"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A07"Bad Fellows"/The Sword of Wish


勇者の後始末人

“万魔襲来”





「……ああ、腹が空いた」
 凍てつくように冷え込んだ或る夜のこと。三人の聖職者たちが、震えながら街を巡り歩いていた。
 毎月ついたちの“灯火巡礼”は、啓示オラシオン教導院が最も重要視する儀式のひとつだ。今より遥か1300年の昔、天が太陽を喪った“光無き419夜”に、聖女トビアは内海一周の大巡礼を成し遂げ、ついに太陽再生の奇跡を起こしたという。その故事にならい、暗闇に閉ざされた新月の夜、消えぬ信仰の象徴たる灯火をもって教区内すべての祭壇に火を配り回るのである。
 とはいえその敬虔な信仰も今は昔だ。長い年月の果てに儀式は形骸化し、現代の堕落した――もとい、“現実的”な聖職者たちにとっては、しょせん面倒な月例業務のひとつに過ぎない。愚痴もこぼれようというものだ。とりわけ、こんな過酷を極める夜には。
「ああ、腹が空いた」
 もう一度、今度は先ほどよりはっきりと不満を述べると、同輩の巡礼がその肩をぽんと叩いた。
「がんばれ。大聖堂に戻ればいいものが待っているぞ」
「いいもの?」
「このお役目は初めてか? 子羊よ」
 無言でうなずく“子羊”に、お調子者は神気取りで託宣を下す。
「おお、あわれなる子羊よ。聖なるところにおいて、聖なる焼き肉と聖なる熱燗が汝を待つであろう」
「聖なるかな!」
 思わず祈り言葉が口をついた。“神”がにやりと笑う。
「うちの教区では、“灯火巡礼”の後にふるまい酒が出るならわしなのさ。いいぞお、脂たっぷりの牛肉をな、厚く切って網焼きに……」
「神よ、あわれみ給え」
「いちばん上等なワインを温めて、肉桂シナモンと砂糖をたっぷり入れて……」
「ここは天国だ!」
 この大げさな感謝の祈りには、さすがの神も困惑気味であったろう。(ここに言う神とは“気取り”ならぬ真の神のことだ――もし存在するのなら)
 とはいえ、焼き肉に甘いワインとくれば、戒律と財政事情のために質素倹約を強いられている聖職者にとっては確かに天国であった。普段彼らが口にするものといえば、酸味ばかりが際立つ饐えたワイン、すっかり固くなって口の水分を吸い取るばかりのパン、あとはからからに干からびたチーズのひと欠けがいいところ。新鮮な肉や砂糖など、もう何年味わっていないだろう。
 “子羊”と“神”はすっかり意気投合し、一緒になってはしゃぎ回った。眉をひそめるのは、一歩前を行く灯火係である。彼は他のふたりと違っていくぶん真面目な男であった。しばらくは黙って聞いていたが、やがて後ろの連中の不信心が我慢ならなくなったと見えて、キッと睨みつけながら叱り飛ばした。
「おい! 少しはわきまえたらどうだ」
 たじろぐ“子羊”の横で、“神”がふてぶてしく肩をすくめる。
「何をわきまえよと?」
「聖トビアの艱難辛苦を思えば、この程度……」
「そよ風のごときものだと」
「そうだ」
「肉と酒に心動かされるなど堕落だと」
「そのとおり」
「すばらしい! ならば貴兄の堕落は、我らが責任をもって引き受けよう」
「そ……」
 沈黙。
 やがて、
「……………それは、待て」
 クスクス笑いが漏れた。その笑いが聞こえないかのように、真面目ぶった巡礼は神に赦しをもとめている。「堕落したこの身を云々」などと。
 要するに、みな同じ穴の狢というわけだ。“子羊”も“神”も“堕落”も、みんな分け隔てなく。
 食への欲求は大きいものだ。行く手に酒一杯、肉ひと切れさえ待っているなら、人は相当な地獄にも耐えられる。
 巡礼たちは大聖堂への帰路を急いだ。寒気のために膝はすっかり凝り固まり、足どりは鉄枷を引きずる囚人のごとくであったが、気持ちだけは炎のように燃えていた。肉と酒。
 力を振り絞って歩むうちに、空が乳を流したように白みだし、陰気な石造りの建物が遠目に見えた。終点まであとわずか。この通りをまっすぐ行けば辛い巡礼行も一段落。ご馳走が彼らを待っている――
 だが、彼らは知らなかったのだ。
 自分たちと同じように、寒空の下、じっとご馳走待ち構えていた者がいたのである。
 “神”が不意に足を止め、小さく声を上げた。他のふたりがいぶかり、彼の顔を覗き込む。どうした、と問うてみても、“神”は水面であえぐ小魚のように口をぱくぱくさせるばかり。
「それはなんの冗談だ?」
 “堕落”が尋ねた。いつもの他愛ない戯れだと思ったのだ。
 戯れであれば、どんなに良かったことだろう。
「あ……れ……」
 “神”が指さすのに従って、三人そろって空を見上げる。
 天をつくような巨大な塔の影が、朝日の中に白く浮かび上がっていた。
 巡礼たちが呆気にとられて言葉を失う。あまりにも巨大すぎて距離感も掴みづらいが、塔の立っている場所は、おそらく大聖堂のすぐそばだ。昨晩、巡礼に出発した時には、確かにあんなものは存在しなかった。
 その時、“子羊”が救いを求めた――怯えきった震え声で。
「神よ、あわれみ給え」
 彼は見たのだ。
 不気味な塔の突端。そこに曙光を背負って停まり、眼を食欲にぎらつかせた――竜の姿を。
 竜がゆっくりと翼を開く。
 狩りが、始まった。

