"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313
#A08"Angelica, the Divine Courtesan"/The Sword of Wish
哀しみにくれるあまりアンゼリカは気づかなかった。導かれたそこが
まだ日曜学校に通う年頃の娘にとって、両親を一度に亡くす衝撃はどれほどのものであったろうか。突如として舞い込んだ訃報に、初めはきょとんとするばかり。やがて事態を飲み込むや、心は狂乱し悲鳴は空を引き裂いた。滂沱たる涙、悲痛なる嘆きは、側仕えのものどもの胸まで締め上げる。とても見てはいられぬと、逃げ出す侍女さえ出るありさま。
あまりにも激しい悲しみに、涙は一晩で枯れ果てた。翌日、葬儀はそそくさと行われ、その間アンゼリカはただ虚ろに中空を眺めるばかりであった。
彼女に代わって、伯父がくさぐさの面倒ごとを取り仕切ってくれた。財産はアンゼリカに相続され、伯父がその後見人となった。家財はいずれ売りに出されることになろう。使用人たちは最小限を除いてみな解雇された。とはいえ相応の退職金は支払われたし、望む者には別の仕事の斡旋まで行った。ほんの数日の間にこれだけの仕事をしてのけた伯父には、誰もが好意的な目を向けた。なんと親切で頼りがいのある男だろうかと、思わぬものはなかった。半ば夢幻の中に泳いでいたアンゼリカ自身とて例外ではなかった。
ゆえに誰も異論は挟まなかったし、そも、おかしいとさえ思わなかったのだ。
アンゼリカが、伯父の家に引き取られることになっても。
初めて訪れた伯父の屋敷は、どこか陰鬱な臭気に満ちていた。年若い侍女に案内されて、アンゼリカは奥の部屋へ入った。灯りもない部屋にぼんやり佇むうちに、侍女はどこかへ消えていた。残されたのは暗闇と静寂。
ざわりと、背筋に何かが蠢くような気がした。
闇に目が慣れてくる。窓から差す弱々しい月明かりが、天蓋つきの大きな褥を浮かび上がらせる。なんと見事な寝具であろうか。ゆうに4、5人は共寝できよう。こんな部屋を、伯父は私のために用意してくれたというのか?
と、背後で扉が軋んだ。弾かれたように振り返る。手持ち燭台に蝋燭が3本。揺らめく赤光に照らされて、伯父がぎこちなく笑っている。
「おじさま」
内心にぞっとするような冷たさを感じながらも、アンゼリカは囁いた。舌足らずな幼い声で。頭みっつ分も上にある伯父の顔を見上げて。そこに異様な喜悦が浮かぶ。燭台をそこらに置いて、押し入るように近寄ってくる。
膨れ上がる不安に圧され、アンゼリカは一歩、後ずさった。
「あの」
伯父は何も言わない。
そこでようやく彼女は悟った。何かただならぬことが起きつつある。恐ろしいものが迫りつつあると。青ざめ、擦り足に下がる。一歩。二歩。伯父はぴたりと追ってくる。あの不気味な笑みを張り付けたまま。
「おじ……」
三度目の声を上げたところで、踵が寝台の足に触れた。
そのとき。
やおら伯父が飛び掛かった。押し倒し、押さえ付け、腰の上に馬乗りとなった。下腹部に固い感触が圧し当てられる。擦れるたびにそれは大きく、大きく、大きく、さらに大きく怒張していく。筋肉の塊のような伯父の指が、彼女の襟元を引っ掴む。
そして乱暴に引き千切り、膨らみ始めたばかりの胸を、下卑た男の視線に晒した。
彼女は悲鳴を上げた。助けて! 誰か! それは言葉ならぬ言葉であった。だが誰も来ぬ。ここは伯父の屋敷。助けなどあろうはずもない。
小枝のようだがみずみずしいからだを、伯父の舌が舐めていく。脳を掻きまわされるような混乱、嫌悪、そして、恐怖。伯父が上に覆いかぶさる。不快な体温と汗ばんだ肌に押し潰され、彼女は必死にもがいた。殴ろうとした。蹴ろうとした。だが四肢の要所を全て伯父に束縛されて、腕一本、足一本動かせぬ。
伯父は器用にも脚と腰だけ揺すり、強引に割り込んだ。アンゼリカの股の間へ。
直後。
――絶叫。
夜明けごろ、アンゼリカは死体の如く褥に横たわっていた。
幾度も、幾度も、彼女を好きなように弄んだ伯父は、いつのまにかどこかへ消えていた。よれて乱れ、幾重にも襞を作った寝床の上で、彼女はただ、ぼんやりと窓を眺めていた。引き裂かれた衣服はそこらじゅうに散らばり、彼女を庇うものは薄絹ひとつとてない。顔と体にはいくつかの痣。股と腹の中がひどく痛むが、それもどこか遠い世界の出来事のよう。
不思議なことに、涙はなかった。
もう彼女には分からなかった。何に涙すればよいのかさえ。
勇者の後始末人
“淫らな聖女、アンゼリカ”
内海東部の田舎国としては珍しく、ベンズバレン王国には洗練された社交界が存在する。有力者は度々舞踏会や夜会を開き、そこで芸術から政治まで多彩な意見を交換するのだ。とりわけ、貴族の子女はこぞって夜会に参加した。目的は無論、恋。ひらたくいえば、政略結婚のための品定め、そして売り込みである。
アンゼリカも年頃を迎えるや社交界にお披露目され、以来1年あまり、数知れない夜会をこなしてきた。哀れな孤児によい夫を見つけんと、後見人の伯父が世話を焼いているのだ――ということになっていた。少なくとも、表向きは。
「あの、ご婦人」
その夜声をかけてきたのは、実に毒気のない真っすぐな青年であった。アンゼリカよりひとつふたつ年上だろうか。特に見目良いというのではないが、誠実そうな顔つきは淡い好感を抱かせる。いかにも社交界に不慣れな立ち居振る舞いも、かえって彼の人となりを際立たせている。
「あちらの部屋で面白い奇術をやるようですよ。なんでもひとりでに動く人形とか……一緒に見物しませんか」
精一杯に考えたのだろう。素朴で野暮ったい誘いの言葉。
はにかんで見せ、アンゼリカは彼のエスコートを受け入れた。指と指が触れ合うとき、その柔らかさ、温かさ、そして儚さに、彼は小さく身震いさえした。愛嬌のある男性だった。奇術とやらは大した見ものでもなかったが、弾む会話だけでも充分に愉しめた。彼女は半歩、距離を詰めた。彼が怖気づきながらも、喜び、興奮し、男らしい期待の目を向けてくるのが分かった。
「あなたは、きれいだ。穢れを知らない、織ったばかりの絹のようだ」
あまりにも言葉を飾ることを知らないものだから、アンゼリカは思わず笑ってしまった。
「冗談じゃありません。本当です」
「存じております、愛らしいひと」
「僕が?」
「ええ、とても」
舞い上がった青年が、アンゼリカの腕を掴む。少しばかり痛かったが、この程度の痛みならむしろ嬉しくさえある。
「もっと一緒にいたい」
「ありがとう。でも今夜はもう帰らなくては」
「なぜ?」
「おじさまに叱られます」
「では、今度。次にお会いした時は」
「ええ」
アンゼリカは彼の胸に手のひらを乗せ、つま先立ち、頬にゆっくりと口づけた。舌先をも使った、舐めるような、味わうような、丹念なキス。頬を離れた唇がそのまま、耳元で、息を吹きかけながら囁く。
「またお会いしましょう。そのときは――」
言葉だけを残して立ち去るアンゼリカを、青年は呆然と見送った。頬に手を触れた。唇の感触が、今なお熱く焼き付いていた。
しかし、彼の名前は忘れてしまった。覚える気がなかったのだ。覚えても仕方ないことであったから。
夜会はまだ続いている――が、アンゼリカは最前から別の部屋に籠っていた。別といっても、ホールとは廊下を挟んですぐ隣。廊下を行き来する人影も少なくはない。そのうえドアは、敢えて僅かに開かれている。そうするのが伯父の好みであったから。
「いつもより愉しんでいたな。あの男が気に入ったのか?」
アンゼリカは吐息で応えた。
獣のようにテーブルに手をつかされ、白いスカートを腰までめくりあげられ、穢れは、伯父の肉体は、後ろから、絶え間ない振動を彼女の奥に叩き込み続ける。幾度も、幾度も、屈辱に歪むアンゼリカの表情を、ゆっくりとねぶり尽くすように。
「ふっ……ん……んぅっ……!」
ぬめる異物が出入りするたび、からだを流れる髪の房が、ぴくり、生き物の如く脈打つ。ドレスの襞が弓なりに反りかえる。額の汗が滴り、胸元をくすぐり伝い落ちる。唇を噛み締め声を堪える。ともすれば漏らしてしまいそうになる嬌声を。
もう何度突き込まれた? あと何度我慢すればいい? ひと突きごとにからだを貫く電流に、アンゼリカはとうとう耐えきれなくなり、喉を搾り上げたような悲鳴を零した。
「いい声で啼くじゃないか」
伯父が耳元に口寄せ、囁く。
「あの男に聞かれるかもしれぬなあ……」
「ぅあっ……!」
途端、アンゼリカの中で何かが弾けた。咄嗟にテーブルクロスを噛み締める。絶叫は辛うじて食い止められ、獣の断末魔にも似た嗚咽だけが漏れる。激しく痙攣しながら床にへたり込む。何かがつぷりと音を立て、彼女の内から滑り出る。
苦しげに喘ぐ彼女の頭を、伯父の手が乱暴に撫で、鷲掴みにする。髪を縄代わりに引きずり上げ、覚めやらぬ絶頂の余韻に震える唇を強引に奪う。言葉はない。だが、その指と舌に籠る力が語っていた。
お前は俺のものだ、と。
アンゼリカに言い寄る男があった夜、決まって伯父は彼女を辱めた。
キスしやすそうな危なっかしい唇と、手練のほどを思わす狩人の目を、ふたつながら併せ持つ少女だ。男の目を惹かぬわけがない。ほとんど毎夜のように想いを寄せる男が現れ、それゆえアンゼリカは蹂躙を受け入れねばならなかった。彼女が男に好意を抱けば抱くほど、伯父はよりおぞましいやり方で彼女を汚した。そこに悦びを感じていたのだ。若く見目よく力ある男たちでさえ、高嶺の花と憧れるしかない美姫。それを自分は、好きなだけ玩具にできるのだと。
さぞや楽しかろう、玩具にするほうは。されるほうでどんな感情が育っているか、想像もすまい。
伯父はアンゼリカを甘く見ていた。ゆえに己の歪んだ欲望を優先した。妖しく熟れた色欲の囚人を、社交界という公の場へ解き放ってしまったのだ。アンゼリカは度重なる凌辱に耐えながら、じっと好機を待った。そしてそれは、唐突に訪れたのだ。
ある舞踏会の夜、男がこんな話を聞かせてくれた。おそらくは、女をきゃあきゃあ言わせたいという軽い気持ちで。俺は裏の裏にも通じているぞ、という、子供っぽい武勇伝のつもりで。
「知っているかい。年代記通りに面白い店があるんだ。客は選ぶが」
「なんのお店?」
無邪気を装ってアンゼリカは尋ねた。男はそっと耳に口寄せ、いかにも勿体ぶって囁く。
「薬」
「どんな」
「夢のような快楽。恐るべき幻覚。いくらでも起きていられる気付け。それから、ひとくちで心臓を凍り付かせる悪魔の髄液まで」
きゃあ、と彼女は悲鳴を上げて、彼の腕にすがりついてやった。それがご注文の反応であったからだ。
しかしその実、目は暗殺者の短刀めいたぎらつきを放っていたのだった。
その夜、侍女ドナは微睡みの中に天使の舞い降りる夢を見た。
胸騒ぎに目を覚まし、薄くまぶたを持ち上げて見れば、寝台の傍らに立つ影がひとつ。少女。窓から差し込む月明かりに薄絹が透けて、ほとんど素裸のようなもの。か細さのあまり儚くすらある四肢。胸の先端はつんと愛らしく尖り、絹に幾すじもの襞を形作る。腹と腰は完璧な滑らかさでうねり、逆光の中に秘すべき聖地を見え隠れさせている。
侍女は息を呑んだ。来訪したるは我が主、天使の如きアンゼリカ。そうと知るや、からだのずうっと下のほうが、涙ぐむように濡れ始めた。
深く深く待ち望まれた来訪であったのだ。
「ドナ」
天使が欲情した声で己を呼ぶ。ただそれだけでひとつ目の頂に登り果て、ドナは苦悶の喘ぎを零す。気がつけば、信じられぬほどはしたない懇願をしていた。
「はやく」
天使はそうした。蛇の如く褥に登り、股の間に指を滑らせる。ぬめり、ぬめり、丹念に丁寧に、執拗なまでに秘所をなぞる。ひと指ごとにドナの背が跳ねる。漏らした悲鳴はキスに、触手めいた舌に塞がれる。唇、舌、歯の裏側まで、あらゆるところを舐め回されて、くぐもった嬌声が口中に弾けた。ぬかるみは泉となり、泉は川となり、絶え間ない水音が淫らに響く。他には絡み合う二人の吐息しかない秘密の寝室に。
やがて天使の舌はドナの唇を離れ、胸を、腹を伝い、更に下へと舞い降りた。濡れた泉に吐息がかかる。侍女が恍惚に涙を零す。おねがい。意識は恥ずかしさのあまり哀願を隠さんとした、しかし涙が、嗚咽が、ひくつく肉の花が自白している。おねがいだから、はやく、はやく甜めて!
