声が、きこえる。

 耳に聴こえる音声ではないその声は、しかし野を馳せ、洞穴の闇をくぐり、かれの魂に直接届いた。
 陽の光射さぬ地下洞窟のなか、冷たく湿った岩肌のうえにひとり、その男は座してなにかを待っていた。
 どす黒く染まった外套の下に簡素な鎧を着こみ、腰には大ぶりの『カタナ』を佩いている。男はしばしその声に心の耳をすませていたが、
「──はっ」
 凝った小首を軽くかしげて鳴らし、鼻とのどから同時に息を吐き出した。
 鼻腔を貫くような強烈な異臭。それまでどこに伏せていたのであろうか、男の背後に3体の人影が現れていた。
 あ゛あ゛ぁ。うう。
 胸の悪くなるような音声をもらし、腐肉をしたたらせながら、のそりと緩慢な動きで死者が手を伸ばす。
 男は立ちあがらない。ふりむかない。
 3体の亡者が、先を争うようにしてその肩や頭をつかんだ。失笑を買うような鈍さだが、いちどつかまれたらだれひとりとして笑ってはいられない、人知を超えた膂力を秘めた腕が3対。
 しかし男は微動だにしない。
 死者が、その手に力をこめる。人間の意思を感知し、その源をむさぼり食うために、まずその肉体を護る鎧をひきはがしにかかる。
 生者にはけっして引き出せない力が、死んでいるはずの筋肉から生まれる。その力をもってすれば、鎧など数秒の守りにすらならずにむしりとられてしまう。
 腕が存在すれば。
 亡者たちに感情があるとすれば、あるいはその顔に当惑の表情が生まれたかもしれない。だがかれらの脳はとうに腐れて機能しない。おのおのが力をこめようとした瞬間、その当の腕が消え失せていることに対して反応らしい反応をすることができなかった。
 3体すべての両腕が、断ちおとされていた。
 座りこんでいたはずの男は、あいかわらずそこにいた。ふりむきも、立ちあがりもしていない。すくなくとも、その動作をしたようには見えない。
 だが、男は立っていた。座っていたときの印象よりも意外に高い上背が、死者たちを見おろしていた。真正面から。
 ふりむく動作も、立ちあがる所作も、カタナの一閃も、コマ落としのように欠落していた。
「はぁーっ」
 男は小首をかしげ、のどから鼻にかけて息を抜くようにした。ことを起こすときの、かれのクセのようである。
 そして──
「はっ」
 男がカタナを抜きはらったときには、もう3体の屍は屍にもどっていた。
 そして、その屍は溶けるように消えていき──
 あとには、きぃんと冷たい音を立てて石の上にぶつかる、ちいさな爪や歯のかけらだけ。
「いや、はや」
 男はそれを摘むと、片眉を上げて言った。
「こんなちっぽけなものにとりついて、かたちになっちまうんだぜ、人の想像力ってのは。おっそろしいねえ」
 洞窟に男の声がこだましたが、周囲にはだれもいない。おそらく相手は魂に話しかけてきた何者かか、それともじぶん自身か。
「で、おまいら、いまどこなのよ? べつだんピンチってわけじゃないんだな?」
 前者だったようである。声に出しているのは、たんにそのほうが意識に志向性をあたえやすいからだろう。ときおり、こういう冒険者は存在する。
「──わかった、いまからそっちに向かうけど、ムダ金使いたくねえからちょっと時間かかっちゃうぜ? ああ、それでいいなら。よし待ってろ」
 男は会話を打ち切る。
「はぁっ」
 鼻を鳴らす。ことがひと段落ついたときにも、かれのこのクセは出るようだ。
 悠然と歩き出した男と、亡者が『湧く』のを待ちながら談笑していた数人組の冒険者とがすれちがう。かれの『狩り』の場所にはたまたまだれもいなかったが、いまやそのほうがめずらしいことなのだ。
 もしも男の戦いぶりを見ていたら、すれちがった冒険者たちはすぐさまかれの姿と、その名前をたしかめていたことだろう。
 カイナン──不動の剣士と称されるその名を。



 ROman−tique Pre−story
“SATURDAY NIGHT ZOMBIES”



『……』
 それが、最後だった。それっきり、うんともすんとも返ってこなくなった。
 さいしょの3回は、忙しくてそれどころじゃないんだろう、と思っていた。つぎの3回で、避けられているのかも、とすこしずつ思いはじめた。最後の1回を送ろうとした瞬間、気づいた。
 きらわれたらしい。
 あれはどういうことだったんだろう。どうしていれば、避けられたんだろう。