「あーあ……もうメチャクチャ」
 翌朝、東教区大聖堂近くの三角屋根に、ちょこんと座る緋女の姿があった。膝の上にぶらりと両腕を投げ出し、顔をしかめて大聖堂の光景を見下ろしている。
 あの牢獄にも似たいかめしい建物は今や影も形もなく、敷石さえも綺麗にはぎ取られ、むき出しの空地と化していた。
 そしてその中心に、不気味な塔がそびえ立っていた。高さは見上げるだけで首が痛くなるほど。素材の質感は石灰岩に似て白く、人の背丈ほどもある大きな球体が無数に積み重なった形をしている。吹き上がりながら凝固した泡――あるいは卵のようにも見える。
 昨夜遅く、誰も気づかぬうちに、この塔が突如として出現したのだ。
 それと同時に現れた正体不明の魔獣によって、大聖堂を中心とする都市半ブロックあまりは壊滅状態となった。建物はことごとく損壊。死者・行方不明者は少なくとも16名。怪我人は数え切れぬほど。今ごろモンド先生の診療所は、押し寄せた患者でてんてこまいだろう。
 ふと、緋女は話し声を聞きつけた。屋根の下をのぞき込めば、怖いもの見たさの物好きたちが数人、ひそひそと他愛もないことを噂しながら塔を見物している。めんどくさそうに溜め息をつき、緋女は威圧的な声を作って叱り飛ばした。
「コラァ! 近寄るんじゃねーよ! 危ねえだろうが」
 突然頭上から降り注いだ声に、見物人たちは、巣穴を暴かれた小虫のような素早さで散っていった。
「おー。お仕事やってるね。」
 そこに、偵察のため飛び回っていたカジュが戻ってきた。《風の翼》を解除して屋根の斜面に降り立ち、足を滑らせかけて、緋女の肩を掴んでとどまる。
 緋女は不満そうに口を尖らせた。
「“人を近づけるな”、だろ」
「“俺が行くまで手は出すな”もね。」
 この指示が大いに不満だったのだ。何もせずに待つのは性に合わない。とりあえず暴れたい。しかし命令は守らねばならない。ムズムズする。
 はやる気持ちをごまかそうと、緋女は首を傾け、カジュに擦り寄せた。
「えらいだろ。ほめろよ」
「えらいえらい。」
 カジュはその頭をワシワシと撫でてくれた。まあ、ちゃんと褒めてくれたのだから、我慢してやってもよいだろう。
「で、そっちは? 塔、見てきたんだろ」
「んー、かなり高いねー。目測で50m強ってとこかな。」
「なんかいた?」
「てっぺんに。でっかいのがね。」
 カジュが空から観察したところによると、塔の頂上には巣のようなものがあり、そこに魔獣が一体いたらしい。体格は馬より一回り大きい程度。全身が羽毛に覆われており、鳥に似ているが、おそらくは竜の一種だ。腹が満ち足りたせいか、翼をたたんで丸くなり、ぐっすりと眠り込んでいたという。
 話を聞き終えた緋女はカジュの外套をちょいと引っ張り、
「じゃあさ、そいつ斬ったら終わりじゃね? 上まで運んでよ」
「腕ちぎれる。」
「あたしが自分でぶらさがるから」
「腰折れる。」
「じゃあ手足ぜんぶで抱きつくから」
「やや照れる。」
「照れんなよ」
 と、わけの分からない相談をしていた時だった。けたたましい男の悲鳴が、突然二人の話に割り込んだ。
「助けてくれ!」
 一瞬にして二人の神経がピンと張り詰める。臨戦態勢で声の出どころを探すが、見つからない。どこか死角にいるのか。魔獣のために遮蔽物らしい遮蔽物もなくなってしまったこの場所だ。もし死角があるとすれば、ただひとつ。塔の裏側だ。
「援護!」
「ラジャ。」
 とカジュが応えた時には、すでに緋女は飛び出していた。目で追うことさえ困難な速度で屋根から駆け降り、崩れた壁を跳び超えて、塔の反対側に回り込む。
 そこで尻もちをついていたのは、顔面蒼白の野次馬。さっき緋女に追い払われた連中のひとりだ。近くの運河に小さな手漕ぎ舟が停めてあるところをみると、どうやら緋女の目を避けてわざわざ運河から裏に回ったらしい。
 そして男の目の前で目を光らせているのは、馬ほどもある巨大なヒヨコ――いや、竜の雛だ。
「オラァ!」
 肉薄、即、叩ッ斬る。抜き放ちざまに振り下ろした太刀は、雛の胴を真っ二つに断ち割った。
 あっけない――が、緋女は類まれな聴覚によって察知していた。塔の表面、あの正体不明の球体の中で、いくつかの気配が蠢いている。
 塔の根本あたりを見れば、砕けて内部のがらんどうを晒している球体がひとつある。竜の雛はあの中から湧いたのか。ということは、やはりこの塔は――卵! この積み重なった球体全てが卵なら、その総数は千や二千どころではあるまい。もしこれが一度に孵化しようものなら……
 危険だ。緋女は油断なく塔を見据えながら、野次馬の男に怒鳴りつけた。
「逃げな!」
 だが、男は完全に腰を抜かしたと見えて、立ち上がることもできず震えるばかりであった。さらに折悪しく、卵3つにひび割れが走った。竜の雛が3匹、内側から殻を突き破り、矢のように飛び出してくる。
 ――しょうがねえ!
 舌打ちひとつ、緋女は男の襟首をひっつかみ、そのまま運河へ放り込んだ。豪快な水音を聞くと同時に刃を翻し、突進してきた雛の一匹を切り捨てる。続いて二匹目のクチバシを、上半身の捻りのみで巧みにかわし、地を這うような薙ぎ払いで、残る一匹もろともに脚をまとめて切り落とす。
 悲鳴を上げ、もつれあって倒れる雛たち。その間を潜り抜け、太刀を両手に構え直す。
 が、一息つく暇もなかった。塔の下部にあった卵が一斉に孵化を始めたのだ。自ら殻を突き割り、次々に産まれ出る竜の雛。その数は目につく範囲だけでもざっと2、30。さらにまだまだ増えようとしている。
 さすがの緋女もギョッとして、
「うえっ……おいカジュっ!」

