ARMORED CORE PROJECT PHANTASMA


 ここはどこだ?
 まるで世界が無限に広がったかのよう。全てが見える。全てにさわれる。自分の感覚と外の存在との境界線がない。意識が滑らかな連続面を描いている。自分が遥か彼方まで拡大していく。
 なんて面倒のない世界にやってきたんだろう。
 全ては俺だ。
 スティンガーは最初の疑問を消去した。それは意味のない疑問だと悟ったからだ。ここにどこはない。どこまでもがここなのだ。後は作戦遂行の便宜上設定される三次元極座標系が用意されているだけ。
 そうか。
 痛烈にスティンガーは確信した。
 俺はどこへでも行ける。
 スティンガーは目を凝らした。隣に――いや、もっと近い場所に、彼女がいる。彼女はスティンガーのそばにそっと寄り添い、スティンガーの体に自分の頬を埋めている。暖かい。抱き寄せよう、と感覚する。彼女の温もりが大きくなっていく。
 どこへいこうか?
 どこへいくのでも、俺たちはもうずっと一緒だ。
 アヤ。

「ムラクモの部隊が壊滅しただと?」
 司令車の中で、クローム社ガンマ連隊隊長は部下からの報告に眉をひそめた。
 出張っていたのはムラクモ最強の懲罰部隊。それも一個大隊クラスの戦力を有していたはずである。それが唐突に壊滅したとなれば、理由はたった一つしかない。
「馬鹿め……あれの制御に失敗したな」
 となれば、こちらにとってはあれを手中に収めるいい機会である。上からは、少々の破壊はやむなしとの許しが来ている。行動不能に陥るまであれに攻撃を仕掛け、その後ゆっくりとパーツを持ち帰らせてもらう。
 それで十分なのだ。現段階で戦況を有利に進めているのはクローム。あれがムラクモの手に渡りさえしなければ、クロームの勝利は揺るがない。
「ワスプ隊を前へ! 地対地戦術核ミサイル発射準備!」
 小型の二脚型MT、ワスプの一隊が陣形の前面に出る。背中に装備された小型ミサイルを、大型の核ミサイルに換装した特別仕様機である。あれへの対策として用意しておいた部隊だ。
 いかにあれとはいえ、数十発の核ミサイルを受けては一溜まりもあるまい。
 だが連隊長は気付いていなかった。
 ムラクモの部隊も同じ備えをしていたはずなのだということに。
「北2キロ地点に機影確認!」
 オペレーターの悲鳴にも似た報告が舞い込む。
「ファンタズマですッ!」
 おおっ……
 司令車の中にいた全員が、モニターの映像を見つめて溜息を漏らす。
 赤。先の爆発で加熱した大地の上に、陽炎に揺らぎながら佇む赤。こちらの照明に照らされて、ぎらぎらと輝く赤。左右に大きな格闘戦用クローを装備した、細長い機体。その姿は脚のないロブスターを思い起こさせる。だがロブスターよりも遥かに巨大で禍々しい真紅の装甲板が、見る物を恐怖に凍り付かせる。
 静かに。揺れながらホバリングを続ける赤。
 その不気味なカメラアイが、こちらを睨んだような気がした。
 ファンタズマ。
 最初に我に返ったのは連隊長だった。唾を飛ばしながら叫ぶ。
「左翼ワールウィンド隊、長距離砲撃始め! やつを足止めしろ!」
 半分は任務遂行のため。
 もう半分は恐怖から逃れるため。
 大部隊の左手から、長距離砲撃用MTワールウィンドによる、キャノン砲の一斉掃射が始まる。すぐに次の命令をしなくては。この程度ではやつは止まらない。
「ワスプ隊、攻撃を許可する! ロックオン完了後即座に放て! ケチケチするな、ありったけをぶち込むんだ!」
 命令するが早いか無数のミサイルがファンタズマ目がけて殺到する。誰もが同じ思いだったに違いない。こいつを早く壊さなければ。目の前から消えて無くさなければ。こんな化け物が。
 やつはここにいてはいけない。
「各機シールド展開! 対衝撃防御態勢!」
 そしてミサイルが着弾する。指向性のある限定核が炸裂し、青い光が迸る。膨大な質量エネルギーが熱エネルギーに変換され、爆発と炎を巻き起こす。一瞬遅れて部隊を襲う猛烈な爆風。ワイヤーで地面に固定されているはずの司令車が、ひっくり返りそうなほどの揺れに見舞われる。
 連隊長は、ふらつきながらもなんとか踏みとどまった。爆風が収まる。爆風で乱されていた通信が回復し、モニタに映像が映し出される。夜。森。月の下、もうもうと巻き上がる土煙に閉ざされた視界。
「やったか……?」
 数秒の沈黙。
 次の瞬間。
 爆発。
「ワスプ隊壊滅!」
 オペレーターが悲鳴をあげる。
「やつは生きています!」
 誰か気付いていただろうか?
 いつのまにか、「あれ」が「やつ」へと代わっていたことに。

 レッカッジ。
 レッカッジ、レッカッジ、レッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジ。
 残骸。
 全てを残骸に。
 スティンガーは線を描いた。そういうイメージを創り上げた。敵は繊維の連なり。自分はそれを貫く針。縫うように、人々の意識の間隙を貫き通す。貫き通しながら毒で蝕み尽くす。
 何もかも残骸に。
「ああ」
 スティンガーの失われたはずの肉体が声を上げた。歓喜の声。恍惚の声。
「ああ!」

 ファンタズマが奔る。低空ホバー飛行で部隊の真ん中を突き抜け、次の瞬間、通り道の付近にいた全てのMTが爆発を起こす。夜空を照らす紅の閃光。司令車の側面モニタが朱に染まる。
「イーゲル隊、サガルマタ隊壊滅!」
「何故だ……」
 連隊長は司令車に壁にふらふらともたれかかった。
「核を叩き込んだんだぞッ! 何故死なない!?」
「隊長! 各部隊からやつの姿が見えないと報告が……」
 ぞくり。
 連隊長は背筋を冷たいものが走っていくのを感じた。
 思わず振り返る。そこには司令車の後部モニタ。ファンタズマが逃げていった方角の映像が映し出されている。連なる木々と、その中に閉ざされた闇。鼻の先も見通せないような闇の中で。
 赤が煌めいた。
「ひ……」
「隊長っ! 味方の損耗率が30%を越えています! 隊長、命令を……隊長っ!!」
「ひあっ!」
 来る!
 ファンタズマの赤い体が猛スピードで近付いてくる。輝くカメラアイ。ただ一直線にこちらを捉える瞳。突如、ファンタズマの体から七色の光線が迸り――
 次の瞬間、ファンタズマの姿が視界から消え失せた。
 ――やつの姿が見えないと報告が……
 意識の外で聞いていた声が、頭の中に蘇る。
「亡霊……」
 その呟きを誰かが聞くより先に、司令車は炎に包まれた。

 レッカッジ。
 これで全ての中心を残骸に変えた。
 スティンガーは低空ホバーから飛行モードへ切り替え、夜空にふわりと舞い上がった。眼下に広がる森林。その中で蠢く虫たち。頭を失い、目を失い、どこへ動いていいのかも分からなくなった哀れな虫の胴体。
 全て、残骸に。
 スティンガーは二発目を放った。

