私はささやかな気分転換の為に、今日は何時もと違う公園に行ってみる事にした。
 ラークス自然公園、という名前のこの公園に来るのは始めての事だったが、良い公園だと思う。外から見ると、第二都市区でもオフィスビルが数多く立ち並んでいる区域の一角を、場違いなまでの鮮やかな緑で染めているこの公園は一種異様なものにも見えたのだが、中に入ってみれば、生い茂る樹木も含め、園内は良く整備されている事が分かり、休日はさぞかし賑わうのではないだろうか。
 とは言え、平日火曜日の午前中となると私のもの以外に人影は無く、一人ベンチに腰掛けていると、まるでこの世で生きて動いている人間は自分だけではないか、と思えてくるのだった。結局、それは体の良い現実逃避に過ぎないのだけれども、それも何時もの事である。
 もっとも、今日は普段と違う所も一つだけあったが、それは私の吸っている煙草の銘柄が違うと言うだけの事で、しかも、節約の為に何時もの物より数段安い物を買った為、それは実に不味く、私は一口くわえて吸い込んだその煙をすぐに吐き出すと、指に挟んだそれを見て顔をしかめるのだった。
 しかし結局、まだ結構な長さのあるその煙草を揉み消すのも勿体無くて、私はそれをもう一度くわえたのだが、すると、突然後ろから伸びてきた手が当然の如く鮮やかに、私の手から吸い掛けの煙草を奪い取った。
「不味い煙草ですねえ。合成煙草は低煙低害が謳い文句なのは良いですが、これじゃそもそも煙草としての意味が無いと思いませんか、ヒューズレイさん?」
 振り向くと、快活そうな笑顔を顔に貼り付けた長身痩躯のスーツ姿の男と、打って変わってしかめ面で、二メートルを超さんばかりの巨体を窮屈そうにスーツに押し込めている大男が、何時の間にやら私のすぐ後ろに立っていた。
「いいんですかハヤマさん……。こんな冴えない中年男と間接キスなんて」
 私はこの男を知っていた。
 不便な世の中である。レイヤード市民である限り、端末を追跡されれば何処にいて何をしていようが全て見通されてしまう。
「いえいえ。あなたは私の大事な御客様ですからね」
 ベンチに付属していた灰皿に煙草を押し付けながら、ハヤマはそう答えた。
「しかし、それにしてもこの煙草ですが。こんな状況だからこそ、思い切って今までより高い銘柄の物を御試しになる事を御勧めしますよ。嗜好品はストレスを解消する為にあるのですし、ストレスを解消するのにお金を惜しんでいてはいけませんね。これが溜まると出来るものも出来なくなります。……御様子からすると、今日もうまくいかれなかったようですが?」
 こんな状況。そう、それと言うのも私はこの男に借金をしている。正確にはこの男の所属する会社から個人向けの融資を受けている。この男はその取立人なのである。
「何か御返済の目処は……、たっていませんね」
「もう少し、待って頂けませんか?」
「もちろん御待ち致します、ですがしかし」
 断固とした口調で、途中から遮るようにハヤマが言った。それに対し私は思わず全身を総毛立だせ、ハヤマはと言うと、少し間を置いて私の反応を確かめるようだった。
「残り一週間です。それなのに、あなたはまだ次の御勤め先も御決まりになっていらっしゃらない」
 そう言う彼の口調は穏やかだったが、先の断固としたトーンだけはそのままに残されているのだった。
 私が勤めていたのはダイソン&クーガー社という、工業系の、業界では中堅クラスに当たる企業だった。D&Kと言えばその筋ではなかなかに有名なものである。
 しかし、そこに私が入社した二十年前から、既にクレストとミラージュという二大企業による、ある種の戦争とも呼べる熾烈な抗争は始まっていたのだけれども、それが最近は激化の一途を辿り、その煽りを、遂にD&Kは見事に喰らってしまったのだ。結果、社がリストラクチュアリングの一環として私を含む五十名近い人員の首を切ったのが、今から四ヶ月程前の事になる。
 妻と娘には、まだ話していない。
 妻と結婚した時に、義父と交わした約束がある。――娘に少しでも辛い思いをさせたら、ただじゃおかん。義父は微笑みながら、冗談めかしてそう言ったのだけれど、何分、私達の結婚については特殊な事情があったものだから、それは私の中で強迫観念めいたものとなっていて、妻に今回の事を打ち明けるのにブレーキを掛けていた。それに、娘に父の不甲斐ない姿を見せたくない、と言う気持ちも強く働いたと思う。
 その為、私は事を何とか自分一人で解決させようと試みたのではあるが、就職活動の成り行きもはかばかしくないまま、申し訳程度に支給された退職金はあっという間に底をついてしまった。しかし、私にはそこまで来て後戻りする事も出来ずに、ハヤマの勤める会社に手を出したのだった。
「私も立場上、これ以上放っておく事は出来ないんですよ。それは、あなたにも御分かりになるでしょう?」
 ハヤマの声が冷たく響いた。
 この男の仕事のスタイルは非常に独特に思える。何しろそれは、私の借金取りに対するイメージを、ことごとく覆すものだったのだから。私は刻一刻と迫る返済期日に、強持ての取立人の脅迫じみた返済の催促を思い浮かべて恐々としていたのだけれど、ハヤマは仕立ての良いスーツを着込み、微笑と慇懃な態度を常に崩さない男だった。
 私がハヤマと初めて会ったのは、一週間前の、調度今頃の時間の事になる。前の公園で、その時も私は同じようにベンチに座って、不採用通知が並んだ自分の端末のメール画面を眺めて溜め息を吐いていたと思うのだが、すると、突然背後から親しげに私を呼ぶ声がして、振り向くとハヤマとジョニーが立っていたのだ。初め私は、昔の知り合いだろうか? と思ったのだが、私が取立人だ、と自己紹介されて、心臓が止まる思いがしたものである。だが、その時のハヤマは、私の状況を確認すると、私の事を励ますだけ励まして帰って行ってしまったのである。その後も毎日ハヤマはやって来たが、始終そんな調子だったもので、この男は本当に私の借金を取り立てる積もりはあるのだろうか? と私の方が何故かしら心配になる始末だった。
 しかし、こんな噂も耳にする。ハヤマは債務の回収の為に、臓器売買を行っていると言うのだ。私は、同じく首を切られた元同僚からこの話を聞いた時、アナクロニックなその響きに眉をひそめたものだが。しかし彼の方は、――移植用の培養臓器をお気に召さない金持ち連中もいるんだとよ! と、幾分酔っ払いながらも妙に真剣な様子なのだった。――なんでも、後ろのジョニーって大男は、そんな時役に立つんだとよ!
 ハヤマの今までに無い断固とした態度に、私はそれを思い出して青くなったのである。まさか、とは思うけれど、もしその噂が本当ならば私はどうなってしまうのか?
「そこでですね」
 その私の心理状態に抉り込むようにハヤマは言葉を継いだ。
「一つ、提案が御座います」
「……何でしょうか?」
 私が、猫に追い詰められた鼠みたいな眼をしているだろう事は言うまでも無いだろう。しかし、ハヤマは本当に猫が鼠をいたぶって楽しんでいるかの様に、直接の返答を先延ばしにした。
「まあ、ここでは何ですから、ちょっと他の場所に移動しましょうか」
 彼はそう言うと踵を返して、公園の入り口の方へすたすたと歩きだしてしまった。