「今やってますよー。」
 悲鳴じみた援護要請を、カジュは上空で聞いていた。《風の翼》で戦場を見下ろせる位置に滞空し、杖を脇の下に挟んで構え、その先端を雛の一匹に向ける。片目を閉じて、慎重に狙いを定め――
「《光の矢》。」
 強烈な遠距離法撃が狙い違わず雛を射抜き、ただ一撃で息の根を止めた。
 が、これも焼け石に水か。地上では緋女が暴れ回り、すでに十匹近い雛を片付けていたが、敵の数は減るどころか増え続けている。《爆ぜる空》あたりでまとめて焼き払いたいが、それだと緋女を巻き込んでしまうし、近隣のまだ無事な建物まで粉砕してしまう。といって時間をかければますます手のつけられないことになる――
 と。
 考え込んでいたカジュは、何か弾けるような音を聞きつけ、徹底的に訓練された条件反射によって身をひねった。
 ジャッ、と空を裂き、弾丸のようなものがカジュをかすめて過ぎた。どうやら外套の裾にかすったらしく、白い布が焼け焦げたように黒く変色している。とっさに回避行動を取ったからよいものの、もしまともに食らっていたら、“痛い”では済まなかっただろう。
 ――酸か。
 塔の方を見れば、卵から頭だけを付き出した雛たちが、十匹余り顔を並べてこちらを見上げている。
 ――あ、ヤバい。
 次の瞬間、予想通り、雛たちが一斉に酸の体液を噴射した。その勢いはさながら弓兵部隊の対空射撃。カジュは必死に砲火の隙間を縫い進んだものの、ついには避けきれなくなり、
「《光の盾》っ。」
 辛うじて防御の術で難を逃れた。
 とはいえ安心してはいられない。すぐに第二射が飛んでくるはず。
 ――まずいな。これじゃ緋女ちゃんの援護どころじゃない。
 だが眼下には、際限なく増え続ける敵を相手に苦戦を強いられる緋女の姿。カジュは懸命に思考を巡らせて……とりあえず、ひとつの答えを導き出したのであった。

「……で、こうなったわけか」
 遅ればせながら駆けつけたヴィッシュは、そびえ立つ壁を見上げ、ぼんやりと頭を掻いた。
 カジュのとった対策はシンプルなものであった。《石の壁》を連続して立て、塔の周囲をぐるりと取り囲んだのだ。酸の矢は射程距離の外に逃げれば飛んでこないし、空の飛べない雛たちにこの高さの壁を超える手段はない。壁を立て終わるまでに何匹か外に漏らしてしまったが、それは緋女が片付けた。
 確かに、当面はこれで大丈夫だろう。とはいえ、その過程で緋女は軽傷を負ってしまった。ほんのかすり傷程度のものではあったが。
 地面にあぐらをかき、カジュに手当してもらいながら、緋女は後ろめたそうにそっぽを向いている。
「だってしょうがねえじゃんかー! あの場合よーっ!」
「別に責めちゃいねえよ。むしろとっさによくやってくれた」
「ヌゥ……」
「先に詳しく話しときゃ良かったな……ちょっと慌てちまって」
「それだよ。ヴィッシュくん何してたの。」
「警吏とコバヤシに協力要請。住民避難とか、立入禁止とか……まあ段取りだ。ちょっとおおごとになるんでな」
「一体何なんだよ、アレ。なんかヤバいやつ?」
 ヴィッシュは盛大に溜め息をついた。もう、名前を口にするのも嫌だ、と言わんばかりのしかめっ面で。
万魔バッドフェロウズ
 ――なんかヤバいやつだ」

 万魔の竜バッドフェロウズ・ヴルム
 魔王が持ち込んだ魔獣の中でも、極めて厄介なもののひとつである。
 鱗が羽毛状である点で鳥に似ているが、四肢と翼を併せ持つ骨格構造から六肢類――つまりはヴルム類に分類される。体長は馬より少々大きい程度。竜としては小柄で、身体能力もさほど高くはなく、炎を吐く力もないことから、単独では別段手強い相手ではない。
 なのだが……

「ヤバいのは奴らの生殖方法なんだ」
 ヴィッシュが土の上に、簡単な塔の図解を描きながら説明していく。
「凡食性と言ってな。奴らはとにかくなんでも食う。動物、植物、土や岩までお構いなしだ。そうして周辺のものを食い尽くしたら、それを材料にして産卵を始める」
「あの塔だね。」
「ああ……ひとつの塔に産み付けられた卵は少なく見積もっても2万個。時にはそれ以上。この数の雛が1日から5日ほどで一斉に孵化し、餌を求めて周辺に溢れ出る!
 本格的に孵化が始まったら、万単位の軍勢でもなきゃ止められん。そうなる前に始末するのが俺らの仕事だ」
「どうやって?」
「頂上にいる母親を倒せばいい。戦ってみて分かったろ? 塔の雛たちは母親にコントロールされていて、外敵が近づいたら未熟な状態でも孵化できるようになっている」
 緋女とカジュは嘆息しながら顔を見合わせた。次から次へと数を増して襲ってきたり、一斉に酸の矢を吹きかけてきたり……あの一糸乱れぬ連携は母親からの制御があればこそだったのだ。
「ま、母体を守る一種の要塞ってなとこだが……そこが弱点にもなる。親さえ仕留めてしまえば孵化を命じるものがいなくなり、あとは放っといても卵の中で死んでしまうってわけだ」
「はいボス。しつもん。」
「どうぞカジュくん」
「どうやって登るんすか。空からは酸の雨でとても近付けないんすけど。」
「……いい質問だ」
 ヴィッシュは苦虫を噛み潰したような顔で、塔の上を睨み上げた。今ごろ頂上では、母竜がのうのうと昼寝でも食らっていることだろう、腹立たしいことに。
「そこだよ。ほんと……そこなんだよなぁ……」

