"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313
#A16"Alone in the Dark"/The Sword of Wish
暗闇の中に、ひとつ。
詩人は月明かりだけを頼りに、荒野を這った。這うよりほかなかったのだ、脚切られた不具の身をもってしては。
自業自得ではあった。素晴らしい美貌と美声、巧みな弁舌。歌の研鑽もそっちのけで取り組んだ下半身の技が、いったい幾たりの娘を快楽の泉に引き込み、幾たりの妻の獣性を解き放ったであろう。だが、彼女らに与えた悦びとは裏腹に、彼の手練手管は、彼自身にはろくなものを与えなかった。恐るべき罵倒、たっぷりの暴力、失われた片脚に、寄る辺もない放浪……
今となっては、月も濃密な煙に遮られ、頼りなく空にかかるのみ。
いい気味だ、と詩人はほくそ笑んだ。あの煙は街から上るものだ。魔王が隣国に侵攻したらしいとは、少し前に聞いた。その魔手がついにこちらへも回ってきたのだ。街を包む火が、遠くおぼろげに見える。今ごろあの煙の下では、《死》が刈り入れに奔走し、《陵辱》が下卑た笑みを浮かべながら闊歩していよう。
追放され、苦難の中に彷徨えばこそ、詩人は難を逃れた。
皮肉な運命に、彼は笑わずにはいられなかった。
と。
彼は、自分の笑いに奇妙な唸り声が呼応するのを聞いた。
聞き違いではない。いささか不真面目とはいえ、それなりに鍛えた詩人の耳であった。子供のようだ。苦しんでいる。かすかな声色のみでそこまで察した詩人は、興を惹かれて、這いずっていった。なぜ、こんなところに子供が? という好奇心。呻く病人を見物してやるのもよい。という悪趣味。
苦労して、近くの岩の裏側まで回りこむと、果たしてそこに子供はいた。
見たところ、ほんの2、3歳の幼児である。短い手足に大きな頭はまさしく幼子のそれであった。だが、かわいくはない。腕も脚も痩せて細く、頬に赤みもなく、無邪気なさえずりの代わりに、辺りの全てを怨む呪詛の声を挙げている。
なにより、短く尖った角が左右一対、頭から突き出していたのだ。
鬼。
「おまえ……」
ついつい、声が出た。鬼の子は、それで他人の存在に気づいたようだった。いっそうけたたましく、怯えた犬にも似た悲鳴を矢継ぎ早に吐き出した。幼いなりに、精一杯の敵愾心を込めた声であった。だが、かつて詩人を襲ったあの罵倒に比べれば、愛おしくさえある。詩人はもう少し這い寄った。幼子の声が増した。
そのとき、月を隠していた煙が薄れ、子供の顔が照らし出された。ぞっと背筋に悪寒が走る。この子がこれほど怯え、警戒しているわけがわかった。
鬼の子の目は、ふたつとも、なにか鋭い刃物で抉られていたのだ。
恐らくは、魔王軍にゆかりの子であろう。魔王は鬼の軍勢を遣うというから。そして何かの事情で戦に巻き込まれ、こんな体にされてしまったのだ。とすれば、この子から光を奪ったのは人間か。詩人と種を同じくする、つまらなく弱いくずどもか。
憐れな。と思うと同時に、自分の抱いた心情に驚いた。今までさんざん世間を舐めてかかり、他人など、敵か、金づるか、気持ちの良い穴か、くらいにしか考えていなかった彼だ。それが今、見知らぬ、ひとですらない餓鬼一匹を、抱きしめたいと感じている。
それは同じ不具の身であることからくる同情か。それとも――
どちらでもよいような気がした。
もはや彼は迷いもしなかった。手を伸ばし、幼子を抱き寄せた。幼子が震えた。その丸い牙が、詩人の腕に噛み付いた。必死になって。血が滲むほどに。男は驚きもしなかった。少々ちくりとするだけだ。そのまま胸のうちにくるんでやり、角のそばを撫でた。腕の痛みが僅かに緩むのがわかった。
詩人は歌った。たったひとつの、得意技であったから。
歌声は甘く。
いつもながら愛に充ち。
いつもならざる愛に充ち――
幼子はついに口をはなし、男の傷から漏れる血を、舌先に、舐めた。
いつの間にか、月がふたたび戦火の向こうに隠れていたが、今となってはどうでもよい。
そんなものは、もう要らないだろうから。
勇者の後始末人
“暗闇の中に、ひとつ”
鬼が奔る。谷を、翼あるように。
三つの岩を飛び、五つの木を叩き、七つの茂みを蹴散らして、青空に踊り出る。心まで引き締まる春先の寒気。まっすぐに肌を炙る澄んだ太陽。眼下には緩やかにうねる一面の緑。吸い込んだ息が、胸の奥で歌いだす。
「うッ、うッ」
体いっぱいに風を浴び、鬼はあらんかぎりの声を出した。
「う―――――っ!」
山という山がこだまを返す。肌がぴりぴり震えて痺れる。上機嫌にニパリと笑い、体をひねって宙返り。鬼は崖下の草地に勢いよく着地した。
そこには一軒の丸太小屋が建っている。素人仕事のドアが軋んで開き、中から男が現れる。無くした片足を杖で補い、いくらかは筋肉もつき、目つきもすっかり穏やかになってはいたが、紛れもなく、あの詩人であった。
「ナギ。首尾はどうだ?」
詩人が問うと、鬼は右手をぐいと掲げた。引きずってきた鹿は、鬼の体躯を超えるほどである。若き狩人の誇らしげなことといったら。思わず詩人は頬を緩め、彼女の凱旋を祝福するのであった。
あれから――鬼の子を出会ってから、はや10年の時が流れた。
詩人は鬼の子をナギと名づけた。故郷に伝わる、荒ぶる女神の名だ。あの時、まず汚れた体を洗ってやろうと思いついたのが幸いだった。でなければ、女の子だと気づかないまま、いささか不適切な名をつけていたかもしれない。
この10年というもの、詩人とナギはたったふたり、彷徨いながら暮らしてきた。幼子を抱えた不具の身である。どれほどの苦労があったか知れない。詩人は子を背負って近隣の村々を巡り、歌物語を活計(たつき)とした。中には親切なものもいたが、おおむね客は傲慢でけちだった。わずか碗一杯の雑穀のために、よもすがら歌わされたこともあった。
