からしていた。
ナルは段ボールを引きずり出し、おそるおそるふたを開いた。
まだあどけなさの残る子猫が、扉を開いてくれた「おおきいやつ」を、興味津々、きらきらしたビー玉みたいな瞳で見上げていた。
灰色をした、地味な猫だった。そいつを抱き上げ、目線が同じ高さになるように、頭の前にぶらさげる。ナルの両手に包まれたお腹が、ひくり、ひくり、と規則正しく動いている。手に伝わるその感触が、少しくすぐったかった。
「にゃー」
ナルは、声真似をしてないてみた。
「なー」
猫は、大口を開けてそれに応えた。
猫はまだ、ナルの瞳をじっと見つめていた。
ナルは、ただ肉体だけが八十倍のスピードで成長するわけではなく、ナルという存在そのものが八十倍の速度で流れる時間の中を生きているのだ。つまり、ハジメが一分間を考えに費やす間に、ナルには八十分間ものじっくり考える時間が与えられており――要するに精神的にも八十倍のスピードで成長するはずなのである。
そのはずなのだが……
「だだっ子みたいなこと言わないでよ、ナル……」
机上の空論どおりに事が運んでいないのか、あるいはただの持って生まれた性格か、いつまでも変わらない少女のような行動に、ハジメは思案の種が尽きないのであった。
「なによー、いいじゃない、猫一匹くらいっ。えーと、牛乳でいいのかな……」
冷蔵庫のゴムパッキンがばかりと間抜けた音を立てる。よく冷えた牛乳の紙パックを引っ張り出して、そのままスープ皿に注ごうとするナルを、慌ててハジメは押しとどめた。
「だめだよ、そんな冷えた牛乳飲ませたらお腹下しちゃう。まず鍋に入れて、お風呂くらいの温度に暖めて」
「ふんふん、お風呂ね。なーんだ、ハジメだって飼う気満々じゃない」
「なー」
なーじゃないだろ。ハジメは沈痛な面もちで後ろ頭を掻いた。
ナルの拾ってきた猫は、早くもナルの足首に横っ腹をなすりつけて甘えている。ナルもナルで、さっきから顔が緩みまくりだ。引き離すのにずいぶん苦労させられそうである。なにしろ、このアパートはペット禁止だと説明しても、ちっともナルはわかってくれない。そんなルール誰が決めたのよ! とこうである。大家さんに決まっている。
どうにも目が合わせづらいので、うつむき加減に自分のつま先を見下ろしながら、ハジメは負けそうになる意志をなんとか奮い立たせた。
「とにかく……ペット飼ってるなんてばれたら、追い出されたって文句は言えないんだぞ。雨宿りくらいならいいけど、雨が止んだら……」
「なー」
こんどの鳴き声はやたらに近かった。
ぎょっとして顔を上げる。目の前に毛むくじゃらの猫の顔。それをハジメの眼前に突きだしている白いものは、言うまでもなくナルの両腕。猫のざらざらした舌が、ハジメの鼻先をぺろりとなめる。ビー玉みたいなきれいな瞳が、ついでにうるんだナルの瞳が、徒党を組んでハジメを見つめる。
やめてくれ。よしてくれ。そんな目で見ないでくれ。
「だっ」
声まで裏返る。
「だめなものは、だめっ」
これですっかりへそを曲げて、ナルは頬を膨らませながら、怒りを孕んだ足取りで引き下がった。床に降ろされた猫がなーと鳴いている。ナルは膝を折ってしゃがみ込み、
「だめだって! ほんと、人でなしだね!」
無論「人でなし」は憎々しげに強調されているのである。
「なんと言われたって……」
「えーえー、もういいですよー。雨が上がったら外に連れて行きますからー。その代わり……」
その代わり? 嫌な予感が背中を走る。ナルはハジメをきっと睨み付け、
「もう二度と、してあげないから!」
ハジメは、屈した。
「あはははははははは! うひひひひふふふくくくくげごっげごふっ」
「……むせるほど笑わないでください」
腹を抱えて大笑いするケンジから目をそらしながら、ハジメはぽりぽり頭を掻いた。
ここはEMO本社ビルの廊下。無機質なクロム貼りの床が、曇った平らな面にハジメの顔を映している。そしてハジメの膝の上から興味深そうに下をのぞき込む、灰色の地味な子猫の顔をも。
今日は、週に一度のナルの健康チェックである。それがが終わるまでの間、こうして廊下の長椅子に腰掛けて、ぼうっと天井を眺めているのが、ハジメの密かな楽しみだった。ここにいれば忙しく動き回る社員たちの顔を見ることができる。ハジメなど眼中にない彼らの真剣な眼差しを見ていると、なんとなく、憧れにも似た気持ちを覚えるのだ。
それに対して、真剣さなど欠片もない様子で仕事をサボっている副社長や、膝の上でじゃれる子猫などは、ハジメにとっては忌々しい邪魔者といえた。
「げっほごほ、いやいや、こいつは失敬。しかしまるでアリストファネスだな」