 公園の入り口には黒い乗用車が停めてあった。ハヤマとジョニーがそれぞれ運転席と助手席に乗り込み、私は促されるまま後部座席に乗り込んだ。
 しかし、車が走り出した時、私はふと思ってしまった。つまり、この二人がこのまま私を拉致し、例の行為の為の手術室に連れ込むのではないか、と。そして、それを一度考えてしまうとどうにもならず、助手席のジョニーを見ては、その丸太のような腕で締め上げられる事を想像してしまい、私は一層青くなった。走行中もハヤマはあれこれ話し掛けてきたが、私はその声に対してどうとも取れない生返事を返すだけで精一杯だったのである。
 そして、車が駐車場に滑り込み、ハヤマが運転席から振り返って口を開いたのに、私は反射的にびくりと体を震わせる事になった。
「着きましたよ」
 どうやら、そこは第二都市区でも飲食店が多く建ち並ぶ界隈のようで、駐車場の隣に建っている三階建てのビルも、何の変哲も無いように見えるのだけれども、私はこの下に臓器密売人達の穴蔵が広がっているのを空想した。もっとも、逃げる勇気も無く、三人でビル一階の店の前に立ったのだが。
 だが、そこはやはり何の変哲も無い飲食店のようだった。入り口には準備中の看板が立てられていて、明らかに営業時間外であるのが気に掛かるのだが。
「大丈夫です。入りますよ」
 ところが、ハヤマはそれを察してかそう言うとさっさと中に入ってしまった。すると確かに、いらっしゃいませ、と声がする。なので、ジョニーと私も続いて店に入ると、奥の仕切りで区切られて個室のようになっている席に通されて、食材もすぐに運ばれてきた。
「焼肉……、ですか」
「ええ、ここは合成物じゃない、本物の牛肉を食べさせてくれる所でしてね。ヒューズレイさんも如何ですか上カルビ?」
「いえ、私はまだ朝食が……」
 私は少し拍子抜けしたのだが、ハヤマはそれを知ってか知らずか少しずれたような事を言ってくる。
「そうですか。でしたら、無理にとは言いませんが」
 ジョニーはその間にも、既に熱せられていた金網の上に、黙々と肉を並べ続けていて、場には肉の焼ける音と匂いが立ち込めていたが、私はそれにも軽い吐き気を覚えるのだった。首になってからというもの、食欲はめっきり無くなってしまっている。
 しかし、次の瞬間、ハヤマの言葉に、私は車内での落ち着かない気持ちに引き戻された。
「では先に、例の提案、について御話しさせて頂きましょうか」
 私は鼓動が速まるのを感じ、肉の焼けるじゅうじゅうという音がやけに大きく聞こえて、緊張の度合いを高めた。
 そして、そのまま少しの間沈黙が流れたが、次にハヤマが口にした言葉は私の予想を上回る物だった。
「実はですね、失礼ながらあなたの経歴について少し調べさせて頂きました」
 ハヤマは例の微笑を顔に貼り付けたままでそう言ったのだが、その一言に私の心臓は一際大きく跳ね上がった。この男は自分に何をさせようとしているのか? その答えの恐ろしい予感が私の体中を駆け巡って全組織を粟立たせ、飲み下す唾は石のようになった。
「すると、依然はレイヴンをおやりになっていたそうじゃないですか! アリーナランクB−6、ブラックトルーパー。……私、実はファンだったんですよ」
 ハヤマはアニメヒーローを見てはしゃぐ子供のような口調で続けた。
「私に何をさせるつもりですか」
 勇気を振り絞り、問う。しかし、ハヤマは実にあっさりと、その問いに答えて見せた。
「あなたにはもう一度レイヴンになって頂きます」
 その言葉に、一瞬、私の意識は真っ白になったが、もはや世界を揺るがす大音響を轟かせているような私の心音が、私の意識を引き戻した。が、その次にはもう頭の中では混乱した思考がぐろぐろと渦を巻き始め、場に満ちた焼肉の音と匂いまでもが、非日常的でグロテスクな物に感じられて、私の胃を包んでいたもやもやとした感覚は明確な吐き気に変わった。
「しかし」
「ちなみに」
 私の僅かな抗議の声も、ハヤマの声に押し遣られる。
「あなたに拒否権は御座いません」
 ハヤマの笑顔が、何時の間にか薄ら寒いものに変わっているのに気付く。だが、次の瞬間にはもう普段の朗らかな様子に戻り、彼は続けるのだった。
「おや、そう言う意味では、提案と言うには少し語弊があったかもしれませんね」
 そう言ってにやりと笑ってみせるハヤマの笑顔は実に楽しげである。今の状況、そしてこの男の場合、それが余計に皮肉っぽく映るのだけれど。
「しかし、私はもう二十年もACどころかMTにだって……」
 やっと吐き出した言葉も、出てくる先から萎んで消える。
「大丈夫ですよ。一度体に染み付いたものは忘れない物です。正しく、体が覚えている、って言うでしょう? それに、出て頂くのはアリーナです。まず死にはしません」
「選定試験はどうするんですか?」
 レイヴンを志す者に課せられる最初で最後の試練。全てのレイヴンが所属し、それに対して依頼の斡旋や各種サーヴィスの提供を行うグローバルコーテックス社に実際寄せられた依頼の一つを自ら遂行させてこそ、初めてレイヴンとしての力を認められる。それが正式な依頼である以上、その失敗は即、死に繋がる事もある。
「それも心配する必要は御座いません。私には、コーテックスにちょっとした知り合いが居ましてね。その程度ならどうとでもできますよ」
 背骨の中をみみずが這い回って、奥歯がかちかち鳴り始めていた。死ぬのが怖い、という事が、私がレイヴンにもう一度なれない第一の理由ではないのだ。私には、ACには二度と乗れない分けがある。
「しかし、結婚した時、もう二度とACには乗らないと、妻と約束を……」
 私は絞り出すように、そう口に出した。すると、それを聞いたハヤマは一瞬動きを止めた。
「そうですか、そうですか……」
 そして、そう言いながら、なるほど、という風に軽く頭を二三縦に振る。しかし、次の瞬間には、彼は無慈悲にある事実を私に突き付けていた。
「ですけれど、もう十分吐いてるじゃあないですか、嘘」
 妻は今日も、私が会社で働いていると思っている。
「明後日の午後七時、あの公園で御待ちしております」
 そう言うと、ハヤマはおもむろに割り箸を手に取り、ぱきりと音を立てて綺麗に割って見せた。





 烏と鳥籠/1 破れた鳥籠





 ジョニーは二人が話している間中も、せっせと肉を口に運び続けていたが、不幸な男が席を立ち、店を出るのを見届けるとやっと口を開いた。
「兄貴」
「なんですジョニー?」
 ハヤマは口をもぐもぐさせながら訊き返す。
「大丈夫なんですか、ヒューズレイの奴」
「こら、御客様を呼び捨てで、しかも奴とは何事ですか」
「あ、いや、ヒューズレイさん……、ですよ。ほんとに大丈夫なんですか?」
「ああ。大丈夫ですって。あの方、ああ見えて昔はそれはもう強かったんですから」
 割り箸をぶんぶん振ってそう答えるハヤマの視線は、金網の上で焼ける肉に向けられたままだった。しかし、ジョニーはさっきの冴えない中年男と、元上位ランカーの凄腕レイヴン、というイメージがどうしても結びつかなくて、眉間をくちゃくちゃにしながら質問を続けるのだった。
「いや、でもですよ、万が一連戦連敗で、やっぱり返せませんでした、ってなったらどうするんです?」
 やっと、ハヤマの視線が肉から逸れる。
「もう、あなたも心配性ですねえ。大丈夫ですって、ほんとに」
「いや、ですから万が一、ですよ」
 ジョニーがそうやって食い下がると、ハヤマはちょっと困ったように視線を宙にうろうろさせると、言い難そうに答えた。
「それはまあ……、その時は死んで頂くしかありませんね」
「……やっぱり取りますか、腎臓でも?」
「いえいえ、依頼も受けていないレイヴンが突然失踪、なんてちょっと問題あるでしょう? コーテックスは結構面倒見が良いですからねえ」
「じゃあ、どうするんです?」
 そう言うジョニーの声は、少し残念そうだった。
「試合中に事故死して貰うんですよ」
「え?」
「アリーナでは、実弾兵器は炸薬の量を減らして、光学兵器は出力を落として使用しますよね? 実戦通りにして、本当に死なれちゃ、いくら選定試験をやってもレイヴンの数が追い着きませんから」
「ええ」
 それがどうした、とでも言いたげな、憮然とした表情でジョニーは答えた。
「ですから、もし死ぬような事があったら、場合にもよりますが保険金も降りるんですよ。受取人はもうこちら名義にしてますし」
「なるほど」
 そんな手もあったのか、とジョニーは思った。いや、でもまだ何か釈然としない。何かまだ根本的な問題がある気がジョニーはして、少し考え込む事になった。
「あ、でもそんな事、どうやってやるんですか」
 分かった。アリーナでの戦闘をあくまでも試合として管理する、管制室のコンピュータをどうやって誤魔化すのか。それとも単純に機体に細工でも? それにしてもどうにも無理な話に思えるのだ。けれど、ハヤマは涼しい顔で答える。
「言ったでしょうジョニー? 私には、コーテックスにちょっとした知り合いが居るんですよ」
 ハヤマはそう言って、面白くも無さそうに口だけで笑って見せた。
 ジョニーはもうかれこれ六年、ハヤマと一緒に仕事をしてきたのに、まだ彼が本当に笑った所を一度も見た事が無い。
「そんな事よりジョニー」
 と、ハヤマは突然真剣な顔になって、ずいと顔を近付けてきた。
「な、なんです?」
「肉……、焦げてますよ」

「あら、おかえりなさい」
 リビングから体を半分覗かせて妻が言う。私はその顔を真っ直ぐに見返す事が出来なくて、俯いてぼそりと言った。
「あ、ああ、ただいま」
「今日は遅かったんですね」
 ひたすら街をうろついて時間を潰して、我が家であるアパートメントの前にまで帰って来た時には、もうとっくに陽も沈んでいた。それからまたしばらく悩んで、今はもう十時を回っている。
「ああ、急な仕事にてこずってね」
 帰り着くまでに練習していた嘘をそのまま言う。
「電話の一本ぐらいあっても良かったんじゃありません?」
 妻はこちらに歩いてきながら、半分からかうように笑ったが、私は後ろめたさにまた俯き、彼女の隣を通り抜けてキッチンに向かいながら呟いた。
「ああ、すまない」
「大丈夫ですか? 何か具合が悪いみたいですけど?」
「いや、大丈夫だよ」
 喉が渇いていて、キッチンでコップに一杯、水を飲むが、そうすると吐き気は一層酷くなってしまった。なんとか吐く事は無かったものの、胃酸が食道の粘膜を浸蝕する不快な感覚に襲われた。
「でも……」
「本当に大丈夫だ。少し気分が悪いだけなんだ。今日はすぐ寝る事にするよ、それより……」
 妻はこんな時、妙に勘が鋭い事がある。私は今の気持ちを気取られたくなくて、そう一息にまくし立てると、話題を変える事にした。それに、実際気になっている事でもあった。
「それより、レジーナは帰ってきたのか?」
 妻の顔色がさっと曇る。
「いえ……」
「そうか」
 十八になる娘は、今になって反抗期の真っ最中のようで、三日前に口論になって家を飛び出したきり帰ってきていない。私の食欲が出ないもう一つの原因でもある。
「……じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 私は手早く服を脱ぎ捨て、シャワーをざっと浴びると、すぐにベッドに入った。なかなか寝付けないかと思っていたが、眠りは意外と早く訪れた。

 気が付いた私の眼にまず飛び込んできたものは、手術の時に医者が着けるような薄い青色のマスクと、同色の帽子を被った男の顔だった。
 そして、強烈な光源を背に私の顔をじっと覗き込んでいるその顔は、逆光で見辛いものの、私にはどうにも見覚えがあるような気がし、そう思った次の瞬間、私はその男がハヤマであると言うことに気付いていた。口元がマスクに隠されていても、そこには何時もの笑顔が張り付いているだろう事にも。
 私は驚いて飛び起きようとしたが、しかして私の体は動かなかった。声を出そうとしても、何かで口を塞がれているようで声が出てこない。
 ハヤマはと言うと、私が戸惑っているのを余所に、何処か満足げな様子で顔を私から離すと後ろに向かって何か合図を出した。そして、それに応えて動いた人影は他でもないジョニーで、やはり手術中の医者のような格好をしているのだった。
 一体何が起こっているというのか? 私は自分の置かれている状況がさっぱり理解出来なかったが、努めて冷静に確認してしようとした。すると、私はスティールの台に丸裸の上縛り付けられて寝かされており、口には猿ぐつわが噛まされているようだった。隣にはハヤマが立っていて、金属製のトレーを乗せた台車をジョニーが引いて来る所だった。
 更に、何時の間にやら、それとも最初からいたものか、大勢の人間が私達を少し離れた位置から取り囲んでいるのにも私は気付いたが、ハヤマはそれを見回し、一つ頷くと、ジョニーに向かって軽く手を出した。そして、ジョニーがハヤマに手渡した物が、その途中、手術用ライトの強い光に照らされてきらりと閃くのが分かった。それは、紛れも無く手術用のメスだった。
 と、次の瞬間にはもう、ハヤマは私に視線一つくれず、それを私の腹に突き立てていた。
 私は痛みに絶叫したつもりだったが、口の中の詰め物に阻まれて、呻き声が少し漏れただけだった。ハヤマはそれを気にする様子も無いらしく、その間も鮮やかな手付きでメスを滑らせている事が、痛みとなって認識できた。
 そして、大して時間も掛かっていない内に、ハヤマは私の腹の中から赤黒い物体を取り出すと、高々とそれを掲げ、何やかや叫び立てた。それに対して周りから一斉に声が上がる。
 そこで、私は彼らが私の臓器を競りにかけている事を悟った。
 その後も次々と私の腹の中から赤黒い物が取り出されていったが、不思議と何時の間にか痛みは消え去っていて、私はそれを奇妙に平静な感覚の中で見守っていた。
 やがて遂に、ハヤマの手に、未だびくびくと脈打つ私の心臓が掲げられた時、私ははっと身を起こした。
 夢だった。
 私の皮膚には汗でぐしゃぐしゃになった寝巻きが張り付いていて、胃にはまだもったりとした不快感が覆い被さっていた。
 いっそ本当だったら良かったのに、と私は少し思った。