だが不思議と不平不満は湧かなかった。あれほど好きだった女にも、手を出す気さえ起きなかった。背中でもじもじと動くナギの感触が、彼を、ただ生きのびることのみに集中させた。
やがて少しずつナギは大きくなり、角が伸びて、人里を連れ歩くのが難しくなった。
同じ頃から、ナギはひとりで山中を駆け回り、食い物を採って来るようになった。はじめは木の実や茸がせいぜいであったが、やがて魚を、兎を、飛ぶ鳥すらも捕らえはじめた。
彼女の目はぐちゃぐちゃに潰れたまま、二度と治ることはあるまい。目元は帯布を巻いて隠しているのだ。にもかかわらず、耳と鼻だけで獲物を察知し、見事に狩ってのける。
暮らしは、一気に楽になった。
以来、ふたりはこの山に丸木小屋を建て、定住するようになったのである。
鹿の解体を終えたころには、もう日暮れが迫っていた。今日の夕餉はごちそうだ。水に晒してあく抜きした肝を、切って、ただ焼く。これ以上の贅沢はない。じゅっと湧き出す脂の香り。かまどに身を乗り出した詩人の背に、ナギもまた、甘えてもたれかかってきた。ウッ、ウッ、と浮かれた声が耳元で跳ねた。彼女の手が詩人の肩を叩いて急かした。口元のよだれを隠しもしない。
「もうすぐだよ」
「うー」
「まだまだ」
「う……」
「よし焼けた」
「うっうー!」
皿にあげた焼きレバーに、ナギは手づかみで飛びかかった。さすがに熱いと見えて、なんどかお手玉しながら、それでもがぶり、と豪快にかじりつく。
「きゅーっ」
甲高い喜びの唸り。ふたくち。みくち。止まらない。気づけば指は、脂でしとどに濡れている。その一滴さえ愛おしく、舌で丹念に嘗め回す。
ふと気づいて、ナギは肝のひとかけを差し出した。かまどの番で両手が塞がっていた詩人は、彼女の手から直に食う。口に入れた肝は実に甘く、旨く、少し、ナギの味がした。
満ち足りた食事が終わると、ナギは寝床にもぐりこんだ。藁と板とむしろで組んだだけの粗末なものだ。狩りに疲れ、腹も膨れて、彼女はたちどころに眠りに落ちた。その寝息を背中に聞きながら、詩人はもう一仕事にとりかかる。太い木の枝から、ナギのために棍棒を削り出すのだ。俊敏なナギも、刃物の扱いは苦手である。武器といえば、棒か石しか使おうとしない。
それゆえ、こうした細かい手作業は、詩人の役目だ。ナギは野山で食い扶持を狩る。詩人は彼女にできぬことをする。たとえば、裁縫、洗濯、料理。時に人里に降り、金を稼いで文明の産物を得ることもあった。もちつもたれつ、ふたりはここまでやってきた。
今まで触れたことさえない安寧が、そこにはあった。
背後でナギが寝言を言った。
振り返れば、ナギは派手な寝返りでむしろをすっかり剥いでしまって、どころか、服もはだけてしまって、柔らかく上下する胸を無防備に晒している。詩人は思わず声を挙げた。この子も、もう12、3。すっかり女のからだになった……
照れながら詩人は彼女の襟元を調えた。肩までむしろを掛けてやった。ナギの頬が不意に緩み、嬉しそうに唸った。楽しい夢でも見ているのか。夢の中でも、野山を駆けて獲物を追いまわしているのか。
詩人は、仕事の続きに戻った。
小さな仕事。小さな驚き。小さな喜び。小さな温もり。
朝が来れば、鳥の声に目覚め。
腹が減れば飯を炊き。
夜が来れば、寝床に互いを暖めあう。
ただそれだけの暮らしが、どれほど詩人を癒したであろうか。
そしておそらく、それは、ナギにとっても。
あるとき、ナギが人間を採ってきた。
出迎えた詩人はあんぐりと口を開け、しばらく声もでなかった。なにしろナギは、いつも鹿や兎をそうするように、誇らしげに人間の男を掲げて見せたのだから。
「うー!」
「ばか! これは食い物じゃない」
ふだんと違う父の反応に、ナギはこくんと首をかしげた。杖を頼りに詩人が寄っていく。ひざまずいて男の容態を見た。中年で小太り、旅装束ではあるが旅慣れてはいなさそうだ。怪我は頭にひとつ。派手な出血があるが、傷は深くない。ナギの棍棒に目をやる。血はついていない。
おそらくどこかの崖に転落でもして、気を失っていたのだろう。ナギはそれを拾ってきただけだ。我が娘が襲いかかったのでないと判ると、ほっと安堵の溜息をつき、
「家の中に運ぶんだ。手当てをしてやろう」
「う」
「中だ」
家のほうを指差す仕草で、辛うじて言わんとするところは理解したらしい。不承不承、ナギは男を引きずっていった。
困ったのはそのあとだ。詩人はしょせん詩人に過ぎない。医者ではない。傷の手当など、野山の薬草を摘み、それをすり潰して傷口に貼ってやる程度のことしかできない。乏しい知識で行う頼りない素人仕事だ。あとはただ、祈り続けるしかなかった。
ナギはその間、しきりに怪我人を気にして、匂いを嗅いだり、つついたり、時には舐めてみたりした。詩人が声をかけると、ぱっと飛ぶように離れて、部屋の反対側の隅に膝を丸める。しかししばらくすると、また、そろそろと患者に這い寄っていくのだ。
彼女が詩人以外の人間をまともに見るのは、これが初めてと言ってもいい。幼い頃、詩人の背中に負ぶわれたまま人里を訪れて以来だ。ものめずらしいのだろうか。他に何か、興味を惹くことでもあるのだろうか。お世辞にも見目良い男とは言えないが。詩人の胸に、雲のように湧き上がるものがあった。雲はやがて小さなしこりとなって、彼の裡に凝り固まった。
翌朝、怪我人は目を覚ました。ナギは、早くから狩りに行かせておいた。彼女の角を見られては厄介なことになる。
「ここは? あなたは?」
商人ふうの訛りで男は言った。詩人は食事の皿を運んでやり、
「わたしの家です。わたしのことは、名もなき世捨て人で結構」
「これは一体どういうわけで……」
「娘があなたを拾ってきました。それ以上のことはわかりませぬ」
「そうだ、崖から脚を滑らして……助けてくださったのですね。娘御に、ぜひお礼を」