「ほんっと……! これがっ……! 気が滅入るんだよ……なああっ……!」
 ヴィッシュは愚痴を垂れ流しにしながら、次の手掛かりに腕を伸ばした。下を見れば地面は遥か彼方。横手を見れば見渡す限り広がる第2ベンズバレンの街並。ああ、絶景かな。これで、絶壁の素登り中でさえなければ。
 対空砲火を避けて頂上にたどり着く方法は、極めて単純。麓から天辺まで、この塔の外壁をよじ登るのである。と、言葉にするのは容易いが、ほとんど垂直に近い外壁を、腕力と脚力のみを頼りに、50mあまりも登りきらねばならないのだ。その労力たるや並大抵のものではない。
 ヴィッシュは過去に2度、これと同じ仕事をしたことがある。最後に塔を登ったのは7年前。あの頃でも充分に辛かったが、7年分歳をとった今では、消耗が骨身に染みわたるようだ。
 ――俺も歳食ったなァ……なんて思いたくはねェが。
 疲れる。時間かかる。そして何より、地味。もう少し華やかであったり変化に富んでいたりするならまだ耐えられただろうに。称賛もなくピンチもなく、ただひたすらにキツい仕事を淡々と続けなければならない……このしんどさは、まるで人生そのもののようだ。
 ところが隣では、緋女がヒョイヒョイと猿のような身軽さで登っている。卵がたくさんの凹凸を作っているおかげで、手掛かり足掛かりには困らないのだが、それを差っ引いても、あの身体能力は超人的だ。そのうえ、登りながらヴィッシュに手を貸す余裕さえある。
「ホラ。がんばれよ。あとちょっとっ」
 緋女が手を握って引っ張り上げてくれ、ヴィッシュは卵と卵の間の狭いくぼみに身を落ち着けることができた。ここなら座って休憩が取れそうだ。そこに緋女も尻をねじ込んできて、ふたりギュウギュウ詰めのまま一休み。
「なんか、すまんな」
「んー?」
「俺は足手まといみたいだ」
「それキライ」
 チクリと刺すような言葉に驚いて、目を向けてみると、頬が擦れそうな距離に緋女の不機嫌顔がある。
「テメーが何したか考えてみ?」
「そりゃあ……支援の段取りつけて。敵の正体調べて。作戦を立てた?
 ……仕事はしてる、か」
「ん」
「まあ、それはそれとして、今度ちょっと鍛え直してみるかなあ」
 緋女は一転、にこにこと上機嫌に笑顔を見せた。
「すき」
「ありがとうよ」
 そこにカジュから《遠話》が飛んでくる。
〔イチャつきやがって。撃つぞコノヤロウ。〕
「勘弁してくれ」
〔じゃさっさと移動してくださーい。左上方卵3つぶん先で孵化しかかってるよー。〕
 言われてそちらを見上げてみれば、確かに、薄くなった卵殻の中でモゾリモゾリと動く姿が透けて見える。
 ヴィッシュは冷や汗が額を伝うのを感じながら、小さく囁き声を返した。
「……了解」

 カジュの仕事は、手近な建物の屋根に待機、塔の様子を観測して登攀組を誘導することである。登っている途中で雛と遭遇したら対処が難しい。戦闘に気を取られ落下でもしようものなら目も当てられない。そんな事態を避けるための役割分担だ。
 昼食の肉はさみパンをもぐもぐとやりながら、カジュは観測用の水晶玉を指で叩いた。即席で術式を構築し、《魔法の目》で集めた情報を分析していく。今のところ異常はない。万事順調……の、はずなのだが。
 彼女の喉から低い唸り声が漏れる。
「……なんか変だな。」

