ARMORED CORE 2 EXCESS

 その空間には闇が満ちていた。何者にも見通せぬ、いかなる光にも照らし出せぬ、この世で最も暗い闇。どこまでもただ黒のみが支配する空間の中に、一人の男が立ちつくしていた。まだ若い、黒髪のアジア人である。まるで仮面のような無表情を顔に張り付け、彼はじっと闇の中の一点を見つめ続けていた。
 ぼうっと音がして、闇の中に淡い光が灯る。その光はしだいに輪郭を手に入れ、血のような真紅の円卓へと姿を変えた。どうやら、はじまったようである。彼は眉をぴくりとも動かさず、感情を表に出さないことだけに全神経を注ぎ込んだ。もし少しでも感情の動きを――つまりは弱さを――嗅ぎつけられたら、連中は一気に喉笛をかみ切りにかかる。
 円卓に備え付けられた椅子。そこに腰掛けた姿で、闇の中から老人達が現れた。あるものは高慢な猿の顔で、またあるものは物欲に目の眩んだ豚の顔で。彼はこの連中と顔を合わせるたびに思う。人間の中に潜む悪という悪、業という業を集積したのがこいつらだと。
 やがて、彼の丁度向かい側に最後の男が現れた。その男だけは老人と呼ぶに相応しくない風体をしていた。おそらくまだ50前。彼を除いて最も若いその男は、しかしながらこの場で最も大きな威厳を放っていた。
『副社長。我々は、君に二三質問をしなくてはならない』
 最初に口を開いたのは、最も威厳のあるその男だった。低く迫力のあるその声を皮切りに、周囲の老人たちが次々と言葉を投げつけはじめる。
『先の襲撃によって生じた被害は甚大だ』
『しかも、せっかく捕らえた捕虜を暗殺者に殺されるとは』
『これはとんだ大失態だよ、ケンジ君』
 大失態、か。確かにその通りだ。もしこいつらの前でなければ、照れ笑いの一つでも浮かべていたところである。襲撃者どもにはMT23機を破壊され、結局敵の目的も解らずじまい。最も重要な背後関係に至っては、想像すらつかないという状況である。
「返す言葉もございません」
 ケンジは適当に悪びれて見せた。
『それだけではない。あの機体とタオの血筋を失ったそうだな?』
「失ったわけではありません」
『レイヴンになったのだろう。失ったも同然だ』
 レイヴン。今アリーナでは、各リーグのチャンピオンが世界一の座を巡って争う、ワールドシリーズというやつが開催されている。とはいえ老人共の言うレイヴンとは、その選手に与えられる称号とは全く別物だった。裏レイヴンと呼ばれる存在。戦時中の自由な傭兵達に憧れ、闇に隠れて違法な仕事をこなす者達。世界中に百人程度しかいないと言われる裏レイヴンだが、その存在は半ば公然の秘密となっていた。なにしろ地球政府こそが、彼らにとって最大のお得意様に他ならないのだから。
『どうするつもりだね? あれの存在は……』
「タオの血は、しばらく泳がせます」
 ざわり。ケンジの発言は、まるで水面に石を投げ込んだかのように老人共を色めき立たせた。その中で平静を保っていたのはただ一人、最も威厳のある中年の男――すなわち議長のみだった。議長の鋭い視線が、研ぎ澄まされた刃のようにケンジの瞳を捉える。
『それは、何故だね?』
 周囲が静かになった。その一言だけで。その気になれば政府を転覆させかねないほどの力を持つ老人共を恐怖させるだけの力を、議長は備えているのだ。おそらくこの場で彼を全く恐れていないのは一人だけ――ケンジである。
「タオの血は本物です。テストパイロットなどという卑小な型に填め込んでしまうのはあまりにも惜しい。それに、レイヴンにしかできない仕事もあるでしょう」
 その通りだった。いくらなんでも、自社のテストパイロットにイリーガルな仕事をさせるわけにはいかない。しかし、そもそも存在自体がイリーガルなレイヴンであれば話は別だ。自由な傭兵。それは言い換えれば、立場という概念に縛られることのない最高の手駒ということでもある。
 とはいえ老人共がケンジを快く思っていないことは否定しようのない事実である。案の定、数人がここぞとばかりにくってかかった。
『いつまでも我々に従い続けるという保証はない』
『第一期のレイヴンたちもそうだった』
『結局、最後まで残ったのはガブリエラ女史だけだったではないか』
 しかし彼らが我が社の繁栄を築き上げたことも事実だろう。ケンジは喉元まで出かかった声を必死に飲み込んだ。この老人共には何を言っても無駄だ。自分の利のみに固執し、権力と財を守ることしか興味のない屑共なのだから。
「無論、適宜誘導します。問題はありません」
 老人達が再びざわめく。しかし議長が右手を軽く持ち上げると、それだけで場は水を打ったように静まりかえった。真っ向から瞳を睨み付けてくる議長に、ケンジは怖じ気づくこともなく視線を返す。自分と同じ闇色の髪と瞳を持つ男。ケンジは感じた。たとえ姿形が似ていても、自分と議長は全く違う。お互いに決して相容れない存在なのだと。
『タオの血と実験機については君に一任しよう。襲撃に関する調査もこのまま継続したまえ』
「了解いたしました」
『――しかし』
 議長は珍しく言葉を途切れさせた。その瞳には闇が浮かんでいた。全てを見通し、全てを呪い殺す闇。その闇は、この部屋を覆う漆黒よりもなお暗かった。いわばそれは闇色の光であった。射し込み、忍び込み、滅ぼし去る。光の前では侵略されるだけである筈の闇が、光を侵略するほどの力を得たのだ。
『気を付けたまえ。我々は道を塞ぐ者に対して容赦しない。
 たとえそれが誰であろうとも』
「……心得ております」
 ヴンッ。虫の羽音のような音とともに、円卓と老人は消え去った。後に残ったのは、立ちつくしたままのケンジと漆黒の空間だけである。ケンジはほっと息をつくと、腕を掲げて背伸びをした。関節がぽきぽきと痛気持ちよく音を立てる。大きく深呼吸をして、それからケンジは呟いた。
「くそぢぢぃ共が」
[あら。いいんですか、そんなこと言って]
 ぴくりとケンジの眉が動く。その彼の目の前に、光が収束する。やがて光は人の形をとった。ふわふわとした黒い毛皮のロングコート。ボディラインをくっきりと反映するタイトスカート。落ち着いた赤色のブラウス。そして見事な輝きを見せる金色のロングヘア。いつもと姿は全く違うが、ケンジはホログラフによる姿しか持たない女性など一人しか知らない。コバヤシコーポレーションが誇るメガコンプの制御人工知能、エリィである。
「どうしたんだ、その格好」
[いいでしょう。ライムライトの新作モデルですよ。ホントは明日発表の予定なんですけど。ハッキングするの苦労しました]
 そういうくだらないことに処理能力を割くんじゃない。ケンジは心の中で悪態をついた。それにしてもエリィのミーハーさには困ったものだ。ライムライトやスウィートメイデンなんていう有名ブランドの新作は必ず発表前に手に入れる。とはいえ、実際に買うわけではないので無駄に金を使うこともないのだが。
「で、何か急ぎの用でもあるのか?」
[ええ。例の声、解析が終わりました]
 例の声。昨日拷問した捕虜が、死の間際に言い残した言葉のことである。後一歩で敵の目的を聞き出せるところだったのに、暗殺者に口を封じられてしまった。その損害は果てしなく大きい。今は大差なくとも、後々間違いなく大きな意味を帯びてくる。
 だからこそ、今はごく僅かな情報でも貴重だった。言いかけた言葉がなんだったのか、調べてみる価値は十分にあるのだ。
 とはいえ、エリィにはいい顔をされなかった。それどころか四半時も説教を喰らう始末である。彼女は余程、ケンジの趣味を毛嫌いしているようだった。もちろんそれが「人として自然な」反応なのだが。
[まずは、実際に聞いてみてください]
 その言葉と同時に、彼女の手のひらに淡い光が灯った。エリィが手をかざすと、その光は小さな箱へと収束する。音声データの記録方式として一般的な、トリプレクス・ディスク――TDの再生機である。5cm四方の薄いケースに包まれた光ディスク一枚で、300分の音声情報が記録できる。とはいえエリィの手のひらに乗っているそれはもちろんホログラフである。ただ単に、音声再生のイメージを表示しているにすぎないのだが。
 やがて、どこからともなく――あるいは部屋を満たす闇全体が叫ぶように――苦痛に満ちた男の声が響いてきた。
『……お……きは……
 ……ナ――』
 そして銃声。声はそこで途切れた。これが、スモークが最後の瞬間に発した声である。ケンジは顎に手を当て、神妙な面もちで考え込んだ。最後の最後、言いかけた言葉は――
「発音は、NA、だな」
[はい。そして詳しく解析した結果、その後に微かなNの発音が確認されました]
「N、A、N?」
 NAN。Nan。nan……ケンジの頭をその三文字が埋め尽くす。この発音を含む言葉で、先の襲撃に関係ありそうなもの……様々な単語が頭をよぎる。しかしどれも、別段襲ってまで手に入れたいようなものでは――
 いや、あった。たった一つだけ、全ての条件を満たす言葉が。
「まさか――」
 エリィはこくりと頷いた。
[恐らく]
 なんという事だ。よりにもよってあれを狙ってくるとは。それは、思わずケンジの口を吐いて出た。
「ナノバースト――」

