NULL 最終話 0(ナル)と1(ハジメ)のゲーム
時間は流れる。
人は老いる。
そして死ぬ。
それは、絶対に逃れることができない運命。誰であろうとそれに変わりはない。だから、彼女だけが特別であるというわけではない。この世に生を受けた全ての命が、ひょっとしたらこの世界の全てが、いやこの世界そのものさえもが、逃れられない運命に縛られて、生きている。
だがナルは戸惑っていた。
とっくに受け止めて、取り込んでしまったはずの運命。乗り越えてしまったはずの運命。それが少しずつ、心の中で版図を広げていく。手に入れたはずのものが、愛が、ナルの心を削り取っていく。
わたしのこと、好き?
一度産まれた疑念は消えない。
ナルの心は重たい疑念に押し潰されて、少しずつやせ細っていく。
過ぎていく月日が、ナルの変化の性質を、成長から老化へと変貌させた。
そう、今や肉体だけではない。
心の老化が、始まっていた。
西暦二〇三五年、六月三日。
「ただいま」
疲れた声が玄関から聞こえてきた。ナルはぼうっと眺めていたテレビの画面から目を離し、弾かれたように立ちあがった。垂れ流しのどうでもいいニュースを捨て置いて、裸足でフローリングを踏みしめ、ぺたりぺたりと歩いていく。本棚の上に置かれた時計が、午前三時を告げていた。
ハジメと出くわしたのは、キッチンでだった。半袖のシャツは縒れていて、彼の疲れを体現しているかのようだ。靴下が床と擦れて音を立てていた。足を引きずって歩いているのだ。彼の顔を見上げた。接続酔いのせいだろう、青ざめた虚ろな顔だった。
「おかえりなさい」
「まだ、起きてたんだ」
「うん」
ハジメは大きく溜息をついて、荷物をナルに預けると、無言で居間に向かった。今日は暴力団(アングラ)同士の、少し大きな勝負があって、ハジメは代打ちとしてそれに駆り出されていたのだ。よっぽど激戦だったと見える。
居間に入ったハジメは、ちゃぶ台の上に二人分の食事が用意されているのを見て、言葉を失った。
「……まだ食べてなかったの?」
「一緒に、食べようと思って」
「先に食べてくれればいいのに」
溜息混じりの、呆れたと言わんばかりの、冷たい声色だった。食事には目もくれずベッドに倒れ込むハジメから、ナルは目をそらした。ありがとうとか、ごめんとか、いつものハジメなら、そう言って、優しくしてくれたはずだ。
「あの、ハジメ」
自分でも何を言おうとしたのかわからない。結局名前を呼ぶだけで言葉に詰まり、その後を繋いだのは、ハジメの方の言葉だった。
「ごめん、疲れてるんだ……寝かせてよ」
消え入るように言って、ハジメはそのまま眠りに就いた。
ナルは、彼の体の上にタオルケットをかけて、
「おやすみなさい」
小声で囁いた。寝息がそれに応えた。
それからちゃぶ台の前に正座して、夕食の上に被せられたナプキンを取った。一人で手を合わせて、頭の中でいただきますと唱えると、冷めた白米を一口食べた。必要以上によく噛んでから飲み込んだ。
全然美味しくなかった。
音を立てないようにそっと箸を置き、ナルは無表情に立ちあがった。服を脱ぎ捨て、代わりに寝間着を着ると、灯りを消して、寄り添うようにハジメの眠るベッドに潜り込んだ。ハジメはナルの方に背を向けて眠っていた。彼の広い背中にそっと手を添わせた。安らかな寝息が、微かな振動になって、ナルの手に伝わってきた。
「寂しい」
自分が声に出していたことに気付くと、ナルは驚いて、口をつぐんだ。ハジメはぐっすり眠っていた。気付かれてはいない。寝返りを打って、ハジメと背中合わせになると、ナルはベッドの下で丸まっていたスェーミを、片手で抱き上げた。
眠りこけていたスェーミは、無抵抗に、ナルの胸の中に抱き寄せられた。
「ねえ、ハジメ」
まるで、腕の中で眠る猫に問うように、ナルは問いかけた。
「わたしのこと、好き?」
この日。
ナルの肉体年齢は、三十三歳に達していた。
最終話
0(ナル)と1(ハジメ)のゲーム
六月三日の日曜日は、梅雨の間に突然姿を現した、気持ちのいい晴れの日だった。
昼前に目覚めたハジメはいつも通りの優しいハジメだった。ナルは彼を誘って、久しぶりに二人きりで、梅田に出張ってきたのだった。薄暗い梅雨の空ばかり見ていると、こっちの気持ちまで薄暗くなる。せめてすっきり晴れている日くらい、思いっきり遊び回りたかった。
幸い、昨日の仕事でハジメの懐には大枚が転がり込んでいる。もちろんそれも計算の内である。
梅田の街の休日は、いつにも増して人でごったがえしている。私鉄の駅から、ゆったりと流れる大河のような地下街の人混みを抜け、二人は太陽の燦々と降り注ぐ、大阪最大の繁華街にたどり着いた。
「んんーっ!」
眩しい太陽を見上げて、ナルは思いっきり背伸びをする。伸ばした手で、空がつかめそうな気さえする。手のひらを握って閉じてを繰り返す。残念ながら、空はつかみ所がなくて、ナルはそれを手にすることができなかった。
「むむっ」
無念そうに唸ると、ナルは長いスカートの裾をひるがえし、ハジメの腕にしがみついた。これならつかめる。つかみ所がある。
「ねね、ハジメ、あっち行こ、あっち」
と指さす先は、女性向けの商店街(モール)がある方向である。
「目当てでもあるの?」
「美月に教えてもらったんだ。かわいいお店があるんだって」
美月はハジメの友人だが、以前に一度酒を酌み交わして以来、ナルとは仲良くしているらしい。時々電話もしているし、美月がうちに遊びに来る頻度も高くなった。女の子同士ということで気も合うのだろうが、美月の宝塚趣味がナルに伝染しないかと、ハジメは内心冷や冷やしている。
「ね、行こ!」
なかば強制的に、ナルはハジメの腕を引っ張り、歩き出した。固く腕を組んで、ぴったり寄り添って。ハジメは気恥ずかしくなって周囲を見回すと、案の定、こっちを見てにやにや笑っている通行人もいる。
「ナル、やめようよ、こんな所で、こんな……」
「こんなってどんな?」
ナルは無邪気に首を傾げる。ハジメは人差し指で頭を掻くと、