ついに舌が彼女を突いた。荒い、強い、いやこれは暴力。これまでとは全く違う嵐の如き快楽が、彼女の奥を乱暴に渦巻き掻き回す。もう声を堪えきれない! 泣き叫びながら身をよじる。逃げ場はない。蹂躙されるしかない。淫らな天使のなすがまま、この身を思う存分もてあそばれ、ついにドナは弓のごとくからだを仰け反らせ、最後の頂に達した。達して、果てて、痙攣のうちに感じた。天使の細腕が、優しく己を抱きすくめてくれるのを。
愛の行為に一息ついて、ふたりは狭い褥にぴたりと身を寄り添わせ、心地よい時を過ごしていた。肌と肌のしっくりと合うことは、まるで誂えた肌着のようだ。そうして抱き合いながら、ゆっくりと、尻や腿や、背などをくすぐりあった。口づけも絶えず繰り返した――無論、ありとあらゆる場所にだ。
ドナとアンゼリカの付き合いは長い。初めて伯父に犯されたあの夜、寝所に導いたのがドナだった。
南方生まれの快活な娘は、はなから主人の蛮行に怒りを覚えていたのに違いない。それゆえか、ドナはアンゼリカに同情的であった。ドナ自身の境遇――貴族のもとに生まれ、後に父親が没落して下女に身をやつした――も味方したかもしれぬ。
このような関係になったのは、アンゼリカが屋敷に来て半年ほど後のこと。褥で、裸体を隠しもせず、悲嘆にくれる女主人に、せめて心慰めようと手を触れた。どちらからともなく顔を寄せ、やがて、熱情に駆られてキスをした。
以来、隙を見ては肌を重ねるようになった。アンゼリカは、ドナを自分付きの侍女にするよう伯父に頼み、ささやかな願いはわけもなく聞き入れられた。ドナはアンゼリカの寝室と続きの、小さな侍従部屋に寝起きするようになった。
アンゼリカの指の技は、恐るべき巧みさでもってドナを苦もなく篭絡した。皮肉にも、伯父にしこまれた淫靡な行為の数々が、彼女の天賦の才と混ざり合い、凄まじいまでの魔力を発揮したのであった。
ドナは恋人。しかし今では、アンゼリカに従順な愛の奴隷でもある。
「ねえ、ドナ」
「はい、お嬢様」
「お願いがあるの、簡単なお願いよ……」
女主人に計画を打ち明けられ、ドナの顔はみるみる青ざめていった。曰く、明日の昼から3日ほど、伯父は仕事で屋敷を離れる。主だった侍従も連れて行くだろう。残されるのは老僕と、衛兵、そして侍女が数名きり。アンゼリカを監視する仕事は、ドナひとりに任されよう……
「お嬢様、それは」
「お願い。ほんの一晩でいいの。日の出前には必ず戻る。少しだけ外の世界を見てみたいのよ」
外へ抜け出すのを見逃せというのだ。真面目な侍女に、そんなことが聞き届けられようか。
しかし――先にも述べたとおり、ドナはもはや、愛の奴隷に成り果てていたのだ。
「嫌なら、もうあなたとは寝ない」
「アンゼリカ!」
悲鳴にも似た呼びかけに、アンゼリカは悪魔の微笑みを浮かべた。
「でもお願いを聞いてくれるなら――すごいことをしてあげる。あなたには想像もできないことよ……」
悪魔の舌が、そっと、首を這う。
これに耐えられるはずがあろうか。
その後は夜が明けるまで、再びの行為に、ふたりは溺れた。
ドナの手引で裏口を抜け、アンゼリカはただひとり、冷え切った夜に歩み出た。分厚い革のコートを着込んでなお、寒気が肌に痛いほどだ。それでもちっとも苦にはならぬ。彼女の中には、恋慕にすら似た暗い情熱がふつふつと沸き立っていたのである。
月明かりのみを頼りに進み、くだんの界隈へ足を踏み入れる。年代記通りは第2ベンズバレン建造初期に作られた住宅街だが、立地の問題から今ひとつ人の居着きが悪く、いつしか浮浪者の溜まり場となって、今ではこの街きってのいかがわしい地区に堕してしまった。並外れて廉価な宿や酒場。不穏な病の気配を漂わせる娼館。細かな鉄屑をすら掛け金とする賭場。その他、得体の知れない店は数しれず。このようなところにアンゼリカの如き小娘が足を踏み入れて、無事目的地に辿りつけたというのは、幸運以外の何物でもなかった。
目指す店は、この通りでも一際空気の淀んだ一角にあった。煉瓦の壁に挟まれた狭い道の奥。朽ちかけた木戸が、半ば崩れた壁に寄りかかるように傾いでいる。
このような所に人が住めるとは思われなかった。人でなければ、獣か、魔か。ドアと壁の隙間には黒黒とした闇が顔を覗かせ、いかにも魔性のものの巣穴めいて、不気味に沈黙している。
今更ながら、来たことを後悔した。何を舞い上がっていたのだろうか。なんと恐ろしいことをしているのだろうかと。この巣穴に足を踏み入れれば、もはや後戻りはできぬ。自らも魔性のものと化し、恐るべき罪に手を染めることになる。
しかし、ここから逃げ帰ったとて、その先に一体何があろう。未来永劫、伯父の獣欲に貪られ続けるのか? あの屈辱を、明日も、明後日も、ずっとずっと――?