「どうかお構いくださらぬよう。あれは……その、言葉がわからぬので」
ああ、と商人は溜息をついた。腑に落ちた、お気の毒に、と言わんばかりに。彼がちらりと詩人のなくした脚を見たことにも気づいていた。気に食わないやつだ。表向きの言葉遣いが慇懃なぶん、かえって態度の不躾さが増すように思えた。
出された食事を、さして旨くもなさそうに食いながら、商人は、ところで、と切り出した。
「わたくしは、第2ベンズバレンで商いを営むものです。道楽で伝承や神話の類を研究しておりまして」
「ほう」
「ここには、奇妙な魔物がいるという噂を聞きつけて参ったのです」
思わず詩人の眉が動いた。詩人は空になった皿を片付けるふりをして、商人に背を向けた。
「山の狩人に、見たというものがおるのですよ。翼あるように駆け回る鬼の姿を。魔王軍の生き残りか……ひょっとしたら、太古の種族が未発見のまま生き残っていたのやもしれません。おおかた見間違いでしょうが、ま、ロマンですなァ」
ひとりで勝手に喋り、勝手に笑う。詩人は何も言わない。
「何かご存知ありませんか?」
「知りませんね」
ぴしゃりと詩人は答えた。
「ここで暮らして7年になりますが、太古の種族など見たこともない。ただの噂でしょう」
「そうですか」
「それに、鬼なんてものがもしいるのなら、あなたの身が危ない」
「というと?」
「見つかったら喰われてしまいますよ」
商人は大笑いした。もっともだ、まさにそのとおりだ、と、膝を叩いて笑い転げた。もうすっかり傷の具合は良いようだ。詩人はくすりともせず、じっと商人を睨み続けていた。
「あなたのおっしゃるとおりですな。気分もよいし、脚には傷もないようだし」
商人は寝床から降りて、グッ、グッ、と床を踏みしめる。
「これ以上怪我しないうちに、わたくしは山を降りるとします。まことにお世話になりました」
と、彼は懐から金貨を取り出し、詩人に押し付けた。商人は去っていった。しばらく詩人は、手の中の金貨を見つめていた。やがて、じわじわと、さっきのしこりが膨らんでいくのを感じた。しこりはざわめきとなって詩人を突き動かした。
不安。何の不安か。寂しさ。それもある。
いてもたってもいられず、詩人は杖を手に取った。
ナギ。どこだ。
速く。
そう焦るほどに、ままならない自分の体が呪わしい。得体の知れない不快。漠とした渇え。逢いたい。ナギに。その一心で足を動かす。杖に擦れて腋が痛む。息が切れる。脂汗が噴き出す。遅々として歩みは進まない。心はとうに彼女の元へ飛んでいるのに、体がそれに追いつかない。
ナギはきっと、いつもの渓流にいるはずだ。いつものように水に戯れ、いつものようにはしゃぎまわっているはずだ。靄のようだった不安が、突如形をとって詩人の脳裏を過ぎった。商人を名乗ったあの男がナギを打ち据え捕らえる、ただその姿を思い浮かべただけで喉が詰まる。肺が捩れる。心臓が何者かに握りつぶされ、行き場をなくした血潮が体を煮立てる。
やっとの思いで、詩人は河原に辿り着いた。
大岩に手をつき、そっと、向こうを覗き見る。
目の覚めるような緑。その下で、淵は墨色に横たわる。川面には波紋がふたつきり。音はない。動きもない。その光景は、時の流れから切り抜かれた絵画となって、詩人の眼前に現れた。
ナギが、そこにいた。
全身を彩る、しなやかで引き締まった筋肉。筆を滑らせたかの如き曲線。健康的に焼けた肌は吸い込まれそうなほど深い。小ぶりな乳房が、吐息に合わせていきいきと弾む。濡れた薄布に浮かび上がる、女のからだ――
詩人は息をするのも忘れ、見惚れた。
いったいどれほどの間、そうしていただろうか。
突然、足が滑った。詩人は転んだ。懐から金貨が転げ落ち、河原の岩に当たって甲高く泣いた。それでようやく、彼は、自分がナギに歩み寄ろうとしていたことに気づいた。知らぬ間に引き寄せられていたのだ。なぜかは分からないが。
その音を聞きつけて、ナギが跳ねるようにこちらを向いた。警戒心がありありと伝わってきた。立ち上がろうにも、体が酷く痛む。詩人は伏したまま娘を呼んだ。
「ナギ!」
その声で、通り雨の過ぎ去るようにナギの警戒は解けた。元気よく水を掻き分け、駆け寄ってくる。その無邪気さには一片の曇りもない。その姿が詩人を安心させた。誰かに危害を加えられた様子はない。杞憂であった。あの商人は、言葉通り大人しく山を降りたのであろう。
詩人のそばまで寄ってくると、ナギは小首をかしげ、しゃがみこみ、手探りで詩人の姿を探した。彼が倒れているのに気づくと、労りを込めて腕や脚を撫でさすってくれた。詩人は身を起こそうとした。すかさずナギが手を貸してくれた。半ば抱きしめるようにして、彼の体を支えてくれた。
ようやく、座位にまで起き上がると、詩人は疲れをそっと吐き出し、岩に背中を預けた。
川は、脚を伸ばせばかかとが浸かるほどの所にあった。そうしてみると、実に心地よかった。むやみに熱く滾ったものが、すっと冷めていく。そして隣にはナギがいる。彼女は甘えて、ずっと詩人に抱きついたままだ。頬が二の腕に擦り付けられた。角がちょうどいい具合に腋の下に潜り込んできた。
反対の腕で角の付け根を撫でてやると、それに応えるように、彼女の指も詩人の首をなぞった。
時はゆったりと流れだす。風が吹き、緑をざわめかす。水面に魚が跳ねた。温もり、涼しさ、どちらも肌で感じられる。えもいわれぬ幸福感があった。ずっとこうしていたかった。
「ナギ」
「う?」
「お前は俺の娘だよ」
「うー」
詩人は苦笑した。言葉で言っても通じまい。
だから彼は歌った。
それは愛の歌だった。かつて脚が2本あったころも、絶えず歌い続けてきた歌だった。だが、いま思えば、それはどれほど空虚な歌声であっただろう。愛を歌い上げながら、愛を信じてはいなかった。理解してもいなかった。
今は解るか? 感じてはいる。