HOP 3 The Devil charmed the princess

魔と契りし女

「なっ、完っ璧だろ?」
 ウェインは大きく腕を振り広げると、にやっと自慢げに笑ってみせた。確かにこれは、会心の笑みを浮かべるに値する功績である。
 中央に大きなテーブルが備え付けられた、10m四方ほどの大部屋。テーブルの上にはSCテレビや小型のパソコン、果てはホログラフ投影機まで備えてある。壁に掛けられた大都市のイメージCGと、あちこちに散乱したブループリントが、この建物の由来を物語っている。
 戦後の復興期には、世界中で無数の都市が計画、建設されていった。地下都市時代に発展した――せざるを得なかった――無駄のない都市計画のノウハウを生かし、完璧なシステムを持った都市が次々誕生していったのである。
 ここは、そのころ計画が持ち上がったコロンビア東部中核都市計画――通称ミッドガルド・プロジェクトの建設現場だった場所である。このような建設事務所を建て、実際に工事が始まる段階まで計画は進行していたのだ。しかし、その後スポンサーであるアスガルド社が倒産したために計画は中断。事務施設だけがぽつんと荒野に取り残されてしまったのだ。
 もう20年も前の話だから、ユイリェンが生まれる5年も前のことである。それが今になってこうして役に立つとは、感慨深いものがあった。かつての事務施設には職員用の宿泊室も複数あり、となりには作業用MTを保管するガレージまで建っている。無駄なものを捨てて掃除していけば、まさに理想の隠れ家となってくれそうだった。
「そうね。素晴らしいわ」
 ユイリェンは奥のドアを開けながら言葉を返した。ここはシャワールームのようである。撤去する金さえ惜しかったのだろうか、水道も生きているようである。水質検査は必要かもしれないが、3日ぶりにシャワーを浴びられるというだけでユイリェンは満足だった。さすがに、トランプルの面々に囲まれていては安心できなかったのである。
 ウェインは覗くほどの度胸なんて持ち合わせていないだろうし、ハーディに至ってはガレージに寝泊まりすると言っている。全ての部屋にちゃんと鍵がかかるようになっているので、その辺りのことは心配なさそうだった。
「見直しただろ?」
「もう少し操縦が上手ければね」
「……あ、そ……」
 がっくりと肩を落とすウェインを横目に見ながら、ユイリェンは次に何をするべきか考えを巡らせた。とりあえず今夜眠るベッドは整えておく必要がある。それから無駄な粗大ゴミを捨てて――外に転がしておけばいいだろう。あとは細かな埃を払うだけだ。ユイリェンは立ちくらみを起こしそうになった。掃除をするのは嫌いではないが、こう量が多いと考え物である。
 ……と。
 ピピピピッ。
 突然、テーブルに備え付けられたパソコンが音を立てた。
 馬鹿な。ユイリェンは慌てて駆け寄ると、かぶりつくように画面を凝視した。まだ誰も、パソコンの電源など入れていないはずである。ウェインの顔を見ても、首を横に振るだけだ。やはり、誰も手を触れていない。それなのに、なぜパソコンが起動したのだ?
 横手で虫の羽音のような低音が響いた。ユイリェンとウェインが、そろって顔を持ち上げる。テーブルの上では、ホログラフ投影機が唸り、淡い輝きを放ちはじめていた。間違いない。何者かが回線から侵入し、投影機を動かしているのだ。
 最初はもやのようであった光は、だんだんと纏まって人の形を取り始めた。女性の姿。短く切りそろえた赤毛、抜けるような白い肌、キャリアウーマン風のブランドスーツ。ユイリェンは目を見張った。間違いない、彼女だ。
[あっ、ユイリェ〜ンっ! 会いたかったですよ〜ぅ]
 ウェインは顔をしかめ、ユイリェンは右手で頭を押さえる。見た目にそぐわぬ軽い声で叫んだのは――メガコンプ制御人工知能、エリィである。
 
「へー……人工知能ねぇ……」
 ユイリェンを抱きしめる形になるようにホログラフを投影するエリィを、ウェインはうんざりした表情で見つめていた。もしエリィに肉体があったなら、間違いなく同性愛者だと勘違いされてしまうだろう。もしかしたらそれは勘違いではないのかもしれないが。
[エリィと呼んでください。
 それにしてもユイリェン、私ほんとに心配してたんですよ?]
「勝手に飛び出したのは、悪かったと思ってるわ」
 ユイリェンは少し顔をうつむかせた。その瞳が、前髪の下に隠れる。
「でも、もう会社には戻れない」
[そうですね。ケンジもそう言っていました]
 やはりか。ケンジは女には優しいが、裏切り者には冷たい男だ。彼がユイリェンを許すなんてことは、とても考えられなかった。おまけにユイリェンは実験機であるペンユウを盗んだ形になる。今すぐ特殊部隊が粛正しに来たとしても全くおかしくない。
[そうそう、ケンジから手紙を預かってるんですよ]
 エリィがポケットの中から一通の封筒を取り出した。もちろんこれは、電子メールの画像イメージである。ユイリェンがキーボードを叩くと、画面に短い文章が表示された。余計なものを省き、手短に文章をまとめるのはケンジの癖である。
 
 愛しいユイリェンへ。
 まずはおめでとう。君ははれてレイヴンになった。美容と健康には十分気を付けて、頑張って欲しい。ペンユウは君にあげよう。裏切り行為も不問に処す。元老院には散々説教されたが、なんとか君の自由を確保することができた。後処理のことは気にしなくていい。
 それから、餞別代わりに依頼を一つ用意しておいた。君の腕なら難なくこなせるレヴェルの任務だ。十分な報酬も用意してある。詳細はエリィの口から聞いてくれ。
 どんなに遠く離れていても、僕は君のことを想っている。空と大地が常に君の側にあるように。そのことだけは、憶えておいてくれ。それでは――
 
「『また逢える日を願って……ケンジより愛を込めて』だぁ!?
 おいおいユイリェン、誰なんだよこの気障野郎は?」
 
「へぷしっ!」
 ケンジは盛大なくしゃみをした。背筋をぞくぞくと悪寒が走る。最近睡眠不足で疲れてたし、このところ気温も下がってきた。そういえば体の節々が痛いような気もする。これは、もしかしたら。
「風邪かな……」
 風邪には栄養をとって休むのが一番である。今日は部下に仕事を押しつけ――もとい、任せて休養を取ろう。そう心の中で決めると、ケンジは自分の部屋への廊下をとぼとぼと歩いていった。
 
