ARMORED CORE EPISODE 8
エボニー・コンツェルト
「ぐおぉお!?」
むさ苦しい男の悲鳴が、狭いコックピットにこだました。不健康そうな赤い光を放つランプ。耳障りな高音をかき鳴らすブザー。見たくもない文字を延々と表示し続けるモニター。その全てが、絶望的な状況を彩り豊かに演出していた。
少々、演出が過剰だが。
男は操縦桿を手前に引いた。無反応。もう一度。カチッという音だけが空しく響く。なんてことだ。彼の乗っているロボットは、もはや完全に機能停止してしまっていた。戦闘のためだけに生み出されたロボット、AC。しかしこうなってしまえば、それもただの鉄屑である。
ガシュンッ。
低い音が闇を切り裂く。モニターの向こうに、シルエットが映った。人のようだった。しかしそれはとてつもなく大きい。巨人? いや、違う。あれもAC。何かを壊したり、誰かを殺したり。そんなことしかできない金属の塊。その黒い姿は、男に『鬼』というものを連想させた。
「嘘だろ……どうして……」
彼にはただ、呆けたように呟くことしかできなかった。信じられないのも無理はない。あんな奴と事を構えることになろうとは、夢にも思わなかったのだから。畜生。助平心が命取りだった。あの女め。恨んでやるぞ。これで死んだら、お前に取り憑いて、呪い殺してやるからな。
畜生。男はもう一度思った。どうして、どうしてこんな奴が。そしてモニターに見入った。闇の中に佇む、漆黒の鬼。
「弧雷の……ロレンス――」
ゴオ……オオオ……
ジェットエンジンがあげる轟音は、頑丈な外壁に遮られて心地よい子守歌と化す。『全ての旅路は、ここに集まる』というキャッチフレーズで有名なエクスシード航空。そのエクスシード航空が誇る大型旅客機「エクセル369」は、その1016の座席を全てリゾートへ向かう人々で埋め尽くしていた。
ある窓際の三連席には、個性的な若い男女が腰掛けていた。一人は、アジア人の女。艶やかなショートカットの黒髪に、挑発的な輝きを放つ黒い瞳。道を歩けば大抵の男が目を留めるほどの美女である。そして二人目は、北欧系の女。長い髪を三つ編み一つにまとめ、へらへらとした笑顔を絶やすことがない。高い鼻にかけた小さな眼鏡が、ときおりずり落ちそうになる。それを直す右腕の動き。そのたったの一挙動にすらも、周囲の視線が集まる。恐ろしいまでの美女である。
最後の一人は、一際異彩を放っていた。黒いスラックスと、ごく淡い青紫色のシャツ。ネクタイは締めずに、上から二つほどボタンを開け放っている。丁度肩に届くくらいの長さの金髪。身長はかなり高い。おそらく190前後だろう。とはいえ、見た目にはそれほどおかしい所はない。アイマスクをつけて眠りについた、ごく普通の男性である。
ただ、一カ所だけ異常な点があった。殺気。そう表現するものもいるだろう。まるで獲物を狩る肉食獣のような鋭い気配を、その男は全身から放っていた。眠っているにもかかわらず。だからこそ……彼が一番通路側の席で護るように眠っているからこそ、周囲の男達は奥の女性二人を口説けないのである。門の前で眠る虎におびえる泥棒のように。
『当機エクセル369は、地下都市「コートデパール」上空へ到達いたしました。これより降下体勢に入ります。速やかにご着席の後、座席ベルトをお締め下さい。なお、これより先のお煙草はご遠慮願います』
事務的なコンピューター・ヴォイスが響く。座席の前にある小さなモニターに、「NO
SMOKING」の文字が映し出される。さっきの台詞が、今度はフランス語で繰り返された。そしてドイツ語。イタリア語。広東語。最後に日本語で読み上げられて、ようやく機内は静かになった。
「よしゅあく〜ん、もうすぐつきますよぉ〜」
中央に座っている北欧系の女性が、妙な粘りけのある声で隣の男を揺すった。ヨシュアと呼ばれたその男は、大きくあくびをしてからアイマスクを外す。瞳が外気に触れる。冷たい感覚を楽しみながら、ヨシュアは青い瞳を開いた。
ヨシュアは右側……窓のある側に目を遣った。すぐ隣の席には、あいかわらずの笑みを浮かべる北欧系の女。その向こう、窓際の席に座っているのはアジア人の女である。彼女はまるで子供のように、窓の外の風景に目を輝かせていた。
「そんなに楽しいかよ、この風景が」
アジア人の女はこっちに顔を向けた。ふと気付いて、座席のベルトを自分の腰にまわす。その仕草の一つ一つが、普段の彼女からは想像もつかないほど浮かれたものである。
「せっかくここまで来たんだから、楽しまないと」
「い〜ことゆ〜ね〜、りんふぁちゃ〜ん!
よ〜し、えりぃもいっぱいあそぶのだ〜!」
アジア系の女――リンファ。北欧系の女――エリィ。ヨシュアは、この二人に半ば引きずられる形でこんな所まで来てしまった。あまり、人混みは好きじゃないんだがな。ヨシュアはため息をつくと、シートに体を投げ出した。
ぽーん。小さな音が鳴って、目の前のモニターに文字が表示された。
[危険ですので座席ベルトをお締め下さい]
彼の眉がぴくぴくと痙攣した。モニターに人差し指を突きつける。
「いちいちうるさいんだよ」
光が照りつける。目映い日差し。リンファは偏光ガラス越しであるにもかかわらず、目を細めなければならなかった。
今エクセル369が飛んでいるのは、地下都市「コートデパール」の内部である。地下都市の空港には大きく分けて二種類がある。一つは、地上に空港を建設し、地下へのエレベーターで結ぶタイプ。二つ目は、ここのように地下に直接空港を建設するタイプである。この場合は、地下都市の天井に大穴を開け、そこを通って航空機が地下へ降りることになる。騒音公害だの排気だの、問題はいろいろあるが、大量の荷物を一度に搬入できることは大きな魅力だった。一度荷物を降ろしてエレベーターに運ぶのは、非常に大きな手間なのである。
「すっご〜い!」
リンファは無邪気に歓声をあげた。とはいえ機内では同じような声がいたるところであがっているので、それほど目立ちはしないが。
無理もない。地下都市の中だというのに、地上よりも強い日差しが差し込んでいるのである。そしてその光を浴びて、きらきらと輝く波。そう、地下に海があるのだ。ここ地下都市「コートデパール」は、圧倒的光量の照明と、人工的に生み出された海が自慢の、一大観光スポットなのだ。
エクセル369のエンジン音は、ほとんど聞こえなくなっていた。エンジンの出力を落としたのだ。ゆっくりと機体は降下していく。リンファの目に、砂浜の光景が映った。水着を着た無数の若者たちが、海に飛び込み、潜り、泳ぎ、それぞれの休暇を満喫していた。もちろん、ナンパに精を出す男も少なくない。
リンファの顔は自然とほころんだ。なにしろ、海水浴なんてものは初めてなのだ。普通の地下都市に「海」なんてものがあるはずもなく、地上の海は汚染が酷くてとても泳げたものではない。コートデパール様々だ。こんな所でもなければ、一生海水浴なんてすることはなかっただろう。
「楽しみだね、ヨシュア」
ヨシュアの顔は、ちっとも楽しそうではなかった。
「そうかよ」
空港には、南国の雰囲気がこれでもかと漂っていた。もっとも、南国という概念自体、今や現実には存在しないもの。赤やオレンジで塗装された壁。いたるところに飾ってある亜熱帯の植物。土産物屋を埋め尽くす、奇妙な木の彫刻、豆菓子、派手なキーホルダー。これらは全部、人々の勝手なイメージを形にしただけの、幻である。
三人はパスポートを見せて、チェックゲートを通過した。向こう側で待ちかまえる数人の女性。小麦色に焼けた肌を心ばかりの布と花で覆い、見たこともない変なダンスを踊っている。その内の一人がヨシュアに歩み寄り、その頬にキスをした。赤い花で作った輪を彼の首にかける。驚いた様子のヨシュアのつま先を、リンファのかかとが押しつぶした。
それから、三人はホテルへの道を歩いた。すぐ先に見えているのに、タクシーを呼ぶのもばからしい。車道と同じ幅の歩道は、両脇を椰子の並木で囲まれ、海岸沿いをずっと走っていた。リンファが、少し頬を赤らめながらヨシュアの腕にからみつく。仕方がないのでエリィは二人の少し後をついていって……わらわらと集まってきたナンパ男から逃げるのに苦労した。
途中、ヨシュアは何度か後ろを振り返った。そのたびにリンファが、どうしたの、と声をかけたが、彼の答えはいつも、なんでもない、の一言だった。
そして、十分ほど歩いた頃には、三人の止まるホテルはもう目の前まで近づいていた。
「じゃあ、荷物置いて着替えたらここに集合、ね」
豪華なホテルのロビーで、リンファは自分の指を床へ向けた。大理石の床は綺麗に磨き上げられ、輝くようだった。
「着替える?」
ヨシュアは不審がって声を上げた。そんな彼を待っていたのは、リンファのじっとりとした視線だけだった。ここへ来て、今更何を言ってるんだ。そういう目だ。
「泳ぐの。海で」
「……悪いが、俺はパスだ」
自分の荷物を、ヨシュアは右手で拾い上げた。残った手で部屋のカードキーを弄ぶ。防水加工が完璧に施された、特殊なカード。しかも、旅行中だけはクレジットカード代わりに使えるという、非常に便利なものである。大破壊以前に、マレー半島にあった小さな国で発明されたシステムらしい。これ一枚で何をするにも事足りる。
「え〜? よしゅあくんはおよがないのぉ〜?」
「何よ、せっかくここまで来たのに」
一斉に彼を襲うブーイング。しかし慌てることもなく、ヨシュアはエレベーターに向かって歩き出した。金髪が揺れる。
「暑いのは苦手なんでね」
ベッドが一つと、テーブルが一つ。椅子は二つある。冷蔵庫にはミネラルウォーターからスコッチ・ウィスキーまで、各種飲み物が取りそろえてある。あまり使うことはないだろうが、リキッドクリスタル・テレビもある。ホテルの部屋としては、まあ妥当なコーディネイトだろう。
大きな窓の向こうには、青い海と白い砂浜が姿を見せていた。今頃、リンファたちはあそこへ向かっていることだろう。ヨシュアはそれを眺めながら、ベッドに横たわって暇を貪っていた。
不意に、ヨシュア起きあがった。ベッドの上の鞄から何かを取り出す。黒くて重たいもののようである。それを右手に持ち、彼は部屋のドアへと向かった。オートロックのおかげで、ドアの鍵はかかっている。ノブ手をかける。
バンッ!