 ハヤマは、明後日、と言ったのだけれど、私は今日もあの公園に行った。
 他に行く所が無いのは何時もの事であったし、私にはハヤマが、この一日で何かしらの覚悟を決めておけ、と言っているように思われた。その為には一人で落ち着いて考える必要があったし、新しく見つけたこの公園はそう言った意味で最適だったのだ。
 木漏れ日の射す小径を通り広場に出て、噴水の周りに配置されたベンチの一つに腰を掛ける。そして、自分の膝の上に頬杖を突き、私は目の前の噴水を見つめた。
 私の考えは初め、アリーナで現役のレイヴン達を相手に、私が上手く立ち回れるものなのか? と言う懸念に向かっていった。しかし、この問題は考えれば考えるほど私を弱気にさせ、考える対象は、他に何か解決策は無いものなのか? というものになっていった。
 そしてふと、いっそ逃げようか、という考えが浮かんだが、次の瞬間には、私は首をぶんぶんと横に振るジェスチュア付きでそのアイディアを否定していた。
 それこそ絶対に駄目だと思う。
 私の端末の認識コードが相手に知られている以上、レイヤード市民として、私に逃げ場所は無いし、端末を棄てた所で、それは社会的な死を意味している。それに第一、妻と娘はどうなる?
 私はそんな考えを抱いた自分を嫌悪し、結局、私の思索は、あの日に交わした約束へと向かっていくのだった。
 もう二度とACには乗らない。私はそう誓った筈だった。

