剣道的少女

 彼の好きなタイプは強い娘、って知った織内ほくとが部活に柔道でも空手でもなく、剣道を選んだのは、テニス部の彼を見えるところに剣道場があるからだったのと、部活動オリエンテーリングでの剣道部部長の姿が、同じ女とでこうも違うかというほどに凛としていてかっこよかったからだった。直後の、ほくとが二十人一斉に声を出したって及ばないくらいの気合と演武に、すっかり肝を冷やされてしまったけれど、ほくとにしては奇跡的な逆説で、ここにしようと決めた。
 計算高いというか、準備とか下調べをして、分かるまで動かないほくとだから、いきなり入部届けを出したりはしなくて、まずは見学から始めた。あと、体育の授業でいつ剣道が入るのかも調べて、当分後ということが分かったのでその足は早かった。
「あなたたちがどうして入部したかなんてどうでもいいんです。ただ一つだけ、嘘だけはいけません。嘘だけはここではいけません。言うのも思うのも」
 部長は新入部員に挨拶と役部員の紹介を済ませて、こう念を押した。
 剣道部部長――三年生の阿波野 滝子。昨年の県大会団体戦三位のチームで中堅の大任を果たした。個人戦では準優勝。その時の楯なら職員室近くのギャラリーで見かけた。段位は二。スポーツ推薦で進学を目指しているほど熱心。基本的には穏やかで優しい。竹刀を持てば途端に厳しい。強い娘だから、ほくとは焦った。
新入部員の集団の中に幼馴染の洋子がいる。訓令する部長の隙を見て、手を振ったつもりが目端に捉えられていた。
「そこっ、何をしているの!」
「す、すみませんっ」
 と洋子は平謝り。つい他人のふりのほくとは視線を外に向ける。春。ガラス戸の向こうのテニス場に、彼が見えるかと思うと注意はそっちへ行ってしまう。彼。袖星真弓。ドキッと心臓だけが跳ねた。見えてないのに。あ、見えた。一瞬、目があった……気がした。すぐに顔を伏せた。でもこっちを見たのは確か。はっとして前向くと、部員たちは準備体操をしていた。身に染みた洋子は、もうこっちを見て合図を送ろうともしない。
「あ、あの、私も入部します」
 見学途中で入部。ほくとにしては多分に珍しい。女の勘に動かされたのは。ちら、とすぐ真横にいた阿波野部長を見た。
「すぐに着替えてきなさい」

 入部後一ヶ月。これまで本物の竹刀を握ったこともなければ、見たこともないほくと。慣れなくて戸惑って辛かった。当初は準備運動と校庭20周で立ち上がれないほどだった。四挙動、きりかえし、かかり稽古、打ち合い稽古までなんとかこなせるようになった。豆はいくつも潰れた。進学していきなり剣道を始めた娘をして、親は本気で心配していたけれど、気弱なところを前々の心配にしていた娘が日ごと快活になる姿に、相互い氷解して行ったようだった。
 打ち込みに行った竹刀は、つーっと空を切った。はっとした。反撃がきた。面――だったと思う。その軌道が、落ち葉のような変則的かつ時に極めて鋭く落ちるような動きを見せて、胴をさらって行った。パーンッという音。音を聞くだけで反射的に旗を揚げてしまいそうな一本。真剣なら今頃内臓がはみ出している。
 かかり稽古は普通、向かってくる相手の竹刀を受けてやるものだが、この部長、相手の気が緩んでいることを見事に見抜くと、こうして竹刀や間合い、向き、構えを絶妙な拍子で外して避ける。相手は気を抜いている上、反撃が来ないと高をくくっているから、避けられた! 気を抜いていた! 反撃が来る! と考えて準備が終わった瞬間には面でも胴でも篭手でも好き放題取られている。これ以上制裁が課せられることはないが、ただでも痛い部長の打突を、油断している中で貰えばそれはまったく恐ろしい。こんなルールを毛ほども知らない新入部員は初日に脳震盪でひっくり返ってしまった。相手の剣を受けないばかりか、あまつさえ反撃までする問題外の礼儀知らずに剣道を知るものは皆唖然としていた。
「いい? かかり稽古でも、気を抜けば誰でもこの通りよ」
 初日からもう鬼武者の陰名をつけられたが、阿波野は一向平気の様子。それよりも、ほくとがこの洗礼を一回も受けていないはいかにも妙だ。
 阿波野は指導らしい指導をこれといってしない。部員達の気の緩みに気をつけて、気構えさえ隙なければ放っておいても上達すると思っている。剣術の指導は副部長の狭山に任せ、動機の深さ=上達と結び付けている模様。
 もう一例。阿波野は準備運動前の黙想と神前に向かっての礼、互い礼を重視していた。精神の集中を感じるまでは各々礼をしてはならないというくらい。礼ができない内は後の稽古にも参加しなくても良いと言っている。
 その礼をほくとは洋子にひとつ。洋子もほくとに。模擬試合の始め。もうすぐ他校を招いての練習試合がある。団体枠は新入生二人を優先に、あと三つの席を先輩が奪い合う。順当からいえば部長と副部長は磐石。あと一人も半端者ではないから、練習試合といえども落とす気はない様子。新入生の二席は今回、ほくとと洋子が番。二人とも隠せない緊張、せっかく安定の取れてきた蹲踞が少しくがたがた震える。打ち合い始め。弾け合う竹刀……当初は仲の良い友人同士で遠慮しあっていたものの、あの鬼の下で一ヶ月、今ではすっかりどこ吹く風。手加減が相手に悪いと考えるほど、けっこう本気で剣道をやっている。
「時間!」
 一本目に篭手を取られて、二本目三本目は有効打なし。洋子の優勢勝ち。
「二人とも」と場外に出たところで部長のお呼び。どんな落ち度があったかと反省しながら前に立つ「試合まで二人の打ち合いは禁止。必ず相手を変えなさい」
「はい」と答える他ない二人。さっそく次の日から相手を変える。ほくとは不運。部長とやることになってしまった。
 いつもと同じ立ち合いの感じ。上達すればするほどどうしようもないって感想が色濃くなっていく。阿波野は部内で別枠的存在。副部長得意の面打ちがたまにかする程度で、この一年は部内で一本を取られていない。腕は二段のそれでなく。規定の日数が足りないだけで三段はおかしくない。剣歴一ヶ月弱のほくとが押したり引いたりして、どうびくともする相手だ。
 やあっ、と気合を浴びせても平然。阿波野の上段構えを揺らめかせることさえ力不足。
 織内と阿波野の身長差実に7センチ。竹刀の長さも5センチ異なる。それを頭より持ち上げられては手の出しようは断ち切られている。上段に対する定石、左篭手を抑えるより早く、面はさらわれる。面などさらうまでもなく、手を伸ばせば篭手に届くのだから速度、距離を制せられている絶望的な局面で握られているのは、現時点、五体満足で降参して他日を計るのみ。
 ――打ち合わない中に負けを認めるのも立派な剣道の内よ。
 と言う副部長は、試合ではない稽古というのに部長を相手に何度も不戦敗を遂げている。ただし、ほくとは打ちに行く。面も篭手も届かない。胴を狙ってもきっと振り下ろす早さで負ける。残る手は突き。剣先を首元に刺す危険な技。激しい闘争心か恨みでもなければ、初心者が一本取れるほど鋭い一閃は放てっこない。
 だから迷う。つっつーと汗が流れて落ちる。走り回っても振り回してもいないのに、息が切れる。そんな逡巡がどれくらい流れたのか。三分の試合時間の内らしいけれども、体感は伸びきっている。どくっどくっと動悸が防具を揺らしている……。
 結局、やぶれかぶれというか、まるっきり阿波野が操作しているかのように、面だか篭手だか狙ったのか分からない竹刀は、見当はずれに飛んで行ったようなボールのような滑稽な放物線を描いた。気付いたら、ほくとの両手から竹刀は宙を舞っていた。手は痺れているが、一本決められてはいない。竹刀だけを弾き飛ばされた。背中にがしゃっと落下音。
「拾いなさい」
 と阿波野。こうなったらどんな無様でも拾うしかない。身体は阿波野に向けたまま。背を向けて拾いに行こうものなら、油断という理由で後ろからだって打たれる。竹刀を拾い上げると、阿波野は正眼に戻していた。やり慣れた構えでも相手が相手。篭手に手を出して様子を伺う。篭手、篭手――わずか二太刀目、見事に気を合わせて引いた阿波野に追いつけず空振り。阿波野の竹刀、逆にほくとの篭手を奪う。手が飛んで行ったんじゃないかと思うくらい痛烈な一撃、思わず竹刀を落とす。
「篭手あり! 一本」
 篭手抜き篭手。完敗。剣道の作法に従って場外に出る。
「強いね」
 洋子ぽつり一言。面を取ったほくと、ただ頷くばかり。なんにもできなかった。どうしようどうしようと考えているうちに終わってた。
「見てて、どうだった?」
「一呑みってカンジ。部長の動きより、ほくちょがどーしてああ動くかなあ、って」
 ほくとは今、とても悔しい。こんなに悔しいと思ったことはかつてなかった。昨日、洋子に負けたけど、それは自分が少しは使えるようになったと実感できた。この完敗は自分がまだまだ弱いと教えてくれた。
 ――それはいいんだけど。
 と、ほくとは思う。元々から技量力量の差は百も承知。竹刀を当ててももらえず、三度場外に押し出して一本を取る屈辱的な勝ち方もできただろう。阿波野はほくとの迷いと小手先の剣道を突いた。教えず学ばせるらしいやり口。
 誰よりも我が身のことだから、少し反省すればそれも分かる。
 ――でも。
 と、とほくとは外を見る。テニスコートからぱこんぱこんとラケットがテニスボールを打つ小気味良い音がここまで響く。
 さっきの立ち合い稽古、袖星はずぅっと見ていた。逃げるところなんて見せられないからがんばった。前に出ようとした。でも、あの表情はなんだろう。どうしてあんな表情を? 私が篭手を打たれて物も握れないほど痛かったのに、どうしてそんな、ほっとした表情をしたの!?
