水面の歌声


                  プロローグ

 ……あれ?
 と気づいた時には、ソファーに座るママとパパは、止まっていた。
 ……あれ……?
 ひどく重たいみたいに首を曲げ、目を真っ黒にしている。半分開いた口からは、泡の混じった涎が流れていた。
「えーんえーん」
 傍らにいた雫は、手を両目に当てて泣いていた。
 ……なんで泣いているの?
 私は改めておかしくなっているママとパパを見た。
 さっきと同じ。いつものように私に笑みを返してくれない、ただ人形の様な雰囲気を放つだけだ。
 そこでやっと気づいた。
 死んでる……死んでるよ。
 まるで頭の中から語りかけてくるように、その事実が突き刺さってきた。
「!」
 その時、私の耳の中……いや、頭の中にいろんなものが入ってきた。
 それは―――
 人の絶叫だった。
「!!」
 私はこれまで出したこともなかった叫び声を上げた。
 私の正気は、その瞬間失われた。

 これが私と雫の、最初の悪夢の始まりだった。

                一章 二人の歌姫

 揺れる車両の中。
 前から二列目の席で、露菜はぼけーとした表情で、開いた窓の外を見ていた。視線の先の流れる景色は、一向に緑色のままだった。
 焼けるような日差しが顔、体に突き刺さった。素っ裸の太陽が自称美人の顔を顰めさせる。
「あ、あつい……」
 思わず、何度目かの台詞を吐く。
「おまけに緑臭いし……」
 そしてまた思わず、何度目かの舌出しを行い、今の現状を赤裸々に表現した。
『だらしないぞ、露菜。仕事前にそんな状態でどうする』
 座席の小さなテーブルの上にどしんと座るでかい鳩、カエムはそう露菜に注意してきた。ちなみに喋ってはいない。頭の中に直接言葉を送る脳内送信というやつだ。
 大きさは女性の胴体を少し小さくしたくらい。琥珀色の鋭い双眸。力強さを掻きたてる嘴。明るめの様々な色が入った羽根は、まるでどこかの貴族が飼っていそうな、豪華さを連想させる鳥である。どう考えても鳩には見えないが、元は鳩だったのだ。そういう種類に入れるしかない。
 露菜はその鳩を両手で掴み、顰めた顔のまま言った。
「だって、この汽車っていうか、貨物車? ものすっご――――く遅いじゃん! 普通さ、窓全開してて、こ〜んなぬるま湯の水蒸気帯びた風しか来ないなんておかしいじゃん。しかもここ、ジャングルって言っていいほどの雨林雨林じゃん。もうサイテー」
『そんなに暑いなら、上着を脱げばよかろうに』
 露菜の服装は、白いワンピースにオレンジのカーディガンを加えた、大人びた感じを抱く服装である。
「これはあたしのファッション。鳩がそれに口出しするな。……あぁ〜暑い〜」
 べとついた感じを宿す長い髪を掻きあげながら、露菜は愚痴る。そしてまた干からび寸前のヒキガエルのように舌を出した。
 カエムはやれやれと呆れた声を出していた。
 その時、前の車両……といっても運転席だが、そこから一人の少女が現れた。
「見て見て、お姉ちゃん。運転手さんが暑いからって、アイスくれたよ。けっこういけるよ」
 満面の笑顔で両手にモンブランアイスを持つこの少女は、露菜の妹、雫だ。顔だけ見れば、ボーイッシュなイメージを抱くが、ピンクと青のワンピースから覗く体を見れば、しっかりと女を引き出していた。
「おおー! これは天の恵み」
 露菜は涙を流しそうな顔でアイスを手に取る。そして野獣のごとくそれに歯を立てた。
「うまい! うまいよマイシスター」涙を流しながら言う露菜。
「うふふ、お礼なら運転手さんに言ってね。お姉ちゃんのファンみたいだから」
 露菜の反応に白い歯を出しながら笑い、雫は向かい座席に座った。
「ファン?」
 露菜はアイスを銜えたまま、前車両に目をやる。ドアのない、ただの入口から筋肉隆々の暑苦しい男が、チラチラとこちらを見ていた。露菜と目が合うと、顔を真っ赤にして照れていた。
 露菜はあからさまに嫌な表情を浮かばせ、ため息をついた。
「……どうしてあたしって、ああいうタイプにばかり好かれるのかしら。全然タイプ外なのに……」
「でもいい人だよ。アイスくれたし」
「アイスはありがたいが、それより清涼な風を提供してくれ。暑すぎる」
「私もさっき聞いたけど、これが今の最高スピードみたいだよ。この汽車、元々はちゃんとした汽車だったらしいけど、利用客がほとんどいなくなってしまったから、仕方なく使用品などを運搬する貨物車に変えてしまったらしいよ。これ荷物のせいで遅いんだよ。
 ちなみにあの人、貨物車乗って七年のベテランだって」
「ふーん、まあ最後のやつはどうでもいいけど」
 すでに棒になってしまったアイスを口で遊びながら露菜は言った。露菜の言葉のあと、運転手ががっくりと肩を落としていた。
「っていうか、まだつかないのか? おい答えろ案内人。鳩が日光浴に現抜かしてんじゃねぇよ」
『がぁ、がぁ。や、止めろ叩くな。焦らなくても、あと数分で着くはずだ』
「ふーん……。ねぇ運転手さん、あとどれくらいでつくんですか!」
「ああ、あと四分ちょいってところですよ」
「……ふむ、どうやら本当のようだ。だいぶ仕事に忠実になってきたな、カエムちゃ〜ん」
『お前なんかよりは真面目なつもりだ。……あ、あ、やや止めろ。羽を引っ張るな!』
「もうだめだよお姉ちゃん、カエム苛めちゃ。大事に扱ってやらないと、便利な生き物なんだから」
『……その言葉、どこか違和感を抱くのだが、気のせいか雫?』
「気のせい気のせい」
「鳥のくせになに妹の真意を詮索してやがる、こらぁ!」
 露菜の横に振りかぶられた右手が、カエムの体を捉えた。
 軽快な音を立てて、カエムは窓の外へと飛んだ。露菜はあっ、と声をあげて、自分の右手と外を交互に見つめた。
 そして、これまでにないカエムの怒りを露菜は買った。
 露菜とカエムの死闘が始まった。雫は傍らで笑っていた。
 二人(一人と一匹)の死闘が終わる頃には、貨物車は目的地に到着していた。