 ファンタズマから発射されたエスコート・リグが、真下のクローム部隊めがけて突撃する。誰もそれに気付く者はいない。MT部隊は、見えないファンタズマの姿を必至に探し回るばかり。遥か上空から迫る恐怖に気付く者はいない。
 その方が幸せだったかも知れない。
 エスコート・リグ――遠隔操作可能なミサイルの子機が、狙い違わずクローム部隊の中心に着弾した。
 炸裂。
 その瞬間。
 核の炎が森を包み込んだ。

 レッカッジ。
 レッカッジ、レッカッジ、レッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジレッカッジ。
 残骸に。
 全て、残骸に。
 スティンガーは、百あまりの残骸の上に、静かに降り立った。
 全てが赤く染まっている。森も。夜も。もはや動かなくなった兵器の群れも。
 そして自分自身さえも。
 そう、俺はこいつと一つになったのだ。
 アヤ。
 スティンガーはアヤに呼びかけた。アヤはスティンガーのそばに現れて、にこりと微笑んだ。あの頃のアヤと寸分違わぬ、可愛らしい笑みだった。
 この笑みが、ようやく自分の手の届く場所に帰ってきた。
 俺はもう二度と、お前を放しはしない。これからはずっと一緒なんだ。
 どこへ行っても。どこに居ても。
 だから、さあ、アヤ――

 ――どこへ行こうか?

 MISSION#04 亡霊

『……では、現地と中継が繋がっております。現地のリィさん?』
 画面が切り替わり、寒々しい朝の森へ。森の木々は見るも無惨に焼けただれ、消火剤の白いフォームに包まれて、みすぼらしい姿を晒している。ところどころの消し炭から立ち上る煙、時折慌ただしく画面を駆け抜けていく消防隊員の姿が、事態の急を物語っている。
 画面中央に陣取った、若い女性リポーターも、いかついCBR防護服に身を包んでいる。リポーターは苦労しながらマイクを口元に持ち上げ、防護服のスピーカ越しのくぐもった声を出した。
『はい、リィです。えー、現地ではご覧の通り、一通りの消火作業を終え、現在はクローム・ムラクモ両企業の防衛軍による事後処理が進められています。
 ご覧ください、ここは爆心地から3キロほど離れた地点なのですが……このように、木が真っ黒に焼け焦げています。爆発の威力を、物語っています』
 実際にはその木は、爆発の後の火災で焼けたものだが、リポーターはそしらぬ顔で嘘だか本当だかわからない解説を続ける。
『えー、この爆発に関する記者団の質問に対して、ムラクモ社スポークスマンは、現在調査中で答えられない、との解答を示しています。またクローム社は一切の取材をシャットアウトした状態でして、正確な情報については、午後に予定されている公式の記者会見が待たれます。
 ただ、UBCによる独自の調査では、爆心地から数十キロ圏内で大量の放射能が観測されており、これは少なくとも現用のミサイル十数発分に相当する量であると専門家は見ています。また、爆発は一度ではなかったという、目撃者の証言もあり……』
 と、その時だった。画面の外から防護服に身を包んだ数人の男が現れ、女性リポーターに歩み寄った。
『ちょっと、どこの局? 困りますよー』
『UBCです。これは正当な取材ですよ』
『この付近は立入禁止です! 許可とってるんですか許可は? さあ出てくださーい』
『ちょっとーっ! クロームは報道の自由を侵害するつもりですか!』
『取材は許可を取ってからしてくださいねー。ほら、映さない!』
 男の手のひらがカメラのレンズを覆い隠す。
 そこで映像は一瞬乱れ、再びスタジオへと戻される。ひげ面のアナウンサーはしかめっ面をして、
『失礼致しました、現地に混乱があったようです。えー、繰り返しお伝えします。昨夜未明、アンバークラウン直上D337地区におきまして、原因不明の核爆発がありました。この爆発による都市部への汚染被害はありません。
 それでは次のニュースです。今朝6時頃、BN46PPH地区の浄気施設に異常が発生し、一時、付近への送風がストップしました。異常の原因は、地上からの吸気口付近にある大型ファンの破損とみられており、現在は無事復旧しています……』

 あれは新型のMTなんかではない。
 エリィは、ついさっきツヴァイトとスミカにしたばかりの説明を、もう一度思い起こした。
 あれは、ファンタズマはそんなものではない。
 この泥沼の企業戦争を終息に向かわせる――あるいは、逆にさらに深い混乱の極みへと突き落とす、あらたな「力」だ。
 戦略兵器。
 その言葉に明確な定義がなされたこともあったが、今となってはほとんど意味はない。要は、少なくとも地球の半分以上を射程圏内に捉え、一撃で戦局を大きく左右するほどの破壊力を持った兵器、ということである。
 大破壊以後、戦略兵器はその姿を消した。
 原因は、人類の生活基盤が地下都市に移行したことだ。
 地下深くに隠れたことで、主に頭上から襲い掛かることを中心に考えられていた戦略兵器群は、その効果を失ったのである。たとえ核搭載のICBMが炸裂した所で、地下都市までは影響を及ぼさない。
 敵の都市に攻撃する方法はただ一つ、小型の機動兵器による直接侵入しかないのである。そしてそれがMTやACの飛躍的発展の原因ともなったのだ。
 だが、連続する局地戦は、大きく戦力を疲弊させる。
 企業抗争が表沙汰になっていない百年計画時代はそれでもよかった。クロームには、少々の疲弊をもろともしないだけの財力があったのだ。
 だが、新興のムラクモ・ミレニアムが台頭し、クロームと並ぶ二巨頭と目されるようになってからは、状況は大きく変わった。各地での武力衝突は激しくなる一方。両者の疲弊は著しく、このままでは共倒れになる危険さえあった。
 そこで目を付けられたのが、かつての戦略兵器だ。
 一撃で戦局を大きく傾かせる戦略兵器が完成すれば、勝利も容易く転がり込んでくる。そこまで行かなくても、停戦か休戦の条約をかなり有利に展開することができる。
 クロームとムラクモは、地下都市に対しても有効な戦略兵器の開発に躍起になった。
 そのなかの一つ、一番最初に完成の目処が立ったのが、ファンタズマである。
 そのコンセプトは単純だ。自分で判断できる核ミサイル。高性能なAIを搭載し、鉄壁の防御と、露払いのための強大な火力を持つ、動く核爆弾だ。発射すれば、勝手に敵の都市まで飛んでいって、勝手に地下都市の防壁を破って内部に侵入し、敵の迎撃を突破して、都市の中心部で炸裂する。そんなミサイル。
 ムラクモが進めていた次世代レベル強化人間計画PLUSと、そのコンセプトが見事に融合した。
 そしてできあがったのが、ファンタズマ計画と――それを完成させるためのウェンズディ機関だ。
 いま、その悪魔の新型兵器に――あいつが乗っている。
 スティンガー。
 理由はわからない。短いとは言えない間、彼のパートナーとして仕事をしてきた。だから、彼が何かに執着していることは、わかっていた。
 しかし、それが何なのかまでは、わからなかった。
 今となっては、彼が何のためにファンタズマのパイロット――いや、生体制御ユニットとなったのかは、エリィには知る術もない。そして、いまさら知っても仕方がない、とも思う。
 いまさら、彼のために何をしてやれるわけでもないのだから。
「できることがあるなら、それは」
 エリィは、車のハンドルを握ったまま、小さく溜息を吐いた。
 目指す先は、ムラクモ・ミレニアム・アンバークラウン支社。
「それは――」
 エリィはぽつりと呟いて、アクセルを思いっきり踏みつけた。

