SYSTEMDARKCROW
TRPGリプレイ、創作小説のサイトにして、ARMORED COREオフィシャルサポーターNO.22。管理人:闇鴉慎。ご連絡はブログのコメントまで。
1:
「こうして話すことなど、もうないと思っていたよ」
出されたおしぼりで顔を拭きながら岸武は言った。
久し振りに感じる雰囲気だ。セピア色の中での落ち着いた会話。
この香りを嗅げば思い出す。
京と、京二と、龍一、そして岸武。訓練の合間に時を見繕ってはこうやって集い、談笑に花を咲かせていた――その時のことを。
京との付き合いは京二と龍一の2人よりも古く、作戦立案と指揮に追われていた神暮に代わり、何かと父親役をやらされたりもした。
学生――それも高校生だった京には、忙しすぎる兄に代わって親代わりを務める存在が必要だったのだ。
もともと教育係として組織に存在した当時の岸武には仕事と言える仕事は無かった。
何しろ混乱していた。指揮系統の整備と組織の団結、上はそればかりに奔走していた。彼が彼女を引き受けることはある種必然であったのだ。
手入れすらせずともその形を保つ柳眉を八の字に下げ、彼女は応える。
「私も、そう思っていました」
そう言って微かに笑う。その仕草は、3年前には無かったものだ。
どこか悲しげで、過ぎ去ってしまったものを慈しむように京は笑う。
「この3年……長かった。私は――」
煙草の煙を目一杯に吸い込む。口に手を当てて顎を覆うような特徴的な吸い方だ。変わらない。
ジジ、と音を立てて、紙が焼かれていく。
吸い込んだ分を吐き出して岸武は続ける。
「私は、君達――特に、娘と言うべき君を最後まで守ってやれなかった事が悔しくてならなんだ」
その言葉に偽りは無い。
だが、これが自らの懺悔であり、自らの心を蝕む後悔と罪悪の念を軽くせんが為のものだという事もまた、よく理解っていた。
京は再び笑みを浮かべ、珈琲に砂糖とミルクを入れた。
ふと見た細い指が、軽いやけどの様に赤く焼けている。岸武は思わず視線を背けた。
それは明らかにあの“後遺症”だった。
強靭な再生能力とその身体能力を引き換えに、彼女の色素は施術時に障害を来たし働かなくなったのだ。それ故、特に昼間の外出には長袖の服や帽子などが欠かせない。
瞳の色はコンタクト・レンズで隠しているのだろう。写真で見た裸眼は血の赤だった筈だ。
燃えるような髪の色もまた、元の色が白に近くなってしまったからこそ鮮やかに染め上げられる色だ。
組織から聞かされてはいたものの、実際に目にしてしまえばやり場の無い感情に胸を満たされてしまう。
だが今更どうしようにも、如何しようもないこともまた事実なのだ。
「……岸武さん」
不意に彼女は問い掛けた。
マーブル模様だったそれはすっかり白茶けた色に変わっている。
出来るだけ昔の口調で、彼は応えた。
「なんだね?」
「……京二は、あなたを撃った時に笑っていましたか?」
「いいや」
即答だった。
その日、自宅から出た岸武は見知った顔に驚いた直後、胸を撃ち抜かれた。
即死に近い状態ではあったが、あの時の光景はしっかりと焼きついている。岸武が最後に見た京二の表情は確かに笑っては居なかった。
右目は鋭く彼を見つめてはいたが、その頬に在ったのは怒りの紅潮でも狂気の青でもなく、透明の涙だった。
「泣いていたよ。声も、表情にも出さなかったが」
「そうですか……」
心なしか安心した様子で、京は言う。
そのまま視線を落とし、コーヒーを一口啜る。
彼女がその先に言わんとしていることは、岸武には手にとるように分かった。
目を合わせず、口を閉じたままの時間が過ぎていく。
彼には“それ”をする事が残酷だと言う事も分かっていた。
だが、ここで言わずして――感情の流れのみに身を任せ、おざなりにして――良いものか。
岸武は彼女が沈黙を終わらせる前に口を開く。その肩が、微かに震えた気がした。
「だがね。私は、あいつと闘わねばならない」
「…………」
「……あれはな、当り前の愛やら正義やら……そういうものを知らずに育ってしまった。いや、育ててしまった」
まだ間にあった筈だった。そう付け加えて岸武は続ける。