いきなりドアを押し開けると、ヨシュアはその向こうにいた人間に銃を突きつけた。左手でそいつをひっつかみ、部屋の中に引きずり込む。そして、すぐさまドアをしめた。
さっき鞄から取り出したのは、拳銃だった。そして今その銃は、部屋の前にいた知らない女に向けられている――ん? 女?
ヨシュアは改めて、そいつの姿を確認した。金髪の、華奢な女である。身長はリンファよりずっと低い。ヨーロッパ系であることは間違いなさそうだ。しかし、やはり見たことがない。ヨシュアは腕を通じて小刻みな震えが伝わってくるのを感じた。
「空港から、俺を追っていたな」
ヨシュアは低い声で言った。女は何も答えず、ただ震えているだけだった。ひょっとしたら狙われているのかとも思ったが、どうやら違うらしい。ヨシュアは乱暴に女を押して、部屋の奥の椅子に座らせた。自分はベッドに腰掛ける。もちろん、銃はいつでも撃てるように構えたままだ。
「何の用だ」
「あ……あの……」
女は、おびえた様子で少しずつ言葉を紡ぎだした。甲高い、透き通った声だ。
「えっと……ワームウッドさん……ですよね?」
女の口をついて出た意外な名前に、ヨシュアはまともに浮き足だった。ワームウッドとは、ヨシュアの傭兵――レイヴンとしての名前である。レイヴン「ワームウッド」と「ヨシュア」が同一人物であるということを知っている人間は……今となっては、リンファとエリィくらいしかいない。
ヨシュアの狼狽に気付いたのだろう。女は、少し落ち着きを取り戻した様子で口を開いた。
「えっとぉ……あたし、ジーナって言いますぅ。
んっとぉ、実はネットでぇ、『ワームウッド』さんと『真紅の華』さんがここに来るって……」
「……どうして俺がそうだとわかった」
いくらネットで情報が流れていたとはいえ、顔まで知られているわけではない。普通に考えたら、わかるはずはないのである。
「あの……イメージ通りだったからぁ」
思わずヨシュアは銃を取り落とした。
「あたしぃ、ワームウッドさんのファンなんですぅ! それでぇ、やっぱりワームウッドさんっていったら、格好良くてぇ、賢くってぇ、逞しくってぇ! もう理想の男性なんですぅ! えっと、それであんまりイメージ通りだったからぁ、もうこの人で間違いないや!って思ったんですぅ!
あ、隣にいた人、真紅の華さんですよねぇ! あの人もイメージぴったりですぅ! とっても綺麗でぇ、もう憧れちゃいますぅ!」
頭が痛い。ヨシュアはさっきまで銃を握っていた右手で、自分の額を押さえた。このジーナとかいう女のテンポには、どうにもついていけない。こういうトロトロした口調で話されると、こっちまで調子を狂わされそうだ。エリィはまだ許容範囲内だが、こいつはそんなものを遥かに超越していた。
「あー、もういいもういい」
沈痛な面もちで、ヨシュアは誰にともなく言った。一方のジーナは、まだ話し足りないのか、不満そうな顔だが。調子を戻そう。ヨシュアは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。よし、なんとか落ち着いた。
「それで? 一体何の用だ」
「あ、えっと、実は依頼したいことがあるんですぅ」
依頼、か。どうやら目的だけはまともらしい。バカンスの最中に仕事というのもせわしないが、どうせ暇をもてあますのは間違いないのだ。わざわざ遠出をしてはしゃぎ回るよりも、いつも通りの生活をする方がずっと疲れがたまらなくていい。ヨシュアはそういうタイプなのである。
「あの……引き受けていただけます? えっと、休暇中に悪いんですけ……ど……」
「内容次第だ。もっとも、AC無しでできる範囲内で、だがな」
今回は完璧に観光旅行のつもりだったので、ACなどもちろん持ってきていない。大がかりな破壊活動は当然不可能である。このジーナとかいう女も、それはわかっているはずだが。
ジーナは無言でうなずくと、おもむろに口を開いた。
「実は、あたしの護衛をして欲しいんですぅ。
最近変な人が周りをうろついてて……仕事の邪魔をするんですぅ。この間なんて、目の前に銃弾が撃ち込まれて……すっごく怖かったんですぅ! だから、その人達をやっつけちゃって下さい!」
「それは、殺せという意味か」
こともなげに言い放つヨシュアに、ジーナはぶんぶんと頭を振った。
「こ、殺しちゃだめですよぉ! てきとーに痛めつけて、もうあたしにつきまとわないようにしてくれるだけでいいんですぅ!」
なるほど。いかにも素人らしい依頼だ。殺してはいけない、というのは足枷以外の何者でもないが、相手はただのストーカーのようだし……AC無しでもなんとかならないことはないだろう。あとは報酬さえ良ければ文句はないのだが……
と。ヨシュアの耳がぴくついた。何か、かすかな音がする。これは……ヘリのローターが空気を叩く音か? だんだんと音は大きくなってくる。ヘリが近づいているのだ。妙な話だ。一際騒音公害に敏感なこの観光都市で、ヘリが堂々と空中散歩とは……
やはり、おかしい。音が大きすぎる。これではまるで、すぐ近くをヘリが飛んでいるような――
ヨシュアは、ジーナの腕をつかんだ。
ドガガガガガガッ!!
