夜が怯えている。
静かな農村にかつてないほどの篝火が焚かれ、息を潜める住人たちの周りで、騎士団もまた身をすくめる。手にした槍と弓は鉛のごとく、体を包む帷子は氷のごとく。誰かが口を開きかけた。胸のうちで膨れ上がる不安を吐き出そうというのだ。年かさの農夫がそれに気づき、
「いけません」
と、押し留める。
若き兵が眉を潜めると、農夫は岩の擦れるような声で言う。
「山のことばに言います。『獣を呼ぶ、獣は来る』」
兵は黙った。だが、念押しの一言が悪かった。
「獣を、恐れてはなりません」
「恐れるものか! 竜など――」
堪えきれず、彼が悲鳴をあげてしまった――
そのとき。
世界が揺れた。
ざわめきが拡がる。揺れ。兵が腰を浮かす。揺れ。子供は泣いて、村人は団子に。揺れ。兵は夜に目を泳がせる。揺れ。何度目とも知れない、足先から脳天まで、引き裂かれそうなほどの、揺れ。
世界の主が、森の奥底から這い出てくる。
途端、巨体が月も星も遮って、ただ篝火の赤に浮き上がった。目にしただけで押しつぶされそうなほどの体躯。黒々とぬめる鱗。千年の大樹よりも太い両脚。無数に突き出した乱杭歯。瞼が、ばちりと音を立てて開き、黄ばんだ瞳が矢のように獲物を射抜く。
鱗の竜。
「撃てェッ!」
騎士団長が恐怖に駆られて怒号を飛ばす。矢が飛ぶ。竜に降り注ぐ。訓練された兵たちが力の限り引き絞って放った矢の雨は、しかし、鋼よりも硬い鱗に弾かれ落ちる。事も無げに竜が一歩踏み出す。揺れが恐怖となって下腹を突き上げ、弓兵の手が止まる。次なる命令が走り、槍兵たちが殺到する。
竜は、嬉しそうに目を細めた。
ごはん、いっぱい。
竜が首を高くもたげた。腹の奥が蠢いて、塊が喉元にこみ上げた。来るぞ! 誰かが叫ぶ。逃げろ! 悲鳴が渦巻く。兵たちは走る。逃げる。誰かが転び、手を貸すものの一人とてなく、絶望の怨嗟が不気味な弦楽のように響き渡り。
竜の歯が火花を散らす。
次の瞬間。
口から噴きでた爆炎が、村の四半を薙ぎ倒した。
炎の息、そんな生易しいものではない。一瞬にして辺りを剥き出しの荒野に変える爆発。避ける術などない。騎士団の半数が息絶え、うち半数はばらばらになり、さらに半数は跡形も無く消滅した。団長の姿ももうない。残る兵たちは風に吹かれた塵のように四散していく。
残り火を口元に揺らしながら、竜は制圧した絶望の荒野をのし歩いた。
目指すは身を寄せ合う村人たちだ。彼らは逃げない。逃げられない。兵たちはいい、敵わなければ逃げ去るだけだ。だがこの地に根を張る彼らは、逃げたところで何の意味もない。どこに行ってもあるのは貧困、その果ての死。地を耕すものは、地をなくしては生きられない。
母が娘を胸に庇い、父が爺と息子の前に立ち、それぞれの、覚悟を決めた。
竜が聳え立つ。顎が迫る。
誰もが目を閉じ、世界は暗闇に没した。
と。
光が弾け、闇を引き裂かんばかりの絶叫が木霊した。
驚き、人々が瞼を開く。竜が苦悶に身を捩り、仰向けに卒倒する。地響き。砂埃。だがその恐るべき轟音が、村人たちに希望を告げる。誰かがそこに立っている。軽装の鎧に身を包み、分厚い外套に身を隠し、腰には剣を、背中に斧を、腿にはナイフ、左手に槍を、右手につぶてを弄び、覆面の奥の狩人の目で、一分の隙もなく竜を睨めつける。
男。
「逃げろ。これは俺の仕事だ」
「でも、あんた……!」
狩人は肩越しに振り返り、その目がそっと、笑った。
「まあ見てな」
狩人が奔る。竜が怒りに狂って起き上がる。長い首を後ろに引いて(来る!)顎が矢よりも素早く迫るが、狩人の回避はそれより早い。竜の牙は外套の裾を浅く切るのみ。その隙に狩人の槍が竜の喉下に突き刺さる。無数の矢さえ弾ききった鋼の鱗をも貫いて。再び竜の悲鳴。パニックを起こした竜は、丸太のごとき脚で狩人を蹴る。だが事も無げに彼は魔獣の腹の下に転がり込んだ。脚は虚しく中を薙ぐ。
首を引くのは噛み付きの予備動作。
喉元は鱗が薄い弱点。
蹴りはここなら当たらない。
全てを知り尽くした狩人の、背中の斧が轟と唸った。
分厚い刃が、竜の膝を、裏から半ばまで叩き割る!