 私の両親は、私がまだ幼い頃に離婚した。
 その時の事情は私にはよく分からないが、どうやら母の浮気が原因だったそうである。その為、私は父と二人で暮らす事になったけれども、父にしても離婚してからは酒浸りの毎日を送るようになっていった。私は父の顔はよく思い出す事が出来ないが、振り上げられた父の手だけは、そこだけ写真を撮ったようにはっきりと思い出す事が出来るのだ。
 だから結局、私は親戚中をたらい回しにされた後、父方の伯父に引き取られる事になった。
 伯父は第三層の産業区で、小さいけれどACやMTも扱う整備工場を、五六人の従業員と一緒に営んでいた。酒も煙草もやらず、四十を過ぎていたけれども独り身で、あまり喋らない人だった。初めの頃は寡黙な伯父は、父とはまた別種ながらも、私とっては等しく恐るべき対象に感じられた事を覚えている。
 けれども、伯父は私を育てる事については真摯に取り組んでくれたし、何より、私を理由も無く殴るような事はしないのだった。そして、時折漏らす言葉には、だからこそ、往々にして私を何かはっとさせるものがあった。
 私は世間一般で言う親の愛情という物は受けずに育ったかも知れないが、伯父はそれとはまた別種の静かな愛情で以って私を包んでくれていたと思う。私も伯父を愛したし、尊敬した。将来は伯父のような技術者になりたいと思っていた。
 だが、私が高校の二年生になって半年ほどが過ぎた時、私の運命を大きく変える事件が起きた。
 伯父の工場のすぐ近くにあった、クレスト社の工場に勤める労働者達が、社を相手取り、労働状況の改善を訴える抗議活動として、工場施設の占拠を初めとするテロリズムに走ったのである。もっとも、そのような事件自体は当時から別段珍しい事ではなかったのだが、実はクレスト社と激しく対立するミラージュ社が、子飼いのテロリストグループを通じて、裏で労働者達に武力提供(しかも、提供された武装の数々には戦闘用のMTまで含まれていたらしい)を行っていたのだそうで、事は予想以上に拡大し、当の工場周辺にも被害が及んだのだ。その為、事態は管理局の治安維持活動の範疇に収まりきらず、クレスト本社から直々に特殊部隊が派遣される運びにまでなっていたのである。
 私が学校から下校して来た時は、伯父の工場に続く、大小の工場と住宅が立ち並んだ雑多な通りを、調度周辺住民が避難して来る真っ最中で、私は、近くで非難住民の誘導にあたっていたガード職員から、初めてその事件についての話を聞いたが、彼が私に伝えたのは――クレストの工場で立て篭もり事件があってね、とごく最小限の情報だけだった。――とにかく避難してくれ。彼は続けてそう言って、それ以上私と話している気は無いようだった。
 私は特定の建物への立て篭もり事件で、何故ここまで大規模な数の住民を避難させなければならないのか、と訝しんだが、周りの人並みから聞こえてくる、――周りの建物にも撃ってきて……、とか、――クレストの特殊部隊が出動……、とか、はたまた、――ミラージュの部隊の襲撃……、やら、――実はあの工場は生体兵器の開発プラントだった……、やらの危機的な内容を伝える会話の断片から、そこはひとまず、素直に避難する事にした。
 もっとも、この時、私は事態を余り重く受け止めてはいなかった。と言うのも、共に避難する住民達の顔には、恐怖に引きつった表情というよりは、――ああ、またか、とでも言いたげな、ある種ふてぶてしい態度が表れていたし、そのミラージュ社の襲撃やら生体兵器云々といった類の噂をしきりに呟いている者達にしても、それをデマだと分かっていて、只それを語るのを楽しんでいるような様子があったのだ。よって私は、工場に立て篭もった労働者達が、調子に乗って少し周りの建物にもちょっかいを出したぐらいなのだろう、と考えた。そして、そんな類の小規模なテロ事件ならこの御時世、毎日レイヤードの何処かで起こっているのだ、と変に達観した風に思った事も覚えている。その所為で、この事件において自分自身に何か抜き差しならない被害が及ぶという事は、私にとってリアルな感覚を伴わなかったのだ。
 だが問題は、その事件が私が受け止めたもの程、私に取り、実際には軽く無かったという事だ。結局、私は伯父とはぐれたまま事態の終結の時を迎えたが、何時まで経っても伯父は私の前に姿を現さないのだった……。
 この事件で発生した、民間人における死亡者及び行方不明者の数は、最終的には二十一名と報じられていて、私の伯父もその中の一人に数えられているのである。伯父の遺体が発見されたのはせめてもの僥倖だったのだが、それにしてもガードの関係者曰く、――損傷が激しいので、と言う事で、私は遂に伯父の遺体に面会する事も出来なかった。
 そして私は、その後すぐさま学校を辞めると、第一都市区に手頃なアパートを見つけて引っ越し、コーテックスにレイヴン試験の受験を申し込んだのだ。伯父の死亡保険金の受取人は私の名義になっていたから、当分の間食い扶ちに困る事は無かったのだけれども、ともかく私はそうしたのだった。
 今になって思うと、その行動の動機としては、当時の私にしても明瞭なものではなかったが、その時私は、きっと誰かに八つ当たりをしたかったのだと思う。伯父の死に、私の中で激烈な怒りが急遽として立ち上がったものの、それは明確な何処へとも向ける事の出来ないものだったのである。そして、自分の命に代えても、と思えるほど、その“八つ当たり”の希求は切実なものだったのだ。そこに、私の自暴自棄な気持ちが動機の一部となっていた事も読み取れるのではあるが。
 私に適正試験として回された依頼の内容は、皮肉な事にミラージュ社の工場に武装して立て篭もった、同社の労働者達の排除だった。伯父を殺したのは、あの時の労働者達や、鎮圧に向かったガードやクレストの部隊などではなく、もっと別の、もっと大きな何かなのだという事は何と無く判っていたが、試験中、伯父の仇と戦っているような気がした事を覚えている。
 結果としては、労働者達の武装が、作業用の機械に無理矢理武装を取り付けたような物や、戦闘用であったとしても、既に第一線を退いた旧式のMTばかりだったので、初めての、しかもぶっつけ本番の実戦に手の震えが抑えられなかった私でも、さほど苦労も無く片付ける事ができた。
 急ごしらえで戦闘用にしつらえられた作業用機械の剥き出しのコックピットには、恐怖に引きつった、遂最近まで普通の労働者だった筈のテロリストの顔が覗いていたが、モニターを通したそれは奇妙に現実感を失って、罪悪感は思ったより湧いて来なかった。
 意外にすんなりと、私は人殺しになった。
 そして、レイヴンになった私はその後、思うままあらゆるものに怒りをぶつけ続けていった。
 六年が過ぎた。
 気が付けば作戦完遂率87%、アリーナランクC−1の、腕利きと言われても良いレイヴンになっていた。
 しかし、戦っても闘っても、私の怒りは全く涸渇する事を知らなかった。そしてそれは、あの時、伯父を殺した人間を、私が殺せる事があったとしても、けして涸れなかっただろうとさえ思うのである。
 私はやり場の無い怒りを持て余し、諾々と日々を過ごしていた。
 そんな時、私は妻と、リーザと出会った。
 当時私の住んでいた地区はスラム化が進行している最中で、余り治安が良いとは言えず、何故女性が夜中一人でそこをうろついていたのか私には分からなかったが、私が夜道を家に向かって歩いていると、それぞれ女性と男性の互いに言い争うような声が聞こえて来て、私は、道端で赤毛のロングヘアーの女性が、スキンヘッドの男と金髪を逆立たせた男との、お世辞にもがらが良いとは言えない二人組に絡まれているのを認めた。それが彼女だった。
 その時、二人の男は私に背を向けていた。そこへ私は、歩調を少し速めて、だが、足音は極力立てないように歩いていった。私が近付くと、男の肩越しに街灯に照らされた彼女の顔が、一層強張ったのが見えた。私を連中の仲間かと思ったのかも知れなかった。だが、私がスキンヘッドの方の肩をぽんぽんと叩いて、男の振り向きざまその顔面に拳をめり込ませると、彼女の顔はより一層強張る事になった。
 その後ふらつく男の腹に膝蹴りを入れると、かかって来たもう一人の顔にも拳を叩き込み、そのまま襟首を掴んで更に数回顔や腹を殴って、気絶したのを確認すると適当に近くの路地の暗がりに放り込んだ。先の一人もあっけなく気を失っていたので、これも同じようにしておいた。彼女はこの様子をただただ唖然として見ていた。
 その日、私はアリーナで私の一つ上のランクのレイヴンであるB−7のランカーに挑戦したのだが、Bクラスランカーの厚い壁にぶち当たり無惨な負け様を晒してしまっていたので、虫の居所が日頃に増してどうしようもなく悪かったのだ。
 そして私は無言のまま彼女の前を通り過ぎてアパートに帰り、冷蔵庫の中の安ウィスキーを壜から直接に一口煽ると、そのまま寝てしまった。その日の事はそれぎり気にも止めなかった。
 しかし、それから一週間ほど経った時。住んでいたアパートから出かけてすぐ、私は奇妙な集団に取り囲まれた。
 数は十人ほど。全員思い思いにいささか個性的過ぎる髪型を見せびらかしていて、尚且つじゃらじゃらと鬱陶しいぐらいのアクセサリーを体中にぶら下げていた。私は、こんな連中と友達になった覚えは無いけれど、と考えたものの、しかし、その中には紛れも無く、私があの時叩きのめした二人の男達が含まれていたのだった。
 それから彼らは私を取り囲んだまま、何かしらの建物の建築予定地になっていた空き地に連れ込むと、その内のリーダーらしきモヒカン(それもピンク色だ)の男が、映画のこんなシーンには付き物の前口上もそこそこに私の顔面を酷く殴りつけた。すると、それが口火となって他の連中も一斉に私に襲い掛かって来たのである。
 二三人は殴り返してやれた気がするが、元々ちょっと腕っ節が強かっただけで私は別段武術を学んだ事もなく、多勢に無勢で、すぐに一方的に殴られるだけになってしまった。
 しかし、少しして突然体を襲う衝撃が消えたと思うと、連中が蜘蛛の子を散らすように逃げていくのが、腫れ上がった瞼の隙間からぼんやりと見えた。殴られている間、もしかして、こんな所で自分の人生は終わってしまうのか、と情けない気持ちで私の心は一杯になって、私は死んだ伯父に一言謝ったのだが。
 連中が逃げていった反対の方向を見遣ると、管理局のトレードマークを貼っ付けた銀色の車両が停まっているのが見えて、二人のガード職員が近づいてくる所だった。その内の厳つい中年の職員が近づきながら私に、――大丈夫か、と尋ねたので、私は、大丈夫ではない、というメッセージを無言で伝えようとした。
 それを見て彼は、喋る気力も無い私の状態を見て取れた筈なのだけれど、私に肩を貸してやや強引に立ち上がらせると、そのまま歩き出した。そして歩きながら、――おめえ大丈夫かよ、ともう一度訊くと、――あの人が通報してくれてな、と言って近くのビルの陰を指差したのだ。
 彼女がいた。
 その後、私は病院に運ばれて手当てを受け、そのままガードの庁舎の方で事情を訊かれる事になった。それは三時頃に始まったが、それから解放されて私が庁舎を出る頃には既に夕暮れ時になっていた。そしてその時、私はこれから、ガードの付属病院で出された飯が如何に不味かったかをどう吹聴してやろうか、などと考えていたのだが、ガード庁舎の、無駄に装飾的な模造大理石で造られた階段の下を見ると、そんな考えは一瞬にして吹き飛ぶ事となった。
 彼女が立っていた。
 呆然となった私に、入り口前に突っ立っていた若い職員が、冷やかし半分に、――彼女かい? と訊いた。
 聞けば、あの時は私の家の近くを通ったのは全く偶然だったと言う。しかし、連れて行かれる私を見て、なんとかしなければと思い、ガードに通報したのだという事だった。だがそれよりも、彼女がずっと庁舎の前で待っていたらしい事に私は驚いたのだが、それについては、――せめて一言、お礼が言いたかったんです、と彼女は言った。
 私と彼女が交際する事になったのは、そんな経緯があったからである。
 彼女は第一都市区に社屋を構えるミラージュ社系列の保険会社に勤めていて、実家は第二都市区にあるのだが、第一都市区にアパートを借りてそこから毎日通っているのだと言った。あの日は仕事が立て込んでしまい、最終のモノレールに遅れそうだったので、物騒とは知りつつも駅への近道を通った所、運悪くあの連中に捕まったのだそうだった。
 付き合い始めると、彼女は私とまるで正反対の人間だという事が分かった。人当たりがよく、細やかな心配りが出来て、適度に几帳面で、そしてユーモアのセンスも持ち合わせていた。
 対する私は始終いつも仏頂面を提げていて、がさつで、何かを片付けるという事が大の苦手で、ユーモアどころか会話を楽しむという概念自体持ち合わせていなかった。
 彼女が初めて私の住まいにやってきて、まず始めたのは私の部屋の整理整頓だった。
 しかし、そんな二人でも奇妙に馬が合うのだった。人間、互いの持っていないものを求め合う、と言う話は聞いたことがあったのではあるけれども……、である。とはいえ、ともかく彼女と過ごす時間は非常に気持ちの良いものに感じられて、私の世界はそれを通して急激に拡大し、変貌したように思う。
 私は今までに無い幸福を感じていたのだ。
 少し困っていた事は、彼女の私に対する敬語がなかなか抜けない事だったが、何時の間にやら、それも結局彼女のスタイルとして全く気にならなくなっていった。
 そんな風に二三ヶ月ほど交際は続いて、その間は私の仕事も非常に順調に進み、やがて、私達は結婚を考えるようにもなっていたのだが、ここで一つ問題が起きた。たった一つ、それでいて非常に重要な問題が、一つあったのである。
 私は彼女に、自分がレイヴンという人種である事を告げていなかったのだ。
 それと言うのも、言わずもがな、その事実を知れば彼女は私に対して幻滅するのではないか? という危惧があったからで、そもそも世間一般におけるレイヴンという人種についての認識は、次のうち二つに一つである。一つは、アリーナで闘う競技者としてのもので、そういった面でレイヴンにはある種のヒーローとして歓迎される向きも確かにあるのだ。しかしもう一つは(どちらかと言うとこちらこそレイヴンの本質であるのだが)、報酬次第でどんなダーティな仕事だろうとも請け負う傭兵としてのものである。更にそれは、レイヴンが操るACと言う強大すぎる存在の力も相まって、不吉な、忌まわしい印象を孕むのである。
 そして、彼女の認識はと言えば、その内の前者のものでは無い事が明らかだったのだ。
 なぜなら、こんな事があったからである。
 ある日、私の部屋で二人してテレビを見ていると、その日行われたアリーナの試合中継の録画映像を流す番組が始まったのだが、その途端、彼女はテーブルの上に置いてあったリモコンを取り、チャンネルを何も言わずに変えてしまったのだ。そして彼女は、――ごめんなさい。私、レイヴンって嫌いなんです、と苦笑いを浮かべながら言ったのだった。
 チャンネルが変わった先ではニュース番組が放送されていて、その日の午前中、レイヴン同士の操縦する二体のACが市街地で交戦状態に入り、数十名の死傷者を出す惨事になった旨のニュースを、アナウンサーが淡々とした口調で読み上げていた。それに当たって私は、まるで時が止まってしまったかのように動きを止める他無かったのである。
 その様子を見た彼女は、――あ、でも、あなたがグローバルコーテックスに勤めてるからどうとか言うつもりはないんです、と慌てて言った。私は元から彼女に自分がレイヴンであると言う事がはばかられていて、取り敢えず、グローバルコーテックスで事務方の仕事をしている、と言っていたのだ。
 それに対して私の方は、はっきりしない生返事をするだけで精一杯で、その夜は一睡も出来なかった。
 その為、私は次の日のアリーナでの試合をすっぽかす事になってしまった。当然、コーテックスからは注意するようにきつく申し送られたし、対戦相手からもメールにて罵倒の言葉を浴びせ掛けられる事にもなり、後日アリーナに出場した時も、試合前の通信で責任者のくどくどとした説教を聞かされる羽目になった。
 だが、それでも私はどこか上の空という有様だったのだ。
 大体、問題は一つ、と言っても、彼女の親もいるのである。その時はまだ実際に会った事は無かったのだが、彼女の話を聞くと、彼女の父親は、大手という訳ではないがなかなかに名の知れている某企業の部長職に就いている人物だった。私は、そんな人物が、果してよりにもよってレイヴンなどという人種と娘との結婚を認めるものだろうか? と不安だったのだ。もっとも、万が一、アリーナのファンだ、とでも言うのなら、まだ望みがある、とは考えていたのだけれど、彼女の認識を知って、その可能性も限りなく無に近く思えたのだった。
 私はその事で悶々とした日々を送る事になり、仕事の方もしばらく不調が続いた。そして、日がな一日自室で考える事も少なく無かったが、今一つ決心が付かず、そうしている間にも時は過ぎて行くのだった。
 結果、先に切り出して来たのは彼女の方だった。
 ある日、その日も私達は私の部屋でテレビを見ていたのだけれど、私は、最近様子がおかしい、と彼女に問い詰められる事になった。その際彼女は、――最近……、何か私に隠し事をしてるんじゃありませんか? と単刀直入に切り出した(私は実際、鼻先にナイフを突きつけられたかのような気分を味わったものである)。そして彼女は、いくら私が誤魔化そうとしても少しも食い下がらなかったのである。その為、私達の間の雰囲気も次第に険悪なものになってしまい、遂には私が折れるしかなく、私は自分がレイヴンである事を彼女に明かす事になったのである。私がレイヴンになった経緯も話したし、初めて会った時、アリーナで負けて機嫌が悪かった事も話した。
 その間、彼女は終始きょとんとした表情で私の顔を見つめていたが、話が終わると、――少し考えさせて下さい、と同じ表情のまま言い残して部屋を出ると、ふらふらと怪しい足取りで夜道を帰って行ってしまった。午後からぱらぱらと小雨が降リ続いている日だったが、彼女は傘を差すのも忘れてしまっていて、玄関の傘立てには私のダークグリーンの傘と一緒に、彼女の白い蝙蝠傘が並んだままになっていた。
 私は何故か、彼女を追いかける事ができなかった。
 次の日、私は一日寝床で過ごした。生きながら生ゴミになった気分だった。そうしていると、そもそも私のような輩が、普通の女性と普通に結婚して普通に生活を営めるなど、あり得ない事なのだ、と諦めの境地へ達するようでもあり、私は生きながら生ゴミとなって、しかも腐敗していたと思う。
 だが、その次の日には、インターホンのチャイムが鳴った。彼女だった。
 彼女は沈痛な面持ちで私を見据えて、――今日は大切な事を話しに来ました、と言って、少し言葉を区切ると、――まず、あなたは私についてどう思っているのか、聞かせてください、と私に尋ねた。
 私は少し、どう言ったものか悩んだが、結局、――結婚したいと思っている、とだけ言った。それ以外、はなから言う言葉を私は持たなかった。
 すると、彼女はそれぎり俯いて黙り込んでしまって、その時までもまだしつこく降り続いていた雨の音だけが二人の間に充満した。
 それは長い長い沈黙だった。やがて、私は失望感を覚えたけれども、それはごく軽く、代わりに私は酷く納得していたのだった。そもそもその沈黙は、昨日の生ゴミとなった私が寝床の中で得た着想を裏付けるように思えたのだから。その為、私は、これからきっと彼女に振られるのだろう、と勝手に確信したが、それについて驚くほど何の感慨も湧いては来なかった。
 しかし、実際の所、彼女は私を拒む事への気まずさや後ろめたさに身じろぎするのではなく、私の眼をまたもしっかり見据えると、――私も同じ考えです、とはっきり述べていたのだ。
 対する私の妄念に浸りきっていた意識は、それに満足に反応することが出来なかったのだが、彼女は構わず続けた。そして、それは決然とした意思に満ちていたのだ。
 ――ただ、私の為にレイヴンを辞める覚悟が、あなたにはありますか?
 私はこの時、自分の中にずっと渦巻きつづけていた怒りが全く消えている事に気付いた。
 ――もう二度と、ACには乗らないと約束して貰えますか?
 私は一言、――うん、と答えた。

