ARMORED CORE 2 EXCESS

 車は砂漠の中を駆け抜けた。ぶろう、ぶろう、とエンジンがけたたましく怒鳴り散らす。時折吹き抜ける風以外に音を出す者のない砂漠の真ん中で、黒い自動車は小さなシミのようだった。乾いた土の黄と固い岩肌の白が支配する空間で、ガソリン車の騒音は招かれざる侵略者だった。色と音が互い違いに交わり、あたりに広がる。
 不毛な荒野の一本道を、車はひたすら走っていた。かれこれ三時間になるか。もう少し行けば街が姿を現す。イスラムが全ての掟であるその街で、露出過度な女の格好はさぞかし衆人の視線を集めることだろう。もっとも、彼女にとってはそれすらも楽しみでしかない。真の観光者は、異文化の民衆が放つ好奇の視線を真っ向から受け止めるものだ。自分が浮いてしまわないような場所に行く意味はないし、浮くのを恐れてまたぞろ烏合の衆を引き連れるのはもっと意味がない。自分と違う文化を自分自身の感性で感じ取ってこそ、観光には意味がある。
 とりとめのないことを思い浮かべながら、女はじっと窓の外を見つめている。窓枠に肘をもたれかけさせて。何処までも続く土と岩。植物の緑や動物の影は何一つ見あたらない。なんと荒涼とした風景だろう。しかしこんな場所にいて、妙に懐かしい気分になるのは気のせいか? 生物の見あたらない静かな土地が、まるで麗しの我が家のように感じられるのは。
 きっとそれは気のせいではないのだろう。始まりの時に生物はいなかった。生命など一つもない岩と土がこの世の全てだったのだから。
「なんか、夢でも見てるみたいだね」
 窓の外に目を向けたまま、女は語りかける。しかし隣でハンドルを握る彼は、ぴくりとも反応しなかった。いつものことだ。無愛想で、皮肉屋で、貧相な顔つきで、猿みたいに手足が長いあの男。ニヒルぶって、でもホントは人情に弱いあの男。
「こうして二人で旅行なんてさ。初めて会ったときは想像もしなかった」
「いきなり手錠かけてくれたっけな」
 男はふっと鼻で笑った。その一言であの日の光景が目に浮かぶ。男と女が初めて出会った日のことだ。会ったときは敵同士だった。それがいつの間にこんなことになってしまったものやら、女にも男にも、他の誰にもわからない。きっと、理屈ではないのだろう。
「あんたが人ン家に入ってくるからでしょ? か弱い乙女の二人住まいに」
「よく言うね、お嬢さん。俺はさんざっぱら痛い目をみた」
「その分いい目も見せたげたじゃない」
「そうだったかな」
「そうよ」
 そしてまた沈黙の帳が降りる。長い年月が過ぎた。出会い、戦い、愛してから。このごろは日増しに老いていくのがわかる。体も昔ほどは動かないし、頭も昔ほどは冴えてこない。しかし幸せは増していった。若い頃にはわからなかった。老い、弱り、少しずつ死んでいくことが、なんと甘く愛おしく、幸せであることか。どんなときも死は待っていてくれる。優しく両手を広げて全ての人々を包み込んでくれる。それは何よりも嬉しいことだったのだ。
「ねえ」
 女は再び、鼻にかかった甘い声で囁いた。
「もしこれが全部夢で、目が覚めてあの頃に、会ったばかりの頃に戻ってたとしたら――どうする?」
「もう一度口説く」
 女の目が丸くなった。窓に預けていた肘を持ち上げ、シートに座り直して、腰を屈め、下から男の顔を覗き込んだ。冷たい目をした男は今なお美しかった。河の流れのような金髪も、鋭い直線を描く首筋も、女の欲情をそそった。心の奥からわき出してくるキスしたいという欲望を抑え、女は悪戯っぽい笑みを浮かべる。右手の指先を男の太股に這わせる。ゆっくりと、本棚から目当ての品を探すときみたいな手つきで。
「マジで?」
「ああ」
「ほんとに、本気?」
「何度も言わせるな」
「じゃ、あたしは振っちゃおうかなぁ」
 ふん。男は鼻を鳴らしただけだった。
「歳喰っても口の減らない女だ」
「歳はお互い様よ!」
「ごもっとも」
 右手を放して女はシートにふんぞり返った。この毒舌家には何を言っても応えない。いつも嫌になるくらい冷静で、吐き気がするくらい用意周到で、それでいて他人の世話ばかりして。彼の冷たい優しさが、心にすぅっと滑り込んでいく。痛みもなく、ただ滑らかに彼は入ってくる。甘美な体の火照りが心を惑わしていく。
 ――夢なら。女はふっと息を吐いた。夢なら永遠に醒めないで欲しい。
 きっ、と耳障りな音が響いた。ぼうっとしていた女は思わず前につんのめる。いきなり車が止まったのである。乱暴な急ブレーキに文句を言おうと顔を持ち上げ、隣の運転手に――
 そこで女は気付いた。車の目の前に大岩が転がっている。直径2mの岩から砂粒まで、大小とりまぜ様々な石が道の上に寝そべっていた。丁度道の両側が岩山に囲まれた場所。唯一の舗装道路は完全に塞がれてしまっている。
 ドアを開けて男が車を降りる。女もそれに続いた。大岩の一つを撫で回して、男はなにやら調べている様子だった。調べるまでもなく岩を退かすのは無理だろう。岩山が崩落したのだろうから、ここに留まるのも危険だ。
「少し時間がかかるが、岩山を迂回するしかないな」
「オフロードで? 車汚れそう」
「いまさら……どうせもう砂だらけ……」
 言いながら男が振り返ったその時。

 ぱぁん。

 何かが弾けたような軽い音。感じ取れたのはそれ一つだった。音は静寂の砂漠を切り裂いて、黒々とした岩山に木霊した。二重にも三重にも耳を襲う音。何度も何度も聞いた馴染みの音。だからこそ、男は両の瞳を見開いていた。
 ぼたっ、ぼたっ。どろどろした赤い液体が地面に垂れる。どずっ、と体が倒れ伏す。なんてことだ。男の喉の奥をひんやりした感覚が突き抜ける。女は受け身を取るそぶりすら見せず、ただ無抵抗に倒れたのだ。もはやぴくりとも動かない!
「リンファ!」

 ぱぁん。

 二度目の音は男の絶叫と同時だった。熱くて固い塊が、彼の腹を突き刺した。不思議と意識が冴え渡っていた。痛みも衝撃も感じはしないが、ただ目と耳と鼻と舌と指が敏感になっていた。自分の体が支える力を失い、地に倒れる。それがはっきりと見える。まるで自分の意識が体の外にあるようだった。彼の五感は肉体を超え、道を、車を、岩山を、砂漠全体を見回していた。視える。岩山の上にいる男。ロングライフルを手にした男。いや――少年? 十五かそこらの幼い子供。髪――瞳――灰色。
 男は目を閉じ、もう一度開いた。今度は感覚が彼の中に戻っていた。向こうに女の頭が見える。倒れ、生物から物質に戻った女の体。男は腕を伸ばした。あの柔らかく白い肌に、もう一度――
 ――リンファ。
 今度は彼女の名は出てこなかった。代わりに口からほとばしり出たのは赤黒い血の塊だった。ああ、意識が薄れていく。気が付くと男はふわふわと浮かんでいた。目も耳も鼻も舌も指ももはや役立ちはしないが、はっきりと隣に存在が感じられる。女の存在。ずっと一緒にいて、これからもずっと一緒にいる女の存在。昇っていく。自分が昇っていく。こんなにも……こんなにも暖かく幸せだなんて――
 荒野を風が吹き抜けた。風は二人を優しく包み込んでいた。永遠に一つとなった二人を、乾いた風だけが祝福していた。どこまでも、優しく風は流れていく――

 灰色の男はにぃっと口の端を吊り上げた。あの女は愛を受け取ったのだ。この自分の果てしない愛を。灰色の男は女をひたすらに愛し、そして女は死を以て愛に応えた。なんと美しい愛だろう。愛の物語は死を呼び、死は幸福へと代わる。
 子々孫々。灰色の男は哄笑していた。いつまでも高らかに笑い続けていた。いつまでもいつまで、私はお前を愛し続ける。真紅の華と呼ばれた女よ。私はお前を愛し、お前の血を引く全ての女を愛そう。お前に与えたのと同じ、この世で最も甘美な愛を以て!
 それが――全ての始まりだったのだ。