「いや、その……くっつきすぎだと思うんだ。なんていうかな……」
「ほー。わたしとくっつくのは嫌ですかそうですか」
「いやそうじゃなくて」
「いーえ、取り繕わなくたって結構でございますよー。ふんだはんだ錫と鉛っ」
錫と鉛はともかくとして、ナルはすっかりへそをまげ、ハジメを突き飛ばすように離れて、そっぽを向いた。ハジメは肩を落とす。こんなことで機嫌を悪くするようなナルじゃなかったと思うのだが。仕方がない。こういう時は相手に会わせてタガを外した方が、自分の方も楽しめる。
「しょうがないな……」
後ろからナルに飛びついて、力強く彼女の肩を抱き寄せる。ナルは小さく悲鳴をあげて、しかし為すがままにハジメの胸に飛び込んだ。そしてくすくすと楽しそうに笑う。
「これでようございますか、殿」
「うむ! 余は満足じゃ!」
そして二人は顔を見合わせ、おかしくなってケラケラ笑う。周囲の視線もどうでもいい。見たいなら見てくれればいい。その瞬間、二人は確かにそう感じていたのだった。
じゃれ合いながら飛び込んだブティックでも、ナルはひとしきりはしゃぎ回った。美月が紹介してくれたという、街角の小さなブティックは、ティーンエイジャーが好むような派手で露出の多い服で一杯だ。宝探しをするように店の奥に飛び込んでいったナルを見送り、置いてけぼりを喰らったハジメは、手近なハンガーを一つ手に取る。そこにぶら下げられていたのは、服と言うよりは布の切れ端のような代物。思わず眉をひそめる。
ふと、頭の中でナルがそれを着ているところを想像する。すぐさま想像はシュワポンと音を立てて雲散霧消した。だめだ。二人だけのときなら扇情的で悪くないかもしれないが、こんなのを着て街を歩いて欲しくない。ハジメは元来、嫉妬深い男である。
だいたい、この値札に並んだ数字の羅列はなんだ。使われている布地の面積比からすれば、恐ろしく劣悪な費用対効果(コストパフォーマンス)だ。ぼったくりに等しい。
「ねーねー、ハジメー」
奥からナルの声がする。ハジメは丁寧にハンガーを戻すと、ナルの姿を探してティーンエイジャーの群れを掻き分けた。いた。奥の試着室で、カーテンの脇から顔だけ覗かせている。そのそばには、にこにこと笑顔を絶やさない女性店員。
「こんなのどうかな?」
と、カーテンを開いたナルが着ているのは、さっきハジメが見ていた服の色違い。
「……どうって」
呆れて物も言えない。女性店員はすかさず試着室を覗き込み、
「あら、お似合いですよー」
「えへへ、やっぱり?」
「ダメ! そんなのダメだよ」
げっそりやつれたように見えるハジメが大きく腕でバツを作ると、ナルは頬を丸く膨らませた。
「えーなんで」
「そんなの着て町中歩けないだろ……」
「いいじゃない。水着みたいなもんだよ。ねー?」
「ですよねー」
そこの店員。焚きつけるな。ハジメは眉をひそめて腕を組む。
「とにかく、もっと大人っぽいほうが似合うと思うんだ、ナルには」
「そんなことないですよ、若々しいですもん。このくらいの方がいいですよ」
だから焚きつけるなって。買ってほしいというオーラがこっちまでビンビン伝わってくる。しかしナルの方はと言えば、こんな見え透いたおべんちゃらを真に受けたのか、さっきまで膨らませていた頬を赤く染め、
「ええー、やっぱりぃ? ねえ、何歳くらいに見えます?」
ふと、ハジメはナルの声色に、静かな物を感じ取った。
「そうねえ……二十代のはじめくらいかなあ」
無邪気に応える店員。ナルは目を細め、笑顔を浮かべて、彼女に礼を言っている。その笑顔はまるで能面のよう。少し角度を変えるだけで、全く違う表情に姿を変える。そんなふうに見える。
「でも大ハズレ。ほんとは生後五ヶ月の赤ちゃんだもんねー」
ナルはそのまま、笑顔をハジメの方に向けた。店員は、冗談だと思って愛想笑いをしている。ハジメは――
それが事実なのだと知っているハジメは――
ただ、曖昧な笑みを浮かべて、視線をそらすことしかできなかった。
結局そこでは何も買わず、二人は遅い昼食をとろうと、レストランに足を運んだ。
少し表から外れた細い通りに面していて、味は良くて安いのに、なぜかいつも閑古鳥が鳴いている、そんなイタリアン・レストランだった。サイズの小さいピザやパスタをあれこれ頼み、二人はお互いに皿を取り替えながら、ゆっくり料理を楽しんだ。
窓に面した席だったが、向かい側には大きなパチンコ店のネオンがやかましく輝いていて、下はゴミに汚れて違法駐車だらけの路地しかない。良くも悪くも梅田の街の典型的な風景だったが、あまり見栄えのよい景観とはいえない。
ウェイトレスが、最後の料理と伝票を運んできた。まだ高校生くらいの、若くてかわいらしい女の子だった。髪は淡いブラウンに染めていて、清流のように静かな、さらさらのストレートにしている。唇の色は淡く、肌は健康的に日焼けしていて、彼女の活発さを如実に物語っている。
「ごゆっくりどうぞ」
元気良くお辞儀をして微笑むその瞳は、太陽のような、自然でほっとする輝きに満ちていた。
ナルは、彼女に笑顔を返すハジメを、じっと見つめていた。ストローでジュースを音を立ててすすった。ハジメはその音に気付きもしなかった。ウェイトレスはスカートの裾を揺らしながら、厨房に戻っていった。ハジメの視線はようやくナルの方に戻ってきた。目と目が合って、ナルは意味ありげににやりと笑った。ハジメはわけも分からず、適当な笑みを返した。
「ねー、ハジメ」
「ん?」
ハジメが二つ折りにしたピザにかぶりつく。食欲はあるようだ。気分がいいということだろう。
「ハジメのいい所って、正直で、誠実で、自分に嘘をつかないとこだと思うの」
「え?」
「ハジメのそういう所、好きよ」
「なんだよ、藪から棒に」
「ほんとに、好きなんだから」
不思議そうにハジメは頭を捻っている。ナルはにっこり微笑んだ。思えば、ハジメと出会ってから、笑ってばっかりだ。最初は、ハジメを安心させようと思って笑っていた。そのうち、本当に楽しくて笑うようになった。
でも、今は?