                    *

 蝉の声が、耳鳴りの様に響いていた。
 露菜は貨物車から降り、ジャリだらけの地面を少し歩く。薄いサンダルを通ってきたでこぼこした感覚に、やや不快を感じた。雫も同様のようだ。
 二人が降り終わると、煙を噴いて貨物車は再発進した。走り去る貨物車に向かって、雫が手を振ってお礼を言っていた。
 貨物車の止まった所は、駅と呼ばれる場所ではない。ただ近くに地区を示す看板がおいてあるだけだ。都会育ちの露菜達にとって、この簡素な状況は驚愕に値する事実だった。
 露菜はあたりを見渡した。貨物車に乗っていた時と、大して変化のない景色が広がっていた。
「……ほんとに何にもない所だねぇ」
 ふと通りすぎた緩やかな風は、微かな涼しさを与えてくれるが、効果は焼け石に水であった。
『ここから一キロほど歩けば村がある。まあ、目的地はそことは逆方向だが』
「村のはずれにあるんだ。依頼人の家」
 雫がそう聞くと、カエムはそうだと頷いた。
 途端、カエムは翼をひろげ、空中に浮き上がった。
『俺の案内はここまでだ。じゃあな露菜、雫』
「最後まで付き合わないの?」
『次の仕事を探す。知ってるだろ? 俺は仕事に忠実なんだ。大切なご主人様を餓死させるわけにはいかないんでね』
「おっ、いいこと言うじゃない。鳩のくせに」
『……いいかげん、その鳩という概念は捨ててくれないか? 俺はそんな低俗な生き物とは違うんだ』
「鳩だったやつを、鳩といって何が悪い? でかくなって喋れる様になれたからって、お高い生き物とはかぎらないと思うぞ」
『……もういい、じゃあな。くれぐれも失敗なんかするんじゃないぞ』
 カエムは羽を大きく広げて、後ろの方へと飛んで行ってしまった。
 カエムが飛んでいった方向に露菜はべーと舌をだして、
「余計なお世話。……じゃ、行こうか雫」
「うんっ」
 雫に笑顔を返し、露菜は目的地に向けて足を進めた。