今は信じられるか? そう、少なくとも。
ナギの頭がもぞりと動く。頬の代わりに、唇が二の腕に触れた。舌先が詩人の肌をくすぐった。ぞくりと、快楽が背骨を這い上がった。驚いた詩人の視界に、転がった金貨が入る。金貨の浮き彫りが、黄金色の瞳で詩人を見ている。
と、閃光のような痛みが腕を刺した。
思わず詩人は悲鳴を挙げた。何事かと見れば、ナギが腕に噛み付いていた。鋭い牙が2本、薄い皮膚を突き破っていた。ナギが我に返る。弾かれたように飛び退く。詩人の傷口には、赤黒い血が玉を作る。
「ナギ?」
その呼び声にびくついて、ナギは恐る恐る再び寄ってきた。申し訳なさそうに、舌を出して傷口を舐めはじめた。
娘の舌にくすぐられる快感も忘れ、詩人はナギを見つめた。一体どうしたというのか。別に大した傷ではない、彼女も悪意あって噛んだわけではなかろうが。遊びのつもりが力が入りすぎた、のだろうか。子犬がじゃれあうとき、やってしまうように。
そうなのだろうか。
ふと見ると、渓流の淵は濁り、月のない闇夜にも似て、黒々と揺蕩っている。
気がつけば、我が足先もまた、深淵に浸かり溶け込んでいくかのようであった。
さて、そのふたりの様子を、遠眼鏡で覗き見る男があった。あの商人である。
商人、それは本当だ。魔物の噂目当てに来たのも間違ってはいない。
ただ、ロマンを追い求めているという話、そこだけが嘘だ。
彼が求めるものはただひとつ。金である。
この小太りの中年男は、特別な人材派遣業である。奴隷商人と呼ぶ者もいる。本来の仕事は、貧しい僻地の農村などから女を安値で浚ってくることだ。土臭い娘ほど、ひねくれた金持ちには好まれる。風呂に入れて、化粧をしてやり、下品にならないぎりぎりの所まで肌を晒せば、仕入れの100倍近い値が付くこともある。
それにつけても欲望というのは不思議なものである。どれほど渇望したものであろうと――いや、強く望むほどに、かえって――手に入れた後には虚しさばかりが残る。満ち足りなくなる。別のものが欲しくなる。別の、もっと、もっと素晴らしいものが。
こうして膨らみ続ける欲求を常に満たしてこそ、りっぱな奴隷商というものである。とはいえ、最近は少々行き詰まりを感じていたのだ。人間の娘に対して、少年に対して、時には動物に対して、あらゆる悦楽の技を試みたお客さまがたは、もはやまともな方法では満足できなくなりつつあった。何かが必要だ。これまでとは一線を画す、極めて斬新な何かが。
そんなおり、仕入れに訪れた農村で噂を聞いた。野山を駆けずり回る、鬼の娘の噂を。
聞いた瞬間ピンと来た。となれば、さすがに商売で財を成した男である。持ち前の行動力を発揮して、奴隷商はすぐさま山に分け入った。
その鬼とやらが商品になるかどうか。見極めは、誰にも任せられない。長年鍛えた自分の眼でなければ。
日ごろの運動不足が祟って転落事故を起こしたのも、むしろ幸いだった。おかげで世捨て人を名乗る貧乏人に出会えた。ひょっとして、と思ってかまをかけてみた。見事にアタリだ。世捨て人のあの行動。魔物の話を聞いて、思わず眉を動かし、表情を読まれないように背を向けた。奴隷商は見逃さなかった。
いるはずだ。この近くに。世捨て人とともに生活し、よく人間に慣れた、鬼の娘が。
そこで一計を案じた。わざと世捨て人を不安がらせるようなことを言っておき、山を降りるふりをして、小屋のそばに隠れる。あとは、養女を心配して飛び出す養父の後を追うのみ。相手の体はあのありさまだ。不慣れな山道といえども、尾行するのは難しくない。
奴隷商の機転は見事に図に当たり、彼はついに目当てのものを見つけ出したのだ。
遠眼鏡を下ろし、彼は深くため息をついた。
すばらしい。
これほどの原石が、このようなところに転がっていようとは。
あの娘は美しい。しかし捩れた角と潰れた眼が玉に瑕、と素人ならば言うところ。奴隷商に言わせれば、それすら異形の美を際立たせるものでしかない。あれならば、いくら積んでも惜しくないというお大尽が、ごまんと現れるだろう。
そうと分かれば、もうここに長居することはない。すぐさま荷物をまとめ、彼は山を降りた。あの鬼子は是非にも欲しい。だが焦りは禁物。人手を集め、入念に準備を整え、万全の態勢で挑まねばならない。
奴隷商は大胆な行動力の持ち主でもあったが、他方、慎重で周到な男でもあったのである。
河原で詩人に噛み付いたあの時以来、ナギは明らかに豹変した。
ひとくちに言えば、詩人を避けているようであった。朝早く、詩人が目覚めるより前に狩りに出る。戻ってくるのはとっぷりと日が暮れてから。作ってやった飯に口をつけないことすらあった。そして夜には詩人とは別の場所でひとり丸くなって寝るようになった。
古今、娘は年頃になると父親を疎むものである。ナギにもその時が来たということなのだろうか。
一方で、奇妙な気配を感じることもあった。ナギがじっと彼の背中を見つめている気配。彼女には眼がない、見えるはずがない。なのになぜか感じるのだ。確かに見られている、と。
折悪しく、多雨の季節に差し掛かりつつあった。二三日にも渡って、しつこく雨が降り続けた。狩りにも出られず、ナギはずっと家で煩悶としていた。声をかければ寄ってくることも、逃げていくこともあった。時折、意味もなく獣のように唸ったりもした。
ある日、痺れを切らしたナギは、ついに雨の中に飛び出した。
「おい!」
詩人が呼ぶと、土砂降りを浴びながら振り返る。しかしそれも一時のこと。彼女は黒々と雲の重なる空の下、逃げるように木々の間へ消えていった。家の中を見れば、愛用の棍棒を置いたままだ。得物も持たずにどうしようというのか。
だが、詩人には、追うことも探すこともできない。この雨の中、彼の体で、逃げようとするナギに追いすがることなど到底不可能だ。
一体何が、こうも彼女を苛立たせているのだろう――