「疲れちゃった。ね、食べ終わったら帰ろ」
「まだ来たばっかりだよ?」
「そうだけど……なんか、ダメだね。歳かなー?」
「ナル……」
そう。一つ忘れていた。
「前も言ったけど、そういう風に呼んでくれる時の声も、好き」
ハジメは見るからに戸惑っていた。きっと、彼はこう考えている。ぼくは一体何を間違えたんだろう。ぼくの何が、ナルの機嫌を損ねたんだろう。ぼくはどうすればいいんだろう。そうやって、自分の中に、自省という名の閉鎖された空間の中に、いつも答えを求めようとする。
そうじゃないんだよ。ナルはまた、にっこりと微笑んだ。あなたが間違ったんじゃない。わたしの機嫌が悪くなったわけでもない。どうこうすればいいわけじゃない。ただ、あなたはそういう人で、それは良いことでも悪いことでもなくて、わたしはそのことで、少し寂しいと感じている。
「うちに帰ってゆっくりしたい。いつもみたいに、優しく、ぎゅっ、って」
囁くように、ナルは言った。
「抱いてほしい」
それだけは、絶対に信じられる、本当の気持ちだから。
わたしは、老いている。
ナルははっきりと自覚していた。肉体的なこともある。体力が落ちてきたり、贅肉がついてきたりというのは、その顕著な現れだ。肌は以前のような張りを失ってきたし、頻繁にかさつくようになった。膝の裏側には、青い静脈血がくっきりと浮かび上がって、気持ちの悪い網目模様を見せている。食欲も落ちてきて、脂物を食べると必ず胃の具合が悪くなる。
そして精神的にも。ちょっとしたことですぐ気分が落ち込むようになったし、わけもなく寂しさに襲われることもある。逆に妙にはしゃいだり、むやみにイライラしたり、他にも――そう、性欲もだんだん薄くなってきた。
でも、それ自体は、悲しいとも辛いとも思わない。これは自分だけではなく、誰もが通る道だから。いわば運命のようなもの。人間として産まれてきたからには、老いと死を避けて通ることは、誰にもできない。
悲しいのは、辛いのは、自分を見つめるハジメの目の、僅かでしかし確実な、変化だ。
初めて会った頃の、藁にもすがりたいというような、必死な目。
一緒に暮らし始めた頃の、心の底から自分を愛してくれている、優しい目。
そして今の、沸き上がってくる哀れみと義務感にやせ細った、疲れた目。
哀れみも義務感も、今になって湧いて出たものではない。最初から、少なくともナルの出生の秘密を知った時から、ずっとハジメの中にあったもの。でもそれは、覆い隠されていた。というより、別のずっと大きな感情が、彼を支配していた。
愛。
ナルを愛するという心。
哀れみと義務感が姿を見せた理由は一つ。
薄れているのだ。ただがむしゃらにナルを求める、野性的な心が。
老いているのだ。
わたしは、老いている。
女としての魅力が、少しずつ、しかし確実に、薄れてきている。
そしてハジメはまだ、伴侶に「女」を求めなければならない、若者なのだ。
少しずつ、ナルは結論に達しつつあった。
すなわち――
自分はハジメのそばにいてはいけない。
自分がハジメを縛ってはいけない。
ハジメは、もっと若くて、きれいな――普通に歳を取る女の子と、幸せにならなければ、いけない。
認めたくない最後の結論に。
ナルは、達し始めてしまった。
「ナル?」
ナルははっとして、自分が置かれている状況を再認識した。いつのまに思考の中に飛び込んでいたのだろう。見回せば、そこは無機質な白い壁に包まれた医務室の中で、目の前には怪訝そうに眉をひそめたエリィがいる。
「終わりましたよ。検査」
そう。毎週月曜の、健康チェックを受けていたのだ。
「どうかしたんですか?」
「ううん……なんでもない」
力無く応えると、ナルは服を羽織った。上から順にボタンを締めながら、ナルの視線は焦点も合わず、ゆっくりと単純作業を続ける指先に注がれている。エリィはナルの様子がおかしいことに、気付いているのだろうか。手元の端末に何事かを入力しながら、メガネのずれを片手で直す。
「薬、出しましょう」
「え?」
「胃腸薬です。胃が荒れているようですから。毎食後に飲んでください」
「うん……」
「ハジメくんと何かありました?」
ナルの指が、凍り付いた。
すぐに指は解凍されて、いそいそとボタンを締めはじめた。俯いて一言も応えなかった。何も応えないのが最大の答えになっていることに、気付いてはいた。それでも、口に出すべき言葉が見つからなかったのだ。
「乗り越えなきゃ、だめですよ」
エリィは静かに呟いた。
「ハジメくんはいい子です。あなたは彼と、幸せにならなきゃいけない。いけないんだから」
「前にね」
ボタンを締め終えて初めて、ナルは口を開いた。
「ハジメに同じ事言われたんだ。わたしが脱走して、ふらついていたときに。家族と揉めてるから帰りたくないって言ったら、家族なんだから、乗り越えなきゃって」
「家族って、副社長?」
「エリィも、会社のみんなも……」
「そんな風に思ってたんだ。嬉しいわ」
ナルは思わず目をそらした。次に返される言葉がわかりきっていたからだ。
「じゃあ、なおさら……今はハジメくんも家族、でしょう?」
「うん」
遠くを見つめるナルの目は、もうエリィを捉えてはいない。遥か向こうに遠ざかってしまった、たった一人の大切な人を――
「でもね、乗り越えるために……辛い決断をしなきゃならないことも、あると思うの」
この時はまだ、追いかけていた。