衝動的にアンゼリカは戸を叩いた。叩いてから、自分のしたことに驚いた。だが内心はどうあれ、やってしまった。これでもう後には退けぬ。
店主なり店番なりの返事は無かった。アンゼリカは思い切って戸を押し開け、中に滑り込んだ。
魔物の巣にしては洗練された部屋だった。山をなす書物、数え切れぬほどの薬瓶、嗅いだことのない臭気を放つ坩堝、何に使うのかも定かならぬ奇っ怪な形の硝子器具。ありとあらゆるものが乱雑に積み上げられているようでいて、一定の規則で整然と並んでいるようにも見える。その光景には、どこか幾何学的な美しささえあった。
その中央に、もぞと動く影があった。憐れなまでに痩せこけた老人だ。ボロを着て、血走った目を手元の薬瓶に集中させている。
「あの」
アンゼリカが声をかけるも、返事はおろか、視線ひとつ返ってこない。
「毒薬をください。一切の証拠を残さず、一口で人を死に至らしめる猛毒を」
「そんなものはない」
男はしわがれた声で応えた。
「朝の前に夜あるが如く、結果には原因が先駆けるものなのだ。突き止められぬ因果はないのだ。そんなことも知らんのか、馬鹿め」
「ですが、話に聞きました。あなたに作れぬものはないと。この国いちばんの錬金術師だと」
ようやく、男は手を止めた。
「違う。世界一の、だ」
錬金術師の落ち窪んだ目が、異様にぎらついてアンゼリカを睨んだ。
その眼光に秘められた微かな欲望の気配を敏感に察して、アンゼリカはコートを脱いだ。水の流れるような艶髪が、寒気に青ざめた肌が、小刻みに震える桜色の唇が、男の目の前にあらわとなった。
からだを包むチュニックは透けるほどに白く、厳然たる貞淑と意志の弱さとを共に感じさせる。可憐なスカートは膝のあたりまでしかなく、また、左右の深い切れ込みが、腿の大部分を見え隠れさせていた。それを恥じた乙女が、脚を擦り合わせて身をよじるものだから、かえって、見えてはならぬところまで晒してしまう。
錬金術師は興味なさげに鼻を鳴らした。その実、視線は舐めるように粘質であったが。
「……今は忙しい。屑どものくだらぬ依頼が山積みなのだ。5日後にまた来い」
「困ります。今夜でなければならないのです」
「なら諦めろ」
アンゼリカは男のそばに寄った。何者かに操られたかのように、体がひとりでに動いた。事実、操られていたやもしれぬ。誰に? 神か。悪魔か。自らも気づいていなかった彼女自身の本性にか。
「お忙しいのなら手伝います。その後でなら、作ってくださいます?」
「む……」
錬金術師は唸った。念入りに洗い清めてきたアンゼリカのからだから、石鹸のえも言われぬ香りが届いていたに違いない。
「……グレイル138の瓶を取れ」
言われたとおりにした。まさか正しい薬を持ってくるとは思わなかったらしく、錬金術師は目を丸くした。無論アンゼリカの方でも、貴人の嗜みとして学ばされた古代帝国語がこんな所で役立とうとは、思いもよらなかったに違いない。
錬金術師自身が述べたとおり、その仕事は多忙を極めた。彼は正体不明の器具を手足の如く操り、色とりどりの薬品やら、妙な匂いのする煙やら、薄汚い燃え滓としか見えぬ塊やらを精製した。
アンゼリカはひっきりなしに飛んでくる指示に従い、薬瓶のみっちり詰まった箱やら、分厚い書物の束やらを、あっちこっちに運び歩いた。自分から言い出したこととはいえ、普段重いものなど持ったこともない体にこれは堪えた。いつしか注意力も散漫になった。だから気づきもしなかった。働きまわる自分のスカート越しに、尻の曲線が弾けんばかりに浮かび上がっていることにも。錬金術師がときおり、それを盗み見ていることにも。
やがて仕事は一段落したらしかった。錬金術師が椅子に深く身を沈める。そして、なぜかアンゼリカから目をそらし、ぼそりと命じた。
「これで最後だ。この箱を奥へ」
木箱の中身は、ほとんど空になった瓶ばかりで、これまでのことを思えば天国のように軽かった。小気味よく返事して、アンゼリカは荷物を抱え、奥の薬品室へ向かった。
薬品室には窓一つなく、頼りはちびた蝋燭ひとつきり。どこの棚にも箱はぎっしり詰まっている。どこかに隙間がないものかと、端から順に、視線を滑らせ――
と。
突如、骨筋張った腕が後ろから彼女を抱きすくめた。
錬金術師。いや、いまやただの男。枯れた老人が、別人のような情熱を込めてアンゼリカを
「あ……の……」
「落とすなよ」
男の声には有無を言わせぬ力があった。
「欲しいのだろう――」
指がスカートの切れ込みから滑り込んだ。いきなり秘所の先端をぴんと弾かれ、駆け抜ける歓びにからだがのけぞる。木箱の中で瓶が音を立てる。手を塞がれて身動き取れぬアンゼリカを、指の責め苦は容赦なく襲う。いじる。こねる。撫で回す。ついには肉を掻き分けて中に押し入り、好き放題に掻き回す。
「んっ……」
蜜はだらしなく滴り、口許からは唾液が溢れ、チュニックの胸元を濡らして伝い落ち――そこに男の手が忍び込んだ。細い手がボタンの隙間から胸に触れ、豊かな膨らみを下から掬い上げるように揉み、敏感に尖り始めた桜色の果実を指に摘んで虐めぬく。
「あ……んあっ!」
声が出た。出すつもりはなかったのに。からだは好きにさせても、感じるつもりはなかったのに。さながらアンゼリカは肉の楽器。匠の手に弾かれることを、沈黙のうちに期待する弦。アンゼリカは掻き鳴らされた。貞淑とは程遠い淫靡そのものの喘ぎ声で――
充分な時が経って、アンゼリカはそっと身を起こした。乱れた髪を慣れた手付きで撫で付け、衣服を手早く整える。その姿を見上げながら、ああ、と嘆き声を漏らすのは、錬金術師であった。すっかり精根尽き果てて、起き上がる力さえ残ってはいなかったのだ。
「なんという、なんということをしてくれたのだ」
錬金術師は泣いていた。こんな年の男も泣くのか。アンゼリカの目は冷淡ではあるが、無慈悲ではなかった。自然と彼女の手が伸び、老人の頭を撫でた。しかし錬金術師は、それを払い除けた。まるで怯えているようだ。
「私は学問に生涯を捧げた。あらゆる肉の欲は唾棄すべき惰弱と切り捨ててきた。幸福を知らぬことだけが私の支えだったのだ!
だがお前は、お前というやつは、私に烙印を圧してしまった。もはやこの悦びを忘れられぬ。この命が果てる時まで」
アンゼリカは立ち上がった。今はどんな言葉も無意味と悟って。
「約束です。お薬を」
「……ガオージャを持っていけ」
薬品棚からそれを見つけるのは容易かった。先ほど手伝っているときに、そんな名前の薬をしまった覚えがあったのだ。手のひらに収まる程度の小瓶を握り、アンゼリカは錬金術師を見下ろす。彼は、秘薬の使い方を事細かに教えてくれた。
礼を述べ、代金を支払おうとすると、錬金術師は拒んだ。もう充分すぎるほどのものを貰ってしまったと。これ以上苦しめないでくれと。
一方で、立ち去ろうとするアンゼリカを、こう呼び止めもした。
「待ってくれ。私はどうすれば良い? またお前を……抱きたくなったら」
アンゼリカは振り返った。天使そのものの笑顔と共に。
「いつでもいらして。私を口説いて。あなたはあなたなりのやりかたで」
夜明けは近い。急ぎ帰らねば。しかしアンゼリカに焦りはなかった。脚が羽の生えたように軽い。裏通りの恐ろしさも、一戦終えた体の疲れも、これまで抱え続けてきた重圧とともに雲散霧消したかのようだ。自然と顔がほころぶのが分かった。
懐には小瓶がある。この薬が彼女を解き放ってくれる。あの果てることを知らない凌辱の夜に、この手で引導を渡せるのだ。
そう思えば、忌々しい伯父の帰りさえ待ち遠しい。
アンゼリカは風のように駆けた。心がうきうきとときめいた。子供じみた笑い声すら零れていたやもしれぬ。両親を亡くして以来、一度も味わったことのない感情であった。
かくも舞い上がっていたせいか、彼女は全く気づかなかった。道ですれ違った一人の青年が、ふと足を止め、少女のほうへ振り返ったことに。
薬は、寝室にある扉付きの酒棚に隠した。ここにあるのはとっておきの銘酒ばかり。それらに手を触れるのは、淫らな行いの前後に給仕役を勤めるアンゼリカのみだ。侍女たちも、命じない限り扉を開けはしないはず。
伯父が戻るまであと二晩。アンゼリカは常のように大人しく過ごした。庭をそぞろ歩き、あるいは書を紐解いた。一文字も頭に入りはしなかったが。時には寝室に戻り、そっと、酒棚の小瓶を確かめた。その縁を指で撫で、想像を膨らませる。伯父はどのように死ぬのだろう。血を吐くだろうか。顔を恐ろしげに引きつらせるだろうか。その死に様を思えば、それだけで少なからず心が慰められた。
日が暮れて、夕餉も済み、アンゼリカは早々に寝床に入った。今夜くらいはゆっくり休みたいの、とわけを話すと、ドナを含めて侍女たちはそろって得心の顔をした。
風が木窓を叩き始めた。冬の嵐が来るのだろうか。街道が雪に閉ざされれば、伯父の帰りが遅くなってしまうだろうか――
まどろみかけた頃、風とは異なる何かが窓を叩くのが聞こえた。アンゼリカは跳ね起きて、寝具を抱き寄せ、耳を澄ます。ごうごうと唸る嵐。枝葉のざわめき。それに混じって――また。確かに、何かが窓を叩いた。
何か、ではない。誰かだ。空気や雨や雪などではない、もっと確かな実体を持った人間の拳が、軽く、優しく、問いかけるようにノックしているのだ。まさか。ここは2階なのに。一体誰が、どうやって?
恐ろしくもあったが、今のアンゼリカはいつになく大胆にもなっていた。上着を羽織り、窓に寄り、意を決して押し開ける。
そこには一人の青年がいた。雪のちらつき始めた嵐の中、身軽にも木の枝に登り、いささか幼く屈託のない笑みを浮かべている。一見して感じのよい若者ではある。
「こんばんは、アンゼリカ」
――誰?
危うく首を傾げそうになって、ようやく思い出した。以前に夜会で会った、あの青年だ。ひとりでに動く人形の奇術を一緒に見た。名前は……やはり、思い出せないが。
「どうしてもあなたが忘れられないのです。突然の来訪をお赦しください」
「それは一向に構いませんが。この入り口はいささか狭すぎましょう? あなたが猫ならともかく」
「にゃあ」
真面目な顔をして鳴き真似などするものだから、うっかりアンゼリカは吹き出してしまった。
「おはいりになって」
笑いながら手を差し伸べると、彼は嬉しそうにそれを取った。そして猫顔負けの身のこなしで、軽やかに飛び込んできたのだった。
青年はオーデルと名乗った。きっと僕のことなどお忘れでしょうから、と前置きされたときには心臓が飛び出そうなほどであった。図星をつかれた驚きを、果たして隠しおおせたかどうか。
「昨夜、あなたを見かけたのです。年代記通りで」
褥にふたり並んで腰掛け、つかず離れずの距離を保って、彼はそう切り出した。てっきり押し倒されるものと予想して、またそれを承知で招き入れたアンゼリカだけに、オーデルの紳士的な振る舞いはいささか拍子抜けであった。ただ話をするためだけに、嵐の中、女の寝室へ忍んできたというのだろうか、この青年は。
「一瞬のことでしたが、見間違えはしません。あなたの横顔ははっきりと覚えておりましたから」
「物覚えのよろしいこと」
「あなたが美しすぎたので、目に焼き付いてしまったのです」
「堂に入ったお世辞ね。どこで覚えてこられたの?」
「友人に口説き文句の手ほどきを……あっ」
舌を出すさまがなんとも無邪気だ。かつて抱いた好感を、今またアンゼリカは蘇らせていた。素直で、飾らない、素朴な正直者。虚飾に満ちたアンゼリカとは正反対。
ともあれ、裏通りのことから話を逸らすのは成功した。話題は彼の師匠たる好き者の友人を経て、オーデル自身の身の上に移った。彼は、さる位の低い騎士家の長男であるらしい。すでに幾度も戦に参加し、ちょっとした魔物やら盗賊やらを退治たのだという。
促すと、彼は目をキラキラさせて夢を語った。今はまだ騎士団の末席に名を連ねるのみだが、いずれ武勲を立て、名を上げてみせると。
「身分違いはなんとかしてみせます。だから、そのう」
小首を傾げるアンゼリカに、オーデルは、立ち上がり、深呼吸し、改まって跪き、手を取りながら生真面目に述べた。
「あなたを我が妻としたい。どうかこの愛をお受けください、この世に比類なき天使よ」
アンゼリカは爆笑した。
「似合いません!」
「そうですかあ?」
「その台詞、どれだけ練習なさったの?」
「かれこれもうふた月……笑わんでくださいよう」