 一方、ヴィッシュたちは塔の先端まで残り10m弱のところまで進んでいた。果てしない崖登りも、ようやく終点が見えてきた。体力もいよいよ限界近い。そしてなにより、
「あぁー腹減ったァー!」
 緋女がヴィッシュの気持ちを見事に代弁してくれた。何しろ今日は早朝に魔獣騒ぎで叩き起こされ、それからほとんど休みなく働きまわっていたのだ。疲労が心地よく食欲をかき立ててくれる。ヴィッシュは力強く鼻息を吹いた。
「畜生めっ。仕留めたら食ってやろうぜっ」
「え、あいつら? 食えんの?」
「極めて美味」
「まじか」
「肉質は鳥に似ているが、味はむしろ引き締まった牛の赤身に近い。噛めば噛むほど旨味が湧いてくる感じでな。胃袋にガツン! と来るんだなあコレが」
「そんで!?」
「煮てよし焼いてよしだが、俺ァシンプルに炭火で串焼きが最高だと思うね」
「塩? タレ?」
「ゆず胡椒」
「あーっ!! いい! いいなー!! まじかー!!」
「酒はパワフルに辛口の麦酒エールだ!」
「いやーあぁー! 死ぬー!!」
 と、ふたりで盛り上がっていると、ぱきり、と気味の悪い音が聞こえてきた。目を向けてみれば、横手の卵に大きなひび割れが走っている。孵化しかかっているのだ。しかし、さっきと同じように避けてしまえば……
 その時、さらに2つ3つの破砕音が重なった。いや、2つ3つどころではない。視界内にあるほとんど全ての卵が同時に孵りはじめたのだ。
 ヴィッシュたちの背筋にゾッと冷たいものが走った。
「おい、なんだよこれ」
「まずいぞ、まさか……」
 そこにカジュの《遠話》が舞い込み、予想通りの報せをもたらした。
〔ヤバいよ。塔全体で雛が孵りだしてる。〕
「一斉孵化! もう始まったのか!?」
 早すぎる。これは完全に想定外であった。卵が産み付けられてから僅か半日足らず。これまで見聞きした中で最短の事例より、さらに丸一日分は早い。
 このタイミングでは、卵の中の雛はまだ充分に育ちきっておらず、飛ぶことさえままならない。当然、塔の高所から生まれ落ちた雛は大半がそのまま墜落死してしまうはずである。
 そのリスクを承知の上で、母竜は早期に一斉孵化させる道を選んだのだ。そこにヴィッシュは、母竜の切迫した心理を垣間見た気がした。
「……一体何を焦ってるんだ?」
 だが、今は詮索していても仕方がない。動揺などはなおさら邪魔だ。素早く頭を切り替えて、作戦の修正案を立ち上げる。
「カジュ! 雛の数が増えれば壁も食い破られる。街に出さないように食い止めてくれ!」
〔イエス、ボス。〕
「緋女、お前は先に行け! 奴の足を止めろ!」
「任せなッ!」
 凛々しく一声吠えるや、緋女は翼あるかのごとく跳躍した。
 類まれな脚力で卵から卵へ次々に飛び移り、ついでにヴィッシュの進路上で産まれた雛を何匹か斬り捨てながら、みるみるうちに駆け上っていく。最後のひとっ飛びで塔の頂上に躍り出ると、華麗な宙返りを決めて着地した。
 塔の上は、中央がくぼんだスリ鉢状の形をしていた。その中央で、羽毛に覆われた竜が一頭、鎌首もたげてこちらを睨んでいる。あれが今回の獲物、万魔の竜バッドフェロウズ・ヴルム――その母竜というわけだ。
『――思ったより早い到着だったな、人間よ』
 うおっ、と緋女が驚きの声をあげ、髪の寝癖をピンと逆立てる。
「喋れんの?」
『人間ふぜいの原始的な言語など、我ら上位者が操れぬはずもあるまい?』
「なんかよく分かんねーけど……
 じゃあさー、迷惑だからどっか行ってよ。ここはあたしらの縄張りだからよ」
 竜は、何か咳き込むような音を発して――ひょっとすると、笑い声だったのかもしれない――こう答えた。
『いかにも獣の言いそうなことだ。
 ちょうどよい……食料を獲りに行く手間が省けたわ!』
 竜が叫ぶと同時に、緋女の周囲で十匹以上の雛が一斉に卵を飛び出した。獲物を狙う飢えたクチバシが緋女の臓物はらわた目がけて殺到する。母竜が無意味に話しかけてきたのは、このための時間稼ぎだったのだ。
 だが、緋女に焦りはなかった。彼女の犬並みの聴力が、足元で蠢く罠の気配をとうの昔に捉えていた。
 ――言葉は通じても話は通じねーか。
 緋女が太刀の柄に手を掛ければ、覗いた刃が陽光に煌めき――
 一閃。
 なんたる速さ! 緋女の姿は霞んだ残像と化し、攻撃の網目を縦横無尽に掻い潜る。走る刃はしなやかな絹糸のごとく。かと思えば次の瞬間、一斉に雛たちの首が飛ぶ。
 まさに電光石火の早業。想定外の事態に母竜がたじろぐ。雛を片付けた緋女はその勢いのまま母竜に肉薄し、列帛の気合とともに頭上から一撃を叩き込んだ。
 竜は慌てて身を捻り、辛うじて身をかわした。地面に食い付いた緋女の太刀は、足元の卵をかち割るどころか、塔の上部に一文字の亀裂を走らせさえした。
 人間離れした膂力――いや、剣の冴えか。竜は大急ぎにその場を離れ、次々に雛たちへ孵化を促す波動を送りながら、憎々しげに悪態を垂れた。
『化物め!』
「てめーが言うなッ!」
 続いて産まれ出た雛たちが、またしても緋女の前に立ち塞がる。緋女は小さく舌打ちした。これでは地上で戦った時と同じだ。斬っても斬ってもキリがない。
 その上ここでは、雛たちが母竜の指示のもと、効率的な陣形を組んでさえいる。まず数匹が遠巻きに緋女を取り囲む。更に数匹が前線で横陣になり、残りが母竜の前で壁を作っている。この構えはおそらく――
 ジャッ、と脂の焦げるような音がして、周囲から幾筋もの矢が飛来した。カジュを悩ませた酸の矢を、遠くの雛たちが吐き出したのだ。
 緋女は、地面をひと蹴りした。
 彼女の身体は風となり、いとも容易く酸の雨を振り切った。その行く手を狙ってさらなる酸が襲いかかる。が、進路を切り返し、飛び上がり、あるいはひたすらに駆け抜けて、絶え間なく降り注ぐ矢をことごとくかわし切る。
 雛たちも黙って見てはいなかった。横陣になった雛たちが緋女を押し包みにかかる。が、緋女は一体目の脚を切り、二体目を蹴って跳躍し、落下しながらの一撃で三体目の胴を両断、続く四体目をむんずと掴み、酸の矢を防ぐ盾にして、焼け焦げ悲鳴を上げるそれを五体目めがけて投げつける。
 ここまでがわずか数秒のこと。
 次々に屠られていく雛たちを見て、母竜は戦慄した。
 ――とても敵わぬ!
 決断するや、竜の行動は早かった。自分の前で壁にしておいた雛たちを、緋女にけしかけた。これどうにかなるとは思っていない。ほんの数秒、羽ばたいて飛び立つまでの時間が稼げればよい。
 母竜は逃げにかかったのだ。せっかく我が身を痛めて産んだ卵塔は惜しいが、命には換えられない。母が生き長らえるための時間を稼いでくれたなら、それだけで産んだ価値があったというもの。子供はまた作ればよい。
 だが、致命的なことに、竜は気づいていなかった。
 時間を稼いでいたのは、狩人のほうも同じだったということに。
 母竜が大きく翼を広げた、そのときだった。
 突然背後から振り下ろされた剣が、片方の翼を半ばから切り落とした。
『ギャッ!?』
 悲鳴とともに振り向けば、そこにいたのは、もうひとりの狩人――ヴィッシュ。
 これが彼の立てた作戦だったのだ。緋女をぶつければ竜を撃退することは簡単だが、飛んで逃げられれば面倒なことになる。また、万魔の竜バッドフェロウズ・ヴルムの性格から言って、危なくなれば雛をけしかけておいて自分だけ逃げる手に出ることは充分予想される。
 そこで緋女を先行させ、適度に竜を追い込み、逃げにかかった瞬間を狙ってヴィッシュが仕留める案を考えたのであった。
 今や竜は全てを悟っていた。だがそれはあまりにも遅すぎた。
『おのれ! 身をやつしさえしなければ!』
 痛みと恐れを怒りによって塗り潰し、竜はヴィッシュに襲いかかった。大槍のようなクチバシが、ヴィッシュの首に向かってくる。
 が、その槍が届くことはなかった。
 雛たちを蹴散らした緋女が、ひとっ飛びに駆けつけ、竜の首を叩き斬ったからであった。