 きゅいぃイイイイん。
 気が付けば、オレは操縦桿をひねり倒していた。
 ヴィーダーの左腕が――そこに格納されていたプラズマトーチが、青白い不気味な火を噴いて、陽炎の丸っこいコアパーツを貫いていた。
「あ――」
 呆然と呟くことしかできないオレの目の前で、崩れ落ちるように、陽炎が倒れた。ジリエラビルの老朽化した屋根の上に、巨大な青いACが転がり、もうもうと砂煙が舞い上がった。
 オレはしばらく、凍り付いたように動かないヴィーダーの中で、ただじっと空中を見つめていた。カメラアイが意味もなく夜空を捉えている。真っ黒な空に浮かぶ、淡い月。流れる雲。月の光が影の中に隠れてぼやける。
 オレはようやく我に返った。
「クロードッ!」
 頭の上のハッチを開き、オレはヴィーダーの外に這いだした。ワイヤーを引っかけて、それを伝って、倒れた陽炎の上に降りた。陽炎の薄っぺらいスペースド装甲の上に立つと、べこんと間抜けな音を立てて、青い装甲板がへこんだ。
 オレは狂ったかのような勢いで、陽炎のコックピットハッチにとりついた。ハッチは電子ロックで封鎖されていた。パネルを開いて、がむしゃらにキーを叩いた。どうにもならなかった。懐から銃を取り出して、二発撃った。ロック装置が壊れた。
 取っ手に手を掛け、オレは思いっきり引っ張った。
 コックピットの中で、それは倒れていた。
 ひゅー。ひゅー。風の吹き抜けるような音。
「レ……レイ……ヴン……」
 ひゅー。ひゅー。
 それは、オレを視界に捉えると、奇妙な甲高い声でそう言った。
「きー……をつけろ……お前……も……」
 それっきり、それは動かなくなった。
 瞼を閉じたりはしなかった。それには、閉じる瞼もなかった。
 眼球は摘出され、代わりに、かたつむりの角のような、二つのカメラアイが生えていた。耳は丸い金属パーツに覆われていて、あるのかないのかもよくわからなかった。首の後ろには無数の細いコードが差し込まれていた。頬には自分が吐き出す唾液に灼かれてできた穴があいていた。腕は筋肉が不自然な程発達して巨大化していた。脚は全部金属製だった。
 透明な頭蓋ケースの中に、うす桃色の脳が収まっていた。
 オレも、なんだというんだ。
 クロード。
 オレもこうなるっていうのか。
『……イヴン、応答しろ、レイ……』
 ハッチを開けっ放しのヴィーダーから、微かに通信の声が聞こえていた。
『戦闘が終了したように見えるが……回収に向かうぞ、いいな? おい答えろ、おい!』
 オレは一歩後ずさり、
 そのまま、震える手で陽炎のコックピットハッチを、閉じた。
 もう二度と、オレはそいつを開こうとはしなかった。

 逃げる時乗ってきたトレーラーには、三機のACが入っていた。
 ヴィーダーと、コーラルスターと、そしてヴェノムである。
 スティンガーも逃がすつもりで、あらかじめエリィが用意しておいたものだ。今となっては乗る者もいないヴェノムから、ツヴァイトは肩装備のロケットランチャーを取り外した。
 ロケットランチャーだけでも、人間が持ち運ぶには少々重すぎる代物だが、それを動かすための作業用MTなりクレーンなりの機材は、十分に揃っていた。
 あの、スミカが隠れ家にしていた古城である。
 三人はあのあと、この古城に逃げ込んだのだった。他に逃げる場所もなかったし、ここならACの修理も組み替えもできる。味さえ気にしなければ食糧もあるし、燃料弾薬のストックも十分。
 ツヴァイトはガレージに収めたヴィーダーの組み替え作業に余念がなかった。
 エリィからファンタズマの正体を知らされ、そのエリィが報告の為にムラクモ社に戻ってから、ずっとガレージに籠もりっきりだった。誰とも一緒にいたくなかった。ただ、油の臭いのする相棒と、一人っきりで向き合っていたかった。
 ヴィーダーから、自慢の六連ミサイルポッドを取り除き、その代わりに、さっきヴェノムから取ったロケットランチャーを装備させる。そして、再びトレーラーの中を覗き込み……
 ツヴァイトは絶句した。
 中型のミサイルポッドが一つ、荷台の隅に積まれている。エリィが報酬代わりにと用意してくれたパーツ。
 こないだ売り出されたばかりの、正気を疑うような新型ミサイルである。
 つまり、レイヴン向けの小型戦術核ミサイルだった。
 ムラクモはこんな物騒な代物を売り出して何がしたいのだかしらないが、おかげで火力が増したと喜んでいるレイヴンは多い。その代わり弾薬費はべらぼうにかさんで、販売元のムラクモは大もうけという商品である。
 なるほど。そうしたかったわけか。だが、このミサイルで自分の勢力が襲われることまでは考えてないのだろうか。
 だいたい、こんなものを報酬代わりによこすエリィもエリィである。ばれたら首が飛ぶくらいでは済まないだろうに。
 ともかく、今は助かる。ツヴァイトは作業用のMTをつかってそれを取り出し、ポッドに収められたミサイルを一つ取り出した。
 ミサイル一つでも、ツヴァイトが両腕でようやく抱えられるだけの大きさと重さがある。ツヴァイトはそれを床に置き、早速分解を始めた。構造は案外単純だ。爆弾の部分だけ切り離すこともできそうである。
 レーザー雷管へのアクセスも、一般的なミサイルと同じシステムだ。これならツヴァイトにも細工ができる。
 と、そのとき。
 ツヴァイトはふと、背後に気配を感じた。座り込んだまま、ゆっくりと振り返る。
 トレーラーの荷台に手をついて、こっちをじっと見つめているスミカがいた。
 一体いつからそうしていたのだろうか。その目は何かを訴えるかのように、ツヴァイトを責めているかのように、暗く輝いている。
「なんだ?」
「なにしてんの」
 ツヴァイトは肩をすくめた。そのまま、ミサイルの分解作業に戻る。
「戦利品の値踏みさ」
「嘘」
 スミカはつかつかと歩み寄り、ツヴァイトの正面に回り込んだ。腰に手を当て、鋭い視線で、頭の上から見下ろしているのを感じる。ツヴァイトは手を止めなかった。
「あんた、あいつをどうこうしようなんて思ってるんじゃないの?」
 ツヴァイトは答えない。
「エリィから聞いたでしょ!? あれは化け物なの、火がついたら街一つ消し飛ばしちゃうような爆弾なのよ! 一体そんなの相手にどうしようっていうわけ!?」
「今考え中さ」
「ふざけないで!」
 スミカはツヴァイトの肩に両手を置いて、ぐいと体重をかけてきた。スミカの両目が、綺麗な鼻が、ツヴァイトの目の前に寄せられる。その目が濡れているのがわかる。唇が震えているのがわかる。
 でもどうしろっていうんだ。ツヴァイトは手を止め、じっと、スミカの目を見つめ返した。
「死にに行くようなもんだわ! そんなの馬鹿げてる。今すぐ逃げるべきよ。どうしても行くっていうなら、わたしはあんたをふん縛ってでも連れて逃げるわよ!!」
 そしてスミカは俯いた。ツヴァイトに全ての体重を預けて、もたれかかるように。くずおれてついたスミカの膝が、床に転がっていたミサイルに触れた。ミサイルはころりと転がって、ヴィーダーの脚に引っ掛かって、止まった。
「やれよ」
 やがてツヴァイトが呟いた。
「お前が本当にそれが正しいって思うなら、そうするべきだって思うなら――縛ってでも、引きずってでも、なんならぶん殴ってでも、そうすりゃいい」
 そして小さく笑う。
「なんたって、女の子に縛られるのは気持ちいいしな?」
 弾かれたようにスミカが顔を上げた。もちろんそのほっぺたは、不満にぷっくり膨らんでいる。スミカは伸び上がってその勢いで頭突きをかますと、痛みにのけぞるツヴァイトを突き飛ばすように立ちあがった。
「あんたねーっ! 冗談で言ってんじゃないのよ!?」
「いや、わかった、わかってるって。悪かった」
 ツヴァイトは頭をさすりながら、転がったミサイルを追って立ちあがった。ヴィーダーの足元で静かに眠っていたそれを、両手でなんとか拾い上げ、ポッドの中に収め直す。
「昔な」
 ツヴァイトは、むくれているスミカに背を向けたまま、ぽつりと言った。彼の手元で、ポッドの蓋がぱたりと小さな音を立てて閉じる。微かな風がツヴァイトの髪を揺らして過ぎていった。
「弟がいたんだ。弟もレイヴンだった。レイヴンとしての名前はヴェントゲーエン。本名はクロード。いいやつだった」
「だった、って……」
 スミカが眉をひそめる。ツヴァイトはかまわず話を続けた。
「弟は、強くなかった。弱いって程でもなかったけど、この業界で一人生き延びられるほどには、強くなかった。オレはあいつに強くなって欲しかった。だからオレは、あいつを鍛えようとした。辛いトレーニングを無理にやらせた。あいつは強くなっていったけど、まだ足りなかった。オレにはそう思えた。
 ある時、あいつはオレのしごきに嫌気が差して、うちを飛び出した。どこかの街で、一人で仕事を始めた。
 しばらくして、あいつがあるレイヴンに殺されたと、噂で聞いた」
 空気が急に緊張するのを、ツヴァイトは感じた。背中の後ろでスミカが気を張り詰めているのに違いなかった。
「それが」
 スミカが小さく声を上げた。
「それが、何の関係があるっていうの」
 ツヴァイトは答えない。
 と、その時だった。
 ヴィーダーのコックピットの中で、アラームが鳴っていた。
 メールが届いたという合図だった。