「んぃ〜」
 うたたねしていたらしい。やわらかく射しこんでくる木洩れ日に、猫のごとくここちよさそうに目を細めながら、だが藍名はため息をついた。
「……売れてないや」
 意識の片隅に常駐させていた在庫表示を確認して、がっかりする。
 そこは王都からほど近い街道に面した、それも三叉路の分岐点だった。『激戦区』とのちょうど中継点となるような距離に位置している。人通りも多く、いい場所を確保したと思っていたのだが、どうも見こみちがいだったらしい。
「やっぱり薬液と矢だけじゃだめかなあ。食糧とかも仕入れとけばよかった」
 広げていた露店の品ぞろえを省み、思案する。反省材料はたくさんある。改善点の洗い出しをおこたらないことが、あすの繁盛につながるのだ。と彼女は信じる。
 人の気配。
「あ、いらっしゃいませー」
 かたわらに男が立ちどまり、こちらを凝視するようにしている。おそらく『店』をのぞいてくれているのだ。『外向きの』意識上に表示された値札つきの品々が、吟味されているのだろう。
「赤を100本」
 客の手から代金が放られ、受けとる。革袋がずしりと重い。これほどの数が売れたのははじめてだ。
「あ、ありがとうございましたっ」
「マメなこったな」
 薬瓶の束を背負い袋につめこんでいた客が、苦笑した。客に声をかける露店商はめったにいない。だが藍名は店を出せるようになったばかりなのだ。
「あ、あのっ」
 ふとあることを思いついて藍名は店を『たたみ』、立ちあがって客の剣士──カイナンなる登録名の男に声をかけた。
「どこに向かってるんです? そんなに薬買いこんで」
 すでに歩き去ろうとしていた男は足を止め、怪訝そうにふりむいた。う、ちょっと気安かった、と反省する。
「鬼どものムラさ。ギルドの仲間がちょっと苦しいらしくてな」
「ギルド!」
 ギルド。冒険者どうしで連盟を組み、有事のさいには集まって行動する連中だ。ということは、ついていけばかれぐらいの経済力のある冒険者が複数人いるはず。稼ぎどころだ。
「ご、ごいっしょしていいですか!?」
「売れるかわかんねえぞ。めんどうも見てやんねえし」
「じぶんの身は、じぶんで護ります」
 藍名は身体をひねり、腰のうしろにさした短剣を男に見せた。
「──はん」
 男はあごをしゃくって、
「好きにすりゃいいんじゃねえ?」
「……はい」
 売り物をカートにおさめながら、藍名はなにか、出端をくじかれた気持ちになった。
 めんどうを見ない、はいい。じぶんの身はじぶんで護る、相対した敵はひとりでかたづける。これが冒険者の原則だ。
 それでも、
『……』
「?」
 藍名は『沈黙』や『思案』を意味する情動表明をしてみせるにとどめた。カイナンもそれは見ていたが、とくに追及することなくふたたび歩き出した。重いカートをひきずり、藍名もそれにつづく。
 異なる地で、異なる習慣、異なる思考様式をもつ冒険者どうしが円滑に意思疎通をはかるために発達した、精霊の力による記号化された情動の表明──エモーション。
 これは、あくまで意思表明のためのものであり、胸のうちにうずまくものはまた異なっていた。
 藍名の気分を忠実にことばにできるものがいたとしたら、こう表現したであろう。
「なにさハナで哂っちゃってやなやつ! やぁーなやつぅーっ!!」



『1000年の休戦』がだしぬけにその終わりを申告して、もう数年が経つ。

 その日から突然──だったのだろうか。それすらさだかではないある日、世界を怪異が襲いはじめた。
 瘴気は山や森を蝕み、死の病が生けるものにひとしくおとずれ、食物連鎖の美しいピラミッドは不気味なかたちの壺に変わった。
 そして、癌細胞のような速度で世界にあふれだした脅威。ヒトだけを食らう魔物。喪われたはずの、ひとびとの血に刻まれたかつての敵たち。
 だが、ただ奪われ滅ぼされるには賢明すぎたのが、人間の不幸。
 はたから眺めるなら、それは絶望的な抵抗だった。
 その絶望はあまりにも巨大すぎて絶望のかたちをして見えず、したがって人々は圧しつぶされることがなかった。それどころか力を──ある意味で捨てばちな強さを、人間は手にすることになった。
 かれらはふたたび1000年まえのように剣をとり、矢をつがえ、火をつむぎだす。
 ゆるやかに発達していた技術は、すべてこの日のためにあったかのように戦いの助けとなった。解明されつつあった『魔』と『法』の根源、感情に反応する神聖にして魔性の霊質──
 そう、長いごたくは必要ないだろう。けっきょくのところ、長すぎた平和と安寧の裏で抑圧され、着実に肥え太っていた原始的な欲望や邪な知恵が、堰を切った。
 敵を得て、ヒトたちはふたたびその牙を磨ぐことを許された。
 手をさしのべたか、亡びを後押すのか。それはわからないが。
 どうやら、いまだ世界にかみさまはいるらしい。

