SYSTEMDARKCROW
TRPGリプレイ、創作小説のサイトにして、ARMORED COREオフィシャルサポーターNO.22。管理人:闇鴉慎。ご連絡はブログのコメントまで。
彼女の痕
プロローグ
たくさんの人が映画館の中に入っていく。小さな子供から青年と大人まで、さまざま顔ぶれだった。建物の入口前で雲山雅人はそんな人々を一瞥したあと、手元の携帯に目をやった。
慣れた手つきでボタンを押し文章を入力。
『おせえぞ何やってんだ! もう始まっちまうぞ』
送信。
しばらく待つと、反応が返ってきた。
『ごめん! 突然急用が入っちゃって。これなくなった、あははは。あたしの代わりに楽しんできてよ、じゃ』
雅人の右手がぷるぷると震えた。
「一人でどうやって楽しめっていうんだ。……いや楽しめるけど」
チケットはペアチケットなのに。ドタキャンとはあのアマ……。こちとらしっかり三十分前から待っていたのが無駄になったんだぞ。ドタキャンするなら、もっと早く連絡入れろボケ! ……雅人は怒りの言葉をそう携帯本体に向かってぶつけた。
さてどうしようか、雅人は考える。一人で映画を見るのはあいつに負けたみたいで絶対嫌だ。かといってこのまま帰るのも、一日の無駄を感じてもったいない。……やっぱり一人で映画か、でもな〜。
その時、雅人の視線に一人の女の子が入った。
たくさんの人々のいる中、ぽつんと一人でぼーっと立つ自分くらいの年の少女だ。薄い茶が混じったショートの髪。今の季節に相応しいラフな水色のワンピース。身長は女の子にしては大きめで、おかしいことに童顔だ。おかげでスタイルの割にガキっぽく見えるが、雅人は素直に彼女が「かわいい」と思った。
雅人はにやりと笑う。そうだよ別に帰る必要も一人で映画見る必要もない。ナンパして別の子といっしょに見てそして遊べばいいんだ。
そう思ったら自称行動派の雅人は、早速ターゲットに決め込んだショートの少女に近づいた。愛想がよさそうな笑みを浮かべながら、
「どうしたの? 人待ち? もう映画始まるよ」
突然話されたせいか、少女は反応に窮したみたいに、戸惑いを全面に浮かべていた。
ふっ、男慣れしてないな。つまり彼氏待ちはありえないわけだ。にやりと雅人から軽薄な笑みが浮かぶ。
「もしかして君もドタキャン食らったの? いや実は俺もなんだ。おかげで三十分も無駄して、ペアチケットもこのままだと無駄になっちゃうんだけど……そうだ! もしよかったら、いっしょにどうかな?」
一方的に話、用件を言った。男慣れしていない子は、基本的に押しに弱い。別に話術が得意じゃなくてもうまく丸め込んでデートしてしまえば、自然と仲良くなるもんだ。
少女はえ、え? と言いながらキョロキョロしていた。なぜか顔が真っ赤である。ここまで慌てるとは雅人も予想外だ。ちょっと不安になってきた。いきなり叫んだりしないよな……。
だがしかし、
「えーと……はい、いいですよ。タダなら」
慌てていたと思ったら、すんなりOKの返事。
一瞬、こっちから誘っておいてなんだが、内心面食らってしまった。だが表情には出さない。ここは普通に……。
「まじで? よかった〜。……じゃあ、はいチケット」
「ありがとう」
「早くいこう。もう始まっちまう」
「うん」
笑顔で頷く。雅人は彼女を先導するように、前を走って映画館の中に入った。
これが俺、雲山雅人と、日野下美夜との最初の出会いである。
一章 彼氏彼女
映画が終わり、建物の外に出て雅人は背伸びした。
なかなか面白い映画だった。基本的に感動ものには反応の薄い体質である雅人でも、けっこうウルウルくる作品だった。
「楽しかったでしょ?」
ちょこんと隣から顔をだし、日野下美夜が言った。最初の時のきょどった態度はまったくない。馴染むのがずいぶんと早いなと雅人は思ったが、それよりも美夜の一言に疑問を覚えた。
「どういうこと?」
「私、この映画前に見てたから」
「え? それじゃなんで……」
なんで一緒に映画を見る気になったんだ? まさか俺に一目惚れしたのか? と調子のいいことを雅人は顔に浮かべた。彼女はそれを察したのか、ぶぶ〜と口を尖らせ、
「正直、もう一回見たかったんだ。ほんと好きだから、この映画。それと、遊びも成功したし」
「遊び?」
雅人が聞き返すと、美夜は照れながら頷いた。
「実は、ナンパを待ってたんだ。私ナンパされたことなかったから。最初自分からしようと思ったんだけど、女の子からなんておかしいじゃない? だからナンパされるために、人が多いところで待ってみたんだ。あんまり期待してなかったんだけど。
それでまさかほんとにされるとは思ってなくて、だからとっても驚いちゃって」
なるほど、だからあんなに最初戸惑っていたのか。雅人は納得し頷いた。
しかし、まったく予想外である。第一印象は『テンションが低めの子』と思っていたのに、まったくの正反対である。別にそれが悪いわけではない。むしろより好意的な気持ちに雅人はなれた。
「これからどうする? 時間があれば、デートを続けるコースはどう?」
「うーん、いいよ。でも私お金ないよ」
「大丈夫だ。金のかからないコースを通るから」
「うわっ、最悪〜」
「文句があるなら金ください」
「最低だねー」
「まあよく言われる。だからドタキャン食らったのかな?」
美夜はあはははと楽しそうに笑った。
やはり時間も金もなかったので、雅人は喫茶店で美夜とだべることにした。美夜は最初不満をあらわにしたが、話している内に雅人とは気が合ったおかげで、ただ喋っているだけでも楽しそうだった。
だがその時、突然ピピピとベル音がなった。
「なに?」
美夜が疑問の声を上げた。
「やべ、門限だ」
「え? 門限なんてあるの?」
「夕飯は俺が作ることになってるんだ。俺母親死んでるから」
「そうなんだ。意外と大変なんだね」
「そうでもないさ。親父はしっかりもので大手の企業に勤めているし、兄貴も稼いだ金をこちらに送ってきたりするし、家庭生計はまったく問題ない」
「……そうじゃなくて、寂しいとか、そんな事はないの?」
美夜の言葉に雅人はん? と思い、少しんーと考えてみた。
確か、当初母が死んだときは荒れに荒れた。まだ幼かったし、母に甘えていた時期だったから動揺は半端ではなかった。毎日気持ちにぽっかり穴が空いたみたいで、虚構を彷徨っているような感覚に囚われていて、小学生なのにぼけーっとしていた。……今もしてるけど。
「うーん、最初の頃はけっこうきつかったけど。こういうのは慣れだな。何事も日常化すると、重大だったこともどうでもよくなる。普通になる」
「ふーん、そういうもんなんだ。私、身内はおろか、仲のいい親戚で死んだ人とか今までいなかったから」美夜はふうとため息をついて、「なんだか拍子抜け、そんな簡単に割り切っちゃうなんて」
