ARMORED CORE 2 EXCESS FINAL HOP
風が吹いていた。
風は留まらなかった。
風は自由だった。
自由とは、夢。儚く過ぎ去っていくもの。中にあって気付かず。手にしながらも求める。終わりのない渇望の輪廻。どこまでもただ、探し目指すだけ。夢の中にいるものは、決して夢に気付かない。夢の外にいるものは、決して夢を忘れない。夢を求めるのは夢の中にいるもののみ。夢を畏れるのは、夢の外にいるもののみ。自由もまた、然り――
いつだってそばにあったのに。気が付けば、もう、届かない。
そしてまた風が吹いた。柔らかで優しい風だった。風は雲を運び、雲は雨をもたらした。静かな雫は舞い降りて、猛り狂う炎を鎮めていく。少女の激情もまた、広い広い沈黙の世界に溶解していった。雨が全てを洗い流す。
「ウェイン」
少女は名を呼んだ。もはや二度と口にすることはないと思っていた名を。怒りは消えていた。悲しみも消えていた。目の前にある現実が全てだった。降り始めた俄雨を浴びる青い蜘蛛。宵闇の中、静かに佇む鋼鉄の塊。そしてそれと相対する自分。真紅の鬼。
『違うな』
彼の声だった。聞き間違えるはずもない。一つ屋根の下で暮らしてきたのだ。ともに命を預け合ったのだ。いつだってそばにいたのだ。聞き間違えなどするものか。それでも彼は言った。彼の声で、彼のものではない言葉を発した。違う、と。
『おれの名は――スフィクス』
嘘だ。あなたが彼でないはずはない。少女の指がわななく。少女の心がざわめく。あなたが彼でなくて、なんだというのだ。彼が戻ってきたのでなくて、なんだというのだ。スフィクスなどという名は知らない。求めてもいない。ただ還ってきてほしいのだ。彼に。ウェイン・ルーベックに。
『おれはウェインの裏側。あの男のもう一つの顔。おれの肉体も脳も、もとはあの男のものだった。しかし今は違う――おれのものだ』
青い蜘蛛がすぅっと腕を持ち上げた。紅い鬼の方にさしのべた。柔らかく、抱きしめるような手つきで、両腕を広げた。ような、ではないのだろう。彼は。青い蜘蛛は。本当に抱きしめたかったに違いない。
『おれは君を迎えに来たんだ、ユイリェン』
つぅ。背筋をしたたかな快感が走った。それを快感と呼んでよいものだろうか。少女にはわからなかった。ただ、指でそっとなぞられたような感覚があった。たまらなく心地よい言葉の愛撫。もはや彼の声以外に聞こえるものはなかった。彼の声が全てとなった。女の声がどこかで響く。誰の声。姉? しかし耳には入らない。誰かが止めているような気がする。聞いてはいけない、行っては行けない、と。そんなものに何の力があろう。少女を突き動かすこの衝動を、抑えられるものはいない。
『ユイリェン――君を愛している。さあ、一緒に行こう。どこか遠くへ――誰にも邪魔できない、おれたち二人だけの場所へ――』
無意識のうちに腕が動いていた。真紅の鬼が歩む。ふらり。ふらり。青い蜘蛛へと歩み寄っていく。糸にたぐり寄せられるように、自動的に。私はこれを求めていたのだ。少女は確信した。愛して欲しかったのだ。彼に囁いて欲しかったのだ。あまりにも切実に求めていながら、自らそれに気付かなかった自分。今やっとわかった。本当は、私は――
吐息が漏れた。愛おしい、たった一つの名前とともに。
「ウェイン」
A whole new World
まっしろなせかい
ケンジは長い溜息を吐いた。
副社長室の立派な内装。黒檀のデスクも、その上のロレックスも、何もかもが虚構のように思える。実のない影。こんなものに何の意味がある。金。権力。ひたすらに求め続けた力さえも。たった一人の少女さえもつなぎ止められない無力。
じっと自分の手を見つめる。細く長い美しい指がそっと机の上を這う。一体何を求めて蠢くというのだろう。
[被害状況の確認、終わりました]
いつの間にかエリィはそこに立っていた。無論、その姿は幻影だ。この部屋にある全てのものと同じ。ケンジ自身とも同じ。何一つ動かすことのできない幻。エリィの姿は、どことなくユイリェンに似ていた。無表情だった。悲しみも怒りも、表現することを忘れたのだろう。
[最終的な死亡者数は523名。残る職員508名には、現在復旧作業にあたらせています。物理切断した回線は修復完了。第三・第二ドームは一時的に放棄。第一ドームのみ、NBCシェルターを中心に稼働率は65%です]
「ユイリェンは」
消え入りそうな声で、ケンジは問いかけた。問うて答えがでるとは思っていない。ただ、何でもいいから変化が欲しかった。沈み、滅びそうになる自分の心――それを救い出すための変化。救いが欲しかったのだ。
しかしホログラフは首を横に振っただけだった。
[ユイリェン及びフゥルンは、ウェイン・ルーベックが搭乗していると思われるACの後を追ったまま行方不明……現状では捜索隊も組めません]
変化は無かった。
僕は、馬鹿だ。いつまであの娘に頼っているつもりなのだ。ケンジの脳裏をいくつもの幻影が去来する。幼き日の姿。圧倒的な力。心の奥底に抱いた畏れ。年端もいかない少女に対する畏れ。自分はそこから脱却せねばならない。自分の弱さから。恐怖から。自分の力で歩まねばならないのだ。
やることはたった一つしかない。もう……迷う時間は残されていないのだ。じっくり考えるのは死んだ後でも遅くはあるまい。
「エリィ。最小限の修復が終わったら、全職員をシェルター内に避難させろ。もし何かあったら……耐えるんだ。必ずコーウェンが助けに来る。それまで持ちこたえろ」
[――どういう意味ですか]
彼女の表情が、僅かに険しくなった。いや、そう感じたのはケンジの心なのかも。ただの見間違いなのかもしれなかった。
「すぐに通信を取り次いで欲しい。環境通信でだ」
[誰に――でしょう]
ふっ。ケンジは微笑んだ。優しく。少しの間忘れていた微笑み。やはりこうでなくては。女に湿っぽい顔など見せてはいけない。男はいつも優しく。余裕の表情。焦りも怒りも衝動もない。大地のように、優しく受け止めなくては。
「フィリップ・シルヴァーバーグ。裏ガバメント総帥に」
ぱちり。炎が爆ぜた。赤々と燃える炎の、なんと美しいことだろう。炎は美であり力。そのどちらも統べるもの。ユイリェンの一番好きな色。赤は決して男の色ではない。その力は男の暴力ではないのだ。赤は女の色。女の心を満たす、何よりも力強い炎の色。そしてユイリェンの色だ。
「ウェイン・ルーベックは、一度死んだ」
彼はぽつりと呟いた。変な気持ち。ウェインと同じ顔、ウェインと同じ体、ウェインと同じ声の男。その彼が、ウェイン・ルーベックなんて呼ぶ。自分のことをまるで他人みたいに呼ぶのだ。ユイリェンはじっと焚き火の炎を見つめていた。横で同じようにしている彼と一緒に。
「憶えているだろう……フィニールで、ギアに襲われた時に。ウェインは一度死に、蘇った。ノイエに、スフィクス細胞を埋め込まれてな」
「スフィクス、細胞」
一語ずつ、確かめるようにユイリェンは発音した。鼻に抜ける、フランス語みたいな音。それは彼の名前だ。彼は自ら名乗った。スフィクス、と。
「ノイエがラウム社に研究させていた兵器さ。ギアの逆。優れたパイロットに、生体ユニット――スフィクスを埋め込む。スフィクスは宿主の神経伝達と知覚能力を強化し、究極のパイロットを造り出す。
ウェイン・ルーベックの脳は、少しずつスフィクスに浸食されていった。操縦の技能も次第に上達していったはずだ。やがて折を見て、ラウム社の上層組織――E.C.C.がウェイン・ルーベックを回収した」
回収。馬鹿な。ウェインは信じていたのに。アリーナに戻り、強くなるんだと。信じていたからこそ、ユイリェンを置いて去ってしまったのに。それを回収だと。そんな風に――ウェインを物みたいに。
「そこでウェイン・ルーベックはスフィクスの覚醒手術を受けた。目覚めたスフィクスは、完全に肉体を支配する――はずだった」
不意に彼は立ち上がった。後ろへ、青い蜘蛛の足元へ歩み寄る。その隣に伴侶の如く立ち並ぶフゥルン。二つの兵器。鉄の塊。レッドウッドの森の中、二機の姿は完全に隠れているはずだ。追っ手に見つかることはあるまい。
彼が手を伸ばす。青色の装甲板を撫でる。愛おしげに、目を細めて。
「だがウェイン・ルーベックの意識はスフィクスと融合し――おれが生まれた。
生まれながらにしてウェインとスフィクス両方の記憶を持っていたおれは、スフィクスのふりをした。《我等》――いや、タオ・リンファに倣って《意志》と呼ぶべきか。奴らに従うふりをして、この機体を手に入れた」
エクセス、と彼は呼んでいた。この四つん這いで動く青い蜘蛛の名前、エクセス。超過。余り。超えたもの。相応しい名前かもしれない。
彼はくるりと振り返った。焚き火のそばに座り込んだまま、上目遣いに見つめるユイリェン。その姿を視線でなめ回す。つま先。脛。腿。腰。胸。肩。うなじ。唇。そして瞳。全てが完璧に調和した少女。何処をとっても特徴と呼べる特徴がない。だからこそ美しい。そんな少女。
「――君を迎えに行くために」
思わずユイリェンはうつむいた。なぜ彼から目をそらしてしまったのかわからない。ただ、直視できなかった。炎に向き直る。揺らめく赤を見つめる。やがて、隣に彼が腰掛けた。ユイリェンの肩を抱き寄せる。彼の腕の暖かさがじわりと肌に伝わる。ユイリェンは静かに目を閉じた。このまま。このまま、彼に全てを預けてしまっても。
「あなたは、ウェインなの?」
焚き火の音にさえ掻き消されそうな呟き。それは果たして、彼に対する問いかけだったのだろうか。ひょっとしたら自分自身への問いだったのかも。そも口に出した言葉なのかどうかも定かではなかった。
ふっと微笑み、彼は応えた。呟きを聞き取ったのか。あるいは心を読んだのか。
「おれは、おれだ。でも君が望むなら――おれは君のウェインになろう。君の求める形におれはなる。幸いにも、ウェインの記憶も肉体もおれの中にある――」
ユイリェンは目を開けた。
肩に乗せられた彼の手を優しくほどき、ユイリェンは立ち上がる。わからないのだ。自分の問いへの答えが、自分自身で。今はまだだめだ。知らなければ。わからなければ。彼が果たして誰なのか。ウェインなのか。それとも?