 いつのまにか画面を覗き込んでいたウェインに、ユイリェンは冷たい視線を送った。
「人の手紙を勝手にみないで」
「あ、ごめん……つい」
 ユイリェンは溜息を吐いた。それにしても、ウェインの言うとおり歯の浮くような文章である。女性にメールを送る時は必ずラブレターになってしまうのも、ケンジの悪い癖だった。
 しかし不思議なのは、ケンジが助け船を出してくれたということである。企業上層部を説得し、最新実験機を与え、さらに依頼まで用意する。レイヴンに対する待遇としては最高級のものだった。そしてこの対応の早さと完璧さ。いち早くエリィを送り込むことができたのも、おそらくはペンユウに発信器を取り付けていたからだろう。
 これではまるで、ユイリェンがレイヴンになることを見越していたかのようではないか。
[あのぉ、ウェインくん]
 エリィがにっこりと微笑む。まるで優しい天使のような笑顔である。その姿がどれほど男を魅了するかは、ウェインの様子をみればよくわかる。しかしユイリェンは知っていた。エリィがこういう笑顔を見せるのは、間違いなく何かを企んでいる時なのである。13年間の付き合いは伊達ではない。お互いのことは知り尽くしている。
[ちょっと、席を外してもらえます?
 ……その……女の子同士の話、あるんです]
「え? いや、でも……」
 ウェインは戸惑いながらユイリェンに目をやった。まだ聞きたいことがあるのに。彼の目はそう言っていた。しかし彼に聞かれてはならない話もたくさんあるのだ。ユイリェンはお願い、と呟くように言いながら、首を縦に振った。
「はいはい……わかったよ。じゃあ、ちょっと食料買い出しに行ってくる」
 溜息混じりに言いながら、ウェインは部屋から出ていった。外からぶるんというエンジン音が聞こえてくる。その音がだんだん遠ざかり、やがて聞こえなくなってからユイリェンは徐に口を開いた。
「……話って?」
[ペンユウ、どうしてます?]
 どうしている、と聞かれても、今は隣のガレージの中である。さっきからハーディがなにやらごそごそしていたから、もう整備が終わった頃かもしれない。
「ガレージに入れてあるわ。ハーディっていうメカニックが整備してくれてる」
[整備? 一般のメカニックがですか?]
「腕はいいみたいだわ」
[もしそうだとすれば……神懸かり的な腕前ですね]
 ペンユウには、一般公開されていない条約違反機構がふんだんに使用されている。本来なら製作した企業――つまりはコバヤシコーポレーション――の技術者にしか扱えない代物なのである。もちろん、腕のいいメカニックが内部構造を解析すれば整備程度は可能だろうが、それをたったの3日程度でやってのけるのは物理的に不可能と言っても過言ではない。
[ま、いいでしょう。本当はうちの社員を定期的に派遣しようかと思ってたんですけど。
 ……ところで]
 さっきまで渋い顔で考え込んでいたエリィは、突然にっこりと微笑みを浮かべた。例の笑顔である。つい今し方、ウェインに投げかけたのと同じ。またろくでもないことを考えているのは明白である。
[あのウェインって子、けっこう格好良かったですねぇ]
 彼女のにやにやした笑いの中から言わんとすることを察して、ユイリェンはじっとりした視線を返して見せた。
 
 
 趣味が悪い。
 もちろん、エリィの事である。ユイリェンはさっきから、自分の機嫌が悪いということを自覚していた。あんな軽くて馬鹿なお調子者のどこがいいというのだ。私にだって、選ぶ権利くらいある。さらりと酷いことを考えながら、ユイリェンは側面モニターに映るワームウッドに目を遣った。さすがに機動力の面では秀逸な四足ACである。ペンユウがかなりの高出力で走行しても、苦もなく後を付いてくる。
 ペンユウとワームウッドは、一面の荒野の中を砂煙と共に走り抜けていた。コロンビア高地北部に広がる岩石砂漠。ここが今回の作戦区域である。
『ユイリェン、聞こえる?』
 お調子者がいつもの調子で通信を送ってくる。ユイリェンは通信機のスイッチを入れた。
「何?」
 彼女の声はいつもより低く、抑揚がなかった。
『……ひょっとして、機嫌悪い?』
「別に」
 機嫌など悪くない。ユイリェンはむしろ自分に言い聞かせるように、心の中でそう繰り返した。これから任務を実行するのである。エリィの話だと戦闘は予想されていないということだが、戦時中の軍事施設に潜り込み、放置されていた細菌兵器を持ち出してくるというのは幾分厄介な仕事だった。ケンジはどうやら、敵さえいなければ安全だと思っているらしい。勘違いも甚だしい。
 こんな時に細かな精神の乱れを残しておくのは、決して得策ではない。ユイリェンは数回深呼吸をして心を落ち着かせた。
『正面の建物、目標地点じゃないか?』
 そういえば。ユイリェンは自分が前の様子にすら気を配っていなかったことに気付いた。いつの間にか、はるか前方に直方体の建造物が姿を現している。砂色に汚れた……というよりはもはや半分瓦礫に埋まってしまっている、小さな施設である。大きさから考えても、どうやら施設の大半は地下に広がっているらしい。
「そうみたいね」
『うっし。気合い入れて行こうぜ』
 
 
 10億コームの夜景。コロンビア盆地西部に位置する巨大都市『ハイライン・シティ』の夜は、天空の星々をも掻き消すほどの目も眩む輝きに満ちている。700万の眠らぬ人々が生み出す壮大な芸術作品。長らく地下での生活を余儀なくされていた人類が、ようやく取り戻した地上に創り出した楽園である。
 楽園の中で、人々は甘美な平和を享受する。利益と損害が全ての定規であった戦前とは違う。政府による統制は、世界に安定と秩序をもたらしたのだ。秩序という足場の上に築かれた新たなエデン。煌びやかな照明が腕を組んだ男女を照らしだし、子供の無邪気なはしゃぎ声が無音車の微かな走行音を紛らわせる。老人達は世界の変化に歓喜し、若者達は何も知らずに人生という甘い蜜を吸う。
 それが人の手で造り出された見せかけの秩序であるとも気付かずに。
 完璧な交通制御によって渋滞という概念さえ失われた幹線道路の上を、一台の無音リムジンが走り抜けていった。まるで甲虫の外殻のごとく黒光りする車体は、周囲の中層階級たちの視線を集めるのに十分すぎるくらいだった。KとCとOの文字を組み合わせたデザインのエンブレムが街灯を浴びて銀色の輝きを放つ。
 コバヤシコーポレーション社製の要人専用車である。
 中に乗っているのは三人の人間――運転手、女性秘書、そして副社長ケンジ・コバヤシである。大きな柔らかいソファに腰掛けながら、ケンジはACの機銃さえ弾いてしまうという最高級防弾硝子の窓に指を這わせた。夜の街並みが透けて見えた。とてとてと走っていた女の子が転ぶ。側にいた母親らしき女性が駆け寄る。しかしケンジがその結末を見届けるより先に、二人の姿は車の遥か後方へ流れていった。
 ケンジは鼻をぴくぴくさせた。なんだかむずむずする。
「へぷしっ!」
 大きなくしゃみである。ケンジはちり紙を手にとって、ううんと唸りながら鼻の周りを拭いた。紙を丸めてくずかごに放り込む。どうやら、やはり風邪気味のようである。
「レイチェル、風邪薬ある?」
 ケンジの隣に微動だにせず腰掛けていた若い女性秘書は、手にしたハンディバッグの中から樹脂製のケースを取り出した。中に入っているのは、ケンジの主治医に持たされている常備薬である。丁寧にもオブラートの上に風邪薬のカプセルを乗せ、秘書は恭しくそれをケンジに差し出した。
「どうぞ」
「ん」
 ケンジは小さなカプセルをつまみ取ると、無造作に口の中に放り込んだ。すぐさま秘書が冷蔵庫から水を取り出し、グラスに注いで主人の前に差し出す。良く気の利く秘書を持って幸せだ、とケンジは心の中で呟いた。
「レイチェル」
「はい」
 水を一気に飲み干して、ケンジはグラスをレイチェルに返した。
 ふと、レイチェルの顔が目にはいる。肩まである金髪、青い瞳、整った顔立ち、抜けるように白い肌、華奢な肢体。客観的に見ても美しい姿だった。眼鏡に隠れた瞳に灯る、理性の炎。こういう目をした女は嫌いではない。しかしそれも、絶対的な――ある意味神々しいまでの美しさを持つエリィと比べれば、せいぜい普通の人間の範疇に収まるものでしかなかった。
 そこに浮かんだ微かな感情を、ケンジは見逃さなかった。
「機嫌、良さそうじゃないか」
「……いえ、特にそのようなことは」
「僕に付き添えるのがそんなに嬉しいか?」
 単刀直入なケンジの問いに、レイチェルは少し顔を俯かせた。ただじっと手に持ったグラスを見つめ、微動だにしない。決して表に感情を表すことはない。しかしその僅かな目の輝きが、全てを如実に物語っていた。
「……はい。光栄に思っております」
「君は、普段の扱いに不満があるんだな」
 日頃、レイチェルにはほとんど仕事がない。ケンジのサポートは、何もかもシステム・ガブリエラが――エリィがこなしてしまうからである。スケジュール管理も情報収集も健康状態のチェックすらも、エリィは一つ残らず完璧にこなす。唯一彼女にできない――つまりレイチェルに出番が回ってくる――ことといえば、こうして出かけるケンジに付き添うことだけである。
 同期の友人からは羨ましがられる。大した仕事もなくて給料も高い、理想的な役職だと。そのたびにレイチェルは言葉を濁らせた。なにが理想的だ。こんな仕事の、どこが理想的だというのだ。
「わたくしは、システム・ガブリエラよりもお役に立つ自信があります」
 ケンジは再び窓の外へ視線を戻した。いつの間にか車は高級ホテルの建ち並ぶ中核地域に入ったようだった。遥か昔のガス灯に見習ったデザインの街灯。コンクリートではなく石畳の歩道。そこを歩く人間の様子も変わる。浮かれた若者やすばしっこい子供などどこにもいない。企業か政府の要人であろう、威厳ある人物の姿がちらほらと見えるだけである。
「それは無理な話だな。エリィ以上の働きなど、人間には不可能だ」
 車はゆっくりと減速して、道路脇に停車した。由緒正しい高級ホテルの正面玄関、その目の前である。煌びやかな服装に身を包んだ人々が、大理石の床に靴音をたてながら入っていく。シャンデリアが放つ水晶の目映い光が、外の車の中からでもはっきりと見て取れた。
 今日のパーティ会場である。
 レイチェルは道路側のドアから降りると、車の後ろを回ってケンジの横のドアを開けた。夜の冷たい空気が流れ込んでくる。幾分火照っていた顔がきんと冷やされた。自分の意識が鮮明になったのを感じながら、ケンジは車を降りた。かつんと靴底が地面に触れる。
「行くぞ。レイチェル」
「はい」
 