HOP 9 The Death

 肩まで届く茶色の長髪がさらりとなびいた。夜よりも暗く、海よりも深い、ネオアイザック製のダーク・スーツ。雪降る朝の吐息のような、青白い不健康そうな瞳。そして圧倒的威圧感――触れるだけで肌が爛れてしまいそうな、吸い込むだけで肺が腐ってしまいそうな、禍々しい空気を男は放っていた。彼の名はクラウス・バイエルシュドルフ。ラウム社の代表取締役であり、今は――
 クラウスの視線はふらふらと泳いでいた。黒い革張りの椅子に腰を下ろし、強化ガラス張りの窓に向かって、ただ目だけがふわふわと辺りを彷徨う。窓の外に広がる一面の夜景、10億コームの夜景と賞されるハイラインの夜すらも、彼の目を止めてはおけなかった。漠然と漂う意識の中、ありとあらゆる美や徳はその意義を失っているのだった。あるのはただ一つの疑問。明確な意図を持たぬ一言の疑問である。
 なぜ?
「なぜなら、あなたはもう必要ないからです」
 心の問いに答えたのは、灰色だった。そいつは全てが灰色だった。髪も。瞳も。身を包む外套も。全てが不吉な灰色に塗りたくられていた。灰色の男、ノイエ。ノイエの声は不気味なくらい優しくて、フレンドリィだった。数年ぶりに再会した友人に「やあ」と声をかけるのと同じくらい、何気ないごく普通の日常的な声だった。なぜなら彼がしたことは日常の一部。至極何気ない普通のことだったからだ。
「あなたの目的は初めからわかっていましたよ。ナノバーストをその手に収め、《我等》に刃向かおうというのでしょう。全く、《我等》を知り尽くしているあなたとも思えない。《我等》がそれを見逃すはずないではありませんか」
 あう。声はでなかった。代わりにクラウスの口から漏れだしたのは、苦しげな喘ぎだった。ここまできて。ここまできて死なねばならぬというのか。薄気味悪いくらいはっきりと、自分の顔の青さがわかる。いや青を通り越してもはや土気色。死人の顔色だ。腹に当てた手にべとべとと不快な感触がまとわりつく。ひゅう、とクラウスは息を吸い込んだ。
「しかしご安心ください。人類は繁栄を続けますよ。《我等》の庇護の元でね」
 違う! そんなことを望んではいない。人類は《我等》に縛られてはならないのだ。生命すらもたない数学などに。人類の行く先を決めるのは人類でなければならない。あらかじめ定められた未来などに何の意味がある。ナノバースト! あれさえあれば、《我等》を倒せる。後一歩のところまで来たというのに――
「ナノバーストは《我等》が手に入れる。そして全ては安定する。もはや《我等》を脅かす要素は何もない。あのタオの血筋ですら、このわたしが滅ぼすのですから。人類は永遠に安定する。存在し続けるのです。悠久の時の流れの中で、幾度と無く危機に瀕しながら、それでもなお人類は滅びぬ。それはとても素晴らしいことではありませんか。絶対的な安定、これ以上の幸せなど存在はしませんよ。なに、定められた運命も自由を妨げることはありませんよ。何も知らなければ、不自由に気付くこともない。
 ねえクラウス様。そういえば、あなたは《我等》のことを『組織』だと思っていたようですね。でも違うのですよ。《我等》は存在しない存在。そこに明確な区切りはなく、ただ《我等》を知る者は全て《我等》なのです。集まる必要すらもないのです。全ては《我等》が示してくれるのですから。《我等》は地球上のどこにでもあり、永久に続くもの。まるで謎かけですね……答えがわかりますか? クラウス様。ねえ、クラウス様。クラウス様?」
 こつり、こつり、とノイエは主に歩み寄った。いや、かつての主というべきか。クラウスの頭に右手を乗せ、髪を撫でながら耳、うなじ、肩をくすぐる。やがて彼の指は顎の下にぴったりと貼り付いた。人差し指と中指で、喉仏のすこし右側を押さえ――
「ああ、もう死んでいたのですね」
 くすくすと彼は嗤った。楽しそうに。まるで子犬の無邪気な姿を見つめているかのように。欲しかった玩具を手に入れた子供のように。その顔には一遍の邪悪もなく、心は水晶のように透き通り、微笑みは珊瑚のように暖かい色をしていた。まるで彼は芸術だった。創り主にしか理解できない、不気味な前衛芸術だったのだ。
「答えは、人間ですよ」
 靴音だけが部屋の中に響いた。もはやこの場所に用はない。クラウスの役目は終わったし、彼が持っていた全ても手に入れた。財産も、兵力も、所詮捨て駒ではあるが手中にある。今こそ始まるのだ。壮大な交響曲。奏でるのは彼一人ではない。これは二人の交響曲なのだ。あの娘とわたしの、偉大なる神の調べ――
 ユイリェン。ノイエの周りに闇が広がった。そう見えた。どす黒い彼の感情が、周囲のほのかな灯りすらもうち消してしまったようだった。迎えに行くよ。すぐに、わたしは君を迎えに行くよ。
 こんなにも君を愛しているのだから。


「これが?」
 ユイリェンはガレージにそびえ立つ真紅の巨人を見上げていた。傷一つついていない、真新しい装甲板。ペンユウ弐をひとまわり細くしたようなフォルム。ボディラインには曲線が多様され、どことなく優美な印象すら持っている。身長7mの巨人に優美も何もないものだが。
[ペンユウ弐は再起不能ですからね。コックピットの調整データだけ、『フゥルン』に移植しておきました]
 『芙蓉(フゥルン)』。それがこの巨人の名前である。ユイリェンがいない一年の間に、コバヤシコーポレーション第二兵装研究所が製造していた新型実験機。武装はペンユウ弐と同型のエナジーバズーカ、レーザーシールド。肩のレーダーは頭部に移植し、連装ミサイルは多弾頭誘導弾に換装している。後退用加速器は取り外し、代わりに新開発の旋回用加速器を装着。装甲を切り捨て、その分火力と機動力に重きを置いた中量型二脚AC。過加速走行の出力も以前よりはるかに上昇している。
 フゥルンの足元で機能説明を続けるエリィにも、微かな悲しみの表情が見て取れる。そんははずはないのに。その姿は機械が生み出した虚像にしかすぎないはずなのに。いつもと変わらないAIの言葉が、なぜだか妙に寂しげだった。
[ペンユウよりハイスペックであることは保証します。あなたの戦い方にも向いているでしょうし]
「そう」
 気の抜けたような返事。力無く、ぼうっと新たな愛機を見上げる少女。姉として、エリィには何ができるだろう。あまりにも多くを一度に失った妹に。愛機を失い、自由を失い、そして何よりあの男を失ってしまった妹。ユイリェンが哀れでならなかった。家出した当初はあんなにも帰ってきて欲しかったのに、今はなぜかユイリェンがそばにいることに耐えられない。妹はまるで、籠の中で縮こまる小鳥のようだった。
 わたしは所詮、代替品にすぎないのだろうか。エリィは溜息の一つも吐きたい気分だった。エレン・ガブリエラ女史の記憶を移植された自分。姉代わりにユイリェンを見守ってきた自分。そして今、あの男の代わりに妹を慰めようとしている自分。どこまで行ってもわたしは機械なのか。人のために創られ、人のために生きる、従順な道具――。
 フゥルン。ふと、物言わぬ紅巨人に語りかけてみる。あなたはどう思います。わたしたちは単なる道具なんでしょうか?
 答えが返ってくるはずもない。そうこうしている間にも機体の説明は終わり、エリィはユイリェンに小さく微笑みかけた。ホログラフにできるのはそのくらいだったのだ。抱きしめることも。優しく撫でることも。泪を流すことも。エリィにはできない。再現はできる。しかしそれは単なる虚構、作り物以上ではありえないのだ。
 ――然り。
 はっ、とエリィは顔を上げた。無意識のうちに、そんなホログラフを投影していた。彼女の視線がフゥルンに注がれる。ネットから、監視カメラから、ありとあらゆる角度から、エリィはフゥルンを見つめた。悠然と立ち尽くす紅い鬼を凝視した。
 聞こえたような気がしたのだ。聞こえるはずもないフゥルンの声が。いや、あれはフゥルンではなく――その内側にいる者。ペンユウ?
 そうですね……あなたの言うとおり。じんわりと暖かい感覚がエリィの胸に広がる。わたしたちが道具だということにどれほどの不都合があるというのでしょう。ユイリェンが――ケンジが――みんながわたしたちを必要としてくれる。それで十分なんですよね――
 ねえ、ペンユウ――いえ。フゥルン。


『結局、一体何がどうなったってんだ。俺にゃちっとも』
 モニターの中で肩をすくめる、口ひげの中年男。どことなく斜に構えた、飄々とした感のある男である。くたびれ気味のスーツも、怖いくらい似合っている口ひげも、まるで二流会社員のそれ。一目見てコバヤシコーポレーション社長だと見破る者はいまい。それがこの、コーウェン・ゴールドマンである。
 対する副社長もまた、その役職とは似つかわしくない容貌の持ち主だった。とりたてて美形とは呼べないが、十分に若く、何より不可思議なカリスマを持つ男。切れ長の目に宿る不気味な輝きに、女は心を奪われ、男は戦慄する。ケンジ・コバヤシは父の持つ威圧感を全く受け継いでいると言えた。
「不可視の敵さ。厄介だぞ」
『そもそも敵なんているのか? ナノバーストの件もすっかり落ち着いちまったし、嬢ちゃんは戻ってきたんだろ? 恋敵の坊やは行方不明だってぇし』
「恋敵だって? 誰のことだよ」
『とぼけるな。しかしまあ、あんだけ沢山いた敵がみんななりを潜めてるんだ。ちょっと警戒した方が……』
「違う」
 ケンジは冷たく言い放った。そう、違う。全てがバラバラに見えたこの一年。しかし、ありとあらゆる出来事が――ユイリェンの周りで起きた出来事が、全て一つの流れだとしたら? ユイリェンの呪われた血が引き起こしたたった一つの事件なのだとしたら?
「蟻がいたとする。蟻の目の前には一本の太い柱がある。蟻はそれを避けて、別の方向へ進む。また太い柱に出会う。もう一度回り道して歩いていくと、次の柱が邪魔をする。その繰り返しで、結局蟻は四本の柱を見つけるんだ。蟻にはそれぞれ、バラバラに立っている柱にしか見えない。しかし――柱だと思っていたものは、実は象の脚だ。蟻は、永久にそのことに気付かない――」
『どういう意味だ?』
 くたびれた中年男の眼が、鋭い輝きを放った。奴も気付きつつあるに違いない。今我々が相対しようとしているものの存在に。一体敵が何者なのかということに。
「相手の存在が大きすぎて、こっちには断片しか見えないのさ。言い換えればミクロとマクロだ。バラバラの欠片にしか見えないものが、実は一つに繋がっている」
 そこまで言い切った瞬間、けたたましいブザーが部屋中を駆けめぐった。エリィの放つ警告音。何か緊急事態が起きれば、こうして知らせることになっている。そして音を聞けば事態の重要度もわかる。この耳障りな雑音は――レベルEの最重要事項。
「なんだ?」
[何者かがわたしをハッキングしています。至急CCRへ!]
 ホログラフ投影もない、返事を待ちもしない。エリィは一方的に報告すると、すぐさま通信を中断した。それだけでもわかる。他に力を裂いていられないほど深刻な事態なのである。ケンジは舌打ち一つすると、モニターの中のコーウェンに向かって頷いた。向こうも小さく頷き返す。
『すぐそっちへ向かう。また後でな』
 それだけ言い捨てて姿を消すコーウェン。今は話などしている場合ではないのだ。ケンジはジャケットの代わりに白衣を手に取り、副社長室を飛び出した。CCR――中央制御室へと向かって。