 ほくとは今、とても悔しかった。袖星だけには見せたくないから目いっぱいに悔し涙をためて、ほくとは一生懸命耐えた。彼を見たいと思って選んだ道場で、こんな姿を彼に見られたくない、見られまいとしている。情けなくて、果てしがない。
 稽古が終わって、着替えればそのまま帰宅すればいい。教室に戻る用はなし。身も心もくたくただから、一歩でも早く帰りたい本音を騙って、洋子と教室に戻ってきたのは、やっぱり秘密を共有できる親しい友人にしか話せない打ち明け話と相場が決まる。
「どれくらい強くなったらいいんだろ」
「部長に勝ったら、なんて無理なんじゃないの」
 洋子はまるで告白の先延ばしか言い訳の用意をしているような、ほくとの告白スイッチをなじるように続ける。「第一、袖星くんが部長を好きなのか確かめたんじゃないじゃん」
「分かるもん」
「わーかーりーまーせーんー」
 ほくとは逃げるように窓まで行って、開けた。風が吹き込む。しばらく風に当たる。冷静にでもなろうとするように。
「部長は恋人いるのかな」
「あの鬼武者に〜?」
「でも、部活動以外では優しいって」
「ほくちょー、アンタなに考えてんの?」
「……別に」
 もちろん洋子にはお見通し。はあ〜とため息を一つ。突風も窓から一つ。風に煽られて、ある机からYシャツが床に落ちた。
「それ袖星くんのでしょ」
「う、うん」
「拾ってあげたら? ついでにたたんだりさ。豆ばっかりじゃかわいそうじゃん。匂いだけでも付けてったら? きっと、おくてなアンタを見かねた神様の贈り物だよ」
「犬かなにかみたいに言わないでよ」
 口ではそう強がっても、もうその気だった。変なことを考えてじゃなくて、落し物を拾ってあげるというくらいの気持ち。手に取ったら、ひどく恥ずかしくなって、いつもしてる洗濯物をたたむ手つきもたどたどしい。すん、と無意識に匂いをかいでいて、顔が赤らむ。
「早く告っちゃえば? そうやってきゅんきゅんするだけ情操上悪いよ、きっと」
「でも、断られたりしたら……」
「あたしゃ、部長じゃなくアンタを見ていたんだと思うんだけどね」
 と、元気付けられているその時、噂の袖星が教室に戻ってきた。
「あ、おつかれー」
 突然の登場にも洋子はまったく平気の様子。一方、自分でも意識しない間に、件のYシャツを大事そうに前抱えにしていたほくとは、すっかり固まってしまっている。
「あ、えとっ、そのっ、風で落ちちゃって、それでっ」
「あ、ああ……ありがとう。たたんでくれたんだ」
「う……うんっ」
 二人の距離が縮まって、ほくとはYシャツを袖星に渡す。指先がつんと、袖星のテニスラケットを振り回す手に当たる。意外と頼もしいかたい手だった。あっ、とほくとは手を引いた。顔中、血の巡りが良くなってる。きっと今、真っ赤だ。そのまま、二人とも同じ距離でしばらく。ちらちら、とお互いの顔を盗み見たりして。
「あ、あの……」
 と袖星。何か言いにくそうにしている。なにを言われるんだろうと、ほくとは耳を大きく。
「着替えたいんだけど……」
「……あっ。ごごごごめんなさいっ。よ、洋子、行こっ!」
「はいはい、行きましょう行きましょう、隊長」くすくすと苦笑しながら、洋子はほくとの後から教室を出ようとする。
「あ、あのさ」袖星、また口を開く。「織内さん……さっきの試合、すごかったね。相手、阿波野先輩だったよね?」
「ん……うん」
「大丈夫、だった?」
 もう、ほくとは声を出せなくなっていた。すごかった、大丈夫? なんて言われて、嬉しくて嬉しくて、もうどういう風に意中の人の前に嫌われたりしないよう慎重に破裂しそうな大きな感情を表に出していいのか分からなくなってる。……だから、大げさに首を振って、精一杯の意思表示。
「土曜日、試合に出るんだよね?」
 こくこく。
「あっらー、詳しいんだあ」
「阿波野先輩から聞いたんだ。あの人の前だと緊張するね」
 ぴく、とほくとの顔の動きが止まる。阿波野先輩、阿波野先輩……と目の前の自分の名より多く部長の名前を読んだことに、ほくとは心臓がひしひしと冷たくなっていくのを感じた。
「部長から?」
「見学にいらっしゃいって誘われたんだけど、いいのかな。部外者なのに」
 いいも悪いもなかった。もちろん、いいに決まってる。大歓迎。いつもより張り切って剣道できる。でも、変。部長は部外者を道場内に入れるのをうるさがっている。
「見に来るの?」
「そのつもりでいるけど」
「そ、それって、部長に誘われたから……?」
 しばらく言葉を忘れていたほくと、何でもいいから話したい話したいと思っていた願いは、嫉妬という穴に向かって、蒸気機関のように思いやりのない口ぶりに変形してしまっていた。すぐに正気に戻ったけれど、どうしてあんなこと言っちゃったんだろうという底深い後悔から、なかなか抜け出す方策を定められない。
「あ……観に行っちゃ、嫌かな」
 そんなわけない、見に来てほしい。袖星くんが見ていてくれたら、同じ学校同じクラスの誼でも応援してくれたら、どんな相手でも恐れず立ち向かえるから、と伝えたい。
 その台詞が出ない。照れと先行きの闇から来る恐れが、いつも袖星と話す時の最大の敵だけど、今はその二つがダースで襲い掛かっているようで、俯くだけしかできない。舌はとっくに金縛り。言いにくいことを何とか分かってほしいと示す沈黙は大抵の場合、誤解しか生まない。今回もそうだった。そして、そんな目に遭う者に誤解を解こうとする性根を残している場合は極めて稀だ。
「――わかったよ」
 袖星はそう言って、体操着の上を脱ぎ始めた。もうこの話を打ち切ってしまいたいという意思表示の通り、もう何も言おうとはしなかった。助け舟を出そうとする洋子を引っ立てるようにして、ほくとは退散した。
 その夜はずっと大泣きした。
 ――あんなことを言いたかったわけじゃない。あんなふうに言いたかったわけじゃない。
 洋子は一晩中、一言も漏らさずそれに付き合ってくれた。
「じゃあ、あたしゃ学校行くけど、大丈夫?」
「……うん」
「みんなにはうまく言っとくから」
「……洋子」
「んー?」
「ありがとう」
「いいってことよー」

 土曜日。練習試合当日。相手は県下有力の赤間校。
 先鋒は洋子。次鋒にほくと。中堅、二年生最強の諏訪。副将、狭山副部長。大将は勿論阿波野部長。赤間校も先鋒から中堅を一、二年生で揃え、将格を三年で固めている。
 黙想。神前に礼。互いに礼……。
 いよいよ試合開始。
 袖星は姿を現さない。
 戦は緒戦が肝要。その位置は大抵ポイントゲッターの席。調子よく勝てばチーム全体を勢いづかせられる。ノリのよい洋子には格好。しかし、意に反して今日の洋子は攻め手を欠いている。大変消極的だ。一本目は時間いっぱい使って逃げ回り、諏訪の檄が何度となく飛んだ。勝ち抜きの団体戦の場合、引き分けるのもありだ、が練習試合でやらなくてもいい。第一この練習試合は勝ち抜き形式ではない。
 二本目、四分間逃げ回った者と追い回った者。疲労は追いかけた側に濃い。洋子得意の速攻で勝負は決まりそうだ。やはり、洋子は仕掛けない。追い回すことを諦め、体力の回復に入ろうとすると蚊のように鬱陶しく、一本とろうとしない竹刀で打ち合った。二本目も時間切れ。
 決勝の三本目は、以前の泥沼が嘘のように決まった。開始19秒。回復を装った相手に同じく嫌がらせに打って出た洋子の篭手を鋭く押さえられ、一本。剣歴の浅さが露呈するように攻めようとする出鼻が雑になる洋子の苦手、押さえ篭手である。
 ――10分ちょっと。あいつ、来るかな。
 自分の役目は果たした、というように洋子は礼をはらって席に着いた。
 次鋒戦。ほくとの相手は垂れの刺繍で名を桜井と知った。
 一日休んで以来、ほくとは前にも増して剣道に打ち込んだ。多くの部員は試合前だから張り切っているのだと思ったが、やせ我慢と自己嫌悪を考えまいための努力に決まっていた。阿波野や狭山といった、できる遣い手は心と体がバラバラで、心の中も体の使い方さえバラバラの稽古が逆効果しか生まないと知っているから、精神の集中成らずして礼と稽古をしてはならないと定めた。その決まりをほくとは破ったというのではなかったが、精神の散逸に気付かぬほどの落ち込みから逃れるには、竹刀を振るう他、手元になかった。阿波野は多く語らず、狭山はやめなさいと止めたが、竹刀を振るう手さえ封じられたらどうなってしまうのか怖かった。
 初試合は一本目を胴、二本目に面を決められて終わった。瞬殺とまでは行かないが、秒殺だった。打たれても打たれても、悔しいと思えなかった。試合に負けた悔しさくらい、自分の弱さに比べればほんの些細な問題だった。まだ前の問題で落ち込むところさえ行っていないのだから、この敗戦を処理できない。試合後の礼節もまるで人形だった。
 袖星は最後まで姿を現さなかった。
 中堅戦、副将戦の結果は順当。諏訪は全力でやって引き分け、狭山は一本取られたが二本取って勝った。最後の大将戦。これに勝っても引き分け。既に自分たちの勝ちはなくなっている。だが、そんなことで勝負を諦めたりするような阿波野ではない。
 と、そこへ道場の戸が開く音。反射的にそっちに目をやると、袖星が入ってくるところ。体のどこにも、服のどこにも汗の跡がない。余裕を持って来たようで、最初から阿波野の試合に合わせてきたんだと、ほくとも洋子も手に取るように分かった。それはともかく、大将戦は圧巻だった。阿波野は、竹刀を交えず足さばきだけで相手を場外線まで追い詰め、やむなく反撃に出る相手の面に瞬く間に一本を決め、二本目の強烈な篭手打ちにより右手首を負傷させた。対戦相手は今年中、竹刀を持てない身体にされた。星の上では引き分けも、赤間校は大損害。大会で当たっても戦う前に勝負が決まっている、相手校の牙を根こそぎ抜く勝ち方だった。