そのとき、誰かが小屋の戸を叩いた。
ナギが戻ってきたのか? いや、違う。彼女はノックなどしない。誰何すると、ドアの向こうの男が応えた。知らない声だ。
「旅のものなんですが。雨宿りさせちゃもらえませんか」
薄く戸を押し開ける。
ずぶぬれの赤犬を連れた、背の高い男が、固く、善良そうな笑みを浮かべてそこに立っていた。
「助かりました。雨具の用意はしてきたんですがね、こうも激しくちゃ」
雨合羽を脱ぎながら男が言う。なるほど彼の言うとおり、あの頑丈そうな耐水革さえ貫いて、水はじっとりと染みこんでいるようだった。足元の犬が全身を振り回して水を飛ばす。
「冷てッ! おい緋女」
「ぐるるうーう」
「いま拭いてやるよ、まったく……」
荷物から引っ張り出した布で擦ってやると、犬は上機嫌に尾を左右させた。詩人が差し出した湯に、男は丁重に礼を述べる。悪人ではなさそうに思える。が、警戒心を拭うことはできなかった。あの商人が言っていた、ナギが噂にのぼっていると。ひょっとしたら、この男も彼女を狙って来たのかも知れない。
犬を拭き終わると、男は荷物を探り、煙草を取り出した。舶来の葉巻煙草だ。さっきの雨合羽といい、身なりといい、この煙草といい、金の掛かったりっぱなものだ。男が煙草を勧めてくる。世捨て人には過ぎた贈り物だ。一度は断ったものの、雨宿りの礼だと言って愛想よく差し出されては、我慢できるはずもなかった。
かまどで火をつければ、懐かしい香りが口の中に広がる。昔はこうした良い煙草も、好んで呑んだものだ。
煙が垣根を覆い隠したのであろうか。ふたりは他愛もない話に興じた。この男の話は実に興味深かった。魔王との戦いから10年、ろくに接点のなかった世俗の変化。王都やハンザのことは詩人も知っているが、新たに建造されたという第2ベンズバレンの威容は聞くだけでも胸が躍る。その賑わい。機能的に絡まりあった巨大な街道と運河。息つく暇もなく来たりては去る異国の船。無数に立ち並ぶ屋台に、老若男女の笑い声。
まるで眼に浮かぶよう。詩人はつかの間、街の喧騒に遊び、潮の香りに酔いしれた。
「あなたは街で何をしておられるのです?」
問われて、男は頭を掻いた。
「ま……何でも屋、みたいなもんです」
「こんな山中に、いったい何のご用で」
つう、と男は紫煙を吐いた。
その目が急に鋭く尖り、詩人を射抜く。
「あんたに会いに来たんですよ」
詩人はとっさに腰を浮かせた。男は構わず続ける。
「結論から言いましょう。あんたは、あの子と別れたほうがいい」
「お前は何者だ!」
「俺の名はヴィッシュ」
男の声は、飽くまでも静か。
「勇者の後始末人だ」
何かが自分の中にいた。
そうとしか思えなかった。言葉を知らぬナギには、それを訴える術はなかったが。
内側で暴れる何者かに突き動かされ、ナギは山を駆けた。あれほど良く知っていたはずの山が、今は全く違って視える。眼ではない、肌が違うと感じている。降りしきる雨。暗闇の肌触り。光なき世界。
野兎が身を潜めるのを聴いた。と思ったときには、既に獲物は手中にあった。力任せに引きちぎった。はらわたが溢れ出た。牙もて噛み千切り、雨水交じりの血を啜る。歓喜の雫が喉を潤す。
「あ!」
ひとときの充実が、声となって漏れた。
だが、欲望は不思議なもの。
もっともっと、欲しくなる。
もっともっと、素晴らしいもの。
と、そのとき、森の木々がざあっと揺れて、何かがナギの上に覆いかぶさった。それは大きな投網であったが、眼も効かず知識もないナギには知る由もない。ただ混乱を来たし、突如戒められた自分の体に苛立ち、暴れ狂うのみだ。
その耳でナギは足音を聞いた。ひとつ。ふたつ。たくさん。森の獣とは全く違う、鈍重で二本足な足音。
「おうおう、いきがいいねえー」
心底うれしそうに、男は言った。
ナギには見えまいが、そいつは小太りの中年の――あの奴隷商であった。両脇には屈強な男たちが数名。そのうえ魔法使いじみた格好の者もいた。
「野性味が残るくらいがいいからねえ。料理したあとでも」
けだものの声でそう言って、奴隷商は、笑う。
それを聴きながら、ナギは何を思うだろう。
怒り。ではない。
恐れ。違う。
彼女をたったひとつのものが埋め尽くす。
嬉しい。
鬼が牙を剥いた。
「“腑分け鬼”って知ってるか」
詩人が怒りを顔面に貼り付けたまま何も言わないのを見て、ヴィッシュは一方的に続けた。
「魔王軍が創り出した魔物のひとつさ。鬼をベースとして、人肉を好んで食うように操作が施されている。もちろん、味方の魔族はお好みじゃないって寸法だ」
「あの子がそうだというのか」
「幼いうちはまだいいが、成体になれば本能的に――」
「ナギはそんなことはしない!」
「もう、ひとり食われてるんだ」
雷鳴が走った。
体が石にでもなったかのようだった。
この男が何を言っているのか、詩人にはとても理解できなかった――いや、理解したくなかったのだ。
「5日前、この近くで狩人が襲われた。その相棒が逃げ帰って言うには、襲ってきたのは女の鬼なんだと。年のころは12、3。目元に眼帯を巻いていたそうだ。
心当たりはないか? 人肉に執着を示していたり。長いこと家に戻らなかったり。よそでたらふく食べてきたようなそぶりだったり……」
全てに思い当たるふしがあった。
詩人は、浮かした腰を筵の上に落とした。体中の筋肉という筋肉が萎え、まるで他人の体でもあるかのように、重荷となって彼に圧し掛かった。
「うちの若いもんに言わせりゃあ、鬼とヒトが似てるのは、収斂進化ってものに過ぎないらしい。たまたま似た形になっただけ……種としてはなんの関わりもないし、混血を作ることもできない。
あの子は俺たちとは別物だ。
あんただって例外じゃない。このままじゃ……あんた、あの子に食われるぞ」
「そんな……わけがない……」
詩人の声は、雨音に掻き消されそうなほどに、細く。