 そんな、いいかげんな時代のことだった。



 オーク鬼も人類の旧友、なつかしい敵たちのひとつ。
 かつて人類の宿敵だった、亡びたはずの種族。神話にしか存在しなかったかれらも、ついでのように復活した。
 その棲まうムラがここである。一見すると遊牧民族の居住する、のどかな、なんの変哲もないいち集落──しかしその天幕の下、生活をいとなんでいるのは、獣の面相を持った怪物。戦うための熱い血と硬い骨と重い肉を持つ、人を戦うためにつくりかえたらこうなるであろう、という生き物。
 殺さなければ、殺される。そういう種類の存在。
 その手が握る、肉厚の、斬るためではなく打ち砕くためにつくられた分厚く重いそれ──剣というにはおこがましい鉄の塊がふりおろされた。それもたてつづけに2本。
 無造作に脳天を割られるはずだった青年は、あやういところを転がってかわし、その役目を地面に肩代わりさせることに成功した。動きの素朴さと鈍重さだけが、こいつらにヒトがつけいる隙だ。
「ガントっっ」
 青年は前方の敵を見据えたまま、右後方へ向けて叫ぶ。
「手は回るか? 2匹相手じゃ支援ないと荷が重いわけだが!?」
「こっちからも来てる!」
「なんだってえー」
 生命に反応し、恐怖や攻撃衝動を嗅ぎつけて現れるもの。
『敵』の存在は虚にして実。立ち顕れるだけならば、人間の組んだ防御網と関係なく可能なのがこいつらすべてに共通する特徴であり、そこが最大の脅威でもある。
 そして、いま2体のオークの矢面に立たされている青年──登録名をハックマンというかれは、盗賊というカテゴリーに属する冒険者だった。瞬発力と正確さに秀でたハックマンは、1対1の闘いでこそ有利に立ち回れるが、複数の敵を相手どると力負けしてしまう。
 その後方に立つガントと呼ばれた若者は、やはり窮地に立たされていた。
「くっ!」
 十字を切り、神におのれの信仰を懸けて祈りをささげる。極限まで戦闘用に簡略化された儀式が、人間だれしもが持つ恒常性、かくあれかし、と望む姿に戻ろうとする力を賦活する。真に神の御業なのか、それはだれにもわからない。『癒し』の法力。
 折り重なるようにして襲ってくる敵の攻撃に対して疲弊していた肉体と精神が、すこしだけ平衡の状態にひきもどされる。生と死を測る天秤が生に傾く。ガントの限界が延長される。
「こいつらを──」
 鎖鞭で鬼を打ちたたきながら、ハックマンに叫ぶ。
「かたづけるまでもちこたえられるか!?」
「保証できるかよ! なんとかするよ!」
 悲鳴をあげる青年の右手には、短剣。
 その短剣が電光のごとくオークの骨と骨の隙間をえぐり、悲鳴と血飛沫が樹海を染める。それでは終わらない。常人にはなしえない無慈悲な正確さで、おなじポイントをもういちど攻撃。より深く。悲鳴が断末魔に変わる。血飛沫と肉塊が虚空に溶ける。古ぼけた、子どもの戯れにつくったような飾りが地面にぱたりと倒れる。鬼の『正体』だ。
 魔物がどこから現れるかは、だれも知らない、とされている。
 が、だれもが知っている。
 かれらは、人間の恐怖がつくりだした幻影なのだと。なにものかの意思によってかたちと力を手に入れた、しかし幻影にすぎない、と。
 そのなにものかとは、なにか。
 考えないようにして、人間は戦いつづけていた。恐怖に世界を呑みつくされないために。
 足をつかまれ、鎖骨をへし折られ、喉首を押さえられ──
 いままさに、群がるオークの群れに呑みこまれんとしている、ふたりの冒険者がそうであるように。