突然の爆音! 外から飛来する鉛の塊は、強化ガラスの窓を突き破り、部屋の中で暴れ回る! 調度品もテレビも冷蔵庫も、部屋の中にあるものは全て、一瞬にして粉々に砕け散る。窓の外の戦闘ヘリは、ようやくガトリングガンの連射を止めた。
「無茶しやがる……!」
ヨシュアは、バスルームのタイルに手をついてゆっくりと体を起こした。異変を感じ取った瞬間、ジーナを連れてバスルームへと飛び込んだのである。地面に伏せたヨシュアの下には、真っ赤な顔のジーナ。彼に押し倒される形になっていたため、ジーナにはガラスの破片一つ当たってはいない。
「逃げるぞ」
ヨシュアは立ち上がり、まだ赤い顔で呆けているジーナの手を取った。引っ張って、無理矢理立ち上がらせる。これは、落ち着くまで少し待った方がよさそうである。その間にヨシュアはバスルームの入り口から外の様子を伺った。ヘリはもういない。あれはただの景気付け……か。ということは、おそらくすぐに白兵戦部隊が来る。
――上等だ。
「ジーナ、だったな」
「は……ははははははいっ!!」
ヨシュアは振り返り、彼女に微笑んで見せた。それは、氷のように冷たい、悪魔の微笑みだった。
「あんたの依頼……引き受けさせてもらおう」
照りつける擬似太陽の光。それに灼かれた砂から、足の裏に程良い暖かさが伝わってくる。同じ間合いで、幾度となく繰り返す波の音。鼻を衝く、不思議な塩の香り。海。
スポーティなデザインのビキニ。そもそもリンファは水着なんてもの自体、着るのは初めてである。なんだかスカスカして気持ち悪いが、背筋を走っていく震えはそのせいではないだろう。リンファの目が輝く。その顔は、たとえるとすれば玩具を得た子供のそれである。
今まで殺伐とした傭兵の世界で生きてきて、同じ年頃の他の女の子達がするような遊びとは全く無縁だった。所詮はガキの遊び、と馬鹿にしていたのも事実だった。しかし実際にこうしていると……たまには、何の気兼ねもせずに遊びまわるのも悪くないと思えてくる。
「うきゃあああああ!」
隣に立っていたエリィが、突然甲高い叫び声をあげた。砂を蹴って走る。フリルの付いた白いワンピースの水着は、彼女のイメージにぴったりと合っていた。眼鏡をはずし、髪をほどいたその姿は、リンファですら久しぶりに見る。エリィの足が波打ち際に触れる。冷たさにだろうか。少し驚いたそぶりを見せてから、エリィは波間に飛び込んだ。
飛び込んだといっても、膝くらいまでしか深さのない辺りだ。ばしゃんと音を立てて、水しぶきが上がる。それを頭からかぶって、エリィはへたりこんだ。腰から下は水に浸かっている。頭を振る。髪から、塩水の粒がいくつも飛び出した。水をかけられた犬みたいだった。
「おもしろ〜い〜!
りんふぁちゃ〜ん! おいでおいでぇ〜!」
リンファは微笑むと、海へ向かって駆けだした。ためらいもせず、エリィよりも豪快に海に飛び込む。さっきより大きなしぶきが上がった。エリィの顔にそれがかかりそうになって、彼女は慌てて腕で防御した。でも、無駄だ。最初の攻撃が失敗に終わった事に気付くと、リンファはすぐさま腕を振り上げた。巻き上げられた水が、エリィの顔を直撃する。第二射は、まんまと命中したようである。
「う〜、やったなぁ〜!」
それから、二人の壮絶な戦いが始まった。冷たい水が飛び散り、体を濡らす。時折それは口の中にも入っていった。塩辛い。慌ててそれを吐き出していると、その隙を狙ってさらに執拗な攻撃が襲ってくる。
リンファもエリィも、全く泳ぐことはできない。それでも、泳げない者は泳げないなりに楽しむ方法があった。リンファの足の裏を、何かがくすぐる。ひゃっ、と声を上げ、リンファは水に浸かった自分の足を見つめた。その側に、なにやら煌めくものがある。それは小魚だった。
リンファは呆然と、その魚を眺めていた。すぐに魚は逃げ出す。ものすごい速さだ。地上のどんな生き物も、あれほどの俊敏さでは動けないだろう。驚きだった。まさか、人工の海に魚まで放しているとは。二人は顔を見合わせて、そして今度は魚を追いかけるのに躍起になった。もっとも、泳げない二人に捕まえられるわけはなかったのだが。
少し暴れ回ると、急に喉が乾いてきた。さっき塩水を飲んだせいだろうか。リンファはエリィを誘って、陸へ上がった。風邪を引かないように上着を羽織り、海際のコテージへ向かう。
海岸には、白い木製の小屋がいくつも建っていた。喫茶店のようなものである。小屋の中に入ってもいいが、オープンテラスのパラソルの下、というのも風情があっていい。二人はそっちを選んだ。すぐさま近づいてきた薄着の女性に、聞いたこともない南国産フルーツのジュースを注文する。
一分も待たせずにジュースは運ばれてきた。ストローに口を付ける。広がっていく、甘い感触。悪くない。リンファもエリィも、ご多分に漏れず甘い物には弱い。もしヨシュアだったら、こんなものは蟻の飲み物だ、と一蹴しそうだが。
そうだ、ヨシュア。ふと思い立って、リンファはジュースから口を離した。
「ヨシュアも来れば良かったのにね」
「ん〜、でもぉ〜、よしゅあくんがうみではしゃいでたら〜、なんかやだ〜」
それもそうか。確かに、楽しそうにしているヨシュアの姿など想像も付かないし、見たいとも思わない。
……と。リンファははっと顔を上げた。遠くから大きな音が聞こえてくる。空の上からだ。何度も聞いたことがある。ヘリのプロペラが、空気を切り裂く音である。そんな馬鹿な。ただでさえ騒音にうるさくて、無音の電気自動車以外使用が禁止されているようなこの都市で、あんな爆音を立てるなんて。下手をするとガードが飛んで来かねない。
周囲の客もいぶかしがって、一斉に空を見上げている。リンファもパラソルの隙間から上を覗いた。まぶしい擬似太陽。そこに浮かぶ黒いシルエット。逆光になってよく見えないが、ヘリコプターであることには間違いなさそうだ。ヘリは、海際にそびえ立つビルの周辺をホバリングしはじめた。あれは……リンファ達が泊まっているホテルである。
「およよ〜? あれはなんでしょね〜」
「何かのイベントかな……」
リンファが呟いた、次の瞬間。
ゴガガガガガガッ!!
ヘリのガトリングガンが火を噴いた! 無数に散らばる狂気の弾丸。それらは全て、ホテルのある一室を打ち抜いていた。誰からともなくあがる悲鳴。それはやがて怒号となって、浮かれた時間と空間を一気に引き裂いた。
さすがにこういうことには慣れている。リンファは多少驚きこそすれ、少しも慌ててはいない。しかしそれも、エリィが口を開くまでのことだった。
「リ……リンファちゃん!」
口調がしっかりしている。リンファはエリィの顔を覗き込んだ。瞳に浮かぶ輝きが、さっきまでとは明らかに違う。普段のおっとりとした表情からは想像もつかない、険しい顔である。科学者としてのエリィの顔……リンファはそれを、一瞬で見て取った。
「あの部屋! ヨシュアくんの部屋よ!」
「……なッ!?」
思わず驚愕の声を上げ、リンファは再度ホテルを見上げた。ホテルの、上から5番目の階。向かって右側から数えて三番目の窓。間違いない。あれは1017号室……ヨシュアがいるはずの部屋!
次の瞬間、リンファはもう走り出していた。
いくつかの靴音が響き渡る。
先頭を切って階段を駆け下りているのはヨシュアだ。ジーナがその後ろに続く。しかし靴音は二つだけではない。下から上ってくる音。階下で、拳銃を構えた男が待ちかまえていた。銃口はヨシュアに向いている。
――邪魔だッ!