 CCRは、第一ドームの地下にある。深さ120mに渡って掘られた巨大な縦穴に、それを埋め尽くすほどのコンピューターが詰め込まれている。ケンジですらも滅多に見たことが――いや、会ったことがない。これが企業管理人工知能計算機、システム・ガブリエラの本体である。まさにこの場所こそが、コバヤシコーポレーションの中央制御室なのだった。
 あちこちに修理用のキャットウォークが張り巡らされ、システム・ガブリエラから伸びた無数のコードがひしめき合い、高層ビル一つがすっぽりおさまる空間はまるで蜘蛛の巣溜まりであった。無機質な蜘蛛の糸はそれぞれが完璧な調和を保っていて、その偉大な姿を見上げる者に雷鳴にも似た感動を与えるのだった。無作為に飛び出しただけのコードが、こんなにも芸術的に見える。システムが創り出す芸術だった。
 白衣を着たケンジはリフトから降り、コツコツと靴音を響かせた。CCRの最下層、世界中で唯一エリィに直接アクセスできる端末へと向かう。塔のようなエリィの体から申し訳なさそうに突きだしたモニターとキーボード。ここで入力した命令は直結でエリィに送られるのである。
 今、ケンジはエリィの全てを握っている。この場所に立つということは、エリィを支配するということと同値なのだった。エリィにしてみれば、男に突き刺されたに等しい。奥まで入ることを許されたのは一人だけ。たった一人、ケンジだけなのだった。
「エリィ、状況を」
 彼の声はホルンの調べのように暖かく優しかった。褥を共にした女に語りかけるように。ケンジは囁いた。エリィの耳元で。エリィの体内で。エリィの中に入ったままで。何処までも深く暗い声を発した。
[敵は第四種アカウントを使用して正面ゲートから侵入したようです。現在はD−FG区画でアカウントのレベルを書き換えようとしています。
 これから侵入者を灼きに入りますから、手伝ってください]
「わかった」
 そして、エリィの意識は情報の海に沈み込んだ。

 ネットワークの海は暗い。漆黒の闇の下に、たゆたう情報の水面が浮かんでいる。上や下や前や後ろは存在せず、ただ繋がりのみが道となる。無限の広さを持つ海面に立ち、エリィはじっと目を閉じた。支えもない水の上に立つ美女の姿は、まるで伝説にあるセイレーンであった。彼女はまさにセイレーンだ。今、エリィは全ての侵入者に対する警鐘となっているのである。
 視える。一瞬にしてエリィは全てを知覚した。漆黒の世界に目映い光が灯る。いくつもに枝分かれしながら伸びる光の道。大小さまざまな光の柱。ふわふわと浮かぶ光の球。色とりどりの光が組合わさり、世界は形作られる。これはまさに、暗い海の上に気付かれた光の都市――
《みつけた!》
 エリィは両の瞳を見開いた。禍々しい血の色をした光の球。情報の水面にぴったりと貼り付き、水を赤黒い色に変えていく。情報を書き換えていくのだ。自分の持っているアカウント情報を、より高度な――最重要データを扱えるアカウントに。
 そうはさせるものか。両腕を広げ、エリィは意識を拡散させる。彼女の手首から無数の触手が生え、蛇のように素早く光の道を這っていく。無数の経路から、侵入者を同時攻撃する。侵入経路をたどって敵の正体を探し当てるためのプログラムである。
 ぴたり、と光の球の動きが止まった。データの書き換えを中断し、周囲に盾をばらまく。どうやら番犬を敷いていたようである。無数の盾が無数の触手にぶちあたり、その作用を妨害する。しかし、甘い。
 触手が防がれる瞬間、エリィの指先が盾に触れた。盾に病原菌を流し込む。敵プログラムを解析し、徐々に破壊していくプログラムである。あと二秒もすれば敵の盾は使用不能となる。もう一つおまけに、番犬も探し出してウィルスをプレゼント。
 もはや長居は無用と悟ったのだろう。慌てて光の球は後退した。アクセスを切断しようというのだろうがそうは行かない。エリィがふっと息を吐くと、その息が固まって壁を作った。即席の氷の壁。アクセスを切断するためにパスワードを要求するという不条理な壁である。
 敵が辞書を引いてパスワードを探し当てるまで、およそ1.5秒。もし無理矢理に接続回線を切る(電子的な意味ではなく、ハサミでコードを切るのだ)としても2秒はかかる。それだけあれば十分。
 どすっ。
 突如虚空から飛来した槍が、光の球を貫いた。傷口から青い閃光が放たれる。ケンジがウィルスを送り込んだのである。アクセス地点の所在をつかんだ後、相手のコンピューターを破壊するウィルスを。エリィが十数個のプログラムを作動させている間に彼が取った行動はこれ一つであるが、人間の限界などこの程度。十分役に立った部類に入る。
 光の球は、少しずつ薄らいで融けていった。

「終わったか?」
[ええ。侵入者は……]
 エリィが安堵の声をあげようとした、その時。けたたましい警告音が再び辺りを支配した。灯るレッドランプ。非常事態はまだ終わっていない。
[再侵入! さっきのがトンネル掘ってました]
「アクセス地点はわかるか?」
[解析中……終了。これは……]
 次にエリィが放ったのは、悲鳴であった。彼女は生まれて初めて悲鳴をあげた。今まで悲鳴を上げたい気分にならなかったわけではない。ただ、以前は悲鳴のあげ方を知らなかったのだ。今や彼女は、ごく自然に悲鳴をあげられるまでに成長していた。
[地球政府ですッ!]


 にぃっ。その男は暗い部屋の中でほくそ笑んだ。そうとも。全ては今日この日のためにあったのだ。息子に好き勝手を許してきたのも、ノイエとかいう新参者を野放しにしておいたのも、全てこのため。唯一、タオの血筋を抹消できなかったことだけが予定外ではあったが、それもスフィクスの前には大した問題とはならない。
 ついに。ついにこの手にナノバーストが手に入る。この《我等》の手に!
「ご協力を感謝いたします」
『君の言葉は信じないことにしている。ミスター・コバヤシ』
 円卓の向こう側には、髭をたくわえた老紳士が鎮座していた。飾り気の一つもないネズミ色のスーツ。やせ細り、骨の奥に引っ込んだ瞳のみが爛々と照り輝く老人。円卓に載せた左腕と、ステッキを握ったままの右腕。いずれもしわがれて、青黒い血管が浮き出ている。その全てがホログラフであった。これは演出過度の通信に過ぎぬのである。
「流石、裏ガバメント総帥ともなれば用心深いことだ。しかしお忘れなく。全ては《我等》の御心なのです」
『それだよ。正直な話、私にはもうわからぬのだ。本当に自分が正しいのかどうか』
 男は失笑を禁じ得なかった。この老紳士。かつては世界を震撼させた政治屋であったかもしれない。しかし今となっては単なる老いぼれだ。過去を懐かしみ、泥臭い人情に判断を惑わされる。もはや老人共の時代は終わったのである。これから先人類を導くのは、《我等》の使徒――すなわちこのタツヤ・コバヤシに他ならぬ。
『本当にこれが人類にとって良いことなのか。《我等》の存在を公表すべきではないのか。自らの運命を知った上で、人類は行く先を選ぶべきではないのか――』
「愚昧を相手としては、神々自身が論ずるも空し。フリードリッヒ・シラーです」
 愚昧。そうとも、人類は巨大な愚昧だ。人類に思考は必要ない。人類に自由は必要ない。そも存在すらしない! 全て人類は支配されるべきなのだ。全て人類は管理されるべきなのだ。愚かしい個を捨て、偉大なる公へ! 完璧無比に定められた運命に、人類の未来を示す《我等》に、須く統率されるべきなのだ!
「老いましたな、総帥。まあ、後はこの私に――」
 にぃっ。もう一度男は笑った。静かなる狂気。それは現実主義という名の狂気であった。完璧な論理性、それはつまり狂気である。最も人類を案じているのはこの男に他ならない。しかしそれは狂気。ありとあらゆる感情を捨て、理性と論理のみに身を捧げること、それは狂気なのだ。
「お任せを」


「全アカウントを緊急凍結! 外部接続の通信線を物理切断!」

 ドシュッ!
 第二ドームの地下、メンテナンスルーム。この研究所から外部へ接続するための通信線は、全てこの部屋に集められる。いわばここは研究所の脊髄である。神経が集められ、そして外部へと拡散していく。道路という道路、回線という回線のジャンクションなのだった。
 鈍い音と共に四角い中継装置が弾け飛んだ。何本もの回線が束になった箱。その一部が炸薬で吹き飛ぶのである。外へ向かう通信線は物理的に切断され、外から内にも、内から外にも、もはや通信が繋がることはない。研究所は情報的に孤島となったのだった。
 ――しかし。
 闇に満ちたメンテナンスルームの奥で、影が蠢いた。人型の影。一つではない。漆黒の衣装を纏った人間たちが、機械とコードの森をかいくぐる。手には小さな黒い塊――銃器。やがてその内の一人がひたりと壁にとりついた。切断された通信コードの一本を手に取り、そこに小さなユニットを装着する。短いアンテナと、小型の計算機によって成り立つユニット。なんのことはない、ごく普通の、今では中学生でも持っている、携帯電話と仕組みは同じだ。
 電波中継装置。