 突然走り出したカイナンに、藍名がやっとの思いで追いついたとき、そこにはふたりの冒険者の骸がよこたわっていた。
「……!」
 血にまみれてはいたが、蹂躙されつくすまえに正常に暗示が働いてくれたおかげで、肉体の欠損はほぼ問題にならないていどだった。
「──はっ」
 かぎりなく死に近い仮死状態になったふたり──登録照合によればガントとハックマン──のかたわらに、カイナンは片膝を立ててかがみこんだ。
「急ぎじゃねえんじゃなかったのか」
『湧かれたよ。さすがにありゃ無理よ』
『めちゃくちゃな数がいっぺんに来てさ、ふたりじゃ支えきれなかった』
「そんで──」
 カイナンが訊ねようとしたとき、冷やかすようななぐさめるような声がした。
「死者に安息を」
「やすらかなれかしー」
通りすがりの冒険者のふたり組だった。
『弔い、ありがとさん』
『感謝』
 意識もあり、情動表明も念話も可能であり、生き返ることすら可能な、いびつな死。ヒトの知恵は、魔に打ち勝つためにここまで狂った。
 ふたりが去ると、カイナンは話をもどした。
「──そんで、オリアは」
『深追いして行っちゃった。すぐまわりが見えなくなるんだから困るね』
 ガントの『魂』が、あきれるように言った。
「──くそっ、通じねえぞ? 洞ンなかかな。助けに行かなきゃならんかな」
『行ってくれよ。でもってひとこと文句言ってきてくれ』
『いや待ってくれ、いくらカイナンでもひとりじゃ無理だろ? そっちの──』
 ガントの意識が空間を泳ぎ、藍名の存在をとらえてきた。
『お嬢さんだけじゃ戦力的に足りないだろうし』
「あっ」
 思いついて、カートをひっくり返した。薬液やら魔物の断片やらに混じって、ちいさな、エメラルドのようにあざやかな緑色の、押し葉のようなものがころがり出てくる。
 藍名はすこしだけ神妙に、人差し指と親指でその葉のコーナーを持ち、3人によく見えるようにした。
「これ、いちまいだけっ」
「タヌキのやつか? 人を化かすのに使ってたって」
「……ちがいますー」
『死者を呼びもどす宇宙樹の一葉……へえ! いいものじゃないですか』
「だいぶまえにプレゼントされて、とっておいたの思い出して」
「使っていいのかよ」
「使わなきゃ意味ないでしょ?」
 藍名はすこしだけ得意げに言った。
「──おまえいま、じぶんでかっこいいこと言ったと思ったろう」
「えっあ」
『発汗』の情動表明。
「はん。で、この一枚だが」
 むかつく、と思っているあいだに葉をひょいと奪われていた。
「ハックにゃ悪いが、ガントに使うぞ」
『戦力外通告かよ、傷つくだろ。ちょっとは言葉選べよばか』
 ハックマンがすねる。
「おれとおまえじゃ前衛だけになるだろ。ごちゃごちゃ言ってないで再生してこい」
『ねーちゃんどう思うよ、カイナンはやさしさがないとつねづね思うわけだが』
 藍名も思う。
「いいから帰って身体を治せ」
『了解だよ、ちくしょう、またこんどな、おつかれ』
 ハックマンの肉体が消滅した。『物流』のネットワークに意識を照合させ、死者の無償空間移動サービスを利用したのだ。つぎに会うときは、生きている状態のハックマンに会えることだろう。
「さてと」
 カイナンが『葉』に精神をふりむけ、物質から霊質をひきずりだす。日ごろ使用している食糧だの薬液だのが問題にならないほどの、特大の力が解放される。
「──『蘇生』」
 弛緩していたガントの肉体が力をとりもどし、目がぱちりと開かれる。ぼろぼろだが、また肉体ごと活動できる状態に復活することができるようになったガントは身を起こして口を開いた。
「すこしだけ休んだら、すぐ洞に降りりょ」
「……?」
「かむなよ」
 カイナンが『はっはぁー』とからかうように笑った。数秒まえまで『死んで』いた肉体を動かすのは、難儀なことだ。
「……降りよう。オリアがそんなに長く戦っていられるとは思えないし、あそこは退路も断たれやすいから自力でもどってこれるとも──」
『はぁ』と鼻を鳴らして立ちあがる。
「すこしだけ休んだら、追いついてきてくれ」
「ええ!?」
 藍名は驚いてしまったが、ガントは予想していたらしく、みずからを法力で癒しつつかぶりをふった。
「回復しないうちについていっても足手まといになる。そうさせてもらうよ。ただ、死なないでくれ? おれもせっかくの葉をむだにしたくないし、すぐ追いつくから」
「だぁれに言ってんだ青びょうたん」
 カイナンはそう言いながら首をコキコキと鳴らすと、藍名のほうを見た。
「で、どうするよ、ここから帰れるか」
「帰りませんよ」
 すねたような藍名の口調に、一瞬カイナンはなにを言っているかわからん、という顔をした。
「あ?」
「葉っぱの貸し、返してください」
「ああ!? そういうことは使うまえに言えよ」
「あたりまえみたいに使う人のほうが悪いと思うんですけどっ」
「……ちっ、いくらだ」
「お金は、いいです」
「はぁー?」
 藍名は立ちあがり、おしりについた草をはらい落としながら、
「洞のなかはひとりじゃ厳しいって、あなたたちが言ってたんじゃん。あたしもがんばるから、背中はちゃんと護ってくださいね」
 にこりと笑ってみせる。
 カイナンはたじろぐようにしたあと、眉根を寄せた。
「それじゃおたがいさまになっちまうだろ、返したことになるのか」
 おや、と思った。存外律儀な男らしい。
「あたしのほうがあんたより弱いもん」
「えばって言うことか。支離滅裂だぜ」
「いや……そうでもないと思う」
 いくぶん生命力をとりもどし、呼吸の整ってきたガントが、助け舟を出した。
「たしかにいざというとき、敵の攻撃が分散するのは強みだ。うん、ひとりよりはふたりのほうがいい。頼めますか、藍名さん」
「まっかして!」
『上機嫌』の情動表現とともに、藍名は請けあった。

「おめえってさ」
「ん?」
「負けずぎらいってよく言われるだろ」
「……わかる?」
 湿気を帯びた暗闇のなかに、こだまする足音と声。そして藍名たちの人影があった。
 オーク・ロードの穴居とも、オーク・ダンジョンとも呼ばれる迷路状の地下洞。そこかしこで冒険者たちが剣をふるい、防衛装置となっているオークの『動く骸』と闘っている。オリアというカイナンの仲間の姿は、どうやらまだ見えない。
「わかるさ。でもって誤解されっだろ。気むずかしいって」
「誤解……なのかな」
 藍名は胸に手を当ててみた。思い当たることはいろいろある。むしろ、じぶんはかんしゃく持ちの自己中心主義者なのだろう、知らず知らずのうちに、だれかに迷惑をかけているのだろう、と思っている。それは性分だろう。