タイミングを計らって、ヨシュアは身をかがめた。その頭上を銃弾が通り過ぎる。そして瞬き一つする間には、ヨシュアは男の懐に飛び込んでいた。左腕のエルボー。体勢を崩した男の足に、一発銃弾を撃ち込む。男は小さく呻くと、為す術もなく床に転がった。すぐさまヨシュアの足が、男の拳銃を蹴り飛ばす。
まるで滝を流れ落ちる水の如く、ヨシュアの動きは俊敏で無駄がなく、美しかった。神がもたらした最も残酷な刑。天より飛来する聖なる流星。大地を汚染し、人々を緩慢な苦しみの内に滅ぼす狂気の災厄……ワームウッドという名は、彼にこそ相応しい。
ヨシュアは上を見上げた。さっきの攻防に驚いて、立ちつくすジーナがそこにいる。戦い慣れていない奴は、これだから困る。ヨシュアは仕方なく声をかけた。
「急げ。呆けている暇はない」
「は……はいっ!」
ようやくジーナは正気を取り戻した。慌てて階段を駆け下りてくる。もう一階のロビーは目の前だ。これまで倒した襲撃者は二人。おそらくエレベーターから攻めてくる奴や見張りもいるだろうが、それでも大した数ではない。ごく小規模なテロリスト、といったところだろうか。
やがて二人はロビーへとたどり着いた。そこは既に、阿鼻叫喚のさまだった。人々は当てもなく逃げまどい、ホテルの従業員が必死にそれをなだめている。中には平然と事態を見守っている者もいたが、そういう連中は例外なくSP付きだ。
だが、この状況は都合がいい。こうも混乱していては見張りにも見つかりにくい。
「身を屈めろ。人混みに紛れて逃げるぞ」
「わかりましたぁ」
二人は人々の間を、弾丸のように駆け抜けた。思った通り、誰一人として彼らに目を向ける者はいない……いや、前方に男が一人。こっちを見るなり、あわてて懐に手を入れた。
――遅い。
少しもスピードを緩めることなく、ヨシュアは拳銃の引き金を引いた。狙いは、男が取り出したばかりの小さな拳銃。固い音が響き、銃はどこかへ跳ね飛ばされた。男は、思わず手のひらを押さえた。ヨシュアに対してこんな隙を見せた時点でもはや手遅れだ。
身をひねりながら放った跳び蹴りは、一寸違わず男のみぞおちに食い込んだ。白目を向いて倒れる男。それを踏みつけながらヨシュアはホテルの外へと飛び出し……
がつんっ。
鈍い音。頭がくらくらする。どうやら、前から来た誰かと正面衝突してしまったらしい。ふらつきながらヨシュアは前を確認した。彼と同じように頭を押さえてうずくまっているのは……黒髪で、水着の上から上着を羽織っただけという姿の女性……
「リンファ?」
「あ……ヨシュア! 無事だった……」
リンファが言いかけた、その時だった。ヨシュアの後をついてきたジーナが、リンファの目に留まったのは。
「ワームウッドさん! 大丈夫ですかぁ!?」
ぴくぴくっ。リンファの眉が揺れた。固く握った拳を震わせ、ドスの利いた声で問いかける。
「誰……? その女……?」
その迫力たるや、あのヨシュアが思わず後ずさったほどである。こんな鬼気迫る表情のリンファは久しぶりに見る……なんて、冷静に分析している場合ではなさそうである。色々と誤解を招いてしまったようだし……
……と。
ガキュキュキュキュキュンッ!!
空中のヘリが放ったガトリングガンの弾丸が、ついさっきまでリンファのいた辺りの地面を削り取る! もしヨシュアが彼女を押し倒すのが一瞬遅ければ、間違いなく周囲は鮮血で染められていただろう。
――切れてやがる! ヨシュアは内心舌打ちをした。やることに見境がない。白昼堂々、戦闘ヘリを導入しての襲撃。高級ホテル内に戦闘員を送り込むことも無茶だが、周囲の人間を巻き込むことも全く厭わないのも、大概は大問題である。
ヨシュアは自分に押し倒されて、頬を赤らめているリンファに目を遣った。なんだかついさっきも同じ事を誰かにしたような気がするが、この際それはよしとしよう。
「話は後だ。逃げるぞ!」
「了解ッ……」
二人が立ち上がるのとほぼ同時だった。ホテルの前の道に、一台の真っ赤なオープンカーが現れたのは。
運転席の窓が開く。中から顔を出したのはよく見知った顔だった。
「みんな!」
オープンカーのハンドルを握ったまま、エリィは腹の底から声を張り上げた。その額には汗が浮かんでいる。しかも口振りからすると、真面目な方のエリィのようである。
「乗って! 早く!」
行楽に来ていた、とある企業のボンボン息子。自分の車がなくなったことに気付いて彼が悲鳴を上げるのは、それから数十分後のことだった。
ガキュウンッ!
ガトリングガンの弾丸が、またしても道路を削り取る。エリィが蛇行運転していなければ、ああなっていたのはオープンカーだっただろう。それにしても、ヘリは執拗に追ってくる。いくらなんでもこれではいつか撃ち抜かれてしまう。
助手席に座っていたヨシュアは、振り向きざまに銃弾を放った。しかし……この揺れの中では、当たる方が奇跡というものだ。弾丸はヘリをかすめることすらなく飛び去っていった。
「へたくそっ! 貸して!」
トランク・スペースに体を押し込んでいたリンファが、もぎ取るように彼の拳銃を取り上げる。そのまま体を反転させ、両手で握った銃を頭上のヘリに向けてしっかりと構えた。その間にも、二、三度ガトリングガンが車をかすめていく。
パゥンッ!
貧弱な銃声が響き渡った。そして次の瞬間!
がごんっ!
ヘリの回転翼が、いきなり本体からもぎ取られた! 揚力を失ったヘリは、もちろん墜落し、何度か地面を転がって動かなくなる。一方の翼は、近くに立っていた木を巻き込んで、盛大な砂埃を巻き上げた。
リンファの銃弾が、撃ち抜いたのだ。回転翼の接続部分を。
「どう?」
呆気にとられた表情のヨシュアに、リンファは言った。得意げな顔が、今は憎たらしくもありがたくもあった。
「銃はこうやって撃つのよ」
「今日は休業……なんだ、ジーナかい」
ダウンタウンの一番端に、小さな古いバーがある。もう日も落ちたというのに、ドアには「CLOSED」の看板がかかっている。ジーナはそのドアを迷わず押し開けた。そして中でカウンター席についていた男の第一声が、これである。
「後ろのお客さん方は?」
「あたしのぉ、護衛をしてくれる人たちですぅ」
後ろの、というのは言うまでもなくリンファ達のことである。リンファとエリィは、いつまでも水着のままでいるわけにもいかず、その辺りのブティックで適当に見繕った服を身に纏っている。
男は多少いぶかしがりながらも、カウンターに手を突いて立ち上がった。
「何か、飲むかい?」
「よろしくぅ、マスター」
ジーナがテーブル席につくと、リンファとエリィはその正面に腰掛けた。ひねくれ者のヨシュアは、一人カウンターへ向かう。そしてバーのマスターに注文を付けた。
「スコッチだ」
「あたしも、それ」
「えりぃはキュラソーがいいにゃぁ〜」
マスターは苦笑すると、それぞれの注文の品を探して、棚をかちゃかちゃとやりはじめた。その様子を眺めながら、ヨシュアが独り言のように呟く。
「……あんた、何者だ?」
マスターのこと……ではない。もちろんそれは、ジーナにかけられた問いである。
「ただの民間人相手に、あそこまで手の込んだ襲撃はしないぜ。普通はな」
「うーんと……多分あれは、いつもあたしの邪魔をしてる人とは別口ですぅ」
マスターはまずヨシュアの前にスコッチ・ウィスキーのグラスを置くと、トレイに載せた残りの分をテーブルまで運んでいった。柑橘類の甘酸っぱい香りが広がる。エリィが必死に手を伸ばすので、彼は最初にエリィのキュラソーを差し出した。
「別口?」
リンファも、依頼の内容は聞いている。ジーナの仕事の邪魔をする奴ではないということは、一体……?
問いに答えたのはジーナではなく店のマスターだった。
「やばいことになってるぜ。まあ、いつもの事だがな。
アルクの絡みだ。ここにも襲って来やがった」
リンファの前にスコッチを、そしてジーナの前にオレンジジュースを置く。事も無げに言い放ったその背に、ヨシュアの低い声がかかる。
「……あんたも?」
「ああ。追い返してやったがな。ま、その時に酒の瓶をほとんど割られちまって、今日は休業ってわけさ。
……つくづく、よく恨みを買う奴だよ、アルクは」
「ちょっと待ってよ」
口を挟んだのはリンファだった。眉をゆがめ、不審を顔一杯に浮かべている。
「恨みったって、ちょっとやそっとのものじゃないわよ?
一体何なの、そのアルクって奴は」
「それは……」
「あーっ!!」
いきなりジーナが立ち上がり、マスターの口を塞いだ。顔を真っ赤にして、額から冷や汗を吹き出している。大した慌てぶりである。
マスターはゆっくりと、その手を引き剥がした。微笑み、静かにジーナを諭す。
「黙ってても、いつかはわかることだぜ?」
「う……」
泣きそうになりながらも、ジーナは口を閉じた。マスターはそのままカウンターの内側に入り、彼専用の小さなパイプ椅子に腰を下ろした。棚から適当に酒瓶を取り出し、それをなみなみとグラスに注ぐ。
「あんたたち、レイヴンだろ。だったら名前くらいは知ってるはずだ。
ロレンス・ド・アルク――『弧雷のロレンス』。ジーナの兄貴さ」
闇。
コートデパールは根っからの観光都市である。それは何も昼間の海や太陽に限ったことではない。擬似太陽は少しずつ赤く染まっていき、やがて夜が訪れる。そう、闇に包まれた夜の街は、シックな大人の空間なのだ。もの悲しいピアノ曲が似合う酒場もあれば、弾けるようなリズムが聞こえてくるジャズ・バーもある。非公式だが、地下のカジノに足を運ぶ者も少なくない。
ただ、彼らはそんな夜の遊びに興じる連中とは、明らかに気色が違っていた。足音を潜め、素早くある建物に近づいていく。バーのようだが、ドアには「CLOSED」の札がぶら下がっている。そいつらは、手に何かを持っているようだった。黒い、大きな、何かを。
一人が手で合図する。もう一人が、頷いて応える。その手がドアノブに伸びて……
ガチャッ。
ドアは、内側から開いた。
「今晩は、皆々様」
「なッ……!」
ガシャンッ!