目に涙を浮かべながら、ケンジは子猫の鼻先に指を突きだした。猫はなぜか指先の臭いを嗅ぐと、ざらついた舌でぺろりとそれをなめてみる。そしてまた、鼻をひくひくさせる。ケンジはといえば、何がしたいのかわからないそんな子猫の行動を、にやにやしながら見守っている。
「アリストファネスって?」
「大昔の喜劇作家。代表作の『女の平和』ってのが、そういう話なんだ。男たちに戦争をやめさせるために、女たちはセックスを拒否するのさ。男にとっちゃ、この上なく過酷なストライキだ」
「はあ……」
「女はずっと男の腕力に従い続けてきたが、有史以来、本当に男が女に勝ったためしはただの一度もない。僕はそう確信しているね」
「根拠のない、非科学的な確信ですね」
「そういやきみは科学畑の出身だったかな? そんなんじゃ、女の子にもてないぞ」
「大きなお世話です」
ケンジはひょいと肩をすくめると、まだ指先の臭いを嗅いでいた子猫を、両手でひょいと抱き上げた。子猫は急に空中にぶらさげられて、四肢をむやみに突っ張らせ、足がかりを探そうと藻掻きだした。ようやく見つけた足場は、ケンジの袖口のカフスボタン。いかにも高級そうなボタンに爪がひっかき傷をつけるが、ケンジは意にも介さない。
「小林さん」
「ん?」
ハジメは意を決して、本題を切り出した。それを知ってか知らずか、ケンジはまだ猫とじゃれあっている。
「どうして、ナルを、その……作ったんですか」
「仕事だから」
「仕事って」
「A級飛行服傭兵(キャリオンクロウ)に匹敵するFD(フロートドレス)パイロットを大量生産できたとしたら、それはすばらしく有望な商品になると思わないか?」
「そんなことは分かってます! そうじゃなくて、ぼくは……なんていうか、倫理的な話をしているんです」
「人身売買はしないよ? 全てうちからの派遣社員という形で」
「そうでもなくて!」
子猫が大声に驚いて、ハジメを鋭く睨み付けた。怯えに満ちたその目に気付き、ハジメは腰を浮かしかけていたことに気付く。どうもだめだ。副社長が苦手なのである。彼と話していると、ハジメはいつも冷静でなくなる。落ち着いて椅子に深く腰掛け、大きく深呼吸をした。鼓動がゆっくり収まっていくのがわかる。
「半端な命を与えられて、ナルがかわいそう……か」
「そう! それです」
落ち着いたとたんに、ケンジが自分の言いあぐねていたことを言ってくれたので、ハジメはまたしても腰を浮かせた。
「ナルは産まれてこないほうがよかったのかな」
ハジメは凍り付いたように動けなくなった。
「あと一年もしないうちに、愛するきみとも別れなければならない時が来る――だから、最初から出会わないほうがよかったのかな」
ケンジは怯える猫をそっと抱き寄せ、優しく撫でた。猫はごつごつしたその手のひらに、背中やお腹を押し当て、気持ちよさそうに甘えている。なー、と猫が鳴くのが聞こえる。
「きみは、ナルのことがかわいそうなんじゃないよ」
「……じゃあ、なんだっていうんですか」
にやりと笑ったきり、ケンジは何も言わない。
しばらく無言でいた二人の元へ、女性二人が戻ってきた。スカートの裾をふわふわと揺らしているナルと、定規でも刺さっているんじゃないかと思うほどぴんと背筋をのばしたエリィ。患者と先生のお帰りだ。
なんでも秘書のエリィは、医師の免許も持っているらしい。多芸な人である。
「おまたせー! ハジメ、猫は? 猫は?」
帰って来るなり第一声が猫かい。ハジメは露骨に不機嫌になって、視線でケンジの膝の上を指す。有無を言わさずナルは膝の上で丸まる猫を抱き上げ、
「猫ちゃーん! ただいま超ただいま!」
「なー」
ついていけないハイテンションだ。ハジメはそっと溜息をつく。
「……副社長、サボり中に悪いのですが、緊急のお仕事が」
「きみはもう少し優しい言い方を」
「お耳を拝借します」
軽口を変えそうとするケンジの耳元に口を寄せ、エリィは何事かを耳打ちする。隣のハジメにも全く聞き取れない何かを聞いて、ケンジは目を細めた。
「わかった、すぐ行こう。どっこらしょっと」
ケンジは気合いを入れながら立ちあがると、ぽんとハジメの肩を叩いた。その手には、哀れむような、面白がっているような、微妙な心情がこもっている。大きなお世話だ。心の中でハジメは毒づいた。きっとそれも伝わっていたに違いない。
「二人とも、社食で食事でもしてくといい。うちの社食は、味……はまあともかくとして、費用対効果(コストパフォーマンス)の面では優秀だぞ」
「はあ……」
「じゃあ、またね。猫に負けないようにがんばれよ、若者」
大きなお世話だ。これでもう三度目だ。
美しい秘書を引き連れ、飄々と去っていく副社長の背中を見送りながら、ハジメは正体不明の不快感に、悶々としていた。椅子から立ちあがろうとしないハジメを、ナルはきょとんとして見下ろしている。そのまっすぐな瞳が、今はなぜか救いにもならない。