『……』
 ──あれは。
 ちがうのか。誤解、だったのか? よくわからなかった。

「お嬢っ」
「わっった!」
 声にはじかれ、短剣を引き抜く。そして反応する。オーク・ゾンビイの一撃がすんでのところで止まる。状況を把握する。
 すこし考えこんでしまっていたらしい。うかつだった。
「しっかりしろよな!?」
 怒号を飛ばしながら、剣士は目のまえに迫るもう2体を見すえて──そのままでいる。間合いを測るでもない。ただ立っている。
 自身も敵の攻撃をさばいていた藍名は、しっかりしろと言った矢先になにを、と思った。
「カイナンさん!? ちょっと、なにしてるの──」
 緩慢に、だが着実にオークの屍は武器をふりあげ、そしてカイナンに斬りかかる。
 カイナンは動かない。
 そして、オークは手ごたえのなさに、もういちど剣をふりあげる。
 カイナンは動いていない。ただ、かわしただけだ。動かずに。そうとしか表現できない、と藍名は思った。
「はぁーっ」
 鼻からのどにかけてを空気で満たすようにして、やる気のなさそうな声をあげる。
「はっ」
 カイナンの手にカタナが出現していたことに、いま気づいた。いつから? 冷静に思い出せば、さっきゾンビイたちが剣をふりおろしたとき、すでに抜いていたような気がしてきた。なぜ気づかなかったのか。むしろおのれの記憶を藍名は疑った。疑いながらも、
「どころじゃないっ」
 眼前に迫る、腐れた血肉にまみれた刃が問題だった。護り、うけ流し、反撃する。
「っりゃったあ!」
 藍名の持つ左手用パリイング・ダガー『マインゴーシュ』は、その名が示すとおりもともと防御用のものだ。相手の攻撃をしのぐ性能にすぐれている。
 そして彼女はどちらかといえば、手数がすくなくとも、機会をうかがい着実に相手の弱点を攻める戦法のほうを得意としていた。
 数度の反撃ののち、敵が致命的な隙を見せ、藍名は裂帛の気合とともに短剣を突きこんだ。
 くずおれるオーク・ゾンビイ。その消滅を確認するよりもしかし、まずはカイナンの支援が先決だ。藍名は身を翻らせた。
 敵は3体にまで増えていた。にもかかわらず、カイナンはさっき見たときから、一歩も動いていなかった。ほとんど呼吸を乱さず、足許をいっさいくずさず、ただカタナさばきと上半身の軸線のかすかな移動だけで、ほとんどの攻撃を避け、受けたとしても問題にならないほどに打点をずらし、かつ、着実な打撃で敵の戦力を殺いでいった。
 手出しは無用のようだった。
 それにしても。さっきカタナをなぜ抜いていたかわからない、と感じた理由がわかった気がする。
 ──きれーだ。
 自然すぎるのだ。会話しているときに話し相手が呼吸し、空気を補給していることを忘れてしまうのと似ている。剣を扱うことがまったく当然──いや、当然のようにふるまっている、とかいうふうな意識すらうかがえない。それこそ息を吸って吐くように抜き、かわし、ふるう。そのように見えた。
「すぅー」
 聴こえてくるほどの深呼吸に、われにかえる。ふと気づけば、オーク・ゾンビイは最後の1体まで減っていた。
「はっっ」
 0体になった。
 カタナを鞘におさめ、カイナンがふりむいた。
「だいじょうぶか?」
「ええと」
「なんだよ」
 どっかりと座りこみながら、つづきをうながす。
「──達人?」
 言いつつ、ではないな。と思った。いちどそのつもりで見てみれば、なにをしているのかはわかる。神業の域とはいえまい。ただ、これが洗練されていけば、確実に達人と呼ばれるたぐいの闘法ではあるだろう。
「いや?」
 ほらね?
「こう見えてもすっげーえ苦労してるんだぞ、動かないで闘うっての」
 藍名の表情で言いたいことがわかったのか、カイナンはつづけた。
「なんでそんなことするか、か? おまえだって叩きこまれたろうが。冒険者はアシが命だって」
 たしかにそうだ。より長距離を、地形に関係なく踏破できること。着実な体重移動。そして、なによりも──
 リズム。
 冒険者は新米のうちに、体内のコンディションをととのえ、恒常性をとりもどすための呼吸のリズムを、まず『脚』におぼえこまされる。
 脚でとったリズムは、全身に影響をおよぼす。歩いたり、敵と戦闘したりすれば、そのリズムに身体が切り替わるし、それがスイッチとなって戦闘状態と通常状態が切り替わるように教えられもした。
 切り替わるものなのだ。
「……切り替えないように闘うの? その、つまり、平常心ってこと?」
「ちょっとちがうな。むりやり休みながら闘って、戦える時間をひきのばしてるっていうのか。言うのは簡単だけどな、これがなかなかきついのさ」
「聞いただけで大変そうだけどね……」
「いろいろ大変なんだぜ、遠目には動きが不自然に見えるから『人形』あつかいされたり。だがおかげで、このていどの強さだがそれなりに名前が知れてる、とこもある。『不動の剣士』とかってな」
「あ、聞いたことが──」
 カイナンが、『!』と反応した。
「……ないかも」
 カイナンが、『涙目』とつづける。およそこの男のイメージに合わない。というか冗談めかしているだけだ。
「まあ、おかげで定点狩りしかできんから単位時間あたりの殲滅効率はよくないんだが、いい精神修養にもなってるかもわかんねえし」
 わかんないのか。
「でもさ」
 藍名は一瞬、言っていいのかな、と思って顔をかいた。
「あ?」
「ひと探ししてるんだから、動いてないばあいとちがうんじゃないかな」