「私……少し眠るわ」
彼は短く、ああ、とだけ応えた。それから炎をじっと見つめて、それきり動かなくなった。怒ったのか? いや違う。そんな身勝手な男ではない。決意しているのだ。何かとても大切な、決意を。
「おやすみ。ゆっくり眠るといい」
――もうじき、大きなお祭りが始まるのだから。
『……それで、話というのは?』
老人は挨拶を早々と切り上げた。塵で汚れた初雪のように、白と黒が混ざった髪。同じ色の髭。やつれ細った痩身は、手に取れば折れそうにも見える。灰一色のスーツからしわくちゃの指が数本覗き、危なげながら震えもせずにステッキを握る。窪んだ眼孔の先に輝く黒真珠。ぎらぎらと闇色の光を放つ瞳。
この男、フィリップ・シルヴァーバーグ。地球政府最上位意志決定機関『ガバメント』の創立者――そしてそれを操る『裏ガバメント』の総帥。彼は地球の王なのだった。人類全ての王。
「少し援助をしていただきたいのですよ」
ケンジは押し殺した低い声で述べた。環境通信室の円卓に乗せた右の拳。仰々しく組んだ両足。決して礼儀正しい姿とは呼べない。相手はこの世の王だというのに――気まぐれに彼を殺す程度わけはないほどの相手だというのに。この圧倒的な自信、そして威圧感。フィリップはこれと同じ空気を放つ人間を一人、知っている。血は争えないものだ、タツヤ・コバヤシ。
『援助の内容と――そして見返りによる』
含み笑いが闇の空間に響き渡る。若い男の、ケンジの笑いであった。楽しんでいるのだ。ケンジは今、死を覚悟している。この交渉が一歩間違えば、彼の命はない。その危険を楽しんでいた。そうしている自分に驚き、かつ今までそうでなかった自分にも驚いた。これほどのスリル、これほどの悦楽に、なぜ自分は今まで気付かなかったのか。象を相手取る蟻の悦楽。姿も見えないほどスケールの違う敵。はたして、自分は狂っているのか?
「見返りならば、用意してあります……ああ、ご安心を。金などではとても足りぬということは、重々承知しておりますので」
ぴくり、と老紳士の眉が動く。対するケンジは氷の微笑。部屋を満たす沈黙。老紳士は考えているのだ。信用できるかどうかではない。ケンジに利用されることによって、どのような利益が自分に生じるかを。そのつり合いが取れなければ交渉の余地はない。交渉とは即ち、お互いに利用し合うこと。相手の求める利を与え、自分の求める利を得ることなのである。
『話を、聞かせてもらおうか』
老紳士は見極めた。この男には利用価値がある。
「それではまず、見返りの方から話を付けるとしましょうか。どうせこちらの求める物はご存知でしょうからね」
満面の笑みを浮かべつつ、ケンジの懐から一枚のディスクが躍り出る。銀色のディスク。何の変哲もない、どこにでもあるトリプレクス・ディスク。珪素の三層構造に灼き付けられた情報の塊。それは時として一曲のジャズであり、時として一冊の辞書であり、そして時として人類の命運を握る兵器でもある。
そんなに欲しいのならいっそのことくれてやれ。それが彼の――ケンジの戦略なのであった。
「見返りはこのディスクだ。何が記録されているか、説明は要りますまい」
『――ナノバースト』
しわがれた声。もはやこれ以上の説明は必要ない。老人は全てを理解したのだ。この契約で行われようとすることが何なのか。目の前の不気味な笑みを浮かべた青年が求める物が何なのか。そして自分の歩む道がどれなのか。
「我が社のホストコンピューターに収められていたナノバーストに関する情報は、全てこの中に収められている。ただし、厳重なプロテクトと暗号化を施してだ。それを解くためのキープログラムは……ここに」
もう一枚のディスクをひらひらと泳がせる。ケンジの白い指先。無造作に掴まれた銀色円盤。一体誰が想像するであろう。この無邪気な指が、今や玩具を扱うかのように人類の命運を弄んでいるということに。もしケンジがディスクを落として踏み割りでもしたら――人類は滅びる。永遠に。
「コンピューター内にあった情報は全て消去した。ジャミングもかけ、いかなる解析においてもデータの再構築は不可能です。つまりこの世にナノバーストの存在を示す物はこの円盤一枚となったわけだ。
これをあなたが持つ。キープログラムを僕が持つ。どうです? これならばナノバーストが《意志》の手の内にあるという体裁が整うではありませんか。ただその言語を解読できる人間がいない、というだけでね!」
老人は長い長い溜息をついた。なぜ今まで気付かなかったのだろう。これで全てが解決する。たった一つの冴えたやり方だ。しかしここまでたどり着くのに払った犠牲は、あまりにも大きかった。もう少し早く――あと一世代はやく、この青年が生まれていれば――
いや。それすらも運命なのだろう。この世の全ては決まっている。奇妙に思えるが、それは数学的に真実だ。私が精一杯悩み、青年が今この世に生を受け、そして人類の滅びを食い止める――それらも全てはじめから定まった運命なのだ。
『《意志》、か。なかなかに良い呼び方だ。《我等》などという名よりは余程』
左の手のひらを胸に当て、ケンジは光栄です、と呟いた。そして、この名を考えたのは自分ではない、とも。タオ・リンファ。人類史上初めての不適合者となったあの女。その先の人類の運命を大きく変えてしまった女。考えたのは彼女なのだ、と。
『不適合者がナノバーストという名の技術を用いて人類を滅ぼす。ナノバーストを《我等》が手に。
《意志》が出した結論はそれだけだった。たったのそれだけ……くだらん。全くくだらんな。我々は狂っているのかもしれん――たかだか数式に、己の持ちうる全てを捧げるなど――』
老人は自嘲気味の笑みを浮かべた。ケンジはそれをじっと見守っていた。もはや死を待つのみの老いた体。一体彼はどんな気分なのだろう。自分が一生をかけて護ってきたもの――その誇りも成果も、何もかも自分自身で否定せねばならぬ。間違いだったと認めねばならぬ。そんなとき、男は一体どんな気分になるのだろう。
少しずつ、老人の姿が薄らぐ。通信を切ろうとしているのだった。全ては終わった。《意志》との戦いは終わった。この終末を表現するのに相応しい言葉があるだろうか。休戦。和解。講和。どれも似ているようで少し違う。たった今、全ての戦いはなかったことになったのだ。
『さらばだ、ケンジ君』
彼の声は悲しんでいるように聞こえた。あるいは羨んでいるようにも。
『君のような孫を持って――コバヤシ老はさぞ幸せだろうな――』
そしてフィリップは消えていった。無限に広がる闇の中へ。ホログラフの残滓を見つめながら、ケンジは静かに目を閉じた。ようやく終わった。これでいい。《意志》を滅ぼしたわけではない。完全に人類の滅びが免れたわけでもない。しかし……これでよかったのだ。これ以上戦うには、あまりに多くの血を流しすぎた。
闇に向かって、ケンジはぽつりと呟いた。その口調は自嘲的で、先の老人と驚くほどそっくりだった。驚くほどに。
「――どうだかな」
ああ。ああ。
うるさい音だ。頭の上の方。ああ。ああ。音は止まない。ヒステリーを起こした女の奇声のよう。首を絞められた男の断末魔のよう。ああ。ああ。ユイリェンはゆっくりと目を開いた。光が瞼を透けて飛び込んでくる。まぶしい。光の洪水。右腕を持ち上げ、目の上を覆う。ようやく治まる光の嵐。ぼやける視界。少しずつ、少しずつ、涙の膜に覆われた瞳が乾いていく。白い光、真っ白な――
まっしろなせかい。
ようやく頭が目を覚ました。レースのカーテンがかかったようにぼんやりしていた思考が鮮明な形を取り戻す。自分は眠っていたのだ。たった今目覚めた。今? 今は白い光――朝。夢の中ではない。これは朝の世界。
ああ。ああ。
ユイリェンは肺に溜まっていた空気を全部吐き出した。代わりに新鮮な朝霧を吸い込む。奇妙な匂い。緑色の草の匂い。ユイリェンは、初めてだった。森の中で眠ったことも、森の中で目覚めたことも。夜露に濡れた下生えが、こんなにも芳醇な香りを放つものとは想像だにしなかったのだ。
ほんとうに、うるさい音だ。体の下に敷いていたぼろ布に手を突き、ユイリェンは上半身だけ起きあがる。頭をもたげ、森の天井を見上げ、うるさい音の主を睨み付ける。それを感じたのだろうか、それとも偶然だろうか。鴉は一声ああと鳴いて、霧に包まれた朝の空へ飛び立っていった。
レッドウッドの森は死の世界。高すぎる森の主達に遮られ、太陽の光はほとんど地面に届かない。地にべっとりと這いつくばっているのは、ふわふわした苔の絨毯と背の低い草々のみ。針葉樹という貴族階級のみが特権を持った封建社会。それがレッドウッドの森。その名の通り血のような赤色の樹皮を持つレッドウッドをしばらく見上げる。ざわりざわり。遥か上方で揺れる枝葉。視線を降ろす。くすぶる黒い焚き火の跡。みずみずしい、柔らかな冷たさを持つ空気が頬を撫でる。森の朝。