[侵入者の接続経路、切断できません! 何者かが内部に中継しています!]
 馬鹿な。ケンジの額に玉の汗が浮かぶ。何故地球政府が? そして内部に侵入者? 物理的に切断した回線に中継するとなると、研究所の中枢管理システムを知り尽くした者でなければ不可能。そんな者の中で、敵に回りそうな奴といえば――
 ――タツヤ・コバヤシ!
 クソ親父め! ここまできてついに牙を剥いたか。しかし何故地球政府が結びつく? ナノバーストを狙っているのは、ラウム社と《意志》ではなかったのか? いや。地球政府、ゼナート、ラウム社――それらが全て一つだとしたら? 全てが《意志》の内側にあるのだとしたら?
[なんてことッ! 南南西よりAC部隊接近! この機体は……]
 エリィの悲鳴が彼の意識を呼び覚ました。今は一秒たりとも、考えている時間はないのだ! 必要なのは決断。報告。そして指示!
[ゼナートフォースです!]
 ガッ。ケンジはコンソールに拳を叩き付けた。この世の組織という組織が全て敵――いや、これではまるで。まるで人類そのものを敵に回したかのようだ!
 ともかく彼がしなければならないことはただ一つ。命令を下すことである。
「館内全域にレベルF警報発令。敷地内への侵入者を即時排除せよ!」


 音もなくドアはスライドした。明るい廊下から灯り一つない部屋へ滑り込む。廊下に誰もいないことを確認してドアを閉じ、ロック。鼻先さえ見えない闇の中、ドアの横に貼り付いたコントロール・パネルにIDカードを通す。一握りのスーパーアカウントにだけ許された特殊コードを入力。監視カメラの映像を十分前から五分前の間でループさせ、無力化する。これでこの部屋には誰も入らなかったことになる。
 万全の体勢を整えてから、部屋の灯りを灯す。必要なくなった暗視スコープを眼から外し、手近な棚の上に放り投げた。なにせ、勝手知ったる我が家である。
 ユイリェン。三年前から一度も入ったことのない我が家に、彼女はようやく帰ってきたのだった。できることならば戻りたくはなかった。エリィおばあちゃんは死んだのだ。この部屋にいると、おばあちゃんの亡霊に取り憑かれてしまいそうだった。悲しみという名の亡霊。悲しみに勝たねばならなかった。過去に縛られてはならなかった。だから封印したのだ。おばあちゃんと一緒の思い出に満ちあふれた、この部屋を。
 しかし今、彼女はここにいる。探し物をするために。
 油断なく周囲の様子をうかがいながら、ユイリェンは奥へと進んだ。ジャケットの中に手を入れ、拳銃を取り出す。ここに忍び込んだことが知られれば、ユイリェンですら安全は保証されない。ここを封印していたのは彼女だけでないのだ。ケンジも――いやコバヤシコーポレーションそのものも、ガブリエラ女史の私室を固く閉鎖していたのである。
 ユイリェンは確信していた。敵の存在。レイヴンチーム・トランプル。ゼナートフォース。ギア。そして――ノイエ。なぜかいつも、ユイリェンは狙われていた。偶然ではない。みんな意図的だった。奴らは初めからユイリェンの敵だったのである。何かの因縁があるのだ。自分の身に覚えがないとすれば、あるいは自分が生まれる前の――
 それならば、答えはここにある。ここにしかない。
 目的の場所へ彼女はたどり着いた。おばあちゃんの部屋……一緒に住んでいた時も滅多に入れてくれなかった部屋。なんのことはない、ただのコンピューター・ルームだった。あの頃は、子供に高価な計算機を触らせたくなかっただけだろうと思っていたのだが。おそらく答えは違う。
 マザーコンピューターに目を付け、ユイリェンは電源を入れた。ケンジが最高レベルの機密区域に指定してまであの日のままに保ってきたものが、ここにあるのだ。
 コンピューターがパスワードを要求してくる。パスワードは二語。それぞれ文字数指定はなし。おばあちゃんなら、とユイリェンは考えた。必ず私にはわかるパスを指定しているはずだ。そして他の誰にも――少なくとも知られてはまずい人間には、わからないパスに。
 これはおばあちゃんの遺言だ。ずっと不思議に思っていた。あの日、あの時、なぜおばあちゃんはあんな言葉を遺したのか。どうして最後の最後にあんな言葉を発したのか。おそらくはこのため。
>CURSED
>BLOOD
 エンターキーを押すと同時にコンピューターは低いうなり声を立て始めた。正解というわけだ。おばあちゃんは謎かけが好きな人だった。なぞなぞだったのだ。呪われた血――それはパスワードであり、同時にユイリェンの敵を示していたのだ。ユイリェンに流れる血が、過去の因縁が、最も恐ろしい敵となることを!
>MY DEAR YULIAN
 思った通り、おばあちゃんはここに手紙を遺していた。最後の遺言状。全ての真実がここにある。おばあちゃんの想いが、ここにある!