有無を言わせず、リンファは手に持っていた酒瓶を覆面の男に叩き付けた。頭を殴打され、男は一撃で昏倒する。そして呆気にとられているもう一人の男の腕をつかみ、リンファは一気に力を込めた。男の体が軽々と宙に舞い、床に叩き付けられる。打ち所が悪かったのか、男はそれだけで沈黙した。
甘いのだ。足音を殺しているつもりだろうが、外の不穏な気配は店の中まで伝わってくる。逆にリンファはドアの前で待ち伏せ、襲撃者に奇襲を仕掛けたのである。
「ヨシュア、裏は?」
「5人だ。表から車に乗った方が早い」
バーの裏口から様子をうかがっていたヨシュアが、リンファの元に駆け寄った。その後ろにエリィ、ジーナ、そして店のマスターも続く。足音を忍ばせながら、順番に店の外へ駆けだしていく……いや、一人だけ。マスターだけが、店を出ようとはしなかった。
「何をしている」
マスターは首を横に振った。ヨシュアの顔が少しだけ歪む。彼の瞳に浮かぶ、決意の色を感じ取ったのだ。
「俺は、ここに残るよ。これ以上店を荒らされたくない」
ほんの少しの間、沈黙が流れた。ヨシュアの目が冷たく輝く。マスターは耐えかねて瞳を閉じる。言葉は無意味だ。ヨシュアが何を言おうと、彼の決意は決して揺るがない。それは、間違いのないことだった。
他の三人は既にオープン・カーに乗り込んでいた。リンファが手招きをする。早く来い。そう言っているのだ。ヨシュアはマスターを放って走り出した。そのまま車体に手を突き、宙を舞って車に飛び込む。
「あのぉ、マスターはぁ?」
「別ルートで逃げるとさ」
嘘である。だが今は、嘘の一つもつかなければ誰も納得しないだろう。それはリンファもエリィもジーナも、そしてヨシュア自身も。問いつめられれば、本当のことを話さないという自信はなかった。しかし幸運にも――或いは故意にかもしれないが――深く追求しようとする者はいなかった。
ヴォウンッ!
爆音を立てて、オープン・カーのエンジンがかかる。全く、所有者の馬鹿さ加減には呆れて言葉も出ない。どうして、無音の電気自動車をわざわざ轟音が出るように改造しなければならないのだ。形だけでも格好良く見せて女を引っかけたいのだろうが……これで騙されるような馬鹿な女など、ヨシュアはまっぴら御免である。
聞こえてくる足音。連中も、このエンジン音には気付いたらしい。裏口に回っていた5人が、細い路地を通り抜けて現れる。三流どもめ。リンファは車のハンドルを握って、心の中で罵った。ついてこれるものなら、ついてきてみろ。
リンファは、アクセルを思いっきり踏みつけた。
「弧雷のロレンス――だと……」
マスターの言葉を聞いて、ヨシュアは目を見開いた。驚愕? いや、違う。そんな生やさしいものではない。畏れ。それこそが、彼の中にある感情だった。
リンファも同じように息を飲んでいた。いくら業界に疎い業界人たるリンファでも、この名を知らないということはなかったようである。
弧雷のロレンス。現役最強の名を欲しいままにしているレイヴンである。
マスターアリーナ、と呼ばれるものがある。レイヴン達が鎬を削る「闘技場」、バトルアリーナの中でも、名実共に最強クラスのレイヴンのみが参戦を許されるトップランクのアリーナ。それがマスターアリーナである。かく言うリンファやヨシュアもこのマスターアリーナに所属しているのだが……そこには、一つの伝説があった。
漆黒の鬼を思わせるACを駆る男。勝つたびにポイントが加算され、その大小によって順位が決められるマスターアリーナにおいて、その男は今だ無敗。他に大差を付けて文句無しの一位に居座っている。その強さは圧倒的。雷光のように現れ、瞬き一つする間には勝負がついているという。……マスターアリーナ所属のレイヴンを相手にして、である。
彼の強さを稲妻に喩え、ある者がこう呼んだ。ロレンス・ド・アルク。弧雷のロレンス、と。
かつてオルレアンの街を救った聖女ジャンヌと同じ二つ名。誰もその名を疑うことはなかった。天から堕ちる弧状の雷光。一目見ただけで、人々の目にはその姿が焼き付けられるという。
「信じてない……って顔じゃないな、それは」
店のマスターはリンファの表情をまじまじと見つめた。ようやく彼女も落ち着きを取り戻した頃である。
「嘘にしちゃ、現実味がなさすぎる」
「……違いねぇ」
しかしそれなら、納得もいく。最強、という名がどれほど重い物か。名声を求める馬鹿ども。単に腕試しをしたいだけの馬鹿ども。そして、そこから生じる逆恨み。狙われる理由は、それこそ掃いて捨てるほどある。肉親や、ただの知り合いにとっても。
ぴくり。ヨシュアの耳が動いた。かすかな気配が、店を取り囲んでいた。
「げっ!」
汚らしい叫び声をあげながら、リンファはハンドルを切った。オープンカーの進路を阻むように空からふってくる巨大な機械……一見すると巨人。だがその正体は、戦闘用の二足歩行MTである。
いつかは来るだろうとは思っていたが、ついに来たか。そもそも、戦闘ヘリなんて物騒な物を持ち出した時点で、MTが襲ってくることは予想済みである。しかし……ACさえあればそれほど恐ろしい相手ではないが、今こちらにある武器は拳銃一丁だけである。
トチュチュチュチュンッ!
妙に軽い音を立てて、MTの機銃が舗装を削り取った。リンファの無茶苦茶な操縦によって蛇行する車には、ただ一つの弾丸も当たらない。そのまま車はMTの横をくぐり抜け、一目散に逃げ出した。
「せめてACがあれば……」
「あるよぉ」
ヨシュアの独り言にとろけた口調で応えるのは、もちろんエリィである。意外な答えにヨシュアは硬直する。ACがあるって……まさかとは思うが……
「あのね、くるときのひこうきにのせてたの〜。
いまくうこうにあるよ〜、ぺんゆうもわーむうっども〜」
『そういうことは早く言えッ!!』
ものの見事に、リンファとヨシュアの台詞がかち合った。叫ぶ間にもリンファの手は行動を起こしている。ハンドルを左に思い切りきると、車はドリフトしながら十字路を曲がった。空港への最短コース。全力で飛ばせば、ものの十分もかからない距離である。
「あああああっ! ヨシュアさんリンファさんっ!
MTが追いかけてきますぅ!」
「しつこい男はモテないぞっ!」
ガキュキュンッ!
またもや弾丸が地面に穴を穿つ。もちろんリンファの操縦をもってすれば回避など容易い……が、さっきより多少狙いが正確になっているようである。敵も馬鹿ではない。こちらの動きに、少しずつ慣れてきたのだ。いくら回避技術が優れていようとも、攻撃してこない相手ならそのうちパターンが読めてくる。普段は、そうなる前に撃墜されるだけの話である。
「逃げ切れるか?」
「ンなこと聞くなッ!」
それはそうだ。そんなこと、逃げている側にわかるはずがない。我ながら馬鹿な問いをしたものだと、ヨシュアは少し反省した。
そして、三度銃弾が飛来する。今度は本当に目と鼻の先に着弾する。これはいよいよまずい。こうなったら、駄目で元々だ。ヨシュアは慎重に拳銃を構えた。相手は人間型の2足MT。装甲もそれなりに厚そうである。しかし関節部分に上手く銃弾が命中すれば、足を止めることくらいはできるかもしれない。たとえそれが針の穴を通すような作業だとしても、試す価値はある。
ヨシュアは、引き金を引いた。
ガゴンッ!