ふと気付いて、ユイリェンは後ろを振り返った。そこに彼が立っていた。昨夜と同じ微笑みを浮かべ、青い蜘蛛の足元から歩み出る。彼は紳士的だった。夜中に妙な気を起こした様子はなかった。しかし、いくじがないわけではあるまい。やりたいと思えばなんだってやったはずだ。ただそう思わなかっただけ。
「おはよう、ユイリェン」
ユイリェンは何も言葉を返さなかった。眠気はすっかり取れていたが、何を言っていいやらわからなかったのだ。挨拶を返すのがいいに決まっている。それはわかっている。しかしどうにも彼の挨拶が薄っぺらくて、上辺だけのもののように聞こえたのだ。まるでこちらの方式に合わせているかのような。異邦人が違う民族文化に触れるときのような、奇妙なよそよそしさ。
「腹が減ってるんじゃないか? 少し時間がかかるが、近くに街がある。何か食べ物を調達してくるよ。君は機体を見張っていてくれ」
街。確かにこの森の中には、いくつか街がある。林業を中心とした人口数千程度のものだ。彼は今朝の食事のことまで考えて、街から数kmの所にキャンプしたに違いない。機体が見つかる恐れは少ない――しかし街まで一時間もあれば往復できるほどの地点。
だが街などに姿を現したら? 彼は《意志》に反抗した裏切り者のはずだ。考えもなしに人里を訪れては、《意志》に見つかることもある。荷運び用の背負い袋をひっつかむ彼。ユイリェンは慌てて立ち上がり、服に付いた細かな砂埃を払い落とした。じっと彼を見つめる。彼もまた、興味深げに見つめ返す。
「何?」
「街へ行くのは、よした方がいいわ」
沈黙が流れた。何処か遠くで鴉が鳴いた。やがて彼は面食らった表情から、高らかに笑い始めた。まるで面白い冗談でも聞いたかのように。馬鹿な、ユイリェンは冗談など言ってはいない。いつだって真面目なことを言っているのだ。
「なぜ笑うの」
「可笑しいからさ」
ひとしきり笑った後、おそらくはユイリェンの怒気を孕んだ視線に気付いて、彼はふっと口をつぐんだ。何か違和感があった。腰に手を当て、微笑みを浮かべて、すっくと立っている彼。細胞の一つに至るまでウェインと何ら違わないはずだった。しかしなぜ。まるで別の生き物を見ているかのようだ。
「どうしてまた、そんな忠告を?」
「《意志》に狙われているのよ。あなたも。私も。不用意に姿を晒すのは良策とは言えないわ」
「おれたちだって生物だ。腹が減っては動けないだろう?」
「一食くらい抜いても死にはしないもの」
またしても彼は笑った。今度はちょっとだけ笑うと、いけない、とばかりに口を閉じる。人差し指と中指で唇を押さえる仕草までつけて。指の動き、腕の動き、その一つ一つに余裕があった。慌てるそぶりもなければ、欠片ほどの恐れもない。準備万端計画を練った、勝率十割のデートでもしているかのよう。なんだって上手くいく。そう信じて疑わない動き。
「君は食事制限が要るような体には見えないぜ。無理なダイエットは体に悪い。あと美容にも」
「茶化さないで。私は、私はただ……」
思わずユイリェンは目をそらした。俯けた顔。どうして直視できないのだろう。知らず知らずのうちに、何か引け目でも感じているのだろうか。いずれにせよ自分の次に言おうとする言葉があまりにも不似合いで、自分自身で驚いていた。まさか死ぬまでにこんな台詞を吐こうとは思っても見なかった。
「……心配、なの」
ひょいと肩をすくめる。彼は、なんだそんなことか、とでも言わんばかりだった。そしてにっこりと微笑む。歯を見せない微笑み。優しさに満ち満ちた、普通の女なら安らぎを感じずにいられないであろう微笑み。いつかそんなふうに笑ってくれることを願いながら、ついに彼が見せたことの無かった微笑み。
ひょっとしたらこれは夢なのか? あの真っ白な夢の続きなのか。目の前にいる彼は、まさにユイリェンの理想だった。落ち着いていて、優しくて、いつも微笑んでいて、知的で、飄々としていて、何を考えているやらわからない。底の見えない海のような男。彼はユイリェンが無意識に思い描く理想の男性そのものだ。作為的ではないかと思えてくるほどに。
「それは、無駄な心配だな。きみは無駄なことが嫌いじゃなかったか? なに大丈夫。たとえ連中が襲ってきたところで」
微笑みを顔に張り付けたまま、彼は何気なく言った。
「《意志》に従うやつはみんな始末するから」
――なんだと?
ユイリェンの体が凍り付く。驚きに。恐れに。指先がわなわなと震える。彼は何喰わぬ顔のままだった。ユイリェンの変化などには気付かぬかのように。気付いていないはずがない。十歳の子供だって今の彼女が動揺していることくらい理解できる。まして彼が気付かぬはずがないのだ。
彼は、一体、自分が何を言っているのかわかっているのか?
「じゃあ、行ってくるよ。一時間もあれば帰ってくると思う」
軽く手を振り、背を向け、森の中へ歩み去っていく彼。その後ろ姿を見つめながら、ユイリェンははっきりと確信していた。彼は全て分かっている。自分の言葉の意味も、自分が何をすべきなのかも、そのためにどんな手段が必要なのかも。
ユイリェンはぐっと拳を握った。爪が手のひらに食い込んだ。皮が裂け、赤黒い水が流れ出た。本当だったのだ。彼の言ったことは本当だった。
彼は――ウェイン・ルーベックは――
彼が袋いっぱいの食糧を持ち帰ったときには、すでに真紅の巨人の姿は消え失せていた。
こうっ。ブースターを軽く噴射して、落下の勢いを制御する。両足で静かに着地する紅い鬼――フゥルン。固く閉ざされた目の前のシャッター。半ば以上朽ち果てたドーム。ユイリェンは気まずい思いを押し殺した。今更普通の少女のように恥じらったところで、何かが解決するわけでもない。
「エリィ、扉を開けて」
ぶっきらぼうに通信を送る。彼女の返答が帰ってくるのに一秒はかからなかった。見慣れた美しい女の顔が画面に表示され、いつも通りの問いが返ってくる。どこへ行っていたんです、心配したんですよ。エリィはまるで、門限を破った放蕩娘に対する母親であった。
「説明は中でするわ」
[……わかりました。第二ドームは閉鎖してますんで、1Aの方に回ってください]
「了解」
指示の通り第二ドームを離れ、第一に向かう。なるほどこちらはまだ綺麗だ。いくらか破損は見られるが、修理もいくらかなされたらしい。第二・第三ドームは一時的に放棄し、残る第一だけに全力を注いでいるのだ。妥当な判断である。
第一ドームの1A格納庫に繋がるハッチが、重々しい低音とともに開いていく。フゥルンはいつも通り中に足を踏み入れた。暗い通路。抜けた先には油臭い閉鎖空間。ガレージの中には動いている人間もいない。ただ不気味なオブジェの如く立ち尽くすMTやACが、虚空をじっと見つめているだけだ。その中の一つ、空いたケイジに機体を収め、ジェネレーターを停止させる。コックピットから這いだして、ワイヤーづたいにキャットウォークへ。
ユイリェンは近くにぼぅっと立つ人影に気付いた。ケンジ・コバヤシ。エリィ。キャットウォークの上で二人は待っていた。ユイリェンをか。それとも、実験機の帰りをか。
「補給と整備……急いでお願い」
乱れた髪を掻き上げながら、ユイリェンは二人の横を通り抜けた。何もなかったかのように。何気なく。まるで決まり切った訓練の後のように。すれ違って背中合わせになってから、ケンジはぽつりと呟いた。
「何があった」
立ち止まる。ユイリェンはうつむき、目を細めた。眉間に生まれた皺が影を作る。拳を固く握りしめる。ひりひりと手のひらが痛んだ。爪が食い込んだ傷口。もしユイリェンが服を着ていなければ。肌を露わにさらけ出していれば。誰もが感じ取ったはずだ。彼女の体が、腕が、脚が、何もかもが、逃れ得ぬ運命を前にして固く凍り付いていたことに。そして彼女の心もまた。
「何も」
「あの男は」
振り返ることなくケンジは続けた。
「あの男は、あいつなのか」
さあ。両の瞳を静かに閉じる。闇が彼女の周りを包む。闇のスクリーンに、浮かび上がる影。赤毛の男の影。無邪気な、子供みたいな笑顔。自信なさそうで。弱々しくて。でも決して譲れない心を持った男。そしてもう一人。全てを見透かす瞳。果てしなく優しい微笑み。かたくなに鎧われて何も見えない心。
さあ。もう一度、心の声を繰り返す。一体誰なのだか、私にもわからない。
「彼は、《意志》に従う者全てを殺すつもりだわ」
ほんの一瞬だけ、ケンジの両目が見開かれた。彼の拳が固く握られる。白く透き通った肌がわななく。瞼をゆっくりと降ろし、彼は小さく、そうか、とだけ相づちを打った。それ以上はできなかった。声を出せば震えてしまいそうだった。歯痒かった。自分の持つ力では、何一つ少女を助けられないことが。決意に満ちた少女の心を融かすことさえできないことが。
