ARMORED CORE 2 EXCESS

 System Gabriela's file NO.334.
 E.Y.209,Sep 29,A.M.7:13.
 We haven't found Yulian yet. Investigation team concluded that she has left this laboratory lot, and expanded the scope of the search. If she died, there must be her or Pengyou's body. We cannot find that, so she does be alive. I hope.
 On the other hand, we began to question the prisoner. Their purpose, their client, and so on.... Too much to ask.
 
 かつん。
 白く美しい廊下に、固い靴音が響きわたった。塵の一つも落ちていない床の上を、白衣に身を包んだ影が颯爽と通り抜けていく。革靴の底が床と触れ合い、靴音が心地よいリズムを刻んでいく。完璧なリズムだった。かつんかつんという響きは、一分の狂いもなく正確に――まるで時計の針のように、静寂という名のドアをノックしていく。
 音の主は、自分の奏でた美しい音楽に聴き惚れた。靴音。息づかい。中に着たスーツと上に羽織った白衣が擦れ合って立てる微かな音。それらは完全に調和し、完璧にリフレインし、至上の交響曲を創り出す。彼にしか理解できない曲。彼にしか聞こえない音だけで創られた、彼のための曲である。
 ふと、彼の意識が途切れた。目の前の曲がり角から、彼と同じように白衣を着た男が姿を現した。せっかく積み上げた秩序ががらがらと音を立てて崩れ去ってしまう。彼の目は一瞬にして、無粋な邪魔者の胸に付いたプレートを捉えた。コバヤシコーポレーション第一兵装研究所、AC互換機開発部所属、テリー・M・フォズナー。
 彼の灰色の髪が揺れた。
「あの、すいません」
 怪しまれるより先に、彼は邪魔者に声をかけた。相手は象牙の塔に引き籠もっている不健康な研究者である。相手の嘘を見破るような技術は持ち合わせていないはずだった。それなら、出会った瞬間から演技を始めた方が遥かにいい。
「副社長がどちらにいらっしゃるか、ご存知ですか?」
 相手の男はきょとんとして目を瞬かせた。いきなりのことで面食らったのだろう。しかし一瞬の後には表情を曇らせ、まるで禁忌に触れるかのごとき口調で喉を震わせる。
「……拷問部屋だ。悪いことは言わない、しばらく近づかない方がいいよ」
「拷問?」
「昨日捕まった捕虜だよ……
 全く、若社長の趣味にはつき合いきれないね。想像しただけで反吐が出そうだ」
「そうですか……それでは、終わるまで待つことにしましょう」
 かつん。彼は適当に話を終えると、もう一度あの神経質な音を響かせた。単にその場しのぎのつもりで話しただけだったが、思いがけず有用な情報が手に入った。まだ拷問は終わっていない。捕虜はまだ粘っているということである。
 あらかじめ記憶しておいた地図によると、拷問に使われているとおぼしき部屋は……まさにこの邪魔者がやってきた方向である。彼は会釈をしながら邪魔者の横を通り過ぎた。そのまま――
「おい」
 ぴたり、と彼は歩みを止めた。何かへまを踏んだだろうか。それともこの邪魔者は予想外に切れ者だったのだろうか。振り返ることはせず、袖の奥に仕込んだ小さな刃物を準備する。いつでも腕を振るい、男の喉を掻き斬れるように。
「あんた今、副社長って言ったよな。ここの人じゃないのか?」
 なるほど、そういうことか。確かこの邪魔者は……そう、奴の事を「若社長」と呼んでいた。おそらくは部下の間での呼称だろう。彼はほっと胸を撫で下ろした。この程度のミスならば、どうにでも取り繕うことができる。なにせこっちはプロ、そして相手はずぶの素人なのだから。
「今日付で本社から転属になりました。NB開発部のハンス・キャメロンといいます」
「エ……NBッ……!?」
 邪魔者の額から玉の汗が吹き出した。それはそうだろう。これこそが禁忌の中の禁忌、ただの研究員ごときは決してのぞき見てはならない聖域である。NB開発部の人間はごく少数。しかも、一度入れば死以外に出口のない究極の職場なのだ。そんな連中と関わって、ろくな事があるはずがない。
「そ、そうかい……いや、引き留めて悪かった」
 決まり悪そうに目を伏せながら、邪魔者はそそくさと立ち去っていった。その姿は獅子から必死に逃げる馬のようだった。哀れで、小さくて、同情を誘う背中。彼は唇を吊り上げた。
 そしてまた、不思議な交響曲が響き渡る。
 
 絶叫が狭苦しい部屋の中に木霊する。闇に隠れてちかちかと小さな光を放つ機材。苦しそうな喘ぎ声。目を背ける立会人。再び、絶叫。ヴンヴンと唸る四角い箱。叫び声は途切れることがない。黒く太い、ゴルゴンの髪のようなコード。バチバチとおぞましい音を掻き鳴らしながら飛び散る電光、寝台、寝かされた男縛られた手足首筋に刺さったコード!
「アッグゥアアアアアアアアッ!! ひっ……ひぎぃいいぃぃああぁぁあぁっ!?」
 そこは地獄だった。拷問台に手足を固定された男がびくびくと痙攣する。脊椎に電流を流され、身がもげ落ちるほどの激痛が体を走る。男は狂ったように叫び続けた。それは呪詛だった。そして哀願であり嘆願であり罵声だった。最初はぎゃああであった悲鳴はやがてあああになりそしてしばらくするとそこから一切の感情が消え失せた。それは無気力の極致だった。もはや怒りも憎しみも、どこにもありはしなかった。ただひたすらに、今のこの痛みと苦しみと狂った時の流れから抜け出したいと願うだけ。彼の頭に残っているのはたった一つの言葉――もう、やめてくれ。
 ついに望ましい段階までたどり着いた。それを感じ取ったケンジは、電源装置のスイッチを切った。もはやこれは必要ない。あとは聞きたいことを聞くだけ――
 ようやく痛みから解放された男は、汗と涙と唾液で汚れた顔を恐怖でさらに歪めていた。金髪は振り乱され、腕はがたがたと震え、股間はじっとりと不快に濡れている。恐怖。地獄の責めを受けている間は決して感じることのない恐怖。それは終わった後でやってくる。もう二度とあんな目には遭いたくない。そういう思いが、恐怖を生み出すのだ。
「さあ、スモークくぅん」
 ケンジの目がすぅっと細くなった。その声は何処までも優しく、何処までも深く、そして何処までも恐ろしかった。保父が小さな子供に語りかけるときの声。彼の声はそれと同じものだった。どす黒いバリバリと裂けたクレパスのような声。
「話してごらんよ。一体君達の狙いはなんだったんだい? ねえ、簡単なことじゃないか。ちょっと知っていることを話すだけで、君は自由になれるんだよ。もうあんな思いはしなくて済むんだ、小便ちびるほどビビらなくてもいいんだよサァ言えそれとももう一回やってやろうかァッ!?」
「ひぃああぅやめろやめろやめろやめろもうやめてくれェエェッ!!
 話すなんだって話すから嫌だァもうあんなのいやだぁぁあッ!!」
 ふっと、ケンジは薄笑いを浮かべた。もはやこの男に精神というものは存在しない。閉じてしまったのだ。恐怖に耐えるため、恐怖を心に忍び込ませないために、自分の心を壁の中にしまいこんでしまったのだ。今の彼はただのハードディスクにすぎない。命令を受けて、その中身を出力するだけの存在なのである。
「よぉし」
 ケンジは服の乱れを整えた。ネクタイを締め直し、手櫛で髪を梳く。すこし、趣味に走って羽目を外しすぎたかもしれない。だって。ケンジは誰にともなく心の中で呟いた。自白剤じゃあつまらないじゃないか。悲鳴の一つもあげやしない!
「さあ、話してみな。お前らの目的はなんだ?」
「……お……きは……」
 息も絶え絶えになりながら、スモークは必死に言葉をひねり出した。「おれたちのもくてきは」という所まで話し、一瞬口を閉じる。こくんと唾を飲み込む音がした。もう一度口を開く。大きく。それは「A」を発音する時の口だった。
「……ナ――」
 ずぐんっ!!
 瞬間、スモークの頭が弾け飛んだ!
 