 うつむき加減に部屋を滑りでる。真実の衝撃はユイリェンをしたたかに打ちのめしていた。事実はあまりにも残酷だった。現実はあまりにも過酷だった。今まで敵だと思っていたものは、敵のごく一部――ほんの末端部分に過ぎなかったのだ。本当の敵はあまりにも大きい。その存在が見えなくなるほどに。
 背中でドアが閉まるのとほぼ同時だった。周囲に耳障りなブザーが鳴り響く。ブザーの音と警告灯の明滅パターンでわかる。レベルFの緊急事態。通常業務を完全に停止させ全力で対処にあたるべし、という最高レベルの警報である。一瞬、忍び込んだのがばれたかとも思ったが、それにしては騒ぎが大きすぎる。
 やがて響き渡る館内放送。抑揚のない女性の声――エリィの声であった。
[館内全域にレベルF警報発令。館内に違法侵入者がある模様。発見次第即刻排除せよ。また、南南西より敵AC部隊接近中。戦闘要員はマニュアルEの項に基づき行動せよ。繰り返す――]
 侵入者? ユイリェンはしまっていた拳銃を再び引っ張り出した。彼女のすべきことは、ガレージに向かうことである。フゥルンで出撃すれば表のAC部隊くらいは片づけられるだろう。思うが速いかユイリェンは駆け出した。赤色灯に彩られた廊下を走り、T字路にさしかかる。ガレージへ行くには、右へ曲がってエレベーターで一階へ降りるのが一番早い。
 と。角を曲がった瞬間、黒い人影とばったり出くわす。全くの黒。頭の先からつま先まで漆黒の衣装に包まれた人影――ゼナートフォース! 侵入者とはこいつらのことか! 驚きに一瞬動きが止まったユイリェンに、黒ずくめの拳が迫る。とっさに両腕でブロック。しかし次の瞬間、横から来た蹴りが彼女を吹き飛ばした。壁に背中を叩き付けられよろめくユイリェンの首を、黒ずくめの左腕が鷲掴みにする。壁に首を押さえつけられ、身動き取れなくなったユイリェンの額に右手の銃をつきつける。
 黒ずくめの指が迷うことなく引き金を
 どちゃっ。
 頭蓋が吹き飛び、赤い血がユイリェンの頬を汚した。首から手を放す。力無く床に崩れ落ちる。ユイリェンは首を押さえ、二、三度激しく咳き込んだ。生きている。脳をぶち抜かれたのは私ではない――この黒ずくめだ。
 汚らしい血液を左の拳で拭い、同時に右手で落とした銃を拾い上げた。撃ったのはユイリェンではない。そうこうしている間にも、駆け寄ってきた男が角の向こうに発砲する。幾度か銃声が木霊し、やがて辺りは静かになった。ユイリェン自身もようやく落ち着きを取り戻し、ふらつきながらもなんとか立ち上がる。
「ルカーヴ……」
「来い」
 絶妙のタイミングで助けてくれた大男は、手短に吐き捨てるとエレベーターに駆け寄った。アッシュ・ブロンドとヘーゼルアイの大男。眼を隠すサングラスに、右手にぶら下げた大口径の拳銃。そして怖いくらいに決まりすぎたダーク・スーツ。全てがどことなくちぐはぐであり、まるで死体を寄せ集めた人造人間のような男だった。ケンジ直属の護衛、ルカーヴ。
 黒ずくめの死体は全部で三つ転がっていた。踏みつけないように気を付けながら、ユイリェンもエレベーターに向かって走る。丁度ドアが開き、彼女は中へ駆け込んだ。周囲に油断なく眼を配ってから、ルカーヴもその後に続く。ドアを閉じ、一階のスイッチを押す。うんうんと唸る音。背筋に走る悪寒。エレベーターはぐんぐん降りていく。
「どうして、ここに?」
「ケンジ様の命令だ。お前を護るようにと」
 ほっと溜息を吐きながら、ユイリェンはハンカチを取り出した。まだ拭い切れていない血を拭きとり、そのままハンカチを投げ捨てる。こんな血まみれの布、二度と使う気にはなれなかった。
 ケンジはどうあってもユイリェンを生かしておきたいのだ。ACがなければ、ユイリェンはただの少女にすぎない。つまらないことで大事な戦力を失うわけにはいかないのである。
「私はガレージに行くわ」
「わかっている」
 ルカーヴは懐からゴーグルを取り出し、ユイリェンに手渡した。どうやら偏光ゴーグルらしい。何をするつもりか知らないが、つけておけということだろう。少々無骨な黒眼鏡を装着し、両手で拳銃を構える。もうじき一階。ついたとたんに攻撃があるかもしれない。ドアの横にへばりつき、遮蔽を取る。
 チン。間の抜けた平和な音を響かせて、エレベーターのドアは開いた。
 果たして飛び込んでくる無数の銃弾。しばらく身を隠したままやりすごす。やがて攻撃は止んだ。外からは、エレベーターに誰も乗っていないように見えただろう。しかし注意深く様子をうかがうその行動が、命取りとなる。
 ルカーヴは左手に持っていた小さな箱をドアの向こうに放り投げた。途端に弾ける目映い光。閃光手榴弾。外の小さなうめきを聞きながら、二人はエレベーターから飛び出した。眼を押さえ床にうずくまる黒ずくめの男たち。何喰わぬ顔でルカーヴは引き金を引く。一人、また一人と始末を負え、彼はガレージへの道を急いだ。ユイリェンがしたことと言えば、遅れないように後を付いていっただけである。
 邪魔なゴーグルを外し、ユイリェンは足元に目を遣った。転がる死体――黒い者、そうでない者。白衣を着た研究員。恐怖を顔に張り付けたまま凍り付いた死体から、思わず彼女は目をそらした。自分のせいなのかも知れない。彼らが死んだのは自分のせいなのかも。今はっきりとわかった。自分の血は呪われている。この呪いを断ち切らねばならないのだ。
 廊下を駆け抜け、第二ドームへの連絡通路に入る。遠くで聞こえる銃声。悲鳴。そこかしこで黒煙が立ち上り、いくつもの命が消えていく。彼らを助けるためにユイリェンができることはただ一つ……一刻も早くACに乗って出撃し、敵部隊を退けることだ。前を進む大男に従って、ユイリェンはひたすらに走った。
 第二ドーム。ガレージまではあと少し。廊下を駆ける二人の前で、横手のドアがすっと開いた。中からどさりと倒れ込んでくる死体。少女。年の頃は十歳ほど――どす黒い血にまみれた少女が、壊れた人形のように床に転がる。その後からドアをくぐる黒ずくめ。手には黒い短機関銃。全身にまとわりついたどろどろの液体。返り血。
 瞬間、ユイリェンの中で何かが弾けた。
「おのれッ!」
 黒ずくめがこちらに気付くよりもはやく、彼女は二度引き金を引いた。一発目は首筋に、二発目は心臓に命中する。どぅと倒れ込む黒ずくめ。ルカーヴすらもが、撃つ必要のなくなった銃を降ろす。ユイリェンの反応は彼をも上回っていた。
 ぎりっ。ユイリェンの奥歯が痛々しく軋む。倒れた少女にかつての自分が重なった。だれか職員の子供であろう少女。ずっと研究所の中で育った少女。この子は自分と同じだ。ここに倒れているのはユイリェンという名の少女なのだ。私はもう死んだ。たった今死んだ。当たり前の少女としての自分は死に、後に残るのは――兵器。兵器としての自分だけ。
 再び彼女は走り出した。ガレージのハッチが見えてくる。あの扉は、ルカーヴには開けられまい。パイロットとして登録されているユイリェンのカードを操作盤に通し、開門コードを入力。厳重にロックされたハッチは音もなく開いた。
「伏せろ!」
 ルカーヴの叫び。それと同時に後ろから来る衝撃。大男はユイリェンを後ろから押し倒していた。ついさっきまで彼女の頭があった場所を、銃弾が三発通り過ぎていく。第一射をやりすごしてから手近なMTの足元に転がり込み、遮蔽を取る。既にガレージにはゼナートフォースが入り込んでいたのだ。確かに真っ先に占拠すべき場所ではある。
「私が活路を開く。走れ」
「了解」
 拳銃の弾倉を付け替えるやいなや、ルカーヴはMTの影から飛び出した。自ら囮になろうというのである。同時にユイリェンは逆方向に走る。ガレージ上のキャットウォークへ昇るリフトに飛び乗り、操作盤をいじってから身を屈める。鈍いうめき声をあげながらリフトは昇っていく。やがて上まで昇りきると、ユイリェンは一目散に走った。フゥルンはMT二機の向こうにある。距離はおよそ15m。
 その間にも下から銃声が響いてくる。何かの機材に隠れて銃撃戦を繰り広げるルカーヴ。それから少し離れて――ちょうどフゥルンの目の前あたりで、輸送用MTを遮蔽にする黒ずくめ部隊。援護したいところだが、ここで撃てば彼が囮になった意味がない。ユイリェンはひたすら走り、ようやくフゥルンの目前までやってきた。操作パネルでコックピット・ハッチを開くと、専用ワイヤーを伝って操縦席に躍り込む。
 ハッチを閉じると同時にジェネレーターを起動する。ヴンヴンと空間が震える。漆黒の闇に灯るコンソールの灯り。モニターにデータが映し出される。アクセスコード、認識パス。今まで何千回と繰り返してきた起動作業。全てを数秒で片づけると、外の様子が大きく映し出された。無機質な柱とキャットウォークが構成するガレージ。立ち並ぶMTやAC。ふらふらと輸送用MTの影から歩み出る黒ずくめ。構造材の影にわだかまる赤い塊――ルカーヴ!
 思わず彼女は映像を拡大した。アッシュブロンド。2mに達しようかという体躯。間違いない、あの男だ。そして床に広がっていく赤――ぴくりとも動くことのない体。床に転がった大口径の拳銃。黒ずくめが歩み寄り、右手の銃を一発、二発。ルカーヴの体が二度ほど痙攣し、また動かなくなる。仲間に向かって頷く黒ずくめ――
「貴様ァッ!」
 叫びながらユイリェンは操縦桿を倒した。途端に機体を襲う衝撃。機体が動かない。両の瞳を見開いてユイリェンは外部を確認する。左腕にまとわりついたオレンジ色の塊――噛んだ後のガムのようなものが、左腕を柱に固定してしまっている。電流凝固性ベークライト! 見れば、黒ずくめの一人がバズーカ砲のようなものをこちらに向けている。樹脂と発電源を込めた砲弾を撃ち込み、着弾と同時に電流を流す。すると樹脂が固まって相手を固定するというわけだ。なるほど、生身でACに対するには有効な手段。
 しかし。
「小賢しい!」
 こんな小細工で、今のユイリェンは止まらない。フゥルンの左腕が青白い閃光を放った。レーザーシールド。高濃度プラズマの奔流が、ベークライトを打ち砕く。もはやこの紅鬼を止められる者はいない。フゥルンの単眼がぎらりと煌めいた。右腕を掲げる。後ずさる黒ずくめどもに狙いを定める。引き金を引く。エナジーバズーカが放つ光の砲弾が、一瞬にして敵を蒸発させる。
 容赦など。容赦などするものか。
 格納スペースからゆっくりと歩み出ると、ユイリェンは外部ハッチに機体を向けた。いちいち開くのも面倒だ。バズーカでハッチを粉砕し、過加速走行のスイッチを入れる。きゅう。子犬の鳴き声。死をもたらす子犬。
 フゥルンよ、私となれ。ユイリェンは両の瞳を静かに閉じた。今は亡きペンユウに代わり、この私の皮膚となれ。手となり、脚となれ。私の心を体現せよ。私は怒っているのだ。
 私は今、激烈に怒っているのだ!
 ユイリェンは眼を見開いた。


 次々と送られてくる被害情報。ケンジはその度に瞳を閉じた。目を開くと見える気がした。耳を傾けると聞こえる気がした。死に行く者達の姿。悲鳴。悲しみ。なぜ自分が殺されるのかすらも分からず、不条理な死に怯える部下達。すまない――ケンジには心の中でわびることしかできなかった。僕がもう少し、早く気付いていれば――!
[中継ユニットを発見……フィードバックで灼きました。情報はなんとか護りきりました]
 エリィがもたらす唯一の朗報も、ケンジを喜ばせはしなかった。まだ問題は三分の一しか解決していないのだ。
「館内の侵入者は?」
[第三ドームは全滅です。第二ドームは50%、第一ドームも20%が占拠されています。死亡者は300人を超えた模様――]
 この研究所の職員はおよそ1000人。この短時間で三分の一が殺されたというのか。己の無力さが身に染みる。ケンジの奥歯がぎりぎりと軋む。必要なのは決断。一刻も早い判断と決断と命令なのだ。
「全区画の隔壁を閉鎖。敵部隊のいる区画にIDGを流し込め」
 ほんの一瞬、エリィが沈黙した。驚きと、反発と、半々だったのだろう。ケンジはこう言っているのだ。職員ごと敵を閉じこめ、そこに即死性の毒ガスを撒けと。もちろんいくらかの味方も犠牲にして――
[そんな! それでは……!]
「これ以上被害を広げるわけにはいかないッ!」
 ほとんど悲鳴にも似た命令に、エリィは小さく了解の意を告げた。許してくれ、とは言わない。ケンジは大きく息を吸った。納得してくれとも、理解してくれとも言わない。好きなだけ恨んでくれ。この僕を恨んでくれ。それでも僕は決断しなければならない。より多くの人間を救うために、より少ない人間を殺さねばならない。謝ることもしない。謝って慈悲を請おうなんてつもりはこれっぽっちもないのだ!
 これで、もう三分の一も終わり。残る一つ――ケンジはモニターに映るAC部隊を見つめた。研究所の防衛部隊はすでに機能していない。戦力はたった一機だけ。紅い鬼。コバヤシコーポレーション最新型実験機、CAC−FR01『フゥルン』。そしてそのパイロット――ユイリェン・タオ・スギヤマ。
 頼む――ユイリェン! この戦いが最後だ。君の最後の戦いだ。僕が最後にしてやる。もうこれで終わりにしてやる。敵の姿がこの眼に見えた。だからこれで終わりなのだ。だから、ユイリェン――
 勝て! 勝って、大空に羽ばたくんだ!