 救急車までやって来る騒動だから、試合後に予定されていた合同稽古はお流れになった。
 反省会はすぐさま始まった。こればかりは外部の人間を立ち入れるではないので、想像のできない試合結果に色も失っていた袖星は副部長から退場を請われると、仕方がなかった。帰り際、ほくとと目が合った。途端、胸中に複雑な感情が渦巻いて、ほくとは恐れに似た感情を無意識に選んだ。
 緊張など言い訳にもならない洋子の消極戦法、木偶か打ち込み機の体たらくだったほくとの心無い剣道は、阿波野のどんなお怒りも非にならない試合内容であるから、反省会は紛糾すると予想された。
「皆よくやってくれました」
 ところが、阿波野は逆に選手たちを労わり、誰のことも非難しなかった。
「良くない試合もあったけど、無理のない今のあなたたちらしかったと思う。でも、どうしてあんな試合になってしまったのかを知っている人と、知らない人もいる。引きずってしまうようなら、遠慮はいらないからいつでも話をしにきなさい」
 反省会は訓辞だけで終わってしまった。洋子の時間稼ぎも、ほくとの半失恋も明らかにされず、怒らず叱りもしない甘さに、諏訪はどうやら不平の口だった。阿波野はどうやら対戦相手が担ぎ込まれた病院へ行くつもりらしく、希望者の残り稽古の監督など後事を狭山に一任した。
「――部長」
 道場入り口で靴を履いている阿波野に、ほくとは同行したいと申し出た。
 病院まで立場上同行する顧問の小島の車だったので、ほくとは聞きたいことの一つ、口一回さえ開けられなかった。歪な緊張状態のまま病院に着き、整形外科の待合所へ。赤目校の部員たちがいた。
「あ、小島先生、わざわざどうも」
 赤目校の顧問先生が慇懃に向こうからやってきた。
「このたびは大変なことに……」
 と小島。お辞儀の応酬が始まった。
「どんな様子でしょうか」
「ヒビですんだようですが、今年はもう」
「大変申し訳ない……」
「いえ……阿波野くんと立ち合う以上、覚悟はしていたでしょう。――お医者もね、本当に竹刀なのかと驚いている様子でしたから、阿波野くん、また腕を上げたようだね」
「恐れ入ります」
「今年も活躍を期待しているよ。うちの門脇もそれがせめての慰めになる」
「まだ、未熟です。お言葉だけ肝に銘じます」
 突然に部長を引退させられた相手校の顧問にさえ称えられる阿波野の近くが、あまりにもいづらくて、同時に恋敵でもあることも思い出したほくとは彼らの話の邪魔にならないところまで身を引いた。そこで肩をつかれた。振り返ると、桜井が立っていた。
「あ、えっと、桜井……さん?」
「あのさあ」さっきの試合で圧勝したせいか、それとも部長の選手生命を絶たれたという大義名分のせいか、桜井は横柄な態度だった。「あんたのところの部長、なんなわけ?」
「え?」
「顧問の先生ばっかり謝って、あの部長、すいませんの一言もないじゃん」
「あ……」
「県大で準優勝だからって調子のってんじゃないの?」
「そんなこと――ない」
 ――あれ……。
「阿波野先輩、厳しいけどそんな人なんかじゃない」
 ――おかしいな。
 言葉が勝手に溢れてきた。こんなこと剣道始める前には一度もなかった。袖星の近くにいるときとは正反対、自分が一直線になって考えるより早く、正しく一番口にしたい言葉を喋ってる。
 ――どうして、先輩のこと……こんなに庇うんだろ。
「……ふん」
 桜井は予想と違って堂々と反論するほくとに面食らった。さっきと今、一時間足らずの間で、試合みたいにどう料理できるような相手でなかった。今もし、竹刀を握り合ったらその結果は……。何か口実を見つけたように桜井は部員たちの方面へ去った。
 門脇が待合室に戻ってきた。右の手首に治療の跡がある。これで頼れる部長はもう自分たちの前で竹刀を持てなくなるんだという証明に、部員たちは皆一様に表情を暗くした。
「そんな顔をしない。しゃんとなさい」
 忘れがたい痛みを負ったのに気丈に振舞う門脇を見て、ほくとは、ああ、この人って本当に尊敬されているんだなあ、と思った。すると桜井の言い分が浮き彫りにされてきた。
 ――すみませんの一言もないわけ?
「阿波野」と門脇は心配して囲む部員たちをかき分けて阿波野の前に立った。二人の間には一触即発の感じどころか、秋風のような涼やかさがあった。「すごい篭手だった。あんなんじゃ、あたしが何本入れてたって帳尻合わないよ」
「門脇さんが相手じゃなかったら、あの篭手もなかったと思うわ」
「――ありがとう」
「こちらこそ、いい試合でした」
「ええ、いい試合だったわ。がんばって、今のあなたなら全国間違いないよ」
「ありがとう」
 さっきまでは敵同士だったとは思えないこの会話を離れたところからずぅっと聞いていたほくとは、突然、沈み込んだ。自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだった。あの日以来、涙腺が緩くなっていてたまらない。声と震えを押さえても、流れる涙は止まらない。泣き方を忘れるまで堪えられることを、身体が恐れているかのように。
 部長には一つも隠せない。頭なでられて、背中をさすられる。子ども扱い。
 ――やめて……。もう、やめて。
 惨めな自分が嫌で嫌でしょうがない。かっこ悪い。頼れれば誰でもいいなんて、そんなのは嫌……。
 ――でも、心地……いい。
 看護婦が飛んできた。気分が悪くなったわけじゃない。病院から出るくらいの空元気を搾り出した後は反動が来きて、もうめちゃくちゃだ。
「先輩……先輩はどうして剣道はじめたんですか」
 精一杯泣いた後、一番見せたくない姿を見せたからか、ほくとから阿波野のわだかまりは溶けていた。病院裏の公園。まだ夏には遠く、あたりは薄暗い。
「同じ理由。近所の道場に好きな人がいたから」
「え、えっ!?」
 我を失うほど泣いている間に、そんなことを口走っていたのか、とほくとは赤面と色をなくした表情を交互にして顔面が引きつりそうになった。不純な動機を知られたらどんな目にあうかといつも恐れていた。
「テニス部の男の子、袖星くん? 好きなんでしょう?」
「あ、え、え、え……そ、そのっ、ど、どうして」
 息もつかせぬ図星に次ぐ図星で、部長が同じ理由で剣道を始めていたという過去を飲み込むにはまだ時間がかかりそうで、ほくとは慌てふためくしかない。
「分かりやすいわね」
「あ、え、うー…」ほくとはまた顔を真っ赤にして呻いた。いつも剣道の阿波野しか知らないから、普段、凛として峻厳な人に色恋話をするのが本当に告白でもしているみたいで気恥ずかしかった。
「実は今日の試合、彼を招いたのも、彼が見ていればとても良い試合をすると思ったからなんだけど、逆の効果になってしまったみたいで……悪いわね」
「――え……私のため、だったんですか」
「袖星くんもね、満更ではなさそうだった。私から見ても脈ありだと思うのに」
「……でも、袖星くんはきっと部長のことが……。それに、だって、部長の試合だけ……」
「律儀すぎる子なのよ」
「そう、ですね」
「あの……その、部長が好きな人って今は」
「もう剣道やめちゃって。何年も見てないわ」
「え、なら……」
「剣道続けているのが不思議?」
「は、はい」
「剣道だけではないけれど、始める理由と続ける理由は別物なのよ」
「続ける理由……」
「でも、始めた理由に嘘があったり、今みたいに揺らいでしまったら、続ける理由をもつ前に止めてしまうの。いい? 剣道というのはね、初めの理由で続けられるほど甘くないし、続ける理由で身につくほど浅くないの。私はあなたにはその素質があると思ってるんだけど?」
「は――はいっ」
 ほくとは久しぶりに大きな声を出して返事をした。もう、心から迷いが立ち消えていた。このすっきりした気分は泣いたからだけじゃないと思う。
「先輩、明日から……よろしくお願いしますっ」
 ほくとの心身は完全に改まっていた。袖星のことで恐々、弱虫になっていたほくとはもういない。気高く変身した剣道少女の姿があった。
「私は一度学校に戻るから、また明日ね。気をつけて帰りなさい」
「部長も……実は、赤目校の人、けっこう根に持ってるみたいなんです」
「そう、放っておきなさい」
 まるっきり他人事のように言う阿波野に深く頭を垂れると、ほくとは道を分かれた。その可愛い後輩は、すぐに戻ってきた。
「あ、じゃあ、部長は今、彼いるんですか?」
 洋子に大きなため息をつかれた計算は微塵もなく純粋な好奇心でほくとは尋ねた。
「残念ながら、ね」
 強くて優しくて凛々しい美しさの阿波野のことだから言い寄る人は同性までいそうなものだが、袖星の言ったとおり、どうやら阿波野の前では緊張してしまうようで、手が出せないのだ。

 練習試合から二ヵ月後、ほくとの腕はめきめき上達していた。練習試合の日から一夜明けて、部長からどんな空気を入れられて変貌したのか洋子はもちろん教えてもらっている。ほくとは成績はいい。だけどインテリの宿命という奴で、自分を完全に納得させる動機をあれこれつけなければ動けない性格。この変化は誰をしてもどうだと言わせる。
「袖星くん、おはよっ」