目尻の涙を拭い、アンゼリカは彼の胸に手を当てた。鋼鉄のように引き締まったからだの奥から、高鳴る鼓動がびりびりと響く。その激しさは、指先に心地よい痺れを覚えるほどだ。
「ね。そんな言葉ではいや」
オーデルの心臓はいっそう強く脈打った。
「あなた自身の声を聞かせて」
「君が欲しい」
今度は彼女がどきりとする番だ。
「君が好きだ」
それからしばらくは、声もなかった。風が鳴った。木の葉がざわめいた。嵐は徐々に強まっているようだった。自然の声に包まれて、じっと見つめあっていれば、まるでこの世からふたりだけが切り離されてしまったかのよう。真実の存在はたったひとつ。触れ合う指の温もりだけ。
アンゼリカは瞼を伏せた。好きなように、してほしくて。
ゆえにオーデルはそうした――そっと顔を寄せ、彼女に優しく口付けしたのだった。
初めてだった、こんなにたどたどしいキスは。こんなに甘いキスも。瞼を持ち上げたとき、アンゼリカの目は蕩けていた。この胸のときめきを、知られてしまったに違いない。燃えるような羞じらいに頬が染まった。恥知らずにもからだは疼いた。
しかしオーデルはそのままゆっくりと体を離し、立ち上がってしまった。
「……今夜は帰ります」
「えっ?」
つい、抗議の声が出た。オーデルは微笑んで、
「これ以上はいけない。あなたを妻とするまでは」
「そうね?」
「また参ります。今度は、正式にあなたをいただきに」
今いただかれてもよいのだけど。とは流石に言い出せず、彼女はぽかんとするばかり。
青年は窓を開け、来た時と同じように、軽く枝に飛び移った。アンゼリカは、窓辺に手をつき、嵐の中に身を乗り出してまで、彼を見送った。すがるような目をしていたとは、自分でも気づいていまい。
「伯父様は明後日まで戻らないの」
「そうでしたか」
「明日も来てくださる?」
オーデルは頷き、
「ええ、もちろん」
力強く請け負うと、するする木を伝い降り、最後に大きく手を降って、そのままどこかへ行ってしまった。アンゼリカに残されたのは溜息ばかり。
吹き込む吹雪に身震いして、アンゼリカは窓を閉めた。
彼の温もりがまだ残る褥に腰を下ろし、ふと、己の脚の間に指を挿れてみる。
ねっとりと糸を引くような蜜が、いつの間にか滲み出ていた。彼が指一本触れることのなかった乙女の聖域にだ。
再び溜息をついて、アンゼリカは寝床に身を投げだした。
「……あんな男もいるんだ」
恋をした。生まれて初めての恋だ。
吹雪がそれを教えてくれた。
翌日、降りしきる雪はあらゆるものを純白の下に隠し清めた。滅多に雪が積もらぬだけに、この街は積雪には大変弱い。まして体が埋もれてしまうほどの大雪。街全体が息絶えたの如く動きを止めるに至り、アンゼリカは窓辺でそっと溜息を付く。
明日も来ると安請け合いした殿方だが、さすがにこれでは約束を果たせまい。逢えぬ。そう確信するや、胸の中で何か不定形の生き物がのたうち回るような不快感を覚えた。これで二度と逢えぬやもしれぬ。雪はしばらく融けぬだろうし、明後日には伯父が戻ってくる――
こんな不安は、ついぞ感じたことがなかった。自然と涙が溢れ出た。たかが男に会えぬくらいで、何故泣いているのか自分でも分からぬ。まるで半身を失ったかのようであった。
きっとこれが恋なのだ。書物が語る伝説でしか触れたことのない、甘やかな心の果実。ひとくち口にしたが最後、体の芯から痺れさせるその酸味の虜となって、再び求めずにはいられなくなる。だが齧れば齧るほどに餓えはいや増し、ついには恋以外の何も喉を通らなくなる。
伝説は、まことであった。
引き裂かれそうなこの思い。机の上に頬をこすりつけ、あるいは寝床に身を投げ出し、わけもなく襲ってくる不安に呻かずにはいられない。逢えぬ時間の切ない苦さ、これこそが恋の味。
だから、夕暮れごろ、雪まみれのオーデルが再び窓を叩いた時には、思わず「きゃあ」などと歓声を上げてしまったのである。
半ば引きずり込むように招き入れ、雪に埋もれた外套を脱がせ、ついに我慢しきれなくなって、胸に飛び込み抱きしめた。彼は凍えて震えている。この体を使って温めてやらねば。そうとでも理屈をつけなければ、羞じらいのあまり頭がどうにかなりそう。彼の匂い。彼の吐息。次第に蘇る彼の体温。無骨な手が、戸惑いながらも優しく髪を撫でてくれる。体中にむず痒く快感が走る。知らなかった、頭を撫でられるのがこんなに気持ち良いことだとは。
その日もまた、寝床に並んで腰を下ろし、他愛もないおしゃべりに興じた。ふたりの間に彩を添えるのは、彼が持参した焼き菓子と、アンゼリカが用意した甘い蜜酒。話は盛り上がり、笑いは絶えなかったが、とうとう男と女の為すべきことは為されずじまい。昨夜からの進展といえば、ふたりの距離がこぶしひとつぶん縮まり、腕や肩が触れ合ったり離れたりしていたこと。小指で彼の手をくすぐると、お返しに握りしめてくれたこと。そして、昨日より少しだけ強引なキス。
はしたなくも嬉しくて、つい物欲しそうな目を向けてしまって、それを見て取った彼はもう一度唇をくれた。もう一度。もう一度。おねだりするたび、何度でも。
もどかしくて、切なくて、早く貫いて欲しいのに、彼は決してしてくれない。壊れやすい宝物を扱うように、大切に、大切に、アンゼリカを愛でてくれる。そう、愛してくれている。不意にそうと悟った彼女は、恋が通じ合った喜びに身震いした。そして、彼の胸に頬を寄せ、甘えた。
第二の夜が終わった。今日には伯父が帰ってくる。だからこれが最後の逢瀬。
しかしそこに思わぬ吉報が舞い込んだ。大街道が雪で封鎖され、また嵐も収まる気配を見せないことから、伯父の帰りはかなり遅れるだろうというのだ。アンゼリカは狂喜して神に感謝の祈りを捧げ(神のほうではいわれなき感謝に戸惑っていたやもしれぬ)、勇気を出して、侍女ドナに彼のことを打ち明けた。
ドナは愛人として嫉妬したが、それ以上に、親友としてアンゼリカの初恋を喜んでくれた。壁を乗り越えないで済むよう裏口から招き入れる役を自ら買って出てくれた。アンゼリカの髪をいつにも増して念入りにくしけずり、体を香油と化粧で美しく飾り立ててくれた。夜着も、とっておきの、愛らしく、艶めかしいものを。殿方が身をたぎらせ、飛びかからずにはいられないように。
今夜は勝負をかける夜。
乙女が女に変わる夜。
肉体はとうに変わり果ててしまった――だが、心はいまだ処女だったのである。
三度目の晩。
手紙にて招かれ、裏口からとはいえ丁重に迎えられて、オーデルは予感を覚えていたに違いない。何か常ならぬものの予感。良しにつけ悪しきにつけ、ただならぬことが待ち構えていると。
侍女に導かれるまま、青年は恋人の閨へたどり着いた。扉は厳かに開かれた。黒黒とした闇がその奥に広がっている。冬の寒気の中にあってなお、じわりと湧き上がる汗。恐るべきものがこの先に居る。
しかし、愛を得るためならば。
青年は闇の中に踏み入った。
そして、見惚れた。
一見して白、純白にも優る白。纏う見事な薄絹さえ、少女そのものを前にしてはくすんで見える。蝋燭の灯りに透ける四肢の、なんと細く伸びやかであることか。指が、腕が、脚が、単なる立ち姿の中にさえ無限の愛撫を想像させる。あのからだを、思うがままに抱きしだくことができたなら――
「もう我慢できないの」
脳の蕩けるような、誘惑の声。
「きて」
誰がこれに耐えられようか。
青年は飛びかかった。キスによって押し倒した。彼女のからだが自ら崩れ落ち、抱きすくめられるまま寝床に倒れた。狂ったように舌を絡める。唾液の味さえ今は甘美。服の上から胸を揉み上げれば、アンゼリカの口で欲情の声が破裂する。ただ触られた、それだけで。愛しい男に触られている、その事実が、アンゼリカの感覚を十倍にも膨れ上がらせる。
そして彼女の陶酔は、無論、男の目にも明らか。
感じている。これほど愛らしい乙女が、この手に抱かれているがために!
彼は指二本の先端でもって、乙女の脚のつま先から、線を引くように、腿の付け根までを撫で上げた。夜着の裾を捲りあげられ、アンゼリカが淫らにさえずる。そのまま指を滑り落とせば、既に濡れ濡れて海の如くになった肉の口が、声の口にも負けず物欲しげにひくついている。乱暴に揉み虐めるほどに、そこは青年を呑み込まんと吸いついてくる――
と。
その時であった。
罵声に始まる短い騒音。次いでドアが叩き開けられる。襲来する何者かを身をていして防がんとした侍女ドナは、投げ捨てるように部屋の隅へ突き倒された。
屈強な力士どもを連れ、来るべからざるものが入ってくる。
すなわち、憤怒に顔を強張らせた、アンゼリカの伯父、その人が。
オーデルの体は、力士どもの手によって可憐な恋人から引き剥がされ、床へねじ伏せられた。背中を剛力で押さえつけられ、肺が苦悶の呻きを零す。
伯父はアンゼリカに歩み寄った。鉄仮面よりも無表情に。
「事情の説明は要らぬ。古今を通じてありふれた出来事と見えるゆえ」
伯父の声は、外の雪にもまして冷酷。
「命知らずの若者よ、ひとつだけ問おう。ここな娘を愛しておるか?」
「愛している。我が命にかけて」
伯父が笑った。心からの悦びに満ちて。
彼が何を考えているか。長い年月その暴虐に晒され続けてきたアンゼリカには、それが身震いするほどはっきり判った。伯父に飛びつき、その胸にすがった。撫でた。揺すった。口づけさえした。しかし伯父は彼女に視線もくれぬ。アンゼリカの懇願を感じながら、狂喜をさらに増すのみだった。ついにアンゼリカは泣き叫んだ。
「伯父様やめて!!」
「腕を潰せ」
力士は命じられるまま動いた。すなわち、鈍器と豪腕をもって、オーデルの腕の骨を叩き潰したのであった。
夜を引き裂かんばかりの絶叫が響き渡った。恐怖と激痛が悲鳴に乗って、アンゼリカにまで伝わってくる。少女は狂乱し、力士を止めんと自ら飛び出す。伯父が腕をひと振りすればその身は枯れ枝の如く蹴散らされる。
再び悲鳴。今度は左腕。丁寧に。入念に。もはや二度と、骨の固まることがないように。
「脚もだ」
かくて青年は。
青年は――
青年は多くを失った。
腕も、脚も。やがて功為し名を挙げんという野望も。蛆よりも惨めで痛々しい姿で、そこに、転がっている。
それでも伯父は、まだ満足してはいまい。
全てを失わしめねば。最後に残ったひとつ――命をかけるとまで言い切った、何より大事であろうものまでも。
「用は済んだ。下がって良い」
伯父は感動もなく命じた。力士たちがオーデルを解放して立ち上がった。ろくに這いずることさえできぬその状態を、もし解放と呼べるなら。
「その女はお前たちで好きにしろ」
伯父があごで示すのは侍女ドナであった。気丈に抵抗するドナを、しかし力士たちは軽々と担ぎ上げ、意気揚々と去っていった。その間アンゼリカにできたのは、震えることだけ。見つめることだけ。恋人を。あるいは、恋人の残骸を。
「さて」
伯父が、彼女の髪を掴み、寝床に引きずり上げた。
「もうしたのか?」
アンゼリカは何も言わない。
「まだか」
伯父がまたしても笑う。嬉しそうに。
「では見ておくがよい、若者よ」
手が、夜着を引き裂いた。彼のために着ていた特別薄い絹なれば、脆いものであった。乳房があらわになる。それ以上のものまでも。
「いや!」
悲痛な叫びは、かえって叔父をたぎらせる。
転がる青年に見せつけるが如く――伯父はアンゼリカの股を開かせた。
「そなたが見たくてたまらなかったものだ」
青年は、吠えた。
その心は獣に堕した。
目の前で獣な行いが始まった。伯父は自らをさらけ出し、深々とアンゼリカの中に突き立てた。滑る肉の中を、上へ、下へ、好き勝手に伯父は暴れ回る。その度途方もない快感がアンゼリカを貫いた。悔しいのに。こんな男に玩具にされて、殺してやりたいほど憎いのに。彼のために高ぶり濡れたこの体は、伯父の蹂躙にさえ見境なく反応してしまう。彼が――愛しい人が見ているその前で。
伯父が肉を擦りあげる。最も感じやすいところを、狙いすましたように的確に。声が漏れる。泣き叫んでしまう。これまで感じたことがないほどの悦楽が、ひっきりなしに襲ってくる。達した。果てた。また達した。意志に反して肉体は止めどなく絶頂を迎え、その都度白いからだが弓なりにのけぞった。いつしか泣きじゃくりながら、彼女は自ら動いていた。
「いや……」
自分から腰を振り、体を押し付け、伯父の男を求めていた。
「見ないでぇ……!」
オーデルが目を見開いた。凝視せずにいられようか!
