その願い、届けと
女はその手を群青に染めて
男は闇色の花束を捧げる




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 研究施設を除いた殆どが地上に存在するここで暮らして、もう4年になる。
 放射能も宇宙線も大気汚染も少ない――かつての地上の美しさを取り戻しつつある数少ない地域の一つ、ホワイトランドの冬は早い。涼風吹く夏から秋とも呼べぬような2週間ほどの移行期間を経ただけで、もう辺りは一面真っ白な世界だ。
 そんな外見だけは神聖な世界で、私は人を効率よく殺す為――効率良くものを破壊する為に日夜心を削っている。
 かつてこの地上を破滅へと導いたそのパズルのピース達が数多く眠るここで、その施設の一つで。朝も夜も無く。
 電力節減の為に暖房が弱められ、すっかりアイスになってしまったコーヒーを呷りながら書類とにらめっこをするのだ。
 唯一の救いは、サウンドプレーヤーが垂れ流す曲が湿っていないこと。
 電源の半分が落とされたその部屋で私は一人、孤独を楽しんでいた。

 興味が無かったと言えば嘘になる――というのは、私が仕事に選んだ戦闘AIの開発だ。
 もともとAIのプログラミングと教育は興味のある分野で、これがあれば人類はもっと時代を繋いでいけると、そう信じてこれを選んだ。かつての偉人たちのように地下を切り開き、村を作り、町を造り、やがて都市にしていったように、私は私なりの道でこの世界で人が幸せになれる術を探したかったのだ。
 でも、いま私の手の中にあるものは第一級の戦略兵器に搭載される破壊の化身。その中枢。

「まるで、死神、か? 幽霊の親……は何て言うのかまでは知らないが」

 思わず、飛び上がるようにして振り向いてしまった。
 ただ白とクロームと影の群青だけの筈だったその部屋の入り口は何時の間にか一人の男に彩られていた。
 そう、言動はクールなくせに、どこかしかその細い目に愛嬌が宿っていて面白い。飄々とどこか浮世離れしているような、それがこの男の第一印象。肩までよりも少し長い漆黒の髪を首元で一本に束ね、着古されたガードのジャケットを着た、この男の。
 思わず手元の端末を閉じる。部外者にはどうあっても見せてはならないものだ。

「ここは関係者以外立ち入り禁止よ」
「はは、冷たいね。でも残念ながら俺は関係者だ」

 ニュアンスを読み取ってか、男は皮肉で返してきた。
 というか、私の頭が回っていないのだ。
 男は関係者以外知りえない筈の言葉を先に言っていたのだから。

「……見ない顔ね」
「だろうな。補充で入ったんだ」

 実際、この研究室のメンバーは入れ替わりが激しい。その作業ピッチの速さから半月と持たず消えていった新人の数は、今や両手の指では収まりきらない。
 しかし、どう見てもこの男、研究者と言う風体ではない。
 ちらつく蛍光灯と2日目の徹夜からくる疲れに苛立ちながら私は眉尻を上げた。
 徹夜に入る前に見たリストをゆっくり、すばやく思い出す。……少なくとも最近入った人間の中に男はいなかった筈だ。
 そんな風に私はこの言葉を導き出す。

「20秒で出て行けば不問にしておくわ。早く出て行って」

 物分りが悪い人間の声音ではない。私は孤独を邪魔された分と、仕事の遅れの分を声に乗せて吐き出す。
 だが、男は首を振るとやれやれ、とでもいいたげに左手の平を上に上げた。
 そして本当にため息をついてこう言う。

「せっかくの美人が台無しだ。レディ」
「……いきなりご挨拶ね」
「そこはお上手ね、と返すもんだぜ?」
「何が目的?」

 本当にいらいらしていた。部下が見ていたのなら数刻の間は誰も近寄らないであろう程には。
 流石に声の調子で気が付いたのか、同僚の机に腰掛けていたその男は居住まいを正して正面に立った。

「……早くして。仕事が山ほど溜まってるの」
「目的は、まぁ、挨拶だけだった」

 だった? またふざけているのか――ため息と共に画面を立ち上げようとした、その時だ。
 スイッチに伸ばした私の手は男の、思うよりがっしりとしたその手に掴まれた。
 ――何故かは今でも分からない。普通ならばここは、大声を上げて助けを呼ぶところだろう。
 でもその時の私はきっと、どこか壊れていたのだ。休むことも許されず、ただ、キーと画面と書類との戦いを只管に繰り広げ、同僚と飲み明かしては2時間だけベッドに倒れこむ生活で。
 その壊れていた私は、今もう一度その場面が見られたならきっと奇妙に思えるくらい、手を振り払いながら淡々とこう返した。