 あのほくとが袖星を相手に気軽に肩を叩いて挨拶している。これだけのことができるようになっているのに、まだ付き合い始めてはないそう。実は袖星から相談を受けている洋子、ほくとの性格の変わりぶりに一番、戸惑っている。告白の成功も、今なら押せば倒せるくらい簡単。それなのに、ほくとは当初の目標を変えていない。
「部長に勝ったらするってば〜」
「部長部長って、ほくちょ最近部長のことばーっか。袖星くんよりも大切みたいだよ」
「二人とも大切だもん。よっこも合わせて三人」
「やれやれ、ありがとさん」
 日は県大会選出を決める市大会の直前。久しぶりの稽古休み。学校帰り久しぶりに二人羽を伸ばして繁華街で遊んだ……太陽はすっかり暮れて、終電で地元駅に帰りついた。夏とはいえども夜道。年頃の女二人が歩くには少し危険なご時世。竹刀を持って少し度胸がついたよう。土手沿いに吹く湿った夜風が気持ちいい。
「あれ」
 と洋子。大分前を歩いている人に心当たり。じっと凝視して、間違いがない。
「部長じゃない?」
「え?」
 いかにもその通り。剣道着の阿波野が100メートルくらい先を歩いている。手に、物騒な……木刀を携えている。
「なにやってるんだろ、こんな時間に」
「ははーん」と洋子のアンテナにはピーンと受信するものがある模様「いつもはお堅い剣道部の部長。目前の大会は最大の注目選手。ああ、この限界まで膨れ上がったプレッシャー、愛しの人、私を抱きしめておくれ……なーんて、どうどう?」
「問題外。大体、あの木刀はなによ」
「そりゃ、カモフラージュじゃない?」
「そんな姑息な真似するわけないよ」
「――確かめてみよっか」
「つ、尾けるわけ?」
「まだ遊び足りないしー」
「尾行なんて遊びじゃないよ」
「じゃ、いいよーだ。あたし一人で行くから。ほくちょのだーい好きな部長がどんな人と逢引してたのか、見てこよーっと」
「あ、もぉ……待ってよ」
 こそこそ、と二人は尾行を開始した。何しろ稽古中は後ろにも目があるとまで言われるから、慎重に慎重を重ねた。寝込みでも隙のない部長のこと、不用意な足音の一つで感づかれる恐れもある。二年の先輩から聞いた話、昨年の夏合宿のこと……夜深く寝静まったところ、突然、落雷のような気合が道場中を切り裂いた。すわ、新手のシゴキかとおっとり刀で電燈をつけてみると、木刀を持った阿波野の足元に首と胴を切り離されたネズミが転がっていたという。
「目の前でネズミがお供えをかじってるのに、他に気付かなかったの!?」
 神棚でおいたをしたネズミを切り殺した阿波野、当時、二年でありながら三年も含めた全部員の上にカミナリを落としたという……。
 抜き足差し足忍び足……これが体力を使った。部長との距離は開く一方。かれこれもう橋を二つ通り過ぎた。やっと土手を降りて、街灯まばらな住宅街を行く。コンビニの前を通過。ほくとと洋子が、そこを通ったときコンビニにたむろしている若者がなにやら大笑いしていた。討ち入りとか果し合いとかなんとか。むっとした。
 住宅街も過ぎ、森林が目立ち始めた。この先はもう地元の人でも滅多に寄らない神社しかなかった。何しろ階段が百段以上ある。思わずほくとと洋子は顔を見合わせる。バックから虫除けスプレーを出して噴射。ここまできて帰るなら、とっくに帰っている。暗い階段を、一段二段……七十段――。
「チィィヤァァッッ!」
 心臓を丸ごと抜きそうな、とんでもない気合が上からやってきた。世界中の人間にも届いてしまいそうな、今まで、耳にしたこともない大きな音だった。ここから上の段へは、分厚い音の層を一段、また一段昇ってゆく苦行だった。びりびりっと、背中さえ震わせる。目線がやっと階段の頂を超え、阿波野がなにをしているかが一目瞭然。素振り。近くには他、誰もいない。逢引どころか、その顔は敵に向かうよう。到底、声をかけられない。声をかけ、居所を知らせようものなら瞬く間に斬りかかってきそうな迫力だった。
 これまでどの太刀筋を見ても生半可なのはなかったが、最後に一際鋭く力強い振りをすると正眼に構え。すぅっと深呼吸。構えを解く。
「気は済んだ?」
 と阿波野。とうに尾行に気付いていた。
 きゃっと驚いてどの面下げていいか、わからないといった風にすごすご出てきた二人を阿波野はねめつけた。竹刀でも恐ろしい阿波野が木刀に持ち替えていれば、誰も、平蜘蛛のように謝っても根性なしとは呼ぶまい。さっきの今、剣気凄まじさは健在。コンビニの前でたむろっていた者など我先に逃げだしてしまうに違いない。しかし、それは剣道というか武道本来の道ではない。通じたか阿波野。大地に深く息を吐き、あれほどの威圧感はどこへやら。
「こんな時間に、なにをしてるの」
「あ、あの、帰る途中……部長を見かけて……部長こそなにしてるのか、気になって、それで……す、すみませんっ」
「なにを期待したか見当つくけど、ただの夜稽古よ」
 時刻は深夜一時を回って、自主練の域を超えているのに、ただの、と断ったところ、この稽古が阿波野には特別なのではなく常態化しているものだと示していた。侍時代の剣術家じゃあるまいし、女のたしなみには程遠い。二人呆れて声も出ない。なにせ境内には学校指定の鞄があるから、この稽古から直接学校に向かおうとする魂胆まで見え隠れしているのだ。
「いつも……こんなことをしてるんですか」
「週三、四回ね」
「こ、こわくないんですか……真っ暗でこんなところ」
「そうね……二人とも離れて目を瞑ってごらんなさい」
 え、とほくとと洋子は見合った。なにせ今でも少し怖いくらいだ。特に洋子、意外にも暗闇が少々苦手。もっともそんな恐れは、阿波野が木刀で石畳をコツコツ叩くだけで吹き飛んだのだが。
 ほくとと洋子の間隔およそ十メートル。中間地点に阿波野が立つ。コツコツと石畳を一定のリズムで鳴らす。深夜、森の中の人気ない神社で視界なく、この音は、同じ条件を恐れない人が垂らしてくれた命綱のよう。
 コツコツ……コツコ――その音が突如、切れた。
 途端、暗黒が渦巻状になって足を、ぐいっと引っ張った。命綱が切れ、闇の底へまっさかさまに落ちていく。風が吹いて、木立がざわざわと嘶く。風とは別、野良猫か、茂みをがさっと揺らす。頭の中で知っている自分の心が、なぜか途轍もなく大きくなった。どうしても全貌を見れない。心は丸くてすべすべして、凝視していると脳の表面がざらざらした。わけが分からなくなった。天も地も前後上下左右、絶対も相対もなくなった。目を背けても、どこを向いても、囲まれていた。この恐怖に負けて、とっくに目を開いても良さそうだった。でも、できなかった。見張られているからじゃない。目をどうしてもはなせられなかった。
 コツコツ、コツコツ――音が再開した。「ゆっくり目を開けなさい」
 さっきまで繁華街で遊んだ楽しい記憶なんて、どこかに吹き飛んでいた。冷や汗を肌中にかいて、胸の鼓動は止まらない。思わず息を呑む。怖かった。境界も中心もない世界に片足を突っ込んでいた。まだ余韻が残っている。目端に入った中くらいの木、それが傾いて倒れてくるように思えた。
「最初はその十倍くらい怖かったわ。でも、続けていくうちに慣れれば、夜の趣も分かるようになる」
「こんなの――慣れっこなんてないですよ」洋子は息も絶え絶え、ほくともふらついている。
「そうね」と阿波野は極めて珍しくも、少し残念な顔をして見せた。それは本当に一瞬のことで夜の見間違いとも考えられるほど。すぐ後には「家まで送るわ」と柔和に優しかった。
 こんな時間までなにしてたの! と夜道を送ってくれた阿波野にお礼を言った顔を百八十度変えて、ほくとにも洋子にもそれぞれ母親からのカミナリが落ちた。あの夜闇の恐怖と慄きと種類は違えど、覚悟していたよりは呆気なかったと感じられた。
 その日の放課後の阿波野も夜稽古をしていたなどとは誰に話しても信じてくれないほどだった。今日ばかりでなく、これまで、いつしていたのかも分からないくらいだ。
 同じ日、稽古が終わって解散前の集会で顧問の小島から大会の個人戦組み合わせ表が、発表された。洋子とはかなり離れたところにいるほくとは忘れようとしても忘れられない名前ふたつに挟まれていた。
「桜井さんとだわ」
「二回戦は?」
「……部長と」
「あっちゃー」
 いかにもその通り。ほくとは一回戦、練習試合で完敗した赤目校の桜井と当たる。雪辱を果たせば、シードの阿波野部長と絶対に当たる……。もう部長と稽古できる日は幾日もない。この大会のどこかで波乱があって負けるようなことにでもなれば、三年生は即引退。進路の問題で道場に顔を出す機会も少なくなる。大会という公式の場で部長と竹刀を交えるのは最初で最後。舞台は整った。ただし、戦力の差は否めない。諏訪を戸惑わせるほど上達したにせよ、阿波野とは雲泥の差。
 ――勝ったら告白。
 あの豪語が、あまりにも実現性低いものというのは、ほくとが一番身に染みている。かつて阿波野を本気にさせた覚えがない。大会まであと三日、付け焼刃ではどうにもならない。
 ――星の取り合いなら話にならない……それなら。
 散会が告げられると、ほくとは走った。洋子にも行き先を告げなかった。それが部長に勝てる秘訣とは思わない。
 ――練習試合で部長が見たかった私の剣道をするなら。きっとこれしか、ない。
 道場近くのテニスコート。パコーンパコーンという音はまだしている。たった一人の練習。最近は、少し疎遠だった。昔は緊張してろくにできなかった挨拶も、今では毎日欠かさない。けれど、どこか遠かった。今ならわかる。あの時は拙いけれど、通じ合っていた。意識しあっていた。でも、今は――?