「頼るべき親も無く、友人もおらず、唯独り刃を砥ぎ澄ます毎日。その行為がどれ程の苦痛か。私は気付く事すら放棄してきたのだ」
「だからっ」
「我々は生の尊厳を掛けてあの場に集った人間なのだよ。その権利と義務は果てしなく重い」
「だからって!」
「聞くんだ……君は聞かなくてはならない」
その平坦な喋り口には、有無を言わせぬ迫力があった。
あの時の、狂気の笑い。それが嘘のようだった。
――否、あの時は余裕も何も無く、深く思考する事はできなかったが、今考えれば「嘘」と考えるのが妥当かも知れなかった。
岸武は今の組織に明らかな恨みと不満を持っている。或いは、持っていておかしくはない。
そんな人間に組織の監視員が付かぬ筈がないのだ。恐らくはその手前、演技せざるを得ぬ部分があったのだろう。
残っていた昔のツテに、彼の息子が敷島……あの狂った男の手中にあると聞いた。
岸武の息子は、父の理想に共感して組織に入った――その筈だ。そんな息子が可愛くない筈が無い。
そして、その息子同様に“愛したかった”と語る京二の事も。
溜息と共に岸武は続ける。
「“責任の取り方なぞ幾らでもある” “今からでも遅くない” そう言って人は善意による悪意で笑うだろう。だが、現実はそうではない」
灰になりかけたそれを灰皿に押し付けて、彼は窓の外に視線を移した。
雑踏。
それ程人通りは多くない。されど、駅前である以上それが絶えることも無い。
河のようなその流れを見つめ、岸武は言う。
「彼らもまた、希望と言う名の幻の前に出されるそれに踊っているだけだ。“選択肢”などと呼べるようなものが、この人生の中に果たして幾つ存在するかね?」
京は堪えていたものが決壊してくるのを感じていた。
言葉の僅かな隙間を目掛け、彼女は叫びとも取れるそれを差し込む。
「私は――!」
「――京君」
だがそれは、只管に平坦な声に遮られた。彼女の刃すら通さず、ただただ押しとどめて均していく。
顔を上げる。
目の前に座っているのはもはやあの暗殺者ではない。不得手な笑顔を浮かべて死を望み、静かに笑う――一人の老人だった。
そっと差し出されたハンカチに、彼女は初めて自分が泣いていることに気が付いた。
幾人とも知れぬ人間を殺めたその手は、ゆっくりと、不器用そうに彼女の髪を撫でる。
さらさらと流れる赤い髪が、その因縁を現わしている。
笑みを消し、瞳のみにそれを留めたまま岸武はこう言った。
「私は、人殺しだ。人を殺すことでしか生きてこられなかった最低の人間の一人だ。大切な人間の一人も守れないただの老いぼれさ。――しかしね、一つだけ出来ることがある。その事を今、私は誇りに思っているんだよ……君とあいつと同じ場所に立ち、同じ身体をもって引導を渡す事が出来る。それが私に残された、たった一つの贖罪なのだ。君には、少なくとも私以上に出来ることがある。彼にしてやることができ、してもらえることがある。」
最早、何を言う事も繕う事も出来なかった。
京二の事だけではない。
彼の、この一人の男が不器用に、だが確かに愛していた息子の事も。だが、それでもあまりにその決意は固く、冷たく、そして悲しい。
ハンカチは、その雫を吸う事も無く握られるまま、彼女の手の中で震えている。
岸武はその笑みをもう一度浮かべ、言葉の中に俯いた彼女の顔を上げさせた。
そして、一枚の紙を手渡すと、こう言う。
「あいつの、京二の傍にいてやってくれ……勝手な願いだがね。これで、最後だ」
そこには一軒のホテルの住所が、鉛筆で書き殴られていた。恐らく組織が掴んだ彼の居場所だろう。
「……はい」
小さく、だがしっかりと頷く。
今、彼女に出来る事は確かにそれだけだ。それだけなのだ。
ふとすれば破けてしまいそうなそれを大事に仕舞い込み、彼女は席を立った。
涼しげな音を鳴らすカウベルが、もう二度と在り得ぬ再会の幕を閉じる合図。
彼はカップにくちをつけ、徐に眉を顰めた。
「……珈琲が、冷めてしまったな」
2人分のそれが残されたテーブルで、岸武は一人苦笑いをした。
2:
『人たるもの。人たりえるには。結局の所、人とは何なのだろうか?