 任務完了。彼は左手に握った銃をまじまじと見つめた。普通の銃と変わらないように見える。しかしこの銃から飛び出した銃弾は、分厚い強化樹脂の壁を貫き、その中にいる捕虜の頭を一寸違わず撃ち抜いたのだ。並の銃でできる芸当ではなかった。
 捕虜の口は封じた。後はここから退散するだけである。あらかじめ決めておいた脱出経路を頭の中で反芻する。予想される警備。障害。全てを乗り越え、自由を手にするまでの緊迫感。それは彼の何よりも好きなものだった。
 ――さぁ、始めようか。

HOP 2 Divine Judgement

神の

 ぴっ。
 細い指がコントロール・パネルに触れる。小さな電子音を立てて、画面には代わる代わる様々な文字が表示されていく。ユイリェンは遅々として進まない起動作業にいらだちを隠せなかった。見た目も旧式なら中身も旧式。それでも、いきなりフリーズしたりしないだけましなのだろうか。
[Login to MT-System....Your access was accepted. Starting MT.]
 ヴンッ……
 コックピットの中が一気に明るくなった。駆動音が心地よく耳に響いてくる。ようやく起動が完了したようだった。その証拠に、通信機が雑音を放っている。どうやら起動電源が貧弱で、ジェネレーターが動かなければ通信もできないらしい。まあ、30年近くも前の機体なら仕方がないのかもしれない――丁度あの頃は大深度戦争末期で、とにかく廉価な製品を細々と生産していた時代なのだから。
『おっ、動いた?』
「ええ。ハーディの整備がいいおかげで、なんとか軽い戦闘くらいはできそうだわ」
 通信が通じるようになるやいなや、ウェインが声をかけてくる。彼は喋っていなければ死んでしまうのだろうか。崖下からトランプルの隠れ家まで行く途中でも、一方的に話し続けていたのだ。それも自分の生い立ちやらレイヴンになったいきさつやら、どうでもいいことばかりである。内容は半分も憶えていない。
 ピピッ。もう一度ビープが鳴り響く。通信に誰かが割り込んできたらしい。発信者の名前は……ハーディ。トランプルの専属メカニックである。ぼさぼさの白髪と、顔の半分を覆い隠す髭。作業用のゴーグルでいつも目を隠している。頑固一徹な職人気質の老人である。おそらく70近い歳なのだろうが、その割に筋肉質な肉体も相まって、年齢より若く見える。
『どうじゃい、ワシの愛蔵版MT『スピリット』は! ちょくちょく手入れはしといたから、空中分解なんてことにはならんと思うがのぅ』
「不吉なこと言わないで」
『それにしても懐かしいのぅ。戦時中は「歩く棺桶」なんて呼ばれておってな。小生意気な新兵どももこいつに乗るのだけは勘弁してくれと泣いてすがるという……』
「やめて。これから乗るのよ?」
『ったく、毎度毎度意地の悪い爺さんだぜ!』
 いつの間にか周波数を合わせて全員での会話になっている。敵地が近いというのに不用心なことだ。まあ、敵のレーダーレンジに入ってしまえば通信もできないから、今のうちに話したいだけ話しておくべきなのだが。
『にしても、アクセルも妙な条件つけたもんだよな。ペンユウを使うな、なんてさ』
 ウェインが不思議そうに声をあげる。どうやら彼は、チームリーダーの意図を理解できていないらしい。少し考えればわかりそうなことだが。それとも彼は、ペンユウが普通のACだ、などと思っているのだろうか?
 誰にともなく漠然とかけられた問いに応えたのは、ハーディの揶揄だった。
『間抜けめ、まぁだ気付いとらんのか。あの紅いのはどう見ても条約違反機じゃ。そんなもんに乗ってたんじゃ実力が見えんじゃろが』
『条約違反!? ……ユイリェン、そんなのに乗ってたの?』
「当然よ。実験機だもの」
『あっちゃあ……どうりで強いわけだ……』
 ぴーっ。今度はさっきまでと違う音が鳴る。鳴ったのは時計である。作戦開始時刻まで3分を切ったことを知らせる合図だ。時が満ちれば、囮役のヴァルゴが騒ぎを起こす。その隙にユイリェンの駆る二足歩行MT『スピリット』と、ウェインの『ワームウッド』が目標施設内部に潜入し、テロリストの首領を抹殺するのだ。アクセルが立案の作戦らしい。どうやら彼は、安全確実な陽動作戦がことのほかお気に入りのようだった。
 そのアクセルは、今回は出撃しないらしい。近くの中枢車両の中から、オペレーターとして全員をサポートするのだ。とはいえ、むしろユイリェンに対する監視の意味が強いことは明らかだった。ユイリェンにとって、この任務はテストでもあるのだ。レイヴンになることができるかどうかの。
『全員、聞こえるか』
 低く威圧感のある声が聞こえてきた。アクセル・D。ユイリェンはこの男だけは警戒している。他の連中とはわけが違うのだ。彼女がウェインに連れられてトランプルのメンバーの前に姿を現した時、激昂して殴りかかろうとしたヴァルゴを抑え、彼はこう言ったのだ。
 ――我々が求めるのは強者のみ。スモークにはもう用はない。
 スパイかもしれない自分をあっさり仲間に加えた男。ユイリェンにとっては不気味で恐ろしい存在だった。おそらくアクセルは、私を信用したわけではなく――私に利用価値を見いだしたのだ。
 そうはさせない。いいように利用されてやるほど、私は甘くない。
「聞こえてるわ」
『感度良好っ!』
『……………』
 ヴァルゴだけは黙して語らなかった。どうやら彼女の機嫌は最悪のようだ。よほどユイリェンのことが気に入らないらしい。もっとも、こういう反応の方が自然なのだが。メカニックはともかくとして、つい二、三日前に戦った敵をあっさり受け入れてしまうウェインやアクセルの方がどうかしているのだ。
 アクセルは少しだけヴァルゴの答えを待って……無駄と悟り、次の言葉を紡いだ。
『……作戦開始。これより、目標施設に侵攻する!』
 
 
「作戦区域は旧地下都市アイザックシティ西側第三区画防衛施設跡、通称プログフォート。そこを拠点としているテロ組織『エメラルドストリーム』を叩く。目的は首領のドーン・ブロッサムのみだ。雑魚は無視してかまわん」
 実に解りやすい説明である。部屋の隅に放り捨ててある大きな木箱にちょこんと腰掛け、ユイリェンは舌を巻いていた。黒光りする肌、縮れた短い頭髪、彫りの深い顔立ち。典型的な黒人顔をしたアクセルは、リーダーとして必要な能力を余すところなく有しているようだった。操縦技術の方はどうだかしらないが、腕組みをして壁に背を預けているヴァルゴや、トラウザーのポケットに手を突っ込んでぼうっと突っ立っているウェインでは、こうはいかないだろう。
「クライアントはE.C.C.、依頼料は成功報酬で25万。一人頭5万となる。
 ……何か質問、及び異議は?」
「質問よ」
 全員の視線がユイリェンに集まる。アクセルは驚愕、ウェインは好奇、そしてヴァルゴは苛立ち。それぞれにそれぞれの感情を込め、ユイリェンの顔をじっと見つめた。彼女にとっては、こういう雰囲気も慣れたものだった。いつだって、彼女は部外者であり新参者だったのだから。
「エメラルドストリームはフェニクスソフトの子飼いだったはずよ。どうしてそれをE.C.C.が攻撃するの?」
 フェニクスソフト――あまり有名ではないが、レクテナ制御ソフト等でそこそこのシェアを持っている企業である。企業複合体E.C.C.の系列会社の一つでもある。
「……我々はクライアントの意志には干渉しない。与えられた仕事をこなすだけだ」
「……了解」
 そうか。ユイリェンはこの時ようやく理解した。裏レイヴンとはこういうものなのだ。政府の統制によって表舞台を失い、闇に隠れることを余儀なくされた傭兵――裏レイヴン。その身の安全を守るのは、徹底した不介入・不干渉の秘密主義である。物言わぬ駒に徹しているからこそ、企業、そして政府すらもが彼らの存在を利用する。そうでなければ、形式上の秩序を求める政府によってとうの昔にレイヴンは駆逐されていただろう。
 他に意見がないことを確かめると、アクセルは全員に言い放った。
「明日1800、ケイジに集合。その後の行動日程は当日連絡する。
 解散!」
 
 
『ヴァルゴ、準備はいいか?』
 金色のソバージュ・ヘアを手櫛でとかす。胸にため込んだ息をすっと吐き出すと、ヴァルゴは操縦桿に手を乗せた。今日はむしゃくしゃしてるんだ。暴れなきゃ気がおさまらない。今日は機体の色も元のピンクに戻したし、暴れがいがあるというものである。あとは隙を見て……誤射に見せかけてあの小娘を殺せばいい。
『ヴァルゴ、応答しろ!』
「聞こえてるよ。いつでもイケるわ」
 爆薬はすでに設置済み。あとはこのボタンを押せば、テロリストどもの巣窟に大穴が空く。雑魚を適当にあしらっておけばいいのだから、楽な仕事である。ヴァルゴは蛇のような舌を伸ばして、唇を湿らせた。金が入ったら、男娼でも買いに行くか。
「さアッ! 景気良く行くよォッ!」
 
 ゴウンッ!
 