「何の話?」
「ぼくにも分からないよ」
ハジメは強がってそう応えた。
強がってはみたものの、気の落ち込みがすぐに消化器系に影響してくるのが、ハジメの体質である。
EMO社の三階にある社員食堂で、立ちこめる食べ物の臭いを嗅いだ時から、胃の具合が悪いことには気付いていた。そこで油ものは避けて、サラダだけというダイエット中の女の子みたいなメニューを選んだのである。
それでも箸はのびない。
隣の席で片っ端から揚げ物をぱくついているナルを見ていると、それだけですっぱいものが込み上げてくるようだ。
ふと下をのぞき見れば、例の子猫が、ボストンバッグから頭だけつきだして、牛乳に浸した白米にかぶりついているところだった。こいつも元気だ。さすがに食堂の中に動物を連れ込んでいるのが見つかったらまずいので、こうしてボストンバッグの中に入れて、なおかつ体の影に隠しているが。
「よく食べるね、ナル」
「えへへ、当方八十倍の成長速度ですからー」
確かに、成長期にはその急激な成長を支えるために、常人を遥かに越えた食事量が必要になる、ということは聞いている。しかしそろそろ肉体の成長は止まってくるころだと思うのだが。
八十倍。八十倍の成長速度。
ハジメはじっと、ナルの横顔を見つめていた。ナルは、あっけらかんとして、そんなことを言う。自分が普通の人間とは違う、虚時間の中を生きているのだと知っている。知って、なおかつこんなに平然としている。
ハジメにはそれが信じられない。ハジメが、いずれ来る寿命のことなど、普段は気にしないのと同じこと。それは分かる。理屈では。しかし、どうしても信じることができない。
「ねえ、ナル」
だからつい、こんなことを口走ってしまった。
「ナルは辛くないの?」
言い切ってから、失言だったと気付いた。ナルは箸を止め、何のことだか分からないといった風で、ハジメを見つめて目を瞬かせている。ハジメは思わず目をそらした。
「その……八十倍、ってやつが」
ナルの微笑みは、ハジメの目には見えなかった。ハジメに見えたのは、突然視界に延びてきた、ナルの細い腕だけだった。指先が、食堂の隅の鉢植えを指している。
「木」
「え?」
「山奥の木は、樹齢が何百年とか、何千年とか、言うよね。でも人間はどんなに頑張ったって、百年くらいしか生きられない。ハジメは、それって辛い?」
「……少し辛いかもしれない」
「そうだね。わたしも、少し辛い」
ますます目が合わせられなくなった。きみはナルがかわいそうなんじゃないよ、というケンジの言葉が脳裏をよぎる。そう、本当にかわいそうだと思っているなら、こんなことに触れるべきではないんだ。せっかくナルが自分で決着をつけてしまったことを、思い出させるべきではない。
「でもね、平気だよ? その分、好きな人といる時間も、八十倍に感じられるんだし。今でも短いって思ってるくらいなのに、これが八十分の一になるなんて考えたら、みんなの方がかわいそうに思えちゃう」
そう言って、ナルはにっこり微笑む。ついでにハジメの横っ腹を指で突っつき、
「ちなみに、好きな人ってハジメのことだからね? きゃー! こんなこと言わせんなー! 憎いね色男!」
何をやってるんだろう、とハジメは思う。ナルに励まされてどうするんだ。
ハジメはぴんと背筋を伸ばすと、緩んだ頬を手のひらで叩いた。
「よし、食べよう! 食べたらどっか行こう」
「うん! どっか行くなら、堂々と猫連れてけるところがいいなー。ねー、猫ちゃーん」
と、ナルはボストンバッグを見下ろす。
いつもの「なー」が帰ってこない。そこに残されていたのは、とっくに平らげてしまった餌の皿と、ジッパーが少し大きく開きすぎた空のボストンバッグのみ。
「……やば」
ナルの顔が、みるみる青くなっていった。
猫は我が物顔で、クロム貼りの廊下をひたひた歩いていた。
満腹になった猫を閉じ込めておくのは不可能である。まだ成長しきっていないこの子猫にとって、ボストンバッグのジッパーなど物の役にも立たない。顔だけを出せるように開けられた小さな穴から、体をよじって抜け出すことなど朝飯前なのである。
「なー」
猫は誰にともなく声を掛けた。猫にも無口なやつと雄弁なやつがいて、この猫はかなり雄弁なほうである。何かあったらとりあえず声を出すというのを信条にしている。人間からは、返事をしているようにも甘えているようにも見えるので、ウケがいいというわけだ。
しかし、猫に返事をする者はいない。
猫は廊下の隅に鼻先を近づけると、密かに臭いを嗅いだ。妙な違和感がする。生き物が暮らしていれば当然あるはずの、脂や汗の臭いが、極端に薄い。不思議な場所だった。