 遭遇するのは怪物どもばかりだった。不死オークをあしらいながら、ふたりは進む。
「それにしても──ぜんぜんだな」
「つながんない? ギルド間念話も『ウィスパー』もだめ?」
「……ああ。見たとこそんなに思念が混んでるとも思えないんだが」
 常闇の洞窟内を、冒険者として『調整』された瞳で視とおしながらカイナンが言う。さっきまでと変わらない小ばかにした表情と声──そのなかにわずかな焦りがまじっていると感じ、藍名は訊ねた。
「オリアさんって、どんなひとなの」
「足手まとい」
 やっぱりひどいことを言う。
「ええー?」
「ギルドができるまえ、パーティーでやってたころからの、偉大なるトラブル・メイカーさ。無茶はするしまわりは見ねえし、きょうみたいにひとりでずんずん進んじまうのなんてしょっちゅうだ」
 言いながら、カイナンはずんずん進んでいく。苦情というよりなにか自慢のように、
「なんども痛い目にあってるってのに、ぜんぜん改善される気配もねえ」
 小走りのようにして、かれに藍名はついていく。
「……なんで組んでるの?」
「別れる理由がねえからさ」
「そんなもんなの?」
「ほかになにが」
 釈然としない。でも、まあ、そういうもんか。惰性ってやつか。藍名は漠然と納得し、
「──いや、ちがうかな」
 ちがうんじゃないか。
「でな、理由だが、退屈しねえから」
「死ぬのに退屈とか?」
「退屈すると死んじまうぞ」
「?」
 混乱している藍名を置いたまま、カイナンの歩みは止まらない。カートを置いていけばよかったかな、と思いながら懸命に追いかける。
「終点だ」
 カイナンの足が止まった。
「え」
「……終点だ」
 男の見つめる先に、ひとりの剣士が倒れていた。
 はずれかけた兜からあふれるようにして、金糸の髪がまぶしい水たまりをつくっている。
 美術品みたいな死体だった。
『ええ、終点』
 うつろな声がひびく。剣士──オリアの魂の、疲れた声。

 カイナンはこともなげに首をこきりと鳴らし、はっ、と息をついて、
「そうか。帰るぞ」
 言って、しかしそのまま動かない。
 数瞬の沈黙。
 周囲では変わらずに、冒険者たちと鬼の骸たちが死闘をくりひろげている、そのことを忘れてしまうような静謐。
 不動の剣士は、ため息をついた。
「──ってふんいきでもなさそうだな。なんで個人念話(ウィスパー)を拒否してたんだ」
『直接、会いたかったから』
 つながらない会話。拒否。さすがの藍名にも、もうわかった。
 ──最後に直接、会いたかったから。
『いままで、ありがとね』
「やめるのか」
 質問ではなかった。確認だった。
『うん』
「ギルドを? 冒険を?」
 カイナンは最後のひとことをつけ加えるのをためらった。おそらく、それとも、とつづけるのを。
 長い沈黙があった。
『ううん』
「……」
『もう、いい』
「……なんでだよ」
 カイナンの声に、静かな怒りがあった。
「なんでだよ」
『つかれちゃったあ──』
 泣いていたのかもしれない。
『毎日まいにち。戦っても怪物は湧いてきて、やっつけるために強くなってたつもりなのに、気がついたら強くなるためにやっつけてて、わかんなくなっちゃった』
「なにが」
『終わりが』
 カイナンはかぶりをふった。
「終わんねえんだろ、ふつうに」
『それで平気なの?』
「おれらが永久にやるわけじゃないからな」
『じゃあ……わたしたちがやってることってなに』
「さあな」
 死んだオリアの口許が、かなしく微笑んだように見えた。すくなくとも藍名はそう錯覚した。
『だから、もう、ごめん』
「おまえがあやまるこっちゃねえさ」
「──ちょっと!」
 嘴を容れるべきではない、と思った。だが止まらなかった。
「それで、そんなんで生きるのやめちゃうの? そんなんで、しょうがねえって見送っちゃうの!?」
 カイナンは背を向けている。
 忘れられるはずがない。
『……』
 背を向けている。
 後悔しないはずがない。
「そんな無責任なのってあ」
「それ以上」
 カイナンの双眸が、ぎらりと藍名をにらんだ。こちらをまっすぐ見すえている。
 こんなひとといっしょに、歩いていたのか。一瞬そう思うほどにおそろしかった。
 いつふりむいたのか、わからなかった。
「云うんじゃねえ」
 いつ抜いたのかわからないカタナが一閃され、風が吹くように藍名の顔の横をとおりぬけ、
 ぽとりと巨大蠅が落下する。
「あ?」
「もたくさしてんな。どうやら今回は──」
 カイナンが首をゆっくりと回した。
「大入りだぜ」
 かれが言い終えるのを待っていたかのようにして、薄闇のなかでなおも濃い影が、いくつもいくつも出現した。