 豪快な爆発音が、暗く空気も澱んだ廃墟に響き渡る。随分派手な演出である。途端に周囲が騒がしくなった。テロリスト達は今頃、上へ下への大騒ぎだろう。もちろん爆発に気を取られて、近くの廃ビルの影に隠れているスピリットとワームウッドに気付くものはいない。
『始まったな。じゃあユイリェン、俺達も行こうぜ』
「了解」
 ユイリェンは操縦桿に軽く手をあてがった。握りの悪いグリップをしきりに擦り、少しずつ指をなじませていく。武装と駆動系の最終チェックを済ませてから、戦闘モードへと切り替えるためのスイッチを
 どぐん。
 何だ? ユイリェンは確かに感じた。自分の中で何かが波打つのを。それは心臓の鼓動のようでもあり、鉄の棒で殴られた衝撃のようでもあり、爆発のようでもあり、バス・ドラムの力強い一鳴りのようでもあった。
 人差し指は、スイッチに触れる一瞬前で止まっていた。こんなことは今までなかった。何度もACに乗って、少女には似つかわしくない闘いをくぐり抜けてきた。しかし一度もなかったのだ。こんなに……
 ……こんなに、楽しいと思うことは!
『ユイリェン、何か故障?』
 その一言で我に返る。ウェインの気楽な声が、今は救いに満ちて感じられた。そうだ、これが自由という感覚。本当に自分で考え、自分で生きるということ。それはこんなにも楽しくて、こんなにも胸の躍ることだったのだ。
 ユイリェンは通信機に向かって呟いた。
「なんでもない……大丈夫よ」
 胸一杯に空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そしてユイリェンは自分の指を見つめた。この指をあと一押しすれば、闘いが始まる。今までのような半分遊びの闘いではない。本当に命を賭けた、生き残るための闘いだ。
 ユイリェンは音も立てずにそっと、その細く白い指を押し出した。
 
 
「襲撃?」
 身の丈2mはあろうかという大男が、部下の報告をオウム返しにした。野太く粗野で品のない声である。男はその声の主たるに相応しく、見るからに粗暴そうな顔つきをしていた。眉は太く、肌はどす黒く日に焼け、丸太ほどもある腕を大げさに振り回しながら怒鳴り散らす。
「レイヴンってやつです。ピンク色のド派手なACに乗ってやがる」
 部下は部下で、教養などというものとは全く縁がなさそうな風体である。まるで動物園の珍獣のようなけばけばしい服に身を包み、耳はおろか鼻や唇、瞼にいたるまで無数のピアスを付けている。そして全てのファッションは、それぞれバラバラに自己主張をくり返し、一向に纏まろうという気配を見せていなかった。
「レイヴン? アリーナの選手か?」
「裏レイヴンですよ。今でも裏で傭兵やってる連中がいるって話です」
「ほーお」
 大男は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。傭兵を名乗るなら、それなりに腕はたつはずだ。ふむふむ、まてよ。それならいい実験台になるかもしれないな。大男は、つい先日親企業から渡されたばかりの玩具に思い当たった。あいつをお披露目するのも悪くないかもしれない。
「どうします? ドーン様」
「よし、大ドームにおびき寄せろ! 俺が直接片づけてやる!」
 エメラルドストリーム首領ドーン・ブロッサムは、威勢良く部下に命令を下した。
 
 
「張り合いないんだよッ! もうちょっと気張って見せなァッ!」
 ハミングバードの左腕が煌めき、目の前のオンボロMTを切り裂いた。轟音と砂塵を巻き上げて、鉄くずと化したMTが崩れ落ちる。貧乏テロリストらしい、作業用MTを改造しただけのできそこないである。多少の遊び相手にはなっても、ヴァルゴの破壊欲求を満たすものでは到底あり得なかった。
 やはり、あの女だ。小生意気なあの女を、この手で斬り殺してやらなくては気が済まない。ヴァルゴは頭の中にあの旧式MTの姿を思い浮かべた。まずは足。高出力の光の刃が、二本の貧弱な脚部を切り裂く。MTはバランスを失って倒れ込む。次に腕。反撃しようとするその腕を、ばっさりと斬り落とす。
 ヴァルゴの妄想は終わることを知らなかった。最初MTであった被害者が、やがてユイリェン本人と入れ替わる。ヴァルゴはユイリェンの小さな体を荒縄で縛り上げた。恐怖に顔を歪める少女。ヴァルゴの手の中で、白銀の刃が煌めく。そっとナイフを少女の衣服にあてがい、ゆっくりと布を裁ち切って……
『ヴァルゴ!』
 ――!?
 瞬間、彼女の意識は空想の世界から現実へと呼び戻された。ぶんぶんと頭を振って、脳裏に浮かんだヴィジョンを追い払う。ヴァルゴは自嘲気味に笑みを浮かべた。あたしとしたことが、戦闘中に意識を飛ばしてしまうなんて。それもこれも、あの女の魅力のせいだ……切り刻む相手としての魅力である。
「なんだって?」
 まだ朦朧としている意識を必死に起こして、ヴァルゴはアクセルに応えた。何か命令されたような気がするが、まるで内容を思い出せない。なにせ白昼夢を見ている最中だったのである。
『周りを見てみろ。敵が撤退をはじめた』
 言われてヴァルゴは周囲の様子を確認した。さっきまで無数にいたはずのMT達は、すっかり要塞の中に隠れてしまっている。早々に敵わないと判断した? それはない。テロリストなんてのは、数が多い内は勝っていると勘違いするような馬鹿ばかりである。では、要塞を利用した籠城戦術? いや、そんな知略を用いるような奴らでもない。だとすれば、残る可能性は……
「招待されてるみたいだねェ」
『そのようだな』
 誘っているのだ。要塞の中へ入ってこい。そこで最高のもてなしをする準備を整えて待っているぞ、と。
「どうする? あたしは追っても構わないけどさァ」
『……よし、連中の誘いに乗る。ウェイン達と連携し、敵を挟撃する』
 連携。嫌いな言葉だ。自分より強いアクセルや気の合うスモークとならまだしも、てんでだらしない坊やと小賢しい小娘が相手だとは。想像するだに反吐が出る。しかし、同じ場所で戦うということになれば……
「了解。さっさと終わらせるよッ!」
 あの小娘を誤射するチャンスが増えるというものだ。
 
 スピリットの作業用アームが、崩れかけた要塞のハッチをこじ開ける。ここはおそらく、かつてMTの搬出口だった通路だろう。ACやMTが十分に歩いて通過できるだけの広さがある。
 慎重に、スピリットは通路の中を覗き込んだ。灯りは全くなく、延々と闇が広がっている。見つめていると吸い込まれそうだった。そう、今にもこの闇の中から青白い手が伸びてきて、体をつかんで引きずり込んでいく……
「馬鹿みたい」
 MTに乗っているのに、そんなことがあるわけないではないか。ユイリェンはぽつりと呟いた。指が軽やかにコントロールパネルの上を踊り、モニターの設定を変更していく。画面がぱっと明るくなった。いくら周囲が暗くても、暗視モードならこの通りである。もっとも、この状態で強い光を浴びるととんでもないことになるのだが。
『何か言った?』
 ……どうやら、通信を開きっぱなしだったらしい。ウェインの軽い声が届く。
「何でもないわ。入りましょ」
『了解っ』
 暗視スコープの情報を頼りにしながら、二機は通路に滑り込んだ。しばらく真っ直ぐな道が続き、その先にもう一つのハッチがある。元々要塞……というよりはシェルターとして作られた施設である。こういった多重構造を取っていることは、何ら不思議ではなかった。
 しばらくして奥のハッチまでたどりつき、再びスピリットがこじ開けにかかる。
 と、その時。
 ヴゥゥゥンッ。
 急に周囲を明るい光が照らし出した。赤い回転灯。そして低い音が体を震わせる。一体何が起きたというのだ? 侵入がばれたにしては様子がおかしい。だとすれば……
『や、やべぇっ! ユイリェン、後ろ!』
 弾かれたようにユイリェンは後部モニターを確認した。さっき入ってきた入り口が隔壁でふさがれ、その近くからどろどろした液体が通路に流し込まれている……ベークライト! 要するに有機系樹脂のことである。このままでは、コンクリートより固い高分子の中に練り固められてしまう!
「ウェイン! ハッチを撃って!」
『……り、了解ッ!!』
 