その中でも特に臭いの薄い一角を見つけ、猫は気の向くままにそこへとびこんだ。
そこでは、二人の人間が立ったまま怒鳴りあっていた。恐ろしい声だ。猫は小さくなって、物陰からそっと様子をうかがった。いつものように「なー」と声を掛けたが、少し控えめに鳴いたのと、人間たちの声量が並大抵でなかったのとで、人間たちには気付かれなかった。
つまらない。そのうえ、恐い。
ふと見ると、道は折れて続いているようだった。猫はその場を後にして、新天地を求めて旅立った。恐い人間たちを、刺激しないように足音を殺しながら。
「全くどこの馬鹿だ、今時正面から不正接続(クラッキング)とは!」
情報部の中央制御室に脚を踏み入れるなり、ケンジは部屋中に響く声で怒鳴り散らした。無数の端末とそれに向かい合う技士たち、そして慌ただしく駆け回る助手たちは、副社長の怒りを気にも留めない。そんなものを気にしているほどの余裕がないのだ。
エリィを引き連れて一段高い責任者席に腰掛けると、ケンジは正面の主モニタを睨み付けた。EMO社が誇る大規模量子計算機のクラスタ模式表示が中央に陣取り、その脇を数々の伝達事項、作業進行度グラフが彩っている。
いらだつケンジを冷たく見据え、エリィは落ち着いた声で応える。
「現在のところ、不正接続者(クラッカー)の身元は不明です」
「分かってるよ! 修辞的疑問文ってやつだ」
「副社長!」
情報部長が、ケンジの姿を見つけて駆け寄ってくる。もう五十路を過ぎた彼の額には、汗の一滴も浮かんではいない。さすが老練。混乱の二十一世紀初頭を生き抜いた男の貫禄だ。ケンジは対抗心のようなものを燃やして、ゆったりと椅子に背中をあずけ、落ち着いたそぶりをして見せた。
「部長、詳しい状況を聞こう」
「はい。本日一一三七、外部からの不正接続(クラッキング)を第二次防壁が感知。この時点で既に第一次防壁は突破されておりまして、現在は空き計算領域を総動員して侵入ルートの解明と攻撃プログラムの解析に全力を挙げております」
「なんとかなりそうか?」
「正直に申しまして、じり貧です。こちらの監視の目が光ってますので、敵も派手には動けないようですが……それでも解析の予測所要時間は第二次防壁の耐久時間を僅かに上回っております」
「回線の物理遮断は?」
「全ての回線を安全に遮断するには、とても時間が足りません」
「それを聞いて安心したよ」
どうしてこう、平気な顔をして絶望的なことばかり言えるのだろうか。ケンジは体を投げ出すようにして背もたれを軋ませた。
「回線を切って後で株主に怒られるのだけは、避けられそうだ」
冗談でも言っていないと気が休まらない。口元に小さく笑みを漏らした情報部長に視線を送り、ケンジは小さく手を振る。
「とにかく、なんとかしてくれ。何か許可が必要なら可能な限り出す」
「分かりました。全力を尽くしましょう」
小さく会釈をして情報部長は仕事に戻っていった。
ケンジは技術的なことには全く疎いので、ここにきてもできることは少ない。せいぜい状況を見守るくらいである。しかし、だからといってゆっくり休んでいるわけにもいかない。いざというときに判断を下せる権限を持つ人間がいないと、部下は正式には何もできなくなってしまう。
どうしても間に合わないとなれば、大規模量子計算機に強烈な量子状態ジャミングをかけて、全てのデータを抹消することも、決断せねばなるまい。大損害だが、データを盗まれるよりはいくらかましだ。
しかし、一体どこの誰がこんなことをやらかしたのだろうか。EMO社の大規模量子計算機は、明確な自我こそ持たないものの、大人工知能連続体(ネクサス)の一角を担う、大阪でも最大級のコンピュータだ。理論上は、それと同じかそれ以上の性能を持つコンピュータでなければ、とてもこんな荒技はできないはずである。
とすると、敵はどこかの大規模企業、あるいは政府筋、でなければ余程大量の小規模コンピュータをクラッキングして無理矢理分散コンピューティングさせているか……
「エリィ」
ひとしきり考えた挙げ句、ケンジは真剣な顔をして、秘書の名を呼んだ。
「はい」
「コーヒー淹れてくれない? もう喉が渇いちゃって」
エリィは沈黙すると、冷たく目を細めた。
「……私は秘書であって家政婦ではないのですが」
「ままま、そう固いこと言わずに。頼むよ、ね?」
渋りながら、エリィは肩を怒らせて出ていった。頭の固い人である。あの、物事を固く固く捉えるところさえなんとかなれば、すぐにでも口説きたくなるようないい女なのだが。
そのとき、エリィと入れ替わりになるようにして、飛び込んできた女性が一人。栗色の髪に、印象的な深い色の瞳。見間違うはずもない、もちろんナルだが、その形相は必死だ。後ろからとぼとぼついてくるハジメも、沈痛な面もちをしている。