「まあ、俺の場合はまわりが支えてくれたからな。母さんが死んで、そこで親父も兄貴もいなかったら、さすがに俺でもヘコんでたな。笑うとかできなかったんじゃないかな。最近テレビである「笑えなくなった少年」になってたかも。
やっぱ、家族って大切だと思うよ」
「うん、そうだよね……」
美夜は小さく頷いた。一瞬だが、表情に微妙なかげりが見えた気がする。少し気になったが、追求するとボロを出しそうなのでやめた。
雅人と美夜は椅子から立ち上がり会計をすませ、喫茶店を出た。入口前で「それじゃ、また今度」と言って携帯を掲げ指差し「またデートしようぜ。連絡はここ」と付足した。
美夜はおかしそうに笑い頷き、自分も携帯を掲げて小さな手を振った。
そして二人は各々の帰路ついた。
*
次の日の朝。
「うーす」
教室に入るなり、やる気のない挨拶をクラスに送る。
すると各々の同級生達からさまざまな挨拶が返ってきた。わりと気の合う奴らにはいはいと答えながら、雅人は自分の席につき、手提げバッグを脇に置いた。
「雅人! 雅人!」
長い登校路の疲れをため息にこめていると、うるさく人の名前を叫ぶ声が聞こえてきた。やや不機嫌な表情で視線をやると、そいつはどかっと音を立てながら前の席に座った。
「お前さ、昨日女の子と歩いていただろう?」
なんで知っているんだ……、と思ったが、俺はすぐにこの男……松田の特性を思い出した。人間レーダー(女子限定)だ。毎日他人の異性関係を観察チェックして、至福を肥やしている暇人なのだ。
雅人は顔には出さず、かわりにはぁ? といった顔を返してやった。こいつに美夜の事が知れたらろくな事になりそうにない。ここは秘密にしとくのが得策だと雅人は判断した。
「なんのことだ?」
「あれ? もしかしてはずれ?」
「別の奴じゃないか?」
白々しく言ってやった。人間レーダーはあれ〜おかしいなと納得のいかない表情を浮かべた。
その時、
「あ、それあたしも知ってる」
視線をやるとがたっと椅子を引き、黒いストレートヘアーでわりとスタイルもいい女子がこちらを見ながら立ち上がった。
花島花穂。昨日、雅人をドタキャンした女である。
「昨日駅前の喫茶店のとこで見かけたよ。ちょっとかわいいショートの女の子といた」
「ほんとか花島!?」
「あたし嘘つかな〜い」
「…………」
――どういうことだ? 雅人は顔には出さなかったが、内心では動揺しまくっていた。
花穂はこちらをにやにやした顔で見ていた。この顔は嘘をついている顔ではない。おそらく、同じ喫茶店でたまたまご一緒していた時に見られたのだろう。
くそっ! つくづく人を小ばかにした女だ。急用はどうしたんだよ。
「まったく、遊ぶ相手がいなくなったとわかればすぐナンパで即ゲット。さすがですね雲山先輩」
「まあね、世の中にはどっかのドタキャン女なんかよりも、素晴らしい女性たちがいるから」
「あ、認めた」
「どーせ時間の問題だろ」
隠し通しても花穂は喫茶店での雅人達の馴れ合いを見ていたのだ。花穂はこの通り意地が悪い。隠せば隠すほど、知った情報を使ってこちらを攻撃してくる。潔く降参したほうが無難なのだ。長年の付き合いで、雅人はその事を深く理解していた。
「よくわかってるじゃん。で、名前はなんていうの?」
「なんでお前に言わなきゃいけないんだよ」
「……一瞬、彼女の手触ってドキっとした?」
「……いったいどれだけ見てたんだてめぇは。ストーカーか?」
「雲山先輩も、ほんと嘘つけないよね。素直でかわいい」
うふふと花穂は妖艶な笑みを浮かべた。雅人はうっとたじろぐ。完全に花穂のペースに持っていかれていた。
別に雅人は嘘がヘタでも、恐ろしくバカなわけでもない。ただ花穂に対して頭があがらないのだ。まるでこちらの心を覗いているみたいに、花穂は盲点をついてくる。それに雅人は焦る。そしてボロボロになる。討論になると、毎回このパターンだ。
「観念しなさい、あんたはあたしには絶対勝てないんだから。しかも、証拠まで掴んでるし。こっちは余裕で圧勝って感じ?」
非常に悔しかったが、雅人は観念した。
「……日野下美夜」
「何歳?」
「いっこ下」
昨日夜中の電話の時に聞いた情報だ。ついでの情報を言えば、最近こちらに越してきたらしい。学校もこの辺だと聞いている。なぜか彼女は、正確な学校名を言わなかったのだが……。
その時、人間レーダー松田がああーとうるさく叫んだ。
「その子って、ここの学校ってきいた?」
「ん? いや、ここ周辺にあるって―――」
「ここ周辺って、そんなにないよ。とりあえず、あの映画館あたりを遊び場にするぐらい近い高等学校はない」
「うんうん、間違いない。その美夜って子、うちの学校の生徒だ。最近こっちに越してきたんじゃない?」
「ああ」
「一ヶ月ほど前に、一年に転校生きた」
「これまたご都合的などんぴしゃりっぷりねぇ……」
「…………」
なるほどそういうことだったのか。雅人は頷く。彼女が学校名を言わなかった理由……まあよく考えればすぐ分かる事であるが、たぶん、彼女なりの脅かし作戦でも考えていたのだろう。
……かわいいな。
「うわっ! こいつ急に笑いだしたぞ!」
「たぶん卑しい事考えてるのよ。現在、彼の頭の中では転校生美夜ちゃんが制服ひん剥かれている最中。……こんな感じで」
「お、恐ろしい……あ、ああぁ」
はっと雅人は意識を戻すと、目の前に恐ろしい光景があった。松田と花穂が微妙な近さで絡み合っているのだ。なぜか松田が攻められる形になっている。攻める側の花穂は淫靡と表現していいくらい妖艶なオーラを放っていた。
「……なにやってるんだ?」
「ん……あんたが今考えてることをリアル再現」
「すごいテクニックだよ、雲山くん……」
なぜか少女のような声をあげる松田。実際、やりながらとても楽しそうである。しかし、かなり気持ち悪いので止めて欲しい。雅人は青ざめた顔で心から思った。
「…………」
キーンコーンカーンコーン……。
「あ、ベルだ」
しゅたっと行為を止める花穂。続くように松田もやめた。心なしか、松田は少し残念そうであった。
「切り替え早いな……」
「バカをやるのは休み時間だけ。じゃあ雲山先輩、のちの成果を楽しみしているね。もちろん、さっきの再現あたりレベルの事だよ」
「帰れバカ!」
「昼休みあたりに会いに行ってみれば? 彼女喜ぶと思うよ」
「転校生の教室は、確かDクラスだったぞ。がんばれ」
助言と情報を告げて、二人は席についた。同時に担任も教室に入ってきた。
二人の言葉を噛み締め、朝のHRが始まる中、雅人は昼休みに美夜がいると思われる教室に行ってみようと思った。
*
昼休み。早速雅人はDクラスに向かった。昼休みだけあって廊下は騒がしく、各々の教室から元気な声が聞こえていた。雅人はなんとなく、その声の中に美夜がまじってないかと聞き耳を立てていた。すると、なんだか濃いおっさんの様な声ばかりが入ってきた。気分が悪くなったのでやめた。
としている間に、Dクラス前。