 ドンッ! 空間が弾ける。フゥルンは過加速走行のままガレージを飛び出した。煌めく星空を覆い隠す噴煙。視界のあちこちで立ち上る炎。そして――空の上で瞬くいくつもの光。過加速走行を停止させ、地面に着地する。もうもうと巻き上がる砂煙が一瞬視界を塞いだ。
 速い。エリィの言ったとおり、機動性はペンユウより圧倒的に上だ。これならおそらく、今までにない力が出せる。しかも長年乗り慣れたかのようなレスポンス――ペンユウからデータ移植したせいだ。生きている。かつての愛機は、この新型の中に受け継がれているのだ。
 レーダーがピッと冷静に音を出す。上空を飛来する機影。機数12。機体名『ハンマーヘッド』。コバヤシコーポレーションが特殊部隊用に製造した機体。機動力を重視した逆関節型ACで、武装は腕部内蔵型プラズマカノンと肩装備Mミサイル。典型的な強襲用。
 こんな機体を使うの敵はただ一つ――ゼナートフォース。後悔させてやる。ユイリェンはぐっと操縦桿を握った。私をここまで怒らせたことを、心の奥から後悔させてやる!
 フゥルンはブースターを噴かし、空中へ飛び上がった。それと同時に再度過加速走行発動。圧倒的加速度がユイリェンを押しつぶす。肺が潰され、呼気が口からあふれ出す。こんなもの! ユイリェンの脳裏に血まみれの少女の姿が浮かんだ。あの子の苦しみに比べれば、この程度の重圧など!
 輸送機から敵の機体が切り離される。呑気に自由落下で降下するハンマーヘッド。紅い鬼は飛んだ。真っ黒に塗装された敵機体に、真っ正面から突っ込んだ。慌ててブースターを噴かし、回避しようとする敵――しかし遅い。フゥルンの左拳がぎらぎらと輝き、ハンマーヘッドのコアに叩き付けられる。
 降下開始から一秒後の出来事。不幸な一機が、初めの犠牲者となった。コアは装甲ごと粉々に砕かれ、爆発、四散する。
 ――まずは一匹。
 そしてフゥルンが着地する。敵陣のど真ん中。11機が群を成して着地する真ん中に、フゥルンは降り立った。あまり距離を空けすぎてはならない。もし離れすぎて逃げられでもしたらことだ……一匹残らず駆逐せねば。
 とりあえず無造作に引き金を引くと、ユイリェンは使ったことのない補助ブースターのペダルを踏んだ。エナジーバズーカが火を噴くと同時に、肩の旋回用加速器が作動する。百八十度向きを変え、過加速走行。後ろを取ったと思って浮かれていた一機に突っ込み、左腕のシールド・パンチをくれてやる。弾け飛ぶハンマーヘッド。遙か後方で、バズーカの砲弾に当たって燃え上がる別の機体。これで三匹。
 ようやく敵も動き始める。まずは第一波、遠方の二機が空中に飛び上がって十数発のミサイルを放つ。同時に地上三機が狙いも定めずプラズマカノンを乱射。残り四機は数秒タイミングをずらして同様の砲撃。愚かしい。あまりにも無様だ。たった一機の敵相手に、無差別爆撃で対抗しようというのか。それとも――
「私がそんなに怖いのかァッ!」
 ゴウッ! 耳を劈く爆音とともに、フゥルンが空を駆け抜ける。ミサイルの誘導装置が捕捉できなくなるほどの相対速度で弾幕に突っ込んでいく。プラズマ砲弾二発を右に動いて回避、ミサイル五発の隙間をくぐり抜け、ブースターで宙に浮き上がってプラズマ三つを飛び越える。左からきたプラズマをシールドで叩き落とし、同じくミサイルを地面すれすれまで降下してかわす。右前方からきたミサイルの群、そしてその向こうのハンマーヘッドに向かってエナジーバズーカを撃ち込む。
 光の砲弾はミサイルの壁をくぐりぬけてハンマーヘッドを打ち砕いた。フゥルンは真上に過加速走行で上昇し、ミサイル群を上に誘導する。上空で過加速走行停止、真下に向かってバズーカを一閃。ほとんどのミサイルを撃ち落とし、残りは自由落下とブースターの速度で回避。そのまま真下のハンマーヘッドに光の砲弾を叩き込む。光の雨に貫かれ、黒い機体が一瞬で鉄屑と化す。
 四匹、五匹! ユイリェンは無表情だった。
 着地した瞬間に旋回加速器で方向転換、遠距離にいたハンマーヘッドをロックしてミサイルを発射する。すぐさま子犬の鳴き声、過加速走行発動。正面からのプラズマ弾を真横にスライドして回避、直角に進路を折れて第三ドームわきにいた一機に突っ込んでいく。左腕のシールドを発動。慌てて逃げようとする敵ACの脳天を殴り、ドームの外壁に叩き付ける。壁にめり込んだコアにもう一撃。背中の方で多弾頭ミサイルが分裂し、ハンマーヘッドを包み込んで炸裂した。ついでといってはなんだが、ふらふらと接近してきた一機にもバズーカをくれてやる。巻き起こる爆発。
 六。七。八。
 ユイリェンは細く長く息を吐いた。蛇の鳴き声のような音が、彼女の白い歯の隙間からこぼれ出る。しゅう、しゅう。体が火照っている。しっとりと柔らかな汗が全身を包む。憤怒は激情を産み、激情は興奮を産み、興奮が高揚を産む。高揚が憤怒を倍加させる。最悪のヴィシャス・サイクルが彼女を閉じこめる。どこまで行っても怒り。暴走した反応炉のように、怒りのエネルギーが果てしなく増長する。怒りの核爆発――
 レーダーの様子がちらりと目に入った。遠ざかっていく赤い点。踵を返し、一目散に逃げていく敵機。愚かで忌まわしい屑どもめ――ここまで私を怒らせて、生きて帰れるとでも思っていたのか!
 ――きはぁぁあっ!
 息を吸いながら叫ぶ。肺一杯に血なまぐさい空気を満たし、同時にユイリェンは咆吼をあげた。喉笛を空気の擦れる音。獣の唸り。フゥルンの背中に青白い光が灯る。子犬の鳴き声も、今や死神の嘲笑にしか聞こえない。ゆっくりと、フゥルンは振り返った。燃え上がる残骸から立ち上る陽炎。紅い鬼の姿が揺らぎ、じわりと辺りに広がった。
 熱夢。今のユイリェンを形容する言葉があるとすれば、それは――熱夢の女王。
 ドンッ!
 陽炎を切り裂いてフゥルンが跳ぶ。背を向けたハンマーヘッドに追いすがり、頭部を左腕でひっつかむ。そのまま過加速走行の勢いで地面に叩き付け、ブースター逆噴射で停止。ハンマーヘッドの頭をぐしゃりと踏みつぶし、バズーカの砲身をコアに向ける。ユイリェンの顔に満面の笑みが浮かんだ。引き金を引く。ACという名の棺桶ごと蒸発する敵。あと三匹。
 遠くで光が閃いた。逃げていた奴の一匹が、またプラズマを放ったらしい。そんなもの。シールドを展開し、青ッちろい光をはたき落とす。フゥルンのモノアイが、攻撃したらしい一機をぎろりと睨み付けた。ゆっくりとエナジーバズーカをそちらへ向ける。慌てなくても大丈夫。一匹だって忘れやしないから。
 適当に狙いを付けて、三発の砲弾を打ち出す。ブースターを駆使してなんとか回避するハンマーヘッド。全てをかわしきって地面に着地するとそこには――シールド・パンチを展開して待ちかまえていた紅鬼の姿。遅い遅い遅い!
「遅ォォいッ!」
 フゥルンの拳がハンマーヘッドを真っ二つに引き裂いた。燃え上がり、朽ち果てるAC。それを横目に見ながらユイリェンは今なお無表情だった。さっきの笑みは錯覚か。あの悪魔的な微笑みは?
 過加速走行で残骸の隣を通り抜ける。行く先には二匹のハンマーヘッド。一直線に並んで必死に逃げる。フゥルンは多弾頭ミサイルを一発放ち、四つに分裂したそれの後を追いかけた。接近に気付いて回避行動をとるも、ミサイルのうち一つのコアを貫かれる敵機。その頭上を飛び越えさらにフゥルンは走る。後一匹。最後の一匹! フゥルンは過加速走行を切り、そのまま慣性で飛び続けた。敵は目前。シールド・パンチ展開。急旋回ブースターで一回転、前進の運動量に回転の角運動量をおまけして、青の閃光がハンマーヘッドの背中をぶち破る!
 最後の一匹が粉々に砕けて、これでおしまい。全部片づけた。フゥルンの傷一つない装甲に、燃えさかる炎が映し出された。紅の上に重なる赤。熱夢の女王はすぅっと息を吸い込んだ。怒りはまだおさまらない。心が告げている。まだ終わっていない。まだ終わっていないのだ!

「なんだ……?」
 ケンジの口を吐いて出たのは、間の抜けた問いかけだった。冷や汗でびっしょりの額。黒い瞳に映る紅。炎の中で佇むフゥルン。戦闘の一部始終を目撃していながら、彼は恐れにかられていた。まるでこの紅い鬼が――あの可愛らしい少女が、今にも自分を殺しに来る。そんな気がした。
「これは一体なんだというんだッ!?」
 信じられない。それが全ての想いだった。相手はゼナートフォースの特殊部隊。機体の性能も、パイロットの腕も、一年前に襲撃を仕掛けたレイヴンどもと同等かそれ以上のはずだ。それを――そんな相手12機を、たったの三分半で全滅させたなどと。そんなことが信じられようはずがない。
 あることに気付いて、ケンジは両の瞳を見開いた。まさか。
「まさか……『奴』か!」
[いいえ、『闇の王』ではありません。あれはユイリェンです――今は、まだ]
 それらしい兆候は見られないし、それに――ユイリェンの『闇の王』は死んでいる。ただそこにあるだけで機能していない。そのはずだった。あっても機能していない以上、ユイリェンは人間であるはずだった。『闇の王』ではない――はずだ。
 この尋常ならざる戦闘能力は、彼女がこの一年で腕を上げたと考えるか――あるいは怒りによって集中力が増したとみなすべきだろう。十五年間も沈黙を保っていた脳が、今になって突然動き出したとは考えにくい。『闇の王』はあくまでも飾り物。ユイリェンは一生涯、それを制御する術を身につけられないのだ。
「――僕はユイリェンの所へ行く。落ち着かせなければ、危険だ」
[待ってください。何か反応が――]
 エリィは戸惑いながら研究所周辺を策敵した。館内の敵勢力はIDGで全滅。ネットワーク侵入者は排除完了。外のAC部隊も壊滅。それで終わりの筈だった。しかし――外だ。研究所の周りに広がる森の中、巨大な物体が移動している。全高7mほど。ACと同程度の大きさ、質量。しかし――
[AC大の物体が森からこちらに接近しています]
「敵か?」
[わかりません。識別信号はおろか、ジェネレーターパルスも駆動音も感知できません。これではまるで――]
 はっと、彼女は息を飲んだ。もし肉体があったなら、そうしていただろう。そう、それはまるで、まるで――
 ――生物。