ハジメは医務室の前で待ってはいなかった。いつも彼が座っていた長椅子には誰もいなかった。きっとケンジと一緒に、どこかで時間を潰しているんだろうと、エリィは二人を探しに行った。ナルはなんとなく動き回る元気もなくなって、ぽつんと、長椅子に座って三人の帰りを待った。
どうして自分は、潔くハジメの元から去ることができないんだろう。
既に結論は出ているに等しい。去るべきだと、思っているはずなのに。
一体何が自分を引き留めているんだろう。
考えにふけるナルの耳に。
その音は、聞こえた。
高く澄みきった、一本調子の音。まるで耳鳴りのよう。でも気のせいじゃない。不自然に高い音波、人間には聞き分けられない超音波。なぜかそれが、ナルの耳の中で、甲高く唸りをあげている。
まるで何かが共鳴しているかのように。
弾かれたようにナルは立ちあがった。
目の前に、一人の少女が立っていた。
栗色の髪。漆黒の、宝石のように輝く瞳。透き通るような白い肌。体は細く、複雑なガラス細工の幾何学模様のように、完璧な調和を見せる。人形のように整った表情は、凍り付いてぴくりとも動かず、わずかに生命を感じさせる桃色の唇は、力強くきゅっと結ばれている。
目を見張るほど美しい少女が、そこに立っていた。
「あなたは、誰?」
少女が尋ねる。この世の物とは思えない、壮麗な鈴の音のような声で。
「わたし――わたしは――」
まるで魔法に魅惑されたように。
ナルは、答えてしまった。
「わたしは――あなた」
そう。
少女の姿は、若き日のナルと、うり二つだったのだ。
「あなたなのね」
少女の無言が、全ての答え。
「実験一号機、YDS―T01……」
「ま、元気を出しなよ」
ケンジは力強く、ハジメの背中を叩いた。その後ろにはエリィが控えている。EMO本社のクロム貼りの廊下を、医務室に向かって歩きながら、ケンジはずっとハジメを元気づけているのだった。
ハジメに相談を受けたのだ。最近ナルの様子がおかしい。どうしたらいいのだろうか、と。
「きみが暗いと、ナルの方も暗くなる。空元気でもいいからとにかく明るく振る舞うことさ。そうすりゃいずれ、空元気が本当の元気になる時が来る」
「そうでしょうか」
「そうだって! 僕はこう見えても人生の先輩だぞ。ちっとは僕の言葉に重きを置いてはどうだい」
そして三人は最後の角を曲がり、医務室前にたどり着いて――
そこで凍り付いたように立ち止まった。
ナルが二人。
ハジメにはそう見えた。いや、違う。一人はハジメのよく知っているナル。だがもう一人は違う。
あの時の……初めてであった頃の、十五歳だったころのナルと、全く同じ姿、同じ顔をした、背筋が凍るほど美しい少女。
そんな少女が、そこにいた。
「ナル……?」
「ユイリェン!」
ハジメとケンジが、ほとんど同時に声を上げた。二人のナルが、そろってこちらに振り返った。ハジメは息を詰まらせた。違う。同じ顔なのに、これほどまでに、二人のナルは違う顔をしている。
残酷なまでに。
そしてハジメは、彼女らを見る自分の表情が、最もナルにとって残酷なものであることに、この時は気付いていなかった。
「ハジメ……」
ナルがぽつりと呟いた。震える声で。力を無くした声で。
「違う、違うの、ハジメ……わたし、本当は……!」
「ナル……」
ハジメが一歩足を踏み出す。
ナルは怯えたように、後ずさった。
「わたし、違う!」
悲鳴を挙げて、ナルは逃げ出した。
わき目もふらず。息を切らせて、全力で、逃げ出した。
ハジメの残酷な視線から。
「これは……」
ハジメはかぶりを振って、ケンジの顔を睨み付けた。彼はといえば、苦渋の表情で、少女を見ているばかり。
「これはどういうことなんだ!」
「前に言っただろう。ナルはコピー・クローンだと。彼女はフロートドレス制御生体ユニット製造計画の実験一号機YDS―T01。僕らの与えた名前は、飯田玉蓮(ユイリェン・イーダ)……」
握ったケンジの拳が震えている。
「ナルの、オリジナルだ」
オリジナル。
ナルと同じ姿をして、人間と同じ時間を生きる少女。
激情に駆られ、ハジメは拳を振り上げ、ケンジ目がけて振り下ろそうとして、そこで止まった。殴ってどうなる。当たり散らしてどうなる。今すべき事は、そんなことじゃない。今しなきゃならないことは……
「そんなのってあるかよッ!」
ハジメは駆けだした。一直線に、ナルを追って。
残された三人、ケンジとエリィと少女――ユイリェンは、しばし沈黙の中にいた。やがてケンジは溜息をつくと、
「ユイリェン、どうして来たんだ。今日は検査の日じゃないはずだ」
「近くまで来たから、寄ってみたの。いけなかった?」
単なる偶然。偶然、か。
「……ああ」
もし神さまがいるなら、天国に行った時に一発殴ってやろう。ケンジはそう心に決めた。
「最悪だよ」
違う。
一人、とぼとぼと道を歩きながら、ナルは拳を固く握りしめた。行き交う人々は、ナルのことなど気にも留めない。誰一人、ナルの心中を知るものはいない。ここにはいない。それがナルには、救いのように思える。
違うのだ。本当は。
実験一号機の姿を見て、自分の心を打ちのめした衝撃を感じて、ナルは気付いた。
わたしは、ハジメのために去ろうと思っていたわけではない。
ただ――
ただ、老いていく自分が嫌だっただけなのだ。
ふとナルは足を止めた。ショー・ウィンドウの強化硝子に、ナルの姿が映っている。丈の長いスカートを揺らして、死人のように足を引きずって、肩を丸めて、歩いていた自分。呆然とした、老いた、醜い自分がそこにいる。
本当は割り切ってなどいなかった。
――そうだね。わたしも、少し辛い。でもね、平気だよ?