「……だった?」
「ああ。目的が変わった。あんたは綺麗じゃなきゃいけない」

 随分と伊達で酔狂な台詞だ。今時ドラマでも使われやしまい。
 だが――鼻で笑って続きを促す私を見つめているその目は至って真剣だった。
 思わず震えそうになる背筋と心を、理性で押さえ込んだのを覚えている。この後に来るであろう台詞は恐らく、とんでもなく俗っぽいものだと想像して、それにどう応えようかと必死で頭をめぐらせたのを覚えている。その台詞が案の定だったことも、鮮明に覚えている。

「“あんたを抱きにきた”」

「仕事が終われば」

 本当に不思議だった。何故、そんな答えを発したのか。
 ナーヴ・ネット上だけの結婚生活さえ存在するこの世の中で、身体の触れ合いは極端に減った。
 私がその温度の低さをどこか寂しいものとして受け取っていたことが切っ掛けなのだろうか。
 再びキーに向かう私の頬はきっと、そのあまりに直接的な物言いに反応していたのだろう。あの時の頬の熱さまでは覚えていないけれど。

「……なにをするの?」

 再び私の手は掴まれた。
 今度は本当に震えてしまった。微かな、本当に微かな震えだったけれど。
 けれどこの男はそれを逃さなかった。その細めの目が三日月のように笑って、私はどこかそれを可愛いと思ったのだ。
 もう、あと数年で30になる仕事しか知らない女が、こんな男を可愛いと思うなど、と自分でも思いながら。

「……待てない、と言ったら?」

 2度目のその誘いを、私は断らなかった。
 研究室は冷たくて嫌だったから“どこか他の場所にして”と言ったところまでは明確に覚えている。
 唯只管にその暖かい感触と、鼻腔の奥に残る甘やかな匂いだけが記憶のそこに刻み込まれている。
 朝の光にシーツを引っ張り、目蓋の上から刺そうと襲い掛かる銀世界特有の光をただただ鬱陶しがっていた事は覚えている。
 でも、あとは快楽の渦の中に全て置き忘れてしまった。



「……まぁ、そうよね」

 2度目の目覚ましで起きると、男は既にそこにいなかった。
 そんなものだろう。そんな風に納得させながら自分を落ち着かせる。
 寄れた皺もそのままな昨日のシャツに袖を通し、散らばった下着を拾い集めて一つ一つ身に着けていく。
 その指の震えは、どうだっただろうか? 思い出せない。
 既に遅刻は確定済みだった。私は久方ぶりのまともな朝食を取りながら、部長への言い訳を考える。
 コーヒーが沸き、インスタント・プレートが食欲をくすぐる香りを立て始めたところで、何時の間にかボードから転がり落ちていた端末が音と共に震えだした。 示された番号は研究室のものだ。
 最悪、クビだろうな――なんてことを考えるあたりまだ目が覚め切ってないのだろう。

「……はい」
「ああ、悪い。置いていくのも悪いと思ったんだけど……書置きは見た?」

 電話の相手は、あの男だった。
 名前すら聞いていない、あの飄々とした――でも、何故? 最初に思ったのはこの一言だった。
 驚いた様子を敏感に感じ取って、男は笑う。

「……なに驚いてるんだ?」
「あたしみたいな女を、あなたみたいな男が気に掛けるとは思えなくて」

 正直な気持ちだった。
 それでも男は笑う。朗らかに、どこか勝ち誇っているかのように。

「言ったろ? 君は綺麗じゃなきゃいけない、ってね」

 あまりに唐突で、あまりにとんでもなくて――たぶん、他の人間にはわからない感情かとも、勘定かとも思う。
 けれどあたしは、きっと

「……こんなことを言うのは、変かもしれないけれど」

 ためらいがちなあたしの声に、男が耳を傾けているのが分かった。
 そんな些細なことがすごく綺麗なことに思えたあたしは

「気持ちよかった」
「それは良かった」


きっと、恋をしていたに違いない。




 それから男とは何か事ある毎に狭い娯楽施設を歩き回ったりした。地上施設の窓から臨める銀世界がこんなにも綺麗に思えるのは何故なんだろう、とか、そんな他愛もない事を言う度に男は柔らかな笑みを浮かべて、あたしの髪を撫でた。
 唇を重ね、手を触れ合い、舌で触れ合い、堅い胸に抱かれながらその手が下へと下っていくたび、私はどこか安堵に似た気持ちを抱くようになっていった。
 男はそんなあたしを見て、うれしそうに笑う。
 その細い三日月の目の奥がどこか蒼く、寂しげな光を湛えていても、あたしはそれでも幸せだった。男も、きっとそうだった。
 月がこの男なのなら、あたしは太陽になろう。そうすればきっとこの人はもっと輝いて行ける。
 温かい。
 真綿で包まれたような微かな息苦しさが、あたしを墜としていくのがわかる。

 それでも、何故か名前だけは聞かなかった。私の中に引かれた最後の一線がその動作を阻み続けていた。




そんなある日、とうとう男が言った。

「名前、聞かないんだな」

 あたしはどう答えていいのか分からなかった。
 ただそこで「うん」と首を縦に振ればいいだけの動作が、何故か出来ない。
 不自然に固まる私を前に、男はいつもの笑顔で「なに固まってるのさ」と笑うのだ。
 私は、ただ俯いて時が流れてしまうのを待っていた。この話をどこか遠くへ流してくれることを待ちつづけた。
 そして、男が笑みを消した時にやっと私は気付いた。