「私は彼を止める。この――私の手で」
彼らには、去っていく少女を見送ることさえできなかった。
青い蜘蛛は林道を駆ける。高く昇った太陽の光を浴びて、天を漂う雲に青の閃光をはじき返す。森の中を突き進む青。巻き上がる砂塵。蜘蛛はまるで、緑のカンバスに描かれた青の直線であった。高尚な芸術家が、癇癪を起こして描き殴ったような。
スフィクスはただ操縦桿を握り、瞬き一つせずにモニターを見つめていた。半日待った。ユイリェンが去って行ってから、半日。考える時間は十分に与えた。回答を聞かねばならない。あの娘がどうするつもりなのか。自分の愛を受け入れるか、否か。
突然、コックピットの横手からピッと電子音が聞こえてきた。通信機。ユイリェンか? いや違う。彼女はこちらの識別番号も位置も知らないはずだ。この機体に遠距離通信を送れる者といえば、数は限られている。すなわち《意志》に与する者。
彼は受信のスイッチを入れた。
『……か! 聞こえるか! 応答しろスフィクス!』
流れてきた声。聞き覚えはある。なにせ、実験中に『主』として刷り込まれた声だ。この声の主には絶対服従せよ。そう脳に刻み込まれている。もっともすでにスフィクス細胞が消去してしまったが。
「これはこれは、タツヤ・コバヤシ議長。あなたから直々にお声をいただけるとは」
嫌みたらしい口調で吐き捨てる。スフィクスの瞳が歪む。憎悪。憤激。どちらも違う。彼はタツヤ・コバヤシを憎んでなどいないし、怒ってもいない。ただ彼は嗤っていた。小さな羽虫が怯えて必死に逃げ回るのを、嬲りいたぶって喜ぶ子供のように。
『貴様、なぜ撤退した! なぜあのままナノバーストを奪い取らなかった! なぜタオの血筋を殺さなかった!』
ふっ、と彼は嘲笑した。愚かだ。あまりにも愚かだ。この男はまだ気付いていない。自分が一体誰に向かって口を利いているのかということに。目の前にいるスフィクスが、どこまで自分を超越した存在であるかということに。
「ナノバースト……? 知りませんね、そんなものは」
一瞬の沈黙がコックピットに満ちる。笑いを堪えるのには相当な努力が必要だった。今ごろタツヤ・コバヤシは、通信室で冷や汗を掻いているだろう。様を見るがいい。これは全て貴様が造り出した失敗だ。ようやっと自分の失敗に気が付いて、顔面蒼白になっているに違いない。
『貴様ッ……!』
「あの研究所を破壊するところまではやってやるさ。欲しいものがあるならあとで勝手にあさるがいい。
しかしユイリェンのことは話が別だ……あの娘はおれのもの。貴様等には指一本触れさせん!」
彼の口調は少しずつ熱を帯びていった。体が、心臓が、脳が、暴走していくのがわかる。レックレスドライヴ。細胞の一つ一つが異常に加熱され、筋繊維の一本一本が異常に収縮し、脳内電流が異常に増大する。興奮している! 生まれて初めての感覚。彼が――スフィクスが意識を持ってからというもの、こんなに高揚した気持ちは初めてだった。
「そして貴様等、《意志》に従う愚昧どもは一人残らず駆逐してやる! このおれと、その妻タオ・ユイリェンの手によってな!」
『なんだと……なんだとッ! 自分の言っていることがわかっているのか、《意志》そのものを敵に回すだと!』
慌てるがいい。恐れるがいい。己の無力を呪うがいい! このおれは貴様等より上にある存在。生態系の頂点に立つ生命体。全てを支配する絶対神、それはこのおれに他ならぬ。
「そっちこそさっさとわかるんだな……おれはもう、貴様等の道具ではない!」
一方的に怒鳴りつけ、通信を切断する。再び辺りに沈黙が戻る。やがてそこに、一筋の含み笑いが広がった。喉の奥で唸っていた笑いは、やがて弾けた爆弾のように口から飛び出した。哄笑。悪魔のような哄笑。全てを嘲り、全てを見下した、何よりも不気味で腹立たしい笑い。
「痛快だ――自分の絶対優位を信じて疑わない者をこき下ろすのは、全くもって痛快だ!」
これで《意志》どもが動き始める。このおれを敵だと認識する。すぐに部隊を差し向けるだろう。無駄ということを半ば感づきながら、それでも粛正せずにはいられないだろう。
にぃ。スフィクスの顔に笑みが浮かんだ。狂気の笑みが。
戦闘開始だ。
馬鹿なッ!
暗闇の空間。通信室。席に着いた者が皆対等の身分であることを示す円卓。そこに骨張った拳が叩き付けられる。闇と同色の衣装。心。どこまでも透き通った黒い心の奥が、ざわざわと蠕動する。初めは驚愕。そして憤怒。最後に訪れる絶望――
スフィクスが裏切った。
まるで現実味のない言葉だった。裏切る筈など無いのだ。ノイエが生み出し、今は《我等》の忠実な奴隷に過ぎぬはずの兵器。奴は人間ではない。それが自らの意志を持ち動くなどということはあってはならないのだ。この世に存在する意志はただ一つ、人間だけ。例外があるとすれば、それは……
「不適合者……」
抹消せねば。こんなことを認めてはならない。まさか《我等》自身の手で、天敵を生み出してしまったなどと。タツヤ・コバヤシの右手が二、三のスイッチを押し込んだ。部下への通信を開く。
「現在展開中の全部隊に通達。48-117区画に向かい、スフィクスを破壊せよ。いいか、破壊だ。完全に抹消だ!」
沈黙。
なぜ反応しない? タツヤ・コバヤシの指ががちがちと忙しくスイッチを押す。何度も。何度も。液晶パネルのボタンは光ったり消えたりを繰り返す。反応はしている。しかしそれだけ。通信は繋がっているのに、返答が帰ってこない。無視しているだと、この私を!
「応答しろ! ええい、どうしたこの愚図めがッ!」
『勝手なことをされては困りますな、議長』
老人の声は闇の中に朗々と響き渡った。円卓の向こう側にぼんやりと現れる、幽霊のような人影。元老院の一人。それの隣にも、もう一つの幽霊。また一つ。さらに一つ。円卓を取り囲む老人共の姿が浮かび上がる。やがて席の全てが埋まった。元老院に属する全員が、今やこの場に集まっていた。馬鹿な。タツヤ・コバヤシは思わず腰を浮かせた。会議を招集した覚えなどはない!
「どういうことだ」
押し殺した声。彼の背後から、いつもの威厳は消え失せていた。
『それはこちらの質問ですよ、議長』
『名目上、ゼナートフォースの出撃には我々全員の承認が必要なはず』
『いやそれよりも。これをどう説明なさるおつもりです』
お得意の元老院節か! 集団で取り囲み、言葉の攻撃を投げかける老人共。タツヤ・コバヤシの奥歯がぎりぎりと鳴った。聞き慣れたはずの口調が、今はなんと腹立たしいことか。彼は自分の目の前に表示された、電子署名済みの書簡をむしり取った。
そして両の瞳を見開いた。
『我々全員に、本日付で送られてきましたよ』
『その署名、偽造ではありませんぞ。紛れもなく地球政府発行のもの』
『説明をいただけますか、議長』
『議長!』
震えていた。手も。足も。心も。何もかもが震えていた。こんなものは何かの嘘に決まっている。「即刻元老院議長タツヤ・コバヤシを罷免せよ。さもなくば、議長当人と同様の罪状を有するものとみなし、元老院を政府指定第一級犯罪組織に認定する」だと!
「こんな――こんなもの――」
『認めぬ、偽造だ、とおっしゃいますか?』
『しかしそれが政府の……否、裏ガバメントの意志であることは確か』
『満足の行く説明が得られぬのであれば、我々の断ずることはただひとつ』
ドアが蹴り開けられる。闇に満ちた通信室を切り裂くように差し込んでくる光条。埃のコロイドが引き起こすチンダル現象。まばゆい光。そして流れ込んでくる黒い人影。一つ。二つ。三つ。四つ。手に銃器を構え、その銃口を突きつける……タツヤ・コバヤシに向かって。
ばたん。ドアは再び閉ざされた。
強い閃光に掻き消されていたホログラフが、再びその姿を取り戻す。誰もが彼を見つめていた。じっと凝視していた。奥歯を食いしばり、目を見開き、額に玉の汗を浮かべる男を。崩れ去った自尊心の幻影にしがみついている哀れな男を。
「おのれ……うじめ! きさまら死体に群れることしか知らぬ蛆虫め! 殺せると思うのか、虫けら風情に、この私を……私はきさまらとは格が違うのだ。別種の存在なのだ。人類を導く指導者なのだ! きさまら愚昧を……」
『愚昧を敵としては神々自身の論ずるも虚し、ですか』
唐突に。声は彼に降り注いだ。聞き覚えのある声だった。忘れるはずもない。彼が唯一恐れている男の声。彼はいかなる他者をも恐れない。一つだけ恐れる者があるとすれば、それは自分自身。自分自身と同じ力を持つ者。自分の血を受け継ぐ者――
ケンジ・コバヤシ。
円卓の向かい側に現れた息子は、薄笑いを浮かべて席に腰掛けていた。まるでそこにいるのが当然であるかのように。元老院の誰一人として、若造の存在に異議を挟まない。まるでそこにいるのが当然であるかのように!