何が少しだ。何が平気だ。
もうこれ以上、老いたくない。
それが無理なら、せめてハジメにだけは、老いていく自分を見てほしくない。
いつまでも若くてきれいな自分だけを、心の中に留めておいてほしい。
勝手な言い分だと思う。ハジメの一途な想いを――そう、一方的に疑い続けていた彼の想いを、足蹴にするような行為だと思う。もし神さまがいるなら、きっとわたしを叱るだろうと思う。
でも、自分の気持ちに気付いてしまった今は。
もう、ハジメのそばにはいられない。
他の誰のためでもない。ただ、自分自身のために。
ハジメはめちゃくちゃに、梅田の街を駆け回った。EMO本社を出て、ナルがどっちに行ったのか、てんで見当がつかなかった。ナルの行きそうな場所、あるいは行きそうにない場所、そういう所を片っ端から探し回った。
ナルの姿は、どこにもなかった。
昼が過ぎ、日が落ちて、辺りが薄闇に覆われ始めた頃、とうとうハジメは足を止めた。大きな橋の上に立って。欄干から身を乗り出し、下をゆったりと流れる川に視線を落として。
何でもっと早く気付かなかったんだろう。
ナルは自分に、助けを求めていたのに。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。
ハジメの中に、いずれ幻のように消えていくさだめのこの関係の中に、風の前の塵のように吹き飛ばされていく自分の若さの中に、ナルは救いを求めていたのに。
何でもっと早く気付かなかったんだろう。
まただ。また、終わってから気付く。
できることは全てやり尽くしたつもりで、本当は何もしていなかったということに、全てが終わってから気付く。
「……まだ終わってない」
誰にともなくハジメは言った。道行く人々が怪訝そうにハジメを顧みた。川の水面は、街の灯りを浴びてきらきらと輝いていた。街は燃え上がる星の煌めきのよう。全てがハジメに告げている。もう終わった。お前はただ、感傷に浸れ。
お前にはその権利がある。
そう告げている。
「まだ終わってない!」
自分を絡め取ろうとする全て鎖を振り払うように、ハジメは顔を上げた。
まだ終わってないなら、何ができる?
お前は一体何を以て、ナルを救えるというのだ?
街が、世界が、ハジメに問いかける。
ぼくは何もできない。
ぼくはナルのために何もできない。
ぼくは無力だ。
ぼくは。
「ぼくは――」
ハジメはただ、その場にくずおれた。
もし神さまがいるなら、どうかナルを救ってください。
何もできないぼくの代わりに、残酷な虚時間の檻の中から、ナルを救ってください。
もし神さまがいるのなら――
「……ああ。わかった。とにかくきみは休め。こっちでも捜索隊を出してる。……ああ。大丈夫だから。僕に任せろ。いいね」
溜息をついて、ケンジは受話器を置いた。EMO本社の上層にある副社長室は、むやみにだだっぴろくて、その中に二人だけぽつんと佇む、置物のようなケンジとエリィを浮かび上がらせている。置物。置物だ。そこにいるだけ。本当には何もできやしない。
「ハジメくんですか?」
「ああ」
椅子の背もたれを軋ませて、ケンジは窓から空を見上げた。夜空に輝く星々。高く登った月。手をかざして、指の隙間からそれを見る。手のひらをそっと握ってみる。星がつかめるだろうか。月が手にはいるだろうか。空を抱きしめられるだろうか。
手のひらは、虚空をつかむ。
「僕は、あさはかだったかもしれない」
エリィは何も応えなかった。
「僕には罪悪感があった。ナルを不完全なまま生み出してしまったという罪悪感。彼女が将来辛い思いをすることは、産まれた時からわかっていた。だからせめて、彼女には幸せに生きて、幸せに死んでほしいと思った。そのためにできることは、何でもしてきたつもりだ」
星は瞬いている。ケンジの言葉を証明するように。
「でもそれは、あさはかだったかもしれない」
「ハジメくんと一緒にしたことがですか」
無言。それはつまり、肯定だった。
「馬っ鹿じゃないの」
ケンジは顔をしかめて、エリィの凍り付いた無表情を睨み付けた。上司が怒りの形相で睨んでも、この秘書は眉一つ動かさない。
「あなたは神さまか何かにでもなったつもりですか? それともナルはあなたがいなければ何もできない人形か何かだとでも?」
「別にそんな」
「彼女はハジメくんと一緒にいて幸せそうでした。本当に幸せだったろうと思います。それは事実です。無力感に浸って自分を護るために、過去の事実までねじ曲げないでください。
私はね、もし神さまがいるなら、お礼を言いたいくらいですよ。ナルと彼を引き合わせてくれてありがとうって」
ケンジはすっかりへそを曲げ、ぶうたれて椅子をくるくる回した。ひとしきり回った挙げ句、両脚をデスクの上に投げ出して、思いっきり背伸びをした。いい秘書を持ったものだと思う。あるいは、最悪の秘書をか。
「まったく」
何度言えば分かるんだろう。
「きみは、もう少し優しい言い方を身につけるべきだと思うんだ」
休めと言われても、家に帰る気にはなれなかった。
スェーミがお腹を空かせているだろうか。いや、大丈夫だ。いつもみたいに、キャットフードの箱を自分で開けて、心ゆくまでかじりついているに違いない。何も心配することはない。
思う存分、こうして川を見つめていられる。川沿いのコンクリートブロックに腰を下ろし、誰にも邪魔されず、ハジメはじっと川を見た。夜の闇の中でも水面は変わらずたゆたっていた。繁華街のネオンがそこに反射して、夢の中の世界のように、非現実的な虹色の輝きを放っていた。
ケンジにかけたあと、ポケットにしまう気力もなくて、ただなんとなく手に持っていた携帯電話が、いきなりアラームを飛ばした。なんとはなしに通話ボタンを押して、ハジメは電話に出た。
『おいハジメ、今どこだ?』
ツヴァイトの声だった。
「何」
『何じゃねえだろ、美月の誕生日で、パーティやるって言ってたじゃねえか。何やってんだ?』
「忘れてた」
『……お前、どうした? 何かあったのか?』
何も。
何もない。何もないから、困っているんだ。
『とにかく早く来いよ。美月が寂しがってんだ。ナルも連れて――』
「ナルは……いない」
ツヴァイトが急に口をつぐんだ。
「ぼくも、行けない。ごめん」
『おい、どういう……』
電話を切る。すぐさままたツヴァイトからかかってくる。仕方がないので着信拒否にしておいた。小うるさいアラームはすぐにやんだ。また沈黙が戻ってきた。世界は、ハジメを一人にしてくれた。
ところが今度は、川を船が進んでくる。船は橋にさしかかると、低い警笛をならして、せっかくの静かな水面を波立たせ、橋の下をくぐり抜けた。跳ね上がった水滴がハジメの足にかかった。うるさい。ハジメは耳を塞いだ。うるさい。
耳を澄ませば、遠くから人々の声が聞こえてくる。楽しそうな声。酒に酔い、夜に酔い、恋に酔う若者の声。もうやめろ。嬉しそうな笑い声。もうやめろ。たとえ一時的にせよ悩むことなど何もなさそうな、幸せな声。
もうやめろ!