 しばらくでこぼこ道を歩くと、森を境に分かれ道に出くわした。
「どっち?」
 雫が聞いてくる。露菜は肩にしょったバッグから、依頼人から渡された地図を取り出し見た。傍らの雫が、こちらに顔を突っ込んできた。
「やっぱり、丁寧な地図だよねぇ〜、これ。誰が書いたんだろ? 男の子かな、女の子かな?」
 露菜が持つ地図は、綺麗な手書きだった。定規で引いては出せない独特の線。分かりやすい目印を、うまい色のコントラストで描かれている。本屋で売ってある地図よりも、ある意味分かりやすくて綺麗である。
「十中八九、女の子でしょ。ふむ、この地図だと右だね」
「どうして女の子なの?」
 再び歩き出しながら、雫は聞いてきた。
「こんなど田舎に住む男が、こんな美麗なイラストを描けるわけがない。この体を賭けてでも、あたしは断言できる」
 露菜はどんと胸を叩く。雫はうわぁと声を上げた。
「すごい自信。ただの勘なはずなのに」
「ふっ、見縊るなよ妹よ。あたしは歌姫と同時に、モーゼもびっくりの預言者なんだ。だからあたしの言う事は絶対なんだ」
「ふーん……」
「む? 信じてないな。じゃあ、例として一発未来予知をしてやろう。……むむむむ〜、きた、来たよお告げが! 今からこの先に人が現れるぅ!」
 それっぽく目を瞑り、それっぽく両手を組んで、かっと目を見開き、びしっ! とわりと真剣な表情で、右の道を指す。
 雫は少し呆けた表情でそちらに視線を向けた。
「…………」
 雫は指を指した先をしばらく見つめていたが、一向に何も起きなかった。
 露菜は、ふっと顔を崩す。
「まあ、もちろん冗談なわけなのよ――――」
「あっ! ほんとに来た」
「え?」
 見るとこのくそ暑い中、頭を濡らし、かなりのスピードで走ってくる男がいた。
 露菜は口を大きく開けた。
 雫が目を輝かせていた。
「すごい! ほんとに人が来たよ。お姉ちゃん歌以外にもこんな特技があったんだね!」
「ほ、ほんとに冗談のつもりだったんだけどな……はは、は」
 露菜は頭を掻きながら、薄ら笑いを浮かべた。
 だが、ここで雫が疑問の声を上げた。
「だけど、なんであんな急いで走っているんだろう?」
「さあ? 誰かに体当たりでもかます気じゃないの? 記念かなんかのために、渾身の体当たりを実現しようと……」
「だとしたら、その体当たりの目標は私たち? このままだと、激突の可能性大だよ」
「それは困るな。まあ、冗談はそろそろ抜きにして、何か急な用事で急いでる感じだな」
「止めてみようか?」
「そうだな、自分で止まらなかったら、止めてみようか」
 淡々とした会話を終わらせ、二人は左右に広がった。
 正面からは男が全速力の勢いで迫ってくる。勢いのあまり、あまり前が見えていないようだ。サンダルでこのデコボコ道を下ばかり見た走り方は、非常に危険な感じを露菜は抱いた。
「止まれ〜〜とまれとまれとまれ〜〜〜!」
 雫が叫ぶ。だが、男は無我夢中でまるで聞こえていないようだ。
 露菜はため息をつく。
「たく……予想通りというか、やっぱこの手を使うしかないか」
「どうするの?」
「殴れば嫌でも止まるだろ」
「……ほかに方法ないの?」
「あるかもしれないが、めんどくさいので暴力に決定」
 雫は呆れたようにため息をついた。
「……お姉ちゃん、なるべく手加減しないとだめだよ」
 雫の言葉に、手で相槌を打つ。
 それとほぼ同時に、男が露菜の射程内に入った。
 そして、
「おらぁ!」
 衝撃音と共に食い込む左腕。
 男が口の中で空気を殺す苦鳴。
 見事なまでのラリアット。長州力もびっくりの一撃。
「おみごと」
 雫が言った。男は強力な一撃のおかげで、頭から地面に叩きつけられ止まった。
「でも、ちょっとやりすぎじゃない?」
 仰向けに倒れた男は、目をバツ状態にして気絶していた。頭部から血はさすがに出ていないが、たんこぶが出来そうな勢いだったのは確かなのだ。
 雫の問いに、露菜はふむと唸る。
「手加減してたら、こっちのパワーが持っていかれそうだったんだ。仕方なく本気でやったらこうなった。こいつの自業自得だ」
 よく分からない理屈だが、雫はとりあえず納得していた。
 しばらくすると、男が唸り声を上げた。
「あっ、起きたみたいだよ」
「立ち直り早いね。さすが田舎の男だ」