今度こそアンゼリカは最後の絶頂に行き着き、息絶えたように倒れた。
後に残るのは、小刻みなからだの痙攣。
そして哀れな青年の放つ、血混じりの慟哭のみであった。
夜が明けた。
伯父はすっかり満足したと見えて、どこぞへ姿を消してしまった。ぴくりとも動かなくなった青年は、力士たちが引きずって棄てに行った。そしてアンゼリカは、アンゼリカは――
ようやく足腰が立つようになり、ふらつきながら侍従室を訪れたのは午后。ドナはそこで死んでいた。力士どもに代わる代わる犯され尽くして、後に自ら短剣を胸に突き立てたとみえた。涙はなかった。とうに枯れ果てていた。
アンゼリカは全てを喪った。慈しんでくれる唯一の恋人。憂いを分かち合える愛人にして友。彼女自身の人間らしささえも。何もかも、彼女の少女時代とともに、夜の向こう側へ置き去りにしてしまった。
残されたのは別の何か。
瞳の奥に再び燃え始めた暗い炎。
もはや、迷う余地はなかった。
慎重に慎重を重ねた。全く自然に事を運ばなくてはならぬ。僅かでも違和感を覚えれば、勘の鋭い伯父はすぐさま見抜いてしまうだろう。アンゼリカの裡に燃える復讐の炎。己の身を焼きかねない悪意のたぎりを。
その夜からしばらく、アンゼリカは伯父の凌辱を拒んだ。嫌がり、掻き毟り、噛み付いてさえ見せた。あの頃、初めてここに連れてこられた頃のようにだ。思ったとおり、伯父はその反応を悦んだ。殴りつけ、あるいは縄もて縛り上げ、ろくに濡れもしないところに己を捩じ込んだ。アンゼリカは怯えと屈辱の表情を見事に装った。実際には、必死に腰を振る伯父に冷笑さえしていたにも関わらず。
それから徐々に心の折れるさまを演じ、やがて完全に従順となった。余計な痛みを得て、しかもどのみち逃げられぬのなら、初めから官能を受け入れたほうがまし……そう諦めきった。と、伯父に思い込ませた。
ついには爛れた行為を自ら求めるに至った。完璧に調教され、自ら屠殺台に登るようにしこまれた、力ない仔羊のように。腰を押し付け、締めては緩め、掻き回し、あらゆるところを舐めて、擽り、吸い付いて、搾りとっては飲み下し、飽くことなく貪欲に伯父を貪った。性欲の海に溺れた女の奉仕は、伯父をすっかり満足させた。肉体の面でも、歪んだ欲望の面でも。
もはや、伯父は信じて疑うまい。天使は性の奴隷となった。清らかだった魂は己の精にて穢し尽くされ、今や肉欲の闇に堕ちたのだと。
半分は正しい。確かに汚れた。
だが、汚れたからとて何であろう。
あれから三月。ついに、その夜がやってきた。
いつものように、アンゼリカは酒棚を開いた。中の銘酒を取り出し、惜しみなくふたつの盃に注ぐ。今ではアンゼリカも酒を覚えていた――それも数知れない布石のひとつ。
酒瓶といっしょに取った別の小瓶。伯父は気づいていない。中身をほんの一滴、盃に垂らす。
あの夜、錬金術師は教えてくれた。この薬の名と効用を。彼の言葉が蘇る。
「ガオージャは《法悦》の意。一滴でも口にすれば、あらゆる快楽を数倍に膨らませる。常人ならばまず身が保たん」
アンゼリカは肩をすくめたものだ。
「死ぬほど気持ちいいってことね」
「文字通りにな」
炎が、揺れた。
半裸の美女が、胸や脚を見え隠れさせながら、己に盃を運んでくる。恭しくかしずき、寝床の己をまさぐってくる。それだけで、伯父のものは天高く屹立するのだ。
ふと、伯父が下卑た笑みを浮かべた。またろくでもない事を思いついたに違いなかった。
伯父は受け取ったばかりの盃を、情婦たる姪に差し出した。
「飲ませてくれ。お前の口で」
躊躇う必要がどこにあろう。
アンゼリカは酒を口に含んだ。伯父に擦り寄り、腹と脚とを指でなぞり、乳房を彼の胸板で潰し、白く細い脚で男の塔を擦り上げ、更には口にしゃぶりついた。舌を挿し込んだ。舐め回しながら注いだ。美酒を。伯父は陶酔して喉を鳴らす。送り込まれたそれが毒の水とはついに気づかず。
突如、伯父は吠えた。獣の雄叫び。これまでにない猛りよう。アンゼリカは知った。己の策は功を奏したと。埋伏の毒は確かに伯父の臓腑に届いたのだと。
狂ったように伯父が彼女に覆いかぶさる。乱暴に捩じ込み犯す。されるうちにアンゼリカもまた内なる炎を自覚した。体中が熱くなる。欲望が際限なく押し寄せる。欲しい。もっと。もっと激しく! 口移しのとき、自らも毒酒を飲んでしまったのだと気づいたはその時。もはやどうにもならぬ。
アンゼリカもまた咆哮した。四つん這いになり、尻を突き上げ、獣の如く犯されることを求めた。叩き付けられる伯父の体。その都度雷鳴のように脳を灼く快感。いつしかアンゼリカは舌を垂らし、唾液は口許から溢れるに任せ、白目を剥き、家畜さながらに間抜けた喘ぎ声を上げるばかりとなった。
獣と獣の行為なら、止める理性はどこにもない。
ゆえに宴は続いた。いつまでもいつまでも、命尽きるまで果てしなく。
翌日の夕暮れ時になって、アンゼリカは、あられもない姿で気絶している己に気付いた。
生きている。初めに脳裏に浮かんだのはただそれのみ。次いで寒気が彼女を襲った。跳ね起きて辺りを見回す。伯父は、寝台から転げ落ち、仰向けになって固まっていた。絶頂の予感に目を見開いたまま。恐らくは、果てるその瞬間に命の限界を迎えて。
死んでいる。確かに。
なぜ? 疑問が頭の中に渦巻いた。毒を飲んで伯父は死んだ。なのになぜ私は生きている? 飲んだ量が足りなかったのか? いや、錬金術師は言っていた。一滴でよいと。常人ならば身が保たぬと。なら、アンゼリカは――?
不意に吐き気が込み上げた。
復讐は為された。その実感が突如として湧いてきた。
アンゼリカに疑いはかかるかもしれぬが、処罰まではされるまい。誰の目にも明らかだ、この死が歪んだ情交の果て、際限を失った欲情の末路であることは。事実その通りでもある。全ては彼女の思惑通り。
なのに、どうして?