ちょうど教室前にいた女生徒に声をかけた。
「ちょっと」
「はい?」
「このクラスにさ、日野下美夜って子いない?」
「日野下美夜?」
女生徒は急に考え出した。同級生なのに名前も覚えていないのか? それともはずれなのかと、雅人は少し不安になった。だが女生徒はあっと声をあげて、
「ああ、彼女ね」
どうやらはずれではなかったようだ。その事に雅人は安心したが、しかしそれよりも女生徒の反応が気にかかった。
妙に、嫌な表情を浮かべたのだ。
「彼女になにか?」
「……あ、呼んで欲しいんだけど」
女生徒はややめんどくさげな様子で教室の中に戻り、しばらくすると戻ってきた。
「いないみたいです」
「あ、そう。ごめんね面倒かけて」
雅人はなんだか女生徒の雰囲気に気圧された気分になり、覇気なく言った。女生徒は用がすんだとわかったら、さっさと教室に入っていった。
いったいなんだあれは……。雅人は釈然としない面持ちで、先ほどの出来事に対し思考を巡らせていた。あの女生徒とケンカでもしているのだろうか? それにしては、ずいぶんと嫌な感じを出しすぎていた。
まあ考えても仕方ない。この事は彼女本人でもさりげなく聞いてみよう。そう決めて、雅人は自分の教室に戻ろうとした。
その時、
「どうしたの早苗?」
「なんかぁ、ゾンビ女尋ねてきた人がいたの。たぶん二年生」
「男?」
「うん」
「うわっ! 生意気〜〜それってかっこいい?」
「けっこう」
「うわっ! ますます生意気〜〜」
「ゾンビだから、噛み付いて味方にでもしたんじゃない?」
「あはははありえるありえる」
「おっそろしい〜」
「やばっ! 私の彼氏も狙われちゃうかも」
「ああ確かに、やばいかも」
「ああでも、もしそんなことになったら私――――」
「あいつ殺すよ」
教室から騒がしい笑い声が聞こえてきた。
雅人は衝撃をうけた。いったいなんの話をしているんだ。
これがテレビかなにかの話題なら、笑い話になったことだろう。だが違う。どう考えても、これはある相手に対するはっきりと悪意に満ちた嘲弄だ。その女子はたぶん俺の知ってる人物……。
そして一番気になった言葉。
ゾンビ女。
いったいどういう意味なのだろうか? 雅人にはさっぱり解らなかったが、むしょうに腹が立ってくるのだけは分かった。
こんな所は一秒も居たくなかった。美夜がいないならさっさと帰って、また出直すとしよう。これ以上ここにいたら、暴力事件を起こしかねない。
雅人は拳を握り締めながらくるっと踵を返した。教室からはまだ笑い声が聞こえていた。まったく、感にさわる笑いであった。
二章 真実
「おーす」
「おーす、はやいね」
「先に待ってた奴がいうか? その台詞」
日曜日。
美夜との一回目……正確には出会った時を入れて二回目のデートだ。
駅前近くにある公園の噴水前に、雅人と美夜はいた。今日の美夜の服装は、やや派手な色をいろいろ混ぜたワンピースで、その上に白いカーディガンを羽織っている。元々清楚で活発な感じの美夜にぴったりの服装だった。
「そんなことないよ、待ち合わせ時間よりも二十分早いし」
「だから、それよりも早く待ってた奴に言われても嬉しくないって」
「待ってないほうがよかった?」
「そんなこと言ってないだろ」
あの日。今からちょうど三日前。
雅人は学校での件を美夜に聞いてみた。美夜は雅人と同じ学校である事を知っていた。近い内に会いに行こうかとも考えていたらしい。ここまでは雅人も考えていた事と一緒だった。
だけど、雅人は言った。少し抵抗を感じたが、意を決して聞いてみた。
「――ゾンビ女って、なに?」
一瞬の間。
「……ああ、それ私のあだ名。私、周りから見て立ち直りが早い体質らしくて。嫌なことがあってもすぐにけろっと元気になったりして、割り切りがうまいっていうのかな? そんな感じでゾンビみたいに生き返るから、たまーにそう呼ばれるんだ。嫌なあだ名だよね、あははは」
「……ああ、なんだそうだったのか」
嘘だということはすぐに分かった。そんな理由なら、あの教室で感じた悪意は説明できない。雅人は軽く流しておいた。嘘だ、本当のことを言ってくれと聞いても、彼女は答えてくれないだろうし、苦しみを与えてしまうかもしれない。中途半端なおせっかいは、相手をよりどん底に陥れるとどこかで聞いた事がある。それを雅人は恐怖していたのだ。
とにかく……。
「……まあいいや。とりあえず遊びましょーや」
「うん! 私、ショッピング行きたい」
「俺は消費税しか出さないぞ」
「そんなことはわかってるよ。雅人君は、台車がわり!」
「荷物持ちですか……お手柔らかに」
とにかく、今日のデートが勝負だと思う。
雅人はやはり、あの言葉の意味だけはまったく理解できなかったのだ。
ゾンビ女……。
その理由がわかれば、雅人は彼女の助けになれると思っていた。
安っぽい正義感だと思う。だが、雅人は彼女の事を一度好きになってしまったのだ。腐った彼氏のような扱いはしたくない。自分にできる精一杯ことはしてやりたかった。
だから……。
「じゃ、行きますか」
「うん」
だから、今日雅人は彼女を知ろうと思った。
*
お昼時の夏の閃光が、都会の街を貫く。空は快晴だった。おかげで皆一様に汗を流し、死んだような表情を浮かべていた。
ショッピングモールを歩いていた雅人と美夜は、最初の買い物をすませて今は国道寄りの道を歩いていた。あまり広くない街道なのに人はたくさんだ。おかげで雅人は暑苦しくて適わなかった。
「飴なめる?」
「わぁ、ありがとう」
左手に荷物を持っているので、雅人は器用に右手でポケットからイチゴキャンディーを二つ取り出した。一つを美夜に渡し、一つを右手だけで包みをはぎ、口に入れ込んだ。
「飴好きなの?」
包みをはぎながら美夜が聞いてきた。
「ああ。落ち着くんだよ、飴なめてると。むしゃくしゃしてるときとか、けっこう効果的」
「へぇそうなんだ。私にも効果あるかな?」
口の中に入れて、美夜はおいしそうな表情をうかべて「おいしい」と答えた。
「あると思うけどな。俺はあるし」
「うん、こういうのは人によるらしいけど、私は信じるよ。効果がある人にとっては、なんか魔法のアイテムみたいでほら、素敵じゃない?」
「そこまで言うほどでもないと思うけど……。でも、おすすめ」
「あってほしいな〜」
そう言って美夜は笑顔を返してきた。
その笑顔に雅人は慌て、危うく飴を落としそうになった。やべ、顔赤くなってないよな? 思わず美夜から視線をそらした。
やはり美夜はかわいい。どこかと言われれば全部とアホみたいに答えてしまうくらいに。髪はサラサラでいい匂いがして、笑った顔は生き生きしてとても輝いていた。
それなのに……。
聞きたかった。直接。どうしてゾンビ女なんて呼ばれているのか。
どうなのだろうか。ここはびしっと、多少強引になっても問い詰めた方がいいのだろうか? その方が一番の彼女のためになるんじゃないか?