「それではまず、今日の予定から話させて頂きたいと思います」
 膝に乗せた鞄の中から何かしら取り出しながらハヤマが言う。
 件の“明後日”に当たる今日。私が公園に向かうと、ハヤマとジョニーはもう先に来て私を待っている所だった。ハヤマが、詳しい事は移動しながら話す、と言うので、早速車に乗り込み、今は何処かへと向かっている。今日は運転席にはジョニーが座り、ハヤマは私と一緒に後部座席に乗り込んでいた。
「って、聞いてますか?」
「ああ、はい」
 私は結局の所、昨日は一睡も出来なかった。体は睡眠を求めているように思うのだが、頭はこれからの事についてあれこれ考えてしまい。眠るどころではなかったのだ。
 私のレイヴン登録……、アリーナで戦う対戦相手の決定……、試合当日の打ち合わせ……。
「今日は、早速このレイヴンと戦って貰います」
 ハヤマはそう言って、私の膝に一枚のプリントを置いた。それによると、レイヴンの名前は“ディープブルー”、機体名は“クラーケン”、群青色の中量二脚……。
「まあ、あなたの腕でしたら、初めからもっと強い相手と戦って一気に勝ち点を稼いでも良いんですが、まずは肩慣らしと行きましょう」
 いや、待て。
「はあ!?」
 私の口から思わずすっとんきょうな声が飛び出していた。もう断じて、眠くなど無い。
「あ、御心配無く。あなたのレイヴンとしての登録は既に済んでいますので。ああそれと、失礼ながらレイヴンネーム、ACネーム、機体色等々、諸々こちらで決めさせて頂きましたので御了承下さい」
「いえ、そう言う事じゃあ無くて……」
 今日から試合?
 ハヤマを見ると、わざとらしく顔にクエスチョンマークなど浮かべている。
「……あなた、今日は何をすると思ってらしたので?」
「私のレイヴン登録などを……、その」
 いや、良く考えれば、この男なら十分有り得る事だった。昨日はその為の間だったのかも知れないし、もしかしたら、あの提案があった時点で、私は既にレイヴンだったのかも知れない。この男はそう言う男だと思う。
「ヒューズレイさん、あなたにも私共にとっても、時間は余り無いんですよ。返済期限まではもう残り五日ですし、あなた御自身にせよ、御家族の皆さんを誤魔化すのももう限界なんじゃ無いんですか?」
 その通りだった。妻は、そろそろ口座への然るべき入金が無いことに気が付くと思う。
「ですが……」
 しかし、それでも私がなんとか抗議の言葉を紡ごうとした時、聞き慣れた電子音が鳴った。
「ちょっと失礼」
 私は一言断り、内ポケットから端末を取り出すと、メールの送受信画面を開いた。
 すると、二件の新着メールが届いていた。一つ目は件名が、0695−BN5582号、で、二つ目は、以後よろしくお願いします、となっている。
 それを見て私は、一言で言うと、限りなく嫌な感じがした。
 先のものは差出人は管理者名義になっており、もう一つの名前には見覚えが無かったが、このシチュエーションには覚えがあったし、その為、この二つのメールの内容も容易に想像する事が出来るのだった。
 まず、管理者からのものを開く。文面はこうだ。
 0695−BN5582号:ケイン・ヒューズレイをレイヴンとして認証、以降、グローバルコーテックス登録下での活動に限り、ACの使用を許可します……。私はそこまで読んでそれを閉じた。
 次を開く。私を担当する事になったコーテックスのオペレータの挨拶文で、これも半分読んですぐに閉じた。
「そういう事です」
 私の肩を叩いてハヤマが言う。
「ちなみに、登録名“トルーパー”、機体名は“ヴァイパー”ですので」
 自分は再びレイヴンになった。そう思うと、妻への罪悪感がまた湧き起こってきて、私は沈黙した。
「大丈夫ですって。所詮肩慣らしですよ。相手はつい最近レイヴンになったばかりの新人で、戦績は成功が0、失敗2。アリーナでも三戦三敗です」
 ハヤマはそう話し掛けてくるのだけれど、私の胃はまた悲鳴を上げ始めていた。
「ちなみに、こちらも相手も機体は同じ初期のものです。中量二脚タイプ。武装はライフル、単発式の小型ミサイル、プラズマトーチですね」
 と、車が、カーブを曲がる。そして建ち並ぶビルの向こうを見て、ハヤマが言った。
「おっと、そうしてる間に……」
 窓越しに立ち並ぶ高層ビルの向こう、アリーナの会場となる巨大なドーム状の施設が、その威容を見せていた。
「ようこそ。……いえ、おかえりなさい、でしょうかね、あなたの場合……」
 妙に神妙な口調で、ハヤマが呟く。
「アリーナです」

 シアターの前の巨大な立体駐車場は、二十年前と変わらず今日も盛況だった。入り口にある電光掲示板の駐車ブロック表示にも、エンプティの緑色が数えるほどしか無かった。
 その中の一つに車を停めると、回りの人波に混ざって、私達も巨大な(と言っても、後ろにそびえるドームに比べればささやかな物に見える)シアターに入った。
 人波は奥の劇場に向かう者達と、地下のモニタリングブースに向かう者達に分かれるが、私の行き着く先はそのどちらでも無い。ここは地下に下りる波に従うが、階段を下りてすぐに脇道に逸れる。トイレの前を通り過ぎて角を一つ曲って、関係者以外立ち入り禁止と書かれた金属製で両開きの扉の前に来る。
「それでは、私達はここまでですので」
 ハヤマが恭しく頭を下げてそう言った。
 レイヴンの出入りは、一般にはシアターからドームを挟んで調度反対側に位置する、資材の搬入や保管に関わるもう一つの棟で行われると思われているようだが、実際の所それは間違いである。
 レイヴンは通常、自分の姿形を見られるのを非常に嫌う。職業柄、どこで誰に恨みを買っているか分からないからで(レイヴンの仕事は恨みを買ってやる事だ、と皮肉げに語るレイヴンがいる事でもある)、それによる報復を防ぐ為である。実際、コーテックスでも登録されているレイヴンの個人情報は機密事項であり、詳しいデータは一部の幹部職員しか自由に閲覧する事が出来ないようになっているらしい。
 そのレイヴンが一時に多数集合するアリーナという環境は多分に特殊な環境であり、機密保持の為には細心の注意が必要となる訳である。よって、レイヴンの出入りは、各時間帯の第一試合が始まる前に管制室の指示に従って順番に行われ、レイヴン達自身も互いに鉢合わせする事の無いように配慮されている。
 ここで言う“関係者”とは、レイヴンの事に他ならないのだ。
 自分の端末を取り出して、ドアの横の電子パネルに付いたジャックに伸ばした接続コードを差し込む。パネルに一瞬、赤い色で、照合中、という文字が浮かび、次の瞬間にはそれが緑色の、照合完了、の文字に変わって、気の抜けるような音を立てて扉が左右に滑った。
「ご健闘を」
 それを確認すると、そう言い残して、ハヤマ達はもと来た道を引き返して行く。
 そして私は、そのエレヴェーターの中を見て軽い眩暈を覚えた。二十年前と何も変わっていないそれは、しかし、私にとってはもう二度と見る事の出来ない筈のものだったのだ。
 気を取り直して中に乗り込むと、私は降下のボタンを押した。と、短い降下の後、間抜けな音を立てて扉が開く。正面には、間隔を置いてずらりと十個、ドアが並んでいて、緑色のランプが点灯していた右端のドアの中に私は入った。
 そこが、私の控え室となる。テーブル一つ、簡素なベッド一つ、椅子が一脚、埋め込み式の小型モニターが一つ、据え付けのロッカーが一つ、それと……。私は部屋の中を見回して、テーブルの上に家から建前上持ってきた鞄を置くと、入り口から見て右手のドアを開けた。そこはトイレになっていて小さな洗面台と便器がある。
 こんな所まで変わっていない。取り敢えず用を足しながら、そう思った。と、同時に、私は自分が郷愁にも似た懐かしさを感じている事に気付いていた。私はやはりこちら側の人間ということなのだろうか? と複雑な気持ちがする。
 私はトイレから出ると、次にロッカーを開けた。中にはヴィニールに包まれた真新しいパイロットスーツと、フルフェイスのヘルメットが入っていた。流石にこれは少々デザインが変わっていたが、それでも手際よくパイロットスーツを身に着ける自分の手際に、私は驚いた。やはり、体が覚えている、ものと思う。
 スーツを着終わると、モニターのスイッチを入れ、ベッドに寝転がった。
 このモニターでは、待ち時間の間、他選手の試合を観戦する事も出来る。そのチャンネルはまだ、準備中、の文字が青い画面に浮かんでいたが、直に試合が始まる筈だ。もっとも、レイヴンをやっていた頃、試合前の待ち時間を私はもっぱら精神集中に充てていたから、私がこれを使うのは今回が初めてだったのだが。
 しばらくして、画面はドーム内の情景を映し出した。しかし、それにしてもよく考えるとアリーナの試合中継を観戦する事自体、私が初めてレイヴンになって以降では初めてだった事に気付く。妻は、もちろん結婚してからもアリーナの試合はけして見ようとしなかったし、私自身、レイヴンになってからは他人の試合にそれほど興味がある訳でも無かったのだ。
 モニターを点けたのは単に、私の番を待っている間、あまり余計な事を考えずにはできるのではないか、と思っての事で、事実、そうなりそうに思えた。画面左側のゲートから出て来た砂色をした逆間接脚のACを、取り敢えず応援する事にして、この際楽しんでやろうと私は画面に見入った。