途端に足を失い、崩れ落ちるMT。
「……本当に当たりやがった……」
「やればできるじゃない」
一番驚いているのは、撃ったヨシュア当人である。
「見えたっ!」
思わずリンファの口から叫び声が漏れる。エリィの案内によると、リンファ達のACが保管されているのは滑走路の向こうに見える倉庫らしい。迷わず車は公道を離れ、広い滑走路に入り込んだ。そのまま真っ直ぐ進めば目的の倉庫だが……
ゴガウンッ!
夜の地下都市に響き渡る轟音! 爆風が車の動きを止める。衝撃でリンファは頭をしたたかに打ち付けた。額をさする……流血もなさそうだし、怪我の方は大したことはない。
しかし、今の爆発は。リンファは目を凝らした。舗装がはがれた滑走路の向こう側に、いくつもの影がある。やがてそれらははっきりとした形を取った。MTである。思い思いの武装をした戦闘用MTが……10機ほど。行く手を阻むように陣取っている!
「なんて戦力だ……戦争じゃねぇんだぞ!?」
「どういう恨みの買い方してんのよ、あんたの兄貴は!?」
「あうぅ〜! ごめんなさいぃ〜!」
ジーナを責めても始まらない。とにかく敵をまかないことにはACに乗り込むことができない。リンファはアクセルを踏みつけた。空気が抜けるような、間抜けな音が響く。もう一度。結果は同じ。リンファは舌打ちをした。なんてことだ、車が爆発の衝撃で駄目になってしまった。
『どうやらこれで終わりだな、ロレンスの妹さんよ』
声はMTの中の一機が発した物である。外部スピーカーをガンガンに効かせながら、MTは少しずつ近づいてくる。
『俺たちゃロレンスに恨みがあるんだ……みんな、仲間だの部下だのをロレンスに殺された奴ばっかりさ。
もちろん、ロレンスの野郎をぶち殺してやりてぇ。でも俺達ごときがかなうわけがねぇ。だから、お前を殺す。これが俺達の復讐だッ!』
たわけたことを。そんなもの、ただの八つ当たりに過ぎない。まあ、その違いが解らないからこその二流三流なのだろうが。
『恨むなよ。恨むんだったらロレンスの妹に生まれてきた自分を……』
――瞬間!
ずぶっ。
MTのボディは、上から降ってきた何かによって、真っ二つに切り裂かれていた。爆発が起きない。ジェネレーターが無傷で残っている証拠である。
「兄様!」
「何ッ!?」
全員が目を見張った。
そこには、巨大な黒い巨人が立ちつくしていた。細身の全身像。砲身の長いライフル。背中に背負った特殊なミサイル。それは、一種異様な雰囲気を全身から放っていた。漆黒の鬼。噂に聞いたとおりの姿である。弧雷のロレンスが駆るAC……『アビス』。
アビスが奔る。今だ戸惑っているMTに向かって。攻撃する暇すら与えない。ブレードの一撃で、MTのボディは両断される。
「りんふぁちゃ〜ん、いまのうち〜」
エリィの言葉に、リンファは頷いた。
[戦闘モード起動]
無機質なコンピューター・ヴォイスが響く。シートの具合を確かめながら、リンファは二つ三つのボタンを押した。愛機『ペンユウ』のコックピットの中。まさか、バカンスに来た先で乗ることになるとは思いもよらなかったが。
ようやく計器類が稼働し始めた。外部モニター、通信機、そしてレーダー……
「!?」
リンファは息を飲んだ。レーダーには、赤い光点で反応が記されている。
たった、一つだけ。
慌ててリンファは操縦桿を倒した。ペンユウが保管されていた倉庫から、ゆっくりと歩み出る。外の風景が目に飛び込んできた。
無数の残骸。まず目に付いたのはそれだった。累々と横たわる、無惨な姿のMT。あるものは真っ二つに切り裂かれ、またあるものは胴に風穴を開けられ……動いているものなど、いようはずもない。
その中心に、一匹の鬼が佇んでいた。こちらに背中を向けていた鬼が、ゆっくりと振り返る。ぞくりっ。リンファは、冷たいものが背筋を駆け抜けていくのを感じた。恐怖と呼ぶべきか、或いは畏怖と呼ぶべきか……ともかく漆黒のACは、奇妙な重力にも似た威圧感を放っていた。
目を離すことが……できない……
やがて、レーダーの光点は二つに増えた。ヨシュアの駆る『ワームウッド』が、さっきの倉庫から姿を現す。そしてペンユウの隣に列んだ。
「手伝う暇も無かったみたいね」
通信を開いてリンファは語りかけた。無視されるかとも思ったが、意外にも返事が返ってくる。
『……君たちは、ジーナに雇われたんだろう? 真紅の華……そしてワームウッド』
男性としてはやや高めの、澄んだ声である。イメージとはギャップがあるが、それでもこの威圧感は消えない。むしろ逆に恐ろしいほどである。ロレンスの声は、あたかも死者を弔う葬送曲のように聞こえた。
「ヨシュアさんっ! リンファさんっ!」
ジーナが叫ぶ。いつの間にか、彼女とエリィはペンユウの足下までやってきていた。いや、やってきた、と言うには語弊があるようだ。エリィは必死に、ジーナをペンユウから引き離そうとしている。それもそのはず……もし戦闘が始まったら、あんな位置に居ては踏みつぶされかねない。
「やっつけて! あの人を……兄様をやっつけて下さいっ!」
「はぁ?」
意外な言葉に、リンファの顔が歪む。やっつけろ、って言ったって……。リンファは前のアビスと、足下のジーナを交互に見つめた。どちらも動かない。ただ、ジーナの瞳は冗談を言っているような色ではなかった。
『ジーナ! もう、レイヴンになろうだなんていう馬鹿な考えは捨てるんだ!』
……………レイヴン?
一同の目が点になった。
「嫌ですぅ! ジーナは、絶対レイヴンになりますぅ! 兄様みたいな強いレイヴンになるんですぅ!」
『ジーナがレイヴンになったりしたら、お兄ちゃんは心配で夜も眠れないじゃないか!』
「それならお昼寝すればいいんですわぁ! なんて言われたってジーナは諦めないです!」
『どうしてお兄ちゃんの言うことが聞けないんだ! 毎日一緒にお風呂に入っていたあの頃のジーナはどこへ行ったんだ!?』
「ジーナは、もうハイスクールの頃のジーナとは違うんですぅ!!」
延々と続く二人の口論を、リンファは痙攣しながら聞いていた。だいだい……ハイスクール? それは問題があるんじゃないのか……。しかし、今更何を言ったって二人の世界である。不毛な戦いを止める手段は、リンファにはない。
『……馬鹿馬鹿しい……つき合ってられるか』
ヨシュアの声が電波を介して伝わってくる。同時にワームウッドが180度向きを変えた。どうやら、元の倉庫にACを戻すつもりらしい。気持ちは、わからないでもない。実際リンファも、彼の後に続こうと操縦桿を軽く倒した。
と、口論が止んだ。ジーナが慌てた様子でワームウッドの前に立ちはだかる。両腕を大きく広げ、行く手を遮っているつもりなのだろうが……
「ヨシュアさん! お願いします、兄様を……!」
『いい加減にしろッ!』
びくりっ。ジーナの体が小さく震えた。それほどの大音声。外部スピーカー越しにとはいえ、如何に大声で叫んでいるか。リンファですら、一瞬驚いてしまったほどだ。
『レイヴンになりたいんだろう。だったら何故俺達に頼る? 自分の力で肉親一人説得できないような奴が、戦場に出たところで真っ先に死ぬのが精々だ!』
ジーナは何も応えなかった。何も応えられなかった。その肩が震えている。遠目にもはっきりと判った。彼女が、涙を必死で堪えているのが。リンファはため息を付いた。どうやら、今回の任務は失敗のようである。
『貴様ッ……!』
『あ?』
突然、ロレンスの口調が変わった。声の高さは相変わらずだが、そこに込められた感情は全く違う。怒り。恐ろしいまでの怒りが、空気の震えという形を取って撒き散らされた。
『よくも……よくもジーナを泣かせたなッ!!』
まて、こら。
リンファは思わず、頭をコントロールパネルにぶつけた。そのまま肩をひくひくと震わる……もうここまで来たら、笑う以外にどうしろというのだ。
『許さんッ!』
『お……おいっ! ちょっと待……』
有無を言わせずアビスが走る……速い! さすがは軽量二足タイプ、といったところか。直線上を真っ直ぐ走るだけなら、ヨシュアのワームウッドを越えているかもしれない。もっとも、総合的な機動性ではワームウッドに分があるのだが。
アビスの肩に装着されたミサイルが火を噴いた。同時に二発、左右から挟み込むようにワームウッドに迫る!