 母竜を失えば、あとは脆いものだった。万魔の竜バッドフェロウズ・ヴルムの雛たちは、親によってその行動を徹底的に制御されている。よって、母竜のいない雛たちは状況を判断することすらろくにできず、ただ無目的に徘徊するだけの人形へと姿を変えるのだ。
 そんな獲物なら、たとえ少々数が多かろうと、どうということもない。ヴィッシュたち三人は、日暮れまでに全ての雛を片付けた。塔はそのまま残っていたが、中の雛が死ぬまで一週間ほど待ったあと、魔術で発破をかけてやればよいだろう。
 その夜、ヴィッシュは予告通り、竜の雛を捌いて豪勢な夕食に仕立てた。その素晴らしいことと言ったら! 緋女がこう文句をつけたほどだ。
「犯罪」
「どうして?」
「もう他の肉食えねーわ……」
 これにはヴィッシュも、にまりと改心の笑みを浮かべるのであった。
 ともあれこれにて、一件落着。

 ……と、誰もが思っていた。
 それは完全な誤りだった。事件はまだ、解決してはいなかったのだ。
 ヴィッシュたちがつかの間の休息を楽しんでいる間も、真の脅威は人知れず爪を研ぎ続けていた――そしてすっかり準備を整えてしまうと、熟れた木の実が爆ぜるように、突如人々に襲いかかってきたのである。
 2日後。
 急報が舞い込んだとき、ヴィッシュと緋女は、早朝訓練から帰宅したばかりであった。走り込み、素振りに形稽古……朝食前に体を動かすのは元々ヴィッシュの日課であったが、一緒に暮らし始めてからは緋女がそれに加わり、実戦訓練できるようになった。といっても、打たれるのは決まってヴィッシュの方ではあったが。
 ふたりそろって汗みずくで家に戻り、体を拭いたり水を飲んだり、剣術談議に花を咲かせたりしていると、誰かが慌ただしく戸を叩いた。
「ヴィッシュさん! 起きてください、大変です!」
 後始末人協会の事務方、コバヤシである。いつも冷静沈着な彼にしては珍しい慌てようだ。怪訝に思って扉を開けてやると、コバヤシは生気の失せた青い顔で、食いつくように飛び込んできた。
「また出ました! あの……」
 と彼が言いかけたとき、けたたましい啼き声と、無数の翼の羽ばたく音が、嵐のごとく唸り狂った。
 ――この羽音は!
 ゾッと悪寒を覚えたヴィッシュは、コバヤシを押し退け、道に出た。一方、緋女は手近な窓を開けて身を乗り出す。3階の部屋では、眠りこけていたカジュが目を擦って起き上がったところだった。
 三者が三様に見上げた第2ベンズバレンの空。そこに、無数の黒い影が渦巻いている。さながら街の上を闇色のヴェイルで覆い尽くさんとするかのように。
 鳥――などであろうはずがない。
 四本の脚に二枚の翼。立派な羽毛も生え揃い、もはやヒヨコとは呼べぬ姿に成り上がり、2万を超える大群で押し寄せた獣たち。あれぞまさしく――
万魔の竜バッドフェロウズ!!」

 ヴィッシュはここにきて、自分の浅慮を大いに悔いることとなった。
 考えてみるべきだった。あの母竜には高い知能があった。大都市に営巣すれば後始末人から妨害を受けることは、充分に予測できたはずだ。罠を張って緋女を待ち受けていたことも、それを裏付けている。
 にも関わらず、奴はわざわざ街の真ん中に卵を産む道を選んだ。なぜか?
 選んだのではなく、選ばざるを得なかったのでは?
 思えば妙なところはいくつもあった。まだ雛が未熟な、産卵後一日未満の段階で一斉孵化を始めたこともそうだ。あの行為に、ヴィッシュは母竜の焦りを見た気がした。何かをひどく恐れているかのような。
 そして今際の際の、不可解なあの言葉――
『身をやつしてさえいなければ!』
 一体どこから“身をやつした”というのか?
 今となっては、答えは明らかだ。
 縄張り争いである。
 あの母竜は、より安全な産卵場所を巡って同族と争いになり、敗れたのだろう。そしてこの街に追いやられてきた。リスクを冒してでも餌が豊富な大都市に巣を張り、大急ぎで雛を育てなければならなかったのだ――競争相手が餌場を荒らしに来る前に!
 彼女が恐れていたことは、今や現実となってしまった。それも、人間たちにとって最悪の形でだ。