「チッ!」
 ヴァルゴが舌打ちをする。モニターには狭い通路に流し込まれるベークライトの姿が映し出されている。オレンジがかったゲル状のそれは、彼女に昔食べた宇宙食の味を思い出させた。まだ未熟で金もなかった頃、火星派遣部隊から横流しされてきた宇宙食を格安で買い、腹を満たしたことがあったのだ。甘くも辛くも酸っぱくもある絶妙な不味さ……もう二度と食べたいとは思わない。
 嫌なものを思い出させやがって。ヴァルゴは迷うことなくコントロール・パネルを操作した。ハミングバードの左腕に、淡い蒼の光が灯る。常に彼女と共にあり、彼女の危機を幾度となく救ってきた心強い武器、レーザーブレード。そのまま閉じた隔壁に走り寄り、光の刃で道を切り開く。
 ごうんと大きな音をたて、切り裂かれた隔壁が崩れ落ちた。開けた大穴をくぐり、ハミングバードが通路から飛び出す。程なくしてその穴もベークライトによってぐちゃぐちゃに練り固められていった。恐ろしいまでの凝固速度。あまりに速すぎて、ハミングバードが空けた穴から溢れる前に凝固してしまうのだ。
 内心冷や汗をかきながら、ヴァルゴは通信機のスイッチを入れた。
「アクセル、聞こえるかい?」
『聞こえる。どうやら全ての入り口が塞がれてしまったようだな』
 逃げ場はなくなった、ということか。ヴァルゴは肩をすくめた。全く、手の込んだ演出である。そうまでして皆殺しにされたいというのだろうか。
『今、どこにいる?』
 そういえば、ここはどこだろう。ヴァルゴは周囲を見回した。広い、とてつもなく広いドーム状の空間である。下手をすれば、都市の一ブロックやそこらは丸ごと収まりそうな勢いだ。それでいて、何の遮蔽物もない。
「やたらと広いドームだ。間違いなく、施設の半分くらいは占領してるね」
『ドームだと? どうしてそんなものが……』
「……待った」
 ヴァルゴの指が小さなスイッチを押した。一時的に通信を遮断し、コックピットを静寂に閉ざす。聞こえるのは、微かな愛機の駆動音。そして――足元、いや地下から響いてくる低い振動。
 彼女の唇が、にぃっと吊り上がった。なるほど、ここは闘技場というわけか。あたしを拳闘士に仕立て上げ、凶暴な獣と戦わせようというのだ。ご丁寧に逃げ道まで閉ざして。
「いいねェ……あたしは好きだよ、気の回る子はさ」
 
「はあぁ……焦ったぜ……」
 ウェインは憔悴しきった様子でがっくりと肩を落とした。ワームウッドの最大火器であるパルスキャノンでハッチを破壊し、二機はなんとか通路の外へ滑り出した。もう一歩遅かったら、二人まとめて前衛芸術の彫刻と化していただろう。
 さて、と。ウェインは深呼吸してから、周囲の状況を確かめた。今通ってきた通路は完全に塞がれてしまっている。これで帰りは別の道を通らなければならなくなった。そして目の前には、さらに伸びる一本の通路。
「前に進むしかないってわけね……はあ」
 
 今更何を言っているのやら。ユイリェンは微かに表情を歪めた。全く、ウェインの弱気な台詞を聞いていたらこっちまで気が滅入りそうである。
「さあ、行きましょ。早く仕事を終わらせたいわ」
『ユイリェン……元気だねぇ……』
 あなたが陰気すぎるだけだわ。無駄に血気盛んなのもどうかと思うが、こういううじうじした男もユイリェンは嫌いだった。普段の陽気さとのギャップもまた、彼女をいらだたせている原因の一つである。ユイリェンは裏表がある男も嫌いなのだ。
『そうだ、ユイリェン。仕事終わったらデートしない? イタリアンのいい店あるんだ』
「奢ってくれるの?」
『当〜然!』
 ユイリェンはしばし考えた。別段この男には魅力を感じないし、勘違いして舞い上がられても困るのだが……奢ってくれるというのなら、断る理由もなさそうだった。いきなり押し倒すような度胸がある男でもないことだし。
「いいわ。つき合ってあげる」
『OK! よ〜し、やる気出てきた。
 ぱぱっと終わらせちまおうぜ、ユイリェン!』
 さっきまでの陰鬱な空気は何処へやら。跳ねるように奥へ向かうワームウッドの後ろ姿を見つめながら、ユイリェンは呆れ気味の溜息をついた。
 
 ズ……ン……
 鈍い振動を撒き散らしながら、地下から上ってきたリフトが止まった。そこはドームの中央、丁度ハミングバードの真正面である。
 ヴァルゴはリフトによって運ばれてきた巨大な鉄の塊を凝視した。若葉にも似た緑色の物体。これまで一度も見たことのないACだった。いや、ACなのかどうかすらも怪しいところだ。一応コアや頭部といった構造は見て取れるが、脚部は全く知らないタイプである。車両型にも似ているが、どこにもキャタピラらしき部分がない。いわば、東洋のスパイが水の上を歩くときに使うという……なんと言ったか……そう、ミズグモだ。そのミズグモの上に、ACのコアから上が乗っている。そんなデザインである。
『どぉだ、レイヴン。俺の『ディスグレイスチーフ』は』
 突然の通信。発信者は目の前のACである。どうやらディス何とかというのがこいつの名前らしい。そしてこの大仰な口振りからして、ディス何とかに乗っているのは……
 ヴァルゴは、その白く長い指で通信機のスイッチを押した。
「あんたがドーン・ブロッサムだね?」
『その通りさ。歓迎するぜ、メス猫ちゃん』
 ダサい台詞だ。ヴァルゴは顔一杯に嘲りの笑みを浮かべた。語彙が少なく自尊心が強く、しかも長いものには巻かれる男。こういう馬鹿な男は、割と好みである。ユイリェンには遠く及ばないが、その前菜くらいには十分なりうる。
 ヴァルゴは一度通信を切り、今度はアクセルの方に繋げた。
「アクセル」
『聞いていた。丁度いい、片づけてしまえ』
「了解」
 再度、ドーンの方に回線を戻す。
「さァ、かかってきなよ。相手して欲しいんだろ?」
『物わかりがいいねぇ。それじゃお言葉に甘えて……』
 ふぉうっ……
 聞いたことのない音が響く。ヴァルゴは我が目を疑った。浮き上がっていく。ディス何とかのボディが、ゆっくりと地面を離れて空中へ舞い上がる! それもブースターなど一切使わず、地面すれすれの低空をふわふわと漂っているのだ。こんな機動をするACは、見たことはおろか聞いたこともない。
 しかし、彼女が驚愕を払拭するまで待ってはくれるほど、ドーンは甘くはなかった。
『行くぜぇッ!』
 
 ぴくり。ユイリェンは小さく耳を動かした。遥か遠くで、何か物音がしたように聞こえたのだが。スピリットを止め、外の音に耳を澄ます。とはいえ、低い駆動音が響くこの状況では遠くの音を聞き取ることなど不可能だった。
 やはり、気のせいか。訝しがりながらも、ユイリェンはそう納得した。
『どうしたんだよ、やっぱ故障?』
 意気揚々と先頭を進んでいたワームウッドが動きを止める。調子はいいと言っているのに、さっきから故障故障とやけにうるさい。それほどハーディの腕が信じられないのだろうか。ユイリェンは適当に言葉を返そうと、通信を開いた。
「なんでもないわ。ただ、何か音が……」
 ―― ――
 聞こえた!
「やっぱり聞こえるわ。奥の方から、なにか高い音が……」
『……音? 俺は全然聞こえないけど……』
 気のせいなどであるものか。音はぼやけるどころか一層はっきり聞こえるようになった。耳鳴りにも似た甲高い音。行かなくては。ユイリェンの心に焦りが生まれた。早くこの音の主を見つけなければ、大変なことになる。
 一度だけ、ユイリェンは聞いたことがあるのだ。このひどく忌々しい音を。
「急ぎましょ。時間がないわ」
 