――まずい! これは笑い事ではなさそうだ。ただ単に回避するだけなら、ヨシュアの実力をもってすれば容易いことだ。しかし今、ワームウッドの足下にはジーナとエリィがいる!
『畜生、トチ狂いやがって! 自分の妹を殺す気かッ!』
やはりワームウッドは動かない。ガトリングガンの掃射一発は撃ち落としたが、もう一方は……
ガガガガガッ!
視界の外から飛来した無数の弾丸が、ミサイルの片方を撃ち落とした。これは……ペンユウの装備したマシンガン!
「ロレンス! あんたどうかしてるわ!」
『……なるほど……確かに、そうかも知れない』
戻った。ロレンスの声は、元の冷たく恐ろしい、しかし理性に溢れたものへと戻っていた。どうやらさっきは、怒りのあまり一瞬我を忘れてしまっただけらしい。もっとも、理性を失う理由が「妹を泣かせた」というだけのことであるのは問題だが。
『ジーナ。しばらく離れていなさい』
ジーナは顔を上げた。頬を伝っていた涙を手のひらでぬぐい去る。
『レイヴンというものがどういう仕事なのか、教えてやろう』
ゴウッ!
アビスの背後から、灼熱の炎がほとばしる。ブースターの出力そのものはペンユウより劣るが、機体が軽量な分だけ負荷が小さく済む。ACとしては、理想的なコンディションである。
真っ直ぐペンユウに迫ってくるコース。ジーナが離れるまでは、ワームウッドには手を出さないということか。
――ええい、このシスコンめ!
心の中で悪態をつきながら、リンファは操縦桿を思いっきりなぎ倒した。ブースターの力で地面を滑り、アビスの側面に回り込む。奴の装備しているレーザーライフルは、威力が高い代わりに極端に扱いづらいものだ。大きすぎる出力が災いして、発射するたび銃身を冷却しなければならないし、たとえ冷却を続けたとしても10発も撃てばオーバーヒートを起こしてしまう。
ならば、狙いはそこだ。回避に専念して、長期戦にもつれ込ませる。
ロレンスの方も、自分の機体の弱点は心得ているらしい。ライフルを撃とうとはせず、肩のミサイルを発射する。例の左右から挟み込むデュアルミサイルだが……たった二発のミサイルなど、リンファにとっては子供だましにも等しい!
「相手をなめてかかりすぎよ、ミスター・チャンプ!」
ガガッ!
たったの二発だけ、リンファはマシンガンの弾丸をばらまいた。二発で十分。ミサイルそれぞれに一発ずつ徹甲弾が食い込み、中空で爆発を引き起こす。弾の無駄遣いは御免である。
しかし、次の瞬間!
『そうかな? 丁度良い位だと思ったが』
「……ッ!?」
ミサイルに気を取られている隙に、アビスはペンユウの懐に飛び込んでいた。想像以上に素早い。近づかれたことに、全く気付かないとは。
そして、アビスの左腕が輝く。
リンファは慌ててスイッチを押した。ペンユウの腕からも光の刃が生み出される。二つの光は、互いに交わり、騒音と光と衝撃を撒き散らして弾け飛んだ。ペンユウの足が地面を蹴る。衝撃を逆に利用して、アビスとの間合いを離した。
『成程、いい動きだな。斬り結びばかりに凝り固まる連中はよく見るが、なかなかそこまでは動けない』
「訂正よ。ミスター・テューター!」
ペンユウのマシンガンから、小さな弾丸が弾け飛ぶ。セオリーに則った、左から右への掃射。アビスが宙へ舞い上がる。弾丸がその足下を過ぎ去るのと同時に、ライフルの銃口がペンユウをとらえた。
ガクンッ!
突如空中で方向を変え、アビスの巨体が地面へ落ちる。その頭上をかすめるプラズマの砲弾。これは、ワームウッドの肩に装備されたレーザーキャノンである。
『お姫様は蚊帳の外だ!』
ワームウッドが地を滑りながらガトリングガンを乱射する。しかし、奇襲でもなければ当たりもしない。軽い弧を描きながら飛んでいった弾丸は、空港のビーコン塔らしきものを砕くにとどまった。
『……やっちまった』
「器物破損、1ペナね」
二発のミサイル。アビスの肩からそれが飛び出す。狙いはペンユウ。大地を蹴り、ブースターの助けを借りて飛び上がる。ミサイルが滑走路のコンクリートに穴を穿った。リンファの指が踊る。黒い鬼をサイトにとらえ、ロックしていく。
……と、ロックが二つになったところで、アビスが横へ飛び退いた。このままでは、フルロックの前にサイトからはずれる!
ガガガッ!
ガトリングガンの弾丸がアビスの行く手を阻む。ロックは……乱されていない。さすがはヨシュア、完璧なフォローである。よくミサイルを複数ロックオンしていることに気付いたものだ。
『それが貯まると何かあるのか?』
「請求書って素敵なプレゼントよ!」
トリガーを引く! 肩のミサイルポッドから垂直に打ち上げられる四発のミサイル。ヒュルヒュルと音を立て、まるで蜘蛛の糸のように黒鬼を絡め取る!
慌てるそぶりも見せず、アビスは真後ろへ飛んだ。そして再び足が地面につくなり、今度は直角に向きを変え、左へ逃げる。ミサイルはその軌道を追うようにして大地を抉った。ただの一発も当たりはしない。
『Excellente』
ロレンスの声は、だんだんと上擦ってきていた。興奮しているのだ。久しく無かった、戦いの緊張感に。忘れかけていたこの素敵な感覚を思い出させてくれる……体がむずむずする。そうだ、自分は失礼なことをしているのだ。とても、とても。
『素晴らしい攻撃だ。随分と息が合っているな』
『なんだかんだ言って、付き合いが長いからなァ』
「腐れ縁だけどね」
大地に降り立ったペンユウは、ワームウッドと少し距離を置いて並んだ。黒鬼は動かない。じっと、こちらを見つめている。ふつふつとわき上がる、何かの感情が伝わってきた。いや、見えると言った方がいいかもしれない。まるで大気の質が変わったかのように、アビスの周囲には陽炎が立ち上っていた。
『すまなかった、真紅の華。やはり私は、君達を甘く見ていたようだ』
ぞくり。突然の悪寒がリンファの背を襲った。何だ、この感覚は。こんなに距離が離れているのに、相手は武器を構えてすらいないのに、まるで喉元に牙を突きつけられたようではないか。そう、あと一押しすれば喉笛をかっ斬られる。そんな張りつめた空気だ。自然と冷や汗が玉を作った。
『戦おう。全力を以て』
―― ――
「消えたっ!?」
ない! つい今まで、目の前でしっかりと存在していたアビスの姿が、今や何処にもない! ほんの一瞬、瞬きよりも短い一瞬のうちに、黒鬼は何処かへと消え失せていた!
『後ろだ、リンファ!』
早かったのは、叫びか腕か。ペンユウは横へ飛んだ。後ろを確認する暇など、有ろうはずもない。光が装甲板をかすめて過ぎる。背後からの、いつのまにか背後に回り込んだアビスからの射撃である!
「こンの野郎ッ!」
ペンユウが振り向こうとした、次の瞬間。
ヴァシュッ!!
ペンユウの右腕は、間接部を貫いたレーザーによって斬り落とされていた。
正面に回り込んだ、アビスのレーザーライフルである。
なんてことだ。ヨシュアは爪を噛んだ。彼の癖だ。しかし、普段は滅多に見せることのない癖。
一瞬だった。一瞬で、ペンユウは右腕ごとマシンガンをもぎ取られた。まだミサイルが残っているとはいえ、あんな機体で活動するのは自殺行為に近い。重量や電力供給のバランスが崩れるのがどれほど危険なことか。知らないレイヴンはいないだろう。
案の定、バランスを失ってペンユウの巨体が倒れ込む。ガラガラと、不快な音が響き渡った。
そして、アビスが振り向く。ワームウッドの方に。ゆっくりと、緩慢な動きで。汗が噴き出す。なんてことだ。ヨシュアはもう一度思った。圧倒的じゃないか。これが、これが全力を出した弧雷だというのか。
『知っているか。兵は神速を尊ぶ、という』
落ち着き払ったロレンスの声が聞こえてくる。冷静になっている。さっきまで、あんなに興奮していたというのに。これが最強の風格か……ただ自分の感情に流されるのではない。必要なときには、機械のような冷酷さを一瞬で取り戻すことができる。
『雷は、閃光と共に現れ、閃光と共に消える。それは私と同じ。
それ故、わたしはこう呼ばれている。弧雷、と』
「知ってるよッ!」
ヨシュアはトリガーを引いた。ガトリングガンの弾丸が研ぎ澄まされた槍のごとくアビスに迫る。普通なら、横に飛んで逃げるべき状況である。
―― ――
まただ! アビスの姿が掻き消えた。弾丸が空しく虚空を割いていく。だが、奴が現れるのはおそらく――ヨシュアは真後ろの光景をモニターに映した。そこに、突如姿を現す黒鬼。
――そういうことか!