 その日は恐怖の一日となった。どこからか飛来した二万匹の飢えた竜たちは、食を求めて街中のいたるところに襲いかかったのだ。
 無論、ヴィッシュたちも果敢に応戦した。先にも述べたとおり、万魔の竜バッドフェロウズ・ヴルムはさほど強力な魔獣ではない。とはいえそれは一匹ならばの話。今回はあまりにも数が多すぎた。街全体を守るには、人手が全く足りなかったのである。
 結局、竜たちは街の北東部4分の1ほどに甚大な被害をもたらし、日暮れとともにいずこかへ飛び去って行った。人的被害はさほどでもなかった――若く体の小さい竜は、大勢でひとりを取り囲める状況でもない限り、警戒して人間には近寄らないのだ――が、建物、城壁、舗装、市場の売り物等々は容赦なく食い荒らされていた。
 荒れ果てた街を前にして、へとへとになった緋女とカジュは、背中合わせで路上にへたり込んでしまった。
「あーっ……しんっど」
「人使い荒いよ、まったく……。」
「すまん。ふたりともよくやってくれた」
 ヴィッシュは精一杯に穏やかな声を作り、ふたりの労をねぎらった。しかし状況はお世辞にも良いといえるようなものではない。緋女とカジュはほんとうによく働いてくれたが、それでも戦果はようやく120匹強。ヴィッシュや他の後始末人たちが仕留めた分を合わせても、300匹には届くまい。敵の総数は2万超――焼け石に水とはこのことだ。
「なあヴィッシュ。どーすんだよコレ」
 緋女が肩で息をしながら訊いてくる。ヴィッシュは苦い顔をして、手近な瓦礫に腰を下ろした。並べた手のひらに顔を埋めるようにして、茹だった頭を少しでも冷まそうとする。緋女の問いはヴィッシュ自身の問いでもあった。
 どうする? どうすればいい?
「とにかく、人手を増やさなきゃいけない……」
「どうやって?」
 そう重ねて問われれば、ヴィッシュにはもう言葉がない。緋女は彼の苦悩を見て、残酷な問いを投げかけてしまったことに気づいた。手を無意味に振りながら、慌てて取り繕おうとする。
「あー……えっと……じゃあさ、頼んでみたら? 警察とか、軍隊とか」
 それに答えたのはカジュであった。
「ところがどっこい。この街は人口のわりに警吏も兵士も少なすぎるんだよねー。」
「そうなの?」
「なにしろたった10年で想定外の人口流入があったからね。あれよあれよで30万人。警吏の数も泥縄式に増やしてきたけど、予算も人材も全然おっつかない。
 てなわけで、警吏を総動員したところでたったの300名。兵隊さんに至っては典礼部隊がひとつっきりで40人ぽっち。」
「じゃあさ! 他の街に応援頼むとか……」
「一番現実的なのは王様の近衛隊だろうけど。王都からじゃあ、到着は早く見積もっても10日後。その頃にはもう街が消えてると思うね。」
「うーっ、うーっ……」
 カジュの説明したことや緋女の提案したことは、全てヴィッシュの考えたことでもあった。その上、彼は他にもいくつかの案を既に検討していた――たとえば、竜の巣を探して母竜を叩いてはどうか? これも無理がある。なにしろ塔の場所が分からない。山中に営巣されれば、巣の位置を特定するだけで一苦労。首尾よく発見できたとしても、巣に向かい、塔を登って母竜を討つのに軽く数日はかかるとみてよい。どう考えても街が壊滅するのが先だ。
 考え、悩み、袋小路に迷い込み、ヴィッシュは文字通り頭を抱えた。八方手詰まりだった。このままでは街が滅びるのを座して見ていることしか――
「おい」
 と。
 彼の前に、女がひとり進み出た。
 そそり立つ直剣のごとき立ち姿。言うまでもなく、緋女である。
「メシだ! 晩メシ食うぞ!」
「……は?」
 あっけに取られるヴィッシュの両肩を、緋女の手のひらが力強く叩く。
「戦ってもいねえのに負けてんじゃねーよ! テメーいま負けた気になってんだろうが!!」
「そ……! うかも、しれない……」
「だから食え。まず元気出して、話はそっからだ。違うか?」
 違わない。そのとおりだ。
 ここでこれが言えるのが緋女だ。状況がいかに危機的であろうと、期限がいかに切迫していようと関係ない。誰もが挫けてしまうような困難の中にあっても決して道を見失わない。己の為すべきことを貫徹できる。まるで鋼鉄の刃のような、揺るぎない精神力の持ち主だ。ヴィッシュが好もしく思い、尊敬の念さえ抱いているのは、緋女のこういうところなのだ。
 ヴィッシュは大きく深呼吸して、立ち上がった。
「何が食べたい?」
「肉!」
 即答である。ヴィッシュは苦笑した。鋼鉄製なのは精神ばかりではない、胃袋もそうであるらしい。
 カジュがひょいと肩をすくめて、山積みになった竜の死体に目をやる。
「まー、食材には事欠かないしねー。」
「それよ! 焼き鳥な!」
「焼き竜ね。」
「やっべーよなーアレ。いっぺん食ったらやめられねえ」
「重度の依存症を引き起こす危険食材っすわ。」
「炭火でジュッとな……」
「そこで炊き込みごはんとかどうよ。」
「おいカジュ! まじ神!」
「あがめよ。」
「分かった分かった。じゃあ今夜は串焼きに炊き込み……」
 と。
 その瞬間。
 圧倒的閃きが、ヴィッシュの脳内を駆け巡った。
「これだっ……この手があった!!」
 その声を聞くや、仲間たちの顔に明るい色が差した。緋女が不敵に笑う。まるで、こうなることは分かっていた、と言わんばかりに。
「なんか来たな?」
「ああ。行けるぜ!」
「ボス、ご指示は。」
「まずはメシだな。竜をさばこう」
 キョトンとして顔を見合わす緋女とカジュに、ヴィッシュはにやりと笑いかける。
「まあ見てな」