『あなたの好きな言葉だ。昔よく聞かされた』
「きさま……」
今初めて、タツヤ・コバヤシの顔に怒りが浮かんだ。決して怒ることの無かった男。全てを手の内で転がしてきた男。それが今、ありとあらゆるものに裏切られ、初めて人間らしい怒りを憶えたのだった。今初めて彼は人間になったのだった。
「きさまが仕組んだことか……愚かな! 殺してやる、今までのように好き勝手できると思うな! 愚息め、すぐに殺してやるぞ! 私に敵対する者は全て――全て!」
息子はふっと微笑んだ。優しく、老いさらばえた哀れな男に対して。
『あなたの時代は終わった。永遠にさよならだ――父さん』
ケンジの姿は消え失せた。他の元老院どもも。実体を持たぬ者は全て姿を消し、後には数名のみが取り残された。タツヤ・コバヤシ。四人のゼナートフォース。銃口。そして全てを優しく包み込む――闇。
「おのれえェェェェェッ!」
どん。
何度目かもわからない寝返りを、ユイリェンはうった。
見慣れた部屋の中。寝慣れたベッドの上。ユイリェンが去った後も、ずっと残されていた彼女の部屋。ベッドの横に貼り付いた、四角い通信ユニットにちらりと目を遣る。あの日、こいつのビープが始まりだった。この奇妙な――愚かな、でも素敵な出会いの始まり――
これも全て運命なのだろうか。彼と出会ったことも。彼がああなったことも。今こうして寝返りをうっているのも。何もかもあらかじめ決まった運命。
でも、運命だからと諦めてしまうことも運命。諦めず戦うのも運命。結局なにも変わってはいないのかもしれない。たとえ未来が全て決まっているとしても、それを人々が知らない限りは。そして知ることはできないのだ。宇宙の全要素を含んだ方程式なんて、解けるはずがないのだから。
《意志》は、ごく小さな要素――人間という要素だけを含んだ運命方程式だ。最初の条件が不十分だから、方程式は大きな誤差を生む。なんて馬鹿げた話だろう。方程式の誤差をなくそうと、必死に努力している連中がいるなんて。運命の方を方程式に合わせようとしているなんて。結局《意志》信者だって、被害者にすぎないのだ。あまりに甘美な数学に心を奪われた、哀れな奴隷。
そして彼もまた。数学が生み出した誤差。道に迷った子羊。
ユイリェンはベッドから起きあがった。時計の文字は、日暮れを告げていた。夜がやってくる。星々のカーテンが空を覆う。きっと今こそ、彼はやってくる。理屈ではない。感じるのだ。運命がそうだと言っているのだ。彼はもうすぐやってくる。
そして彼女は、自分の部屋を後にした。
黒のジャケットを体から剥ぎ取ると、ケンジは手近な手すりにそれを叩き付けた。洗濯された安物カジュアルみたいに、ネオアイザック製のヨーロピアンブランドがぶら下がる。そっちの方には目もくれず、ただケンジは靴音を響かせた。淡いブルーのシャツの袖を二の腕までまくり上げ、適当に折り込んで止める。二流プログラマみたいないでたちも、彼がすると妙に様になっていた。
目の前にそびえ立つ巨大なコンピューター。そして手元の端末。ケンジはキーボードに手を突き、そっと両の瞳を閉じた。誰かの手のひらが、彼のそれに重ねられる。暖かく柔らかい感触。鼻をつんと刺激する香り。女の匂い。時々ケンジは疑問に思う。この匂いはなんなのだろう。魅力的な女に限って、いつもこの匂いを纏っている。嗅ぐと頭が冴えてきて、すっかり魅了されてしまうこの匂い――
ケンジは目を開いた。手の感触も匂いも消え去っていた。重ねられている手は光の幻想。女の匂いは脳の錯覚。彼のすぐそばに、ぴったりと寄り添う女性は――人間が造り出した機械の命。
[どうでした?]
「こっちの処理は、終わったよ」
端末に乗せていた手を下ろし、固く拳を握る。エリィの腕を、ケンジの腕がすり抜ける。決して触れ合うことのない腕。あの感触はなんだったのか。確かに手のひらで包まれた、そんな気がしたのに。
「もう僕にできることはない。あとはあの娘の問題だ」
抑揚のない声で言うケンジの背中に、エリィはそっと近付いた。両腕を広げる。脇の下から腕を回し、彼の胸板を抱きしめる。自分の額を彼のうなじにぴったりと貼り付かせる。彼の体を突き抜けてしまわないように――ホログラフと肉体が、微妙に触れ合わないように気を付けながら。
感覚があった。確かに感じた。ケンジの中にある、凍り付いた悲しみを感じた。心など感じるはずもないというのに。
[もしもわたしに体があれば、あなたを抱きしめてあげられたのに――]
自分の体を包み込む彼女の腕に、ケンジは手を這わせた。彼の心の中を知る者は、たった一人しかいない。このエリィしか。憧れてた。あんな父親でも、憧れていた。普通の子供が抱くような当たり前の畏敬を、ケンジは抱いていた。しかし、今はもう。わかってくれるのはエリィただ一人なのだった。
やがて彼は、口を開いた。その言葉には確かな決意が込められていて、いつもの彼と同じように力強かった。
「これが終わったら、僕は火星に行く。
今回は協力したが、地球政府と《意志》は敵だ。E.C.C.もまるまる残ってる。親父のような狂信者が、また生まれないとも限らない。火星なら企業勢力が強いし、そう簡単には手出しできないだろう。そこで僕は力を蓄えるつもりだ」
振り返る。そして彼女の瞳を見つめる。無意味なことはわかってる。だがそれが何だというのだ? 本物の男と女が見つめ合うことにも、どれほどの意味があるというのだ。これはただの儀式だ。他の何も関係ない、形式的な儀式にすぎないのだ。
「僕と一緒に来てくれるかい、エリィ」
エリィは驚きに目を開き、悲しげに伏せ、俯いた。そういう仕草。無意識に計算し、造り出した姿。それはすでに表情と呼んで差し支えないものだろう。エリィは成長したのだ。普通の女性がそうするように。ある一つの感情を抱くことで、より高みへと昇ったのだ。
今のエリィは、人間に違いない。
彼女が顔を上げて何か言おうとした瞬間、うるさいビープが辺りに響いた。肩をすくめてケンジはモニターに目を遣る。通信を送ってきたのはユイリェンであった。
『ハッチを開けて』
いつのまにか、彼女はフゥルンに乗り込んでいた。仮眠を取ると言って自室に引き籠もっていた筈なのに。
「どうしたんだ?」
『ハッチを開けて。彼が――来るわ』
ユイリェンの声は無表情だった。どんな感情も存在しない。捨て去ってしまったのだ。兵器となるために。人を殺すために。彼女は自ら望んで、自分の感情を切り捨てたのだ。普通の女性が通るような過程を全て無視して。
[しかしユイリェン、レーダーには何も]
「開けてやれ」
沈んだ声で言うケンジに、エリィははっと振り返った。涙が浮かんでいた。エリィは初めて彼の涙を見た。感情の奔流を見た。涙は瞼の堰で必死に食い止められ、溢れ出すのを堪えていた。
「ユイリェンが来ると言うなら奴は来る。もう誰にも、止められはしない。この流れは――この戦いは。神々同士の戦いに、どうして人間が手出しできる? あの娘と奴はこうなる運命だった。《意志》よりもさらに偉大な運命なんだ。これで終わりだから――だから――」
ケンジは微笑んだ。いつもと同じ微笑みだった。
「最後くらい、派手に送り出してやろうじゃないか。そうだろう、ユイリェン――」
重苦しい音とともに、扉が開く。夜の闇と冷たい風が、無機質のベッドに流れ込む。夜は更けた。星が瞬く。彼はやってくる。漠然としたイメージに繋がるあの扉は、天国へと続くのか。遥か遠く、どこまでも高く、煌めく星と月の光へ。優しく夜を包み込む月光の裏側へ――
ユイリェンは軽くペダルを踏んだ。肌に馴染んだ鋼鉄の巨人が、一歩足を踏み出す。名残を惜しむように、一歩一歩踏みしめて歩く。重低音を体全体で感じながら、ユイリェンは最後の通信を送った。
「ケンジ。エリィ」
彼女は綺麗な声で、言った。
「今まで本当に、ありがとう――」
エリィは泣いた。生まれて初めて泣いた。声を上げて泣いた。知っていたから。妹の、ユイリェンの決意を知っていたから。あの人は、本当に大切な人だったのだ。ユイリェンは何よりもあの人を大切に想っていたのだ。愛していたのだ。だからこそ、今は行かなければならない。迷いも何もない。ただ、愛する人をあたりまえに愛するために、彼女は行くのだ。たとえ命に代えたとしても。
[わたし――悲しい――]
嗚咽の切れ間から声は流れ出た。
[わたし――こんなにも、悲しい――]
ありとあらゆるカメラの瞳で、旅立っていく紅い鬼を見つめながら。彼女の背中をじっと見つめながら――
気持ちは不思議と安らいでいた。楽しみでさえあった。だってそうだろう。誰かを愛しに行くのに、悲しい顔は似合わない。精一杯笑って、クールに決めて、自己暗示にかけて。世界がみんな私たちを見ている。世界がみんな祝福してる。この果てしない真っ白な世界のどこまでも、私たちだけの世界。私たちがそうと望めば世界はどうにでも姿を変える。こんなに素晴らしいことが他にある? 愛するということは――自由!