「袖星くん」
「あ……織内さん」
 テニスボールは袖星の手をすりぬけて、ネットまで転がった。どちらも、そんなものに目をやらない。覚悟を決めてやってきたのだと、いくら鈍感な袖星でもほくとの顔を見れば分かる。
「三日後にね」
「うん」
「試合があるの。部長と当たるかもしれないの」
「うん」
「だから、ね。――来てほしい。私の――私の姿、見ていて、ほし……ぃ」
「――必ず……行くよ。絶対に」

 試合当日。市教育委員会、剣道連盟のスピーチの後、前回優勝の阿波野が宣誓をし、始まった。体育館に四面あつらえられた試合場。同じ学校から、まず狭山が勝った。洋子が勝った。諏訪が勝った。ほくとの出番は一回戦最終試合。調整の時間はまだ少しある。試合を終えた洋子、
「あー、緊張したっ。勝手いつもとぜんぜんちがうわー」目を回したように言う。
「デビュー戦勝利おめでとー」
「いやー、あはははは。ありがと。でも、ここまでかなあ、次、桐生校の三溝さんだし」
「ね、袖星くん……どこにいたか分かった?」
「うーん、結構、人多いよねえ」
「――うん。でも、きっといる」
「出番になったら、声くらい聞こえるかもね」
「へー、あんた余裕だね」どこかで聞き覚えのある声。この横柄な態度はまだ改まっていないよう。桜井だった。「男のこと考えるなんてさあ」
 桜井もこの大会に普通とは違った目的を抱いている。阿波野は市大会を勝ち抜いて、県大会を優勝し、全国へ行くという目的。昨年以上の結果を出せば推薦を確実に物にできる。ほくとは部長との戦いにすべてを賭けている。上手くいえない。単純なものを部長にも袖星にも見てもらおうとしている。そして今またもう一人、桜井は部長門脇の仇討ちを計っていた。一回戦の相手は練習試合で圧勝した織内、目標の阿波野とは二回戦で当たる……組み合わせ表を見た桜井は運命さえ感じた。
「あんたのところの部長はあたしが倒す」
「桜井さん、なにしてるの?」
 一足飛びにほくととの試合の勝利宣言をしていた桜井に、門脇が声をかけやって来る。右手首からギブスはまだ取れていない。
「いえ、ちょっと挨拶を」
「――そう。あ、織内さんに遠山さんよね? 阿波野の調子はよさそう?」
 二ヶ月も前に自己紹介もしていないのに、門脇は二人の名を覚えていた。物腰も阿波野のように柔らかい。桜井とはまるで違う、誰にでも安心感を与えてくれる。
「はいっ。きっと全国に行っちゃいます」
「……あなたたちも調子よさそうね。お手柔らかに頼むわ」言い残すと、門脇は桜井と去っていった。「桜井さん、甘く見ちゃだめよ」と念を押すようなアドバイス。
「大丈夫ですよ。練習試合で圧勝したじゃないですか」
「一年生は二ヶ月あれば別人のように上達するわ。阿波野に鍛えられたならなお更」
「……私が負けるって思ってるんですか」
「心配なのよ」
 桜井はその忠告を聞いたか聞かぬか分からない風で、そのまま試合に臨んだ。
 一回戦最終試合が始まった。注目カードなどではない、どこにでも転がっている普通の一年生同士の試合も、選手にはお互い、阿波野と戦うためにはたとえなにを積まれても絶対に譲れない試合だ。ここで勝って阿波野と戦う、二人の共通分母はただこの一項のみ。白熱しないわけがない。
 試合は桜井が壮絶な打ち合いを仕掛けて始まった。桜井得意の連続攻撃が迸る。無気力だった練習試合では両手がこんがらがって丸ごと空いた面と胴を取られて終わった。しかし、二ヶ月の稽古と十分な気力、絶対に落とせない試合ということで生まれた集中力が桜井の太刀筋を丸裸にした。
 ――見える……分かるっ。
 予想に反して一分経過しても有効打を取れなかった桜井は焦った。部長の手首を壊されてここまですっかり頑なになったとしても、さすがに分かる。相手は昔の織内ではない。同じ学年の奴に速攻の合間に反撃されたことは数えるくらいしかない。まして、竹刀をすり抜けて防具に達したことは初めてだった。面打ちを、首を傾げてかわして、肩に当てさせて有効打から逃れる、スポーツ化したが故の命拾いだった。その威力も打ち所をずらしたというのに、衝撃が指先まで届き、竹刀の握りに緩みが生じるほどだった。決して豪打だったわけではない。気力が乗っていたのだ。握り、踏み込み、速度、体重の乗せ具合、力の加減、発声、足の裏から上り立つ酸素の流れ、血流、視線、意識、全てが渾然一体になった一撃をぎりぎりにしろ避けえたのは偶然としか言いようがない。さもなくば、わざと外したのか。
 ――たしかに少しは上手くなっている。けど、稽古なら私だって同じ時間!
 リャアアアッと桜井。引きの姿勢では出っこない気合で威圧。少しでも堅くなればいい。執拗な連続打ちで隙をこじ開けて一本をもぎ取る気だ。
 ――なにか狙ってる!
 ほくとは予感した。先ほどまでの攻めとはどこかが違う。どこでも空いた隙に打ち込める手の早い桜井が一点を狙っての隙作りを仕掛ける。
 ――面? 突? 胴? ……篭手?
 篭手だ。間違いない。二ヶ月まえの桜井はどの部位を狙った振りも実に平均的であったが、今日は篭手が際立って鋭かった。よほど鍛えこんだようだ。その篭手を阿波野に向けようというのだろう。門脇部長の無念を思い知れとでも言う風に。
 ――されるもんか。させるもんか、そんなこと!
 この篭手が阿波野でも危うい出来であれば、ほくとに逃れる術はない。が、ほくとの胸中を占めたのは、
 ――そんな邪な剣を部長に向けさせてたまるもんか!