少し考えただけで――それこそ、幼い子供達の方がこれを読むであろう諸君らよりも、余程答えに迷わないであろう。
そう。
答えなど“わからない”
だが、それで終わってしまってはお話にならないのもまた事実だ。
少し私なりに見解を述べてみようと思う。
例えば、人と呼ばれる者達――それであるところの我々は、その他の生物の思考を読み取る事は出来ない。
異論も多々あると思うが、ここでの定義づけをする為に一つ例を出すこととする。
まず、あなたに一匹の飼い犬がいたとしよう。その犬はあなたに非常に懐いており、躾(しつけ)もきっちりとされている。
ご飯が欲しい、遊びたい、疲れた――そう言ったものを逐一動作で見せてくれる。そんな可愛い存在だ。
確かにこれもまた意思疎通と言って問題の無いものなのかも知れない。
だが、“人と認識する相手“――つまるところ、あなたが友人や家族と会話するのと同じように、その犬の意思を汲み取る事があなたに出来るだろうか?
出来たとして、それが真実かどうか確かめる術はあるだろうか?
それを真実と断言するには膨大でいかにも莫迦らしい作業をする必要がある。
少なくともあなたが信じて欲しいと思うその相手の中に『共通見解』という土壌を作らなくてはならない。
なにしろ、真実と虚構というそれすら、思考から生まれた言葉と言うものの上にある酷く曖昧な定義だからだ。
同じ国家の南と北で通じないことさえある“言葉”の上に載っているのだ。
掘り下げていけば行くほどに、世の中を成す為の『定義』は端から端へと綻び落ちていく。
――話を戻そう。
“現実”が“現実といわれる場所”に立つ我々の定義であるように、
“神”という定義が人の中にある以上、全知全能が在り得ぬように、
己が“人である”という認識があって初めて成り立つ疑問である以上、どう足掻いみた所でその答えは分からない。
今この場に立ち、この場から如何な手法を使おうとも真実(ほんとう)の意味で“何処かへ行く事”などできぬ我々は、
如何やったとしても、何を如何したとしてもその答えを知る事は出来ないのだろうか?
実は、答えなどすぐ傍にある。
いや、あったのだ。
分からない、という答えではない。
少し頭を冷やし、深呼吸をして周りを見つめてみれば、自ずと“人”と“人でないもの”の区別などつく。
それは、“考えること”だ。
思考をすると言う事。それを自らの認識の元に行うと言う事。それらを認識出来るという事――これらこそが答えではないだろうか。
こう言ってしまう事に語弊がある事は重々承知だ。
この論理を適用するならば――例えば、痴呆に掛った老人などは人ではないと言う事になってしまう。
だが、偽善の仮面をかなぐり捨て、欲望というものを持つ己を曝け出したならば、それが今ここで言う“人”とは
掛け離れた存在であるという事が認識出来るはずだ。
動物は“本能”という反射に近い物を以って行動するという。
だが、人はその“本能”を封じ、理性と思考と呼ばれるそれに拠って自らの居場所を形作る。
――或いは、そう見える。
ならば、その動物と人間という言葉の違いを分けるものは、実はそこに在るのではないだろうか?
その違いは、身体の構造差異などとは比べ物にならぬくらいおぼろげなものではある。
しかし確実にそこに存在している、と、私は思う。
私のこの言い分は結局の所、大昔の哲学者達が語った壮大な夢物語――
――或いはそれよりも随分と性質の悪い話に過ぎないかもしれない。
しかし、あなたがこの話を信じ認識できた時にこそ、これは“真実”と成るのだ。
神暮 十矢 』
窓際で白い光を放つのは、7.65ミリの古い弾薬箱を文鎮代わりにされた、一枚のレポート用紙だ。
度重なるコールに反応のない神暮に、世話係であった彼女は恐る恐る扉を開ける。
ものが無く、シンプルと言うより殺風景なその部屋の主は姿を消していた。
扉という扉を開け、ベッドの下にまで潜って探すが、何処にも居ない。
いや――彼女が感じたのはもっと別なことだ。
そう、ただ居るべき筈の人間が居ないというだけで、ここが廃墟に感じられる。
ふと気付いて、彼女はデスクの上で光を受けているそれに、挨拶をして目を通した。