ハジメは立ちあがった。空を見上げた。星がそこにあった。月がそこにあった。いつもと変わらず輝いている。なぜ? なぜこんなに星がきれいに? なぜこんなに月が明るく? 街は輝き、人は笑い、美月もフォウもツヴァイトも今ごろ楽しくはしゃいでいる。
なぜ?
「黙れ」
ハジメは呟き、
「黙れ!」
そして叫んだ。
「なんでいつもと同じなんだ、なんでそんなに楽しそうなんだ! ぼくが……こんなに辛いんだから……」
それは、心の底から沸き上がった声。
「世界なんか凍り付いて、消えてしまえばいいんだ!!」
ナルはたった一人、丸椅子に腰掛けて、無限ループを続けるデモ画面を眺め続けていた。
恵美須町遊技場(アーケード)街。そこは思い出の場所。
小さなゲームセンターには、ナルを含めて数人しかいない。みんな思い思いに時間を潰し、やがて遊び疲れると、足を引きずって店を出ていく。まるで無気力。生きながら死んでいるゾンビのような人々。とすればここは墓場。わたしに相応しい。
「わたし」
ぽつりと呟いたが、その声はけたたましい電子音に掻き消されて、どこにも届かない。
「一人になっちゃった」
ふと思いついて、ナルは自分の携帯電話を取り出した。無意識にアドレスリストをサーチして、サ行の名前を順繰りに見ていた自分に気付いて、ナルは指を止めた。一体どうしようと言うのだろう。
お別れを。
最後に一言、きちんとしたお別れを。
けじめを付けたい。
ナルのアドレスリストは多くはない。サから始まる名字は一つだけ。シはゼロ。スは三つで――
瀬田ハジメ。
高解像度液晶(ハイレゾLQ)の画面に、無機質なゴシック体が並んでいる。
ナルは通話ボタンを押し込んだ。
また電話が鳴っている。
鬱陶しそうにハジメは画面を見下ろした。そして我が目を疑った。送信者の名前がそこに表示されている。
NULL、と。
「もしもしっ!?」
飛びつくように、ハジメは電話を耳に当てた。声は聞こえない。けたたましい電子音が耳を衝く。古いタイプの音源だ。どこか懐かしいメロディが響く。しかし声は、求める声は聞こえてこない。
「ナル? ナルなんだろ、返事してよ、応えてよ!」
『……ハジメ』
優しい声が聞こえてきた。囁くような声。暖かい声。聞きたかった声。ハジメが待ち望んでいた、たった一つの声――
ナルの声。
「ナル……今、どこに」
『ハジメ、ごめんなさい。急に逃げ出したりして……』
「そんなこともういいんだ。どこにいるの? すぐに」
『ハジメ、わたしね』
ナルは無理矢理、ハジメの言葉を遮った。彼女の声に潜む、冷たくて、踏み込むことのできない聖域のような感情に、ハジメは言葉を失った。どうすればいい? どうやって踏み込めばいい?
どうすれば、ナルを救える?
そればかり考えている自分がいる。
『本当は辛かった……死ぬ事がじゃない。あなたの前で、わたしだけが歳を取らなきゃならないことが……辛かった』
「ナル……」
『もう自分の気持ちをごまかせないの。これ以上、わたしを見てほしくない。あの頃の……十五歳の……かわいくてきれいなわたしだけを……覚えておいてほしい……』
「ナルっ……」
『だから、わたしのことはもう見ないで。ハジメにはもっと相応しい人がきっといるから……もっと、きれいで、かわいくて、若くて……普通に歳を取る女の子を見つけて……幸せになってね』
「ナル!」
震える声で。
涙に揺れる声で。
しかしはっきりと、ナルは言った。
『さよなら。大好きだよ、ハジメ』
「ナル!!」
電話は、切れていた。
ハジメはすぐさまリダイヤルキーを叩いた。着信拒否を伝える冷酷なコンピュータ・ヴォイスがそれに応えた。ハジメは拳を振り上げ、そのまま、電話を地面に叩き付けた。小さな破裂音を立ててプラスティックの外装は破れ、役に立たない電話は地面に跳ね返り、川に飛び込み、沈んでいった。
沈んでいった。
「ずるいよ」
ハジメはうずくまった。
「最後の最後に好きだなんて……そんなのずるい……」
そのとき。
まるで雲の隙間から月明かりがのぞくように、ハジメの脳裏に、ある考えが閃いた。
電子音。
そう、電話の向こうで聞こえていた電子音。古いタイプの音源……いや、ハジメがよく知っているタイプの音源。ゲームセンターだ。ナルはどこかのゲームセンターにいる。梅田のか? あるいは他の? ひょっとしたら恵比須あたりに――
懐かしいメロディ。
そうだ。聞こえてきたあのメロディ。ハジメは意識の中で、音階を追う。ソ、ド、ソ、ファ……
「ナル」
あそこだ。
ナルは、あそこにいる。
ハジメは立ちあがった。
たった一人。
ナルは、「キャリオンクロウ」のコックピットブースの中で、立った一人、明滅する画面を見つめていた。
全て終わった。これでもう、何の未練もない。大丈夫、ハジメは立ち直れる。自分なんかいなくても大丈夫。ハジメは優しいから。素敵な人だから。きっと、いい人を見つけて、幸せになってくれる。
今となっては、もうそれを願う以外に、何もすることはない。
これから、どうしようか。
帰る場所も、待っていてくれる人も、もういない。すべてかなぐり捨ててしまった。
どうしようかな。
「馬鹿みたい」
ナルは自嘲気味に微笑んだ。
「馬鹿みたいだね」
「ああ」
ナルは弾かれたように顔を上げた。誰かが独り言に応えた。声のした方をかぶり見る。コックピットブースの扉が開かれる。外の光が、蛍光灯の無情な白い光が、ナルの瞳に飛び込んでくる。
目を細めたナルの目に映った、逆光に黒く染まった影。
「馬鹿だよ、ナル」
ハジメがそこにいた。
「ハジメ……なんで!」
「電話で、知ってる曲が聞こえた。今時『アトミック』なんて置いてるのは、大阪中でもここだけだ」
そう。
ここは、二人が初めて出会った次の日に、二人でやってきた恵比須の場末のゲームセンターだったのだ。ナルにとっては、ゲームセンターの音なんてどこも同じだと思えたかもしれない。だがハジメにとっては違う。