 ずしり、とした重圧がユイリェンの胸に届いた。重い。何か巨大なものが近くにいる感覚。方向も距離もわかる。東の森の中、およそ1kmほど先。がさり、がさり。音まで聞こえる。レッドウッドの森の中を、縫うように歩んでくるもの。巨人。フゥルンと同じ――巨人。機械ではない。正真正銘、本物の巨人。
 『それ』を真正面から見据え、ユイリェンはモニターを拡大した。陽炎のむこう。炎のむこう。揺らぎ、赤く染まった空気の中に、そいつはいた。一見して、手足の細長い猿のようであった。ただし体毛は一切無く、代わりに甲虫か蟹のような外骨格が全身を覆っている。頭は蟷螂のような形。せむし男のように前屈みで、だらりと垂れた腕はほとんど地面に擦りかけている。その腕の先には、やはり外骨格で覆われているものの、人間とほとんど変わらない形の指が生えている。そして身長はおよそ7m。
 機械ではない。生物でもない。ユイリェンはそれが何なのか知っていた。こんなでたらめな、生物の出来損ないなど一つしかありえない。
「やはり来たのね――ノイエ」
 にやり、と『それ』が嗤ったような気がした。虫酸が走る笑み。密かにユイリェンはコンソールを叩いた。エリィに伝言を送る。研究所周辺をサーチして。もはや怒りは収まっていた。冷静さだけが彼女の中にあった。探して。灰色の髪と、灰色の瞳と、灰色のコートの、中年の男。背丈は――
『無駄だよ、ユイリェン』
 ぴたりと彼女の手が止まる。通信機があの声を吐き出した。ねっとりとした、気色悪い声。聞くだけで耳がべとついてしまいそう。相手の心に忍び込み、破壊する声。正体不明、恐怖でも畏怖でもない、ただ敵対心を煽る声。灰色の男――ノイエ。
『探したって、私は君が思っているような場所にはいない。とても意外な場所にいるんだ。驚かせてやろうと思ってね』
「何が目的」
 ふっ、ふっ、と苦笑が流れてきた。額を、脇の下を、気持ち悪い冷や汗が流れる。一瞬たりとも集中を解くわけにはいかなかった。瞬きするほどの間だけ気を緩めたとしても、確実に喉笛を噛み切られる。そんな気がした。
「何を望む――何を欲する。こんなにも壊して――燃やして。一生懸命生きている人々を、無垢な少女を、引き裂いて殺して一体何を求める!?」
 それは悲鳴だった。ユイリェンの悲鳴だった。苦しみ。悲しみ。死。未だかつて知ることの無かった感情の群が、次から次へとユイリェンに押し寄せた。心の洪水。炎。残骸。死体。見るもの、触るもの、感じるものの一つ一つが、ユイリェンに新たな感情を教えていく。気付かなかった心の扉を、留まることなく開いていく。苦しい。悲しい。ユイリェンは悲鳴をあげた。自分のものでない感情を必死に受け止め、包み込むように。
 悲しかったのだ。あの、ユイリェンが。
『君はもう気付いているはずだ。《我等》の正体。真の姿。それは――』
「――人類」
 また、『それ』がにやりと嗤った気がした。

 なんだと? 通信を傍受しながらケンジは眉をひそめた。ユイリェンは一体だれと話しているのだ。相手も《意志》――連中風に言えば《我等》――の一部らしいが。なぜユイリェンは、敵の正体を知っている?
 彼の疑問を感じ取ってか、エリィが一方的に報告する。
[さっき、ユイリェンから通信が送られてきました。途中で切れてますが、灰色の髪、灰色の瞳、灰色の服の中年男性を捜せと……]
「灰色? おい、それは――」
 その瞬間、彼の中で全ての糸が繋がった。灰色の男。そうだ、あの年からもう33年――今ごろは中年男性に違いない。ユイリェンの言う灰色の男とやらがあいつなのだとしたら、ユイリェンが本当に《意志》の存在に気付いたのだとしたら、間違いない!
「女史の遺言状を見たのか、ユイリェン!」
 エリィの動きが凍り付いた。

 おばあちゃんの遺言状には、こう書いてあった。
 もし今から一時間、時間が遡ったと仮定する。この宇宙に存在する全ての粒子が一時間前の位置に戻り、一時間前のエネルギーと一時間前の速度、一時間前の運動量に一時間前の電荷、一時間前のエントロピーを持ったとする。そこから時間の流れを再開して、一時間が経ったとしたら――元の状態に戻るだろうか? 時間を戻す前と全く同じ結果になるだろうか?
 もし繰り返して同じ結果が出るとしたら、それは次のようなことを示している。
 この宇宙でこれから先起こる出来事は、全てあらかじめ決まっている。
 未来は既に決まっているのだ。全く同じ現在を与えれば、全く同じ未来が得られる。何万回試したところで、同じ現在からは同じ未来。既に一つの現在が決まってしまった今、この先訪れる全ての未来は決定されているのである。
 ならば、それを予測できたら? 現在の様子を全て知ることができたら? 未来を知ることができないだろうか。人類の、いやこの宇宙がたどる運命というものを、全て見極めることができないだろうか。
『それが、《我等》』
 ノイエは楽しそうに言った。本当に楽しそうで、むかっ腹が立った。
『人類の運命を算出する方法が、かつて発見された。その方法こそが《我等》。《我等》は明確な組織ではない――その方法に、各人それぞれが従っているだけなのだ。
 しかし《我等》は完全ではない。初期値が不完全であるために、ときおり揺らぎが生じる。《我等》と人類の永続性を脅かすもの――ナノバーストや、スフィクスや、君のような。それを排除するのが、《我等》の内側に生きる者の役目』
 ぶわり。『それ』が右腕を持ち上げた。ゆっくりと、フゥルンを――ユイリェンを指さすように。節くれ立った外骨格がぎちぎちと軋む。無駄に長い腕が地面と平行に伸ばされる。腕が右を向く。ぞくりとユイリェンの背筋を走る悪寒。長い長い腕の先にあるもの――第一ドーム!
 ぎゅうっ!
 奇妙な音。重ね合わせた分厚いラバーを渾身の力で擦り合わせたような音。『それ』の腕の外骨格ががぱりと開く。その奥から姿を現した漆黒の砲身。赤紫の光が収束する。死を振り撒く狂気の輝き。
「やめろォッ!」
 ユイリェンは過加速走行のスイッチを入れた。

 衝撃が世界を貫き通す。地上にもたらされた破壊は地下にまでも浸透した。ケンジは数歩たたらを踏み、倒れそうになりながらもなんとか端末にしがみつく。赤い光。けたたましいサイレン。ぐぐぐと頭上で唸っている巨大コンピューター。キャットウォークの一部が壊れ、金属パイプが床に転がって音を立てる。鬱陶しい!
[敵プラズマ砲弾、第三隔壁まで貫通!]
 エリィが悲鳴をあげた。まるで感情があるかのように装って。
[居住区――避難者に被害……死傷率30%!]
 ぎりっ。ケンジの歯軋りが人知れず響き渡った。