 ……ザァ……ギ……のっ……
 通信機はさっきから雑音ばかりを吐き出している。その中に時折、ヴァルゴの声――それもかなり焦った様子の――が混じっている。アクセルは額に汗を浮かべながら必死に受信機を調整した。おそらく戦闘が始まったせいで、電波が乱れているのだろうが……
 アクセルの乗るこの中枢車両には、部隊の指揮に必要なありとあらゆるものが取りそろえられていた。高性能の通信機もあれば、中継地としても使える。低波長ステルスに広域レーダー、ソナー探査機。ジャマー、そしてノイズキャンセラー。
 伝わってくるクラスター波の中から必要な爆発によって生じたと思われるノイズを取り除き、定常波を解体する。半分勘に近いような判断をコンピューターが下し、それに基づいて行動するのだ。このあたりは人工知能研究の中から生まれた技術だった。
 その甲斐あって、ようやく通信は復旧した。
『…っくしょう、なめた真似をッ!』
「ヴァルゴ! 聞こえるか、ヴァルゴ!」
『うるさいッ! 今忙しいんだ、黙ってなッ!』
 ぶつんっ。折角苦労して回復させた通信は、向こうからあっさり切断された。なんてことだ。あの様子、どうやら相手は相当な強敵らしい。これは、ヴァルゴ一人では……
 アクセルは顎に手を当て、目を閉じて考えた。予定と少々違うが、『あれ』を使うか。今ヴァルゴを失うのは大きい。『彼ら』の目的を果たすためにも、彼女をこんな所で死なせるのは得策ではない。ヴァルゴにはもっと、重要な死に場所があるのだから。
 よし。アクセルは覚悟を決めて立ち上がった。『彼ら』の命令に背くことになるが、大目に見てくれるだろう。それになにも『あれ』を奪おうとしているわけではない。一度や二度使うくらいなら、貴重なデータが取れる分『彼ら』も喜ぶだろう。
 アクセルは中枢車両の後部へと向かった。そこに収められているのだ。アクセルの切り札である『あれ』が。
 
「ええいッ!」
 苛立ち、ヴァルゴが声を荒らげる。弾が当たらない。さっきからハミングバードはひたすら銃を連射しているのだが、一発たりとも当たっている様子がない。それが一層彼女を苛立たせ、余計に手元を狂わせる。抜け出すことのできない、最悪のヴィシャス・サイクルだった。
 ディスグレイスチーフの機動性能は凄まじい。得体の知れない脚部の作用で宙に浮き、ブースターによって一気に加速する。逃げ足だけが自慢のワームウッドを遥かに上回る速度で飛び回る。恐ろしいまでの回避能力は、ひとえにこのスピードのなせる技である。床との抵抗がないということがこれほどまでに恐ろしいことだったとは。ヴァルゴは目から鱗が落ちる思いだった。
『とろいぜ、メス猫ッ!』
 叫びながらディスグレイスチーフが突っ込んでくる。馬鹿め。機体性能はどうだか知らないが、パイロットは戦闘経験が浅いようである。真正面から一直線に向かってくるなど言語道断。迷わずヴァルゴはコントロールパネルを操作した。左腕に灯る淡い輝き。彼女が最も得意とする兵器、レーザーブレードである。
 ――ぶち斬ってやるッ!
 ハミングバードが大きく左手を振りかぶった。いくら速くとも、正面から突っ込んでくるならはずす理由はない。コアに光の刃を突き立て、あの腐れテロリストを蒸発させてやる!
 ……と。
 ヴァンッ!!
 ディスグレイスチーフが急激に加速する! これは……過加速走行! なんてことだ、相手の動きに気を取られ、心を怒りに支配されたが故に、過加速走行の予兆音を聞き逃していたとは!
 まずい。予想よりも敵の動きが速すぎる。これではブレードを振っている暇が……ない。
 ゴッ!
 激しい衝撃がヴァルゴを襲った。必死に操縦桿を固定し、両足を踏ん張ってショックに耐える。野郎。ヴァルゴは歯軋りをした。ディスグレイスチーフは、あろうことかそのまま体当たりを仕掛けたのである。
 腕と一体化したデュアルバズーカも、両肩に背負ったVLSミサイルも、今だ一発たりとも使っていない。完全に弄ばれている。このあたしが、テロリストごときに遊ばれるとは! 激しい怒りが、ますますヴァルゴの心を蝕んでいく。
『どうしたどうしたぁ? レイヴンなんていっても、大したことねぇなァ』
 体当たりの勢いのまま通り過ぎたディスグレイスチーフから、揶揄の声が聞こえてくる。操縦桿をひねり機体を回転させながら、ヴァルゴは鬼のような形相で吼えた。その美しい金髪は怒りに震え、白い肌には青筋が浮かび上がり、手入れを欠かしたことのない爪は手のひらに食い込んで血を滴らせる。
「……血反吐吐きなッ! この糞野郎がぁッ!!」
 ハミングバードが、滅多に使わない肩の無反動砲を構えた。そのまま、ディスグレイスチーフがいるとおぼしき方向に乱射する。狙いなどつけてはいない。単なる威嚇、力の誇示である。もちろんそんなものが命中するはずもなく、ディスグレイスチーフはあっさりと横に移動してそれを回避した。しかし――
 ――素人がッ!
 これこそがヴァルゴの狙いだったのだ。無反動砲の弾丸で気を引きつけている内に近づき、必殺の刃を叩き込む。アクセルの好きな陽動作戦を、戦術レベルで実行したのである。
 ハミングバードは一気に加速し、緑色のACに接近した。そのまま光の刃を振り抜く。
『くッ!?』
 珍しく焦りの色を見せながら、ディスグレイスチーフは素早く後退した。レーザーブレードは一歩届かず、コアの装甲をかすめて過ぎる。惜しいところだった。少しずつだが、ヴァルゴは冷静さを取り戻しはじめていた。そうだ、自分のペースを崩さなければ、決して負けるような相手ではないのだ。いかにそれが新型機だったとしても。
『ええい、手加減はやめだ!』
 苛立った様子のドーンの声。それを体現するかのように、ディスグレイスチーフの両腕が火を噴いた。二連装のバズーカ砲。命中などしようものなら、ハミングバードの薄っぺらい装甲ではひとたまりもない。
 ――くらうかッ!
 ヴァルゴが乱暴に操縦桿をなぎ倒す。ブースターの焔が赤く燃え上がり、ハミングバードの華奢な肉体を真横に滑らせた。すでに何もなくなった空間を、バズーカの砲弾が虚しく過ぎ去っていく。
「落としてやるよッ!」
 だんっ!
 ハミングバードが力強く地を蹴る。ブースターの助けも借りて、ブレードを振り回しながらディスグレイスチーフに突撃していく。緑色の機体は慌てて後退した。その鼻先を光の刃がかすめていく。
 着地するなり、ハミングバードは第二撃を繰り出した。素早い連続攻撃。それも全て、相手のコックピットがあるコアを狙う太刀筋である。その姿はまるで、獲物の喉をかみ切る獅子のようでもあった。
 
「くそッ!」
 ドーンは汚らしい罵り声をあげながら左手でコントロールパネルを操作し、過加速走行のチャージに入る。それと同時に残る右手で操縦桿を引き、機体を後退させた。ディスグレイスチーフの機動性は伊達ではない。ハミングバードの繰り出した斬撃は、またしてもコアをかすめるだけに終わった。
 それと同時に過加速走行が発動する。Gを軽減するために出力を抑えてはいるが、それでも十分なほどのスピードで、ディスグレイスチーフは真横に飛び退いた。そのまま一気に距離を離す。相手が斬撃を得意とするレイヴンである以上、近距離での攻防は不利でしかない。幸いなことにこの機体は遠距離戦で有効な兵器を装備しているのだ。
 パネルの上を無骨な手が滑り、武装を切り替える。
「こいつで昇天しなッ!」
 