「どうしたの? 難しい顔して」
「……あ、いや別に……ちょっと考え事」
美夜が心配そうな表情を向けてきた。雅人は手をぱたぱたと動かしながら笑ってごまかした。
やっぱりだめだ。強引に聞いて美夜に嫌がられでもしたら最悪だ。それで美夜が傷つくかもしれない。助ける側が傷つけるなんてバカみたいじゃないか。
……まったく情けない。「ねぇ」ここは何も気にせずおりゃって感じに「ねぇってば」聞けばいいのに。改めて自分のだめさ「ねぇって雅人くん」加減を理解した気分だ。「もしも〜し」
「雅人くん白くなっちゃった?」
「ああ?」
「飴、もう一つくれないかなって、言ってるんだけど」
「ああ? ああ?」
「もう! ちゃんと起きてる? 心はどこにいってます?」
美夜がぶすっとした顔で睨んできた。はっと現実に戻った雅人は戸惑い、まるでぎこちないロボットのような動きでポケットから飴を取り出した。状況がいまいち飲み込めていなかったが、とりあえず言われるまま飴を美夜に渡した。
すると美夜はとことこと前へと小走りした。五メートルほど進んだ先で止まり、なぜかしゃがみこんでしまう。……とよく見れば、彼女の前に小さな少女がいて、目に両手を当ててえんえんと泣いていた。
「はい」
美夜は少女に手に持った飴を渡そうとしていた。少女の方は、泣くのを一端やめて突然話かけてきた美夜に、戸惑いか恐怖といった表情を浮かべていたが、目の前のイチゴキャンディーを見てそれが興味へと変わった。
「おいしいよ」
美夜の誘惑の言葉に少女は恐る恐る飴に手を伸ばしていた。手に持ち、一度確認するように美夜を見た。美夜は笑顔を向ける。それに安心したのか、少女は小さな笑みを浮かべて、包みをほどき、小さな口に飴を入れた。
「おいしい?」
「……うん。あ、ありがと……」
やや控えめに少女は礼を言った。初々しいその態度に美夜はくすっと笑う。
「その飴にはね、魔法がかけられているんだ。舐めているとだんだんと落ち着く魔法。どうかな、落ち着いた?」
「おちつく?」
「うーんと、悲しい気持ちが楽しい気分になったりすることかな?」
「……ママがいないの」
悲しいという言葉が引き金となったのか、途端に少女は暗い表情を浮かべた。
なんとなく分かってた事情である。美夜はさして動揺を見せず、ただ真剣な顔になった。
「そうなんだ。……でも、大丈夫。私と、あそこに立ってるお兄ちゃんがあなたのママを探してあげる」
「……ほんと?」
「うん。だけど、それにはあなたの助けがいるわ。ママがどんな人なのかを教えてくれる事と、今あげた魔法の飴にお願いすること。できる?」
「うん!」
(おいおい、あの飴にはそこまでの効果があったのか?)
少女に合わせているのは分かるが、あそこまで不思議お姉さんを演じなくてもいいのではないか? それにしても、美夜はずいぶんと子供の扱いがうまい。最初恐がっていた少女が、今ではすっかり心を許していた。
その時、
「愛!」
雅人の後ろから女性の叫びに近い声が聞こえた。振り向くと、三十路前くらいのわりと綺麗な人が立っていた。
「ママ!」
少女は女性を見て表情をぱっと明るくさせた。雅人のわきをすり抜け、体当たりするように女性に飛び込んだ。
どうやら、あっさりママは見つかったようだ。ママ探しは取り越し苦労だった。別に雅人は何もやっていないが。
「よかったね。早く見つかって」
いつのまにか隣に立つ美夜。雅人はああと頷いた。
「早速、魔法が効いたのかな?」
「魔法は関係ねーだろ。美夜があの子に、親身に接してあげたから見つかったんだ」
「私はただあの子の話し相手になっただけ。見つかった要因はやっぱり、雅人くんの飴の効果だよ。雅人くんを支えてきたあの飴のね」
「……そんなすごいものだったら、どれだけいいかね」
都合がいいように考えるのは苦手だった。あれには所詮、気休めの効果しかない。だから雅人は、少し美夜の考え方に呆れていた。思わず、ふぅとため息を吐いてしまう。
美夜は雅人を見た。雅人は見ていなかったが、その時美夜は一瞬だけ、とても悲しい表情を浮かべていた。おおげさに言えば、泣きそうな子供の顔になっていたのだ。
「……あのね雅人くん」
「ん?」
「私、思うんだよ。馬鹿馬鹿しかろうが、くだらなかろうが、何も考えないで、心を広く、夢はとても大きく持ったままの方が―――」
強い風が吹いた。彼女の女性にしては短めの髪が大きくなびく。髪が彼女の顔を薄く隠した。
風がやむと、美夜は笑顔を浮かべていた。
「その方が、楽しいと思わない?」
「…………」
――超越していた。
まさか、と思った。雅人には美夜がすごい大人に見えた。綺麗に見えた。そして、とてもいとおしく思えた。
(なぜ、こんな彼女が……)
わからなかった。あの日からずっと分からなかった事だが、今は前より分からない。なぜこんないい子が、ゾンビ女だと呼ばれているのか。いじめを受けているのか。
……なんだか、怖くなってきた、真実を知ることが。このままでいいような気がしてきた。美夜が笑って、怒って、たまに泣いて、そしてまた笑う。そんな状態が続いてくれるのなら、別に今のままでも―――。
「いいと思う」
「でしょ?」
「ああ、それが一番だ、絶対」
「?」
――なんだっていいじゃないか。
今さえよければそれでいい。丸くなって、保守的になるのが一番だ。真実なんて知っても、ただただ苦しいだけだ。
そうだ。ゾンビ女なんて知ったことか。美夜はこんなにも綺麗で、いい子じゃないか。あの教室の奴らは、皆バカなだけなんだ。美夜を知らないだけなんだ。
そうだ。このままで、このままでいいんだ……。
*
美夜って子と雅人が出会ってから、三週間がすぎた。
二人の関係は実に平穏を保っていた。
休みの日だけでなく、時間の少ない平日でもたまに会うようになり、傍から見てラブラブのカップルだった。花穂から見ても二人は「ばかップル」と表現していいものだった。
だがおかしかった。どこかおかしいのだ。二人の関係は見てて微笑ましく、また憎たらしいものであったのだが、どこかギクシャクしていた。まるで浮気を隠しあう夫婦のような……。まあ、花穂は彼女の方と話したことがないのだからこの表現はおかしいが。
しかし、おかしいのは間違いない。だって―――
「なんで、学校では会わないの?」
一緒の学校というのは疾うに分かってるはずなのに、二人はなぜか学校でだけは会わない。別に時間の行き違いがあるわけではない。だって、平日も会ってるのだ。だけど雅人は彼女と登下校すらしていない。もちろん、その事に対しても理由を聞いた。すると……。
「別に、必要ないだろ」