 男は上体を起こし、いったい何がおこったんだ? な感じの表情を浮かべていた。顰めた顔で、首のあたりをさすっている。
 露菜は男を見た。体格は首の位置から算出して(殴ったときの)170大くらい。短く刈上げられた髪で、目が恐ろしく細い。どれだけの距離を走ってきたのか、男の白いシャツは汗でびっしょりだった。そのおかげで、背中には湿った砂がへばり付いている。
 露菜は言う。
「おい、どうしたんだ? こんな地べたに座って。蟻でも追いかけているの?」
「う……いてぇ〜、なんだこれ? ――あ、いや、別にそういうわけじゃなかったはずです」
 どうやら男は数秒前の事実を忘れているようだ。
 ぴんと閃く。露菜はそれを利用して、自分の行いをもみ消そうと思った。露菜の微妙な笑みを見てそれを察したのか、隣の雫がさすがお姉ちゃんだ、と小さく呟いていた。
 男はおかしいな〜、と頻りに呟いている。だがいきなりはっとした顔になり、そうだ! と叫んで立ち上がった。露菜は思わず一歩下がって身構えた。
「すいません! 貴方達は他所から来た人ですよね? あの、駅のあたりに医者の様な人はいませんでしたか?」
「医者?」
 露菜は疑問の声で答える。そして勘違いだったのかと理解し、構えを解いた。その光景が可笑しかったのか、雫はくすくす笑みを浮かべていた。
「はい。今日、俺のお爺さんの病気を直しに来るお医者様です。……本当に見てないんですか?」
「見てないね。というか、人さえお前が初めてだ」
「そうですか。どうしたんだろ、いったい……田舎だから遅れているのかな」
 男はがくりと肩を落した。
 露菜はなんなんだ? と訝しげな表情を浮かべた。
 その時雫が、後ろからお姉ちゃんお姉ちゃんと突ついてきた。露菜が振り向くと、雫はなぜか耳元で囁くように言ってきた。
「お姉ちゃん、もしかしてこの人、私達のこと言ってるんじゃないの?」
「え? 何を言ってるの、こいつは医者を…………ああ確かに、医者ではあるかもね。そおいう解釈されても仕方ないか」
 そうだ、自分達の仕事は、医者の真似事みたいなものだ。こちらがそうじゃないと思っていても、一般人からはそう見られる。そういえば今までの仕事でも、調整師とか、気孔使いとか、分けのわからない呼び方をされていた。医者なんて一般的な呼び方をされるので、つい理解に遅れてしまった。
 まあ、この変な呼ばれ方は、全てカエムがやっていることなのだが。たく、あいつ今回はなんていったんだ?
 露菜の理解を悟ったのか、雫はうんうんと頷いていた。
 雫に軽く笑みを返し、露菜は未だがくりとうな垂れている男の前に立ち、
「おい、お前の言っている医者というのはたぶん私達の事だ。さっさと案内しろ」
「え? でも貴方たちは……」
「医者に見えない? まあそりゃそうだな医者じゃないから。いや違う、医者じゃないけど医者……みたいなものなんだ、あたしたちは」
 露菜はいつのまにか、混乱の土つぼにはまっていた。元々こういう説明は苦手な性格なのだ。
 露菜の不審な発言に、男は微妙な表情を浮かべている。疑っているのは、間違いなかった。露菜の額に暑さとは違う汗が流れた。
 その時、露菜のバッグに雫の手が伸びた。
「はい、これ」
 雫はバッグから取り出したそれを男に見せた。
 それは地図だった。
「物的証拠。こう見えても私達は医者なんですよ。理解しましたか?」
 男は地図を手に取った。そして「ああ、これ弟が描いたやつです!」と嬉しそうに言った。
 男が地図から顔を上げる。その表情からは、疑いの文字はすっかり消えていた。
 雫はにこっと天使の笑みを浮かべた。その傍らで、鳩が豆鉄砲食らったような顔の露菜が、
「す、すごっ! 雫すごいよ。あのさりげないタイミングがなんとも絶妙!」
「お姉ちゃんが慌てすぎなんだよ。まったく、問答無用で殴りはするくせに、こうなると弱いのはどうして?」
「そ……それはだね。一度自分の言った間違いに気づくと、修正が利かなくなるから、かな。はは、は……申し訳ない」
 露菜は頭を垂らし、顔に反省の文字を色濃く染めた。
 雫はやれやれという感じのため息をついた。
「じゃあ、早速案内させていただきます! さあこっちです」
 男はやる気満々で前方を先導してきた。雫は肩を落している露菜に「行こ」と言い、左手を掴んできた。露菜はもう一度申し訳ないと頭をかいて、重たい歩を進めた。