 という武本来の意味での庇護の精神だった。
 桜井の太刀裁きが一段と回転を上げた。もう、これ以上は防ぎきれない。前に出る。この瞬間を待っていたか桜井。篭手を放った。ほくとの読み通り。読めても反応が追いつかないところまで読み通り。
 桜井の出足を追い越す踏み込み、握りを集中。間一髪で鍔迫り合いに持ち込んだ。すぐさまぐっと押し合いが始まる。横対横の力比べではほくとに不利も、ちょっと角度を変えて下から掬い上げるように押し上げれば、桜井の身体は持ち上げられたようにバランスを失った。更に一押し。理想的な間合いだ。ほくとの体勢は十分。桜井は不十分。
 ――まずいっ。
 心配な後輩の試合をじっと見守っていた門脇は決定的な危険を感じた。
 ほくとは躊躇せず足を出す。
 ――こいつも篭手かっ。
 桜井の判断は間違ってはいなかった。同じ場に立てば誰もがほくとの狙いは篭手と読んだだろう。それが、変化した。篭手が面に。諏訪からも一本を奪った、ほくと最高の技。パァーンという弾けた音。どんな素人でも面ありを取る。副審二人主審一人の持つ旗が一斉に揚がった。
「面あり! 一本!」
 桜井は片膝をついて、自分が取られた一本を信じられないでいた。呆然。竹刀の変幻の妙も信じられなかったが、楽勝とたかをくくった相手に脳天に見事な一撃を決められ、理性が飛んでしまっている。
 二本目は直ちに始まった。理性まだおぼつかない桜井に対し身体は正直な反応を起こした。桜井は調子に乗れば怖い一方、一度、攻撃の波が止まってしまうと疲れは一気にやって来る。一本目動きっぱなしの桜井を襲った疲労は濃い。対してほくとは、今か今かと狙っての会心の一撃だった。勝敗は決したに等しい。桜井は声を上げたが、怖気を必死に隠そうとしている虚勢は明白。竹刀をそっと横に打って開いた面に左から回りこんでもう一本。旗は再び上がった。
「ぃやったね、ほくちょ!」退場したほくとを洋子が出迎える。
「うんっ」会心の勝利を得たほくと、にっかりと笑顔。
「袖星くん見つけた?」
「うん……」
 桜井との二本目はそこまでの余裕があった。二階席の前列。かなりいい席だ。四面の試合場のすべてが見渡せる。どこで戦っても、袖星くんが見ていてくれている、ほくとは一安心。
「二回戦、まだあるから、会ってきたら?」
「う、うん」
 大会中に不謹慎かな、と思いかけたが、部長との試合前に景気付け、気合を入れるためにもほくとは足を向けた。洋子、邪魔をする恥知らずじゃない。
 階段を上って廊下を歩く。円形状の競技場、廊下と広いベランダは窓ガラス隔てられている。各校の選手はそこで準備運動に余念がない。
「ね? やっぱり三溝さんだったでしょ?」
 と別の学校の選手がひそひそ話をしている。なんだろう、と向こうに目をやる。ぎょっとして、つい足を止めた。ベランダに部長が、男の人二人と話をしている。一人は教師風の男、もう一人は阿波野よりちょっと年上の、かっこいい人だった。彼らの周囲だけ人がいない。遠巻きに見ている人だけは随分いて、噂話の震源はここのようだ。
「あの人、三溝さんだよ」
「三溝さんって?」
「去年の日本一」
「うっそ。なんで、そんな人が市大会なんかに」
「妹が大会に出てるじゃん」
「えー、それより阿波野も白倉実業志望だからじゃない?」
「あ、そうかも。妹の応援にしては、あの二人、お似合いって感じ」
「言える言える。阿波野も案外隅に置けないねえ」
 ふん、と鼻を鳴らしそうな勢いでほくとは観客席の中に飛び込んだ。辺りを見回して、袖星の後姿を見つけた。
「袖星くんっ」
「織内さん……見てたよ、さっきの試合。まるで剣豪小説みたいだったよ」
「あ、ありがとう……次の試合、がんばるからね」
「阿波野先輩と、だよね」
「うん」
「勝てそうかな」
「――ううん。きっと無理だと思う。でも、がんばるから。一生懸命やるからね」
「大丈夫。ちゃんと見てる。だから――」
 がんばれ、という袖星の激励を受けたほくとに、もう後顧の憂いはなくなった。阿波野がどこの誰と、どういう理由で会っていようと関係ない。今日はほくとが期する剣道をするのみだ。
「あ、あれ洋子だ」
 ブザーとアナウンスと共に二回戦が始まった。洋子の相手、桐生校の三溝は白倉実業の昨年の全日本剣道大会優勝者、三溝幸司の妹。今大会、阿波野に食いつけそうな唯一の選手と囁かれているだけあって、ほくとと袖星の応援も虚しく洋子はあっという間に二本を決められた。強い、が、控え目に見ても阿波野の敵ではないようだ。
「じゃあ、私もそろそろ行くね」
「ああ、がんばれっ」
 二回戦の進行に滞りはない。大波乱もなく各選手は順当に勝ち進む。
 ついに、その時。二回戦、最終試合。
 阿波野滝子と織内ほくとの試合が始まる。組み合わせの関係で、他の三面の試合場は空いている。そう、この試合、他で試合をしている者はいないのだ。各校の実力者たちは今年の阿波野の仕上がりを計るものとして虎視眈々、この試合から目を離さない。
「今年は万全の体調のようだ」
 とさっきベランダで阿波野と話していた教師風の男。関係者優先席で呟いた。隣の三溝、頷く。去年の阿波野、県大会優勝を落としたのは、女の持病のせいだった。それ、阿波野は意外と重い方。今大会はその周期と外れている。県大会の日程もそうだ。
「阿波野の相手、織内……ですか。ちょっと面白そうな相手ですね」
「ウム。一年子というのに気後れしていない」
 この試合の主役二人、とうとう場外線を越えて試合場に入った。距離が縮まる。稽古でも模擬試合でもない。他校の生徒、沢山の観衆、そして袖星のいる最高の舞台。ほくとは仰ぐ。体育館の水銀灯の光り――いつからだろう、とほくとは思った。いつから、袖星くんに告白するための準備にこんなことになったんだろう、と。握る竹刀に目を移す。――こんな武器まで使って。
「礼」
 主審の言葉に従い、浅く礼。――でも、もういいの。姿勢をまっすぐにして、つま先から頭まで阿波野を見る。――私、きっと剣道が好きになってるから。阿波野はもう公式戦のそれ。誰であろうと容赦しそうにない。竹刀を剣に、身体も剣に、目も剣に。――阿波野先輩、袖星くん、見ていてください。蹲踞……竹刀が浅く交錯する。
「はじめっ!」
 阿波野の剣は桜井の比ではない。速さ、重さ、切れ、どれもが段違い。更には呼吸も深い。見た目やイメージほど軽くはない竹刀。耳元をかすれば唸りも感じるそれを小枝のように扱う。かかり稽古では、気を抜いた部員の竹刀を抜きすぐさま反撃に移るように、その技術は阿波野の十八番。下手な反撃は逆効果。攻防どこにも死角はない。この一戦が、一戦だけで片付くならほくとの覚悟など微塵も発現しないまま、すべては終わっただろう。しかし、この試合に勝っても次の試合、次に勝っても次の試合と続く。ペース配分という戦略を無視できない阿波野と、ここで終わってもいいんだという覚悟のほくと。戦いの展開は正しく、大会という特殊な条件下での経験を持つこの差から始まった。
 ――去年と同じ成績が最低条件だ。どんな内容であっても負けは考慮されない。
 さっきのベランダはスポーツ推薦の話だった。県大会準優勝以上。それで剣道が盛んな白倉実業への進学は決まる。阿波野の実力から言ってなんてことのない条件に思えるし、これしきで緊張を抱える下手な精神修行をしているわけじゃない。が、試合というものは蓋を開けてみなければ分からないもの。この大会、大波乱は起きていない。それが逆に恐ろしいものだ。
 阿波野の竹刀が止まった。ほくとの守りが思いの他堅かった。打ち破れない構えでは決してなかったが、相当の体力を費やしてしまうだろう。勝っても残り三戦。決勝は恐らく三溝妹と当たる。ここは体力の温存を選んだ。消極的に見えるこの策、実はこれが恐れられた。じりじり、と一見試合場の二人は一定の間合いを保っているように見える。が、全体を視野に入れると景色は一変している。
「場外!」
 ほくとは、えっとした。観客はおおっと沸いた。ほくとの両足は場外線を飛び出していたのだ。いつのまにか! 阿波野の真骨頂、威圧。地に足を打ちつけているつもりでも気付けば場外に出されている。威圧に耐えかね、打って出てもその一瞬を練習試合での門脇のように狙い撃ちにされ、残った打開策として気を吐いても、女一人で人気のない神社での夜稽古をして培った心胆はびくともしないし、この威圧はいくらでも続けられる。
 中央に戻って一本目再開。引き続き阿波野は威圧を続ける。場外三度で一本を取られる勘定。ほくとはまだ一度も手を出していない。
 壁だった。阿波野からほくとへ壁が押し寄せてきた。もう、後ろ足は場外線に触れている。これ以上は下がれない。ほくとはなんとかして耐えようとした。汗が垂れる。呼吸が続かない。酸素を出し入れする呼吸運動に、ほくとの中に溜まってゆく不安、焦燥、恐れ、ネガティブイメージを吐き出す作業を兼任させ、一呼吸一呼吸が大きくなっていく。やがては処理できないほど膨らむ。こうなってしまうと構えもなにもない。これまで阿波野の竹刀を、糸で通じていたかのように防ぎきっていた竹刀は一センチほども動いていないというのに、軽く一本を取られてしまうのだ。
「面あり、一本!」
 この一本にほくとは尻餅をついた。実際にはこんな格好でへたり込んでしまうような強打ではなかった。ぽこん、と人を馬鹿にしているような、友人同士がつっこみのようによくやるチョップのようなそれだった。
 強い。強すぎた。すばしっこい、竹刀の出入りが早い、誘いかけて迎え打つ、守りが堅い、身体が大きい、そういうものなら剣術の領分で補える余地は残されている。が、見えない相手だったらば? それは剣術の領分ではないだろう。
 こんな逸話がある。
 ――おまえさん、今ここで屁こけるかい?
 かつて高名な剣術家に道場破りがやってきた時のこと。玄関先に上がった相手にこう言ったという。
 ――おいらの親父が言ってたよ。喧嘩の前に屁がでりゃあその喧嘩はどうやったって勝ちだが、どうひねっても出ねえなら、とっととケツまくったが一番ってよ。どうだえ、今こけるかえ?