 ドシュッ!
 破裂音を響かせて、ディスグレイスチーフが背負ったミサイルポッドから二発の弾丸が打ち上げられた。上空まで上昇した後、頭上から降り注いでくる……VLSミサイルという奴である。兵器としての性質上、上からの攻撃に弱いACにとっては脅威となる兵器である。
 しかし。ヴァルゴはふっと微笑を浮かべた。馬鹿な奴だ。たった二発のミサイルなど、目を閉じていても避けられる。
 ……と。
 ばがんっ!
 突如、ミサイルが空中で分裂した!
「多弾頭!?」
 2発がそれぞれ4発に、計8発のミサイルが上空から降り注ぐ。その姿はまさに、炎の雨と形容するに相応しい。予想を見事に裏切られ、ヴァルゴの額に冷や汗が浮かぶ。頭の中で回避方法をシミュレートする。確かに予定は狂ったが、この程度なら……
「当たらないッ!」
 パネルを操作しながらヴァルゴは思いっきりペダルを踏みつけた。ハミングバード自慢のブースターが思い切り炎を吹き出し、機体を右へスライドさせる。こうして頭上から降り注ぐミサイルを引きつけておいて――
 ヴァウッ!
 過加速走行で逆方向に移動し、一気にミサイルを引き離す! いくら追尾性能の高いミサイルでも、これだけの素早い機動は追いきれないのだ。あえなくミサイルは床を砕くだけに終わった。
 このまま遠距離で戦っていたのでは勝ち目が薄い。ヴァルゴは再び過加速走行のスイッチに指を伸ばした。加速度に押しつぶされ、もう体はボロボロである。しかしあの素早い敵に追いつくためには、もはやこれ以外に手はないのだ。一気に間合いを詰めて、この刃で切り裂いてやるッ!
 ……その時。
『ヴァルゴ!』
 聞き慣れた、坊やの声がコックピットに響き渡った。
 
 スピリットとワームウッドがたどり着いたとき、すでにそこは戦場と化していた。
 だだっ広いドーム状の空間。その中で死闘を繰り広げる二機のAC。ハミングバードと、見たこともない緑色のACである。ユイリェンはすぅっと目を細めた。やはり思った通りだ。あの板のような脚部。そしてこの、甲高い不快な音。間違いない、以前見た重力制御装置である。
 あれはまだユイリェンが10歳くらいの頃だった。育ての親である「おばあちゃん」に連れられて、学会を見に行ったことがあったのだ。学会と言っても規模は小さい。大学の講堂を一つ二つ借りて、せいぜい百やそこらの論文発表を行うだけのものである。重力制御学会はまだ発足したばかりで、丁度発展期にあったのだ。
 ほとんどの研究者はCGで作ったイメージモデルを見せながら研究の成果を報告するだけだった。しかしその中に一つ、実際に小型の重力制御装置を持ち出して、デモンストレーションを行ったグループがあったのだ。
 それは一抱えほどの薄い板のようなものだった。電極を繋ぎ、スイッチを入れると……周囲に奇妙な甲高い音が響き渡った。そしてその板は、ゆっくりと宙に浮かんだのだ。浮かんだと言っても地上から2センチほどの所である。まだ未完成で、と苦笑しながら科学者が板の上にリンゴを乗せた。そうすると板はその重みの耐えきれず、あっさりと地面に落ちてしまった。
 子供心に感動したのでよく憶えている。もしあれが完成し、兵器として利用されたとしたら? 地面からの摩擦力を全く受けず、高速移動が可能な兵器。これまでの兵器の概念を覆す、凶悪な新技術となってしまう。
『遅かったじゃないか、坊や達』
 軽く声を返すヴァルゴの口調からは、いつもの余裕は感じられなかった。今までどういう闘いを繰り広げていたのか手に取るように分かる。
『なんだ、ヴァルゴ苦戦してんじゃんか』
「加勢するわ」
『うるさいガキどもだねェ……』
 キュゥゥゥンッ。
 音。その高い音は、ハミングバードの内部から響いてきた。電力を蓄積するときに発生する独特の音。まさか、過加速走行をしようというのか? そうだとすると、彼女の目的はたった一つしか考えられない!
『そこで見学してなッ! 今すぐ片づけてやるよ!』
 ギャンッ!
 ハミングバードのコアが裂け、その中から巨大な追加ブースターが姿を現す。その先端に青白い光が灯ったかと思うと、ピンク色の巨体は急激に加速をはじめた。恐ろしいまでのスピードで、一直線に緑色のACへ突撃していく!
 ……まずい!
「駄目ッ! 奴にはまだ……!」
 
 ぎちぎちと体が悲鳴を上げている。過加速走行によって生じた重圧は、容赦なくヴァルゴの肢体を押しつぶしていった。歯を食いしばり、呼吸のできない苦しみに耐える。彼女にはもう聞こえてはいなかった。ユイリェンの、必死の叫び声など。
 ディスグレイスチーフは動かない。たとえ動いたとしても間違いなく切り捨てる自信がある。ヴァルゴはパネルに指を這わせた。ディスグレイスチーフの真正面で過加速走行を解除し、代わりに左手のブレードを発生させる。
 ――もらった!
 ヴァルゴは確信した。自分自身の勝利。作戦の成功。この光の刃が、敵の胴に深く食い込む事を。
 次の瞬間、世界が震えた。
 
 ――馬鹿猫がッ!
 ドーンは確信した。自分自身の勝利。敵の死。彼が最後までとっておいた切り札が、完全に敵の裏を掻くことを。
 
 ――馬鹿な!?
 信じられない、という思いで一杯だった。ヴァルゴの頭の中は、常識を覆す奇妙な出来事によって完全に混乱させられていた。ありえないのだ。こんな物理を無視するような無茶苦茶なことが、起こるはずがないのだ。
 ハミングバードが、ディスグレイスチーフに引き寄せられている!?
 それはごく僅かな力だった。しかし不安定な姿勢のハミングバードのバランスを狂わせるには十分だったのだ。
 外部モニター一杯に、バズーカの砲身が姿を映し出していた。
 
 ゴガウンッ!
 零距離から撃ち出されたバズーカの砲弾は、一寸違わずハミングバードのコアを粉々に打ち砕いていた。ピンク色の破片が周囲に飛び散る。バラバラになったパーツが大音声をたてながら床に転がる。ついさっきまで美しい舞のような闘いぶりを見せていたそのACは、今やただのがらくたの山と化していた。
 パイロットがどうなっているか。想像するまでもなかった。
 ユイリェンはぐっと歯を食いしばった。止められなかった。相手の切り札を予測していながら、ヴァルゴを生かしてやることができなかった。もちろんそれはユイリェンに責任があるわけではない。しかしそんな理屈を笑って納得できるほど、ユイリェンは人を殺し慣れていなかった。
 そう。彼女が昔見た学会では、もう一つのデモンストレーションが行われたのだ。演者はさっきのリンゴを手に取ると、今度は板を垂直に立てた。その横にリンゴを置き、電極を付け替える。自信がないのだろう、うまくいくかなと独りごちながら演者はスイッチを入れた。
 次の瞬間だった。リンゴはゆっくりと、ごくゆっくりとだが、確かに板に向かって動き出したのだ。まるで吸い寄せられているかのように。重力制御とは何も重力を軽減することだけを言うのではない。自らの持つ万有引力係数を高める、つまり自らをより重くすることも可能なのだと、演者は説明した。つまり、ものを引きつけるほどの強い引力を創り出すことができるというのである。
 奴は、あの緑色のACはそれを行ったのだ。ハミングバードを引き寄せ、バランスを崩し、そこにバズーカを叩き込んだ。
『へっ、ようやくくたばったか』
 …… ……
 卑しい濁声が聞こえる。こんな奴にヴァルゴが殺されるとは。さぞかし彼女も無念なことだろう。ユイリェンもヴァルゴのことは嫌いだった。ああいうサイコな女にはどうしても付いていけなかったのだ。しかし――
 このテロリストだけは、ただじゃおかない!
 …… ォ……
 緑色のACが機体を回転させる。その見据える先にいるのは旧式のMTと、青い四足AC。
『お前らもこの猫の仲間ってわけか?
 いいぜぇ、ついでにぶっ殺してやるぜ!』
『それは無理な話だ』
 
 ゴガアッ!
 天井を撃ち抜き、彼はACをドームの中へゆっくりと降下させた。燃える炎のような紅い機体が、まるで天より降臨する神の如く宙を降りていく。それは紅い鬼だった。右腕には高出力のエナジーバズーカ、左腕には全てを弾く光の盾、肩に装備したミサイルポッド。
 紅いACが地上に降り立つ。アクセルは周囲の状況を見回した。遠巻きにこちらを凝視しているMTとワームウッド。真後ろにいるのは目標の乗るAC。そして地面に散らばるハミングバードの残骸。なんということだ。今一歩遅かったか。
 アクセルは通信を開き、高らかに宣言した。
「なぜなら、この『ペンユウ』が貴様を破壊するからだ」
 