『……』
 カイナンがゾンビイたちをひきうける。
『そうね──かわいい商人さん。あなたの言うとおりかもしれない。フェアじゃないわね』
 鬼の屍骸たちは、間断ない攻撃をカイナンに浴びせる。藍名はカイナンの動きのさまたげになりそうな、やっかいな蝙蝠や蠅の化け物を短剣で斬りはらう。
『そのままで、しばらく、聴いててくれる?』
 カイナンは、それでも一歩も動かない。息を深く吸いこみ、
 そして吐いた。屍鬼の一体が、まるでその息に斬られたようにして崩れる。
『さっき言ったことはほんとう。つらかったし、ケガとか死ぬのは痛くて苦しいし、もういやだった』
 この数はなんだ。いくつの敵がかれにまとわりついているのか。
 轟。
 カタナが火を帯びる。空気が焦げる臭いに、藍名がとびのく。
 魂の独白はつづく。
『人間らしく生きるってことを犠牲にして、戦って、死んで、生き返って、またくりかえして──わたしたちってまるで、このゾンビイさんたちと、おんなじ』
 くるりと切っ先を地面に向け、刃を突き立て、気合を放つ。
 剣士の神技、爆発の剣。
 劫火に包まれ、死せる鬼たちが一瞬だけその攻勢をゆるめる。カイナンはカタナを収め、
『でも、もっとほんとうは』
 比較的復活の早かった2体の敵が、居合のえじきとなった。感覚的にありえない遠さからの斬撃が、しかし現実に届いた。居合は合計2回放たれた。カイナンは動かない。
 藍名をとりまく血の色の蝙蝠も、その数を増していた。彼女にふりはらえる限界の数をあきらかに超えはじめている。
『みんなといるのが、つらかったの』
 ぱちん。
 カイナンは動かない。敵の攻撃がとぎれた一瞬に状況を見てとり、指を鳴らして蝙蝠たちを『挑発』する。
 おまえらの相手は、おれだ。
『わたしは……弱くて、あなたたちの足手まといで』
 情動表明の応用でつくられた擬似的な感情の投影によって、蝙蝠たちのいくたりかがその目標を藍名からカイナンに移す。
 反撃に転じたのもつかのま、こんどはオーク・ゾンビイの数体が藍名のほうに向かってきた。さらに、重い体躯がオリアの死体を踏み荒らそうとする。
『だから、がんばらなくちゃいけなかった。まえに出なきゃいけなかったの』
 カイナンはそれでも、
 藍名は気づいてしまった。カイナンの足許。
 歯を食いしばりながらカタナをふるい、そしてついに動かずの剣士が動いた。
 死んだ脳に『挑発』は届かない。剣士は小走りに死者たちを誘導する。
 藍名よりもじぶんを狙うように。やつらの堅く重い足が踏み荒らすその進路に、オリアの肉体が存在していない位置に。
『走って、敵を見つけだして、すこしでも多くの敵を倒して、力をつけなきゃ──つらくなっちゃった。だから、もう一回言うわ。さっき言ったことも、ほんとう』
 カイナンの足許だった場所に、あってはならないことが起こっている。ブーツのかかとが乱れ、足の周辺の石を削った跡がある。
 何体もの群れなす死者に混じり、いくつかの青黒いシルエットが出現していた。この期におよび、さらにやっかいな相手。
 オーク・スケルトンの刃に、とうとうカイナンがだれが見てもそれとわかるたたらを踏んだ。
『ごめんなさい、カイナン。ごめんなさい、みんな。ごめんね、商人さん』
 涙がこぼれそうになった。
 ──商人さん。
 ──そうだ。あたしは。
 嗚咽を呑みこんで、手持ちの現金がつまった革袋をとりだす。
「たぁあーっ」
 鬼が、それまでの藍名のものとはくらべものにならない一撃を受けてのけぞる。
『取引』をトラブルなく行うため貨幣に付与されている微弱な霊力を、武器に収束させて攻撃力に転化する。藍名が伝授されていたなかでは切り札ともいえる、神技だった。
「おいっ!?」
『あなた……』
 短剣に、つぎつぎと力が宿っていく。霊的なコーティングを失った藍名の所持金が、飛ぶようにしてただの紙切れや金属の塊になっていく。
 それでも、
「支えれるもん! あたしにだって、やれることあるもんっ」
 呑みこんでいたはずの涙が、理不尽な怒りといっしょに流れていた。
「あたしたちにだって、やれることあるもん!!」
 その言葉に弾かれたように、カイナンもふたたびカタナを抜きはらう。
 だが、敵は冗談のように尽きなかった。
 つねに余力をセーブしながら戦闘していたカイナンは、これほどの長時間戦いつづけることはめったになかったのであろう、息があがっていた。
「ぎっ……」
 動作にも影響が見える。敵の攻撃をさばききれず、鎖帷子ごしといえども、ダメージが関節や内臓に至るほどになっている。
 藍名もすでにぼろぼろだった。皮一枚だけで生きのびているようなものだ。
「ふーっ! ふーっ!」
 精神集中のための精神力も、体力回復のための媒体も、とうに底をついていた。ふたりを支えているものは、もはや、意地のほかになにもなかった。
 倒す数より、現れる数のほうが多かった。
「ぐっ……ちくしょう!」
 ちいさな『爆発』を、もういちどだけカイナンは放つ。
「──わりい。これでもう種切れだ」
「あたしも破産です」
 背中をくっつけ、ふたまわりは大きな体躯の剣士を見あげて言う。自暴自棄で口にしたつもりだったのに、妙にすっきりした笑顔になれた、と思う。
「やれるだけのことやれたよね」
「ああ……はっ。じゅうぶんさ」
「じゃあ、あとは一匹でも多く」
「道連れにしてやるってこった」
 チェイン・メイルごしにもわかる、堅固な筋肉の鎧。
 じぶんとかれの声で揺れるその背中が、あったかいな、と感じていたことに気づいたのは、最後のひと暴れをすべく身を離してからのことだった。
 ちょっとだけ残念で、ちょっとだけうれしかった。
 体内から、また活力がみなぎった。どこにこんな力が残っていたんだろう、と一瞬思いながら、ゾンビイを1体、2体と斬りふせ、
「あれ──」
 そこで、ようやく違和感に気づいた。見れば、カイナンもおなじだった。藍名よりはるかにすさまじいペースで、屍の群れを粉砕していく。
「ありゃ」
 さらに1体が、のそりとこちらに足を踏み出そうとして、
 その腐った肉体が光に包まれた。『癒され』、浄化された亡者が、原動力となる怨念を失って倒れた。
 倒れた背後に。
「ま、ま、ま……」
 全力疾走と、連続的な祈祷によって息を切らせているガントがいた。
「まに、あっ、た……」
「おっせぇええええよ」
 残るは1体のスケルトンと、2体のゾンビイ、おまけの蝙蝠だけだ。
 カイナンは首をこきり、と鳴らし、
「さあーて、と」
 3人が、まるで十年来のチームだったように陣形を組む。
 ガントが祈り、ふたりの肉体と剣に祝福をもたらす。
 カイナンが斬りこみ、迫りくる敵の、その中心に陣どる。
 藍名がその討ちもらしを片づけ、ガントを護る。
 骨と骨を鳴らす乾いた音。最後の1体、オーク・スケルトンのからっぽの目が、かれを挑むようにしてねめつける。
 見てる、オリアさん。と思った。このひとを見てる?
「はぁーっ」
 男は呼吸する。抜くのは息。いれかわりに五臓を満たすのは意気。六腑に染み入るのは活きたる力。そして──
「はんっ!」
 生きぬくために光るのが、不動の剣士のカタナだ。