今度こそ恐怖の声を挙げ、竜が真横に倒れ伏した。初めて味わう痛み。憐れを呼ぶ喚き声。腹の下から飛び退いて、狩人は腰の剣を抜く。
が、止めを刺そうと睨んだのもつかの間、横手から竜の尾が襲い掛かった。見たことのない攻撃パターン。全く予想外の一撃。避けきれず、恐るべき力で玩具のように弾き飛ばされ、狩人は地面に数回跳ねた。
痛み、と認識すらできない、全身が砕けたかのごとき衝撃。震える腕で身を起こそうとする。胃液が逆流する。血の混じったそれを吐き出す。這いずる狩人を狙い、苦し紛れに竜が噛み付く。ほとんど転ぶようにして後退し、辛うじて避ける……が、剣を杖に立つのがやっとだ。
狩人の苦しみように、奮い立ったか。
竜の瞳が、怒りに燃えた。
首を高くもたげる。腹の奥から塊が込み上げる。爆炎がくる。逃げられるか? 否、それよりも。狩人は弾かれたように振り返る。村人たちがそこにいる。今を撃たれてはひとたまりもない。
舌打ちひとつ。やむなく彼は腰のナイフを引き抜いて、
「当たれよっ!」
竜の口めがけて投げつける。
硬質の乱杭歯が、音を立てて噛み合う――その直前、歯の隙間に突き立ったナイフが、火花の散るのを阻んだ。喉元まで逆流してきた燃料液が、着火の火花を奪われて不発に終わる。こうなれば燃料液は強酸性の薬液でしかない。竜が呻いて、嘔吐する。
――狩人は獲物を逃さない。
竜の動きが止まった、その一瞬。
――あんたがそうだったようにな!
狩人は迫った。容赦なく。
狙いは一点。鱗を持たず、一撃で致命傷を与えうる、ただひとつの弱点。
狩人の剣が飛び込んで、竜の眼を真っ直ぐに貫いた。
悲鳴すらも、もはや挙げることはなく。
静かに身を横たえた、それが竜の最期だった。
全ての音が収まり、夜の怯えがどこかに消えて、かわりに村人たちの歓声が空を揺らした。
狩人のもとに駆け寄ってくる村人たち。もみくちゃにされて、狩人は決まり悪そうにそっぽを向く。かわいい村娘が感極まって抱きついて、有無を言わせずキスの贈り物をくれるとあっては、彼にとっては少々刺激が強すぎる。
「おいおい」
「勇者さま! 勇者さまだーっ!」
「ただの害虫駆除業者さ……」
照れる狩人に、笑いが巻き起こった。
盛り上がる人々の輪の裏で、息せき切って駆けつけた一人の老人があった。年寄りにこの長距離走はさほど堪えたのだろう。村人の一人がそれに気づいて、背中をさすってやる。
「村長」
「ああ、おう、よかった、間に合った……」
「じゃあ、あれが?」
村長の眺める先で、寄ってたかって押し倒されている、もう若者とはいえない年頃の男。
「魔物退治の専門家。魔王軍の残党狩り」
彼の名は、ヴィッシュ。
「人呼んで――勇者の後始末人」
勇者が魔王を倒して、10年。
あの物語は
ニュースと呼ぶには古すぎて
伝説と呼ぶには新しすぎた。
"S.o.S.;The Origins' World Tale" EPISODE in 1313 / The Sword of
Wish
勇者の後始末人