 暗い。
 ここはなんて暗いんだろう。
 スティンガーは、たどり着いたその場所をぐるりと見渡した。全方位カメラアイがその助けになった。光量の乏しいことが、ファンタズマの優秀な暗視フィルター越しにも感じられた。
 光吸収素材で包まれた、闇を生み出す為に作られた空間。
 唯一、スティンガーがここに入ってくるために空けた大穴だけが、外からの光を導き入れている。どこかで爆発音が聞こえた。さっき片づけた警護のMTが、ついに爆発を起こしたのだろうか。
 全て、残骸に。
 スティンガーは彼女を喚んだ。彼女は瞬き一つするよりも早く、スティンガーのそばに現れた。いつものように、無邪気に彼の胸に寄り添い、そっと彼の肩に手を乗せていた。
 こんな所へ来たかったのか、アヤ?
 スティンガーの疑問に応えて、彼女が送ってくる「肯定」の意識。
 なんて心地の良い意識なんだろう。
 心の芯まで染み渡るような、暖かくて気持ちのいい、肯定と甘えに溺れながら――それでもスティンガーは、心に残っている疑問をなんとか言葉の形に練り上げた。
 でも、こんなところで何をするつもりなんだ?
 全て、残骸に。
 すぐさま返ってくる単一の回答。
 そのために、わたしは、つくられた。
 ああ、そうか。
 スティンガーは微笑んだ。心から安心したように。
 そうしたいんだな、アヤ。
 そしてスティンガーは、既に失われた腕を伸ばして彼女を抱き寄せた。彼女の温もりが腕の中にあった。熱くもなく、冷たくもなく、とても心地の良い体温に包まれて、スティンガーは目を閉じた。光も、音も、何も要らない。この肌に触れる温もりさえあればいい。
 俺は、お前の望むものをあたえてやれなかった。
 スティンガーは声なき声でそっと囁いた。
 だから、俺は今、嬉しいんだ。
 今こそお前にあたえてやれる。お前の望むものをあたえてやれる。
 俺はお前のしたいようにさせてやれるんだ。
 全て、残骸に。

 その瞬間。
 最後に残っていたスティンガーの理性が、はじけ飛ぶ瞬間。
 自分の世界の深淵にただ一人潜って、考えることをやめた男の理性が、救いを求めて最後の叫びを放った。
 ファンタズマも、彼女も、自分自身さえも気付かないうちに。小さく、か細く、淡く。
 ――まるで亡霊のように。

From: "Phantasma" <43902jgfkops89.murakumo.uc>
To: zweit <zweit.mail13.ravensnest.az>
Subject:
>面倒だが、お前をセレモニーに招待してやる。
>閉鎖施設「アビス」まで来い。
>待っている。

 ヴィーダーのコックピットの中で、表示されたメールの本文が、チカチカと小うるさく瞬いていた。

ARMORED CORE PROJECT PHANTASMA
MISSON#04 "Phantasma"


「制御できない!?」
 エリィは上司の言葉を聞くなり、一枚板の高級なデスクに、両の手のひらを思いっきり叩き付けた。
 ムラクモ・ミレニアム・アンバークラウン支社。エリィはアイザックの出だが、入社直後に配属されたのがここの特殊技術局である。優秀な技術屋というのはどこの企業でも欲しがっている。それを利用して、他企業に技術屋のふりをしたスパイを潜り込ませるのが、特殊技術局の仕事だ。
 スパイとしての技術は無論のこと、技術者としての技量もなければつとまらない仕事である。
 特殊技術局の局長は、怒りに震えるエリィに詰め寄られても、眉一つ動かさなかった。
「ウェンズディ機関が埋め込んでいた罠だ。我々が奪取しても使用できないようにしたつもりらしい」
 と、局長は数枚のハードコピーをエリィに手渡した。ムラクモ社が行った、ウェンズディ機関の秘密基地に対する調査の報告書である。
 エリィはそれにかじりつき、一言一句まで逃さず流れるような速さで読み始める。右へ左へと視線がせわしなく動き――
 やがて、絶望に凍り付いた。
「パイロットが搭乗すると、ファンタズマは神経リンクを通じて快楽中枢に働きかけ、パイロットに幻覚を見せる。パイロットが深層意識に持っていた願望を満たす幻覚を、な」
「そして本来、ファンタズマの制御――いや、最終安全装置として働くはずのパイロットを、逆にファンタズマ本体に隷属させる――」
「今のファンタズマは、プログラムされた『地下都市の破壊』という存在理由を満たす為だけに動く、制御不能の怪物だ。おそらくは最も近いアンバークラウンの中心部で炸裂することを狙っているのだろうな」
 エリィの手が、ハードコピーの端をくちゃくちゃに握りつぶした。もうどうしようもない。ファンタズマの外部からの制御は不可能。ファンタズマを物理的な手段で止めるにも、とてもじゃないが、時間も戦力も足りない。
「どうするんですか」
 押し殺した声でエリィは問うた。
「アイザックの本社から、撤収命令が出た」
「撤収!?」
「他の部署は既に作業にかかっている。重要なデータ、物資、人材だけを、最優先でアイザックに運び込むようにというお達しだ」
「重要な人材だけって、そんな……!」
 それはつまり、アンバークラウンの民衆を見捨てるということ。
 食ってかかろうとするエリィを、局長が鋭い視線で睨み付ける。
「心配しなくても、君もその『重要な人材』の内に含まれている」
 まるで蛇に睨まれたカエルのように、エリィはぴたりと動けなくなった。有無を言わせない言葉。全てを凍り付かせる眼光。
 なんでこんな言葉で動けなくなったんだろう。自分がどうとか、そんなことは関係ないはずなのに。
「確か、アイザックの研究所に彼氏が勤めてるんじゃなかったかね? 早く帰って、彼を安心させてやりたまえ。きっと心配している」
 そのはずなのに。
「ファンタズマは、もういつ炸裂するかわからん状態だ。一刻も早く逃げねば我々も危ない。私だって心は痛むが、身を削ってまで他人の心配はできんのだよ」
 ――スティンガー。
 エリィはうつむき、奥歯を噛みしめながら、彼の顔をふと思い起こした。
 ――あなたならきっと、面倒なことを考えてないでさっさと逃げろって、そう言うんでしょうね。
 そういう、優しい奴だったから。
 でも、エリィはもう動けない。