文面は、彼の書く何と言う事もない哲学を語るような、そんなものだ。
しかし、
「こ、れは……!」
彼女には分かった。
神暮は他の人間に己を語ることは殆ど無かったが、それでも時折漏らしていた言葉がある。
京二。そして、妹の事。
だから、彼女には分かった。
それでもその考えが幻であって欲しいと、急いでデスクの引出しを開ける。
ない。
いつも大切にしまわれていた――あの、鋼色――モリブデン・ブルーの小さな拳銃があった筈なのだ。
しかし、どの引出しを開けようと、全ては綺麗に整理されているばかりで、何処にもそれは見当たらない。
彼女は最早確信する他無かった。
この文章が、彼が覚悟の上に書いた遺書である事に。
――冷たい部屋だ。
敷島はふとそんな言葉が浮かんだ事に自らを嗤った。
馬鹿な。
ただその一言を浮かべ、全てを追い払う。
今の私は全てが全ての為にある。ならば己など必要なく、己が全てである事で望む世界が訪れる。
そうだ。そのための犠牲など幾ら在った所でかまわない。むしろ、無ければおかしいのだ――彼はただ一人そう思う。
白衣を翻らせ、彼は立ち上がった。
オール・バックの黒髪を撫で付け、トレードマークの銀縁をつい、と上げる。
敷島の向かう先は都内にあるホテルだ。
「正義とは哀しいものだ――」
革張りの席に凭れ掛かりながら敷島はそう呟いた。
手元では、事細かに岸武の軌跡を示すレポートが冷房の風に踊っている。
監視員を付けた事は既にばれているだろう。相手は老いてもなお切れ味の鈍らぬ暗殺者だ。ばれていなければおかしい。
だがそれでも、と強行的に続けさせた甲斐はあった。結果として、岸武はどうやら本気で京二をしとめる気らしい。
となれば、彼らの向かう先に岸武が現れるのはほぼ確定していることに成る。
「――己を奮い起たせる為にのみ其はそこに在り続け、他者に於けるその価値は塵の欠片ほども無く、やがて己を食い潰す魔物と成る――か」
敷島は静かに嗤った。
眼前には、黒ずくめの男が一人座っていた。服の上からでも分かる鍛え上げられた身体と短めに揃えられた頭髪。
だが、それらが醸し出す印象とは逆に、男の気配は傍に居ると感じられぬほど希薄なものだ。
めくる手を止めず、向かい合わせの席で影の様に佇む男に向けて言う。
男は微かに頬の肉を吊り上げてこう返した。
「“孤独の地平”か」
嘗ての神暮が書いた文面に添えられていた題名だ。先の言葉は敷島の物ではない。
「そう、彼の文才は中々にして素晴らしい。こんな所に縛られていると言うのも実に勿体の無い話です。いっそのこと本でも出して作家になってしまえばよいのですよ」
「違いない」
くく、という響きをこもらせる独特の笑い方。
さらに言えば発声も訓練されたものだ。声帯マイクを使う際に出来る限り唇を動かさぬように喋る方法である。
敷島は京と京二の一件以来、周到な策をさらに確実なものとするその努力を払ってきた。
この男も、彼らが今その場所へ向かっているのも、全てはその一環だ。
策など弄して弄しすぎる事など無い――古典や教訓と言ったものを一切信じようとしない彼らしい持論である。
今回の場合、反逆者たる京二の始末を確実にする――それが建前だ。
例え傀儡であっても代表は“代表”である。その神暮に表立って組織を動かす事を禁じられた以上、真っ向から命令を無視してしまうわけにも行くまい。
組織の手綱は敷島が握っているとは言え、表舞台に立たぬことで生じる不便は致し方ないものだ。思想を拠り所とする組織を取りまとめるにはある程度こう言った配慮も必要となる。
なにしろ、全ての幹部が味方という訳ではないではない。それに、対外的な配慮としてもこれは必要な事だ。悪戯に権力を使ってもそれこそ身を滅ぼすだけだろう。
表情を微笑に切り替えると、書類をフォルダにとじる。
「ところで――身体の方は如何です? 検査でこそ異常などは見つかりませんでしたが」
「最高。実に清々しい」
「それはよかった……道具の方は?」
「最高だね。基本設計が80年代。しかもセミ・オートで分解式(テイクダウンモデル)。これで当たるんだから恐れ入ったよ」
「スコープは要望通りのもの、でしたね?」