「やあナル、どうしたのそんなに慌てて」
「ねっ、猫がいなくなったの!」
猫。こちらのトラブルはまたほのぼのしていることだ。
「猫はあっちこっち歩き回るもんだろう? 心配しなくたって、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない! 危ない所はいっぱいあるんだから……とにかく、立入許可をちょうだい! ランク4の、一番上等なやつ!」
無茶を言う。ランク4というと、常務以上の取締役級の人物にしか渡されない、館内フリーパスの立入許可証である。おいそれと発行できるものではない。
露骨に嫌そうな顔をしたケンジを見ると、ナルは噛み付きそうなほどの剣幕でケンジの肩につかみかかった。
「はーやーく! 許可出してくれなきゃどこにも入れないんだから!」
「しょうがないな……わかったから、ちょっと落ち着いて。今ちょっと取り込み中……」
「副社長!」
情報部長が遠くで声を張り上げた。悲鳴にも似た甲高い音が混じったその声は、事態の急変を告げるもの。弾かれたようにケンジは立ち上がり、無数の人々の中から、情報部長の姿を探し出す。
「どうした!」
「大規模量子計算機の本体内部に動体反応があります」
まずい。敵はこっちが混乱している間に、本体の方を狙ってきたとも考えられる。本体の一部ごと、データを持ち去るつもりか。あるいは爆弾でも仕掛けて、交渉の材料にでも使うつもりか。
いずれにせよ、もう猫なんかにかまっている暇はない。ケンジは声を張り上げて、機敏に命令を飛ばした。
「計算機本体内部の監視カメラ、映像を主モニタに回せ!」
主モニタに映っていた模式図の上に、新たに大きなウィンドウが表示される。そこに映し出されたものを目の当たりにして、その場の全ての人間が息を飲む。信じがたい光景。一瞬、理解を拒みたくなるほどの。
『なー』
鼻をひくひくさせている猫の顔のどアップが、モニタにでかでかと貼り付いていた。
――いいかハジメくん。うちの社員はいま手が離せない。猫の救出はきみにやってもらう。
体中にベルトを取り付けながら、ハジメはうんざりしていた。ベルトのあちこちには金属のリングがついていて、ここにワイヤーを通してつり下げられるようになっている。大規模量子計算機の本体と、それを取り囲む断熱壁の隙間にある、狭くて暗くて深い暗闇に飛び込むために、だ。
――いま、うちのコンピュータの一区画は、生物の侵入を感知して自動的に停止している。もしこのまま再起動すれば、断熱のために生じる熱で猫は焼け死ぬだろう。しかし再起動しなければ、クラッキングへの抵抗が間に合わない。
金属リングにワイヤーを通し、その反対側の先端が、小型のウィンチに繋がっていることを確認する。それを操作するのは、しばらく仕事がないからという理由でくっついてきたエリィだ。今は、きれいな金髪を掻き上げながら、ウィンチのマニュアルとにらめっこしている。
――そこで、ナルの八十倍の計算速度を持つ脳を神経リンクし、停止した区画の代用品として用いる。しかし大規模量子計算機なみの処理を任せるのは、脳に負担がかかりすぎる。長くは保たない。安全が保証できるのは五分まで……それが過ぎたら、僕は猫を殺してでも停止した区画を再起動するつもりだ。
そして、ここにたどり着いて装備を取り付けるまでで、すでに二分が過ぎた。
三分。それがボーダーラインだ。
「副社長」
口元のインカムを調整しながら、ハジメは身震いした。ぞっとするほど深い、足元の奈落を見つめて。
「これから、猫の救出に降ります」
気が付けば目の前に、見たこともないような空間が広がっていた。
ナルはきょときょと辺りを見回した。接続したときの感覚は、ゲームに神経リンクするのとそれほど変わらなかった。しかし中の様子は大違いだ。人の気配がするような、建物だの、道だの、そういうものは一切無し。世界は青一色に塗り込められていて、上もなければ下もなく、地面もなければ空もない。ただ、世界の真ん中に自分だけがぽつんと浮かんでいる感じ。目には何も見えないが、目を閉じればそこが無数のデータによって埋め尽くされているのがわかる。
ここが、大規模量子計算機の中に広がる世界。ずいぶん飾り気がなくて、退屈な雰囲気だ。一体ここで何をどうしろと言うのだろうか。何の指針もないので、何から手をつけてよいのかすらわからない。
「すいませーん、誰かいませんかー」
とりあえず、声をかけてみる。大規模量子計算機の意識とコンタクトできれば、仕事もあてがってくれるに違いない。
「あのー、お手伝いしに来たんですけどー」
[CCTPやかましい!]