 パーティ会場となったホテルの大ホールには、見るものが見れば戦慄を憶えるほどの顔ぶれが勢揃いしていた。政府高官、企業重役。それも並のものではない。世界の行く末を決める最高権力組織『ガバメント』のメンバー、地球を二分して牛耳る巨大企業複合体エムロードの代表取締役、同じくジオマトリクスの社主、さらにはE.C.C.の幹部にコバヤシ・コーポレーション副社長である。ここにいる面々がその気になれば、世界を再び戦火に包み込み、人類に終焉の時をもたらすことさえ不可能ではない。
 だからこそ、このパーティは定期的に開かれているのだ。世界の頂点に立つ者達の社交の場として――お互いにガス抜きをさせ、大きな争いを引き起こさせないために。
 ケンジは何度目かの挨拶を終えると、遠ざかっていく得意先の社長を見送りながら溜息を吐いた。手にしたグラスに口を付ける。最初よく冷えていたのであろうカクテルは、長話の間にすっかり温くなってしまっていた。眉をぴくぴく震わせながら、ケンジは近くのボーイが持っていたトレイの上にグラスを返した。
「僕はこういうのは苦手だ」
「存じております」
 招待された女性客が皆目も眩むばかりの衣装を身に纏っているのに比べると、レイチェルのブランド・スーツはどうしても見劣りしてしまう。誰の目にも秘書官であることは明らかである。とはいえ、他の招待客たちも例外なく秘書やSPを連れているので目立つことはなかったが。
「社長の仕事じゃないのかねぇ」
「コーウェン社長は現在ペイファン・シティに出張中です」
「あの野郎……僕が審問で動けないのを知ってて逃げやがったな」
 コバヤシ・コーポレーション社長のコーウェン・ゴールドマンは優秀な男である。会社を牛耳るつもりのケンジに取っては、いずれは強大な敵として立ちはだかる相手である。一見すると、どうにも憎めない気さくな中年男性でしかないのが不思議なくらいだった。
 しかし今は、共通の敵に立ち向かう同志である。こうしてケンジが憎まれ口を堂々と叩けるのも、コーウェンと個人的な付き合いがあるからこそだった。
「副社長、後方からマクシス社の社長夫妻がこちらに接近しています」
「それじゃまるでACの戦闘だ」
 ひょいと肩をすくめると、ケンジは作り笑いを浮かべて振り返った。
「これはこれは。お久しぶりです、ミスター・デイヴィス。ご婦人もいつにも増してお美しい」
 
 一人の男が、会場の一番隅でワイングラスを傾けていた。
 ブラウンの長髪は肩まで届き、青白い瞳は虚空を射抜く。身の丈は190にも届こうかという長身の青年である。白人特有の肌の色が、ダークブルーのスーツに良く映えた。
 彼は互いに挨拶を交わし酒を勧め合う人々の輪から外れ、一人壁に背を預けて退屈そうに様子を眺めていた。酒も料理も会場も文句の付けようがない一級品である。しかし、たまらなく無駄だった。人は争うことで進化する生き物だ。こんな息抜きなど何の役に立つ? 彼はもう一度グラスに口を付けた。不味い酒だ。
 人々の輪の中に、ざわりという波が起こった。最初は小さな揺らぎに過ぎなかった波は、次第次第に大きさを増して、広がり、やがては会場全体を埋め尽くした。人々の視線がある一点に向く。波が最初に起こった場所。つまり、会場の中心である。
 どうやらメインイベントが始まったようだった。彼は口の端をにっと吊り上げると、壁から無造作に背を離した。
 