「ずっといっしょだったんだ……
わたしとナギは、通じ合っているんだ……」
ヴィッシュはたっぷり時間をかけて、長く長く煙を吐くと、短くなった煙草をかまどの火に投げ込んだ。
「たとえ心が通じ合っても、肉の体は――」
と。
「わん!」
そばで丸まっていた赤犬が、ぴんと耳を立て跳ね起きた。一声、勇ましく吠え立て、体当たりで戸を開け飛び出していく。何か聞きつけたのだ、と察したヴィッシュは急ぎ後を追う。
「あんたはここにいろ! いいな!」
そう言われて、大人しくしていられるはずがなかった。
あのヴィッシュという男は、ナギをどうするだろうか。
始末人らしく、魔物を始末するのだろうか。
それを許せるわけがない。
詩人は杖を手に取った。
猟犬が走る。矢のように。
ヴィッシュには必死に後を追った。緋女が聞きつけたのは荒事の音であろう。もはや一刻の猶予もならない。腑分け鬼は――ナギは、人肉の味を知ってしまった。ふたたび同じことを繰り返せば、もう二度と戻れなくなる。
こちら側には。
――ほとほと甘いぜ、俺も。
軽く舌をうち、茂みを飛び越え、その先で、はたとヴィッシュは足を止めた。
先行していた緋女が止まっている。耳を立て、尻尾をじっと寝かして、油断なく気配を探っている。
「どうした?」
問いに答えたのは猟犬ではなかった。山道の奥から、足を引きずり現れた、ひとりの男。
「助け……ぁけもの……」
男は、倒れた。
豪雨が洗い流してなお、止まることなく吹き出る血。地面がどす黒く染まっていく。
「……遅かったか」
苦虫を噛み潰した顔で、ヴィッシュは呟く。猟犬と狩人は、慎重に、一歩ずつ歩みを進める。獣道。深い茂み。得物の鉄棍を片手に構え、そっと、向こう側に回り込む。
獣が、そこにいた。
倒れた男が、みっつ。そのうちのひとつ、小太りな中年の奴隷商、だったものの上に、股を開き、圧し掛かり、身をかがめ、下腹部に口よせ、そこを、刃よりも鋭い牙もて食い千切る、鬼。
欲望に閉ざされた眼で。
血塗れの臓物をぶらさげた口で。
鬼子は、ニパリと笑みを浮かべた。
「馬鹿野郎ォ!」
狩人が走る。大振りに薙いだ鉄棍。鬼は地面に手を突き宙を舞い、その一撃を軽々と避ける。だがこちらは陽動。本命は、着地を狙って喉元へ――緋女の牙。
「あっ!」
歓喜の声。鬼が身を捻る。蹴りは一陣の風となり、犬の横腹に食い込んだ。悲鳴と共に転がる緋女。無事でいろよ! 狩人が、祈って踏み込む必殺の間合い。体を張って仲間が作ってくれた隙。鉄棍が唸る。
だが。
板金鎧さえ拉ぐ一撃を、鬼は片手で受け止める。
「なッ……」
反撃の拳が来る。咄嗟の判断、棍を放して後ろへ跳ぶ。その腹に鬼の鉄拳が食い込んだ。革鎧を抜け、筋肉の守りを破り、衝撃が臓腑へ貫き通る。漏れる苦悶の呻き。逆流する胃液。直前に後退した機転がなければ、背骨の一つも折れていた。
「あっは!」
奪い取った鉄棍を、鬼は嬉しそうに振り回す。敢えて選んだ得物が裏目に出た。ヴィッシュは歯噛みする。甘く見ていた。なるべくなら殺したくない、10年ヒトとして生きてこれた、その事実を切り捨てたくない、なんてぬるい考えだった。
「こいつは切れすぎンだよ……」
懐から、取り出したのは白く短い棒。剣の柄だけを切り取ったかのような。
「もう加減はできねェからな!」
棒の先端が爆ぜ飛んだ。弓なり風切る、親指の先ほどの錘。その後ろ、雨粒を裂いて一筋の線が走るのが分かる。細く、あまりにも細く、雨滴がなければ眼にも見えなかったであろうそれが、ヴィッシュが手に入れた新たな切り札。
単分子鞭、名づけて“ワームウッド”。
短く息吐き、ヴィッシュの手が舞う。不可視の鞭は彼の意のまま、生き物のようにうねり渦巻き鬼の周囲を取り囲む。本能で危険を察したか、鬼が後退する。が、その肩が鞭にあたった途端、ぱくりと裂けて血を迸らせた。
これが単分子鞭の威力。極限まで細く作られた糸は、柔らかい物なら抵抗すらなく切断する。
鬼の悲鳴が怒りに変わった。逃げられぬと判断したか、鬼は真っ直ぐヴィッシュに向かって走る。振り上げる鉄棍。この動きは予想済み。柄の引き金を引き、魔導機械で鞭を巻き上げ、短くした糸で前方に輪を描く。鞭の壁、いや待ち伏せの罠だ。知らずに突っ込んでくれば相手の体はずたずたになる。
が。
そこに飛び込む直前、鬼は地を蹴り跳躍した。
狩人の背筋に悪寒が走る。鞭の壁を飛び越え、宙返りして鬼が来る。振り下ろされる鉄棍を、辛うじて横っ飛びに回避する。その拍子、予期せぬ動きで舞い上がった単分子鞭がヴィッシュ自身の腕をかすめた。身が捩れるほどの痛みが走り、堪えきれずに声が零れる。
痛みで一瞬、体勢を立て直すのが遅れた。鬼が仁王立ちして鉄棍を振り上げる。
――やられる!
が、これを緋女は待っていた。
鬼がヴィッシュひとりに夢中になり、緋女から意識を放すこの瞬間を。
風よりも速く、馳せ寄った猟犬が、間欠泉の如く鬼の喉下に喰らいつく。
鬼がのけぞる。緋女を狙って拳を繰り出す。長居は無用、とばかりに口を離し、猟犬は軽々と四足に着地した。鬼はふらつきながら踵を返し、森の奥に逃げていく。犬が追う。ヴィッシュも、いつまでも転がってはいられない。
「情けねえ。いつまで迷う気だ」
吐き棄てるように言った言葉は、幸い雨音に紛れ、緋女の耳には届くまい。腕の痛みを堪え、鞭の残りを巻き上げ、ヴィッシュもまた、ふたりの後を追った。
分かり合うことはできるのだ。
心は通じあえるのだ。
たとえ人ではなかろうと。
詩人がいた。詩人はひとりだった。詩人は闇を彷徨い、詩人は探し求めた。何を? 我が娘を。共に暮らしてきた愛しいものを。彼女に捧げたこの10年を。だがここには何も無い。森は閉ざされ、雨は容赦なく頬を打ち、ずぶぬれの衣服が鉛のようにぶら下がる。彼には猟犬の鼻もない。狩人の健康な肉体もない。
どうすれば、逢える?