これだ。まったく意味がわからない。じゃあなんで彼女と会うのだと問いたい。花穂は実際、これにむっときて強く当たったりした。しかしむこうも子供みたいに逆ギレして、つっけんどんな態度だ。まったく話にならなかった。
……これは何かある。それもかなり深刻な問題っぽい。雅人の問題ではないだろう、彼の事は、花穂は彼女よりも絶対熟知している自信があるからだ。問題の原因は彼女だ。そうと分かれば……。
「おーい松田くん。ちょっと来て」
*
雅人と美夜はぶらぶらとウインドーショッピングを楽しんでいた。
美夜とのデート。もう何回目かは忘れた。
今日は平日だったのだが、時間的に早く終わってくれたので両者会うことにした。特に目的もなく無駄なことをしているわけだが、それでも雅人は損をしている気はしない。彼女と一緒にいるのだから。
雅人はもう、美夜を詮索するのは止めていた。もちろん、彼女側からその事に相談とかしてくれば、答えるつもりだった。しかし自分から考えるのは止めた。考えれば考えるほどいろんな制約がついてきたりして、雅人は疲れたのだ。それに……。
「見てみて雅人くん! この服かわいい」
ウインドガラス越しに見えるシャレた服の前で、美夜は言った。
美夜は元気だった。そこらの女の子よりも活発といっていい。こんな子が、実は裏側では辛い目にあってる……正直、まともに考え付くことじゃない。確かに、直接あれのことを尋ねた時の反応はおかしかった。だけど、今はどうだ。触れなければ彼女は平和そのものだ。実際、雅人は彼女が苦しんでいる所は一度も見たことがなかった。
「ん? おお、確かに。でも美夜には似合いそうにないな〜」
「ええそんなことないよ。絶対似合う! ほら、こう見えてスタイルには自信あるし」
「ふーん……」
「うわっ! なんでまじまじ見てるの」
「いや、ほんとかどうかちょっとスキャニングを……いてっ!」
「余計なお世話。まったくもう……」
蹴られた臑は痛かったが、真っ赤になって怒る美夜は可愛かった。
……苦しんでるなら素振りくらい見せてほしい。でないと、助けにもなれない。言ってくれれば、絶対助ける。難しいことでも助ける。自分じゃどうにもならないことでも……そう、小さな支えぐらいにはなろうと思う。
「あっ」
突然、美夜が声を上げた。
「ん? どうした?」
美夜を見ると、なにやら小汚いサッカーボールを手に持っていた。駅近くで人の多いこの辺りでサッカーボールとは、落し物だろうか?
「どうしたんだ、それ」
雅人がそう訊いた時、目の前から小さな少年が走ってくるのが見えた。美夜の前で立ち止り、小さく息をしながらじーっと美夜を見て……いや、ボールを見ていた。
「君の?」
「うん」
「そうなの。じゃあ、はい」
美夜はしゃがみこみ、笑顔を浮かべながらボールを少年に返した。
「つくづく子供に縁があるな」
「別に、たまたまだよ」
「ありがとうおねえちゃん!」
屈託のない笑みを浮かべる少年。しっかりお礼を言えるような素直なイメージはないのだが、これも美夜の扱いのうまさのおかげか?。
ふと美夜を見た。すると、なぜかきりっと双眸を鋭くさせた顔になっていた。
「君、もしかしてここで遊んでたわけじゃないでしょうね?」
「え? あ、うん」
「だめでしょ。ここは人も多いし、車もたくさん通るんだよ。危ないからここではもう絶対遊んじゃだめだよ。わかった?」
「えー」
「……わかった?」
「……うん」
少年は観念したように頷く。さすがだ、まるで母親のような威厳である。思わず雅人は感心してしまった。
諭しが効いたのを理解して、美夜は笑顔でよしと言い少年の頭を撫でた。少年は照れくさそうにしていたが、満更でもない様子だった。
しばらくして美夜は少年から手を離し、腰をあげた。
するとその時、
ドン。
「わっ」
美夜は小さな驚きの声をあげる。立ち上がろうとしていた美夜の背中を、通行人の体が接触したのだ。それにバランスを崩した美夜は、少年めがけて倒れこもうとしていた。
慌てて雅人は手を伸ばし美夜の腕を掴んだ。それでなんとか倒れるのは防いだが、少年との衝突を止める事はできなかった。
「いててて、痛いよ」
少し頭を打ったらしく、少年は両手で後頭部を押さえていたが、
「大丈夫か美夜」
雅人はまず美夜の安否を気にした。
「う、うん。私は大丈夫、ありがとね雅人くん……」慌てた動きで美夜は雅人の手から離れた。顔が真っ赤である。「ああ、あ、君は大丈夫? どこか打ってない?」
「頭が痛い」
「ああ! ごめんねほんとに。ちょっと見せて……コブとかできてないみたいだね、よかった」
「まったく、意外と抜けてるなー美夜は。ちゃんと周りとか見ろよ」
「む、なによ〜、あんな体勢でぶつかられたら誰だって倒れるよ。そこまで言わなくていいじゃない」
美夜は未だ顔を真っ赤にしたまま、雅人を睨み付けた。どうやら先ほどの自分の失態が、相当惨めだと思っているようだ。
「バカ!」と、叫んでそっぽを向く。
そこまで怒ることないのに……。雅人は流石に困り果て、頭をぽりぽりと掻いた。
その時、
「……あれ? ボールない」
少年が言った。雅人と美夜は聞いていない。少年はキョロキョロとあたりを見渡し、やがてボールを発見した。
そして笑顔を浮かべてその場所まで向かった。
「別にそこまで怒ることじゃないだろ。ケガはなかったんだし」
「そりゃあ、無かったけど。感謝もしてるよ。――でもバカにした」
「バカになんかしてないって。ちょっとからかっただけだろ」
「それってバカにしたって言うの。もう、ひどいよ雅人くん……」
美夜はしょんぼりとうな垂れる。とてもわざとらしい行為だったのだが、こんな反応をされては、こっちは負けるしかない。
「ごめんって、俺が悪かったです。ほんと、ごめんなさい」
「……んーわかればよろしい、かな? ――あれ? あの子は?」
キョロキョロと美夜はあたりを見渡し、少年を探した。雅人もそれに倣うように行動した。すると、すぐ目の前に少年は見つかった。
だが度肝を抜かれた。少年はガードレールをよじ登るような体勢で跨ぎ、車の走る道路側に降りていた。いったいなにをしてるんだと雅人と美夜は内心で焦った。
と、よく見ると少年の目の先には、一つのサッカーボール。まさか! と思ったが案の定、少年は道路をまっすぐ横断しようとしてた。
「おい!」
雅人と美夜は同時に駆け出した。ガードレールを軽く跳び越え、少年を確認するとすでに一車線を越えていた。ボールは目の前だが、近くの信号が青となり、スピードを殺さず突っ込んでくるバイクがちらっと見えた。
雅人はまずいと思い、一気に駆けようとした。だがクラックションの音にびっくりして、反射的に身を引く。トラックが目の前を通り過ぎていった。