「ん?」
 ケンジは新しいカクテルのグラスに口を付けながら、会場の中心に顔を向けた。列席者達が幾重にも輪を作り、中心にある何かに釘付けにされている。これではまるで、陳腐な玩具に群がる子供のようではないか。ケンジはレイチェルに視線を向けた。これは一体何事か、という無言の問いかけである。
「裏アリーナです。胴元はフォートン社のようです」
 非公式の存在である裏レイヴンが存在すれば、同時に裏アリーナも存在する。歴戦の傭兵たちが、相手を殺すためだけの闘いを繰り広げる。ルールを持つスポーツにすぎない表アリーナとは全く違う。違法な基盤の上に築かれた違法な賭。それが裏アリーナの全てである。勝ったからといって、出場者に何かメリットがあるわけではない。企業の依頼を受け、任務に赴いた先で『偶然にも』他のレイヴンと鉢合わせし、闘いを余儀なくされるのである。
「ああ、そうか。今日のメインだったな」
「ご存知だったのですか?」
 知っているも何も。ケンジは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。こんな事がもしエリィの耳にでも入ったら、本気で殺されかねない。エリィのあの娘に対する偏愛ぶりは、制作者の精神がどこか歪んでいたのではないかと思えてくるほどである。あの娘を手のひらの上で踊らせた、なんてことがばれたら――
 ケンジは内心震え上がりそうなほどの恐怖を感じながらも、ポーカーフェイスをなんとか保っていた。
「秘書は質問しないもんだ」
「……失礼いたしました」
「気にするな」
 さて。いつまでもこんな後ろの方でまごまごしていても仕方がない。ケンジはゆったりと歩み寄ると、人垣の隙間から中を覗き込んだ。中央には一つの小さなテーブルがあり、その上にホログラフ投影機が設置されている。機械が四つの影を映し出す。何十分の一かに縮小したACの姿である。どす黒い茶色の二足、砂漠迷彩のような塗装の逆関節、青い素早そうな四足、そして――
「さて、お集まりの皆様。本日のメインイベントに参りましょう」
 中央に陣取った貧相な男が、顔一杯に下品な笑みを浮かべた。今回の胴元である。男が投影機に接続された端末を少し操作すると、映し出されていたACの映像に細かな文字が追加された。ACとそのパイロットの名前。これまでの戦歴などである。
 ケンジはぴくりと眉を動かした。四つの機体のうち、青い四足ともう一機にはたったの一言しか書かれていなかったのだ。すなわち、「UNKNOWN」と。
「今回は2対2のチーム戦となります。こちらの二機――仮にAチームと名付けますが――皆様、名前くらいはご存知ではないでしょうか。『鎮座』のブルと、『狩人』ザドクでございます」
 火力と装甲を重視した重装ACを駆る『鎮座』のブルと、装甲を無視して火力と機動性に特化した逆関節ACに乗る『狩人』ザドク。このコンビは裏レイヴンの内でも――そして裏アリーナの常連内でも有名な存在だった。今まで何度か裏アリーナの出場者に選ばれ、その度に生き残っている。それだけでも実力の証明である。
 取り巻きの中からいくつか溜息が漏れた。感嘆か。それとも賭にならないとでもいうのか。
「対するこちら、Bチームは全くの無名レイヴンです。おそらく2、3日の内に新たにレイヴンになったものと思われます。名前も経歴も能力も、全くもって未知数です」
 周囲がしんと静まりかえった。誰かがごくりと唾を飲む。つまり、胴元はこう言っているのだ。Aチームは大本命。大きく当てたいなら大穴を狙えと。
「Aに800万!」
「2000万、Aにだ」
「1億!」
 観客達が口々にめまいがしそうなほどの金額を提示していく。掛け金は見る間に膨らんでいった。全員分を合わせればおよそ10億。それも全てAチームにである。ケンジは取り巻き共の後ろで肩をすくめた。これでは、全く賭にならないではないか。ちっとも面白くない。
 ケンジは後ろに控えていたレイチェルの耳元で囁いた。
「僕の私用金庫、どれだけ入ってる?」
「12,573,056,982コームです」
 はて。ケンジは眉をひそめた。120億も持っていた覚えはないのだが。
「なんでそんなにあるの?」
「うち100億は、セントラルガルフの海底油田開発資金を一時的に保管しているものです」
 ああ、そういえば。北米大陸の南西にあるセントラルガルフ……海面上昇で沈む以前はセントラルヴァレーと呼ばれていた地域で最近海底油田が発見されたのだ。エネルギー源としてはもはやほとんど使うことのない石油だが、樹脂その他の製品の原料としては貴重な資源である。苦労して政府から独占許可を取り、社運を掛けた一大プロジェクトを立ち上げたのはつい先日のことだ。
 ケンジは大きく息を吸い込むと、人垣の中に分け入りはじめた。ぎっちりと砂糖に群がる蟻の如く蠢く人々を、右へ左へと掻き分け、道を作っていく。やがて人の壁は途切れた。ケンジの目に奥の光景が映る。丸いテーブルに、例のホログラフ投影機。そして小太りの胴元。ケンジは彼の真正面に回り込むと、溜めていた息に声を乗せて吐き出した。
「Bチームに50億」
 
 
「待って」
 勇んで旧施設に近づこうとするワームウッドを、ユイリェンの声が制止した。
 レーダー。モニター。ユイリェンは順番に周囲を見回した。荒野が広がる中に、いくつかビュートが見て取れる。遠くには大きなメサもあるようだった。舌打ちの一つもしたい気分だった。これでは視界が遮られて、この嫌な予感の正体を確かめられないではないか。
『どしたの、何か問題ある?』
「敵がいるわ」
『敵だって!?』
 ウェインが素っ頓狂な声を立てる。思わずユイリェンは顔をしかめた。耳に響くったらない。
 びりびりと、背筋を悪寒が駆け抜ける。ユイリェンの嫌な予感は消える気配を見せなかった。それどころか刻一刻と膨らみ、彼女の心全てを押しつぶしてしまいそうなほど重くなっていく。レーダーにも反応はない。目視でも確認できない。それでもユイリェンは確信していた。間違いなく、大きな悪意がこっちに向けられている。
 ユイリェンは静かに目を閉じた。視界が闇の中に埋もれる。余計な情報を遮断して、この嫌な予感を受け取ることだけに全ての神経を注ぎ込む。予感は今なお緩やかに膨張を続けていた。ヘリウムをつめた風船のように、それは少しずつ少しずつ大きくなり……
 瞬間、風船が弾けた。
「回避!!」
 ごうんという轟音が大地を震わせる。どこからか飛来した砲弾は、閃光と共に地面に大穴を穿ち、大量の砂埃を巻き上げた。ほんの一瞬前までペンユウがそびえ立っていた辺りの地面は、爆発によって見るも無惨にえぐり取られてしまっていた。
 砂煙を切り裂いて赤と青のACが姿を現した。ペンユウとワームウッド……どちらも無傷のようである。もしユイリェンの警告が一瞬遅ければ、少なくともワームウッドだけは逃げ遅れて今頃大破していたことだろう。
『こ、攻撃!? どこから……』
「コンマ56L320に二機」
『……了解ッ!』
 敵の座標を伝えながら、ユイリェンはコントロールパネルを操作した。機体を僅かに左に回転させ、遠くにあるビュートの映像を拡大する。幾重にも折り重なる地層。ごつごつした岩肌。ユイリェンはそれを舐めるように見つめた。
 ――見つけた。一部分だけ、地層の色が微かにずれている場所がある。ユイリェンは鼻から息を吹き出した。馬鹿馬鹿しい、今時子供のかくれんぼでもこんな間抜けなことはしない。
「敵座標確認。送信するわ」
『了解』
「送信完了から3秒後に散開、装甲の薄そうな方を集中攻撃。いい?」
『……たぶん』
 なんとも頼りない返事である。ウェインがどの程度役に立つかは非常に疑問だが、ユイリェンには自信があった。たとえ彼が全く動くことのない木偶人形だったとしても、それをかばいながら敵二機を撃破する自信が。
 ユイリェンは改めて操縦桿を握り直した。長年使い込んだラバーが、白くて柔らかい手のひらに馴染んでいく。それと同時に、体中をどくんというパルスが貫いた。心臓の鼓動に似た衝撃。しかしそれが心臓の放ったものだとすれば、彼女の心臓は手のひらになければならなかった。手のひらが熱かった。そしてどくんどくんと波打っていた。まるでそこだけ自分の体ではなくなってしまったかのようだった。
 この異変を表現する言葉を、ユイリェンはたった一つしか知らない。
 ――血がたぎっている――
 一つ瞬きをすると、不思議とパルスは消えていった。もう手のひらは熱くも何ともない。ただ、細く長い指が五本付いた可愛らしい手がラバーで覆われた操縦桿を握っているだけだ。今のは錯覚? それとも。
 これはきっと彼女の仕業だ。ユイリェンは納得した。自分の中には自分と違う誰かがいて、時折こうして姿を見せる。ずっと昔から、ユイリェンは彼女の存在を感じていた。突然現れてはユイリェンを闘いへと駆り立てる誰か。そいつが誰なのかは知らなかったが、そいつが彼でもそれでもなく彼女だということだけは漠然と感じていた。
 懐かしいようで、愛しいようで、恐ろしいようで、それでいて忌まわしい彼女。きっと今なら、彼女が力を与えてくれる。
 電子音が鳴った。送信完了。2。1。
「GO!!」
 