必死に頭をめぐらし、思いついたことはひとつであった。
歌。
幾度となく聞かせた。狂おしいほどの、愛の歌。
速い。ナギの肌がぞっと粟立つ。どれほど走ろうと、どれほど飛ぼうと、猟犬はぴたりと背後を付いてくる。こんなことは初めてだった。自分に追いつける獣などいるはずがなかった。ナギは狩人だった。生まれて初めて――いや、あのとき以来で、彼女は狩られるものの恐怖を味わっている。
「あッ……」
救いを求めて、ナギは鳴いた。
救いを、誰に?
そのとき聞こえた。かすかに届く、愛おしい歌。
詩人が、ナギを呼んでいる。
「うっ、うっ、うーっ!」
ナギは叫んだ。腹のそこから、全てを吐き出し、必死の声で歌に応えた。もはやそこに狂気はない。血は雨が拭い去った。眼が潰れ、涙を流せぬ身の上であった。だのに、誰の耳にも明らかだった。彼女の放つ声、そのひとつひとつが涙であった。
と。
ナギの頭上で轟音が響いた。追いすがる猟犬はその目で見て、ナギは経験と感性で、事態を察した。この豪雨で崩れた土砂が、まさにこのあたり目掛けて襲い掛かりつつあった。ナギは逃げた。緋女は追った。度胸の差が明暗を分けた。すなわち、勇敢に後を追う緋女だけが、僅かに逃げ遅れて土の洪水に巻き込まれたのであった。
犬の咆え声が後ろに遠ざかり、ようやく死の恐怖から解き放たれて、あとはただ、一心不乱にナギは走った。行くべき場所はただひとつだった。歌声はまだ聞こえている。ずっと彼女を待っている。行かねばならない。帰らねばならない。生半可な理屈など、この渇望の前にはどれほどの意味があろう。
歌が、近くなる。
ナギが、呼ぶ。
つかの間の、心躍るふたりの対話。
九つの泥を避け、十一の雨をくぐり、十三の藪を貫いて、ナギは暗闇に踊り出る。
「う―――――ッ!!」
その先に。
詩人はもろ手を広げていた。
ナギは迷わず、その胸の中に飛び込んだ。
近くに手ごろな洞穴があったのは幸いだった。洞穴というよりも、斜面の下の山肌に出来た僅かな窪み程度のものではあったが、一夜の雨を凌ぐには充分だ。問題は、日が暮れて厳しく肌を突き刺し始めたこの寒気だ。春先とはいえ、夜ともなればまだまだ冷える。そのうえ、雨具をつけてきた詩人はともかく、ナギは全身ずぶぬれだ。
詩人が脱がしにかかっても、ナギは抵抗ひとつしなかった。その手の為すがままにまかせた。彼女の瑞々しいからだが、月の光に晒された。詩人は息を呑む。何もかも忘れて裸体に見入る。彼の指が、ナギの腕に触れた――そこで我に返った。残りをさっさと脱がしてしまい、自分もぼろぼろの雨具を外した。
濡れていない布は、詩人が身につけていたものだけだ。それをふたりで共有し、身を寄せ合って丸くなる。ナギの頬が詩人の腕をさすった。いつものように角が腋に擦れた。肩を抱き寄せると、彼女は嬉しそうに笑った。
「ごらん、西の空には雲がない」
ナギは不思議そうに、詩人の顔を見上げた。吐息が顎の下をくすぐる。
「夜が明けて、雨が上がったら、ここを離れよう。どこか遠くへ行こう。狩人たちも、後始末人も、追いかけてこないような、遠い場所へ……」
「うー」
言葉の意味は、分かるまい。
それでも、この腿をくすぐる彼女の手のひらには、全幅の信頼が籠もっているのだ。
放すものか。
離れるものか……
何日かぶりの温もりに、詩人はいつしか浅い眠りに落ちた。
まどろみの中で夢を見た。どんな夢だか覚えていない。ただおぼろげな印象があるだけだ。言いようもなく激しく、この世の何よりも甘やかに、全てをかなぐり捨てて何かを求めていた。
夢の途中で目覚めた。月は天頂にかかり、雨音はもはやなく、隣には、自分に寄りかかって少女が寝息を立てている。
ふたりを包むひとつの雨合羽が、わずかに、ずれた。
少女の無垢な乳房が、零れ落ちるように、詩人の前に現れた。
ここは――?
いまは――?
目覚めは現し世と常世のはざま。
これは夢の続きか、それとも。
定かならざる意識の中で、詩人の指は、彼のものではないかのように動き、滑り、乳房の先に、触れた。
「ぅ……」
眠ったまま、少女が息を漏らす。
おんなの声で。
その瞬間、彼の何かが壊れた。
優しさはどこかに消え失せた。粗暴が彼の全てとなった。押し倒し、引き寄せ、覆い被さり、夢中で少女の唇を奪った。少女が目覚める。暴れ始める。だが、自分を蹂躙する男が、自分の良く知る者だと知ると、一切の抵抗を諦めた。
「ぁ……」
なぜ? 疑問は、欲望の波に押し流され。
少女に抱き寄せられるまま、男は少女をまさぐった。なんと滑らかな肌か。なんと柔らかい肉付きか。誰にも許したことのないからだの全てが、いま男の手中にある。
全て俺のものだ!!