アビスがライフルを構えている。ワームウッドは迷うことなく真上に飛んだ。光の矢が足下を通り過ぎていくのがわかる。
『……気付いたか』
「俺は、リンファよりは目がいいんでね!」
アビスは、何もワープだの何だのという漫画じみた技を使っていたわけではない。ただ単純に、こちらの頭上を飛び越えて後ろに回っていただけなのである。
しかし、その飛び越え方が尋常ではない。機体の向きは変えずに上昇し、相手の頭上を飛び越えたらブースターをカットして自然落下する、というのが普通である。それをアビスは、上昇と下降の両方にブースターをフル活用していたのだ。
つまり、こちらを正面にとらえたまま、半円を描くように飛んだのだ。そのまま進めば、もちろん頭から着地するはめになる。だから着地の一瞬前に、機体を横に回転させて上下を反転させたのである。
そんな無茶な動きをした時の、パイロットにかかる慣性力がどれほどのものか。常人なら一回で失神してしまうだろう。
だから、ヨシュアは上空へ飛び上がったのだ。これなら上から回り込まれることはなくなる。
『ならば、共に舞うか! この澱んだ空を!』
ヴァンッ!
アビスがブースターを噴かして飛び上がる! ワームウッドを飛び越え、更に上空へと。
「空中戦かよ!」
真上から降ってくる二発のミサイル。ワームウッドの巨体がくるりと回転した。真上を正面にとらえ、ガトリングガンを掃射する。一つ。二つ。巻き起こる爆発。アビスはそれをかわすと、真上にブースターを噴かして一気に下降した。重力も手伝って、恐ろしいまでのスピードで迫ってくる。左腕の煌めき。レーザーブレード!
ワームウッドの貧弱なブースターが懸命に火を噴いた。光の刃を寸前でかわす。しかし、アビスの勢いは止まらない。必死に機体を回転させ、落下スピードは押さえ込んだが、既にワームウッドの下まで落ちてしまっていた。
「じっとしていろッ!!」
ガゴンッ!
ワームウッドが、アビスに上から組み付いた! そのままブースターを噴かす。上に向かって。二機は絡まりながら猛スピードで落下していく!
――おまけだっ!
ヨシュアはトリガーを引いた。ガトリングガンの弾丸が、ライフルごとアビスの右腕を吹き飛ばした! あとはこのまま落ちていけば……アビスのボディがクッションになって、運が良ければ生き残れるだろうよ!
「おおおおおおっ!!」
『ぬうううううっ!!』
アビスの声。驚愕。冷や汗。ヨシュアは目を見張った。
轟音と砂煙を巻き上げ、二機は墜落した。ヨシュア! リンファは心の中で叫んだ。最後の一瞬で、ワームウッドとアビスの上下が逆転した。ロレンスの巧みな機体操作によって。クッションにされたのは……ワームウッドの方だ。
『う……』
雑音が混じりながらも、通信が入った。ヨシュアのうめき。よかった、生きている。しかし次の瞬間、リンファは我が目を疑った。
砂煙が収まる。立ち上がる黒い影。右腕がない。漆黒の鬼。アビス。そしてその足下に転がる、青い蜘蛛。四本の足のうち、二本を失った……ワームウッド。
破れた。あの、ヨシュアが。
「く……」
リンファはいくつものレバーを必死に動かした。ペンユウに残された左腕を支えにして、なんとか立ち上がらせる。バランスが崩れているせいだ。機体がふらふらしてしかたがない。でも……でも、こうするしか!
「こンの野郎ォォォォォォ!!」
ペンユウが走る。アビスに向かって。
ヨシュアはまず自分の傷を確認した。幸いにも、頭をぶつけた程度で済んだようだ。もし最後の瞬間、上を取られたと気付いた瞬間にブースターで速度を殺していなければ、そして折れ飛んだ二本の足がアブソーバーになっていなければ、今自分は息をしていないかもしれなかった。
『こンの野郎ォォォォォォ!!』
これは!? ヨシュアの耳にリンファの叫びが届いた。モニターの機能はまだ生き残っている。映像が映る。走ってくる、ペンユウ。左腕からはレーザーブレードが伸びている。まさか。この状態で、アビスに攻撃するつもりか!!
「止めろ、リンファ!」
止まらない。このままでは……
ヨシュアは決意した。そして、指をトリガーにかけた。
ゴガァァアァアッ!
レーザーキャノンの弾丸が、足を吹き飛ばした。
ペンユウの、足を。
完全に支えを失い、再びペンユウは倒れ込んだ。
リンファは唇を噛んだ。わかっている。ヨシュアがどうして、自分に攻撃したのか。そんなことはわかっている。だから怒りなんて浮かんでは来ない。ただ自分の中にある感情、それは――
『もういい……やめろ……』
ヨシュアの声は優しかった。そして苦しそうだった。自分と一緒だ。ヨシュアも、きっと自分と同じ気持ちだ。それは嬉しくもあり、そして悲しくもあった。
『俺達の――負けだ』
ロレンスとジーナは、手を伸ばせば届くくらいの距離で向かい合った。互いに互いの瞳を見つめ合う。横で見ているリンファもヨシュアもエリィも、二人の心を推し量ることはできなかった。
ぱしっ。
小さな音。リンファは息を飲んだ。ジーナが自分の頬を押さえる。兄によって撲たれた頬を。
「痛いだろう。悔しいだろう」
ロレンスの声は、いつもの高く澄んだものに戻っていた。さっきまでの鬼のような低音は、ここからは一欠片も伺い知れなかった。
「負けるということは、その気持ちを味わうということだ。
勝つということは、その気持ちを誰かに与えるということだ。
それがわかっているのなら」
ロレンスは踵を返して歩き出した。彼の愛機、アビスに向かって。その背に浮かんでいるのは、罪悪か。
「好きにするといい」
「いらっしゃい……ああ、あんたか」
ダウンタウンにあるちっぽけなバーのマスターは、入り口の鐘をならした男に目を遣った。短い金髪と、華奢な体。まったく、妹とよく似ている。ロレンスその人だった。
「いつもの」
「あいよ」
冷蔵庫から瓶を引っ張り出してくると、中に入っていたオレンジ色の液体をグラスに注ぐ。酒ではない。ただのオレンジジュースである。兄妹そろって酒を飲まないのだから、マスターにとってみればなんとも儲けの少ない常連である。
「ジーナ、泣いてたぜ」
「……そうか」
ロレンスはグラスの中身を一気に飲み干した。ことんと小さな音がして、カウンターにグラスが触れる。マスターはその隣に、もう一つ空のグラスを置いた。顔を上げ、マスターの顔をのぞきこむ。
「たまには、どうだい? カンパリのいいのが入ってるぜ」
苦笑が漏れる。
「ああ……もらうよ」
今日も、太陽が照りつける。ホテルのロビーは今日もにぎわっている。
一週間の休暇も、今日で最後だ。帰る前に一泳ぎしようと、今日も今日とてリンファ達は水着に着替えていた。リンファと、エリィ。そして何故かジーナの姿もある。相変わらずのヨシュアは、ただの見送りである。
「リンファ姉さまぁ……あたし、姉さまがいないと寂しいですぅ」
「いつからあたしはあんたの姉になった……」
ジーナは、姉と呼んで慕うリンファの腕に、しっかりとしがみついていた。前から少し思っていたのだが……リンファは、男より女に好かれるタイプなのではないだろうか。
そのリンファが、部屋へ帰ろうとするヨシュアの背に声をかけた。
「ねえ、ほんとに泳がなくていいの? せっかくここまで来たってのに」
「そうだぉ〜! もったいないぞぉ〜!」
ヨシュアは振り返った。飛行機の中で機械を指さしたのと同じように、リンファの鼻先に人差し指をつきつける。そして、忌々しげに吐き捨てた。
「赤くなるんだよ。日焼けすると」
THE END.