今更言っても仕方ありませんが、と敷島は笑った。
男も肩を竦めて応える。
「肉眼よりはっきり見える解像度は流石に如何かと思ったがね」
「まぁ、兎も角すっかり慣れられた様で何より」
横目で景色を伺う――と、不意に敷島はぽん、と手を打った。
目的地はまだだ。だが、男は頷くとガラス窓を叩き、車を止めさせる。
敷島の趣味で雪色に塗られたロールス・ロイス・ファントムWは大柄なその車体をしなやかに寄せた。
車道に降り立つや否やトランクを開け、グラスファイバー樹脂で出来たハードケースを取り出す。そのままガード・レールを跨ぐと、男は不自然なく歩道に降りたった。
ウインドゥを下げて視線だけを向ける。
暫く敷島は彼を見つめていたが、それでは幸運を、とだけ残しその場を去っていった。
走り去る白い車体をどこか遠く眺め、男は口を開く。
「――時代を見ろ。前を向いて歩け……そっくり返してやるよ。親父」
その呟きは風に流れて、誰に届く事も無く汚れた大気に解け消えた。
――目が覚める。何時の間に眠ってしまったのだろうか。
気配を感じて京二はゆっくりと起き上がり、枕もとに置いた煙草に火をつけた。
昨日から何も口にしていないが、特に腹が減る様子も無い。
京二はここ数日で、やっと己の身体を“見る”ことが出来るようになっていた。
そこで感じたのは、あの処術はつじつまを合わせるように様々な部分を変えてしまうということだ。食事も、激しい運動さえしなければ水だけでもかなりの間もつ。
恐らくはエネルギーの蓄え方と、消化効率が桁違いなのだろう。汚い話だが、気付けば便所に行くこともそうない。
体型すら“何をせずとも維持“されてしまう”身体だ。その位しなければ逆に生命維持が出来ないのだ。
馬鹿らしい。酷く莫迦げた身体だ。改めて京二はそう思う。
人の行き着く先は、果たしてこんなにも馬鹿げたものだろうか?
つい先日まで京二を突き動かしていた怒気(いかり)はすっかり消えてしまっていた。代わりに立ち上がっていったのは静かな憎悪と昏い情念だ。
凪いだ夜の海のようにそれは京二の胸を支配する。だが、その境地にあってそこに狂気と言う名の文字は無い。
“邪魔とあらば殺す”
――そう言っていた彼の獲物を狙う獣のようだった眼の光は消え失せ、いまやそこには闘いに赴く前の戦士の眼光が宿っていた。
無言のまま、その傷を一段と増やした45口径――側面の刻印である1911という文字は半分消えかけてしまった――の薬室に弾を込める。かすかな金音が耳を擽る。
始めから何も手立てなど無かった。ここまでたどり着いてしまうまで何一つ、選択肢など無かった。
だから、彼は11.43ミリの空洞弾(ホロゥ・ポイント)を一つ一つ弾倉に込める。
――それは空虚こそが齎す痛みを、相手に、己に、その身体を以って理解させるために。満ち足りたそこにこそ、本当の空虚が有る事をわからせるために。
3つ有る弾倉の全てに弾を込め終わると、京二は溜息と共にベッドに沈みこんだ。
すると、不意に木製のドアを叩く音が彼を起こした。
撃鉄を起こし、扉の向こうに存在を伝えてやる。暫くそのまま、コンクリート製の壁の裏側で息を潜めるが、何もない。
強行突入する気は無い――そう気配で読み取った彼は、慎重にドアまで足を進めてドア・ホールを覗き込む。
そして、驚愕した。
ドアの前に立つのは、一人の女だ。
魚眼の狭い視界に映ったのは、細い肩を乱れた息に揺らし滑らかだった赤の獅子髪を揺らして佇む――京の姿であった。
彼は、思わず中に引き返す。
「……京二?」
訊ねるその声は不安そのものだ。
入り口前のクロゼットに凭れ掛かりながら、彼は如何するべきか判断つきかねていた。
記憶が戻った――そう、“彼女”を思い出した今だからこそ、京二はあの表情の前でどう振舞っていいか分からない。
思い起こされるのは、嘗ての景色ばかりではない。
記憶の再現を願った彼女に彼が行った仕打ちは、彼にとっても――いや、彼にとってこそあまりに重く、辛い。
「ああ」
それは吐息が漏れたような物だ。
それでもドアの向こうの彼女にそれは届いたらしい。
「……許して、くれないよね」
――許す? この俺が何を許す事が出来ると言うのか。寧ろ許されず、許される立場にあるのは俺だ。