「馬鹿なことを……」
 トラックの運転席で通信を傍受しながら、白い髭の老人は呟いた。無骨な筋肉質の肉体。顔は髭と白髪によって覆われ、目は作業用の保護ゴーグルで隠されている。油にまみれた作業服に身を包む、職人気質の老人。彼の名はハーディ。チーム『トランプル』専属のメカニックとして働く男である。
 おかしいとは思っていたのだ。アクセルが後方支援に回ると言った時点で、彼が何か企んでいるだろうことは明白だった。しかしよりにもよって、ユイリェンの愛機を奪い取るとは。
 ……あの男、死ぬぞ。
 どうやらこれは、若い者だけに任せておくわけにはいかないようである。ハーディはトラックのエンジンをかけた。ACでも十分積載できるほどの大型トラックがのろのろと道を進みはじめる。
 向かう先は、戦場となったドーム施設である。
 
 信じられなかった。
 アクセルが、あの男がペンユウに乗っている。おばあちゃんの思い出の機体に乗っている。私以外の奴が紅い相棒を乗り回している。耐えられなかった。許せなかった。操縦桿を握るユイリェンの手がわなわなと震える。
『てめぇっ! てめぇもレイヴ……』
 ヴァンッ!
 ドーンの言葉を遮って、ペンユウが地を駆け抜けた。極限まで出力を高められた過加速走行によって、紅い鬼は一瞬にしてディスグレイスチーフの後ろに回り込む。電力を蓄積する時の高音が響き渡った。エナジーバズーカに淡い青色の光が灯る。
 キュウゴウッ!
 次の瞬間、緑色の新型機は跡形もなく消し飛んだ。
 
「ふ……ふっふははははっ!」
 笑いを堪えることなど、今のアクセルには不可能だった。このパワー。このスピード。何をとっても無茶苦茶だ! 常識の範疇などとうに越えてしまっている。なんと素晴らしい機体なのだ、このペンユウは! ヴァルゴを失ったことは大きな損害だが、そんなものどうでもよくなってしまうほどの圧倒的な力を、今アクセルは手に入れたのだ。
 通信機がざぁっという雑音を拾い込む。誰かから通信が入ったようだった。アクセルは通信機の周波数を公開波に合わせた。
『な……なにやってんだよ、アクセル! どうしてペンユウに……』
 ウェインか。奴にはもう用はない。いや、もともと大した利用価値はなかったのである。ただ前のメンバーにまぐれながらも勝利してしまったから、チームに入れてやっただけの話だ。生かそうが殺そうが、大きな違いはない。しかし――
 しかしこいつは。ユイリェンは違う。今すぐに殺しておかなければ、間違いなく後々『彼ら』の目的を達成する上で大きな障害となる。
「ユイリェン、お前はもう用済みだ」
 
『この機体さえ手に入れば、もはやお前を生かしておく理由もない』
 ユイリェンはずっと目をふせたまま、アクセルの低い唸るような声に耳を澄ましていた。まんまと利用されてしまったのだ。それもユイリェン自身ではなく、ペンユウを。命よりも大切な、おばあちゃんの思い出を奪われてしまったのだ。
 彼女は自分の心の中に暗い感情が沸き上がってくるのを感じた。これはなんだろう。ひどく不快だが、それでいて内側から力が込み上げてくる。ユイリェンはまだ知らなかった。自分の内にあるのが、怒りと呼ばれる感情であることを。
『お前は邪魔だ。だから……』
 アクセルの口調が変わった。さっきまでの事務的な言い回しとは全く違う。そこには激しい感情が込められていた。敵意。たった一つのその感情が。
『死ね』
 
 ヴォンッ!
 ペンユウが過加速走行をはじめる。最大出力、最大速度で、ユイリェンの乗る旧型MTに向かって突き進んでいく。銃を構える必要すらなかった。あのオンボロMTなら、シールドを展開して体当たりするだけで十分バラバラにできる。それだけのパワーを、ペンユウは持っているのだ。
 ……と。
『ふざけんなッ! ユイリェンは殺させねぇ!』
 ガキュキュキュキュンッ!
 横手からマシンガンの弾丸が飛来する。ウェインか。威勢だけは十分だが、肝心の弾が一発も命中しないのでは話にならない。ペンユウは無造作にエナジーバズーカを構え、ワームウッドに向かって光の砲弾を撃ちだした。弾は真っ直ぐに突き進み、狙い違わずワームウッドの足を貫いた。これでもう四足機体は動くことができない。
『く、くそッ!』
「馬鹿が」
 崩れ落ちるワームウッドを尻目にみながら、アクセルはパネルの上で指を踊らせた。ペンユウが左手を胸の高さまで持ち上げる。そこに灯る青い輝き。レーザーシールドである。過加速走行の速度とシールドの出力を利用した体当たりは、下手な火器兵器を上回る威力を誇る。
 見る間にペンユウとMTとの距離は縮まっていく。衝突まであと2秒!
 ――死ねッ!
 
 その瞬間、誰もが自分の目を疑った。
 たった一人、ユイリェンを除いては。
 
「……なッ……!?」
 アクセルは驚愕の声をあげた。無理もない話だった。こんなものをいきなり見せつけられて、信じろという方が間違っている。
 30年も昔のMTが、今にも折れそうなその両腕で、過加速走行で突っ込んできたペンユウをがっしりと受け止めていた。
「馬鹿なッ!? 何故このパワーを受け止められるッ!?」
 
 顔を伏せたまま、モニターを見もせずに、ユイリェンは操縦桿を握りしめていた。自分の心に沸々と沸き立ってくる怒り。ユイリェンは今だ味わったことのないその感情に戸惑いながらも、次第にそれを受け入れはじめていた。そう。これは多分、人として自然な感情なのだ。
 許せなかった。ただただ、目の前にいる男が許せなかった。
「あなたは、木を切ったことがある?」
 通信機のスイッチを押しながら、ユイリェンは呟くように言った。
「木は木目に沿って刃を入れると、簡単に割れる。
 でも木目に逆らっていたら、どんなに強い力を加えてもなかなか切ることができない。
 それはなんだって同じ事。全てのものには強い方向と弱い方向があるの。
 ……だから私は」
 ユイリェンは顔を持ち上げた。前髪の向こうに瞳が見える。普段理知的で冷たい光を放っている瞳が、今は全く異質な輝きに満ちていた。それは闇だった。彼女の中に潜む闇が、今この瞬間に姿を現しているのだ。
「構造材を最高の方向で組み合わせ、機体の持つ力を全て引き出す!」
 バシュッ!
 空気が噴射される音。MTのコックピットのハッチが、音を立てて開けた。ユイリェンがそこから飛び出し、組み合ったままのMTの腕を伝ってペンユウに乗り移る。
 
「チッ!」
 アクセルはガクガクと操縦桿を揺すった。ユイリェンが何をしようとしているかは知らないが、振り落としてしまえば問題はない。そのつもりだった。
 しかし機体は動かなかった。貧弱なMTの両腕でしっかり固定されたペンユウは、どんなに踏ん張ってもぴくりともしない。そんな馬鹿な。アクセルの顔面が蒼白になった。受け止めるだけではなく完全に固定してしまうなど。そんな芸当ができるはずがない。
 
 ペンユウのコア部分にしがみつくと、ユイリェンは装甲板に指を這わせた。指先に触れる固い感触。軽く力を加えると、蓋が外れて中からテンキーボードが現れた。記憶にあるパスワードをそこに打ち込んでいく。それは強制排除のコマンドだった。本来はパイロットが意識を失った時に外部からコックピットを開けるためのもの。しかし今は――
 がぱんっ。
 ハッチが音を立てて口を開ける。ユイリェンはその中を覗き込んだ。驚愕を顔に張り付けたまま、こちらを凝視しているアクセルがそこにいる。哀れな男。ユイリェンは、テンキーにもう一つのコマンドを入力した。それは――脱出装置、作動。
 ぼしゅっ!
 突然体にがくんと衝撃が走った。強い力で背中を押され、アクセルの体が宙に舞う。パイロットの命を救うために存在する脱出装置が、略奪者であるアクセルをコックピットから追い出したのだ。アクセルは支えるものもなく、地面へと真っ逆様に落ちていった。どずんと音がして、彼の肉体が地面に叩き付けられる。
 死んではいない。地面で呻く彼の姿に目を遣ってから、ユイリェンは愛機のコックピットに潜り込んだ。少し暖まったシートが気色悪い。ハッチを閉じる。
 ……と。
『ひぇっひぇっ! 若造ども、聞っこえるかぁ?』
 通信機から聞こえてきたのは、頑固な老人の濁声だった。
 