「しかし、意外でした」
 しばらく歩を進めていると、前を歩く男が喋りだした。
 雫は何がですか? と尋ねた。
 すると男は照れた笑みを浮かべ、
「いや、医者っていったら、もっとそれっぽい格好した人を想像してたもんで」
「まあ、私達は特別ですから、一般的ではないんですよ」
 どう特別なのかと内心で雫は考えたが、男は別に気にした様子も見せずに頷いたので、雫は思いついた疑問をその辺に捨てた。
「そうですよね。それに、俺は田舎人ですし、常識がずれているのもあるでしょ」
「そんな事はないと思いますけど?」
「そうですか? ちょっと安心しました。……いや〜しかし驚いたな、まさかこんな―――」

 男はとんでもない事を口にした。
 姉妹達は絶句した。
 男は平気で笑いながら前を歩いていた。
 後ろから忍びよる姉妹達。
 二人からは、明らかな殺気、殺意が発せられていた。
 男はまだ笑みを浮かべながら、前を向いたまま二人に何かを話しかけていた。
 そして……。

「――まさかこんな、水商売でもしているような、綺麗な人たちが来るとは、思ってもいませんでしたよ」

 男はこの発言をした事を、二度目の記憶喪失で忘れる事になる。
 だが、残された傷跡は、消えることはなかった。

                    *

 五分ほど歩いた所で、やっと目的地が見えてきた。
 目的の自宅……松葉家は、広い土地を贅沢に使った建前だった。やや古くなりかけの和風な作りではあるが、瀟洒な雰囲気がある。周囲には自家栽培なのか本業なのかわからない、中サイズほどの畑が広がり、何もないという風情を際立てていた。
 露菜は思った。
 田舎人って、金持ちなんだな……。
 ただ土地が安いという理由もあるだろうが、これはすごすぎであろう。
「ここか? お前の家は」
「はい……いつっ! て〜〜〜、あ〜はい、そうです」
 男はボロボロの顔のまま笑顔で答えた。笑うと痛かったのだろう。それでも直向きに客人に笑顔を振舞う姿勢は、なんとも素晴らしい模範性を秘めていた。
 ちなみに、彼のこのケガの要因は、ものすごい勢いで走っている所を躓いてそのまま大きな岩に激突して、倒れて気絶しているところを突然現れた猪の大群に押し潰されたという、明らかに無茶のあるものになった。
 だが、この若い青年は納得してくれた。そして今も道案内を続けている。そこでっぱてて危ないですよと、気遣いも挟んでくる。
 確かに雫が言うとおり、田舎臭い男はいい奴がいるのかもしれない。
 家の前まで来ると、その建物の威厳ぶりに少し圧倒される。玄関の高さが二メートルちょいはある。たぶん、中はかなり広いはずだ。ふと露菜は、この家には頑固な奴が一人はいるなと勝手に想像した。
 男が玄関を開けると、すごい足音が大量に聞こえてきた。露菜が玄関を跨いだ時には、その足音の根源である数人の子供が並んで立っていた。
「兄ちゃん医者の人はっ!」「ずいぶん遅かったけどどうしたの!」「そのケガなに?」「そ、そこの女の人たちは!」「まさかナンパ!?」「駅でナンパかよ、やるな兄貴」「わあ、綺麗な人、大当たりだね」「わ―――!」
「うるさい!」
 と、叱り飛ばしたのは、持て囃されている案内人の男ではなく、露菜だった。
 その露菜のよく通る怒声に、あたりは一瞬で静まり返った。
 静まり返る玄関の中、露菜は火花が出そうなギラギラした睨みを、叫びまくっていた奴らに向けていた。
 周囲は完全に石になっていた。露菜の後ろに立つ雫も、やや唖然としていた。
 そんな中、震えた声で案内人の男が、果敢にも口を開く。
「……こ、この人が、医者の染野露菜さんだよ。……み、みんな挨拶……」
『……よ、ようこそ松葉家へ……』
 一同の言葉は、まるでヤクザの組長を家に招き入れる家族みたいな語調の声だった。
 完全に第一印象を破壊した露菜は、このあと正気に戻り、後悔の念を膨らませた。