ハジメは聞き逃さなかった。
ナルが意図せず漏らした、助けを求める最後の悲鳴を。
それでもナルは視線をそらした。顔を背けた。薄暗いゲームセンターの灯りの下でも、顔を見てほしくない。そう思ったから。
「勝負しよう、ナル」
ハジメは静かに言った。ナルは意味もわからず、ハジメの顔を仰ぎ見る。彼は真剣そのものだった。真剣に、真っ直ぐに、ナルの瞳を真っ正面から見つめていた。
「『キャリオンクロウ(こいつ)』で」
「……なに言ってるの」
「たかがゲーム。でも、こいつはぼくらを引き合わせてくれた。なら……ぼくらが最後の決着をつけるにも、こいつが一番相応しい」
蘇る思い出。心の中をよぎる光景。十五歳だったあの頃の、無邪気だった自分の、全ての感覚が再びナルの中に浮かんでくる。
「きみが勝てば、好きにすればいい。ぼくはもう何も言わない。でも……ぼくが勝ったら、そのときは」
神経を研ぎ澄ませば、世界が見える。
「帰るんだ。ぼくらの家に。二人で」
ナルは大きく息を吸い込んだ。そして細く吐き出した。慢心だ。ハジメの慢心。痩せても枯れても、ナルは生物兵器。フロートドレスで戦うために生み出された生命体。たかが人間が、ハジメが、わたしに勝てるわけがない。
そう。わたしが負けるわけがない。
「いいわ」
ナルは応えた。
「勝負よ、ハジメ」
0(ナル)と1(ハジメ)の、最後のゲームが始まった。
また。
また、ここに帰ってきたんだ。
豊中市千里中央(センチュー)。キャリオンクロウの定番場面(ステージ)。
ハジメは地面を蹴り飛ばし、コンプにMAFの起動をコマンド、一気に空に飛び上がる。真っ白なヴィクセン・アクティヴの調子は良好。いつのまにかヴァージョンが更新されてたおかげで、最新の愛機が使える。
推進器(バーニア)全開、西から一気にビル群へ。硝子張りのデザイナー・ビルの影にかくれ、神経を研ぎ澄ます。レーダー波も飛ばさず、ただひたすらにMAF航跡(ウェーキ)の輝きを探す。
肝心なのは遭遇(コンタクト)。最初の出会い。あの時と同じに――
網膜投影HUDに警告(アラーム)。
あの時と同じに!
「ナル!」
叫んで空を仰ぎ見る。真上から真っ直ぐ降り注ぐ真紅の閃光。推進器(バーニア)全開。こちらも上昇。右の手甲(ガントレット)を前面に突きだし、楯代わりにして突撃する。相対速度の洗礼を受けて融けて絡まる背景の中に、真っ赤なフロートドレスが見える。アフラ・グルヴェイグ。その手に握ったのは超振動剣(バイブロカタナ)。
「このおッ!」
振り下ろされる超振動剣(バイブロカタナ)に、自ら拳を叩き込む。七キロヘルツの振動が、真っ赤な火花を巻き起こす。グルヴェイグの推進器(バーニア)が出力を上げ、煌めく刃が手甲(ガントレット)に深く食い込んでくる。
――まずい!
慌ててハジメは《推進器(バーニア)偏向》をコマンドし、その場で大きく宙返り、ナルの腹を蹴り飛ばす。質量千分の一でのキックはほとんどダメージを与えられない。しかし二人は反動で、逆方向に吹き飛ばされる。
なんて物騒な武器を。ハジメは舌打ちして手甲(ガントレット)を確認する。無敵のはずの単分子装甲(モノモラクル)に、五ミリほどの深さで無惨な傷が刻まれている。
『ハジメェッ!』
声。息つく暇もなく再び迫るナルのグルヴェイグ。矢のようなその突撃を、バーニア全開で回避する。そのまま目指すは地上。ナルの空中での機動は完璧。ならば機体性能の差を生かして、障害物を頼りに戦うしかない。
昼間に設定された千里中央(センチュー)の地上は、行き交う車と人でごったがえしている。ハジメは黒いタクシーの屋根に着地。追ってくるナルを後部カメラで捉え、左腕の内蔵小銃を構えるのを見て取ると、タイミングを合わせて跳躍。ライフル弾に貫かれるタクシーを尻目に、歩道から並木へ。
『痛くしないわ! すぐに終わらせてあげる!』
「戯れるな!」
並木の一本を片手でつかみ、それを支柱に回転。真っ正面にナルを捉え――
「《アクティヴ》!」
八十MPSで一気に突撃。相対速度は百三十を越えている。いくらナルでもこの速度はかわせるはずがない。《MAF停止》をコマンド、千倍に拡大された体重の、全て右の拳に込める。
「どっせぇええええええいっ!」
『賢しい!』
ナルは避けない。それどころかさらに加速する。
――タイミングをずらすつもりか!
パンチは当たらない。それを悟るなりハジメはすぐさま体を捻り、ナルの剣の動きに合わせて両腕の手甲(ガントレット)を展開する。ナルの放った横薙ぎの一撃は、ハジメの手甲(ガントレット)を真っ直ぐに捉える。衝撃で吹き飛ばされてバランスを崩し、ハジメは並木に背を叩き付けられる。一瞬肺が潰れたような感触が走り、呼吸が止まる。視界には、反動で吹き飛びながらも体勢を直して再び突っ込んでくるナルの姿。
――強い。
脳裏をよぎる絶望を振り払い、ハジメは並木を両脚で蹴りつけた。空中に飛び上がるハジメの後ろで、並木の一部が音を立てて折れ飛ぶ。ナルの小銃を喰らったか。一瞬遅ければああなっていたのはハジメのほうだ。
『ハジメじゃわたしには勝てない』
分かってる。
『絶対に勝てないのよ!』
「そんなことは分かってるッ!」
《重心移動/(8・0)》、急速反転してナルに突っ込む。そうだ、逃げてどうする。勝てないからって逃げてどうする。敵わないからって諦めてどうする。決めたんだ。決心したんだ。
真っ正面から――
「それでもぼくは……」
ナルにぶつかるんだと。
左腕の内蔵二連砲身小銃(デュアルライフル)に《トリガー》をコマンド。弾幕を張りながら突撃する。ナルは体を小さく捻り、全ての弾道をかいくぐりながら、真っ直ぐこちらに向かってくる。どうする。裏を掻くには。ナルの思考の向こう側に立つには――
――これだっ!