胸が高鳴る。はやく彼の元へ行きたい。彼女を包み込むフゥルンもまた、軽やかに扉をくぐり抜けた。密度の高い、液化寸前の闇。月の光が照らし出す夜。彼はそこに佇んでいた。青い蜘蛛の姿を借りて、彼はじっと待っていたのだ。
『やあ、ユイリェン』
彼は優しく声をかけた。朝と同じ柔らかな声を。
『考える時間はもう終わり。答えを、聞かせてくれないか』
「その前に一つだけ聞かせて、スフィクス」
スフィクス。彼女はその名を力強く呼ばわった。もうそれだけで十分のような気がした。彼女がその名で彼を呼んだのは、これが初めてだった。答えを出したのだ。彼女は、彼女なりの、答えを。もう彼はウェイン・ルーベックではなくなった。今の彼は――スフィクス。
「本当にやるの――《意志》そのものを滅ぼすの」
くすくすとスフィクスは失笑した。
『やるとも。人類全てを滅ぼす』
やはり。ユイリェンは奥歯を噛みしめた。《意志》。人類の運命。それは人類の《意志》。運命方程式に、人類という要素のみを代入した特殊解が、《意志》。それは人類の範疇にあるかぎり成立する。人類の存在する限り《意志》は成立する。《意志》に狙われるということは、人類全てに狙われるということなのである。だから――
《意志》を倒す。それはつまり、人類を滅亡させるということ――
『君は、毒蜘蛛を見たら殺すだろう? 自分の身を護るために。そしてできることなら、この世から毒蜘蛛を消し去ってしまいたいと思っているはずだ。ただそんなことは不可能だから、誰もやろうとしないだけ。毒蜘蛛を滅亡させる手段さえあれば、誰だって試してみるさ。二度と毒蜘蛛に怯えなくて済むんだから。
人類だって同じようなものさ。おれにとって人類は毒蜘蛛。おれに害なす《意志》と、害なすに足る力を持つ種族。見かけたら殺すのが賢明だ。そしておれには人類を滅ぼせるだけの力がある。手段がある。不可能ではない。だから全て滅ぼす。どこか論理にミスがあるかい?』
「彼らは精一杯生きてるのよ! 私たちに害なすのだって、それが運命だから――無意識に、本能的にやるだけのこと。それを殺すなんて……」
彼ら? 激昂して飛び出した自分の言葉に、ユイリェンは自ら驚いていた。彼ら、だなんて。まるで他人事だ。無意識に出た言葉。まるで、自分が人類の一員でないかのような言い草。
『毒蜘蛛だって精一杯生きている! おれだって。君だって。もちろん人類だって!
君の言っていることは、環境論者とまるっきり一緒じゃないか。鯨を殺すのは駄目で豚を殺すのはかまわないと言っているあの愚か者ども。論理的になるんだ。君ならわからないことはないはずだ。
命の価値に差などありはしない。おれの種も、君の種も、人類も、毒蜘蛛も、鯨も豚もみんな等価な生命。みなみなそれぞれ精一杯生きている。おれだって精一杯生きる。人類がおれの天敵になるのなら、滅ぼさなければおれが生きられないのなら、おれは滅ぼす。自分の身を――自分の種を護るために。毒蜘蛛を殺すのも、人類を殺すのも、どちらも同じ事だ。蜘蛛も人間も同じ価値を持っているんだから!
君は長いこと人類の中で生活してきたから、里心で人類を贔屓しているだけだ!』
「スフィクス!」
ユイリェンは叫んだ。精一杯叫んだ。それは生きることと等価だった。目の前にいる男の名を呼ぶこと。今自分が生きている証。自由であるという証。自分の意志を持っているという証。
「彼は――この世界が好きだった。人々が笑い、悩み、悲しみ、苦しみながらも一生懸命生きているこの世界。たくさんの真っ白な心に包まれた、真っ白な世界。
――彼は人間が好きだった」
そして彼女は表情を消した。どんな感情も心になかった。ただ一つの、目映く輝く決意があった。絶対に揺らぐことのない、確固とした信念があった。
護りたいものがある。
「私は人間を護る」
だから戦う。
「だからあなたを止める。この私の手で」
一瞬とも永劫とも思える沈黙の果てに、スフィクスは微かな溜息を吐いた。それは落胆の溜息であるようにも、安堵、ともすれば賞賛の溜息であるようにも聞こえた。事実その全てだったに違いない。愛に破れた落胆。ユイリェンが自らを見失わなかったことへの安堵。そして彼女をここまで強くした、あの男に対する賞賛。
『――始めよう』
疲れた口調でスフィクスは言った。もうこれ以上の言葉は無意味だった。確かに答えは受け取った。必ずしも望ましい答えではなかったにしろ……彼女が考え、彼女が出した答え。彼女の自由。もう十分だ。
『小細工も理屈も抜きだ。お互いの護るべきもののために』
ゆったりとユイリェンの腕が流れる。コンソールを優しく撫でていく。うぅんうぅんとフゥルンが慟哭をあげる。背中の子犬が悲鳴をあげる。体中の神経が静まりかえる。敵。今目の前にいるのは最大の敵。もはや彼女の瞳に少女の色はなかった。女性。愛するものを護るために戦う、女性の瞳。
そして光が弾けた。
過加速走行で突っ込みながら、フゥルンの左手に光を灯す。青い蜘蛛は、エクセスは動かない。ゆっくりと左腕を胸の前に持ち上げ、レーザーブレードを展開する。シールド・パンチとブレードの衝突。宵闇を切り裂く閃光。散乱したプラズマの嵐が周囲で荒れ狂い、不安定な姿勢の二機を吹き飛ばす。
ブースターを軽く吹かして軟着陸するフゥルン。その目の前が一瞬ぶれて見え、次の瞬間にはエクセスの巨体が消え失せた。まただ。意識を放していないのに突然姿を消すあの現象。理屈はわからないが、これまでのことから推測すると敵の位置は。
無色透明の炎が吹き出し、フゥルンは急速旋回した。真後ろへ。確かめもせずに左腕を振り回す。果たして後ろに回り込んでいたエクセスのブレードにシールドがぶち当たり、爆風と光が炸裂。フゥルンはそのまま弾かれたブレードの下をくぐって突き上げるようなパンチを叩き込む。
エクセスの右腕が火を噴き、機関砲のばらまいた徹甲弾がシールドに命中する。少しだけ速度の落ちた拳を後退してかわし、過加速走行発動。真横にスライドしながら肩のミサイルポッドから四発を同時発射。
バックステップしてから空中に飛び上がり、フゥルンは過加速走行で前に突進する。ミサイル群の上を飛び越え誘導を振り切り、いったん停止。旋回加速器でエクセスを正面に捉え、再度突撃。エナジーバズーカを三発連射。過加速走行を維持したまま光弾をかいくぐるエクセスに突っ込み、姿勢を崩したそこに拳を叩き付ける。
バズーカは見え見えのおとり。スフィクスは慌てることなく自分の能力を発動した。すなわち、相手の思考周波数を読みとる能力。人はどんなに凝視していても、いつも意識を向けているわけではない。脳は一定の周波数で動いており、活性化されている時間とほとんど働かない時間が短いサイクルで交互にやってくる。スフィクスはそれを読みとる。脳の活動が低下している一瞬を読み、その間に動く。相手はこちらが動いたことに気付かない。目の前にいたものが突然消えたように思うに違いない。
ユイリェンの一瞬の隙に、エクセスは敵の後ろに回り込む。レーザーブレードを最高出力で展開し、フゥルンの背中向かって斬り付け
どん!