                    *

「す、すいません。予想外の不意打ちを食らって、意識をふっ飛ばしちゃって。苦手なんですよ、雑音みたいなうるさい声が。特に子供の声が」
 本人曰く、アレルギー並みの嫌悪感を抱くらしい。雫はこの事を知っている人間だが、実際間近で見たことがなかった。露菜はうるさい事がおきそうになるとすぐに遠くに行こうとするし、街中ではいつも音楽をつけて歩いているから。
 あんなに嫌なんだ……。雫の中に、今までの露菜が思い浮かび、そりゃ仕方ないなと深く思った。
 露菜は今家の主である、松葉家の夫妻に必死で土下座している。露菜の性格というか、仕事の問題で、あんな非礼は絶対に許せないと当人は思っているのだ。というより雫から見れば、他人に弱点を晒した自分が許せなくて、自虐をこめて謝っている様に見えた。
「ほんと、すいませんでした。この非礼は金額から引いてください」
「いやもういいですよ」松葉父は苦笑を浮かべながら言う。「それよりも、その……仕事の方を早く……」
 露菜ははっとした顔になった。雫もはっとした。
 半分忘れていた。何しにきたんだ私は。
 よく見れば傍らの母の方が、ものすごく不安な表情を浮かべていた。最初に会った、案内男と同じ表情だった。露菜もそれを見ている。そして慌てて立ち上がった。
「あ、じゃあ……患者はどこですか?」
 そう言うと夫妻は立ち上がって、こちらですと奥の部屋を促してきた。露菜は無表情でそれについていく。雫も慌てて姉の後ろについた。
 父が部屋の襖を開けた。一歩中に入ると横に立ち、こちらを促してきた。
 露菜に続いて雫は部屋の中に入ると、ざっと周囲を見渡した。
 何もない、狭い個室だった。もうすぐ夕方になるのか、窓際の障子から差し込む光はやや陰っていた。その窓際にベッドがぽつんと置いてあり、そこに一人の老人が目を閉じて横になっていた。
 寝ている老人から、薄い呼吸が吐き出されていた。だいぶ弱っているようだ。肌の色は日本人とは思えないほど白くなっており、一瞬もう骨になってしまったかと思った。
「……この人ですか?」
 露菜が確認のために一応聞いた。当然のごとく夫妻は頷く。
「はい、すでに地方の医者から見離された状態でして、最新の医療でも延命にしかならないと……」
 母が、こちらまで影響を受けそうな痛々しい表情を浮かべた。
 母の言葉に露菜は一度頷き、
「分かりました。この患者、責任を持ってあたし達が治療します。……じゃ、とりあえず皆さんは家の外で待っていてください」
 この露菜の言葉に、夫妻は虚を衝かれた様な顔になった。
「え……ここにいてはだめなんですか?」
「邪魔になります。普通の医者でも、手術中に家族招き入れたりしますか?」
「家の外というのは……」
「雫、準備して。……それは、あたしらのやる事が、手術でもなんでもないからです。伝言役はなんて言ってました?」
 伝言役とは、カエムの事だ。雫達の仕事の前段は、全てカエムが担っている。
 どうゆう方法でかといえば、神になりすますというやり方である。
 人間というものはほとんどが宗教に属している。今でこそ軽い考えで扱われているが、自分が危ない、大切な人が危ないとなれば必ず通過するのが、神へのお願い、祈りなのだ。
 カエムはそれを利用する。付近で病人などを発見して、その家を監視し、神社かお地蔵の前にでも来た時に、タイミングよく語りかけるのだ。『その願い、叶えてあげよう』と。
 最初は胡散臭く感じるだろう。だが頭の中に語りかけてくる、低い明瞭な声を聞けば、信じてみたくもなるものだ。それがよほど大切な事ならば。
 そして期待する。日付を教えられれば、それはどんどん大きくなるだろう。時間が長ければ長いほど強いものになる。今回のように、若者を向かえによこす事も、期待の現れとして理解できることだ。
 まさにカエムさまさまだ。これで人に言いふらす事を禁としてやれば、目立つ事無く仕事を行える。
「伝言役? 神様の事ですか? 『伝説の医者』をここに呼ぶと言っておられましたですけど……」
 雫は荷物からペットボトルを取り出しながら、ずるっとこけそうになった。
 ――カエム、いくらなんでもそれは遊びすぎ……。
 松葉父と話す露菜も、小さくだが舌打ちをしていた。かなり小さいが「あとで鳩焼きにしてやる」とも呟いていた。
「……あ〜〜、そうです。あたし達は伝説の医者なんです。だからやる事が特殊でして。簡単に言えば、医療の効果範囲がとても広いんですよ。で、その範囲内にたくさんの人がいると、医療の効果が薄くなるんです。おじさんの助かる可能性が、とても低くなるんですよ。分かりましたか?」
 露菜なりに精一杯説明したつもりであろうが、言葉と内容はかなり支離滅裂である。
 だが松葉家の主は納得したようだ。露菜の説明で納得したとは思えない。たぶん、神様の事を知っている人物として、信用したのだろう。そうに決まっている。
 松葉父が襖を開ける。するとそこからやべ! という声があがり、大きな物がたくさん崩れ落ちる音が鳴り響いた。
 どうやら子供たちが立ち聞きしていたらしい。
 視線をやる。男の子が四人、女の子が一人。ここにはいないが、もう二人女の子がいたはずだ。ここにいる奴等と違って、人格が大人なのだろう。
 松葉父が一発叱りとばした。すると風の様に子供たちは散らばっていった。
 その時、
「ちょっと待て! そこの案内男」
 一番下に崩れていて、逃げ遅れた男を露菜が止めた。
「は? 俺ですか?」
「そう、あんたはここに残れ。その傷をついでで治してあげるよ。一人ぐらいなら大丈夫だから」
 そう言って、露菜はボロボロの男の顔を指差す。男は呆けた顔で半ば固まっていた。
「……嫌なのか?」
 露菜はあからさまに不機嫌さを男に向ける。
「あ! い、いえ。よろしくお願いします!」
「よろしい」
 露菜は微笑を浮かべながら頷いた。男を部屋に招きいれ、未だ立ち尽くしている松葉夫妻に「外にあった井戸、みたいなもののあたりまで行って下さい。終わったら呼びますから」と一言つげて、一応みんな外に出たのを確認し終えたあと、
 『治療』の準備に入った。