「フェニクスソフトの正規部隊がここを嗅ぎつけたぞ! とんずらじゃい!」
『ハーディ! 助かったぜ。ユイリェン、はやく逃げよう』
『……でも、私は』
 ユイリェンが言葉を濁らせた。私は、なんだというのだ。トランプルを裏切ったとでも?
「どうせもうトランプルは壊滅じゃい! いーからとっとと出てこんかいッ! ワシまで逃げ遅れちまうわ!」
 
 ユイリェンは目を伏せた。自分の心の中で、怒りという氷が次第次第に溶けていくのを感じた。それは一切の感情を封印していくという作業に他ならない。今できることはなんだ。冷えた頭で考える。答えは一つしかなかった。
「……了解。逃げましょ」
 
 
 
 朝日が昇ってくる。
 町外れの荒野に、一台の大きなトラックが停車している。トラックと言っても、特殊免許がなければ運転できないほどの巨大な奴である。その荷台はコンテナになっていて、中に何が入っているのかは全く見えなかった。
 そのコンテナに背中をあずけ、疲れた表情で立つ少女がいた。首の後ろで一つに束ねた、腰まである黒髪。整った顔立ちに黒い瞳。握れば折れそうなほど華奢な肢体。ユイリェンである。ユイリェンはただじっと、地面のある一点を見つめて立ちつくしていた。
 蟻。ユイリェンはそれを観ていた。そこには蟻の巣があった。黒い小さな粒たちが、せわしなく動き回っている。彼らは何を考え、何をしようと生きているのだろう。蟻は巣全体では完成されたシステムを持っている。人間から見ても、ここまで整った社会を構成しているというのは驚くべきことだった。しかし、個々では? 蟻は社会を作ろうと思って働いているのだろうか。蟻は自分たちが見事な形態を創り上げているということを自覚しているだろうか。
 おそらく、答えはノーだ。蟻は何も分かってはいない。ただなんとなく、与えられた仕事を盲目にこなしているだけなのだ。蟻は自分を自分と判断することもなく、自分の仕事の意味を知ることもなく、最終的に自分の仕事が終わったのかどうかすらも分からずに、ひたすら働き続けるのだ。
 私はきっと。ユイリェンは漠然と考えた。私はきっと、こんな風だったのだ。ただ毎日、ケンジに依頼されてテスト機に乗る生活。私はそのテストがどんな意味を成しているのかさえ知らなかった。戦闘テスト。走行テスト。ブースターの出力と戦闘動作の相対関係。与えられた仕事を盲目にこなすだけの、蟻だったのだ。
「ユイリェン」
 ユイリェンははっと顔を上げた。いつのまにか、隣には赤毛の青年が立ち並んでいた。ウェイン。彼があまりに心配そうな瞳で見つめるので、ユイリェンはまた顔を俯けた。哀れみをかけられるのはまっぴらだった。
「これから、どうするの?」
 彼の問いにも、ユイリェンは応えることができなかった。どうすればいいのだろう。トランプルは壊滅してしまった。かといって、今更コバヤシコーポレーションにも戻れない。一度裏切ったものをまた受け入れるほど、ケンジは寛容ではないだろう。
 じゃあ、他に行き場があるのだろうか。いや、ない。私を受け入れてくれる社会など、もうこの世には――
 ユイリェンはふと、あることに気付いた。私は誰かに受け入れられようとしている。どこかの社会に潜り込ませてもらおうとしている。どうして? どうしてそんなことをする必要がある? そうか。ユイリェンはようやく悟った。私は自由に憧れていながら、同時に束縛に頼っていたのだ。
「……馬鹿みたい」
 自嘲気味に吐き捨てると、ユイリェンは右手で髪を掻き上げた。トラックの荷台から背中を離し、軽く背伸びをする。ユイリェンは朝焼けを眺めた。綺麗だと思った。
「決めたわ。私、レイヴンになる」
 ユイリェンは隣の青年に向けて、微笑んで見せた。一瞬だけのその笑顔は、朝日に照らし出されて美しく輝いた。ウェインは自分がその姿に見とれていることに気付くと、決まり悪そうに人差し指で頬を掻いた。
「私一人で、自由な、本当のレイヴンに」
 本当のレイヴン。それは何者にも縛られず、いかなる組織や社会にも束縛されず、自分と自分の愛機のみを信じて生きる者。自由だった。レイヴンとは、真の意味で自由な――いや、自由に憧れるアウトロー達の事なのだ。ユイリェンは気付いた。そのことに。
「よしっ! 俺も決めたぜ!」
 ウェインは腰に手を当て、笑顔を返した。不器用で無邪気な笑顔。悪戯をした子供が照れ隠しにするような笑みだった。
「俺はユイリェンに付いていく」
「……え?」
 毎度の事ながら突拍子もないウェインの言葉に、ユイリェンは驚きの表情を浮かべた。
「俺、もっと強くなりたいんだ。だから、上手い操縦の仕方教えてくれよ。
 頼むよ師匠ぉ、ちゃんと仕事も手伝うからさぁ」
 ウェインは大げさな身振り手振りで拝み倒した。ふっと、ユイリェンの口から笑みが零れる。全く、どこまでいっても馬鹿で間抜けで憎めない奴である。ユイリェンは彼の横を通り過ぎると、一歩ずつ歩き始めた。遠くに見える街へと向かって。
「行きましょ、ウェイン」
「……え?」
 ユイリェンは肩越しに振り返った。悪戯っぽく微笑み、呆然と佇むウェインに言い放った。
「イタリアン、奢ってくれるんでしょ?」
 
 
 
 う……
 うめき声を上げながらも、アクセルはなんとか上半身を持ち上げた。全身がびしびしと痛む。さすがに5m以上も落下した衝撃は大きい。打ち所が悪ければ死んでいてもおかしくはない。もちろん、とっさに受け身を取ることができたせいでこの通りだが。
 あの女。アクセルはユイリェンの姿を思い起こした。折角手に入れかけた最新機を、また奪い返されてしまった。なんということだ。信じられないほどの失態だ。これではもはや、『組織』に彼の居場所はなくなってしまうかもしれない。まずい。非常にまずい。そうなれば、待っているのは粛正である。
 地面に手を付き、アクセルは必死に立ち上がった。逃げる必要がある。この場にいてはいけない。そう思った。
 ……と、その時。
「何処に行く気だ?」
 どくん。
 アクセルの体の汗腺という汗腺から、一気に汗が噴き出した。黒い彼の顔が真っ青になる。この声は。このおぞましい、ねっとりとした声は。背中からかかってきたこの声は。振り向くことが怖い。アクセルは恐怖した。がちがちと顎が震えているのがはっきりとわかった。だめだ。振り向いてはいけない。
 しかし、怖かった。相手の姿が見えていないことが怖かった。振り返らずにはいられなかった。アクセルはゆっくりと、背後に顔を向けた。
「貴様、ノ……!」
 ズキュンッ!
 銃声が響き、黒い巨体が地に倒れた。脳天を貫かれ、脳漿を撒き散らし、アクセルだったそれはぴくりとも動かなくなった。そうれはもう人ではない。人だったもの。
「おおっと」
 声が響く。その声は揶揄しているようにも、哀れんでいるようにも、笑っているようにも聞こえた。彼は髪を掻き上げた。灰色の髪の毛が擦れ合い、がさがさと音を立てた。瞳は暗く、闇を孕んでいた。その姿を見た者はこう形容するだろう。
 ――死神、と。
「野暮なことは言いっこなしだぜ、ブラザー」
 
 System Gabriela's file NO.335.
 E.Y.209,Sep 30,A.M.8:20.
 Investigation team located Yulian at last. She had became a Raven. When I hear that, I remember her grandma. Not Dr.Gabriala, but Linghua. Surely, the blood of Dao led her. Yulian, now you are free. You can go anywhere you want, you can do anything you like. But I cannot defend you anymore. That is the means of freedom.
 God be with ya, my little Yulian. And hallo, Yulian the grown-up.

Hop into the next!