 
 ざわ……ざわ……
 一瞬静まりかえった場内は、再びざわめきの渦に巻き込まれた。世界を牛耳る覇者たちが、たった一人の男に対して畏怖と尊敬と嘲弄を込めた視線を送る。大穴中の大穴に、50億などという法外な金を賭けた大馬鹿に対して。
「ご……50億……」
「そう、50億」
 ぽかんと口を開けたまま鸚鵡返しにする胴元に、ケンジは頷いてみせた。周囲の全員が唖然とした表情で、得体の知れない気前のいい男――つまりは自分を恐れている。これは快感だった。ケンジは顔一杯ににんまりと笑みを浮かべると、手近にあった椅子を引いてどっかりと腰を下ろした。横柄に足を組み、今だ口を閉じていない胴元に視線を送る。
 50億といえば、コバヤシコーポレーションの年間売上高の約20分の1に相当する。これを擦ったなどと言おうものなら、文字通りケンジの首が飛ぶ――解雇などという生やさしいものではない。間違いなく元老院は、特殊部隊を差し向けてケンジを殺しにかかるだろう。それほどの金額である。
 そしてそれは、胴元の許容金額を大きく上回る掛け金でもあった。もしこれでケンジが勝とうものなら、胴元は払い戻し金で全財産を奪い取られることになる。
「……く……はっはっはっはっ! こいつは面白い!」
 男の笑い声が横手から響いてきた。ケンジは目だけをそちらへ向ける。ざわめく人垣がぱっくりと裂け、その向こうから一人の男が姿を現した。肩まで届くブラウンの長髪に、整った顔立ち。瞳には青白い凍り付くような輝きを浮かべている。ケンジも色白な方だが、この男はさらに肌が白い。そして、海溝の深淵のごときダーク・ブルーのスーツ。
 ケンジはすぅっと目を細めた。ここに集まる連中はみなそれなりに威厳を持っている。しかしこの男は、そんなものを遥かに凌駕する威圧感を放っていた。一嗅ぎで肺が潰れてしまいそうなほどの死臭。こんな嫌な臭いの人間には、今まで二回しか出会ったことがない。
「このままでは賭けになるまい? 私が40億でコールだ」
 ざわりっ。ざわめきは一層大きくなった。男がケンジと同じテーブルの椅子に腰掛ける。こんこんと男がテーブルを叩くと、放心状態だった胴元がようやく我に返った。顔色がすっとよくなり、口元に笑みを浮かべる余裕まで現れる。現金なものだ。自分の安全が確保された途端にこの調子とは。
「かりこまりました……そろそろ試合が始まる時間でございます。どなたもごゆるりとお楽しみ下さいませ」
 ヴゥンッ。低い唸りとともに、周囲の風景が一変した。一瞬前まで煌びやかなパーティ会場だったそこは、いつの間にか荒れ果てた荒野の中心へと入れ替わってしまっていた。ホログラフで戦闘区域を再現しているのである。
 遠くに二機のACが見える。青い四足型と、真紅の二足型。どこかで見た連中だ。ケンジはふっと自嘲気味の笑みを浮かべた。我ながら意地の悪いことをしたものだ。
「君、何か飲み物を」
 隣ではさっきの男がボーイに注文を付けていた。低く張りのあるその声が、この荒んだ戦場の風景を奇妙にとけ込んでいる。一体この男は何者だ。ケンジは考えを巡らせた。このパーティに列席しているというだけで、一角のものだということは間違いない。そして40億もの大金を賭けてしまうこの馬鹿さ加減。どこかの企業の、金銭感覚が麻痺したボンボンか。丁度自分と同じような。
「グリーン・ガーデンの50年ものを。確かソムリエのとっておきがあったはずだ」
 ボーイはにっこりと営業スマイルを浮かべると、すっと人混みの向こうに消えていった。知らない顔、といった風ではない。むしろ常連客に対するときの仕草である。ケンジは遠くのACから目を離さずに、隣の男に声を掛けた。
「よく来るのか?」
「ああ。ここのシェフが作る料理は、どれも全く素晴らしい」
「それは、知らなかった」
「22年間損したな」
 22年、か。ケンジは肩をすくめた。こっちは奴のことを何も知らないが、向こうは自分のことを年齢まで知っている。ケンジは背伸びをしながら、横で控えていたレイチェルにちらりと視線を送った。
 ごぅんと爆音が響く。遠くに見えていたACが攻撃を受けたらしい。あの爆発を見る限りでは、おそらく無反動砲だろう。周囲がざわざわと騒がしくなる。砂煙を突っ切って、二機のACが無事な姿を現した。ざわめきはおおっという歓声に取って代わられた。
 彼女がこの程度の攻撃を受けるはずがないだろう。ケンジは内心ほくそ笑んだ。ユイリェンの駆る紅いAC『ペンユウ』と、もう一機……なんといったか……そう、ウェインとかいう男の乗る四足AC『ワームウッド』。大穴Bチームの二機である。
 やがてさっきのボーイがワインのボトルを持って現れた。ラベルを男に見せ、確認を取ってからコルクを抜く。甘酸っぱいいい香りが一面に立ちこめた。これではコルクを嗅ぐ必要もない。男はグラスに紅い液体を注ぐように命じた。
 二つのワイングラスに、赤黒い液体がとぷとぷと注ぎ込まれた。あまりワインを飲まないケンジが眉をぴくりと震わせる。まるでその紅い水は、静脈を流れるどすぐろい汚れた血液のようだった。
「乾杯しよう」
 男はケンジに、片方のワイングラスを差し出した。
「僕はワインは飲まないんだ」
「一度これの味を知ったら、他の酒なんて飲めなくなる」
 ケンジはひょいと肩をすくめてから、差し出されたグラスを受け取った。男も自分の文を手に取る。二つのグラスが触れ合って、ちんという甲高く澄んだ音を立てた。
 グラスに唇を付け、ケンジはワインを舌の上に乗せた。柔らかな甘みが舌を撫でていく。闇の味だ、とケンジは思った。深く暗い暖かな闇のように、その甘さは広がって止まることを知らなかった。やがて自分が何かとても心地よいものに包まれているかのような錯覚に陥った。こういうのも悪くない。
「旨い」
 気が付くと、ケンジは正直に感想を述べていた。
「私の言った通りだろう」
「全くだ」
 AC二機が散開し、遥か彼方の岩山に向かって攻撃を始めた。ペンユウのエナジーバズーカが火を噴き、岩山の麓を打ち砕く。いや、あれは岩ではない。岩に似せた半球形の装甲板……隠蔽用特殊装甲、通称ハイドエッグというやつだ。
 かくれたまごの中に潜んでいたACが、その爆発を合図に飛び出す。焦げ茶色の重量級二足型と、砂漠迷彩の逆関節二足型。ケンジは胴元の解説を思い起こした。鎮座の『ブル』と狩人『ザドク』である。ケンジも噂くらいは聞いたことがある。ブルの『グレート・スピリット』は無反動砲と二連装ミサイルポッドを装備した火力重視の重装甲AC。ザドクの『ノーブルパンサー』は腕部内蔵型ミサイルに多弾頭ミサイルを組み合わせ高火力と高機動力を両立した逆関節AC。どちらも機敏な動きで爆風を回避している。
 とはいえ。ケンジの表情はぴくりとも動かなかった。ユイリェンの遊び相手をするには、20年ほど早すぎる。
「どうして?」
 声はいきなり、横手から聞こえてきた。男の声は低く重みがあったのに、その口調はひどく無邪気だった。小さな子供が母親の服の裾をつまみ、街頭で募金活動に精を出す学生の前で、どうしてぼきんしないのと甲高いボーイソプラノで問いかける。そんな「どうして」と同じ響きを、彼の言葉は持っていた。
「何が」
「普通は50億も賭けるものじゃない」
 ケンジは肩をすくめた。
「周りがチキン野郎ばかりだったからな」
 わっという歓声があがった。男の質問に気を取られ、戦局を見守るのを忘れていたようだ。ケンジはひょいと顔をもたげて戦場の様子をのぞき見た。しかし時既に遅し。そこにはもうもうと立ち上る砂煙と相変わらず激しい戦闘を繰り広げる4機のACがいるばかりである。
「紅いACが、青い四足に命中しかけたミサイルを撃ち落としたんだ」
 隣の男はその様子を見ていたらしかった。なるほど、ユイリェンは仲間のサポートもきっちりこなしているのか。今まで単独の任務しか与えたことがなかったが、相棒ができたとたんに協力することを憶えるとは。これも血か。ケンジは背筋が凍える思いだった。
「どうして?」
 自分の体に走った戦慄を振り払おうと、ケンジは隣の男に問いかけた。
「それは、当たると痛いからだろう」
「どうして40億も?」
 ああ、と男は吐息を漏らした。質問の意味を取り違えていたことに、ようやく気付いたらしい。案外間抜けなところがある。もしかしたら故意になのかもしれないが。
「君が50億も賭けたからさ」
 どぅんと轟音が響き渡った。ペンユウの放ったエナジーバズーカの砲弾が、グレート・スピリットの装甲板をかすめ、背後の岩山を打ち砕いた。観客達が一斉にどよめきはじめる。どうだ、見たか。これが我が社の誇る最新兵器だ。ケンジの表情は自然とほころんだ。
 そのとき、ACたちの挙動が唐突に変化した。それまでBチームの二機をそれぞれにマークしていたAチームが、ペンユウ一機に狙いを絞って攻撃を始める。どうやら連中も気付いたらしい。本当に恐ろしい敵が一体誰なのか、ということに。
 無反動砲の砲弾がペンユウを追い込み、追尾ミサイルがその隙を衝く。しかしペンユウは焦りの一つも感じさせることなく、肩の追加ブースターで急速後退し、絶妙なタイミングで過加速走行を発動させ、全ての攻撃を芸術的なまでの完璧さで回避する。
「大したものだな、あのレイヴンは」
 隣の男は溜息混じりにそう漏らした。
「分の悪い賭をしてしまったようだ」
 くいっと男はグラスのワインを飲み干した。しかしその表情の中に、後悔や落胆といった感情は全く感じ取れなかった。むしろ単純にゲームを楽しんでいる子供――いや、コミック映画を見て大笑いしている暇人の顔である。そこにはたった一つ、楽という色しか存在しない。
「ひょっとして、君はこうなることが解っていたんじゃないのか?」
 ケンジの耳がぴくりと震えた。手元に視線を落とすと、ゆらゆらと揺らめくワインの水面が目に映った。すぅっと鼻で息を吸い、十分に香りを楽しんでから、ケンジは隣の男の真似をしてそれを喉の奥に流し込んだ。こくんと小さな音がする。やはり、旨い。
「もしそうだとしたら?」
 声の抑揚を押し殺しながら、ケンジは逆に問いを返した。
 爆発音が連続して起こる。ペンユウのエナジーバズーカである。機動性で劣るグレート・スピリットの足元を狙って、少しずつその巨体を追い込んでいく。おそらくこの場にいる他の誰も気付いてはいないだろうが、ケンジだけはユイリェンの意図をしっかりと理解していた。さっきからあえて散発的な攻撃しかしていないワームウッドの姿を見れば、それは明らかである。
「ESPってやつだ。凄い、一度会ってみたかった」
 男はひょいとおどけて見せた。
 瞬間、ばぎんという今までにない嫌な音が耳を引き裂いた。まるで肋骨をへし折ったかのような生々しい音。音はばぎんばぎんと次々連なった。それは装甲板がはぎ取られる音だった。エナジーバズーカを回避した際の衝撃で一瞬動きが止まったグレート・スピリットを、ワームウッドのマシンガンが狙い違わず撃ち抜いたのである。高速で射出される徹甲弾が触れるたび、分厚い装甲板はねじ曲がり、引き剥がされ、弾け飛ぶ。
 一瞬の後には、完全にその機能を停止した鉄くずが荒野に転がっていた。コア部分はほとんど無事だから、パイロットが死んでいることはないだろうが。
「あの紅い奴は」
 隣の男は呆然と自分の賭け馬のなれの果てを見つめていた。
「自分の実力を誇示して敵を引きつけ、もう一機から目をそらさせた。相手の不意を衝くために」
 ワインのボトルを手に取ると、男はテーブルの上に置かれたケンジのグラスに紅い液体を注ぎ込んだ。そして、次は自分のグラス。しかし、二つのグラスになみなみとワインが注がれても、男はそれに口を付けようとはしなかった。ただケンジに向かって妖艶な笑みを浮かべるばかりである。
 ひょっとしてこいつは、そういう趣味でもあるのか。ケンジがそう思うほど、彼の笑顔は妖しく美しかった。
「そういうことなんだろう? 私はどうも、戦術には疎くて」
「僕だって聡くはない。しかし、多分そういうことなんだろう」
 男はワイングラスを手に取った。飲むのではなく、それを胸の当たりに掲げてじっと美しい紅を眺めるだけである。まるで何かを待っているかのような仕草だった。
 激しい攻防を息を飲んで見守っていた観客達が、またざわざわとうるさくさえずりはじめた。相棒を失ったノーブルパンサーが、突然身を翻して逃げ出したのである。意味のないざわめきは、やがて揶揄の声に取って代わられた。誰かの呟きが聞こえた。敵に背を向けるなど、戦士の風上にも置けない。
 ケンジは軽く舌打ちをした。臆病者に対して――ではなく、まわりで無責任に騒ぎ立てる観客に対してである。奴らは何も解ってはいないのだ。裏レイヴンは決して戦士などではない。自分自身の生活のため、その日の糧を得るためにやむを得ず戦う傭兵なのである。卑怯と罵られようが、臆病となじられようが、生き残らなければ何の意味もないのだ。
 それが解らない連中は、所詮レイヴンを玩具か道具としてしか認識しない。奴らにとっては命の値段など鼻紙一枚にも劣るものなのである。
 きゅぅんと甲高い音が耳を貫いた。ペンユウがエナジーバズーカに電力を溜めている。か弱い子犬の悲鳴にも似たその音は、今日に限って野犬の慟哭のように聞こえた。血に飢え、真っ赤な瞳で獲物を睨み、喉笛を一撃のもとに噛み砕く。恐ろしく純粋で残酷な、一匹の野犬である。
 ぞくり、とケンジの背筋を悪寒が走った。音の中に女の声を聞いたような気がしたのだ。
 ――くすくすという不気味な女の笑い声を。
 どぅん! 一際大きな爆音が周囲をしんと静まらせた。エナジーバズーカが放った狂気の砲弾は、逃げるノーブルパンサーの脚部を見事に撃ち抜いていた。彼女らしい、とケンジは微笑んだ。確かユイリェンは人を殺したことがないはずだ。とはいえ、それは人道主義を貫いているわけではない――敵は殺すより捕虜にした方が有利だというセオリーに従っているだけである。
 砂煙が収まった後には、ぴくりともしないACの残骸が転がるばかり。これで試合終了。Bチームの……ユイリェンとウェインの完全勝利である。
 ケンジの前にワイングラスが差し出された。隣の男である。彼はにっこりと微笑み、テーブルの上に載っているもう一つのグラスを手に取るように促した。なるほど。ケンジは戦々恐々たる思いだった。この男にとっては、たった今失った40億という金も小遣いに過ぎないらしい。
 ケンジは促されるままにグラスを手に取った。
「君の輝かしい勝利に」
「あんたの栄誉ある敗北に」
 二人は思い思いの言葉を呟くと、お互いのグラスを軽く触れ合わせた。
「乾杯」
 