 ツヴァイトはぶるぶると頭を振った。水しぶきがシンクに飛び跳ね、流れて消えた。
 洗面所の鏡に向かい、ツヴァイトはじっと自分の目を見つめる。冷たい水に引き締められた顔。黒々と輝いている瞳。とてもいい具合だ。迷いがない。
 少なくとも今はそう思える。
 壁掛けのタオルをひっぺがして顔を拭くと、ツヴァイトは決意を固めてトイレを出た。
 その背中に声がかかる。
「ほんとに行くの」
 外で待ちかまえていたスミカだった。
 ツヴァイトはすこしためらった。行くかどうかではない。応えるかどうかを、だ。短い逡巡を切り抜け、ツヴァイトは小さく自嘲気味に微笑んだ。うつむき目をそらすついでに。
「弟は、オレが殺した」
 スミカの筋肉が固まるのが、離れていてもわかった。
「他のレイヴンに負けて、借金がかさんだあいつは、強化人間の実験台にされたんだ。でも実験は失敗……暴走したあいつを抹殺するっていう依頼が、偶然オレの所に舞い込んできた。
 あいつはもう完全に狂っていた。手遅れだった。だから、殺した」
「そんなの!」
 悲鳴にも似た声。
「そんなの……」
 しばらく沈黙が続いた。
 ひたり。蛇口からシンクへ、水の落ちる音が聞こえてきた。しっかりコックを閉めてきたはずなのに。水道の圧力はとても強くて、弱い蛇口のコックなどでは、とても全てを封じ込められない。少しずつ高まった圧力が、一滴、また一滴と水を滴らせる。
 ひたり。
 また一滴、水が落ちた。
「わかってる。殺しちまったのは仕方がないことだ。
 でもオレは、あいつを強くしてやりたくて――結局そうできなかった」
 ツヴァイトは顔を持ち上げた。
 スミカの瞳を真っ正面から見つめた。
「誰かに何かをしてやりたいって、本当に思えた時――オレには何ができるんだろう。
 そいつの望みを叶えてやればいいのか。
 それとも、たとえそいつが望まなくても、オレが正しいって信じられることをするべきなのか」
「あなたは」
 スミカが拳を握りしめる。
「弟さんのためになるって、信じてやったんでしょ。ならそれでいいじゃない、あんたは悪くないわよ」
「だがクロードは死んだ。それが結果――事実だ」
「……やめて」
「もっと巧いやりかたがあったはずなんだ」
「もうやめて」
「本当にあいつのためになる、巧いやりかたが――」
「やめてって言ってるでしょ!?」
 叫ぶと、スミカはツヴァイトにつかみかかった。力の抜けた柔軟なツヴァイトの体は、押されるまま、壁に叩き付けられた。軽い衝撃が背中からツヴァイトの体を走る。一瞬だけ、息が詰まる。
「あんたの昔話なんかには興味がないの! 死にに行く言い訳ばっかり聞かせないで!」
 ひたり。
 また、一滴。
「――悪かった」
 そして、優しくスミカを引きはがす。
「でも、ほっとけないんだ。オレと同じ間違いをしようとしてる、あいつがさ」
 ツヴァイトはスミカに背を向け、長い廊下を歩き始めた。
 その背にスミカは、銃口を向ける。
「行かせないわ!」
 ツヴァイトはしばらく考えて、それから応えた。
「言ったろ。それが正しいって思うなら、そうすればいい」
「止まんなきゃ撃つって言ってんのよ!」
「それもいいさ」
 小さく笑い、
「不器用なもんでね。荒っぽいほうが性に合ってる」
 そしてツヴァイトは歩き出す。
 まっすぐに、ガレージに、愛機ヴィーダー・ツ・コメンに向かって。
 スミカは両手で拳銃を構え、じっと、その背中に狙いを定めていた。引き金の上に乗った人差し指が、何度となく動こうとするのがわかった。
 でも、撃てなかった。
 遠ざかっていく背中を見送り、すっかりその背が見えなくなってから、ようやくスミカは銃を降ろした。
 なぜ撃てなかったんだろう。撃たなきゃならないとわかっていたはずなのに。
 わかっていたはずなのに。
「そんなの」
 銃が床に落ちた。
「そんなのただの言い訳じゃない」

 閉鎖された断光実験施設「アビス」。
 アンバークラウン最深層の中央部にあるこの施設は、元々はニュートリノ観測実験のために建造されたものだ。巨大な球形の空間を、高密度の断電磁波素材で覆い、電磁的に密閉な空間を造り出す。それをくぐり抜けるのは波長のごくごく短い宇宙線くらいなので、ニュートリノのような透過率の高すぎる粒子を観測するのに役立つ。
 他にも反ヒッグス粒子スクリーンの実験にも使われていたとかいう話だが、そんな最先端の実験施設がなぜ閉鎖されたのか、その答えはだれも知らない。採算が取れなかったか、何かの技術的な不都合が生じたか、そんなところだろう。
 ヴィーダーは、その球形空間の天辺に空いた大穴から、アビスの中に飛び込んだ。
 上から漏れ込む光以外に灯りのない空間を、ヴィーダーはどこまでも落ちていく。深い。とても深い。まさに深淵の底までとどきそうな空間。やがて、ヴィーダーは平らな床の上に、バーニアを噴かしながらゆっくりと着地した。
 球形空間の真ん中に、真っ平らな円形の床を取り付けてあるらしい。暗くて壁や天井は見えないが、おそらくはドーム状の部屋になっているのだろう。
 カメラのシステムを切り替え、光増幅モードに変更する。いまのアビスは完全な閉鎖空間ではない。天井に空いた穴から差し込む光が、乱反射してアビスの中を満たしているはずだ。その僅かな光を、高性能な光学処理で増幅する。
 ツヴァイトの額に汗が浮かんだ。
 ぼんやりと、暗闇の中に浮かび上がってくる機影。
 闇の中でも輝くかに思えるほどの。
『アビスへようこそ』
 鮮烈な赤。
『これがファンタズマだ』
 スティンガー。
 カメラが光増幅の具合を調整するにつれて、ファンタズマの姿が次第にはっきりと見えてきた。
 真っ赤な曲面装甲に覆われた、平たいシルエット。サイズはACより一回り大きい程度。背が低くて前後に細長く、前面の左右に大きな格闘戦用クローを装備したその姿は、甲殻類を彷彿とさせる
 機体の下部には、大型のプラズマカノン。機体上部には四角いミサイルポッドのようなものが装備されている。
 ファンタズマ。まさしく、あのときウェンズディ機関の基地でちらりと見た機体だ。
「一応礼は言っとくぜ」
 ぎろりと、ファンタズマの前面に突きだしたカメラアイが、下からすくい上げるようにヴィーダーを見上げた。
「素敵なセレモニーに招待してもらって、光栄の至りってやつだ」
『礼には及ばない。お前にだけは、こいつを見せておきたかった』
 きゅいいいいい。
 スティンガーの声の背後で、子犬の鳴き声のような音が響く。
 耳慣れない音。一体、これは――
『俺のために何かができるだなんて』
 ファンタズマの機体後部に灯る、青い輝き。
 プラズマジェットスラスター!
 ツヴァイトは弾かれたようにペダルを蹴りとばす。
『傲慢をほざいたお前にだけは!』
 その瞬間。
 真紅の亡霊が、漆黒の闇を切り裂いた。