「はあ」
 ドーム内では限りなく無意味な砂漠迷彩が施されたACが、その逆間接式の脚を折り曲げ、力なくくず折れるのを見つつ、ジョニーは溜め息を吐いた。
「どうしました? つまらなそうですね」
 ハヤマがスクリーンの方を向いたまま唐突にそう訊くので、ジョニーはどきりとしながらも答えた。
「ああ、いや、そうでもないんですけどね」
 実際の所、ジョニーもアリーナは見ていてなかなか面白いと思っている。
 だが、狭いのである、座席が。
 これはどこに行ってもそうなのだが、映画館にせよ、アリーナにせよ、その座席はジョニーの体にとってはどうにも窮屈なのだ。それに、後ろに客がいると、大きなジョニーの体にどうにか視線を邪魔されないよう苦心する様子が伝わって来て、上映中、ただでさえ狭い座席の中で更に身を縮めていなくちゃあならない(そんな訳で、今ハヤマとジョニーは、ジョニーの希望で以って最後列の席に陣取っていた)。だから、どうにもそういった所ではスクリーンの中だけに集中できず、アリーナももっぱらテレビで録画中継を見るだけで、実際にシアターに来たのはジョニーはこれが初めてだった。
「別に外で待ってても良いんですよ?」
 ハヤマがやっぱり前を向いたままでそう言う。
「いやいや、ちゃんと楽しんでますって!」
 正直、別に贔屓にしている選手が出てるわけでもなし、いっそそうしても良かったのだけれど、それも何か勿体無いような悔しいような気がして、ジョニーはぶんぶんと首を振った。
 そうはしたものの、やっぱり席は狭い訳だし、後一時間ほどここにいるのだな、と思うとジョニーは少し憂鬱になるのだった。
「はあ」
 いや、でも、勿体無いしなあ。
 そう思いつつ、ジョニーはまた一つ溜め息を吐いた。

 そこで左に機体を切り返せ! ……と私は頭の中で画面内のACに指示を飛ばしたのだが、当然そんなものがパイロットに届く訳も無く、私の応援していた黒い中量二脚式ACは殺到する六発のミサイルをもれなく喰らい、その動きを止めた。
 思わず溜め息が漏れる。
 始めは、時間を潰す間、せめても気を紛らわす為程度に私は考えていたが、何時の間にか、画面内に展開される激戦の模様に夢中になっていた。ドーム内で行われる試合をリアルタイムで中継している筈のものだったのに、一方向からただ漫然とその様子を写すのではなく、巧みなカメラワークでもって映し出されるそれに、私は知らず知らず引き込まれていたのだ。
 しかし、今まで見てきた九試合、全ての試合の中で、私が応援する事にしたACがことごとく敗北しているのだった。それはこれから行われる私の試合の結果を不吉に暗示しているようにも思え、私は少なからず不安になった。
 とは言え、それらの試合を観戦した中、思っても無い明るい材料も発見された。試合の中、その攻防を見つめている間、その場その場で、この攻撃はどう回避すれば良いのか、あるいは、この状態でどう相手を攻めれば良いのか、といった戦闘のノウハウが驚くほど鮮明かつ迅速に私の中に浮かんだのだ。それはハヤマの奇妙なまでの自信の正当性を主張するようで、私自身、不安の中に一筋の希望を見出す気がした。
 ひょっとしたら何とかなるのではないか?
 その時、画面が切り替わり、次の対戦カードが表示された。遂に、私の番である。
 傍らに置いていたヘルメットを取り上げると、私は控え室奥のドアを抜け、機体への搭乗口前の通路へと通じる、長い廊下を進む。その間も、私の心は次第に高揚していくようだった。この長い、そして何よりも静寂な廊下に満ちる、何かぴりぴりとした不穏な空気を、二十年前の私はこよなく愛していた事を、私は思い出した。
 その廊下の終点であるドアがはっきり確認できるようになると、私は少し歩調を速めた。そのドアをくぐると、通路は左に折れる。私が出て来たものと同じように各控え室に通じている九つのドアの前を通り過ぎると、突き当たりの扉の前に立ち、私はヘルメットを被った。そして一拍置くと、それを開く。
 その途端、ドーム地下に広がる広大なガレージの中に満ちる喧騒が押し寄せ、私はヘルメット越しにも伝わってくる、慌しく動き回る整備員達の高い靴音や、怒声、整備機材の立てる金属音などにしばし耳を澄ませた。
 私は調度ACの頭部辺りと同じ高さになるように開けられた出入り口に立っていて、目の前には私の搭乗するACの後姿が見えた。ハヤマの話の通り、ごくごく平凡(むしろ平均以下)な組み合わせの中量二脚型AC。だが、久しぶりに見るACの巨大な姿は、その深緑色と白色を基調に黒褐色でアクセントが加えられたカラーリングと相まって、何か頼もしいものに見えた。
 一通りその各部を眺めてから、張り巡らされたキャットウォークの上を伝い、それの前面に移動すると、コックピットハッチをぽっかりと開けたコアを見下ろす。
 私はここで少しヘルメットのバイザーを押し上げ、鉄と潤滑油と硝煙の匂いが混じったガレージの空気を一つ深呼吸した。すると、脳の中心が痺れるような感覚があり、私はここでも言いようの無い懐かしさを感じた。そして、それを確認すると、ヘルメットのバイザーをぴったりと閉じ、一気にコックピットの中へと体を滑り込ませた。
 次いで、すぐさまコンソールを操作し、機体を起動させると、ジェネレーターの唸りが響き始めて、ハッチは閉じられ、コックピットの中はモニターの放つ淡い光に照らされるのみとなった。
 ACのコックピットの中には必要最低限の空間しか無く、極めて狭い。その中で、私がにょっきりと突き出された二本の操縦桿と、足元の二枚のペダルとを確認すると、機体を載せたリフトが、ゆっくりと動き始める。それは、少しの間横に滑ると、すぐに上昇に転じた。ここから機体はドームの中に通じるゲート内部にまで押し上げられ、そこから移動してドーム内の所定の位置に機体がスタンバイすると、いよいよ試合が始まるのだ。
 私はその上昇の間、機体各部のシステムチェックを開始した。無論、機体はアリーナの整備員達によって完璧に整備されている筈で、そもそもこれからすぐに戦闘が始まる、という時にこんな事を行っても意味は無いのだが、この行為は試合前の一種の儀式として、私には外せないものだった。モニター上に次々と現れては消えて行く文字列は、私の気持ちを一層昂ぶらせてくれて、今日もそれは二十年前と変わらなかった。
 そして、モニターにオールグリーンの文字が大きく映し出された頃には、機体内に軽い振動が伝わり、それはリフトが上昇を終えた事を意味していた。
 目の前には大きな鋼鉄の扉があり、徐々に開いてゆくその隙間から漏れ出た光がモニター越しに私の眼を刺した。私は一瞬目を閉じたが、その光量に目が慣れると、久しぶりに見る、巨大なドーム内部の景色に束の間意識を奪われていた。未だ先の戦いの残滓として、黒く焦げた床や大きく湾曲したその壁面に穿たれた弾痕がぶすぶすと燻っている。扉が完全に開き切ると、その中に、私の機体は一歩一歩足を進め始めた。
 その間、私はドーム内のより広い範囲の様子をざっと窺った。ドームの壁面や床には、収納可能な柱などの障害物が備えられていて、様々な戦場の状態を設定できるようになっている。九試合目では床面から伸びた柱が林立する、やや複雑な地形が設定されていたが、今回はそれも全て収められ、障害物の何も無い、極めて基本的なドーム内部のありようになっている事を確認する。
 と、機体がその歩みを止めた。それを受けて、私はコンソールのキーを一つ、打つ。
 戦闘モード起動。一層高まるジェネレーターの唸りが、私のあらゆる精神状態を最高潮にまで高めていった。
 私は機体のカメラアイを望遠モードに切り替えると、相対する、こちらと全く同じ組み合わせの群青色のACを見据えた。その間に、試合開始までのテンカウントが始まり、私はファイヴカウントがコールされた時点でカメラのモードを元に戻し、操縦桿をしっかりと握り締めた。
 3……、2……、1……。
 フットペダルに僅かに体重を乗せる。その、次の瞬間。
 私の希望は、脆くも粉砕される事になった。