枯れ果てたはずの涙が止まらない。
途方もない虚しさが彼女を襲った。達成の喜びも、解放の安堵もありはしない。いいようもない悲しみと喪失感があるばかりだった。愛の行為が、復讐を果たした。しかし何を成し遂げたとて、亡くしたものは二度と戻らぬ。その単純な事実が、予想だにしなかった重苦しさで彼女の心に圧し掛かる。
死を前にしては、愛に何ができようか。
この命を懸けて、一体何が救えたというのだ。
事件の調査はあっさりと済んだ。警吏たちの判断は想像と寸分たがわぬものだった。アンゼリカを疑うどころか、憐れみさえした。一方で、卑猥な好奇をも彼女は感じ取った。この娘は一体どのような目に遭わされていたのか、と。彼らも男なれば、無理からぬこととはいえ。
自業自得の好色貴族は、臭いものに蓋をするように気ぜわしく墓穴に埋められ、財産は唯一の肉親たるアンゼリカに相続された。かつて彼女の両親が遺したもの――後見の名目で伯父が掠め取ったもの――も含めてだ。
表向きの後始末がうまく進めば進むほど、彼女の中の黒黒とした感情は膨れ上がっていった。それはなんの感情だったろう。罪悪感。そうかもしれぬ。喪失感。それもある。
しかし確かにこれとは解らぬ。漠とした不安に苛まれ、アンゼリカは日夜震えた。ときに呻き声を上げることもあった。こんな時に心配してくれるドナはもういない。他の侍従たちは――新たなる女主人に過不足なく仕えはしても、友や親になってはくれぬ。
いたたまれぬ。
ついにある夜、アンゼリカは屋敷を抜け出した。何か目当てがあったわけではない。ただ、その場に留まっていたくなかっただけのこと。
いかがわしい裏通りの夜を、娘ひとりで彷徨する。目は濃密な澱に濁り、顔は陶器の仮面のよう。サフラン色の美しい靴は、泥に穢され見るも無残。衣服はしどけなく崩れ、一歩あゆむたびに裾や胸元から白い肌が見え隠れする。
目を見張るほど色気のある娘の、かくも無防備なありさまを見れば、良からぬ輩が黙っているはずもない。案の定、通りがかりの酔った若者が、商売女と勘違いして声をかけた。
「あんた、いくらなんだ」
娘は取り合わぬ。若者は肩をすくめて過ぎ去った。
その先の辻には2人の娼婦が立っていたが、娘に気付くや互いに顔を見合わせた。彼女らはその道の手練れなれば、アンゼリカが同業者でないことは一目で見抜いていただろう。だがどこか似た匂いがするのも確か。何者かは分からぬが、ただ事でないのは容易に察せられる。
娼婦たちはそっと娘に近寄っていき、羽毛で撫でるように優しく声をかけた。女同士の仲間意識、そして人間として極めて自然な思いやりからであった。
「ね、どうしたの、あんた」
「私たちにできることはある?」
娘は何も言わない。
ゆえに娼婦たちはそれ以上問わなかった。娘が過ぎ去ってゆくのを見送った。これ以上はおせっかいというもの。誰にだって、親切が煩わしく思える時はあるものだ、と考えて。
さらにその先には、ならず者がいた。
彼は初め、アンゼリカには気づかなかった。通りかかった娘を捕まえ、壁際に追い詰め、為すべきことを為さんとしていたところだったのだ。不運な娘は決して美形ではなかったが、怯えた鼠の如き表情だけでも彼を奮い立たせるには充分だった。
アンゼリカは、足を止めた。
そして男の背に声をかけたのであった。
「おやめなさい」
「ああ?」
男が唸りながら振り返る。と、そこに素晴らしいものがいた。
一目で魅了された。天に輝く月もかくやとばかりの、煌めくような美女。剣を思わせる鋭い目。それに反して、無防備に着崩れた衣。渇きに苛まれ泥水を啜らんとしていたところに、突如として極上の佳酒を供されたようなものであった。彼にはそう見えた。
男は大いに喜んだ。今まで夢中になっていた獲物をあっさりと手放し、アンゼリカへと寄って行った。そっと、アンゼリカが目くばせする。娘は小さくうなずき、飛ぶように逃げ去った。
「あんたは誰だ?」
少女は答えぬ。
男が詰め寄っていく。少女は一歩も退かない。手が伸び、服の上から腕に、腰に、胸に触れた。それでも抵抗の素振りさえ見せぬのを知ると、男はついに衣の内側に分け入った。指を差し入れ、揉みごたえのある乳房を、先端から押し潰すようにして愉しむ――と、蛇を思わせる素早さで手を引っ込める。
温もり。
娘の肌の、寒気のするような温もりが、指から彼を侵食した。そうとしか思えぬ不気味な感触が、彼の指を今なお蝕んでいる。これは一体――
アンゼリカが微笑をくれた。
男はたじろいだ。百戦錬磨の悪党がだ。金が欲しくば盗み、腹が立てば殺し、女に渇けば犯す、そんな暮らしを年端も行かぬころから続けてきたのだ。なのに今、やっと成人したばかりの小娘相手に気圧されている。彼女の微笑みには、これまで一度も感じたことのない異様な迫力があった。氷よりもなお冷たく。炎よりもなお熱く。
男は訳もわからず、しかし心のどこかで確信した。
触れてはならぬ――この温もりに犯される。
「あなたも私が欲しい?」
女が囁いた。
男は後ずさろうとした――だが足が動かない。女が擦り寄る。天使そのものの輝きで。
「なら、あげる」
もう逃げられぬ。彼は、捕らわれた。
突如路上で始まった愛欲の宴は、周囲を巻き込み怒涛のように広まった。男は吸い込まれるように娘の中に分け入り、操り人形のように体を揺らした。汗は滝となって流れ落ち、今ひとつの液体は尽きることなき間欠泉の如く噴いては止まり、また噴いた。一体幾度果てたかわからぬ。果てた途端に娘の手が彼を擽り、すぐさま高みに引き上げられて、再びの絶頂を迎えさせられる。無限に続く悦楽の地獄。
女ならば幾人も抱いた。だがこんなことは初めて。男の体に、こんな……こんな感じ方が出来ようとは!
小娘の如く泣いて、彼は、とうとう仰向けに倒れた。路上での出来事なれば、辺りには少なからぬ見物人が集まっていた。多くは男。白目を剥いて卒倒する彼の姿に、見物人ども恐れを、そして興味をも覚えていたに違いない。
「見ているだけで、いいの?」
娘はその男どもにも手を差し伸べた。
「おいで」
殺到した。
ここは裏通り。男どもはみな悪党。強盗、殺人者、博徒、呪い師、やくざ者。ゆえに彼らの貪りようは暴力的であった。寄ってたかって娘を押さえつけ、代わる代わるに挿し込み、犯した。娘は子犬の如く鳴き、その声がいっそう男を滾らせた。娘は、彼女最大の道具のみならず、指を、口を、乳房を、脚を、全身を余すところなく用いて多くの男を相手した。ときには視線ひとつで射精に至らしめたことさえあった。
やがて一巡したころ、異変が起きた。あれほど雄々しく猛っていた男どもが、妙に柔らかく、愛おしむように娘を撫で始めたのだ。
「もう一度、したい」
誰かが勇気を持って呟いた。頷くものはふたりだけだったが、他の者たちも意思は同じと見えた。男たちは異状を自覚した。なぜ、許しなど請わねばならぬ? 無理矢理ぶち込んでやればいいではないか? 今しがた、他ならぬ自分たちがそうしたように。
だが、娘の妖艶な笑みが、あらゆる疑いを吹き散らす。
「いいのよ。何度でも」
歓声が上がった。
二巡目が始まった。快楽は先ほどに勝るとも劣らぬ。初めの男がそうしたように、悪党どもは次々に果てた。猛り狂う男の塔から白いものを打ち出すたびに、彼らの中の別のものが吸い上げられていく。荒々しさ、利己心、暴力性、侮り、ありとあらゆる悪意の塊――
夜明けを迎える頃には、十名以上にも膨れ上がった男たちが、精根尽き果て路上に喘いでいた。その中心で、泰然と腰を下ろす娘の姿。子犬のように甘える男どもを、そっとさすりながら見守っている。
「あんたを抱きたい。もっともっと」
そう言ったのは、はじめに手を出したあの男だった。娘は頷く。
「望みのままに」
「だが無理だ。もう動けねえ」
娘は男の頭を撫でた。慈母のするが如く。自分の上や下で必死に腰を振る男たちを、いまや可愛く思うに至っていたのだ。
「ありがとう。あなた達のおかげで、自分の為すべきことが解った」
「どうすればいい? どこに行けば逢える? またあんたを抱きたいんだ」
懇願する男に、娘は名前を教えてやった。屋敷の場所をも。そしてこう付け加えたのである。
「いつでもいらして。私を口説いて。あなたはあなたなりのやりかたで」
どうせ汚れたこの身だ。どこまでも汚してしまえばいい。
それで誰かを救えるのなら。
さながら厚い雲の合間から曙光の差すが如くであった。突如としてアンゼリカは理解した。己の持つ力がなんであったか。己の使命がなんであるかを。
まずは相続した伯父の屋敷を改装した。歓楽街に自ら出向き、その道に長じた手練をいくらか雇い入れた。すなわち娼婦や、その管理人、そして金勘定に優れた者などをだ。小娘と侮ってかかる者も少なくはなかったが、金を見せれば大抵は黙った。さらに類まれな床の技をも用いれば、説得に困ることは皆無であった。
準備は滞りなく進み、その月の末には開店の運びとなった。
娼館である。
高貴な遺産通りの高貴な屋敷に、高貴な女が股を広げて待っている。それだけで街中の話題を浚うには充分過ぎた。単なる好奇心でもって門を叩いた男たちは、ひとり残らず恍惚の面持ちとなり、ふらつきながら門を出た。誰もがひれ伏した。天使の手になる卑猥な、あまりにも卑猥な、妙技の数々に。その手にかかればどんな男もたちまち精をほとばしらせるに至り、至りては戻り、戻ったかと思えばまた至り、とめどない快楽の連続に、ほんの一分が一晩にも感じられ、ついには身も心も蕩けて足腰立たぬありさまとなる。
たちまち評判が広がって、店の門前には街中の男どもが列をなすようになった。そのひとりひとりを、アンゼリカは恋人さながらの微笑みで迎え入れた。そして床では、恋人以上のもてなしで彼らを遇したのである。
そうするうちに、妙な噂が広まった。アンゼリカを抱くと――抱かれると、の誤りだったやもしれぬ――いかなる悪人も、精と一緒に毒気を抜かれてしまう。善人とはいかぬまでも、無用の暴力で他人を傷つけることがなくなるのだ、と。
これこそが、彼女の自覚した、彼女の力であった。
かつて偏屈の錬金術師は、彼女を抱いて子供の如く素直になった。裏通りの荒くれたちは、大勢で彼女を犯していながら、ついに慈悲を懇願するに至った。そしてそも、伯父は。ああ、恐るべき悪徳の権化たる伯父は、アンゼリカ以外には誰ひとりとして犯していなかったではないか。あれほどの歪な性欲を抱えていながら、彼女ひとりで満足していた――これは尋常のこととは思われぬ。
あらゆる悪を愛もて上塗りする、高貴なる娼婦。その手にかかれば、ひれ伏さざる男はなし。まるで聖なる教典に記された改悛の奇跡そのものではないか。
ゆえに、いつしか街の人々は、畏敬を込めて彼女をこう呼ぶようになった。
淫らな聖女、アンゼリカと。
そして一年余りが過ぎた。
聖女の店は相も変わらぬ繁盛ぶり。手が足りぬので新たに女を何人も雇い入れた。娼婦はもちろん、掃除、洗濯、炊事、寝床の整備や使い走り、仕事はいくらでもあった。男に――あるいは社会に、時代の流れに――酷い仕打ちを受けた女は、特に手厚く迎えられた。同情、それもないとは言えぬ。しかしそれ以上に、必要に迫られてだ。虐げられた者たちが、互いに身を寄せ合って生き抜くための手段。さながら、吹雪の中の渡り鳥たちが団子になって寒を凌ぐように。
その頃には、聖女アンゼリカを頼る有力者が時折訪れるようになっていた。彼女の不思議な性の力をあてにして。どうしようもない荒くれが現れると、人々はアンゼリカに縋り付く。どうか彼を鎮めてくれ、と。効果はてきめんに表れた。一体どれだけの乱暴者が彼女のおかげで悔い改めたか数知れぬ。
そうしたわけで、自然と、彼女の元には暴力の噂が集まった。その中のひとつに、彼の話も混ざっていたのである。
青年オーデルは生きていると。
それは全くの幸運だった。あの夜、辱めを受ける恋人を前にして、何もできず転がるばかりだった青年は、その恐るべき拷問の済んだ後、ゴミのように棄てられた。屈強の力士によってどこかの裏通りに運ばれ、壁際に放置されたのであった。
すでに虫の息であり、極寒の冬のことでもあり、放っておけば夜明けを待たず死んでいたはずだ。
丁度そこへ錬金術師が現れたのが、幸運でなくてなんであろう。
錬金術師は周囲の家の戸を叩き、幾人かの男に硬貨を掴ませ、瀕死の青年を研究室へ運び込ませた。そこで行われたは、見るに耐えない秘術の数々。痛々しい絶叫は半日あまり続けた。それがすっかり収まった頃、ようやく錬金術師は溜息をつき、椅子に深く身を沈めた。施術台の上には気を失った青年。そして脇には、切り取られた役立たずの四肢が転がっていた。
それから一年、青年は錬金術師の庇護の元で暮らした。弱り、傷つき、恐怖に引き裂かれた精神は、たびたび恐慌の発作を起こした。これを鎮められるのは錬金術師の調合した秘薬のみであった。訓練もせねばならなかった。今や自由になるものは胴と頭と腰しか残っておらぬ。体の捻りと頑丈な顎だけで生活の細々したことをやってのける技術を身に着ける必要があった。
初めは自暴自棄に陥っていた彼だったが、いつの頃からか、物も言わず訓練に打ち込むようになった。その小さな体には、見るものに息を呑ませるだけの気迫が籠もっていた。
一体いかなる感情が彼を動かしたのか。錬金術師には想像できるような気がした。その歪みや、行き着く先も。しかし水を差すのはやめておいた。動機は闇色に染まっているかもしれぬ。だが、力は力。ひとを生かすには足る。
ひと通り体を操れるようになり、這って道を進むも苦でなくなった頃、唐突に青年は姿を消した。口に木炭をくわえて書いたであろう書き置きを残して。文面は簡潔。
「お世話になりました」
これだけのことを、やっとの思いで書いたのだろう。のたうち回る線虫のような字は、しかし強い想いを孕んでもいた。
その後の足取りは誰も知らない。ただ確かであったことは、街から遠い古代遺跡“墜ちたるララフェン”の一角に、最近化物が住み着いたということ。化物は近隣の街や村を度々襲い、人々を恐怖に陥れているということ。そして化物が、苦しげにこう名乗ったということだけだ。
「我はオーデル。そうである、はずなのだ」
話を聞くや、アンゼリカは椅子を蹴って立ち上がった。噂話を持ち込んだ男が戸惑う。いぶかりの視線に気づいて、すぐに平静を繕いはしたが、アンゼリカの心中には黒雲めいた感情が湧き上がっていたのだった。
生きている。彼が。
生きているのだ、どんなものに成り果てようと!