背筋に冷や汗が流れた。危うく自分が轢かれるところだった。
トラックが目の前から消える。よし行こうと雅人が思った時、一つの影が目の前を駆け抜けた。
それは美夜だった。まるでタイミングを合わせていた様なスタートダッシュで、一気に少年の元へと走り向かう。雅人は思わずその場で固まってしまった。
美夜は少年を抱き上げていた。だが少年は意外と重かったらしく、微妙にであるが手間取っていた。雅人は迫りくるバイクを見た。バイクは美夜達に気づいて、急ブレーキをかけていたが……すでにバイクは、美夜達のすぐ近くにいた。
その事実を理解した瞬間、雅人の世界にスローモーションがかかった。
美夜もちらっとバイクの方を見た。
その大きな瞳が、さらに大きくなった。
バイクは止まらない。
とっさに美夜は、少年を体全体で抱え込んだ。そしてバイクからの盾になるように自分を前に出す。
そして、
ドン……。
単純で最悪な音が聞こえた。美夜は数メートルの距離を宙に舞い、緩慢な動作で膝のあたりから落ちた。
「あ……」
あまりの出来事に雅人は放心してしまった。近くで救急車を叫ぶ声が聞こえていたが、雅人は何もせず、ただ前を見つめていた。
目の先には美夜がいる。そして美夜の周りには赤い水溜りが出来ていた。それが美夜から流れ出た血であることに気づくのに、雅人はずいぶん時間を要した。
その時、倒れた美夜からひょっこりと何かがとび出した。少年だ。頬に血をべっとりとつけて、雅人みたいに呆けた顔で美夜を見ていた。口が動き、何かを話しかけていた。
ここでやっと雅人は現実に戻った。何かしなければ、救急車はもう呼ばれているはずだ、じゃあ……。頭の中はかなり焦っていた。……とにかく、美夜が心配だった。現状は見てて最悪なのは明白だったが、何か助けに雅人はなりたかった。
美夜に駆け寄る。血の臭いがひどかった。思わず雅人はうっと唸った。
「雅人くん」
突然名前を呼ばれた。え? と雅人は思う。自分のことを「雅人くん」と呼ぶ奴は、この世に一人しかいない。それは家族でも松田でも花穂でもその他同級生達でもない。それは……。
声がした方向に視線を向ける。
「美夜……」
奇妙なものを見ている気分だった。
血を未だに流し、両足はあさっての方向を向いていてひどく生々しい。可愛らしかった服も今は真っ赤にそまり、汚いイメージを持っていた。
こんな状態なのに―――美夜の表情は、普通だった。
「雅人くん、この子お願い」
そう言って、だいぶ裂傷跡が見える両手で美夜は少年を渡してきた。少年はほぼ無傷だった。半ば突きだされる様な形に雅人には見え、思わず従順してしまった。
「じゃあ、私もう眠くなってきたから……」
「は?」
上げていた首をかくりと落とし、そのまま目を閉じてしまった。しばらくしても、まったく反応は示さない。まさか死んでしまったのかと思い雅人は近づいたが、しっかり呼吸していた。
救急車の音が聞こえてきた。すぐにキキっとブレーキ音が聞こえ、担架が運ばれて美夜が乗せられた。急いで車の中へ入れられていく光景を見て、雅人は慌てて近くの救急隊員に声をかけ、一緒に乗せてもらうように頼んだ。
うまく乗せて貰える事には成功した。雅人は揺れる救急車の中、あの言葉を思い出していた。
ゾンビ女……。
その言葉の意味がひどく納得できたことを、雅人は悔やんだ。
三章 彼氏のケツイ、彼女の支え
美夜が突然眠くなった理由は、血が抜けて貧血を起こしたせいらしい。
病院について美夜の緊急手術が行われ、そして終わり、見事成功した。両足骨折と肋骨が二本ほど折れていて、見た目のわりにはそんなひどいケガではなかったらしい。今は特室で安静して眠っている。……そう、やたら優しい女医は雅人に教えてくれた。
ほっと雅人は吐息をついたが、しかしこれだけでは最初の問いに疑問があった。だから問いただした。女医は少し困った表情を浮かべたが、やがて口を開いてくれた。
「彼女には、痛覚がないの」
女医は美夜の事を知っていた。昔、こんな風に美夜が事故を起こしてここに運ばれた事があった。その時のケガは今回よりも難なものだったらしく、大変だったそうだ。しかしなんとか手術は成功し、美夜は順調に回復した。
だが後で後遺症が見つかった。それが痛覚消失という症状だった。脳にダメージを負ったのが原因と見られてるが、確信となる詳細は未だ解っていない。まったく謎だらけであるがそれ以外はまったく正常なので、様子見という形で美夜は普通の生活に戻された。それが、すでに十四年続いている……。
「え、じゃあまさか」
「そう、彼女には痛覚の認識がない。痛みを知らないのよ。だから、嘘もつけない」
「…………」
「どうする彼氏。会いに行く?」
「え? いいんですか」
「あなた次第で、どうにでもしてやるわ。どうせ頭の中ごちゃごちゃで、本人に聞いてみたいことたくさんあるんでしょ?」
女医はにっこり笑って、
「だけどこれだけは約束して。絶対彼女を悲しませない。あなたは知らないけど、私は美夜ちゃんの十四年来の味方だから」
少し逡巡して、雅人は女医に頷いた。
*
ドアをノックすると、中から女性の声が聞こえた。
中に入ると看護婦がいて、雅人を見てにっこりと笑った。そして美夜に向けてお大事にと言って、そのまま出て行ってしまった。
雅人はざっとあたりを見渡した。ベッドが真ん中にぽつんとあり、それ以外は何もないに等しい。大きめの窓から差し込む光は、いつのまにか橙に染まっていた。
「あ、雅人くん」
美夜がこちらを見た。すでに目を覚ましていたらしい。
美夜は大きめのベッドに横になり、両足を一定方向に固定されていた。頭に軽く包帯が巻かれ、右腕にはミイラみたいにたくさん巻かれていた。どう考えても痛々しい姿だが、美夜はけろっとしていた。
「気分はどう?」
「あんまりよくないかな。血をいっぱい流したから、頭がぼーっとするよ」
「痛みとかは?」
と聞いて、雅人はしまったと思った。思わず顔にも出ていた。なんとなく気まずい気持ちになり、美夜から目を逸らした。
「もう知ってるの? 私の事」
「あ、ああ」
「なら分かるよね。まったく何も感じないよ。気分が悪いだけ」
なぜか美夜の一言に冷たいものを感じた。雅人は逸らした顔を戻す。美夜は自虐的で哀れみに満ちた表情を浮かべて微笑んでいた。
「ごめんね、雅人くん。ずっと嘘ついちゃってて」
「いや、それは……仕方ない、ことだろ」
自分がもし美夜の様な状態ならばどうだろうか。雅人は考える。やはり他人に見せれば白い目で見られるから、無理してでも隠すだろう。しかし、美夜は痛みを知らない。……知らないとはどういう事なのだろうか?