京二はそれを、言葉に出す事が出来なかった。何かが喉に詰まってしまったように声が出てこない。
心がざわめくのを感じた。今は会うべきではないと、夜の海が告げる。
互いに無言の、不毛な時間が過ぎていった。
どれ程経っただろうか? 時計で計ったのならばきっと5分にも満たぬ永遠だっただろう。
諦めたのか、京の足音が聞こえた。
遠ざかる。遠ざかってしまう。
「――!」
気が付けば、無我夢中でチェーンとロックを外していた。
だが、焦った彼の指は中々言う事を聞こうとしない。
擦れる金属音にさらに焦りを募らせながら、ようやっと外したその向こうに、赤い髪が揺れている。
やがて走り出た彼に気付いた京は迷わずにこりと微笑んだ。
記憶の中に見る彼女と違うのは、その頬に一筋の光が流れている事だけだ。
言うべき言葉もない。莫迦らしい恋人たちの様に抱きあいなどしない。必要ない。気持ちはそう告げている。
だが、気持ちよりも先に身体が動く時。そんな時があっても良い。
二人は確かな体温を感じながら、飽きるまでその場で抱き合っていた――
3:
スーツはチェックのブラウン。10年前から着ている草臥れた代物だ。
オフィス・ワークではないが何せ着たきり雀だ。その背中の生地は些か艶を帯びてしまっている。
袖口は少し綻び掛け、ボタンは最後に残った糸で宙吊りにされている。
老眼鏡を磨き、ハンカチとティッシュをポケットに詰め込み、爪を整える。髪の毛は既に整えてある。
ガス、電気、水道に加え、電話と新聞も既に止めた。恐らくはもう必要ない。
姿見の前で前髪を一撫でして、彼は狭い玄関にしゃがみ込んだ。
艶の無くなった革靴を履き、傍らに置いた大柄なアタッシュ・ケースを拾い上げる。
「じゃぁ、行ってくる」
箪笥の上に載せられた、仏壇すら与えられない位牌と遺影(つま)に彼は微笑みかけた。
その姿はともすれば優しげな老教師を思い起こさせる。そしてそれはある意味で正しい彼の姿だ。
だが、この扉を潜ればその面影など微塵も無く吹き飛ぶだろう。
微かに薫る線香の香りが彼を引き止めている。だが、
「……すぐに、終わる」
一言だけを残して、彼は扉を出た。
外は雨こそ降っていないがどんよりとした曇り空――灰色の空だ。
気温こそそれ程のものでないにせよ、未だに纏わり付くような湿気が覆い尽くしている。
息をするのも重いようなそれを溜息で振り払い、彼は踏み出した。
乗りなれた黒いセダンのエンジンを掛ける。微かな身震いと共に、改造車特有の重低音が閑静な住宅街に響き渡った。
『――岸武が自宅を出ました』
やや雑音が混じるその声は、それでもしっかりと敷島の耳に届いていた。
彼は特にこれと言った関心もなさげで、手元の書類から視線を外さぬままだ。
黒服の男を降ろした後、彼は近場の公園へと場所を移していた。
備え付けられたカーナビには淡々とホテル前の映像が流されている――が、それは通常の視点で撮られたものではない。
実の所、あの3人には全て諜報部の活動員に行動を監視させていた。何らかの動きがあればすぐに彼の耳に届くようになっている。
その上で通達が無い――動きが無い以上、現場でただ只管に時間を潰すのも危険且つ無駄な話だ。
それに敷島は、岸武が焦った行動を起こすとは思っていない。予測では通達があってからでも事が起こるまでに現場に辿り着く事は可能だ。
「御苦労様です」
目を逸らす事も無く素っ気無くそれだけを言う。
先に付けていた監視員とは格の違う連中だ。最も、見つかった所で彼に被害は及ばないのだが。
『現在追跡していますが、どうも妙です。目的地方面と逆に動いています……如何致しますか?』
「追尾を続行。相手はあの岸武です。尾行は慎重に」
『畏まりました』
因みに、監視員に諜報部の動きは知らせていない。監視員らはその似通った職務上、内部で上位に位置する諜報部との連携に対して抵抗を持つ。
余計な現場争いは避けるに越したことはない。思想で固まった集団と言えど、それを統べるのも行動するのもまた人間でしかないのだ。
組織に余裕がないわけではない以上、そう言った些細な可能性を摘み取るのも大事だ。が、敷島にとっては必要になった必要なものを動かしたに過ぎない。