その日以来、アンゼリカは四六時中そわそわと落ち着かぬ様子であった。逢いたい。彼の元へ行きたい。だが、と別の自分が氷の声で言う。行ってどうするというの? あの人は私が殺したようなもの。今更どんな顔して逢おうというの?
ずっと圧し殺してきた罪の意識が、戒めを解かれて一気に吹き上がった。眠れば決まって同じ夢を見た。血まみれのドナ。狂気を顔に貼り付けた伯父。そして――そして、這いつくばり、ただただ慟哭するオーデル。その前で腰を振り嬌声を上げる醜い獣――アンゼリカ。
懊悩は深く、食が細り、やつれ、ついには病を発症し、彼女は屋敷の奥に引きこもった。男を迎えることもできなくなった。聖女目当てでやってきた男たちは不満たらたら、その欲望を他の女たちで発散させた。
その間にも、オーデルの噂は二度三度と舞い込んだ。彼の苦しみが伝わってくるようであった。遥か遠く離れたアンゼリカの寝床まで。アンゼリカは頭から毛布をかぶり、枕に耳を埋め、震えながら日夜を過ごした。一秒ごとに罪がいや増す。一秒ごとに心が蝕まれていく。男どもの相手をすることで、今までずっと目を逸らしてきたものが、今や眼前に突き付けられているのだった。
そんな折、聖女を訪れる男があった。
聖女はいま客を取らぬのだ、と案内の女に制止され、彼は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「説明されるまでもない。街中の噂になっておることも知らぬのか、馬鹿め。
聖女様に伝えるがいい。薬屋が自分なりのやりかたで口説きに来たとな」
ふたりきりになった途端、アンゼリカは錬金術師を抱き締めた。慌てふためき、枯れ木のような老人がたじろぐ。
「離せ、離せ、小娘」
言いながら、嬉しそうな声の上擦りは隠せぬ彼であった。アンゼリカは言われたとおりに手を緩め、しかし片手は彼の胸に添えたまま、目尻を拭って微笑んだ。なぜ涙が零れたのだろう。ひと目で見抜いたのに違いなかった。己を訪れた懐かしい顔が、性欲をも凌駕する暖かな好意に満ちていることを。
「お久しぶり」
「その通りだ、合っている。本来ならもっと早くに来るはずだったが」
小首を傾げる彼女から、錬金術師は目を逸らす。愛らしすぎて耐え難い。
「お前を……その、抱きたくなったのだ。あれから3日目の夜に。焦がれた。恋をした。醜いこの老人がだ。笑うがいい」
「笑いません。嬉しく思います」
きっぱりと聖女は言った。
「あらゆる愛に貴賤はありません。若き愛も、老練なる愛も、たどたどしい愛も、歪んだ愛も。全ては命の源、神聖なる感情。恥じる必要はありません――もっとも、羞じらいは愛を美味しくもしてくれますが」
そこにいささかの嘘も嘲りも感じられぬ。教会で聖句を聞くが如く、心穏やかに彼はその言葉を聞いた。救われた、と確かに感じた。ゆえに、次は聖女自身が救われねばならぬ。
「聞き及んでいよう、かの若者がことは。街中の男を嘆き悲しませるそなたの不調は、それが原因と見た」
ためらいがちに頷くアンゼリカに、錬金術師は語って聞かせた。あの夜以来のことを。
あの夜。薬屋から少女が立ち去って3日目の夜。彼はアンゼリカの屋敷に忍んでいったのだ。大雪の中、どうにもならない性欲に駆られて。
ちょうど門が見えるあたりに差し掛かった時、力士が青年を担いで出ていくところに出くわした。途端、おかしなことに欲望がふっと消え失せた。やらねばならぬことがあると感じた。そこで力士の後をつけた。青年が棄てられたのを見ると、彼を助けるべく駆け寄った。
何故そうしたのかは、よく分からぬ。この青年が自分と同じ穴のムジナ――同じ女に焦がれる者であることは察していた。そのために恐るべき拷問を受けたことも。仲間意識のようなものが湧いたのやもしれぬ。
ともあれ、噂の化物はオーデルに相違ない。化物に変身してしまったのは、何が良くないものに取り憑かれたせいであろう。彼の狼藉はもはや許容できないところにきている。既に狩人が、勇者の後始末人が差し向けられたという話もある。このままでは、いずれ彼の命は……
少々の推測も交えて、錬金術師は知りうる限りを語ったのである。
寝椅子に腰掛け、黙って聞いていたアンゼリカは、話が途切れると、か細い声でこう問いかけた。
「私は……どうするべきなのでしょう?」
「それを知っているのは、お前自身ではないか?」
錬金術師は懐を探り、小瓶をひとつ取り出した。聖女が目を見開く。手のひらに収まるほどの他愛もない薬瓶。あの日手にした、あの愛の猛毒にそっくりな。
「それは……」
「私が調合した秘薬だ。ひとくち飲めば勇気が湧いてくる。己の成すべきことを見出させてくれる」
「まさか」
「私は誰だ?」
「世界一の錬金術師」
「その通り、正解だ」
薬瓶が差し出された。
静謐の中に、悩みの糸が解けていく。聖女の手が伸びる。両手に瓶を包み込み、目を閉じ、最後の躊躇いとともに秘薬を飲み下した。聖女の唇が清らかに湿る。聖水が喉を鳴らして落ちていく――
伏した瞼をもたげれば、睫毛は白銀の剣のよう。
吐息は、春のそよ風のよう。
「見えたか」
「はっきりと」
「ならば私の役目は終わった」
「どうして……こんなに私に親切にしてくれるのです?」
錬金術師は笑った。初めて見せた笑顔であった。
「すっかり毒気を抜かれたからだ。他の男どもと同様に」
つられてアンゼリカも微笑んだ。淫靡には遠い、無垢なる少女の微笑みだった。あの頃捨ててきたものを、ようやく少し、取り戻せたような気がする。
「ありがとう、愛しいおかた」
「嬉しい言葉だが、それは後にとっておけ。もっと相応しい相手がいるだろう」
「そうかもしれません。でも、今は」
聖女は不意に立ち上がり、錬金術師に身を引く暇さえ与えず、奇襲じみた口づけをした。彼女の得意とする、舐めるように丹念なキス。枯れた老人にはいささか刺激が強すぎる。男は藻掻き、足掻き、しかし引き離すこともできず、口の中のあらゆる所を擽り尽くされるに任せた。舌、歯、唇。上顎の裏側を舌先でちろちろとなぞられると、脳天に雷でも落ちたかのような快感が走る。いつしか彼自らも舌を突き出し絡めていた。必死になって。この甘やかさを永久に味わっていたくて。
とうとう足腰が立たなくなり、彼は、アンゼリカのからだに押し潰されるように、絨毯の上にくずおれた。
無垢なる少女はどこへやら。上に覆いかぶさり、男を全身で押さえつけ、聖女が鼻先で淫らに笑う。
「今はあなたが恋人なの」
そして行われた愛の行為は、あまりに激しいものだった。激しすぎて危うく、錬金術師が命を落としかけるほどであった。
余談ではあるが、アンゼリカを奮い立たせた秘薬について次のような話もある。後々、かの薬の製法を問われ、錬金術師はこう答えたという。
「簡単だ。鍋に水を入れろ。沸かせ。それだけだ。
成すべきことは常に己の裡にある。ただの湯冷ましとて、それを引き出す程度の仕事はしてくれるのだ。
……騙したのか、だと? そうだとも。
私はあの子に毒気を抜かれた。しかし、ペテンは毒のうちに入らぬと見える」
件の都市遺跡は、街から3日のところにあった。途中までは馬車で街道を、その後は慣れぬ
丘を越え、沢を渡り、森を抜けて、道なき道をひた歩く。貴人にとって、この旅はどれほど過酷であったろう。なにしろこれまで絨毯か石畳の上を、それもごく僅かにしか歩いたことがないのだ。脚はすぐに棒となり、豆ができては潰れ、薬屋が持たせてくれた膏薬はみるみるうちに減っていった。今やひと足ごとに激痛が走るありさまだ。それでも不思議と苦にならぬ。微笑みさえも浮かんでくる。あの夜、彼もこんな気持ちだったろうか。嵐の中、三夜も続けて逢いに来てくれた可愛いひとは。
意気揚々と進むうち、不意に森が途切れ、それは姿を現した。
広大な、あまりにも広大な。――“墜ちたるララフェン”。
あのひとが、ここにいる。
「おい、あんた」
話に聞いたオーデルの棲家へ向かう途中、彼女らを呼び止める声があった。男がひとり、脇にそびえ立つ傾いた建物を滑り降りてくる。全身に奇妙な道具を無数にぶら下げ、腰には飾り気のない真っ直ぐな剣を佩いている。
連れの男たちは警戒をあらわにしたが、聖女はそれを手で押し留めた。相手は男。恐れる理由がどこにあろう?