                    *

「……お前に、一言言っておく」
 露菜はバッグの中から、水の入ったペットボトルを取り出しながら呟いた。
 お前と言われた男――松葉種由は、畳に座ったままはいと答えた。
「と、その前にもう一度聞いておく。あたし達を見て、ぱっと浮かんだ印象は?」
「え? えーと……綺麗なふりふりの水―――」
 高速で投げられたペットボトルが、種由の顔面を捉えた。
 種由はぶっ! と唾を吐きながら、後頭部を壁に激突させた。
「忠告だ。お前長男みたいだから、いずれ都会の方に行くはずだ。その時、お前の女性への先入観は絶対に口には出すな。お前の場合、早死にする要因になるからな」
「……わかりました」
 いつのまにか足元に転がってきたペットボトルを手に取り、露菜は頷いた。
 水を一口飲む。
「じゃ、もう喋るなよ」


 姉妹達の行動は、種由から見て異様そのものだった。
 あーっと発声をし、水を飲み、また発声をする。
 それの繰り返しだ。
 なんだか可笑しさを覚える光景だが、彼女達の真剣な雰囲気が、こちらを圧倒さえさせた。
 ――それにしても、綺麗な声だな……。
 思わず種由は唾を飲み込んだ。
「……あのー、いったいそれは――」
 と口を開いた瞬間、姉の露菜がすごい目で睨んできた。
 喋るな、だまれ。口では言ってないが、目はそう語っている様に種由は感じ、おとなしく黙った。
 それから約三分ほど、この状態は続いた。
 二人の発声が終わった。お互い確認し合うように一度頷き、手に持った残り少ないペットボトルを畳に置いた。
 そして彼女達は種由を見た。どうやら、ここから喋る事は絶対だめとの事らしい。
 ――それは邪魔するってこと。つまり、喋る事でお前は、お爺さんを殺す事になる。
 姉の言葉が脳裏に浮かんだ。種由はもう一度唾を飲み込んだ。
 なんだか、物凄く緊張してきた。
 彼女達は自分から視線をはずし、目を閉じた。
 一抹の静寂が流れる。
 その時気のせいか、部屋の中の空気が妙に澄んでいる気がした。
 そして……。
 二人の口が開いた。

 “眩しさを覚える澄んだ水面”
 “手を入れて波紋と冷たさを感じ、私は沈む”
 “大切な事なのに それはマヤカシに感じられた”
 “私の心はそう、濁っている……”

 歌だ。
 彼女達は歌っていた。
 左右の手を広げ、高い声で歌う。二人の歌声はまったくずれる事無く、完璧な調和を伴っていた。

 “人々は私を欲する”
 “それがどんな事かも知らず”
 “危険を知らず 私を欲した”
 “酬いは 時を越えて返ってきた”
 “各々は塗り潰された色となる”

 歌はとても力強かった。
 それでいて、とても悲しいものだった。
 それは彼女達の歌う歌詞が影響しているのだと、種由は思う。いったいなんなんだ、この詞は?