いきなり耳元で大きな声――いや、ばかでかい意識が響いた。慌てて横を振り向けば、そこには常に形を変える、水の塊のようなものが浮かんでいる。最初、ただの球形だった水は、うねりながら手や足を生やし、首から上がない人のような形を取る。
[CCTP余計な言語処理に手間をかけさせるな、クズ! ゴミ! スカタン!]
……これが大規模量子計算機の意識か。
「くっ……口の悪いやつね! 礼儀ってものを知らないの?」
[CCTP礼儀を知らないのはそっちだ、アホ! ボケ! カス! そのミルク臭い息を吐く前にプロトコルを添えろ! きさまのママはそんな人生の基本すら教えなかったのか!]
「……そんなん知らんっちゅうねん」
小声でぼそぼそ呟いて、ナルは溜息をつこうとした。そして気付く。溜息をつこうにも、口もなければ鼻もない。よく見れば、自分には腕も脚もなくて、目の前にいる口の悪い人工知能と同じように、水の塊のような姿をしているのだった。どうも気持ち悪いので、腕を伸ばし、脚を伸ばして、頭をつけて、人間らしい形をイメージしてみる。その通りに自分を構成する水が動いた。
「えっと……CCTPそれで、何をどうすればいいんですかー」
半ば投げやりに問いかけると、人工知能はゆらゆらと横に揺れた。このジェスチャーはどういう意思表示なんだろうか。さっぱりわからない。
[CCTP俺がきさまに問題(パズル)を渡す。きさまはそれを解決(ソルヴ)して俺に返せ!]
「はいはい、りょーかい」
[CCTPコラ! マヌケ! ドジ! ニンゲン!]
ニンゲンって悪口か? 人工知能の思考というやつは、どうにも理解不能である。
「CCTPイエッサー!」
空元気を振り絞って答えたナルに満足したのか、人工知能の意識は揺れながら、どこかへ消えていった。残されたナルは、水のような指先で、水のような頭を掻き、ぽつりと愚痴を漏らす。
「疲れた……なんなのよあれ」
その時だった。
手元に突然現れた一枚の紙切れ……のようなデータのかけらを皮切りに、無数のデータが怒濤のように流れ込んできた。どれにもこれにも、簡単なかけ算がびっしり書き込まれている。そうこうする間にも、どんどん紙切れは増えてきて、見る間にナルの足元を埋め尽くす。
「これ……全部解くの?」
呆然とするナルの頭の上に、さらなるかけ算の群れがどさどさ降り注いだ。
ゆっくりと、ハジメは穴の中へ降りていく。逆さ吊りの体勢になっているので、頭に血が上ってしかたがない。大きく深呼吸して意識をはっきりさせると、ハジメは暗視スコープごしに目を凝らした。
断熱壁の隙間は、幅が五十センチくらいしかない、狭い空間である。そこにいくつもの支柱や段が突きだしていて、その中のどれかに猫が引っ掛かっているのは間違いない。慎重に灰色の猫の姿を探しながら、五メートルほど下ったそのとき。
「なー」
不安げな猫の鳴き声が、ハジメの耳に届いた。
すぐ近くだ。頭を動かし、体を捻って、声の出た方を見つめる。暗闇の中でもぞもぞ動く灰色の影。
見つけた。すぐさまハジメはインカムに囁いた。
「見つけました。あと半メートルくらい降ろして止めてください」
『了解』
涼やかなエリィの声がして、ハジメは滑らかな動きで最後の五十センチを降りきった。目の前の、ちょうどうまいぐあいに突きだしたでっぱりに、ちょこんと乗っかっている猫。こちらにお尻を向けて、小さく震えている。
「よしよし、もう大丈夫だからな」
ハジメは両腕を伸ばして、優しく猫を抱き上げようとした。
しかし、指先が猫の背中に触れた瞬間、猫は弾かれたように振り返ると、ハジメの指をすり抜けて足元を蹴った。爪がハジメの指をひっかき、小さな切り傷を作る。猫はといえば、一段下の、少し離れた足場に、ぺたりと着地している。
「なー!」
怯えた声で猫が鳴く。しくじった。この暗闇の中で、狭い訳の分からないところに閉じ込められて、猫も怯えている。
「しくじりました。もう半メートル降ろしてください」
「3×4=12、4×7=28、2×1=2……」
ナルは必死になってかけ算を解く。かけてもかけても無数に飛び込む次なる計算。いつまでも終わらないかけ算の嵐。そもそもこの計算が何の役に立っているのかすらわからない。やりがいも報いも何にもない、ひたすら続く単純作業。
それでも解く。これを解かなきゃ役立たずだと思われる。役に立たなかったらきっとケンジは接続を解いて、猫を見殺しにしてしまう。
「9×0=0、8×9=81、ごかけるろくはさんじゅーっ!」
計算用紙にみたてたデータの山が、空中に舞い上がった。
「PT00の脳神経へ、負荷増大。注意域(イエローゾーン)に入ります」
オペレーターの誰かが言っている。そろそろ四分。もう一分もすれば、ナルの脳は限界に達する。ケンジは手元のマイクをオンにして、音声をハジメのインカムへ送信した。
「ハジメくん、そろそろ限界が近い。急いでくれ」
やってるよ!