 ところ変わって、第2ベンズバレン北方30kmの山中。ここに、二匹目の母竜が作った卵塔があった。
 このあたりは地形が入り組んでおり、背の高い木々にも恵まれていて、身を隠すには絶好であった。彼女はこの場所に目をつけるや、先に営巣の準備を進めていた同族に喧嘩をふっかけ、個人的武勇をもって追い払い、ものの見事に奪い取った。
 彼女らの種族は10年前魔王によってこの地に連れてこられたが、あの時の戦争を通じて痛いほど或る事実を悟っていた。最も恐るべきは人間である、というシンプルな事実だ。
 人間は強い。そして極めて好戦的である(人間の多くが「自分は平和主義者だ」などと根も葉もないことを信じ込んでいるのは、全くもってお笑い種だ)。ゆえに、繁殖時に最も警戒せねばならないのは、人間による妨害なのだ。そのため、人間に見つかりにくい営巣場所は奪い合いをせねばならぬほど重大な価値を持つのだ。
 卵の産み方にも工夫をこらした――半径を大きくとり、そのぶん塔の高さを低く抑えた。この高さで、木々の中に隠してしまえば、そう簡単に見つかるものではない。
 万魔の竜バッドフェロウズ・ヴルムには知恵がある。その知恵は余すところなく使われた。身を守るために。人間どもが作った都市の、上質な食料を食い尽くしてやるために。
 人間の街は、旨い。これは彼女らの種族にしか分かるまい。土や石を好んで食べる彼女らであったが、人間が加工した建材は、自然の中に転がっている岩くれとは比べ物にならないほど美味なのだ。卓越した技術で正確に切り出され、美しく磨き上げられた大理石。カリカリに焼き上げられた香ばしい煉瓦。そしてヒンヤリと舌触りも滑らかな金属器! ああ!
 それらを思う存分味わうために、彼女は多くの策を巡らせた。それらはことごとく図に当たった。たっぷり時間をかけて孵化させ、満を持して送り出した2万匹の子供たちは、素晴らしい食料を山のように集めてきてくれた。母竜はそれからというもの、何日も休むことなく美食に舌鼓をうち続けた。腹がいっぱいになれば巣の中でひと眠りすればよい。朝飛び立った子供たちは、夕暮れ時には新たな食事を運んでくる。目覚めた時には、目の前にごちそうがすっかり準備されている、という寸法。
 心血注いだ子育ての反動か、目の前の美食の魔力によるものか、母竜はつい、自堕落な生活を続けてしまった。狩りのことは子供たちに任せっきりで、新たな指示を送ることも、状況を確かめることもしなかった。その必要はないと思われたのだ。
 だから、彼女が異変に気づいた時にはもう5日が経過しており、事態は、すでにのっぴきならないところにまで進行してしまっていたのである。
 おかしい。
 その日、母竜の頭に、そんな言葉がふと浮かんだ。はじめにあったのは正体不明の違和感だけ。ゆっくりと状況を確かめ、ようやく彼女は何がおかしいのかに思い当たった。
 子供たちの数が、少ない。
 狩りから戻ってきた子供たちの影を遠くの空に認めたとき、異様な群れの小ささに母竜は疑問を抱いたのだった。
 母竜は子供たちに波動を送り、全員一斉に、自分の頭上で旋回させてみた。その密度と面積からおおよその数を計算する――結果は、約1300匹。おかしい。はじめの10分の1以下ではないか。そして、子供たちが持ち帰った食料の量も、初日とは比較にならないほど少なくなっていた。
 ――まさか!
 翌日、いてもたってもいられなくなり、母竜は久方ぶりに自らの翼で空に飛び上がった。目指す先は人間どもの都市。確認しなければならない。子供たちに何が起きたのか? その答えは人間の街にあるに違いない。
 小一時間の飛行で第2ベンズバレンに辿り着き、そこで母竜は見てしまった。
 信じられない光景を。
 都市の広場には人だかりができており、そこらじゅうに何か異様なものがうずたかく積み上げられていた。子供たちだ。子竜たちが、首を落とされ、羽毛を抜かれ、すっかり血抜きも済んだ状態で、食肉となって積まれているのだ。
 広場に集まった人間どもは、みな一様に、串焼きの肉に食らいついていた。誰も彼も恍惚の表情。ああ、また人間が硬貨と引き換えに焼き肉を手にした。手際よく肉を配り歩いているのは、威勢のいい女店員と、目つきの悪い小さな子供。
 そしてその喧騒の中心で、額に汗して肉を焼き続けているのは、ねじり鉢巻も似合いの男――
「へい、いらっしゃい!!」
 ヴィッシュであった。

 ヴィッシュがやったことは、極めて単純。
 仕留めた竜を食材にして、広場で炭火串焼き屋台を出店したのである。
 はじめは新しいもの好きの酔漢たちが興味を持った。ひとくち食えば「旨い!」と叫ばずにはいられない。そして、そうと聞けば黙ってはいられない食通たちが、この街には何万人と存在するのだ。次第に客が集まりはじめ、串は飛ぶように売れだした。こうなれば後は芋づる式だ。二匹目のドジョウを狙う酒売り、果物売り、ポン引きにスリ、その他もろもろの人間がどこからともなく湧いてきて、またたく間に広場はお祭り騒ぎになってしまった。一夜にしてヴィッシュの屋台は大評判となったのである。
 さて、そこでヴィッシュは、客たちにこんなことを吹き込んだ。
「これは今朝やってきた竜の肉なんだ」
「奴らは大して強くない。2、3人で囲んでしまえば、素人でも簡単に狩れる」
「竜は明日も明後日もやってくるだろう……」
「つまり、捕りほうだいだ!!」
 噂はその夜のうちに街中に広がった。串焼きにありつけたものは、その素晴らしい味わいを力説した。食えなかったものは、まだ見ぬ味わいに無限の想像を巡らせた。
 結果。
 一夜が明け後、再び街に飛来した竜たちを迎えたのは――
 眼を食欲にギラつかせ、手ぐすね引いて待ち構えていた、総勢30万の狩人たちだったのである!

 狩りが、始まった。
 人々は竜が街に舞い降りるや、先を争って棍棒で殴りかかった。あっちこっちで血の花が咲き、竜の悲鳴がこだました。
「あっちだー! あっちに出たぞー!」
「逃がすな!」
「ぶっ叩け!」
「おお“神”よ、そっちに逃げた!」
「あわれな“子羊”よ、挟み撃ちだ!」
「ああ……“堕落”した我が身を赦し給え」
「そう言いながら食ってるじゃないか、旨そうに」
「おい、まだ居たぞ!」
「よし囲め!」
「殺せ!」
「引きずり出せーっ!!」

 かくして――
 2万匹いた竜の子らは、みるみるうちにその数を減らしていった。
 無論、竜とてただやられっぱなしではなかった。人間の側にも多少の怪我人や死人は出たことだろう。だがそれがなんだというのだ。美食を求める狩人たちにとって、そんなものは瑣末な問題に過ぎなかった。目の前に素晴らしい人参をぶら下げられたこの状態では、“誰か他人が怪我をした”なんていうどうでもいい情報には、誰も興味を示さなかったのである。
 食への欲求は大きいものだ。行く手に肉ひと切れさえ待っているなら、人は相当な地獄にも耐えられる。
 死の危険? それがなんだというのだ。究極の食材を前にしては!

『馬鹿な……』
 母竜は、呆然と滞空したまま、弱々しい声で囁いた。
 それから、下から迫り来る殺気に気づき、視線を向けた。何かが地面からせり上がってくる。あれは……
「《石の壁》。」
 カジュの術。その名の通り、分厚い石壁を生やす術だ。なぜこんな魔法を? と疑問を抱いた直後、母竜は人間の狙いに気づいて震え上がった。
 壁の上に誰かが立っている。猛禽のごとき眼光が、噛み締めた犬歯が、そして鞘から半ば抜かれた、太刀の煌めきが、伸び上がる壁を踏み台にして、まっすぐこちらに近づいてくる。
「オラァ!!」
 跳躍と同時に閃いた刃が、ついに、母竜を縦一文字に両断したのであった。

 後の世。
 この事件について、ある歴史学者が記録を取りまとめたが、そのとき彼はこう感想を述べたという。
「真に恐るべきは、捕食者たる竜などではない。
 その捕食者さえ捕食してしまう、したたかな人間たちバッドフェロウズのほうであろう」と――

THE END.