代表の目を欺けて、尚且つ大規模に動かせる唯一の機関が諜報部だっただけだ。
敷島は傍に置かれた無線機器のインターカムを手に取った。
相変わらず書類に目を通しながらだが、その視線はいくらか鋭い物に変わる。
「――聞こえていますか?」
『感度良好』
すぐさま戻った返事はあの黒衣の男のものだ。
彼には別のホテルの一室を貸しきり、監視に加わってもらっている。
敷島は表情を変えぬまま声に笑顔を作り上げた。
「対象が動きました。そちらにも情報は飛びますが、留意の程をよろしくお願いします」
『了解した――情報は正確なようだな。女が居る』
「おやおや、四方津君にも随分と余裕があるようで。まぁ、何ならば彼ら3人とも始末して頂いて構いません」
男は笑った。
だが、敷島には声のみである事がわかる。
中々良い。これから臨む行為を考えればそうでなくては。
「兎も角、以下続報は諜報部に回します。必要ならば観測員を設けますが?」
『必要ない』
「では、幸運を」
それだけを言い、敷島は通信機の電源を落とした。
ゆっくりと抱擁を解き、部屋に入る。
ドアから流れ込む涼風に京は汗に濡れた身体を少し震わせた。
上着を脱いだ京に取り敢えずタオルを差し出す。
変わらぬ仏頂面に彼女は少し安心したようだった。額の汗を拭い、ワイシャツの裾をスカートから追い出す。
設えられたソファにどかりと腰掛け、京二は彼女から視線を逸らした。咥え煙草で、落ちそうな灰をゆらゆらとさせながら上を向く。
昔からの癖だ。昔からそうだった。
彼は京とそういう関係になってからも、何故か服を脱ぐ時は眼を逸らした。
今更恥ずかしい事もないだろうに、と後から抱きついて脅かしたりもしたものだが――
――昔から?
ふと、都合の良い考えが浮かぶ――が、彼女はすぐさま振り払った。
勢い込んできてみたものの、その先に行く勇気が早くも挫けてしまいそうだった。ここでまた傷つくことも正直ごめんだった。
岸武に賭けたのも、京二を見放そうとする事実とそれに疑問を投げかける自分からの重圧に耐えきれなくなりそうだったからだ。
このまま放っていていいのか。自らのその言に折れて彼女は岸武に会った。いまや斃すべき敵となった彼との再会は、果たして彼の目に如何映るのか。
いや、彼女が恐れるのはそこではない。言うまでも無く、京二に敵と認識される事だ。
ここで再び立ち回るのは正直耐えられそうに無かった。
身体は幾らでも耐えて見せるだろう。だが、身体と心は共にあるようで別の物だ。
口を開け。前を向いて話せ。
意識のどこかしらはそう呼び掛けては来るものの、彼女はいま一歩踏み切れずにいた。
膝の上に置いた拳に不快な汗が纏わりつく。
フィルターに掛りかけた火がとうとう、その長い灰を落とした。
一瞬、身体が強張る。
だが、どうやら妙に緊張しているのは京二も同じだった。あからさまな驚きを見られたのが恥ずかしいのか、膝に落ちた白い灰をぎこちなく落としている。
ほんの僅かだが肩の重さが抜けた気がして、彼女は口を開いた。
「あのさ、京二……」
ゆっくりと、顔を向ける。どこか不機嫌そうではあるが、目の鋭さは無い。
「……岸武さんに、会ったんだ」
「そうか」
にべも無い返答だ。
言葉は紡げるようになった。だが、今度はその勢いに負けそうだった。
口から出してしまえば終わり――そういう訳にはいかない。
「先生――岸武さんは、京二を想ってたよ。ちゃんと、想ってた」
京二からすれば、支離滅裂な言葉だろう。だが、最早彼女は語調を抑える事だけで精一杯の状態だ。
ふと、京二の右目が細められる。一挙動毎に電撃のような震えが走る気がした。
嫌な汗が背中を濡らしているのが分かる。
「あの人は必ず……多分、今日にもここに来ると思う。京二との決着をつけに、ここに」
ここで京二は立ち上がった。そして、徐にドアへと向かって歩き出す。
思わず目が行くのは無造作にベルトに差し込まれたままの45口径だ。
安全装置は掛っているものの、その撃鉄は何時でも撃てる状態にあることを示している。
彼女の銃は手元には無い。バイクから外してきたサイド・バッグの中だ。到底間に合う距離に無い。それに、撃つ気もない。