フゥルンの巨体が突如真上に跳ね上がった。脚部を駆使して空中に飛び上がり、ブースターでそのまま上昇。機体を90°回転させて真下へ向け、青蜘蛛をロックオン。多弾頭ミサイルを射出する。
完全に読んでいた動き。スフィクスの能力を理解し、使用するタイミングを計り、それを逆利用する動き。さすがはユイリェン――そうでなければおれの妻となる資格はない。
ぶぶぶと羽虫の飛ぶような不快な音が周囲を見たし、ブレードが暗闇を舞う。縦に切り上げて分裂したミサイルの一つを切り裂き、そのまま横に滑らせてもう一つ。残る二発にに向かって短砲身榴弾砲を発射、ミサイルを巻き込んで榴弾が炸裂。至近距離の爆風に乗ってバックステップ。フゥルンが放った第二射、バズーカを回避する。
子犬の鳴き声。エクセスが過加速走行を発動し、空中のフゥルン目がけて突撃する。ロックオン後に四連ミサイルを発射。さらに機関砲で彩りを添える。フゥルンは徹甲弾をシールドで受け、ミサイルをバズーカで撃ち落とす。もうもうと巻き起こる爆煙。視界を塞がれたフゥルンの横をくぐり抜け、エクセスは赤鬼の真上に回り込む。ブレードを真下に向けながら落下し、赤いボディにチャージする。
旋回加速器でフゥルンは真後ろを向く。いや真上を。シールドでブレードを受け止めるも、衝撃で地面に向かって叩き落とされる。ちょいとブースターを吹かして足を地面に向けると、下向きの速度を殺しながら過加速走行発動。地面すれすれで光が炸裂し、墜落を免れた赤鬼は低空を高速で駆け抜ける。
ブースターを使って悠然と着地したエクセスもまた、過加速走行。赤鬼の後を追う。猛スピードのままレッドウッドの森へ突っ込むフゥルン。エクセスもそれに続いた。過加速走行を停止し、湿った森の地面に降り立つ。すでに過加速走行の炎に灼かれ、何本かのレッドウッドが折れ飛んでいる。木々の間は狭く、四脚型には不利な地形。
エクセスは榴弾砲を構えると、適当な木に向けて発射した。熱と炎が木々をなぎ倒す。そして生まれる広い空間。燃えさかる炎が次第に周囲に移っていく。狭いところが好みなら、いぶりだしてやればよい。
突如木々の間から青白い光が煌めいた。なぎ倒された木々の上を滑り、プラズマ弾を回避。発射地点あたりに徹甲弾をお返しする。めきめきと音を立てて崩れ去るレッドウッドの向こうから飛び出す真紅の影。フゥルンはシールド・パンチを構えて突進した。同時に肩から射出される多弾頭ミサイル。そいつは地面に命中し、砂煙を巻き上げる。
煙幕か! エクセスは迷うことなく正面に突進した。右か、左か、それとも上か。そのどこかから来ることは間違いないが、正面からはこないことも間違いない。わざわざ煙幕を張ってまで真っ正面から突っ込む馬鹿は――
いた!
煙を切り裂いてエクセスの真正面に現れたフゥルンが、青い輝きを振り下ろす。驚愕で一瞬反応が遅れる。慌ててブレードを突きつけると、フゥルンはひょいと拳を引っ込めた。逆噴射でほんの少し後退すると、旋回加速器で高速回転しながら再び突っ込む。角運動量のおまけ付き、まるで舞のように美しいセカンド・パンチを叩き込む。
めりっ。
骨の砕けたような鈍い音。エクセスの頭部が拳に貫かれ、無惨な残骸となって森に転がる。さらに第三撃をぶち込もうとするのを、エクセスは後退して回避する。そのまま空中に飛び上がって森の上に突き抜け、過加速走行で研究所の敷地内に舞い戻る。
後を追って研究所に戻るフゥルン。ずしりと重苦しい音を立てて着地する。二機は苦しげな駆動音を響かせながら、再び対峙した。
『ユイリェン……君は』
スフィクスの息は荒かった。初めてだった。生まれて初めて、彼は戦った。その戦いは生涯最高の戦いであろう。自分を殺せるのはユイリェンだけ。そしてユイリェンを殺せるのも自分だけ。最高の力を持つ二人が、今戦っている。ああ! お互いの命を賭けた戦いが、これほどまでに心地よいものだなんて!
『既に目覚めていたんだな! 闇の王よッ!』
一瞬、沈黙のとばりが辺りを支配した。覆い尽くした。何の音も聞こえなかった。エリィも、ケンジも、傍受している言葉に硬直した。奴は、ウェインのなれのはては、こう言ったのだ。闇の王は既に目覚めていると。
[いけない……]
呆けたような声をようやくひねり出したのはエリィだった。
[ケンジ、ここを離れて! 危険です、何が起こるか……]
「離れるものか!」
ケンジはぴくりとも動かず叫んだ。モニターを凝視したまま。流れ込んでくる通信に耳を傾けたまま。逃げるだと? この僕が。全てを席巻するこの僕が、逃げるというのか!
「君を置いて離れるものか……エリィ! 死ぬときは一緒だ!」
「私の脳が、普通ではないことは知ってる」
大きく深呼吸。それからユイリェンは唇を震わせた。押し殺した少女の声が響き渡る。いや、それを少女と呼んで良いものか。何も知らぬ少女であった彼女は、今や全てを知り尽くした女性ではないか。知識も。肉体も。心も。全て彼女の中にある。
「精神波によって焼き付けられたタオ・シーファの遺伝子が、私に受け継がれていることも。双子の意識が、私の脳に刻み込まれていることも。私が――」
女性は俯いた。知るということは、悲しみ。
「――私が人間ではない別種族だということも」
『闇の王』――タオ・シーファの遺伝情報は、『精神波』という現象を通じてタオ・リンファの細胞に刻み込まれた。ある時点から、彼女の中には二つの人格――遺伝子が存在していた。通常の二倍の量の遺伝子はその子孫に受け継がれ、一世代を隔てたユイリェンの体内で開花したのであった。脳計算能力の異常向上という形で。
『君の中の闇の王は、脳の一ブロックに閉じこめられ、眠っていたと聞いていた』
「違うわ……彼女は初めから目覚めていた。私が生まれたときから。誰よりも私はそのことを知っている」
どさり、と彼女はシートに身を投げ出した。静かに両目を閉じる。手のひらを操縦桿から放す。隙を見せることに不安はない。彼は不意打ちによる決着など望んではいないのだ。正面切って、力と力とのぶつかり合いによる結末。それ以外に価値はない。
ユイリェンの瞳はとろけるようだった。ただ虚空を。見慣れたコクピットの外壁を越えた場所にある何かを、見つめる。
「私は誰にも望まれていなかった。人々が欲したのは私ではなく彼女だった。私の肉体はただの器。誰でも良かったの……闇の王さえあれば、誰でも……
でも、彼は」
彼は私だけを望んでくれた。
悦び。悲しみ。怒り。驚き。恥じらい。楽しみ。慈しみ。そして――寂しさ。彼が初めて与えてくれた。感情を知らない彼女に。無地の石板のようだった彼女に。一句一句、刻みつけてくれた。彼がくれたたからもの。理性ではない。論理ではない。ただ一人の男が彼女に与えた感情の嵐。果てしなく吹き抜け、荒れ狂い、渦巻く心。この世にまたとない素敵なもの――
だから。
「だから私はもう逃げない」
瞳を開く。身を起こす。操縦桿。手のひらをそっと添える。包み込むように。彼女と赤鬼は一つとなる。腕を通じて繋がる二つ。血管が、神経が、脳細胞が脈打つ。どぐん! 背筋を貫かれるようなパルスに、ユイリェンは体を震わせた。恍惚!
「運命から、あなたから、そしてなにより――私自身から!」
子犬の悲鳴。過加速走行発動。鉄の棒で殴られたような衝撃が彼女を襲う。吹き飛びそうになる意識。溺れる遭難者のように、必死に現実にしがみつく。飛ぶな。沈むな。保て。決着をつけるまでは、気絶などしていられない。
『哀れに見える……』
同じく過加速走行で突っ込むエクセス。左腕には光の刃。そしてフゥルンの左も輝く。赤と青は輝きを放ちながら一直線に突撃する。ぶつかり合う光と光。ほとばしる衝撃。熱と閃光。世界のひずみ。二機それぞれにはじき飛ばされる。真後ろへ。空中へ。反動が身を引き裂く。肺から絞り出される呼気。
『終わりにしようユイリェン!』
先に体勢を立て直したのはエクセスだった。肩のミサイルポッドがぱっくりと口を開く。
射出されるミサイルの雨。四発。八発。十二発。残るミサイルの全てを同時に吐き出し、青蜘蛛は真っ白な糸を吐く。死を招く蜘蛛糸が、フゥルンの紅い巨体を絡め取る。もはや、どこにも。不十分な体勢。大量のミサイル。最悪のタイミング。どこにも、ユイリェンが生き残る可能性はない。
そして、爆炎と噴煙が巻き起こった。
轟
黒!
次の瞬間、エクセスは天空にはじき飛ばされていた。何か巨大なエナジーを受けて。コアから引き剥がされ、地面に転がるミサイルポッド。驚きを押し隠し、なんとかブースターで姿勢を直す。四本の足をサスペンションにして着地。
なんだ! スフィクスの額に冷たい汗が浮かんだ。じっとりと全身が濡れている。恐怖? 恐れている? なぜ恐れる必要がある。このおれが! 一体何を恐れるというのだ。今の見えない攻撃か? 一体!
ゆっくりと。エクセスは振り返った。後ろ。燃えさかる炎。黒。佇む黒。すっくとそびえ立つ、漆黒の巨人。漆黒? あれはなんだ。フゥルンではないのか。背を向けて立ち尽くす黒。ぎぃぎぃとギア音を響かせて、黒は旋回した。その単眼が。剥き出しのメカニックが。エクセスの青を睨み付ける。
ぞくり。
「ひっ!」
思わずスフィクスは悲鳴を上げた。指先が震えている。歯ががちがちと鳴っている。汗と涙と唾液が混ざり合う。確信。殺される!
『逃げないと言ったわ……』
それは確かにユイリェンの声であった。押し殺した彼女の声。アレはフゥルンだ。あることに気づき、スフィクスはミサイルの着弾点を確認する。噴煙の中から見え隠れする紅い残骸。間違いない。奴は――フゥルンは、二重装甲の一枚目をパージした!