 行かなきゃ。
 エリィは車に乗り込むなり、ムラクモ・アンバークラウン支社の地下ガレージから飛び出した。綺麗な照明に彩られたアンバークラウンの中央通りを突っ切り、螺旋ターミナルを伝って下層に降りる。アクセルは踏みっぱなしだ。
 目指す先はもちろん、閉鎖実験施設、アビス。
『おい、応えろエレン! エレン・ガブリエラ! 戻るんだ、戻れと……』
 上司の声を吐き出し続ける通信機を、エリィは人差し指一本でオフにした。
 行かなきゃ。
 まるで強迫観念のようなその思いだけが。

 横っ飛びに飛び退いたヴィーダーの脇を、赤い刃が突き抜けていく。凄まじいスピードのファンタズマ。両腕のクローを前面に押し出しての突撃だ。かすりもしなかったその攻撃が、次の瞬間には爆発にも似た衝撃波となってヴィーダーを襲う。
 コックピットの中で踏ん張りながら、ツヴァイトは視線をモニター中に走らせた。そして赤い姿を見つけると、二度と見失わないように両目を見開いてその姿を追う。
 奴のスピードは亜音速にまで達している。あの見たこともない超大型プラズマジェットスラスターの成せる技か。
「ちょっとブーストしすぎだぜ」
 さしずめ、オーバードブーストっていうところだ。
 だが、とツヴァイトは舌なめずりする。あのスラスターは偏向制御ができないと見える。かなり単調な軌道しか取れないはずだ。ならば、どれだけ速くても狙い目はある。
『俺はついにこいつと一体になった!』
 スティンガーの叫び声。旋回するファンタズマ。赤い亡霊が大きく弧を描きながら、アビスの中心に佇むヴィーダーを正面に捉える。
 対するヴィーダーはパルスライフルを正面に構え、頭部カメラの正確無比な測量で、寸分違わず狙いを定める。一分の狂いもあってはならない。仮説が正しければ、ほんの少しでもずれたら奴にはかすり傷さえ負わせられない。
『もう誰も!』
 来る!
 二度目の突撃。ツヴァイトは動かない。ただじっと、ファンタズマに収束するロックオンマーカーを見つめ――
 引き金を引く。
 放たれたリング型の曳光弾は、ファンタズマのやや上の方を目がけて飛んでいき、そして命中の直前で大きく軌道を上にそらされ、遥か彼方へ虚しく飛んでいった。
 はずれか。しかし――
 舌を打つ暇もない。突っ込んでくるファンタズマに、ツヴァイトは思いっきりペダルを蹴りつける。跳ねるように横に飛ぶヴィーダー。重量級の鈍い動きでは、ファンタズマの突撃をかわしきれない。クローがかすったか、衝撃波に耐えかねたか、肩の装甲板が一枚剥がれて吹き飛んでいく。
 空中で体勢を立て直し、ヴィーダーはなんとか両の脚で地面に着地した。そして再び大きく弧を描くファンタズマを視界に捉える。剥がれ落ちた装甲板の下から、どろどろとした緩衝液が、まるで血のようにしたたっている。
『俺を止めることは!』
 三度目。ファンタズマが、ヴィーダーを真正面に見据え――
『できないッ!!』
 ツヴァイトの全神経がファンタズマに集中する。さっきはあそこを狙って、ああいう軌道になった。脳が全力で計算を巡らし――そして煙を噴いた。だめだ。計算じゃだめだ。計算ではとても捉えきれない。
 計算では捉えられないなら。
「できる」
 ツヴァイトは腹の底から叫んだ。
 三度目の突撃を仕掛けてくるファンタズマの真っ向に、ヴィーダーが銃口を突きつける。真ん中。真ん中だ。ただ奴の真ん中を――
「できる!」
 ツヴァイトはトリガーを引いた。

 スミカはコーラルスターの巨体を見上げた。
 ガレージの常夜灯を浴びて、蛍光ピンクの装甲板が輝く。流れるように滑らかで、すべすべした装甲板。灰色に染まってしまった死の世界の中で、ただ一つだけ明るく輝いている鮮明な色。
「もし、わたしにわかっていたら」
 スミカは小さく呟いた。誰に向かって呟いたのだろうか。
「彼が何を欲しがっているかがわかっていたら、もっとうまくやれたのかもしれない。
 でも、そんなことわかりっこないよ。わかるわけない――」
 あの時もわからなかった。
 そして今もわからない。
 でも。
 それでも。
 ――本当にそうすべきだって思うなら、そうすればいい。
 スミカは固く、白い指を拳の中に握り込んだ。

 迸るリング型曳光弾。それはまごうことなくファンタズマの中心目がけて飛んでいき――
 ファンタズマの赤い装甲板に、強烈な衝撃を叩き付けた。
「あたったっ!?」
『うおおッ!?』
 スティンガーの呻きが聞こえる。ファンタズマの巨体が揺らぐ。しかしファンタズマはギリギリのところでホバーユニットを動かし踏みとどまると、よろめきながらもヴィーダーの突進を再開する。だがその速度に依然ほどの脅威はない。飛び退くヴィーダーを捉えきれず、ファンタズマのクローは虚しく宙を裂いて過ぎる。
『おのれ……おのれえッ』
 三度目の弧は弧ではない。今度はヴィーダーの周りを、円を描くように動き始める。
 恐れか。あるいは戸惑いか。
 いずれにせよ、ファンタズマはヴィーダーに近付きたがらない。
『なぜだ!?』
 スティンガーの声を借りて叫ぶ。
『なぜ俺は傷つく!?』
「ど真ん中を射抜いたからさ」
 いつの間にか、ツヴァイトの息は軽く弾んでいた。
 緊張していたからか。ファンタズマを射抜く為に、意識を集中しすぎていたからか。
「核攻撃でも傷一つつかないファンタズマの防御力――その正体は、なんのことはない、ふつうのACにも使われてる反ヒッグス粒子防御スクリーンの強化版ってこった」
 ともかくツヴァイトは大きく深呼吸して、どくどくと力強く脈動する心臓を抑え込んだ。落ち着け。冷静になるんだ。でないと亡霊には勝てない。亡霊の姿は見えない。そう自分に言い聞かせる。
「ってことは、対処法も同じ。弾道を曲げられないようにスクリーンの法線方向から運動エネルギーを加えるか、あるいはスクリーンの内側から攻撃すればいい。つまり」
 亡霊と戦うには。
「真っ正面から心臓をぶち抜くか、肌が触れ合うほどに近付くか、ってことさ」
 亡霊を見据えなければならない。
 亡霊に近付かねばならない。
『貴様ッ! 貴様だけはッ!』
 だが、亡霊に声は届かない。
 ファンタズマが回頭する。プラズマジェットスラスターを停止させ、通常のホバーだけで浮遊しながら、荒々しくヴィーダーの睨め付けた。
 憤怒。あるいは焦燥に、塗りつぶされた心。
『死ねぇえっ!』
 ファンタズマの背中から、無数の砲塔が姿を現す。ツヴァイトはそれを見るなりペダルを蹴りつけ、ヴィーダーを急速後退させる。どんな砲撃かはしらないが、これだけ距離が離れていれば――
 次の瞬間。
 ツヴァイトの意識が凍り付いた。

