罰
その状況は彼にとってヘヴィ過ぎた。
もっとも、クラス中の四十対の視線が残らず自分を圧殺せんばかりに圧し付けられているという状況は、誰にとっても相当な苦痛だろうが、それだけにいささか内向的な性格の彼にとっては想像を絶する苦痛で、恐慌を通り過ぎて彼の頭の中は真っ白に塗り潰されていた。そもそも、彼自身何故自分がこのような状況に陥ったか皆目見当がつかず、それが苦痛に拍車をかけてもいた。
きっかけは教師との一つのやりとりだったが、それも特に変わった事は無いように思われた(とは言え、思うも何も今の彼はとても何か考える事などできない状態だが)。教師が彼に向けた質問に、彼が答える事ができなかったのだ。
授業中の、良くある風景。
しかしながら、その後の状況は良くある風景とは言い難いもので、何も知らぬ人から見れば、教師にまで陰湿ないじめを受けている憐れな少年の姿と映った事だろう。だが、彼は今までいじめらしいいじめを受けた事も無く、その出来事は彼にとり、全く以って唐突なものだった。
彼が分からない旨を口にした途端の事。
他の生徒達及び教師が、突然激しい敵意さえ感じられる視線を一斉に彼に注ぎ始めた。驚いた事には、遂先程まで彼の隣の席で机に突っ伏して寝息を立てていた生徒までもが例外なくそれに倣った事で、その生徒が跳ね起きた時に引かれた椅子が床に当たって立てたがたんという音が、世界の終わりの音のようにやけに大きく響いた。
彼はというと、その突然の出来事に全く対応できず、視線から逃れようと俯く事も忘れたまま、ただ彼の眼だけが際限なく泳ぎつづけた。
しかし、その事態は唐突な始まりと同じく、終わりもまた唐突で、何かに気付いたかのように教師の眼からふっと力が抜けたかと思うと、何時ものような心の抜けた形式ばかりの叱責の言葉が彼に投げかけられた。そして、周囲を伺えば、彼の方を見ている者はもう一人も居ない。
その為、彼は夢の中から突然引き戻されたような心持がして呆然となったが、未だ動悸を緩めない自らの心臓と、火照りの引かない頬によって先程の出来事が夢では無いという事実を突き付けられ、同時に、少しづつ冷めていく思考によりその出来事を思い返してしまった事で、こみ上げる恐怖感を抑える事が出来なかった。
だが、その間にも授業は何事も無かったかのように進行し、教師は次の生徒を指名していて、その生徒がおどけた様子で分からないと答えると、誰かのくすくす笑いが教室に響く。教師も呆れてはいたが、苦笑とはいえ明らかに笑みを浮かべており、彼はこれらの様子と、先程自分が受けた仕打ちを照らし合わせてみて、殊更にぞっとする気分を味わった。
そんな彼の気持ちをよそに、やはり授業は何事も無かったかのように終了したが、あの出来事についてクラスメートに尋ねてみる勇気は彼に無かった。何時もと同じ休み時間独特の騒がしい空気が流れる中で、クラスメートの頭の中からは、あの出来事についての記憶だけ、誰かにカッターと定規を使って綺麗に切り取ってしまわれたかのように思えた。そして、結局ぼんやりと視線を宙にさまよわせている内に、二時限目の授業開始のチャイムが鳴った。
間髪入れずに教室に滑り込んできた教師が教壇に登り、クラス委員の号令一下、話し声は残響を残しつつもぴしゃりと収まる。
ここに来て、彼は自分が先程の時間の教科書とノートを出しっ放していることに気付き、慌てて机にしまい込むと、いそいそとこの授業の教科書を取り出して、取り敢えずでたらめにページを開いた。その実、まだ一時限目での出来事が気になっており、早速授業を始めた教師の声は、彼の耳を無意味に素通りしていったが、もし、また自分の名前が呼ばれたら、あのような事が起こるのではないかと内心びくびくしていて、教師が問題を当てようと生徒達の顔を見回すたびに、彼の心臓は再び動悸を強めた。
だが、幸いにしてこの時限は彼が教師に当てられる事は無く、教師は自らの目標の範囲まで授業が進行しなかった事に、名残惜しそうにしながらも退散していった。
彼のノートは真っ白だった。
とは言え、僅かながら彼の頭は冷静さを取り戻しており、一時限目の休み時間のときは、あまりのショックに逃げる事さえ思いつかなかった彼も、少し人気の無い落ち着ける場所へ行こうと席を立った。しかし、廊下に出ても、廊下を流れる生徒たちの視線が気になって、俯き加減で、少し尿意を感じていた事もあって取り敢えずトイレへと逃げ込んだ。
ところが、打って変わってトイレには他に人影は無く、彼は一人になるのはなんとも久しぶりに思えて、有難い孤独感に浸りながら用を足した。
すると、彼は急に目が覚めるような感覚を覚えた。
そう。彼にとって授業中に四十人から一斉に睨みつけられるのは日常ではないし、その後の休み時間も、二時限目の授業も、全く非日常の延長にあった訳で、トイレに行くという日常的な行為が彼に現実感を取り戻させた。そして、少しでも一人になれた事が彼を落ち着かせて、手の皮膚の上を流れ落ちていく水が心地よかった。
トイレから出た時、彼の視線は取り敢えず前方へと定まった。