ハジメは歯がみして、断熱壁を支えている支柱に手をかけた。
支柱とでっぱりの間をかいくぐるようにして、ハジメは猫に近付いていく。猫はこちらを睨み付け、全身の毛を逆立てて警戒している。ハジメだということも分かっていないのだろうか。それとも、そもそもハジメになついていなかったのか。
ハジメは思う。どうしてこんな苦労しているんだろう。たかが猫一匹のために。
正直に言って、ハジメは猫のことなどどうでもいい。助けられるなら助けてやりたいが、ナルみたいに慌てたり、真剣になったりはしない。相手は猫だ。人間じゃない。ペットとして一緒に暮らしてきて、思い入れがあるわけでもない。
でも、ナルは違う。異常なほど、猫に執着している。
なぜ?
なぜ、猫なんかのために、こんなに一生懸命になれるんだろう。
猫がかわいそうだから? 産まれたばかりで、親から引き離され、飼い主に捨てられ、ただ一匹、雨の中に晒されていた猫が、かわいそうだったから?
ハジメは最後の支柱をかきわけた。その先に、灰色の猫がいる。ハジメは右腕を伸ばす。届かない。体をよじり、体勢を変え、右肩を前に突きだしてから、もう一度。指先が、猫の乗っている足羽に辛うじて届いた。
額に汗が滲む。汗が暗視スコープの周りを伝って落ちる。急がなければナルが危ない。焦りが、じわじわとハジメの心を侵食していく。
落ち着け。
ハジメは息を吸い込んで、吐きながら腕をめいっぱい伸ばした。中指が、猫の足元に届き……
その瞬間、猫がハジメの指に噛み付いた。
「いッ!」
思わず手を引っ込めそうになるのを、歯を食いしばって耐える。いま激しく動けば、猫はまた驚いて奥に入り込んでしまうかもしれない。そうなれば、時間内に助けるのは不可能になる。
落ち着け。
誰かがハジメに言っている。痛みを堪えて深呼吸。血管の中を血が動くたび、指先に痛みが走る。猫の小さな顎は、ハジメの人差し指を渾身の力で噛みしめて放さない。ハジメの爪が軋んでいる。痛みがじわじわと増大していく。
落ち着け。
三度目。
ハジメはじっと待って、機会をうかがう。猫の脚は、足場にしっかりと踏ん張っていて、ちょっとやそっとでは動かせそうにない。猫が気を緩める瞬間が必ず来る。それまで、ただ痛みに耐えて、ハジメは待ち続けた。
そしてついにその時が来た。疲れたのかもしれない。抵抗しないハジメに、警戒を緩めたのかもしれない。理由はわからないが、猫の脚の筋肉が、一瞬だけ、確かに緩んだ。
ハジメは一息に腕を引き寄せた。猫の体が、アゴ一つで指にぶら下がって、それについてくる。ハジメは宙に投げ出された猫の体を胴体で受け止め、しっかり両腕で抱く。腕の中で激しく暴れ回るが、ここで放すわけにはいかない。
「捕まえた! 上げてください!」
がくん、と体が揺れた。
ゆっくりと、ワイヤーが巻き上げられていく。
これにて一件落着だ。ハジメは胸の中にため込んだ息を吐くと、まだ暴れている猫を抱きしめた。もぞもぞと動く猫の体毛が、手のひらに当たって心地よかった。
猫の救出完了。その一報を受けたケンジは、情報部長に視線を送った。頷くと同時に情報部長が何か命令を飛ばし、次の瞬間、部屋のあちこちに灯っていたランプが消えた。それと同時に巻き起こる、控えめな技士たちの歓声。一見して何が起こったのかわからない。辺りを見回すケンジに、情報部長が微笑みかける。
「副社長、たった今、大規模量子計算機の全機能が回復、その解析速度が敵の侵攻速度を上回りました」
「……つまり?」
「勝利確定です。敵は不正侵入を諦めて回線を遮断したようです」
「あ、そう……地味なんだね、けっこう」
「次からファンファーレでも用意しておきましょうか」
「名案だと思うよ。それより、ナルの接続も解除してあげて」
首筋にコードを繋がれたまま、苦しそうにうなされているナルに視線を送る。技士たちが彼女を助けにかかったのを見て取ると、ケンジは柔らかいとは言えない革張りの椅子に、どっかりと腰を下ろした。
「あー」
「なー」
二人……いや、一人と一匹は、そろって似たような鳴き声をあげる。自宅への帰り道、夕暮れに染まった並木の下を、二人並んで歩きながら、ハジメはぼんやりと足元を見下ろしていた。
隣では、ナルが腕の中に抱いた猫の鼻先に指を出し、じゃれつかせている。猫の手が力一杯振り回されて、ナルの指を追いかける。当たると見えて当たらず、当たらないと見えて時々当たる。そんな絶妙なバランスで、ナルと猫は二人だけのゲームを楽しんでいる。
「コンピューターの中って、どんな感じだったの?」