「何しに来た?」
「あるおかたに逢いに」
「こんなところにか? 一体誰が」
「オーデル」
と、囁いた名に、男は顔色を変えた。アンゼリカの目に浮かぶ、静かな決意の色を見抜いたようであった。
男は狩人、勇者の後始末人ヴィッシュと名乗った。彼は丁寧に教えてくれた。オーデルは確かにこの先にいる。しかし奴はもう人間ではない。何者かの魔術によって変貌し、今や手のつけられない凶獣に成り果てたのだ。たとえ昔の知り合いでも、近づくのはやめたほうがいい。もはや人の理性を残してはいまい。
「俺もこれ以上近づけないんだ。奴は強すぎる」
「では、ここで何を?」
「足止めしながら仲間を待ってる。連れが来りゃあ……」
「あのひとを殺せるというの?」
眼差しは氷の刃の如く。
狩人は絶句し、たじろいだ。もとより小娘だからと侮ってかかる男ではなかったが、今やひとりの人間以上のものをアンゼリカに見出しかけていたのであった。
聖女は厳かに歩みだした。我に返った狩人が慌てて止める。その時、物陰から様子を伺っていた肉食の魔獣が、アンゼリカ目掛けて飛び掛かった。獣から見れば、彼女は群れから離れた弱い獲物に過ぎぬ。
咄嗟に狩人が剣を抜く。しかし彼が斬りかかるより早く、アンゼリカの手が揺らめきながらもたげられた。
魔獣が止まった。本能的な恐怖を覚えさえして。
聖女は滑るように近づいていき、獅子に似た魔獣の首筋を撫でる。信じられぬことだが、決して人には慣れぬはずの獣が、うっとりと目を細め、恍惚に浸っている。
「この子は、男? それとも女?」
狩人が言葉に詰まっていると、聖女は親切にも問を投げ出した。
「まあ、どちらでもよいこと」
そして愛撫が始まった。一瞬のことであった。聖女の指が剣さながらに獣をなぞると、獣は心地よさげにひと声唸り、次いで体を大きく痙攣させ、すぐさま膨大な量の精を吐き出した。
唖然とする男たちの前で、獣が大人しい犬の如く跪く。聖女の、精に汚れた足元に。
いや。彼女自身では、汚れたなどとは思うておらぬ。
「狩人様。私に時間をくださいませ」
擦り寄る獣の頭を撫でてやりながら、聖女は願うでもなく願い出た。
「彼は私が救います」
そこは聖堂めいた場所。
元は何に使われた建物だろう。広い部屋には朽ちかけた椅子が並び、左右の壁には枠のみが残された窓。いつの間にか日は没し、月の輝きが差し込んでいる。真っ直ぐに伸びた光が、奥の祭壇を照らし出す。そこに黒黒とわだかまる、輪郭を持たぬ生き物をも。
「オーデル様」
名を呼ぶと、わだかまりが動いた。こちらを振り返った――ように見えぬでもなかった。
「君なのか」
「あなたなのですね」
わだかまりは、大きく伸び上がって後ずさった。すぐに壁に背がついた――それが背中であったなら。彼は、懐かしさと愛しさと、それ以上の恐れを込めて声を張り上げる。
「来るな! 来ないでくれ……」
「いいえ、参ります。かつてあなたがしてくれたように」
「やめてくれ。話ができるのは今だけなんだ。すぐに俺は俺でなくなってしまう。
外の狩人を呼んでくれ! どうして早く殺してくれないんだ! このままじゃ」
狂乱のさなかに、彼は腕を振り回し、近くの柱を一本圧し折った。腕。無くしてしまったはずの。近づいてみれば、それは腕ではなかった。オーデルの体の、本来四肢があるべきところに、うねり、ぬめくる、無数の長く細い触手が生えていたのである。全身を覆い尽くすほどの触手が絶えず――恐らくは彼の意思に反して――蠢き、ゆえに彼の体は輪郭さえも定まらぬありさまとなっていたのだ。
「来ないでくれ。君を傷つけてしまう。
俺は人間じゃないんだ」
「私だってそうでした」
と。
触手が、ざわめいた。
ひととき収縮したかと思うや、一挙に伸び上がり、アンゼリカを絡め取った。彼の嘆きが聞こえる。触手はアンゼリカの脚を、指を、腹を、首を、至るところを同時に舐め回し、その花びらのような唇から甘い吐息を零させた。触手の丸い先端が、服の上から胸を突く。いかにも柔らかげに、つぷり、と触手が沈み込む。
「やめろ! やめろ! 俺は……」
「いいえ。これで良いのです」
触手に縛り上げられ、両腕を頭の上にして磔刑の如く吊られ、頬を悦びの桜色に染めて、アンゼリカは涙を滲ませた。それは悲しみの涙ではない。喜びともまた違う。至るべきところについに至った、迷い、悩み、ときに邪魔され、それでも一歩ずつ歩み続けた、その重みが流さしめた涙。
「恥じることはありません。
誰もが求めているのです。愛の往く末。登り極めて往き果てるべき処を。
そして私も、淫らな女」
微笑みは、乙女のそれであった。
「ずっとあなたに抱かれたかった」
そこで――彼の意識は弾けた。
触手が殺到する。衣の中に分け入る。スカートの裾から、袖口から、脇の結び紐の隙間から。そして擽り回る。足の裏、指の根、顎の裏側、へその周りまで。触られるたびにぴくりぴくりと聖女が震え、脇腹を弄られるに至ってついに甲高く悲鳴を上げた。そこが弱いと見るや始まる執拗な愛撫の地獄。悪寒と快感のないまぜになった息苦しいまでの悦楽が、一秒たりとも途切れることなくアンゼリカを襲い続ける。
「ひぁっ……」
声が出た。出さずにいられなかった。歌うように。狂ったように。しとどに濡れた。乙女の聖地が、衣の奥で。
触手が足元から腿を舐めつつ登っていき、ついに、そこに指先を触れる。
何本もの、何十本もの触手が、その先端が、乙女の秘所を突き、突いては離れ、しかし決して強くは責めず、聖女をたまらなく高ぶらせながら生殺しのままにいじめ続けた。
腰がひとりでに動く。動かさずにいられぬ。焦らされ、もてあそばれ、玩具にされて、それがアンゼリカを興奮させる。お願い、早く。ぽろぽろと涙を零し、アンゼリカは懇願した。
「お願い! 挿れて……挿れてぇっ!」
おねだりの褒美が一挙に子宮を突き上げた。
途端、絶叫が聖女の口から迸った。何という快楽。何という衝撃。奥の奥まで貫いた触手は、中の壁を擦り上げながら行きつ戻りつ、膨らみ、うねり、今度は螺旋を描いて回転を始める。最も敏感なところをいいように掻き回されて、意識が飛ぶほどの快感が炸裂する。なのにまだ終わりではない。全身を覆う触手の絨毯が、肌という肌を余すところなく、一斉に愛撫し始める。まるで唾液をたっぷりと含ませた百万の舌に舐め回されているかのよう!
アンゼリカは達した。行って果てた。だが次がある。その次もまた。敏感になった彼女の中を、触手どもは滑り行っては滑り出る。もはや行くのが止まらない。突かれるごとに果て、抜かれるごとにまた果て、永久にそれが繰り返される。ここは天国? それとも地獄? どちらでもない。
現実の世界を塗り潰す、終わりのない肉欲の宴。
ついに、オーデルが愛らしく呻いた。触手の先端から、花の咲くように白い精がぶちまけられた。甘やかな香りを全身で受け止め、アンゼリカは微笑した。依然、触手の拷問を受けながらであったが。
と、そのときであった。
オーデルの体を覆う触手の一本が、突如黒く爛れ、焼け落ちるように崩れ落ちた。
アンゼリカは目聡くそれに気付いた。今、彼の悪意がひとつ砕けた。彼を絶頂に至らしめるごとに、この触手はひとつづつ消えていくのだ。ならば、為すべきことはたったひとつ。全ての悪意が消え失せるまで何度でも交わるのみ。たとえ目の前に、何千、何万の触手が蠢いていようとも。
アンゼリカは囁いた。
「いっぱい出せたね」
淫らな聖女。あるいは、聖なる娼婦の声で。
「もっと、いっぱい、しよう?」
その後については、ほぼ、都の噂に登っているとおりである。
狂気の交わりは6晩7日に及び、その後ついに嬌声は途絶えた。狩人ヴィッシュが様子を見に行ってみれば、もはや触手の化物の姿はどこにもなく、ただ、おびただしい精液の海で寄り添い、安らかに寝息を立てるふたりがあるばかりであった。聖衣を引き裂かれたアンゼリカと、四肢と引き換えに大切なものを取り戻したオーデルとが。
オーデルは正気を取り戻し、その後はアンゼリカの屋敷で、彼なりの有益な仕事を始めた。
そしてアンゼリカは、今夜も男の暴威を鎮めている。
淫らな聖女、そのうるわしき愛の聖技でもって。
THE
END.
付記.
セカイの闇の底に“そのもの”は在った。
さながら初めからそこに在り、終わりまで在り続けるのだと言わんばかりに。それは事実であったやもしれぬし、大いなる幻想であったやもしれぬ。ひとつ確かであったのは、深淵に鎮座する“そのもの”が、口元に笑みを浮かべたということ。ただそれだけで、玉座の間に畏怖の細波が迸ったこと。
ついぞなかった。“そのもの”が愉しみを顔に出すことなど。
ゆえに下々の魔物どもは畏れた。ただならぬ災厄の予感を覚えて。
「如何なさいました」
勇気あるものが問うた。“そのもの”が声を上げる。鈴の鳴るように涼やかな、年端も行かぬ少年の声を。
「最前力を渡した彼が、僕の与えたものを拒んだようだ。」
“そのもの”が静かに腕をもたげた。指は夜空色の衣に隠れて見えぬが、その裾から塵の如きものが風に流れ出るのが見て取れる。
「どうやらふられてしまったらしい。
思ったように動けない。
思ったように思えない。
それがひとの選んだ在りよう。
――面白いね。」
“そのもの”が立つ。立つでもなく。“そのもの”が歩む。進むでもなく。その姿はまるで《悪意》そのもの。この世の万物、その根底に未来永劫流れ続ける闇色の血漿。とりとめもなく。とめどもなく。あらゆるものを苦しめながら、突き動かしもする心の力。
「次の実験体を探してほしい。」
魔物どもはひれ伏した。他にどうすることもできず。震えていた。地獄より来たりし亡者。魔界の奥に住まう呪術師。そして大いなる鉄の鱗の竜ですら。魔獣の身など塵にも等しい。
大いなる“そのもの”を前としては。
「御心のままに――魔王様」
Continued on "The Sword of Wish".