 残骸。
 全て、残骸へ。
 歌うように、祈るように、スティンガーは意識を外へ広げる。全ての矛盾を平らげるために。全ての不条理を掃き捨てるために。どこまでも広がる真っ平らな地面のイメージ。それを創る。何一つない世界。完全に平坦な地平。
 全て、残骸へ。
 内から沸き上がるその衝動を、もはやスティンガーは疑わない。アヤの願いが、アヤの祈りが、スティンガーの心を塗りつぶす。肉体と心と精神が、バラバラに砕けて離れていく。
 スティンガーであるかのように振る舞う肉体。
 アヤの姿を借りる亡霊に取り憑かれた心。
 そして、精神は?
 全て、残骸へ。
 お前の精神は、一体何を望んでいる?

 七色の閃光。
 ツヴァイトには一瞬なにが起こったのかわからなかった。
 ただ、ファンタズマから、突然、赤や青や緑や、数え切れないほどの様々な色の光が迸り――
 次の瞬間、ファンタズマの姿が見えなくなった。
 レーダーに反応。ツヴァイトは重たい頭を巡らせ、レーダーサイトに視線を送る。敵の位置を示す赤い光点は素早く動き、ツヴァイトの側面から後方へと回り込もうとしている。見えなくなったわけではない。死角に回られただけだ。
 だが、なぜ?
 なぜ奴の動きを目で追うことができなかった?
「くそっ!」
 叫びながらツヴァイトは操縦桿を握りしめる手に力を込める。いつもの通り、急速の旋回を――
 いや。
 ヴィーダーが動かない!
 違う、ヴィーダーが動かないのではない。操縦桿を握るツヴァイトの手が動かないのである。まるで体中に無数の重りを縛り付けられたかのよう。時間の流れが遅くなったかのよう。意識はあるのに、意識が筋肉に伝わらない。
 体が重い。
「これはっ」
 ツヴァイトの額に脂汗が浮かぶ。原因は一つしか考えられない。
 ファンタズマが放っている七色の閃光。
 あの光のパターンが、視覚から脳に働きかけて、神経の伝達を阻害している――ある種の催眠か暗示のようなものか。
『動けまい』
 背後のファンタズマから通信。
 まずい。ツヴァイトは震える指に力を込める。なんとかして操縦桿を倒さなければ。このままでは突撃の餌食になるだけだ。
『終わりにしてやる!』
「こんのォッ!」
 腹の底から気合いを吐き出し、ツヴァイトは渾身の力を込めて操縦桿をひねり倒した。ヴィーダーがファンタズマに背を向けたまま、横っ飛びに飛び退く。しかし遅い。後ろから仕掛けられたファンタズマの突撃が、ヴィーダーの右腕を肩口からもぎ取る。
 機体バランスが崩れる。配線がショートを起こしている。ツヴァイトはコンソールのスイッチを押し込み、右腕パーツのパージコマンドを走らせた。瞬間、右腕に繋がる全ての配線が切断され、重量バランスが再計算される。
 ふらつきながらも両の脚でなんとか着地。真っ正面のファンタズマを再び視界に捉え――
 そのファンタズマから、二度目の閃光。
 ツヴァイトは反射的に目を閉じた。だが間に合わない。ほんの一瞬あの光を見ただけで、ようやく動くようになってきた体が、再び鉛の重りに縛り付けられる。
『今度こそ』
 スティンガーの声。
『今度こそ終わる!』
 ファンタズマの背中に灯る、青いプラズマの輝き。
 ――だめかっ……!?
 ツヴァイトが奥歯を噛みしめた、その時。
『終わるかあっ!』
 突如舞い込んできた通信。
 甲高い女の声。
 ツヴァイトは反射的に上を――アビス・ドームの天井に空いた大穴を見上げた。
 飛び込んでくる目が痛いほどの蛍光ピンク。
「スミカっ!?」

『なっ……なにしに来やがったっ!?』
「あんたを助けに来たにきまってんでしょーがっ!」
 間違っている。
 スミカはそう思った。
 ツヴァイトを一人で戦わせちゃいけない。
 死なせちゃいけない。
 あの時はわからなかった。
 そして今もわからない。
 ツヴァイトが助けて欲しいと思っているのかどうか。生き延びたいと思っているのかどうか。一体ツヴァイトがどうして欲しいと思っているのかなんてこと――
 それでも、こうするべきだと思うから。
「こんのおッ!」
 飛び降りざまに、コーラルスターはファンタズマの真上からマシンガンの掃射を喰らわせる。その弾丸の全ては、強力な反ヒッグス粒子防御スクリーンの弾道を歪められ、床に穴を穿って終わる。だがそれでいい。奴の注意を引きさえすれば。
 案の定。ファンタズマの機体後部に灯っていた青いプラズマの光が消え失せた。代わりにファンタズマの意識がこちらに向けられる。コーラルスターが肌で感じるその感覚を、スミカは強化人間の超感覚で読みとった。
『雑魚は散っているがいいっ!』
 スティンガーの声。それと同時に、ファンタズマから閃光が迸る。
 攻撃――ではない。スミカは戸惑い、しかしその光が無害であることを悟ると、覚悟を決めてそのままファンタズマの直上に狙いを定め、重力に体を任せて落下した。
 スティンガーにもファンタズマにも予測は不可能だった。それは完全な偶然だった。
 特殊な色のパターンで敵に暗示をかける催眠兵器が、色を理解できないスミカには、全く効果がないということは。
『鈍らない!?』
 スティンガーの悲鳴が響く。スミカはかまわず、コーラルスターの左腕を真下に向けた。マシンガンで効果がないなら、至近距離からプラズマトーチをぶちこんでやるしかない。機体の天地を逆さまにして、そのままブースター噴射で突撃する。
『くそッ!』
 ファンタズマのプラズマカノン砲口が、コーラルスターを捉えようと真上に動き――
 しかし間に合わない。
「どおおおりゃああああああああッ!!」
 コーラルスターがファンタズマの頭上に降り注ぐ。
 まるでひとすじの流れ星のように。