覚悟を決める時が来たのかも知れない。京は知らず、その目をきつく閉じていた。
扉が開く音が聞こえる。
彼女はその事しか分からなかったが、それは部屋の出入り口のものではなく、もっと小さくて軽い物の音だ。
やがて扉は閉められて足音が近づいてくる。
終わりだろうか。
こんな所で、こんな中途半端な形で終わってしまうのだろうか――
そう思った矢先、京は突然頬に当てられた冷気に思わず間抜けな声を漏らした。
「――冷たっ?!」
恐る恐る見上げる。
京二はしてやったり、という表情を浮かべて立っていた。
先の冷たさの正体は彼の手に持たれた缶飲料だ。京二は、ソファに戻るなりプルタブを開けて一口で半分を呷る。
いまだ呆然としている京に不器用な笑みを浮かべて、彼は呟いた。
「岸武“先生”か。相変わらずなんだろうな」
「――え?」
輪を掛けるような驚愕に京は完全に思考停止した。栓を開ける事も忘れて、すっかり固まってしまっている。
苦笑しながらもう一口を喉に流し、続ける。
「懐かしい。もう、そう感じる事などないと思ってたが――不思議だ。例えそれが断片でも、違和感が無い」
「……きょうじ?」
「幸せ……だったんだろうな。だから俺はここまで来た。罪も無い旗瀬を殺し、ただのドライバーになり下がってた大道寺を殺し、そして、岸武“先生”を撃った――全てはただ、あの時」
衣擦れの音と共に、突然彼は腰の鋼鉄を引き抜いた。京の反射が背中に手を回させる。
だが、彼は引金を引く事も安全装置を解除する事もなかった。巨木の一枚板で作られた飴色のテーブルにそのまま静かに下ろす。
鈍い音が部屋に響く。
蒼というよりも、黒だ。幾度も傷つき、その度に繰り返された黒染めの所為であちこちが斑になっている。
角は最早それすらなく、地金の銀色が剥き出しの状態だ。
それでもオイルだけは切らさなかったのだろう。隅々まで錆は見当たらない。
“邪魔とあらば殺す”
――それを貫いた果てにここに存在する、戦士の姿だ。そして、彼が岸武に譲り受けた最初で――恐らく最後のもの。
愛でるように撫で、京二は続ける。
「ただあの時、満たされていたからだ」
「おぼ……えて?」
最後は言葉にならなかった。
彼は無言のまま肯き、今にも泣き出しそうな京に笑みかけた。今までのような皮肉はそこに無く、ただ、晴れ晴れとした表情で。
すべてを思い出し、その所為で彼の戦いに迷いが出るくらいならば――彼女はずっとそう思っていた。
だが、そうではなかった。むしろ彼を思い出せずにいたのは京の方だったのだ。
京二がそれで悩まない筈は無い。だが、胸を引き裂くような呵責をたった一人で砕き、乗り越え、彼はここに居る。
涙が止まらなかった。顔を顰める事も瞳の色を隠すことも、何も出来ない。
そのまま隣に腰を下ろし、京二はゆっくりとその赤い髪をなでた。
「“名前は京都の京?”」
「……え?」
赤い瞳のまま、彼女は彼を見つめた。
意味が把握できずにいるその表情に優しく語り掛ける。
「あの時も確かそう言ったんだ。俺と同じ字だなって」
「……うん」
「本当に懐かしい。旗瀬――龍一と莫迦をやっては先生に何時も怒られて、罰のランニングにへとへとになって、喫茶店に行った」
「うん」
「何で……何処で狂ったんだ、なんて言わない。でも、俺は確かに幸せだったんだ」
「うんっ」
「だから……」
限界だった。
右だけの視界が波の様に揺れ、光は瞬く間に頬を滑り落ちて絨毯に一粒の染みを作った。
外の光も、唯一の色をもつその髪も瞳も全て、揺れている。
京二は震える腕で彼女の肩を抱き寄せた。
「戦う。それしか無いんだ、俺達には。だから」
「――言わなくて、いい」
知らぬ間に回された白い腕が不意に力を帯びる。
彼の細身に鈍く熱が走るがそれは心地良い物だった。限りない“生”を感じさせる――そんな温度だ。
どちらとも無く彼らは目を瞑り、場は静寂が支配する。
二人は静かに、唇を捧げた。
それは、祈りに近い。
赤い髪に残る、在りし日の残り香。
京二はその向こうにあの遠い日々を見た――
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