よくわからない……。
「私にはわからないの」
突然美夜が口を開いた。
「どうして、ケガとかして平気な顔を浮かべていたらだめなのか。たったそれだけで、ゾンビとか悪魔とかなぜ言われるのか。今もわからない……。
だから、昔お父さんお母さんに聞いてみたの。痛いってそんなに大事なの? って。そしたらすごく困った顔になって、そんな事は考えなくていいって言われた。
たぶん、すごく大事なものなんだろうね。でも私にはそれが無いから、お父さん達はそう答えるしかなかったんだろうね……」
美夜は一度ふぅと息をついて口を休ませた。雅人から目を逸らし、窓の外を眺めていた。そして外に視線を向けたまま、小さく言った。
「雅人くん、私の事、怖い?」
きたと思った。ここに来る前から、美夜がこんな問いを聞いてくる事を雅人は予想しずっと考えていた。
だがしかし、はっきりとした答えは出てこなかった。今の自分は美夜をどう思っているのか。あの時の美夜のイメージが刻むように頭を離れなかった。だから、気持ちの中に霞がかかった疑問があった。
だけど、雅人はもう決めていた。こう言おうと。
「怖くない」
「ほんと?」
「ああ、ほんとだ」
この答えは偽りかもしれない。でもそれでもいいと雅人は思った。美夜は不安になっている、ここで自分が突き放せば、きっと泣いて悲しい思いをしてしまうだろう。それは嫌だった。だから気持ちはあとにしてでも、今は美夜の支えになる事が大事と思ったのだ。
だが、
「じゃあ、キスして」
え? と予想外のことを言われ、雅人は動揺してしまった。
美夜は真剣な顔でこちらを見ていた。冗談ではないことは明白だった。
「私達、もうすぐ一ヶ月ぐらいになるけど、今までキスすらしたことなかった。これはなんで? 私に魅力がないから?」
「ち、違う!」
「じゃあ、やっぱり私が怖かったから?」
雅人は自分に言い聞かせた。なにやってるんだ、早くキスして、自分の意志を証明しろ。なんどもなんども、まるで呪文をおくるように……。
「キスして」
「…………」
「……そう。雅人くん無理なんだ」
雅人は俯いて黙ったままだ。美夜はそれを肯定と捉え、自虐的な笑みを浮かべた。
その時、明るいベル音がなった。雅人の門限を知らせるベルだ。
「門限のベル。ああ、もうそんな時間か。ごめんねこんな遅くまで」
「いや、別に……」
「今日はもういいよ。早く帰ってご飯作ってあげて」
美夜はもう雅人を見ていなかった。雅人もそれを見て、自分が取り返しのつかない事をしてしまったのだと、はっきりと理解した。
もう雅人にはどうしようもなかった。後悔を刻んだような顔を浮かべたまま、美夜に背を向けドアに手をかけた。
「雅人くん」
美夜の淡々とした声。雅人はドアノブを持ったまま動きを止めた。
「一つだけ言い忘れてた。私、もう一つだけ雅人くんに嘘ついてた。
私、本当は全然痛みがないわけじゃないだよ。ただのゾンビじゃないの。ちゃんと、ちゃんとね……。
心は痛くなるんだよ」
雅人は振り返った。すると、美夜は笑顔を浮かべ、手を振っていた。
「私もこれから検査あるんだ。ほんとタイミングよくベルなったよね。
それじゃ、バイバイ、雅人くん」
雅人はドアノブを回し外へととび出した。ドアが閉まる頃には、雅人は遠くにある階段を下りていた。
*
俺はバカだ。俺はバカだ。俺はバカだ……。
転がっていた空き缶を蹴りながら、雅人は内心でそう連呼していた。
なぜできない? なぜ抵抗を感じた? キスなんてなんてことはない、初キスなど当にすませてある。美夜だって好きだ。何も、何も問題なんてないはずだ。
……やはり、やはり俺は。
無意識のうちに、美夜を怖れているのか。
美夜の最後に笑った顔。あれはもう、諦めの笑顔だった。
甘かった。あんな顔を彼女は、今まで何度もしてきたはずだ。それなのに俺は、軽々しく「支えとなれば」と思い、はっきりしない答えを出した。そして、彼女の思いを切った。
……ここまで絶望的な気分になったのは初めてだ。自分がここまで最低野郎とは思った事がなかった。……いっそのこと、誰か思いっきり自分のことを殴って欲しかった。
――殴る?
ふと前を見ると、いかにも悪そうな高校生トリオが歩いてきた。このまま避けずに歩くと、完全に衝突コースだ。
雅人はははっと笑う。
(俺も、相当バカだな。こんなんで解決する理由なんてないのに)
でもバカらしくはある。もしかしたら踏ん切りになるかもしれない。世の中、やる事の方法なんてフィーリングでなんとかなるもんだ。そして自分は雲山雅人だ。
ドン!