 どんっ。
 腹の真ん中を貫くような重低音が響き渡り、ファンタズマのボディが小爆発を起こした。コーラルスターのプラズマトーチと、その重力に身を任せた体当たりで、機体上部の砲塔が誘爆をしたのだ。
 七色の閃光が、止んだ。
 反動を喰らったか、どこかの回路がいかれたか、コーラルスターは、左のマニュピレータを肘のあたりまでファンタズマにめり込ませたまま動かない。
『おおっ……』
 スティンガーの、驚きと怒りの唸りが電波に乗って飛んでくる。
『おのれェ――――ッ!!』
 き。
 きゅいぃイイイイん!
 泣いている。
 ファンタズマが泣いている。
 ツヴァイトはようやく動くようになった首をもたげて、狂ったように奇怪な鳴き声を上げるファンタズマを見つめた。赤い亡霊は醜く歪み、ピンク色の異物を貼り付けたまま、スラスターに無理矢理プラズマを充填する。即座に吐き出される青いプラズマ。ファンタズマの巨体が弾かれたように宙に舞う。
 その衝撃に耐えきれず、コーラルスターの腕が折れ飛ぶ。そのままコーラルスターは振り落とされて、アビスの冷たい床に二三度跳ね返ると――ぴくりとも動かなくなった。
「スミカッ!」
『いっ……たたぁ……』
 ツヴァイトの叫びに、帰ってくる微かな返事。苦しげな呻き。だが、生きている。
「馬鹿野郎、なんて無茶しやがる!」
『なによその言い方っ! 助けてあげたんだからね! これで負けたら承知しないからねっつおー!? あいたたた……』
「馬鹿っ」
 ちぇっ、とツヴァイトは舌打ちを一つ。
「ほんとに馬鹿だお前は」
 そしてヴィーダーのカメラで上を捉える。
 アビスの広いドームの中を、苦しげに飛び回る赤い亡霊。ファンタズマは青い光の尾を引いて、空に模様を描くかのように、自分の飛んだ証を残るかのように、黒い空間に己の光を焼き付けている。
「だが助かった! あとはまかせとけっ!」
 武器を切り替え、肩に装備しておいたロケットにFCSを連動させる。次に奴が打つ手は一つ。最後の最後まで残しておいた取っておき。
『面倒だっ……』
 きゅいぃイイイイん!
 ツヴァイトの背筋を悪寒が走る。ファンタズマの意識がこちらを観ている。全ての闇を貫いて、幾重にも連なった装甲板を貫いて、奴はツヴァイトの姿を見つめている。その目に浮かぶのは、憎悪? 敵意? 殺意?
 いや、それは――
『面倒面倒面倒面倒面倒面倒面倒だッ! なんで貴様は面倒なんだ! なんで俺の好きにさせない!?』
 ファンタズマが回頭する。ヴィーダーをその正面に捉える。
『なんで命を賭けてまで……』
 来る。
『わざわざ俺の邪魔をするんだぁ――――――ッ!!』
 瞬間。
 ファンタズマの体中から、四基のミサイルが発射された。
 いや違う。ただのミサイルではない。エスコート・リグ。ファンタズマに装備された、自律制御の自走戦術核自爆兵器だ。ムラクモ懲罰部隊を壊滅させ、クロームの一個大隊を蹴散らし、そしてこのアビスを丸ごと消し飛ばしうる破壊力を持ったファンタズマの最後の武器。
「終わった後からできることなんてありゃしない」
 ロケットにロックオン機能はない。ツヴァイトの額に冷や汗が浮かぶ。ロケット弾の予想進路マーカーと、長年の技術とカンを頼りに、徐々に狙いを定めていく。
「だから俺は……本当に正しいと、信じられることだけは!」
 迫るリグ。これを外せば、もはや逃げ場はない。
 息を吸い込む。全ての意識を指先に託す。
「絶対に!」
 トリガーに指を乗せ、
「譲らないんだ!!」
 発射。

 そうだ。譲っちゃならない。
 絶対に。自分が信じる、最後の一線だけは。
 絶対に、譲っちゃならない。
 ツヴァイトの意識が拡大する。ロケットが一直線に飛んでいく。ツヴァイトは無意識に指を動かし、次々にトリガーを引いた。全部で四発。ロケット弾は狙い違わず着弾した。
 ファンタズマの放った、エスコート・リグに。
 かつてスティンガー自身が放った、一撃必殺の毒針。
 ECMロケットの砲弾が。

「なん……だと?」
 ファンタズマに全ての理性を奪われたはずのスティンガーが、自身の口から小さく声を漏らした。
 核兵器は、雷管さえ作動しなければただの燃料。強力なECMに制御を乱されたエスコート・リグは、ヴィーダーの姿さえ見失い、ただのろのろと空中を彷徨い、やがて全ての推力を失い、地面に堕ちた。
 こんなのはおかしい。
 こんなことはあってはならないはずだ。
 その瞬間、スティンガーを縛り付けていた、張り詰めた琴線が、音を立てて切れ飛んだ。

「スティンガー」
 ツヴァイトは、ペダルを踏みつけた。
 呆然と浮遊するファンタズマに、ヴィーダーは全力のブーストダッシュで肉薄する。残った左の腕を振り上げる。
 もはや戦う意志をなくしたスティンガー。奴がほんとうの操り人形になってしまう前に。ファンタズマが奴の全てになってしまう前に。
「お前の鎧を貫いてやる」
 ファンタズマの間近に迫った瞬間、ヴィーダーの動きを微かな違和感が阻んだ。強力な反ヒッグス粒子防御スクリーン。その内側へと、ヴィーダーは入り込む。
 亡霊の近くへ。
 肌が触れ合うほど近くへ。
『なぜ――?』
 弱々しいスティンガーの声が、ツヴァイトの耳に届く。
 ヴィーダーの左腕が、ファンタズマに触れる。
「不器用なもんでね」
 左腕の、本来プラズマトーチが格納されるべきスペースの中で、それが唸り声をあげる。
 あらかじめしておいた細工。ファンタズマに勝つ為に、用意しておいたとっておき。ミサイルから取り出して、そこに隠しておいた、最後の手段。
「荒っぽいやり方しか知らねえのさ」
 核弾頭。
 炸裂。

 ――俺が……まける……?
 至近距離で炸裂した核の炎が、ファンタズマの装甲を焼き尽くしていく。
 神経リンクを通じて、焼け付く肌の痛みが脳に叩き付けられる。だがそんなものにどれほどの苦しみがあるだろう。全てをなくして、全てから遠ざかって、何もない、全く何もないだけの空間になってしまった自分の世界の中では。
 わかっていたのだ。
 アヤが、ただのファンタズマにすぎないということに。
 死んだ人間のために、できることなんてないということに。
 ――ファンタズマ……俺が……俺の全てが消えていく……
 だが、それでいい。
 何もかも、消えてしまえばいい。
 そうすれば、楽になれるんだ。
 ――これは……面倒なことに……
 スティンガーは目を閉じた。
 そのとき。
 眩しい光がスティンガーの瞼を貫いた。コックピットのハッチが、外から無理矢理こじ開けられた。装甲は熱く焼けているはずだった。誰も亡霊の行く手を阻めないはずだった。
 だがなぜ奴は二度までも阻む?
 ツヴァイト。
「認めねえ」
 ツヴァイトは、眩しい光に目を細めるスティンガーを見下ろしながら、言った。
「俺の目の前で死んで楽になろうなんて――そんな勝手は認めねえからな!」
 静かに。
 スティンガーは目を閉じる。
 死ぬ為にではなく。
 眩しすぎる光から身を護る為に。
 生きる為に。
「全く――面倒な奴だ――」
 小さく。
 しかし確かに、スティンガーは呟いた。

 少女は――アヤは全てを見ている。
 どこか遠い場所から、ここと重なりながらここではないどこかから、じっと世界を見つめている。
 男達の世界を見つめている。
 あざ笑っているわけではない。哀れんでいるのではない。喜んでいるのでもない。
 ただ、じっと、冷たく、淡く。
 しかし確かに。
 アヤは、全てを見ている。

to be concluded.