 
 ふぅっ。
 胸の中にため込んでいた空気を、ユイリェンは一気に吐き出した。彼女はこの瞬間が好きだった。激しい戦闘が終わり、頭がおかしくなりそうなほどの緊張感が一遍に断ち切られる。そこに残るのは、炭酸が抜けたコーラのような、やけに甘ったるくけだるい空気のみである。
『ユイリェン! やったぜ! 今の見てただろ?』
 興奮気味のウェインの声が聞こえてくる。まるで子供のようなはしゃぎように、ユイリェンは思わず微笑みを浮かべた。
『シティング・ブルにハンター・ザドクだぜ!? 勝っちまったよ……うわっ、信じらんねぇ!』
 何を大騒ぎしているんだか。どうやらさっきの連中は名前の知れた奴等だったようだが、実際に戦ってみた感じではそれほど強くはなかった。がむしゃらに攻撃してくるだけで、単調なことこの上ない。
 ユイリェンがそう感じるのも無理はないことだった。ブルたちが生き残ってきたのは、生に無関心だったからである。自分が生きることを放棄して、狂ったように破壊を繰り返す。彼らを相手取ったレイヴンたちは、その修羅のような気迫を浴びて腰が引けてしまうのである。
 無論そんなもの、ユイリェンに通用する筈もなかった。
『でも変だよな。クライアントは敵なんていないって言ってたのに。偶然鉢合わせしちまったのかな?』
「――違うわ」
 ユイリェンは静かに目を閉じた。ステルス装甲まで準備して待ち伏せているような連中が、偶然出会った敵であるわけがない。嫌なことを思い出してしまった。拭うことのできない確信に、ユイリェンの笑みは掻き消された。
「戦いは仕組まれていたのよ。最初から」
『仕組んだ? 一体誰が?』
 彼が。あの男が。ユイリェンは目を開けると、夜空に張り付いたまばらな星々を見つめた。ケンジ・コバヤシ。奴しかいない。こんなことをお膳立てできるのは、クライアントである彼以外にありえないのである。
 ユイリェンはようやく理解した。ケンジは、とことん彼女を利用するつもりなのだ。都合のいい操り人形である彼女を。糸が切れないように細心の注意を払い、女神が命を与えないように監視し、自分が描いたシナリオを演じさせる。そして最後には、巨大鯨の口元で身代わりとして投げ捨てるのである。
「――馬鹿みたい」
 自嘲気味に吐き捨てると、ユイリェンは操縦桿をにぎる手に力を込めた。
「さあ、はやく任務を終わらせて帰りましょ」
『えっ? あ、ちょっとユイリェンっ!』
 