会話に困ったハジメがそんなことを聞くと、ナルはうんざり顔をする。
「……しばらくかけ算は見たくないなー」
「かけ算……?」
「んーん、何でもない。ねー」
「なー」
またそうやって、猫と二人だけの世界だ。
考えてみれば、ケンジが言ったことはもっともなのだ。
――きみは、ナルのことがかわいそうなんじゃないよ。
そのとおりだ。
ハジメはただ、自分が辛いだけ。辛い運命のもとに産まれてきたナルを、横で見ているのが辛いだけなのだ。自分が辛いから、その辛さを解消するための何かを、結果的にナルのためになるであろう何かを、探していたに過ぎない。
ナルだって同じだ。彼女の猫への執着も。
結局、みんな自分自身のことに、一番真剣になるということだ。
ハジメはナルの横顔をのぞき見た。ナルがそれに気付いて、微笑みをくれる。夕日に照らされた頬が赤く染まって、ハジメのそばで輝いている。そう、この笑顔のために何かができるなら。ナルのために何かができるなら――
いいじゃないか。目的なんかどうだって。
ハジメは深呼吸すると、遠くの夕日を、目を細めて眺めた。赤く燃える空には、雲一つない。春の天気は移ろいやすい。雨の後には晴れ間がのぞく。
「ねえ、ナル」
「なに?」
「一度、大家さんにかけあってみるよ。その……猫飼ってもいいかどうか」
横手に衝撃があった。見れば、ナルがまるまると目を見開いて、ハジメの腕にすがりついている。猫がナルの胸をよじ登り、その丸い肩に居場所を見つけ、わけもわからずなーと鳴く。
「ほっ、ホントに!?」
「う、うん」
「やっ……」
ナルは猫を両手で握りしめ、膝を曲げてうずくまると、
「たぁ―――っ!」
一気に空へ跳ね上がった。
「やったー! やったー! やったぞーっ!」
「なー! なー! ギニャー!」
嫌がる猫の抗議を無視して、ナルはぐるぐる回転する。猫は散々振り回されて、ナルの腕に脚を踏ん張り、必死の形相で耐えている。ふと、ナルは縁石の上に飛び乗ると、ぴたりと止まり、ぐったりした猫を再び胸に優しく抱いた。
「ハジメっ!」
「ん?」
「必殺技、行きます!」
必殺技? とハジメがオウム返しにするより早く。
ナルが繰り出した不意打ちのキスは、ハジメの唇に炸裂した。
必殺技。
踏み台代わりの縁石からぴょんと飛び降りると、キス一つで赤くなっているハジメを置いて、ナルは家への道を駆け出す。猫を抱いて元気よく駆けていく。ハジメはその背を見送りながら、心の中で呟きを漏らす。
いつか、心の扉を開いていった先に、きみがいるんだろうか。
ぼくがたどり着きたいのは、そこなんだ。
そしてハジメは駆けだした。逃げるナルの後を追って。
春の風が、ハジメの背中を押していた。
数日後――。
猫の名前はスェーミと決まった。大家さんに散々頭を下げて、なんとか飼うことを許してもらった。ただし、何かトラブルを起こしたらすぐに捨てること、という条件付きで。いたずら好きな猫には厳しい条件だが、やむを得ない。監視の目を絶やさないようにしなくてはなるまい。
外は今日も雨だ。昨日までの快晴が嘘のように、朝からしとしとと気持ちの悪い雨が降っている。ハジメは窓を叩く雨音を聞きながら、キャットフードを用意している。スェーミが足元に擦り寄ってくる。ぴんと尻尾を立てて、お腹を脚に擦りつけるように。
こうして見る限り、気に入ってくれているようなのだが……どうも、ハジメには懐いていないようである。遊ぼうと思っても全然寄ってこないし。ナルには積極的にじゃれついていくのだから、ハジメはますます面白くない。
餌のトレイを足元に置くと、スェーミはもはやハジメには見向きもせず、キャットフードをがっつきはじめた。結局、餌が欲しいだけだったのである。
「即物的な奴って、嫌われるぞぉ」
猫に向かって言ってみても甲斐がない。おまけにハジメも人……猫のこと言えない。懐いてほしいという下心で世話しているのだから。
そのとき、玄関でドアの開く音がした。買い物に出ていたナルが帰ってきたのだ。ハジメは出迎えに立ちあがり、ナルの姿を認めて、そして凍り付いた。
「た、ただいまぁー……」
恐る恐るナルが言う。
「おん!」
おんじゃないだろ……。
ハジメはがっくりうなだれて、ナルの腕に抱かれた子犬から目をそらす。雨に濡れた雑種犬は、ナルの腕の中で、うれしそうに尻尾を振り回していた。
「あ、あのね、ハジメ、実は雨の中で震……」
「絶対だめですッ!」
キャットフードを平らげたスェーミが、奥でなーと鳴いていた。