「はあ」
 シアターの窮屈なシートに身を沈めて、馬鹿でかいスクリーンを見つめながら、ジョニーは大きく溜め息を吐いた。
 見つめるその中には、あらぬ方向に弾をばら撒きながら右往左往するヒューズレイの機体と、素人臭い動きながらも冷静にこれにライフルを撃ち込み、着実に装甲を削っている青い機体が映っている。
 場内はブーイングの嵐である。今日び、ここまで酷いACの操縦はジョニーも見た事が無かった。デビューしたてのFクラスレイヴン同士の試合だって、チケットはただじゃないのである。
 ほうら、いわんこっちゃない。
 が、そう思って隣を見遣っても、ハヤマは、狙い通り、とでも言わんばかりににやにや笑っているのだった。
「はあ」
 ジョニーはこれ見よがしに、もう一度大きな溜め息を吐いた。

 カウントが0になった瞬間、ブーストペダルを思い切り踏み込み操縦桿を左に捻り倒した私を、予想外の大きな衝撃が襲い、私は声にならない悲鳴を漏らして、たちまち恐慌状態に陥っていた。
 アリーナは二十年前と変わっていなかったが、私は二十年前から余りにも変わり過ぎていたのだ。
 そもそもACの操縦とは、ACが獲得した柔軟性に富んだ高い機動力(これこそがアーマード・コアという兵器を、レイヤードにおいて単独で最も強大な戦力と成り得る、名実共に最強の機動兵器たらしめている理由であるが)と引き換えに、過酷なまでの負担を操縦者の体に強いる。ACの戦闘時における機動は、急激な加速・旋回を伴って行われ、如何に擬似重力発生機構まで応用した高度なショックアブソーバーで保護されていると言えども、コックピット内部のパイロットにはなお強力なその余波が襲い掛かる事になる。パイロットはその中でも冷静に戦況を把握し、それに応じた精密な操縦をこなす事が要求され、必然的に強靭な肉体と精神力が必要とされるのだ。
 つまり、長年の会社勤めの中でのデスクワークから来る運動不足とストレスに冒された私の体は、AC操縦の際の激しい負荷に耐える力を全く失っていたのである。
 その結果、気付けばレッドアラートをうるさく響かせるコクピットの中、私は橙色のブレードを振りかぶる青い機体を呆然と見つめた。

「はあ」
 試合後のざわめきの中で、ハヤマは軽く溜め息を吐いた。
「負けちゃいましたねえ」
「負けちゃいましたね、じゃないですよ兄貴! どうするんですか!?」
 ハヤマはまるで、最初から期待していなかった宝くじがやっぱり外れていた時みたいな風に言ったが、ジョニーはその一言に対して、鬱屈した感情を言葉にしてハヤマに浴びせた。
 つまり、自分の心配が正しかったのは嬉しいのだけれど、結果として今回の仕事の先行きが暗澹たるものになったのだし、また、この状況でもにやにや笑っているハヤマが何だか腹立たしくて、ジョニーの脳はぐつぐつと泡立っていた。
「まあ、二十年のブランクですからねえ。初めはこんなものでしょう」
 しかし、それでも相も変わらないハヤマである。
 が、ジョニーは今日はそれにも怯まなかった。いや、ちょっと待てそれで片付けて良いのか? 今日ばっかりは一つびしっと言ってやらなくちゃあならない、と思うのだ。
 思えばハヤマと働き始めて早六年。ハヤマの独特な仕事のスタイルに、つい口を出す事も多かったが、その度にのらりくらりとかわされ続けて早六年である。もっとも、ハヤマがジョニーの意見を無視しようが、ことごとく取り立ては成功の方向に転がってしまうのだから堪らないのだが。
 その為、最近は口を出す事も少なくなっていたが、今回のこれは、流石にあんまりじゃあないか、と思うのだ。
「で、でも兄貴! あの野郎、あれじゃあ素人以下じゃあないですか!」
 劇場からの退出を始めた周りのざわめきに負けないように声を張って、ジョニーはそう返した。けれど、それでもハヤマは自分のペースを崩す事無く、それに対するジョニーの答えは正に脊髄反射的だった。
「こら、お客様にあの野郎とはなんですか」
「あ、いえ、すいません」
 ……そう謝って目を背けてしまった瞬間、ジョニーの心を言いようも無い敗北感が包むようだった。しかし、その次の瞬間。いやいやいやそうじゃあないだろうジョニー・フェルドマン。と、心の声が響いたのだった。そうじゃあないだろう。
 今の俺は何時もの俺とは違う、今日ばっかりは一つびしっと言ってやるんだ! そうだやってやる! ジョニー・フェルドマン、六年目にして遂に最大の決意を固めた瞬間だった。ちょっと通してくれませんか、と誰かが心底迷惑そうに体をつついたような気がするが、それも気にならなかった。
「いや、そんな問題じゃないでしょう!?」
 だが、振り向いてそう言ったジョニーの目の前には誰もおらず、当のハヤマは劇場の出口の所から、こちらをさも不思議そうに見返しているのだった。
「何やってるんですか? 早く行きますよ」
 後ろで、もう構いません! と腹立たしげな声がしたような気がしたが、そんな事はジョニーに取ってどうでも良い事だった。
「はあ」
 ジョニーの口から、軽い、しかし、それでいて魂まで一緒に抜け出させてしまいそうな溜め息が漏れた。

「おや、どうしました? 顔色が優れませんが」
 エレヴェーターから降りた私を見て、ハヤマが発した第一声がそれだった。
 当然である。ACのコックピットから這い出した私が真っ先にした事は、搭乗口前の通路に直結しているトイレに駆け込んで、セラミクスの便器に胃の内容物を盛大に吐き出す事だったのだから。
 選手控え室にも設置されているトイレを、そこにも設けるというこのアイディアについては、コーテックスも実に気が効いていると思う。
「ええ、まあ……」
 しかし、ついつい生返事をしてから私は、しまった、と思った。……もっとも、気丈な風に振舞っていても、どれほどの差があるものかについては定かではなかったが。
「まあまあ、大丈夫ですって! 今日は初日ですから、体が慣れてくればFクラスの連中なんてあなたの敵じゃあ無いでしょう!」
 その、体が慣れる、まで私は後何回あのトイレで吐かねばならないのだろうか? そんな絶望感と、ハヤマの絶え間無い慰めと励ましの言葉と、ざわめく人波に苛まれながら、私は車まで向かう事になったのである。
 そして、ハヤマの激励は車内でも止む事無く、それから解放されて例の公園の前に降ろされても、私の苦悩が終わるわけでも無かった。公園入り口の街灯の下で、私は、これからどうしようか、と考え込むのだった。
 正直な所、私は家に帰りたくなかった。
 帰りのモノレールにはまだまだ余裕がある。しかし、妻の笑顔に私は耐えられるのだろうか? その答えはノーだと思ったのだ。
 結局、私は妻に、今日は同僚と飲みに行くので少し遅くなる、とメールを送った。私の職場と家とは結構距離が離れており、タクシーでは金が掛かり過ぎる為、その近くで飲んでいて終電を逃がした時は、そのままホテルに泊まる事が以前にもあった。その寸法である。
 だから、私はしばらく街をうろついて頃合を見計らった後、終電を逃した旨、妻にメールを送るのも忘れなかった。
 こうやって、また一つまた一つと私の嘘は増えていくのだな、と思い、更に陰鬱な気分は強まったが、それでも妻の顔を見るよりは心が痛まない気がした。いや、妻に私の顔を見られるのよりは気が楽な気がした。
 私は重い足を動かすと、最初に見つけたカプセルホテルに泊まる事にした。
 吐き気と入れ代わりにやって来た、もやもやとした頭痛が私の頭を包んでいて、酷く疲れていたというのになかなか寝付く事ができなかった。
 しかし、薄い毛布に包まって、何度も寝返りを打つ、その間。私の心に何より重くのし掛かっていたのは、別れ際にハヤマが言った、では、明日も同じ時間、この公園で、という言葉だった。

「こんばんは。お待ちになりましたか?」
 車の窓から突き出されたハヤマの顔が、夕日の赤い色に染まる。
 私の方は、待っていたと言えば待っていたのだし、待っていなかったと言えば待っていなかった。私はホテルを出てから、しばらく街をうろついて暇を潰していたが、結局午後になると例の公園に収まっていたのだ。それからずっとハヤマとジョニーを待っていたと言えばそうであるし、他に行く所が無かったのも事実である。
「いえ」
 私はそう答えた。
「ならいいんですが……。じゃあ、行きましょうか」
 今日も運転はジョニーが行い、ハヤマと私は後部座席に乗り込む。そして車が発進すると、早速とばかり、ハヤマは昨日と同じように鞄から一枚のプリントを取り出した。
「今日の対戦相手です。なあに、昨日よりも酷い奴を捕まえましたから」
 ハヤマはそう言うと、自信たっぷりににやりと笑うのだった。だが、それは私の精神状態を更にマイナス方向へと追い遣り、その後、昨日私が心を昂ぶらさせられたどんな事物も、私を高揚させる事は無かった。
 試合中継を流すモニターも、二試合目の途中で私はその電源を切った。今日は全部で九つの試合で、私はまた最終試合の出場だったが、それまで、ベッドに寝転がりすっと控え室の天井を見つめながら過ごした。
 そして、ガレージへと続く廊下に満ちる空気も、この時ばかりは私の中の何事をも刺激しなかったのだ。
 ……結論を言うと、その後、私はまた負けて、また吐いた。
 私の精神状態は自分でも救いようの無い状態に思えたが、帰りの車内でのハヤマの言葉はそれに反比例して加熱するようだった。ジョニーはと言えば、やはり押し黙っていたが。
 それから解放されると、私はまた、どうしようかと悩むのだった。
 が、結局、私は今日は家に帰る事に決めた。余りこういう事が続くと、妻に怪しまれるかも知れないし、これから更に負けが込んで、どうしても家に帰りたくなくなってしまった時などの為に、その機会は残しておくべきだ、と建設的なのかそうでないのか分からないような結論を私は出していた。
 帰りのモノレールの車内はがらがらで、私と同じ車両では、サラリーマン風の中年男が一人、座席にだらしなくへたばっていた。私はそれを見て、何故か彼に無性に腹が立ったが、同時に羨ましくも感じる始末だった。
 駅に着き、私は彼を横目で睨みつつモノレールを降りると、家へと足を向けた。
 我が家のドアの前に立った時、私はまたも逡巡したが、なるべく頭の中を空っぽにするよう念じながら、その鍵を開けた。
 妻は私を笑顔で迎えた。