 フゥルンの左腕が輝く。ドームを攻撃した体勢のまま硬直する『それ』に突っ込み、拳と一緒にプラズマの塊を叩き付ける。『それ』は拳の届く直前に空中へ飛び上がった。『それ』の背中の外骨格ががぱりと開く。中から吹き出す透明の炎。過加速走行並の速度でフゥルンの頭上を飛び越える。『それ』は地面に体を叩き付けるように着地し、土をガリガリと削りながら停止する。振り向きざまに右腕を伸ばし、フゥルンに向かって光の砲弾を放つ。
 舌打ちする暇もなくユイリェンはペダルを踏みつけた。補助ブースターで無理矢理旋回し、狙いも定めずトリガーを引く。一瞬のラグを置いて弾けでる青白い光、エナジーバズーカ。蒼白と赤紫がぶつかり合い、己の持てるエネルギーを無差別に撒き散らす。研究所一帯を吹き抜ける熱風。
「どこだッ! どこにいるノイエ!」
 多弾頭ミサイルを一発放ち、その後を追って過加速走行。『それ』もまた不可視の炎を吹き出して真っ正面から突っ込んでくる。あまりの相対速度に多弾頭ミサイルのセンサーが捉えきれない。分裂すらせず『それ』の横を通り過ぎる。しかしこれも予想の範疇である。フゥルンの左腕にプラズマがまとわりつく。本命はこちら。
『ここだよ、ユイリェン!』
 ――ここ?
 一瞬の疑問が判断を鈍らせる。気が付けば『それ』は左腕を振り上げ、フゥルン目がけて叩き付けようとしていた。長い腕全体からほとばしり出る赤紫の輝き。ユイリェンのシールド・パンチをさらに拡大したような――プラズマ・ラリアートとでも呼ぶべきか。ともかくこのままでは良くて相打ち。やむを得ずユイリェンは拳を相手の腕に叩き込んだ。
 二つのプラズマが弾け、周囲の空間を震撼させる。空気の場。電荷の場。重力の場。その全てが音・光・質量となって歪んでいく。吹き飛ばされるフゥルン。自ら後ろへ飛びすさる『それ』。
 ――ここ、だと? ユイリェンの疑問はいまだ消えていなかった。
『ギア。それは戦闘用の生物に、優れたパイロットの脳を埋め込むことで完成する兵器――
 一号機ヴァルゴ・ギア。二号機アクセル・ギア。三号機ジョニー・ギア。そしてこのギア四号機!』
 すぅっ。ユイリェンは眼を細めた。この男。
『ノイエ・ギア――否、《ノイギーア》! そうともユイリェン、今や私の脳はこのNEUGIERの中にあるッ!』
 どう。瞬間、『それ』――ノイギーアが弾けた。そう見えた。ノイギーアの肩を覆う外骨格が裂け、八発のミサイルが躍り出る。白い糸は蜘蛛の脚のように蠢き、フゥルンを絡め取ろうと忍び寄る。後退しながらフゥルンはバズーカを構え、ミサイルの群に目がけて発射した。しかしその瞬間、八発のミサイルが分裂する。多弾頭ミサイル! 今や数十にまで膨れあがったミサイルの壁にプラズマ砲弾が衝突する。爆発、四散する数発。
 流れ落ちる冷や汗を感じながら、ユイリェンはペダルを踏んだ。補助ブースターで急速旋回。踵を返して過加速走行発動。ミサイルを後ろに引き連れて、時速800kmの速度を保ったままレッドウッドの森へ突入する。あまりの速度に融けた飴のようにしか見えない木々の間をくぐり抜け、無数のミサイルを森という名のアンチミサイルで迎撃していく。ミサイルの爆発が次々と木をなぎ倒す。残り三発まで減ったところでフゥルンは森の上空へ躍り出た。その後を追い上昇してくるミサイル。一発目をバズーカで、二発目をシールド・パンチで薙ぎ払い、最後の一発の横をすり抜ける。
 着地する暇もなく再び過加速走行。フゥルンの真上から叩き降ろされる赤紫の光。すんでのところで回避し、フゥルンは研究所構内に戻った。こちらの動きを読んで遥か上空に昇っていたノイギーアもまた、その後を追う。先に着地したフゥルンの背中めがけ、赤紫をもう一発。
「狂っているわ!」
 追うノイギーアのプラズマ弾を横っ飛びでかわし、着地するより先にフゥルンは急速旋回した。蟹だか猿だか蟷螂だかわからないノイエのなれのはてを正面に見据え、バズーカを二発。ただの牽制である。当たるなどとは思っていない――事実、回避された。
『狂うほどに好きなのさ。愛しているんだよユイリェェェン!』
 左腕を真っ直ぐ前に突きだし、ノイギーアが突進する。無論腕を包むプラズマの雲。槍騎兵さながらのチャージを半身ずらして回避すると、フゥルンはお返しのシールド・パンチを叩き込んだ。ノイギーアの胴がぐちゃりと蒸発しつつ吹き飛ぶ。相手はあくまで生物兵器。一度攻撃を当てさえすれば、いかに外骨格といえど大した装甲にはならないはず――
 瞬間、ユイリェンの背筋を冷たい氷が流れ落ちた。慌ててペダルを踏みしめ、ノイギーアのそばを離れる。つい一瞬前までフゥルンがいた空間を、赤紫の輝きが貫き通す。ノイギーアが左腕を振り回したのだ。その動きには一辺のかげりもない。
『忘れたのかァい? ギアは不死身ィ、ギアは再生するゥ!』
 ぼごっ! 完璧に吹き飛んだ胴の大穴で、ノイギーアの黒い肉が蠢いた。ごぼごぼ、水の中で息を吐いたような音を撒き散らし、肉は急速に盛り上がる。白濁した液体を吹き出しながら肉は完全に傷口を塞ぎきった。あまつさえ、突き破られた外骨格までもが綺麗さっぱり再生する。
 ギアの肉体は一種の癌細胞によって構成されている。寿命を持たず、栄養と環境さえ十分であれば永久に分裂増殖しつづける細胞。癌細胞はノイエの脳によって制御され、ノイギーアの肉体が傷つくと急激な増殖をはじめる。結果、兵器として高度な再生能力を有するのである。
『愛するとは失うことだァ! 最高の愛とは殺すことなんだよ、なぜなら、なぜなら死ねば誰にも殺されない、私が殺せば私以外の誰にも殺せない、私以外の誰もきみに干渉できない、それって究極の愛情表現だってそう思うだろォユゥゥイリェェン!』
 反吐がでる。こいつは究極のサイコ野郎だ。今しがたまで怒りに歪んでいたユイリェンの顔が、ふっとやわらいだ。無表情。能面のように不気味な無表情。手加減抜きの戦いなど――命を賭した戦いなど、この二流相手には勿体ない。
 ユイリェンの真っ白な指先がコンソールを踊った。男の胸板を撫でるように優しく、滑らかに。しかし素早く。プログラムを終え、ユイリェンはトリガーを引いた。肩のポッドから発射される多弾頭ミサイル。自分は少し後退する。
『情けないだろ……私はもう四十過ぎのおじさんさ。ふふふそれが一目惚れだァ、あの女にそっくりなんだもの、最初に《我等》の敵となったあの女に! アアたまんないねェ体液と血にまみれて戦う思春期の少女ォはぁぁ感じるきみにぞっこん私はもう気分は絶頂だァァッ!』
 ノイギーアの背中が開け、不可視の炎が体を吹っ飛ばす。全速力でミサイルに突っ込んでいく。さっきと同じ対処法。甘すぎる。何も考えずに同じ戦法を使うはずがない。このユイリェンが――再生するのなら、その暇もなく全て破壊すれば良いのだ。
 ドシュ。
 目前、圧倒的相対速度でミサイルの横をすりぬけようとする寸前、ノイギーアの目の前でミサイルが爆発した。そうプログラムしたのだ。もうもうと巻き起こる爆炎。ノイギーア自身は無事。しかしその視界を、分厚い土煙が覆い隠す。
『なんだァ!』
 叫ぶノイエ。次の瞬間、真上から降り注いだプラズマの雨がノイギーアの肉体を蒸発させていく。右腕。左脚。頭。慌てて背中から火を噴き、ノイギーアはその場から逃げる。土煙を突っ切り、胴と右脚左腕を残すのみとなった外骨格猿が躍り出る。ごぼり、と傷口の肉が盛り上がる。じゅぐじゅぐと再生を始める。しかし次の瞬間。
 煙の向こうから現れる紅い影。駆け抜ける真紅。鬼。青白いエナジーバズーカの砲弾が再び唸る。残る二肢を吹き飛ばされ、ノイギーアはびちっと震えた。そのままフゥルンは左腕をもたげ、突っ込み、再生しようと藻掻くノイギーアの胴体を掴み取った。左手で薄汚い肉の塊を握りしめ、天高く掲げる。
『何を……』
 問いながら、ノイエの声は震えていた。相手の意図がわかったから。だから震えていた。恐怖にではない。歓喜に。自分が死ぬという喜びに。ユイリェンが、自分の愛する少女が、自分を殺してくれる。精一杯の愛情表現を送ってくれる。こんなに嬉しいことが他に有ろうか。相思相愛、これぞまさに悦び!
 ボンッ。
 弾けた。ノイエの胴。残された肉の欠片。左腕が展開した最大出力のシールドに触れ、最後のノイギーアは一瞬にして蒸発する。断末魔もなく。重みもなく。いともあっけなく。灰色の男は今や、完全に滅び去った。
 ふっ。小さく溜息を吐き出すて、ユイリェンはぽつりと呟いた。
「馬鹿にはつける薬もないな」

[ユイリェン――無事ですか、ユイリェン]
 エリィの声が聞こえてきたのは、どのくらい後のことだっただろうか。ともかくユイリェンは新たな相棒たるフゥルンの胎内でぼんやりと宙を眺めていた。終わった。終わった、だって? 何が終わったというのだ。襲撃は退けた。ノイエは死んだ。しかし《我等》とやらが消え去ったわけではない――
「無事よ」
 込み上げてくる吐き気を耐え、彼女は応えた。聞こえてくる安堵の声。しかしその奥に潜む悲しみを、ユイリェンは聞き逃さなかった。長年つき合ってきた姉だ。考えていることなど手に取るようにわかる。
 被害はきっと、少ないものではなかったのだろう。
[……ともかく、敵は退けました。中に入って休んで――]
 瞬間。
 ぞくっ。
 一瞬にして辺りの空気が凍り付いた。殺気。科学では言い表せない空気の流れ。圧倒的敵意。強大な力。そんなものを感じさせる空気。まだだ。ユイリェンは一度乾いた汗が再び噴き出してくるのをはっきりと感じた。まだ敵はそばにいる。あれで終わりではない。
 それを感じたのはユイリェンだけではないらしかった。エリィもまた、びりびりと緊張して口をつぐむ。機械にもこれがわかるのか? いや、きっと彼女のことだ。広範囲レーダーに怪しい反応でも見つけたに違いない。
[所属不明AC接近中――機数1]
 言われなくてもわかっている。そいつは今――森を抜け、姿を現したのだから。
 全身を青で塗装した四脚型AC。すらりと伸びた、美しくも見える流線系の機体。右腕には小型の機関砲。左腕にはレーザーブレードの展開端末。肩は短砲身榴弾砲と、ミサイルポッドらしき箱状のユニット。青い蜘蛛。その全身から放つ異様な気配――
 その姿をまじまじと見つめ、ユイリェンは憎々しげに眉をひそめた。何処かで見たような機体。あの四つの脚を青い輝きが、彼を思い出させる。ユイリェンを置いてどこだか遠くへ行ってしまったあの男。無責任で弱くて情けなくて不器用でとびきりの馬鹿で――でも優しかったあの男。
 ああ。ユイリェンは声にならない叫び声をあげた。思い出すと腹が立つ!
「馬鹿みたいだわ!」
 先手必勝。ユイリェンはモニターを睨み付けながら、操縦桿を捻った。バズーカを青い蜘蛛につきつける。そのまま流れるようにトリガーを

 引かなかった。
 つぅ、と額を汗が流れ落ちる。汗の粒は鼻筋を伝い、薄桃色の唇からぽたりとしたたった。馬鹿な。驚愕。動揺。考え得るあらゆる言葉で自分の心を形容する。いや違う。そんなものではない。畏怖。今、彼女は、目の前で起こった現実を畏れている。
 消えた。
 あの青いACが、忽然と消え去った! 目を離してなどいない。一瞬たりとも意識をそらしてはいない。瞬きの一つだってしてはいない。それなのに、まるで魔法のように、目の前でACの巨体が消えたのだ!
 以前に一度だけ。ユイリェンはこれと同じ現象を視た。
 恐る恐る、後ろを振り返る。佇む青。燃えさかるドームの外壁を背に、美しいコントラストを描き出す青。たった今消え去った青い機体。今やユイリェンの畏怖は、ただ一つの疑問に掻き消された。
 どうして。
「どうして――あなたがここにいるの――」
 かすれた声で問うことが、彼女にできる精一杯だった――
「答えて!」

To be continued.