 
 薄暗い部屋を小さな常夜灯が照らし出す。黄燈色の灯りを浴びて、ケンジはじっと窓の外を見つめていた。パーティ会場となったホテルの38階、フロア一つを丸ごと占領する広大なロイヤル・スウィート。ケンジに割り当てられた部屋だった。
 10億コームの夜景、か。瞳の中でちらつく地上の星々を、ケンジは瞬き一つせずに凝視していた。富がもたらす栄光。自分はそれを持っている。彼が指を一本動かせば、人々は途端に地に這いつくばる。殺せと命じれば殺すだろうし、盗めと命じれば盗むだろう。死ねと命じれば死ぬ奴もいるかもしれない。金とはすなわち力である。この世の何にも勝る力。
 しかし、この虚無感はなんだ。どんなに多くのものを手に入れても、決して心は求めることを止めない。ケンジには、もう横へ逸れることも後ろへ下がることもできはしない。欲望の赴くまま、全てを飲み込まんとして前に進むのみである。やがて燃え尽き、汚らしい灰と化すまで――
 ひょっとしたら。ケンジの瞳は真剣だった。僕は、ユイリェンが羨ましかったのかもしれないな。
「副社長」
 いつの間にかレイチェルが背後に立ちつくしていた。落ち着いた美しい声が耳に届く。
「報告しろ」
「あの男の名は、クラウス・バイエルシュドルフ。ラウム社の代表取締役です」
「ラウム社?」
「推定総資産額52億コーム。元は技術者が集まって作った工業系ベンチャー企業ですが、現在ではE.C.C.系列の中堅を担うまでに成長しています。主要商品は家電、最近はACスロット対応の補助機器も手がけているようです。これまでに我が社との取引はありません」
 総資産額50億。ケンジは笑いを禁じ得なかった。それが本当だとすれば、あの男は会社の財産を8割方どぶに捨てたことになる。間違いなくあの男――クラウスには裏がある。親会社のE.C.C.もそうだが、それ以外にもっと大きな、50億程度の裏金なら楽に生み出せるほどの組織が――
「データをエリィに転送。監視体制に入らせろ」
「かしこまりました」
 小さな電子音。どうやら、レイチェルが手にしていたハンディ・パソコンを操作したようである。これでエリィが動いてくれる。奴らが何をする気かは知らないが、あらゆる方面から24時間監視される中で一体どう出てくるか。ケンジはふと、こんな状況を楽しんでいる自分に気付いた。厄介ごとが増えたというのに、心はちっとも曇りはしなかった。
 ケンジは自嘲気味に笑みを浮かべた。元老院。コーウェン・ゴールドマン。父親。E.C.C.。先の襲撃者。クラウス・バイエルシュドルフ。そして――ユイリェン・タオ・スギヤマ。全く、僕には敵が多い。
 ひたり。足音がした。背後に気配を感じる。レイチェルが、次の命令を待って後ろに控えているのだ。ケンジは少し考えた。もう急ぎの仕事など残ってはいない。ケンジが一言声をかければ、それで今日の仕事は終わりである。しかし――
 ケンジは振り返った。そして面食らった表情のレイチェルを抱き寄せ、考える暇すら与えずその柔らかな唇を吸い上げた。
 かたんと音がして、レイチェルの眼鏡が床に落ちる。んんという切ないうめき声が耳元で響く。行き場所をなくしてぼぅっと垂れていた彼女の両腕が、ケンジの背中にまわされる。ケンジは、どくんどくんという彼女の鼓動が肌を通じて直接伝わってくるのを感じた。レイチェルの小さな心臓は、異常なほど忙しく脈打っていた。
 やがて唇が離れる。ケンジは自分の忠実な秘書の顔を見つめた。いつも冷静で感情を感じさせない彼女が、今はまるで純情な少女のようだった。頬を赤らめ、うっとりと煌めく瞳で虚空を見つめている。
 ケンジは笑みを浮かべると、そのまま彼女の体を押し倒した。
 
 
 その空間には闇が満ちていた。何者にも見通せぬ、いかなる光にも照らし出せぬ、この世で最も暗い闇。どこまでもただ黒のみが支配する空間の中に、一人の男が鎮座していた。まだ若い、金髪の白人である。まるで仮面のような無表情を顔に張り付け、彼はじっと闇の中の一点を見つめ続けていた。
 この闇は、私の心だ。クラウスはそう思った。私の心はこの果てしない深淵のように、暗く澱み薄汚れている。なんと美しい闇だろう。どこまでも純粋な闇だろう。このまっくろなせかいの中では、どんな汚い心も消え去ってしまう。そこにあるのはただこの世で最も汚れた心――私だけだ。これほど美しい場所が他にあろうか。
「クラウス様」
 不意の声は背後で起こった。ひどく不快な、ねっとりとした声。たとえるならどろどろに融けた鉄のような、やけに粘りけのある汚い液体を想像させる声である。
 クラウスは椅子に腰掛けたまま、微動だにせず声を返した。
「見ていたか?」
「はい。よぉく」
 クラウスの顔に浮かんだ笑みは、ついさっきパーティ会場で見せたそれとは全く違うものだった。人のいい優男などではあり得ない。偉大な悪魔も裸足で逃げ出すほどの、恐ろしく歪んだ笑みである。そこには全ての罪悪が見え隠れしていた。憎悪、嫌悪、殺意。ありとあらゆる負の心を甘んじて受け止め、それを越える圧倒的な恐怖を以て返す。その笑みを一言で表す言葉があるとすれば、それは
 愉楽。
「血脈は本物だ。そうだろう」
「本物ですとも。素晴らしい。
 まるで恋い焦がれていた待ち人に出会ったかのようだ」
 クラウスは肩をすくめた。
「恋慕か」
「はい」
「ならば侵すか」
「いずれは」
 実に明瞭な答えだった。後ろにいる男は、闇を受け入れた人間だ。クラウスと同じ類の者である。得ることに執着する者は掃いて捨てるほどいる。人はそれを欲望と呼ぶ。しかし、この世には失うことへの欲望というものが存在するのだ。愛するもの。大切なもの。護るべきもの。それを失うことに、強く心を捕らわれる者がいる。
 クラウスや、後ろの男のように。
「しかし今は、その時ではありません」
 かつん。靴音がした。銀色の髪が揺れる。男の体は闇の中にしっかりとけ込んでいるのに、その髪と靴音だけが取り残されているかのようだった。かつん。靴音が旋律を刻む。壮大な交響詩が、彼の手によって刻まれていく。他人には雑音でしかありえない、彼のための楽曲。
「やがて、時が満ちれば」
 クラウスは立ち上がった。闇の底にある玉座から。名残惜しそうに、目を細めて。
「狂える闇が、炎を侵す――」
 

Hop into the next!