ああ。フゥルンの全身からしたたり落ちる液体。二重装甲の内部に封入されていた不燃性の緩衝液。まるでその姿は返り血に濡れた鬼。人の手には収まり切らぬ。人には決して狩り殺せぬ恐怖。もしも彼女を殺せるとすれば――それは神か。あるいは彼女を超越した鬼か!
『手加減するのはやめよ』
轟
ようやっとケンジは身を起こした。今の衝撃。まるで世界を否定されたかのような衝撃。報告しろ。声は声にならなかった。喉か何かを打ち付けたか。声が出ない。息はただ、ひゅうひゅうと歯の隙間を通り過ぎるだけ。それでもエリィは、彼のいわんとすることを悟ったようだった。
[フゥルンのリミッターを全面解放。第一装甲板を全て除去し、無理矢理軽量化しています。さらにシールドを球形に展開して、機体全体を包み――]
データを見ながら報告するエリィが言葉に詰まる。うぅんうぅん。コンピューターの唸り。低い慟哭。計算機は、自らの範疇を越えた事件に遭遇したとき、狂うという。予想外の、非論理的な出来事に出会ったときに。エリィは狂気の一歩手前にあった。こんなことがあるはずがない。全否定。
[フゥルンの速度が370を越えています!]
音速の壁!
「アアッ!」
深淵の果てに落ちそうになる意識を必死に呼び戻す。身体の細胞が一つ一つ砕けていくのがわかる。圧倒的加速度。重圧。衝撃。振動。電磁波の嵐。音を超越した空気の震え。今、フゥルンは音速を超えた!
周囲に衝撃波の刃を撒き散らす。研究所の地面が。外壁が。残骸が。音の爆弾に貫かれて砕け散る。弾け飛ぶ。フゥルン自身もまた。シールドを球状展開していなければ、最初の一秒で粉々だ。長くは保つまい。リミッターを全て解放し、排熱も慣性緩和も全て無視して出力に突っ込んでいるのだ。機体はおろか、ユイリェンの体も保たない。
一分。半分。いや、四半分でいい! 私よッ!
ユイリェンは祈った。誰に? 神に? 自分自身が神であるというのに。とにかく彼女は祈った。あるいはウェインにだったかもしれない。望むことはたった一つ。命などいらない。未来などいらない。運命など必要ない! ただ!
死ぬなッ!
音のない世界で、肉体を激しく打ち付けられながら、ユイリェンはそれでも突き進んだ。プラズマのシールドに護られた音速の巨大質量が、青蜘蛛目がけて突進する。ばぎん! 肩のミサイルがシールドからはみ出して、衝撃波に打ち砕かれる。頭部が。エナジーバズーカが。脚部の膝から下が。邪魔な出っ張りを綺麗に掃除する。この上なく手荒な手段で。
どん!
慌てて回避するエクセスに、シールドの端が擦る。ただそれだけで粉砕されるエクセスの右腕。バリバリと音を立てて引き裂かれるマシンガン、そして榴弾砲。もしスフィクスが衝撃波の流れに乗るように動いていなければ、残る全身も右腕と同じ運命をたどっていた。
ヴン! 過加速走行――いや超加速走行を中断、旋回加速器で180°方向転換。研究所の外壁わきに、折れた足で着地する。派手に吹っ飛ぶ外壁。まだ衝撃波は有効。ブースターで速度を殺し、停止する。
「うおォッ!」
かつてない振動がCCRを襲う。あのお転婆め! ケンジはコンソールにしがみつきながら、心の中で悪態を吐いた。無茶苦茶しやがって! このままじゃここも壊滅だ!
唯一の救いは、職員がシェルター内に隠れているということだけ。あそこなら確実に安全だ。
がらがらとうるさく崩壊していくキャットウォーク。ホログラフ投影されたエリィの姿が揺らぐ。そして消える。投影機に異常が起きたのだろう。ケンジ、ケンジ、ケンジ、ケンジ、スピーカーが騒ぎ立てる。その名前だけをひたすら繰り返す。体内に挿し込まれた女の喘ぎ声のように。エリィの喘ぎ。
遥か上の方で音がする。はっと上を仰ぎ見る。砕け落ちた天井。ケンジの頭上に振ってくる瓦礫。その場から飛び退く。しかし遅い。何トンもあるであろう鉄の塊が、彼の足を押し潰した。仰向けに倒れるケンジ。ケンジ、ケンジ、ケンジ、ケンジ。叫び続けるマッド・コンピューター。アーティフィシャル・インテリジェンス・システム・ガブリエラ、エリィ。
じわり。暖かい感覚が足の方から流れてきた。赤。血の赤。ユイリェンの好きな色。挽肉のように砕けた足から、床に広がる赤。暖かい液体毛布の上に寝そべって、ケンジはぼぅっと上を見つめた。そびえ立つ塔。エリィの本体。大きい。あまりにも大きな存在。エリィも。ユイリェンも。女とはなんと大きいのだろう。こんなにも。
「愛しているよ――エリィ――」
彼はぽつりと呟いた。なぜか声は出た。
「僕と――いつまでも一緒に――」
そして彼は瞼を閉じた。
静かになった空間の中で、エリィだけがうんうんと唸っていた。彼女は思った。そして呟いた。もはやぴくりとも動かない主に。心と体の主に。伝えたかった言葉がようやく見つかったのだ。ようやく。
[愛しています、ケンジ――どこまでだって、あなたと一緒に――]
エリィの電源はそこで途切れた。
『素晴らしいよ……』
音速突貫。空間を否定しながら進むフゥルン。エクセスの機体が掻き消えた。例の回り込み。真後ろへ。舌打ち一つ、ユイリェンはペダルを踏みつける。超加速走行を停止。旋回。逃がしはしない! 血走った瞳で。食いしばった歯で。あまりの加速度に自然と吹き出す喘ぎ声で。意志を、ただ一つの自分の《意志》を、世界に刻みつける!
『それでこそ、君はこのおれの妻に相応しい!』
「私の夫はあなたじゃない! 私が愛するのはあなたじゃない!」
轟
一体何度目か。この轟音も。そしてこの世界も。
ユイリェンはまっしろなせかいに立ち尽くしていた。
右を見る。左を見る。上を。下を。戦いの記憶は消えていた。不思議と違和感はなかった。何度も訪れたこの世界。どこまでも白の空と白の大地が広がるまっしろなせかい。全く何もない世界。そうだったのだ。ここはユイリェンの心。何もない純白、丸ごと新しい、純粋な、何も知らない、ユイリェンの心。
《さあ》
誰かが空間に文字を貼り付けた。瞬き一つすると、彼女がそこにいた。吸い込まれるような黒髪と黒い瞳。ユイリェンはそれが誰なのか知っていた。瞬き。彼女が二人に増える。全く同じ顔の二人。もう顔はぐちゃぐちゃに塗りつぶされてはいなかった。はっきりと見えた。どことなく鏡で見る自分の顔に似ている。綺麗な瞳だとユイリェンは思った。希望に満ち満ちた、輝く瞳。
《あなたは何を望んだの?》
自由。
《あなたは何を得たの?》
心。
《あなたは何を望むの?》
ユイリェンは言葉に詰まった。筆が止まった。まっしろなせかいは、三つの問いと二つの答えを刻んだまま停止した。
心。彼が与えてくれた。私には自由がある。喜ぶ自由がある。怒る自由がある。悲しむ自由がある。哀れむ自由がある。驚く自由がある。恥じらう自由がある。楽しむ自由がある。寂しがる自由がある。それが私の自由。彼が教えてくれた。彼が呼び覚ましてくれた心。それが私の自由。心の中に永遠に住まう彼。それこそが自由。
愛する――愛する自由!
確かに未来は定まっているかもしれない。運命からは逃れられないかもしれない。束縛に支配され続けるかもしれない。それでも自由がある。私には自由がある。死にたいわけじゃない。でも未来なんていらない。護りたいものは現在。過去から繋がる、目の前にある、現在。そう――
そう。私の望むもの、それは――
「ウェイン・ルーベックよ!」
ぃぃぃぃぃぃぃぃ!
青蜘蛛が光の刃を掲げる。フゥルンが光の拳を振り上げる。音速の中にさらけ出される黒鬼。ばぎん! 足が腰からもげ落ちる。ばぎん! 旋回加速器が爆砕される。ばぎん! 頭部も。ばぎん! 右腕も。次々と砕ける。そんなものは要らない! 必要なのは三つ、コアと、左腕と、この圧倒的速度だけ!
轟!
瞬間、真っ白な雲が巻き起こった。剥き出しになったフゥルンの肩が。二対の真っ白な雲を吐き出した。大きく天空へ舞い上がる雲。白。まるでそれは――
真っ白な翼。
光の刃と光の拳がぶつかり合う! 閃光の氾濫。衝撃波の嵐が青蜘蛛の足を吹き飛ばす。拮抗。いや、光の刃が微かに押している。音速の圧倒的エナジーを受け止め、しかもはじき返す。黒鬼が。黒鬼の残骸が。天空へと弾かれ――
ヴヴン!
超加速走行! 限度を超えた加速にコアが歪む。黒の装甲がひび割れる。光の拳が。青白い閃光が。刃を押し返し、貫き、弾き、そして青の核を捉える。装甲の向こうへ。コックピットへ。閃光は。光は。拳は。破壊。貫く。閃光。衝撃。爆発。粉砕!
そして。
そして全ては、暗転した。
To be concluded.