「なあに、やってたんだよのろま」
 カイナンの叱責に、ガントはやっぱりという顔で、
「出るタイミングをうかがってたんだよ。お邪魔しちゃ悪いと思って」
 説得力が皆無だった。
「お邪魔って、あたしもいるんですよ?」
「? きみ以外に、だれがいるんだい」
「だってそこに」
 藍名が肩ごしに示した場所には、もうなにもなかった。
 オリアの死体は、消滅していた。
「そこに……いたんだけど」
「──はっ」
 カイナンが、心底気分の悪そうに鼻を鳴らす。
「……なんでよ」
 藍名はひざをつく。
「なんで……なのよう……!」
 わからなかった。こんどもわからなかった。
 涙まじりの藍名の声が、つかのまの静寂を得た洞窟内にこだまする。

「──負い目があったのは、こっちもだったのさ。だから言えなかった」
 カイナンが、帰りの道すがら、それだけ言った。
 不動の剣士と、それに追いつかんと焦る若い剣士。足手まといであることへのうしろめたさ。
 なぐさめの言葉に意味はなかった。闘いかたのちがいにすぎないとも思っていた。長い目で、見守っていればいいと思っていた。
 オリアがそこまで追いつめられていることに、だれも気づいてやれなかった。
 藍名にはわからない。彼女が正しかったのかもしれない。強くなることそのものに、意味がないのかもしれない。
 すべての冒険者たちが持つ『生き返る権利』をこばみ、この世から消滅したオリアの魂は、世界のどんなことよりも正解に近い選択をしたのかもしれない。
 それでも、やっぱり、と藍名は思うのだ。
 だって、『……』で消えられちゃ、たまらないじゃないか。
「言わなきゃ」
「かもしれん」
 だれも納得なんかできてやしないのだ。

 首都の喧騒に包まれると、ようやく帰ってきた実感がする。ずらりと立ちならぶ露店、談笑する冒険者──そして、ふだんは気にもとめることのない、人々の生活している空気がここにはある。
 これがあるから、かれらは戦っていられる。
「よう。帰ってきたかよ。やべえよきょうもう完璧に赤字だよ」
 ハックマンが、ギルドの集合場所に定められた宿屋のまえに、ふてくされるようにして腰かけていた。
「オリアは?」
 ガントが首をふった。
「ふうん。おせえよ。じゃあまあ、来るまでちょっと待ちってことかよ」
「それがその」
 言葉を濁すガントと、なんとはなしに視線を周囲に泳がせるカイナンと、うつむく藍名と、絶句するカイナン。
「ただいまあ」
 あっけにとられたまま、『挨拶』の情動表明を呆然と見る。
 状況を把握していないハックマンだけが、状況に正しく反応し、『挨拶』をした。
「よう、おかえりさんオリア、妙に遅かったわけだが」
「迷っちゃって」
「迷うかよ、ここ首都だよ」
「じゃなくて、迷ってたの、すごくね」
「はあ?」
 理解できないハックマンをよそに、カイナンと藍名の顔を意味ありげに見くらべて、
「あれで納得なんか、できてないから。だから」
 はじめて見る、生きているオリアが、天使みたいににっこりと笑った。
「帰ってきちゃったあ」
「──はん」
 カイナンは吐息する。
「まあよ。適当にいこうや」
「うん!」
 ──まるで。
 ふたりとも、まるでわだかまりなんてないみたいに。
 さらにわからなくなってしまった。
 置いていかれたような気分になった藍名に、もういちどオリアがほほえみかけて、
『カイナンは、難物よ』
「は」
『わたしもたぶん、ただでとられるつもりはないから、おたがいがんばりましょうよね?』
「はあ!?」
 個人念話に、肉声で答えてしまった。
「あ、通じた。この時間の首都なのに」
「なに言ったんだい」
 ガントが、興味津々で訊ねる。
「なに言われたんだい? 顔が赤──」
「ややややや!」
 左手で顔を隠して、右手をぶんぶんふりまわす。じぶんでもあほかと思う。
 なんで思いつきもしなかったのか。その背中を、あったかいな、と感じたときに。
 あほかと思う。
 ──うーわあー。

 終わりを選ぶまでは、終わりが来ない。それは不自然なことだ。
 だが、すてきなことだ。
 手をさしのべたか、亡びを後押すのか。それはわからないが。
 どうやら、いまだ世界にかみさまはいるらしい。

 かくして、じぶんでもまったく気づいていなかった気持ちを端的に指摘され、混乱のまま、そして無一文のまま。
 藍名はなしくずしに、ギルド・メンバーとしてその名を連ねることとなったのだった。