そこに、彼の横から声が掛かった。見れば、数少ない彼の友人の一人で、その中でも、まだ小学校でようやく九九を習い始めた頃からの付き合いがある彼の親友だった。休み時間に廊下で会えば、何時もどちらとも無く声を掛け、二人で止めども無く雑談を交わしていたし、彼はその時間が好きだった。
そう、やはり今日も何時もと同じ日。
彼は一言、おうと答える。
だが、その瞬間だった。
信じられないものを見て、彼の表情は無残に凍りついた。親友の、今まで一度も向けられた事の無い視線が突き刺さっていた。いや、正確には二度目。その友人から彼がこのような視線を受けた事はなかったが、友人の眼は、一時限目、彼に向けられた容赦の無い非難の色と同じ物を、寸分違わず湛えていた。
彼は頭を強く張り飛ばされたかのように強いめまいを感じて、頭の中では意味の無い思考がぐるぐる回る。やがて、彼の口からうめきとも悲鳴ともつかない細い音が漏れたかと思うと、彼は駆け出して教室に戻り、荒い音を立てて椅子にへたり込んだ。数人の生徒が彼の方を見るが、彼にそれを気にかける余裕も無く、彼は完全に打ちのめされていて、あの眼が深々と突き刺さっていた。
その内に、授業開始のチャイムがなって、教師が教室に入って授業が始まったが、彼はそれにも気付かず、頭の中の狂乱は、一向に治まる気配も見せずに荒れ狂う。
しかし、教師は無慈悲にも彼に声を掛けた。
なぜなら、授業がすでに始まっていたのに、彼の机の上には教科書はおろか筆記用具すら出ていなかったし、教師はそれを見逃さなかった。
彼は、びくりと震えて、教師を恐怖に満ちた眼で見つめ返す。教師は彼の尋常ではない様子に気付き、今度はその事について質問を始めるが、やはり彼は答えない。答えてはいけなかった。
しかし、それでもやはり状況は確実に悪化し、教師は何も答えない彼に口調を強め、クラス中の眼は彼に向けられていた。
だから結局、彼は、答えてしまった。
教師の顔は突然更に強張り、生徒達の目は敵意を帯びる。
彼は冷や汗を全身から噴き出させながら、更に弁明の言葉をたどたどしく続けるが、それはただただ事態を更に悪化させて行くだけで、彼の紡ぐ言葉の度に、視線は益々厳しさを増していく。
そして、突然がたんという音が響く。急に立ち上がった一人の生徒。やがて、その行動が伝染するかのように、一人、また一人と、椅子を跳ね除けて立ち上がっていき、彼の届かない高みから、悪意に満ちた視線の雨が降り注がされた。
彼は今度こそ明確に悲鳴を上げ、同じく音を立てて椅子を跳ね飛ばすと、教室を飛び出した。けたたましい音を上げて廊下を走り抜け、階段を駆け下り、学校を上履きのまま飛び出して、当てども無い遁走を始めた。
学校近辺の閑静な住宅街を走り抜け、人もまばらな商店街を走り抜け、息も絶え絶えになりながらも彼の逃避は止まらない。
上空ではとびが一羽、ぴょろろろろと鳴き声を上げながら旋回していて、彼を見た野良犬が一匹、激しく彼に向かって吠え立てたが、彼には何も聞こえない。
しかし、彼が6つの通りを闇雲に走りぬけた時だった。
前方の路地から、一つの影がふらりと飛び出して、彼は勢い余って思い切りその影にぶつかってしまった。影は若い男で、全速力の彼に跳ね飛ばされて、完全に道路に倒れこんでしまった。
この突然の出来事で僅かに正気を取り戻した彼だが、慌てて詫びの言葉を一言吐いたきり、またもこの逃避を続けようと、脚に力を込めた。
だが、それよりも早く、男の顔が何かに引っ張られたかのような素早い動きで彼の方に向き、それを見た彼はまたも恐慌に陥りかけた。
けれども、彼は男の様子が、今までの反応と少し様子が違うことに気付いた。そうだった、敵意が男の目からは感じられない。ただ純粋に、目は驚愕に見開かれ、彼に向き直ったまま、男は時間の流れに取り残されたかのようにぴたりと硬直していた。
それを見た彼は、突然電撃に打たれたような感覚を覚えた。
そう、何故自分があんな仕打ちを受けなければいけなかったのか。その理由。しかし、それが理由だとしても何故そんなことに? いや、その前にそれが理由だとすれば、今自分が言ってしまった言葉は!
彼はほぼ同時に自分の重大なミスにも気付き、それを挽回するべく二の句を継げようとしたが、しかしてそれは果たされなかった。
それは一羽の鳥によって遮られた。
その鳥は、遂さっきまで上空をくるくると飛び回っていた一羽のとびで、羽を広げ空を滑空する姿そのままに、彼の目の前に突如として墜落し、その時の、生物の死に際しては少し間抜けているようにも聞こえるどさりという音が、やけに大きく響いた。
それが、世界の終わりの音だった。
「しりとり」
初めの人が、まずあるものの名前を言う。次の者は、その言葉の最後の一音を頭文字として別のものの名前を言う。これを順々に続けていく遊び。
※詰まったり、その場にいる皆が知らないものの名前を言ったりしたらその人の負け。
※最後に「ん」の付く言葉を言ったら、もう続けられる言葉がなくなるのでその人の負け。