「……綺麗に、なったな」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……名前」
「ああ、いいさ。無理に聞かせようとはしちゃいない」

 嘘だ。と思った。でも、私は固まったままで。
 時が歪んでいくようだった。何かが、“何か”としか分からないまま壊れていくような、漠然とした喪失感だけがそこにあった。
 そのあと、何を会話したのか覚えてないくらいに、それは大きくて、大きかった。




 次に会ったとき、男は少し痩せたようだった。
 それでも笑顔はいつものままで、あたしは何かすごく悲しかった。
 履き古したジーンズのウエストが余っていることに気付きながら、ベルトの穴がいつもと違う位置に固定されていることに気付いていながら、あたしは震えを堪えるだけで精一杯だった。
 捨てられることも捨てることももう、慣れきった筈なのに。
「また浮かないな最近」
 そんな軽口にもうまく笑顔を作ることが出来なくなっていた。
 そんな私に男はまたため息をつく。最初に会った頃と同じように。
 着込んだコートに白いものが付き始めた。ふと見上げれば舞い散る薄欠片。
「雪だ……」
 道理で寒い。
 前を掛け合わせる私に、男はジャケットを差し出す。丁重に断る私をどこか蒼いあの三日月で眺めながら、渋々脱いだジャケットをもう一度着るのだ。少し笑った私を見てまた、子供のように笑う彼がいとおしくて――あたしは涙をこぼした。
 恥ずかしい、と言う気持ちは何故かどこかに吹き飛んでいて――そんなあたしを見て彼は、傍にあったベンチから雪を払い、座らせたのを覚えている。そして、珍しく自分から話をしたのだ。
 最初で、最後の話を。



「あの日もこんな雪だった。オーロラ・グリーンの話さ」

「ああ、妖精の話?」

「そうだ。ただその妖精は神様に嫌われて“死”を運ぶだけの妖精だった。そいつに魅入られた奴は皆美しい光景の中で死んでいく」

「綺麗な話ね」

「だろ?」

「ええ」

「でもな、本当に綺麗な奴はそいつに魅入られたりはしない。しちゃいけないんだ。神様に嫌われた妖精は生きる美しさを知らない」

「生きる美しさ、なんて存在するのかしら」

「老いさらばえるからこそ人は美しいんだ。人が最も綺麗な時に現れるって死神はそこら辺が分かっちゃいない。」

「ふうん」

「その直線の上には、オーロラ・グリーンと蒼い星粒、それと、オレンジの炎だけがある。灰の瓦礫も白の空も茶色の大地も何も無い。だからこそ美しいんだろう。“他に何も無い世界”だからな」

「……それは愛のように、って? 笑わせないで」

「あはは。バレたか」


 初めてだった。彼の目が笑わないところを見るのは。
 これが何か、彼が“何か”を失った話だと気付くのにあたしは随分掛かった。

「……ねぇ」

 私はそのとき、なけなしの勇気を振り絞ろうと精一杯で。
 男はどこまでも余裕を持っているかのようで。

「ああ、名前――サダノブ、だ。サダノブ=アララギ」

 どこまでも、どこまでも。






 それからすぐだ。
 彼が死んだ、と言う風の噂が流れて、私がしていたAIの研究が無期凍結となる旨の通知書が私の机に置かれたのは。
 始まりと同じくらいには、終わりは唐突だった。
 あの日「抱きたい」といった彼は「死にたい」とは一言も言わずに。
 私は崩れ去るでもなく、折れるでもなく、そこに立ち尽くすことすら出来なかった。まるで幽霊だったかのよう。
 全ては遅すぎたのだ。
 彼に肉体を与えるには遅すぎて、彼は天に帰ってしまったのだ。
 最後には、ただ、黒百合の花束と手紙とも呼べぬようなカードがひとつ。

「ありがとう そして、すまない」

 恋と呪いを示す作り物の花が、白い部屋のそこだけを闇色に染めている。
 あの日、妖精の話をした彼が脳裏に蘇る。


『生きる美しさを知らない』

『本当に美しい奴は――』

『“他に何も無い世界”だからな』 


「どうして?」

 あなたは生きる美しさを知っていた。
 老いさらばえるからこそ人は美しいと、その形の良い唇が紡いだのだ。
 なのにあなたは何故死んだ?




 それからすぐだ。真実の欠片を手に入れた私が生きることを選ぶのは。
 私は電子の海で出会った妖精に物語の一端を託し、この白い世界を捨てる。
 もう、孤独は楽しめない。

 行くのだ。
 あたしを攫う人と出会う為に。
 この幽霊と私の死神の全てを、終わらせる為に。


あたしは、世界の敵になる。




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「黒百合の花束を」...closed