「いてぇー。……おい、なんだお前? 道中でぼーっとしやがって。服が汚れたぞ、あ?」
なんともハンパなヤンキーをやってる奴らである。だが別に雅人にはどうでもよかった。
「悪い。代わりにで再度悪いが、俺を痛みがなくなるまで殴ってくれ」
*
真夜中。特室と呼ばれる一人部屋の暗い室内のベッドで、美夜は泣いていた。
上体を起こし前だけを見たまま、ただただ涙を流していた。声は嗄れ、おそらく目も真っ赤になってることだろう。
美夜は後悔していた。あんな事を言ってしまったことを。
焦っていたのだ。真実を見られ、近寄り難い態度を取られてしまったから。嫌われたくなかった、嫌いになる前に答えが欲しかった。……だけど、失敗した。彼は、私を受け入れてはくれなかった。
……もういやだ。せっかく、せっかく幸せになれると思ったのに。やっぱり私は、化け物と罵られ、このままずっと生きていかないだめなのか。苦しんで死んでいかないといけないのか。……だったら、さっさと死にたい……。
その時、ドアにノックがかかった。
こんな夜中にノック? 訝しく思ったが、とりあえずだれ? と聞いてみた。
だがノック主は何も言わず、それどころから勝手に部屋の中に入ってきた。体をくの字に曲げて堰こんでいた。
慌てて美夜はナースコールを押そうと、枕元を探した。それに気づいたのか、ノック主は慌てた様子でずいぶんとガラガラな声で言った。
「ま、待て! 俺だ、雲山雅人だよ」
え? と美夜は思い、ナースコールを探すのをやめてノック主を見た。足元だけがぼーっと見えてて何も見えない。だから美夜は体を伸ばし、ベッド近くにある照明スイッチを押した。いきなり明るくなり、目を閉じてしまう。
期待の気持ちを胸に、じわじわと目を開けていく……。
だが、目の前には、化け物みたいな顔の人が立っていた。
「!」ナースコールはどこだ、ナースコールはどこ!
そして発見した。素早く手を伸ばそうとしたが、その手ががしっと握られた。恐る恐る顔を上げると、赤や蒼が混ざった様な顔が、すぐ近くにいた。
「いやあぁぁぁぁぁぁ!」
「おいなんで叫ぶんだよ! 俺だって雅人だって。もっとよく見ろって。おかしくなってると思うけど、本人だから!」
そう言われて、美夜はもう一度顔を上げた。アンパンマンをグロテスクな色で表現した様な顔がやはりあり、怖い。……だけど、目を見た。それはいつも自分の事を見てくれていた、優しい雅人の目にそっくりだった。
「……雅人、くん?」
「そうだよ。はぁ〜、焦った。こんな顔を人にみられたら、完全に犯罪者だからなぁ」
「ど、どうしたのその顔」
「その辺にいたチンピラと喧嘩した。こっちは一人なのに、トリオで殴打だ。少しは加減してほしいよまったく」
まったくわけが分からない。雅人の行動は、美夜にはちんぷんかんぷんだった。
それを察したのか、雅人は美夜を見ながら言った。
「……ちょっと、自分を叱ってきた。痛みがなくなるくらいに。今の俺、こんな顔だけど、まじで痛みマヒしてるんだぜ」
なぜか自慢げに話す雅人。美夜には何が言いたいのか読めなかった。そんなことよりも、早く手当てしてやりたかった。だからそれを催促しようとしたが、
「美夜と同じだ」
え? と美夜は驚き、言おうとしていた事を詰まらせた。
「美夜、俺の事見てどう思った? たぶん、化け物とか思って怖がったんじゃないか? だけど今はどうだ? 俺が自分の知ってる「俺」とわかり、恐怖はどこいった?」
今は雅人を手当てしたい気持ちでいっぱいだ。恐怖なんて……ない。
「俺も、美夜のあれを見て、恐怖した。すげー怖かった。ついでに、今の自分の顔も見た。お前と同じで、俺もすげーびびった。
だけど、馴染んでくると全然気にならなくなった。美夜の事も殴られると、全然気にならなくなった。なんていうか、バカみてぇと思った」
雅人は目を細める。はっきりと分からなかったが、たぶん笑ったのだろう。
「美夜、お前バカだよ。俺並みにバカだ。こんなくだらねぇことで、ずっと悩んで、俺に隠して、最後には俺にぶちまけて、自虐して、苦しんで、そして―――」
「どうしてそんなこと言うの!」
「お前が好きだからだよ!」
静寂。
微かであるが、蝉の鳴き声が聞こえた。
「……え?」美夜は自分の耳を疑った。
「……あの時は、いろいろ起きて俺も分けわかんなくなってたんだと思う。頭、そんなよくないから。
だけど殴られてすっきりした。俺は美夜が好きだ。お前がなんと言おうと、俺はお前のそばにいるつもりだ」
「……信じられないよ」
「だったら証明してやる。お前はそうすれば信じていたんだろ?」
突然、雅人は顔を近づけ、美夜の肩に手をおいた。そして、両者の一部が重なりあった。
血の味がした。慌てた様子で雅人は離れた。
「……ひどい」
「……悪い。俺も今気づいた」
「でも、嬉しい……」
美夜は身を乗り出し、雅人に抱きついた。胸に顔をうずめ、えんえんと涙を流した。
「私も……大好きだよ、雅人くん」
エピローグ
「いや、大したものだよ。あいつも、あなたもさ」
目の前の女性、花島花穂は、うんうんと頷き心から感心していた。思わず美夜は頬を朱に染めてしまう。
「あのここぞという時にダメになる雅人が、こんな複雑な問題にしっかり対処したっていうんだから、あなたも相当あいつに好かれたみたいね」
「はは……」
「あたしには何の反応を見せなかったくせに。……まあ、ちょっと悔しいけどあなた可愛いし、仕方ないか」
「……あの、花穂さん」
美夜は花穂をじーっと見つめていった。
「もし、花穂さんが雅人くんを好きでいるなら、私、負けませんから」
「へ? ……ああなるほど。美夜ちゃん勘違いしてるよ。あたしは、すでに振られてるんだな」
美夜が驚きの表情を見せると、花穂はくすっと苦笑した。
「近づきすぎたのがいけなかった。あたしはあいつの事をなんでも知ってしまって、そのせいであいつは手玉に取られてるみたいで嫌だったみたい」
彼女がここに来て雅人の幼馴染と名乗った時、美夜はてっきりライバルの登場かと思った。だけど違うという。ならなぜ……。
「……あの、どうして今日来てくれたんですか?」
「半分はただのお見舞いだよ。で、残り半分は、あなたに興味あったから」
花穂は椅子から立ち上がり、じゃああたし帰るからと言った。唐突な行動に美夜は怒らせてしまったのかと花穂にきいた。
「違うよ、ただもう用がなくなったから。さっきのあなた言葉で、あいつはあなたに任せていいと思ったから……じゃあね」
ウインクして左手を掲げながら、花穂は去っていった。
……認められたのかな? そう思い、美夜はぺこりと頭を下げた。
ずっと一緒だよ、雅人くん……。
完
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