 その剣術家の豪快な一発を前にして道場破りは真っ赤な顔をして逃げ去ったという。
 どれだけ積んでも術だけでは埋まらない差が武道にはある。阿波野の威圧はこれを転化させたものだ。堪えよう堪えようと作戦を立てて堪え得る安いものではない。これを堪えるには阿波野がここまでの威圧を放てるまで鍛錬に打ち込ませた理由と同じだけの重さを持っていなければ駄目だ。この威圧にも平然といられるには、阿波野以上の想いを持っていなければ駄目だ。剣道でなくてもいい。引かない心。想いに純一になった心しか、唯一、阿波野の威圧を斬り破る剣となる。
「二本目、始め!」
 阿波野を知る者にはもはや、試合の行方は尽きたも同然である。あの展開は阿波野の必勝パターンだ。一本が二本取ったも同然のショック。腑抜けになってどうでも料理できる。試合中に立ち直れる者はいない。立ち直る時間もくれない。
 阿波野の威圧は膨張を続ける。もう試合場内のどこにも届いていないところはない。ただ一点だけ隙間はあった。隅も隅。角だ。横にも後ろにも逃げられない。そこにおびき出そうとしている。ほくととて好んでそんな袋小路を選んで避難したのではない。だが、完全に支配されてしまっているのだ。幾度かの部長との稽古、自分がどうしてそう動いていたのか分からない、振り返ってみれば凡ミスとしか言いようのない不注意も、阿波野にとっては至当の展開。支配者が掌中の物を転がすが如しだ。上達して、どうしてそんな風に動いてしまうかの見当はついた。しかし、頭のいいほくともそれを打破する発明まではできない。だったらもう開き直るしかなかった。結局は誘き出されたのかもしれない。だが、ほくとは初めて自分の意志でその地を踏んだ自信があった。角だ。死中の活、背水の陣……そんな言葉、一生生きても絶対に縁がないと思ってた。
 ――あぁ、こりゃだめだわ。万事休す。
 洋子だけではなく、大抵の観衆はそう見ていただろうが、白倉実業の顧問と三溝の強者は座を改め、食い入るようにその展開を注視した。織内の引き方に迷いがなく、立ち位置はまだ阿波野の占領地域ではないと察知していた。試合はまだ決まっていない。
 ――まだ……。
 ほくとは初めて自分の中に不屈を感じた。最初っからあと一度は場外を犯せるという計算はない。
 ――まだ私、なにもしてない。
 勝てっこない。負けるに決まってる。でも、負けるにしても負け方がある。意地がある。また一本目と同じような情けない負け方をするくらいなら、袖星に来てもらった甲斐がなくなる。あの体中の勇気を振り絞って打ち明けたのはなんだったのか。袖星は、願い、願い続けていても言い出せなかったほくとの、あの勇気に打たれて来てくれると約束してくれたのではなかったか。絶対と、必ずと! 必ずとは常に、ということ。一瞬一瞬の連続を必ずする。常にする。
 ――袖星くんは来てくれたのに。部長も全力できてくれてるのに。私だけ、これだけで終わっていいはずないっ。
 ぐっ、と阿波野の威圧の侵攻が鈍った。いや、鈍ったのではない、受け流されている。
 ――あの時の勇気を、私だって必ずしないと!
 ほくとの内側から迸る勇気が、竹刀の握り、姿勢、構え、視線、集中力……どれもが自身の最高潮と思えた一回戦を超えた。
 阿波野にしてみればとんだ誤算か皮肉だった。二ヶ月前の練習試合の企てが、この時になって自分に跳ね返ってきたのだから。袖星が後ろで見ている、応援してくれている。剣道を始める理由になった人が傍にいる。あの時はまだ持っていなかった続ける理由は、剣道が好きだから、という外からでは動かしがたく理想的なもの。阿波野は強敵の出現を了解した。
 ほくとが角に立って二分が過ぎた。館内はどよめきに包まれている。あの阿波野が手を出せない。火花散る睨み合いが続いたが、さすがは試合巧者の阿波野。体力の温存を優先して威圧作戦に出たように、威圧作戦の効果がなくなったと悟ればこだわらず他の引き出しを開ける。構えを中段から上段に変えたのである。更に胴っ腹に隙を見せる。明らかな誘い。身長差、竹刀の長さ、振り下ろしの速さを跳ね返して一本を取り返す技術を三ヶ月で習得できるはずがない。これまでとは異質な、現実を見せ付ける威圧作戦だ。
 ――よく、そこまで強くなった。けれどここは剣の術理を競う場でもあるのよ。
 試合場から阿波野のあれほどの威圧感は嘘のように霧散していた。ほくとの身体ものびのび動く。その感動さえも阿波野の罠。調子に乗って仕掛ければ、現実に敗れ去る。胴はいかにも大口を開けているが、攻めにいった後の結末がありあり予想できて、ほくとは引いてしまった。場外線ぎりぎりで踏みとどまる。高く、遠いところから阿波野の竹刀が狙いを定めている。阿波野にフェイントは通じない。気の調子を読んで真偽を見事見抜く。
 ――考えちゃだめだ。私の目的は勝つことじゃない。
「ウァァアーーッ!」
 ほくとは全身全霊を込めた。計算も何もない。前に出る。一切合財がそれ一つに集中した。迎え撃つ阿波野の竹刀が振り下ろされる。真っ直ぐに、中心を……桜井のように顔をかしげて肩を打たせるような真似のできない、真に中心を狙ったこれ以上ない一撃だ。その一撃、辛うじて防いだ。竹刀とは思えない圧力だった。馬鹿でかいハンマーを投げ当てられたようだった。たった一撃で腕が痺れた。一本はまだ決まってない。今、鍔迫り合い。桜井とはこれも比較にならない。一瞬、引いたと思ったら引いた分の反動でほくとは弾き飛ばされた。これくらいで、諦めない。
 ――強い娘が好き。
「ほくとっ、負けるな!」
 誰がそう言ったのか。洋子じゃあなかった。男の人。知っている人の声。確かに勇気をくれた。
 ――袖星くんっ!
 阿波野がとどめを刺しに来た。構えは中段。振り上げられる。面か篭手。振り下ろされる。ボッと光が出そうな竹刀がはしった。
 阿波野の竹刀はほくとの面を寸分の狂いもなく捉えていた。当たる瞬間を予見し、握りを増した刹那だった。袖星の檄に背中を押されたほくとの竹刀が、逆に阿波野の篭手を打ち据えていた。その伸びきった姿勢で審判が有効打と認めるかは怪しいが最悪のタイミングだった。
「場外! 場外だ、二人とも!」
 主審が割って入った。今度は観衆誰も彼もが、ええっと落胆の声を落とした。残念ながらこの打突、ほくとの足が場外にはみ出していた。鍔迫り合いで弾き飛ばされた時から既に場外だったのだ。両者、そんな些事には露ほども気付かないくらい熱中していた。
 だが、異変はこれで終わらなかった。
「阿波野の左手、無事でしょうかね」
 最後の篭手打ちが三溝は気にかかっていた。力を込め、手首が伸びきった瞬間に入れられた。あれは最悪のタイミングだ。そこまで見ていた者は十人に満たないだろうが、一人歩きした竹刀の勢いに手首が持っていかれていた。人体を壊すのに力はそういらない。タイミングと角度と的確な場所で足りる。あの篭手打ちで、悪くすれば阿波野の骨は、
「無傷ではないようだ」
 中央の開始線に戻る合間に阿波野、さりげなく左手首を確認していた。
 再開して数秒後、二本目時間一杯。決着は三本目に持ち越された。
 ここまで阿波野が一本、場外はなし。ほくと既に場外を二度。後がない。
 三本目、ほくとは楽な気分になっていた。なんとなく、阿波野の竹刀が柔らかくなっているのを感じたからである。竹刀の先まで漲っていた気勢の循環が、どこかで支障をきたしたか停滞気味になっている。これなら打ち込める、ほくとは実感した。小手調べに竹刀を打ってみる。巌鉄だった守りは、熱せられてペースト状になった鉄のように打たれた分だけ変形した。
 ――いける!