恐るべき肉欲の爆発が彼を奮い立たせ、今にも愛の茂みに分け入らんとした――そのときだ。
「ぎゃぁぁぁああああぁあああッ!!」
詩人の悲鳴が音も無き夜空を覆いつくした。
飛び退いた。狂って、喚いて、地面に手を突こうとして、体を引き裂かれたかのような痛みに悶え苦しむ。肩の肉が抉られている。涙が零れた。嗚咽が漏れた。脂汗は、止まることを知らぬ血と混ざり合って滝となり、重く岩を叩いて爆ぜた。
月の下。
あれほど魅惑に充ちた体は、今や、口から滴る血に濡れて。
あまりにも美しく。
あまりにも凄絶に。
鬼がそこに立っていた。
ヴィッシュは、声を聞きつけ顔を上げた。
「……言わんこっちゃない」
隣で横になっていた猟犬が、首を持ち上げ、鼻を鳴らした。その体には何箇所か包帯が巻かれている。土砂崩れに巻き込まれた時に負った傷だ。本来ならあの程度で負傷する緋女ではない。だが、なるべく殺すなというヴィッシュの指示が仇になった。
彼は責任を感じていたのだ。
ゆえに、立ち上がろうとする相棒を手で制し、彼はひとりで走り出した。
たとえもう、すべてが手遅れであったとしても。
鬼が、鉄棍を持ち上げた。
ひたり。ひたり。迫る足音を聞きながら、詩人はようやく理解した。
たとえ心が通じ合っても、肉の体は――
後始末人の言葉が蘇る。
そうだったのだ。
心と乖離した自分の体に気づき。思い通りにならぬ己の中の獣に怯え。それゆえナギは、詩人を避けた。
どうにもならない食欲に、耐え続けていくために。
詩人が、我が娘への肉欲を隠し続けていたように!
「わたしは……わたしは間違っていた……」
涙が零れ、血に混じる。
「救ってやるつもりで、ずっとお前を、苦しめていたんだな……」
決して溶けることなく、ふたつ、別れる。
ナギの体はもう、眼と鼻の先にあった。
「すまなかった……」
「ぬるいことを――」
声。
「言ってんじゃねえッ!!」
上から。
後始末人が舞い降りる。
渦巻く不可視の鞭。鬼が飛び退り、しなり迫る刃の糸を、音のみを頼りに避ける。だが甘い。鞭はヴィッシュの手足の如く自在に動き、複雑な軌道を描いて絶え間なく鬼に襲い掛かる。ひとつ、ふたつ、小さな切り傷が肌に赤く線を引き、鬼はたまらず後退した。
「やめてくれ!」
詩人は懇願した。見ていられなかった。ナギをこれ以上傷つけたくなかった。
「わたしはナギに食われるなら――」
「お前を食ったら、あの子はどうなる!」
詩人が絶句する。
「まだあの子を苦しめる気か!!」
ヴィッシュを黙らせようとでもするかのように、鬼は鉄棍を両手に構えた。
ここからが本番だ。
汗が額に玉となり、伝い降りて鼻から落ちる。
雫が岩に跳ね返り――
来る!
鬼が走る。棍が唸る。ヴィッシュは鞭を巻き戻し、再び射出。手首を捻り、糸を棍に絡ませる。突如手元に生まれた抵抗、鬼は一瞬動きを止め、しかしすぐさま得物を棄てた。迷いのない動き。やってくれる、アテが外れた。
舌打ちしつつヴィッシュは横に跳んだ。鬼の爪は僅かにヴィッシュの袖をかすめる。避けた、と息をつく暇もなく、鬼は着地するなり方向転換、恐るべき脚力で飛びかかる。この崩れた体勢で避けるのは、無理。
ヴィッシュは手元の引き金を引き、最速で鞭を巻き上げた。
先端に絡まっていた鉄棍が、唸りを上げて引き寄せられる。鬼がはっと気づいたときにはもう遅い。鉄の塊が背後から迫り、鬼の背中を強かに打つ。喘ぎ、倒れる鬼を睨んで、ヴィッシュは転がりながら立ち上がる。
鞭の射出口を、鬼に向ける。
「今楽にしてやる!」
だが。
その視界を塞ぐ影があった。
詩人。
「おま……」
一本きりの脚に全ての力を込めて、詩人がヴィッシュに飛びついた。驚きのあまり避けることも忘れ、重い一撃をみぞおちに喰らう。そのままもつれ合って倒れこむと、詩人は声を嗄らして叫び狂った。
「ナギ! 逃げろ!」
「何を……」
「行け! 走れ! 遠く離れればっ……」
鬼が、ゆらりと、立ち上がる。
弛緩した脚が、辛うじて肉体を支えている。
ヴィッシュは焦り、詩人を引き剥がそうともがいた。だが、一体どこにこんな力を隠していたのか。枯葉のように軽いはずの詩人は、今や鉛よりも重くヴィッシュを押さえ込んでいる。
「たとえからだが傷つけあっても、想いは――!」
迷いの気配がした。
悲しみの匂いがした。
最後には、ただ愛のみが残る。
ようやくヴィッシュは、詩人を押しのけ立ち上がったが、そのときにはもう、ナギの姿は森の最奥へと消えていたのだった。
「任務失敗、か」
翌朝、猟犬を連れて山を降りる後始末人の姿があった。
その瞳に力はなく、その背中に覇気はない。犬が心配して顔を見上げる。きゅうん、と鼻を鳴らす。ヴィッシュは苦笑した。
「しょうがないさ」
彼は懐を探った。だが取り出した細葉巻は、昨夜の豪雨ですっかり湿気ていて、とても火がつきそうもない。諦めの溜息は、紫煙の代わりにはならなかった。このやるせない敗北感を、包み隠してはくれなかった。
「しょうがなかったのかな……」
詩人はそれから、またあの小屋で生活を始めた。
ふたりの思い出に充ちた家は、ひとりになってしまったことを否応なく彼に突きつける。だがそれでよいと思えた。ここで、ナギを想い、苦しみ続けることで、せめて自分自身に罰を与えたかったのかもしれない。
幸い、この10年の暮らしで鍛えた体は、山での生活にも充分堪えた。村々を巡って歌物語で稼ぐ手腕も、いつのまにか磨かれていた。必死でナギと歩んできた足跡のひとつひとつが、彼の新たな糧となってるかのようだった。
ある夜、彼は懐かしい声を聴いた。
慌てて小屋から飛び出し、辺りを見回す。耳を澄ます。何も聞こえない。静謐なる山の夜が広がるのみだ。ただの聞き違いだったのか。ナギを想う心が聞かせた幻だったのか。
いや、しかし。
彼は、その場に胡坐をかいた。
そして歌い始めた。ナギのよく知る、ふたりを繋ぐ、あの歌を。力の限り声を張り上げ、いくつもの山々を越えて、遥か彼方のナギへ届けと願いを込めて。
歌のこころは、誰も知らない。聴くものもなければ、伝えるものもなかったから。だが、ふたりだけが知っていた。その歌声は道しるべ。行く先も見えぬ現し世に、仄かに、あかりの灯るが如く。
暗闇の中に、ひとつ。
THE END.