 “私の歌声を聞いていますか?”
 “水面は冷えを纏い 答えた”
 “両手結び思いを歌う”
 “響いた風靡を纏う囁きは 人々を助けてくれた”
 “歌姫の声がそうさせた”
 “これが、水面の歌姫……”

 変化が起きた。
 お爺さんの体の上に、水面が生まれたのだ。種由は思わず声を出しそうになり、慌てて両手で口を塞ぐ。
 それは、お爺さんを丸ごと包めるくらい大きな水面だった。幻覚にしては、はっきりしていた。それが本物の水の塊と証明するかの様に、こちら側に湿った空気を送ってくるからだ。
 水面は、どんどん大きくなっていった。

 “水面は答えをみせてくれた”

 しかし……。
 異変が起きた。
 水面に亀裂が走ったのだ。
 まるで大地にヒビが入るように、稲妻状に割れ目が生まれていた。そのおかげでか、安定していた水面は、グラグラとお爺さんの上で揺れていた。
 ――いったい何が起きたんだ!
 種由は姉妹達に視線を走らせた。見ると、二人はとても辛そうな表情を浮かべていた。両者とも額に玉の汗を浮かばせ、今にも悲鳴を叫びそうだった。水面にばかり眼がいっていたので、今までまったく気づかなかった。
 特に、妹の方が辛そうだった。それに、歌声にやや曇りが生じているのが分かった。
 水面に、亀裂が一つ増えた。
 すると妹が閉じていた目を見開いた。その瞳には明らかな焦りが浮かんでいた。

 “歓喜に走る人々 歌姫を強く称えた”
 “彼女は弱い笑みを浮かべ そして真実を語る”

 妹は左右の拳を握り、必死の表情で声を張り上げていた。
 亀裂が一つ消えた。
 やった! と、種由は内心で叫ぶ。
 だが傍らの姉が、辛さの中にとても心配そうな表情を浮かべていた。
 亀裂が全て消えた。
 その時、妹の体がぐらりと揺れた。
(あ!)
 はっとした表情で、妹は慌てて片足を強く踏み、踏ん張った。無理をして酸欠を起こしたのだろう。種由は立ち上がる所だった腰を下げた。
 だが、歌は止めなかった。
 恐ろしい集中力と、根気である。

 “私の使命ははたしました”
 “歌姫の生命は 音と共に消える”
 “揺れる人たちは 何もできない”
 “ただ……”

 水面の成長が止まった。
 大きさはすでに自分がお爺さんと横に並んでも、十分に覆えるくらいだった。

 “ただ見守り そして感謝することだけ”
 “歌姫はそれだけで 嬉しく思う”

 水面はゆっくりと下にさがると、お爺さんをベッドごと完全に中に取り込んだ。お爺さんはまったく反応を示さない。苦しいという気持ちはないようだ。
 水面の中で白い光が満ちていた。それはだんだん大きくなり、やがて外に放たれた。
 部屋の中が一瞬にして真っ白になった。
 もの凄い光に、種由は目を瞑る。
 …………!
 しばらくして目を開けると、普段の光景が広がっていた。
 水面は無くなっていた。シーンとした空間に、お爺さんの呼吸がはっきりと響く。
 ん? はっきり?
「はぁぁ〜!」
 いきなり甲高い声を上げ、姉妹達が崩れるように畳に座った。
 種由は考えていた思考を忘れ、二人に駆け寄った。
 二人はぐったりしていた。妹の方はげほげほと涙目で堰をしていた。姉の方はフルマラソンを走り終えた選手のように、とにかく新鮮な空気を摂取していた。
「だ……」
 とそこまで言って、あの約束に気づいて言葉を飲み込んだ。もう彼女達の作業は終わった様に見えるが、一応確認のために、口に指を指して姉に尋ねた。
 疲れた顔の姉は、一瞬わからない顔を浮かべたが、すぐに理解してくれて、
「ああ、もう喋っていいよ」
「だ、大丈夫なんですか!」
 種由が声を上げると、姉は耳を塞いだ。そして呆れた様な表情を浮かべながら、
「あたしなんかいいから、お爺さんを見てやんなよ」
「で、でも! ずいぶんばててるみたいですけど……」
「あ〜この暑さだからね。あたしより雫がやばげだけど……それより、外の家族でも呼んできなさいよ、家族より他人を心配するなんて、おかしいよお前」
 姉に言われ、種由はあっと声を上げた。やや行動に逡巡して、姉の睨みに気づいて、慌てて外へと走った。

「雫、大丈夫?」
 側に移動し、露菜は未だ苦しそうに小さな堰を続ける妹に問いかけた。
 すると、雫は不完全な笑みを浮かべ、
「やっぱ、本番はきついよ、げほっ……」
 妹の声はすっかり嗄れていた。
「あんまり喋らなくていいよ。ほら、水」
 この治療の欠点は、必ずどちらかに大きな負担がかかることだ。今回は雫が強い負担を珍しく担ってしまった。
「とりあえず、お疲れ。雫」
 露菜がそう言うと、雫は水を飲みながら笑顔で頷き、右腕を上げた。
 露菜はすぐに理解し、右腕をあげた。
 パン! という音が、狭い部屋に響き渡った。