 この時、ほくとは阿波野が負傷しているとは夢にも思っていなかった。なにせ、さっきの篭手は気持ちこそ十分だったが、吹き飛ばされて直後の不安定な姿勢から無理に打ったから、身に覚えがない以上、よもや阿波野の左手首が深刻な深手を負っているとは見てみるまで納得もできないだろう。
 では、どうして急に打ち込めるようになったのかも考えなかったのか。然り。二本目の最後の篭手は、初めて阿波野の急所に触れた。手が届いた。千載一遇の好機。ここで攻めずにいつ攻めるのか。夢中で攻めている。ほくとに考える暇なんて一秒だってなかった。
 ほくとの剣術は洋子や桜井のように目まぐるしい速攻を用いない。愚直なまでに一撃一撃に徹する。それだけに重い。阿波野の手首は打たれるたび悲鳴を上げた。顔も時折、苦痛に歪む。防戦一方の阿波野など市大会如きでは見られるものではい。観衆の胸に期待が高まり……一体どれだけ打ち込んだのか。なんとかここまでしのいだ阿波野だったが、無限に止まない痛みの前に屈したか、構えが崩れた。どこを打っても当たる。
「胴ァァァッ」
 ほくとの竹刀が阿波野の胴を切った。気合、姿勢、刃筋、部位、残心、どこを取っても申し分のない一本だった。旗が揚がった。途端、館内は騒然となった。阿波野が一本取られた場面など初めて見る者も少なくないのだ。これだけでも波乱も波乱、大波乱。
 試合は延長戦に突入した。ベランダで調整していた他校の部員たちにも噂が届いて、館内に戻ってきた。大会参加者、関係者全員がこの試合の結末を見届けようとしていた。
 ほくとは一本を取って落ち着いたか、ようやく阿波野の異変に気がついた。自分の土俵に引きずり込んで、自分の剣道をしたにしても話が旨すぎた。相手は阿波野。どう間違っても胴に一本を入れる前、身体があんなにも泳ぐわけがなかった。
 まるっきり無名の一年が大金星を一気に奪うかと思われた延長戦は躊躇いが明白に見て取れた。二、三度打ちに行ったが続かない。逆に身体を硬くしていく。ほくとは阿波野がどちらかの手首をやってしまったのだと察した。
 これはチャンスだろうか。残念ながらほくとは阿波野に勝とうとしてこの場に立っているのではない。一年生で試合という真剣勝負の一年生でもあるほくとの剣道に怪我人を打ち据える非情さはまだない。袖星に自分の剣道を見てもらおうとし、阿波野に自分の剣道をぶつけようとしていた。ほくとにはこれ以上、竹刀を振ることはできなかった。ならばこの勝負を捨ててしまうか? 
 できない相談だ。
 阿波野の目は死んでいない。本気の目。三日前、袖星に試合を、私を見て欲しいと願ったほくともきっと同じ目をしていたに違いない。どんな小心者も奮い立たせ、お調子者も真剣にさせる、強い目。その目を拒めば外道の仲間入り。必ずや生涯の悔いを残すだろう。
 ウァァァァァッ! ほくとは腹の底から声を出し、迷いを吹っ切った。漂っていた戦意をまとめ直す。
 ――ありがとう。
 心が通じた。上段に構えさえすれば戦いの流れは違ったものになっていただろうに、剣道生命を終わらせてしまうほど悪化させたかもしれないのに、阿波野は敢えて正眼の構えを信じて取り続けた。ここで終わっても良かった。これ以上勝ち進んでもこの試合以上の試合はない。決勝の三溝妹との戦いでも、その次の段階でも、きっと剣術の比べ合いになるだけだろう。形だけ真似している剣。剣の秘、心に得て手に応ずる戦いは望めない。
 ――あと少し。もう少し。比べ合おう。
 それが、いつから始まっていたのかと言えば二本目の途中からだった。まず初めにそれに感染したのは白倉実業の顧問と三溝。次に主審副審。余波はゆっくりと確実に放射していった。それが、二人の心が通じ合った瞬間、爆ぜた。期待に反してまどろっこしい延長戦に辟易していた一部の観衆も、いつしか野次ることさえ忘れていた。体育館中が固唾を飲んで停止している。
 試合場のほぼ中央で切っ先を交えて佇む二人は互いの足が大地にめり込んでいるかのように動かなかった。ほくとはもう怯まなかった。阿波野ももう威圧などしなかった。威圧に転化する前の状態。感応。己もなく、敵もない。勝ちも、負けも、ない。作戦も、計算もない。後先も、なくなるまで心の仕掛けの応酬を続ける。万物と溶け合って混沌になるまで。今ここで、心と体が応じる一手を決すのみ。精神を削り、魂を削り、心を削り、肉体を削り、その時を待つ。十秒――二十秒――三十秒――一分――二分――二分三十秒。一秒が数時間とも感じる空間の、およそ三百倍! 二の太刀は有り得ない。
 心の仕掛けが限界に達した時、完璧な空間に遂に開闢の刻が閃いた。宇宙さえ生み出されそうな一瞬。体中から火の手が上がったかのように彼女は同時に動いた。竹刀を同時に振りかぶり、同時に振り下ろす。彼女の竹刀が交錯……。
 パンッという呆気ないほど乾いた音がした。全生命力が結集した至高の衝撃は、他に逃れず一転に凝縮して打たれた者の脳天からつま先まで走った。
「め、面あり! それまでぇっ!」
 旗が揚がった。精も魂も尽き果てた。阿波野はがっくりと両膝立ちになって、面を打たれた直後、膝から崩れ落ち、今、前のめりに倒れたほくとを鏡のような瞳で見つめていた。
 一斉に歓声が上がった。体育館が地鳴りのような歓声で揺れている。
「担架、早く!」
 打倒してからというもの、脳震盪を起こしてぴくりとも動かないほくとは直ちに救護室に担ぎ込まれた。竹刀を杖代わりにして、がくがくと震えながら立ち上がった阿波野は、担架の上の好敵手にかつてなく自然に頭を下げた。すばらしい試合だった。礼前の礼、精神一統する前に頭が下がっていた。なにからなにまで理想の剣道だった。
 試合場を去る両者に万雷の拍手。今にも膝が抜けてしまいそうな阿波野を駆け寄った狭山が支えて、部員全員、あるいは他校の者も出迎えた。誰も一言たりとも祝勝を口にしなかった。皆、分かっている。あの試合に勝敗が無意味ということが。ここには皆、あんな試合をした阿波野を羨んで来たのだ。
「滝子」
 阿波野を取り囲う集団の一角が割れ、三溝がやってきた。
「三溝さん……」
「腕を見せろ」
 素直に阿波野は左手を差し出した。すっとガラス細工を修復するような優しい手つきで三溝が篭手を脱がせると、皆、閉口してしまった。その手首は、ぐるり一周サツマイモのような紫色になっていた。
「こんな手首であんな気合入れたの打ちやがって……これじゃ、次からは棄権だな。このままやったら選手生命が終わっちまう」
「はい……でも、悔いありませんから」
「そうだろう。狭山くん、僕が病院まで連れて行こう」
「遠山さん、織内さんのことよろしくね」
「そりゃあ、あたしの役目じゃないっすよ。も、あいつが行ってますから」
「――ああ、そうね。じゃあ、狭山、あと頼むわ」
 阿波野は三溝に抱きかかえられるように会場をあとにした。まったく、女子剣道家にとってはどこまでも羨ましい奴である。
 袖星はベッドで気を失ったままの織内ほくとをじっと見ていた。担架で運ばれた直後、熱狂する人垣を縫ってきた。
 この女の子にあんな試合をさせていたのは、なんだったのだろう。
 ――なんて強い女(ひと)なんだろう。
 袖星は目頭が熱くなったのを感じた。感動した。好みのタイプが強い子だからなんて考えなかった。いっつも漂っていた感情を、もう、決心した。
 気がついたほくと、最初に見たものが袖星の瞳。いきなり目が合って。少し狼狽。でも、すぐに落ち着いた。ああ、袖星くんまでそんな目をして……。
「あ、試合……試合、どうなったの?」
「勝ったのは阿波野先輩だったけど……」
「あ、部長、怪我してた……?」
「うん。今、病院だって」
「やっぱり、すごいなあ部長は」
「そんなことないよ……ほ、織内さんも、すごかった」
「……あのね、袖星くん。私――」
「待って」
「え?」
「僕から、僕から言うから。僕だって男だからさ――」

 市大会は阿波野とほくとの名勝負が部員の士気を高め上げ、狭山が三溝妹を下し、諏訪と一位と二位を制覇して、終わった。
 阿波野の怪我は重症の捻挫だった。半年近く竹刀を握れない。付きにくく衰えやすい女性の筋肉に、半年の空白期間を取り戻すのにどれくらいかかるかわからない。白倉実業へのスポーツ推薦を早々諦めて、今は自力入学を目指して勉強に励んでいる。その為、道場に顔を出すことは少なくなり、代わって部を引っ張っているのは県大会まで引退が延びた狭山。
「でさ、昨日の放課後、裏庭で斉藤さんと皆川くんが会ってんの見ちゃったんだ」
「へえー」
「くわばらくわばら。障子に目ありだわねえ」
 ほくとは今も剣道を続けている。率いる人が変われば変わるもので、阿波野時代には考えられなかった他人の色恋話には心を動かそうともしない。
 練習後、示し合わせていた通り、ほくとは袖星と一緒に帰路に着く。試合後、二人は交際を始めた。飛び出してきた自転車との衝突を防ぐため、腕を引っ張ってくれたアクシデントを除けば、まだ手を握りながら登下校するような、学生には大胆な真似はできない。
「えっ、じゃああの時って」
「そうだよ、脳震盪とかひどい怪我しなくてよかった、って、それでほっとしたんだ」
 大分古い話をしていた。模擬試合で阿波野に篭手を貰った直後、袖星がほっとしたような顔をした時のことに話が及んでいて、今、すっかり誤解が解けた。洋子の勘はぴったり当たっていて、二人とも前々から、好き合っていた。
 帰りの道中、そんな話とかいろんな世間話をしていると、阿波野とばったり会った。
「元気だった?」
「はい。お蔭様で」
「試合――楽しかったわね」
「はいっ」
「怪我治ったら、またやってくれるかしら?」
「も、もちろんです。お願いしますっ」
「滝子」
 向こうから男の人。三溝だった。
「あ、もぉ。じゃあね、二人とも」
 阿波野は三溝のほうにかけてゆく。三溝、手を振って挨拶。ぺことお辞儀をしたほくとが姿勢を戻すと、阿波野から三溝に腕を組んでいるのを見て、ああ、やっぱり部長には敵わないなあと思った。