「いってらっしゃい」
「ああ、いってくる」
 家から出て、駅に向かう。が、今日は普段とは逆の方向に、終点までの切符を買った。
 今日は試合が無い。土曜日はアリーナの定休日である。何時もの公園で時間を潰すのも良かったが、土日は人が多くなりそうなので、私は今日はある場所に行く事にしたのだった。そこに行くと、何時も私はある一つの事しか考えられなくなるし、それは良い気分転換になるのではないか、と思った。それは、平たく言えば現実逃避なのだが、今の私にはそうせざるを得ないように思えた。
 普段とは逆の方向となると、朝の通勤時間帯で満杯だった車内も、進むに連れて急速に人影を減らしていった。終点に行き着く頃には私を含めて五人しか車内には残っていなかった。
 駅を出ると、更に街の中心部とは逆へ逆へと歩いてゆく。ここら辺りは既にスラム化が大分進行している地区で、道筋には薄汚れた古い建物が立ち並んでいるが、歩を進めるに連れてそれも数が少なくなって、黒いアスファルトだけが続くようになる。やがて、遂には道は高いフェンスに遮られ、そこから途切れた道路の先にはごつごつとした地肌が覗いている……。
 私は道路から降り、そこの更地に転がっていた手頃な大きさのコンクリート塊に腰を降ろすと、例の安煙草に火を付けて、先にそびえ立つ巨大な鋼鉄の壁を見上げた。
 レイヤードの最外縁部に、私は来ていた。
 もちろん、人影は私以外に無く、空調設備の、耳鳴りのように響く低い唸りだけがその場には満ちている。
 私が吐き出した紫煙が、ゆっくりとうねりながら青い空へと上ってゆく。
 そう、上には空がある。
 だが、私がここに来ると取り憑かれる一つの考え。それは、空が見たい、という事だ。
 それを聞けば、大抵の人間は、何を馬鹿な事を、と思うかも知れない。しかし、良く考えてみれば私の言いたい事が分かると思う。
 レイヤード外縁のそびえる鋼鉄の壁。それを見上げてゆくと、視線は空にぶつかる。そう言った意味で、それは塀とも見えるのだが、やはりそれは壁であって、レイヤードの空はあくまでも天井そのものに過ぎないのだ。
 つまり、それは所詮模造された空であって、この上に広がる本当の空を、私達は目にする事ができないのだ。
 それを思うと、私は無性に妙な悔しさと歯痒さを堪え切れなくなる。
 今日もその思いは変わらず私の元にやって来て、私はただただ呆けたように空を見上げつづけるのだった。そうすると、今までの懊悩も、何処か遠くへと追い遣られていくようだったのだ。
 例の安煙草も、それほど悪くないと思えるようになっていた。
 今日は、定刻に仕事が終わった時と同じぐらいに合わせて家に帰る事にしていて、陽が、本当は無い、壁の向こう側に落ちかけようとする頃、私は腰を上げた。茜色に染められて漂う雲を見遣りながら、私は元来た道を駅へと引き返した。

 家には大体予定通りの時間に行き着いた。そう言えば、家で夕食を取るのは久しぶりのように思えた。多少気分が良くなっていて、昼食は食べなかった事もあり、私はそれを非常においしいと感じた。妻にそれを伝えると、妻は驚いた様子だった。
「今日は何かあったんですか?」
 ささやかな罪滅ぼしのつもりだった。
 しかし、その時、がちゃり、と玄関のドアが開く音がした。
 私はそれに一瞬耳を疑い、妻の顔を見たが、妻も同じ事を考えているようで、食器を片付けようと椅子から腰を浮かせかけたまま私の顔を見返していた。
 私と妻は今ここにいるのだし、つまりはこの物音を立てた人物は一人しかいない筈だったのだ。私がダイニングから出て玄関を見遣ると、見慣れた赤毛のショートカットが、腰を降ろしてブーツを脱いでいる所だった。
「レジーナ」
 娘の姿を見るのは六日ぶりだった。
 けれども、本人は実に無感動に、靴を脱ぎ終わると私達の前をそのまま通り過ぎようとして、私は慌ててそれを引き止めた。
「待ちなさい。何処に行ってたんだ」
 娘は面倒臭そうに振り向いて言う。
「端末調べれば分かるでしょ? いちいち言わないでよ」
 だが、私は怯まないように返した。
「そういう事じゃあない。何故、こんな家出のような真似をしたのかと訊いている」
「さあね」
 娘はそう言ってそっぽを向く。が、私が次の一言を言うと、そのまま動きを止めて、何か考え込む風だった。
「真面目に答えなさい」
 しばらくの間、沈黙が場を支配した。後ろからは、妻が心配そうに見守っている様子が伝わってきた。と、娘は突如口を開き、うめくようにこう言ったのだ。
「……あんただって、真面目に私の親やった事あるのかよ」
「何?」
 私はそう口に出したが、それは意識的なものではなく、なんの意味も持たないものだった。しかし、娘は更に激した様子で続け、それは私を打ちのめした。
「何時も仕事仕事で、あたしなんか見もしなかったくせに!」
「レジーナ!」
 今まで黙っていた妻が口を開いていた。
「お父さんは……」
「母さんは黙っててよ」
 だが、娘はそれをぴしゃりと遮り、また私の方に視線を据えて吐き捨てるように言う。
「あんたは何時も忙しい忙しいって言ってて、あたしの事は母さんにばっか任せっ切り。それでこんな時だけ父親面するんだ」
「レジーナ……」
「むかつくんだよそういうのは!」
「レジーナ!」
 私は娘の腕を掴もうとしたのだけれど、娘はそれよりも早く自分の部屋に駆け込んで、鍵の閉まる音がした。その音は酷く大きな声に聞こえ、私の腕は行き場を無くして宙空に突き出されたまま、しばらく動かす事ができなかった。
 娘は、このようにして家に帰って来て、束の間落ち着いたかのように思えた私の精神状態も激しくかき乱されたのだった。

「おはようございます。では、行きましょうか」
 ハヤマがそう言って、後部座席のドアを引いた。
 用事がある、と言って、本来は休日なのだが私は朝から家を出た。日曜日の今日は朝の試合に出るという事に、ハヤマとも申し合わせていたのだが、そうでなくともそうしていたと思う。娘とは今まで口論になった事はあっても、昨日のものほど私にとり痛烈なものは無くて、家の中にいて、娘と顔を合わせるのが何か怖いと感じたのだ。
 昨日から、頭の中では娘の言葉がぐるぐると回り、それに合わせるように、私の思考も堂々巡りを続けていた。
 ……実は、私は娘が家を飛び出した時、一日帰って来なかった時点で、その端末の位置を検索する事まではしていた。しかし、それで端末が移動している事を確認して、娘が事故にあったりしたのでは無いと分かると、私はそれ以上積極的に動く事は無かった。正直な所、娘を説得して、連れて帰る自信が私には無かった。無理矢理連れ戻そうとして、かえって反発されるのではないかと思えたのだ。
 今になっては、そんな所も、いけなかったのかも知れない。しかし、そう考え始めると、私は父として、全ての選択において誤ったものを選んできたような気がして、言いようも無い虚脱感に襲われるのだった。
 娘よ。では私は一体どうすれば良かったのだろうか? 確かに仕事にかまけて、お前を良く見てやれなかった所はある。だが……。
「……ズレイさん。ヒューズレイさん?」
 気が付けば、ハヤマが私の名前を呼びながら、目の前で手をひらひらさせていた。
「ああ、すいません」
 謝罪の言葉も、気持ちがこもらない。
「どうかされましたか?」
「いえ、大丈夫です。おはようございます」
「はあ……。まあ、じゃあ、行きましょうか」
 ハヤマは私を促して先に車内に入れると、自分も乗り込み、車は発進した。
「さて、では今回の対戦相手ですが……」
 しかし、次の瞬間には私の意識はまた堂々巡りの中に落ち込んで、ハヤマの声は私の耳素通りしていくようだった。
 私はどうすれば良かったというのか? その問いだけが、頭の中で延々と繰り返された。私はどうすれば良かったというのか? ひたすら、家族の為にと仕事に励み、それでもまだ足りなかったのだろうか? いや、それではいけなかったのだと娘は言う。では、私には何ができたのか……。
「……ズレイさん。着きましたよ?」
 再び、私の思考を断ち切ったのはハヤマだった。車は既に駐車場の中に停車していて、ジョニーは早々と外に出て伸びをしていた。
「降りますよ?」
 不思議そうな顔で、ハヤマが言う。
「ああ、すいません」
 私は先程と同じように答えた。
「本当に大丈夫ですか?」
「いえ、大丈夫です。行きましょう」
 自分でも、大丈夫じゃあないな、と思う。
 シアターに入り、控え室に向かう。その間も、頭は昨日の事しか考えられなかった。パイロットスーツに着替えて、ベッドの上に腰掛け、本来、試合に備えて意識を集中させるべき時を迎えても、私の思考は相も変わらず際限無くとぐろを巻き続けた。モニターの電源も、今日は点けなかった。
 やがて、ブザーが鳴ったが、私にはそれがどうしようも無くうるさく感じられるのだった。
 控え室を出て、搭乗口に向かい、機体に乗り込む。その一連の動作も非常に煩わしく思え、リフトが上昇を始めても、気持はまるで昂ぶって来なくて、私は、今までで初めてシステムチェックをしないままリフトの停止の時を迎えた。
 そして、ゲートが開いて、機体が歩き始めると、いっそ、相手がブレードで斬り易いように今日は開始位置で機体を突っ立ったままにさせてやろうか、と投げ遣りな考えも浮かび、私は俯いて自嘲気味に唇を歪めた。
 しかし、ふと顔を上げると、何らかの違和感が私の心を掴んだ。しかも、改めてそれを良く見てみるとその感覚はどんどん強まっていき、私は思わずACのカメラアイを望遠モードに切り替えていた。
 向こう側のゲートから現れる機体のそのシルエットが、先の二日間で私が戦った機体のものとは、限り無く異質なもののように見えたのだ。
 そうして、ズームアップされたモニター越しに私が見たものは、その手に握り締めた、黄銅色に鈍く輝くマシンガンが嫌でも目に付くレモンイエローのACが、四本の脚をがしゃがしゃと動かして所定の位置へと進む姿だった。