足首のジョイントに接続されていた閃光手榴弾(スタングレネード)をもぎ取って、ナルに向かって放り投げる。すぐさまコンプに《光学処理/光量最適化》をコマンド、次の瞬間手榴弾が目映い閃光を放つ。
こんなものナルが相手では役に立たないはずだ。すぐに気付いて光学処理をコマンドしている。それでもいい。ナルがコマンドリストを検索するわずかコンマ一秒の隙は、ハジメに五メートルの接近を許す。その五メートルで、ナルを射程圏内に――
――捉えた!
ハジメは拳を振り上げて、内蔵コンデンサの充電を確認。リニアレールに回路接続。推進器(バーニア)全開。
「《インパクト》!」
『くっ』
振り下ろした拳とピストンは、寸前で超振動剣(バイブロカタナ)に阻まれる。しかしナルは体勢を崩し、一気に地上まで落下。地面すれすれで推進器(バーニア)を噴かして体勢を立て直す。隙だ。初めてナルが隙を見せた。
この機会を見逃す手はない。
反動を推進器(バーニア)全開で殺し、そのままハジメは急降下。狙いも付けずに小銃の弾をばらまき、ナルに牽制を見舞う。弾かれたように飛び退いたナルの後ろを取り、稲妻のような彼女の起動に必死で追いすがる。
『諦めが悪いのよ! なんでわたしの好きにさせてくれないの!?』
……むかっ。
ハジメは急に、ナルへの怒りに襲われた。なんだその言い草は。散々人に心配かけておいて。戦闘の興奮も手伝って、ハジメの怒りはもう止まらない。気が付けば口が勝手に動いていた。
「好きにさせられるわけないだろ! 勝手ばかり言って!」
『勝手!? なにそれ! ケンカ売ってんの!? こういう時って慰めてくれるんじゃないの!?』
「先にケンカ腰になったのは……」
推進器(バーニア)の《リミッター解除》。限界を超えた推力を浴びて、一気にハジメは間合いを詰める。
「そっちだろうがあッ!」
ナルの頭上に躍り出て、そこで《MAF停止》、自由落下の勢いを借りて体重を載せた拳を叩き込む。しかしナルは容易に体を捻り、拳をかわして一挙動にハジメの後ろに回り込む。
『笑って許すのが男の甲斐性っ!』
「いつもいつも笑ってられるかっ!」
ナルが超振動剣(バイブロカタナ)を振り上げる。今からでは回避は間に合わない。
――それならっ!
ハジメは推進器(バーニア)を逆噴射、背中からナルにつっこみ、間合いを崩す。予想外のハジメの機動にナルは回避も間に合わず、ハジメの背中に押されて吹き飛ぶ。その間にハジメは遁走、ビルの谷間を縫うようにして多層高架道路(レイヤーズ)に入り込む。
「だいたいそうやって一人で辛がって……」
蜘蛛の巣のように入り組んだ柱と層の合間を飛び抜けながら、ハジメはナルが追ってくるのを待つ。この複雑な地形なら、高機動型増加推進器(アクティヴ・ブースター)を装備したこちらが有利。
「ぼくだって辛いんだ! 金も地位も力も何にもなくて、何かしてやりたいのに何もできなくて!」
『何かしてやりたいなんて割にはご飯の支度手伝ってくれたこと一回もないじゃない!』
ナルの声。通信電波をコンプが分析、発信源は……真下。Y字に別れた道路の分岐点で、下の層から飛び上がってくる赤い影。ハジメは慌てて身をひねる。高速の突きが脇腹をかすめて過ぎていく。その瞬間走る電撃のような痛み。体重がだんだん重くなる。ドレスの密閉が破れてMAFの出力が落ちているのだ。慌ててバックパックからシールを取り出し、傷口に無理矢理貼り付ける。
「それはナルが自分でやるって言い出したんだろ!?」
『それでも手伝ってほしい時くらいあるのよこの鈍感!』
ぐさり。
鈍感の一言が傷より痛い。だめだ、気合いで負けてはいけない。萎えかけた気力を振り絞り、ハジメは追ってくるナルを後部カメラに捉える。
「鈍感で……」
急速反転、そして突撃。
「悪かったなああああああッ!」
ざわめきが、広がっていく。
ナルとハジメは気付いていない。いつの間にか、この場末のゲームセンターに、観衆(ギャラリー)が集まり始めていたことに。
最初はたった一人だった。彼は偶然足を止め、映し出される戦闘をしばし眺め、その異常なまでのレベルの高さに言葉を失った。すぐさま仲間のゲーマーを電話で呼び出し、観衆(ギャラリー)は三人に増えた。
三人が六人。六人が十二人。人だかりは人だかりを呼び、普段ならこんな健全なゲームセンターにやってこないようなちんぴらまでもが、噂を聞きつけて駆けつける。やがて始まる二人の痴話ゲンカ。その間も休みなく続く激闘。巻き起こる歓声。時折漏れる苦笑。
『それから洗濯する身にもなってよね! ポケットにティッシュ入れっぱなしだし! 靴下裏返しに脱ぐし!』
『洗濯は交替でやってたろ!?』
『論点そこじゃないのよっ! だらしないって言ってるの!』
『人のこと言えるか! 座る時あぐらかいて大股開いて……』
『いーじゃない家の中なんだからー。だいたいそれ見て喜んでたのはどこの誰よ?』
『喜んでないっ! 断じて喜んでないぞ!』
『前にお風呂も覗いたでしょー? あーやだわー男ってー』
『覗いてないって! 濡れ衣だそれは!』
またざわめきが起きる。完全にハジメを捉えたかに思われた超振動剣(バイブロカタナ)が、まるでそれを予知していたかのように突き出された左の手甲(ガントレット)に弾かれる。反動で互いに距離を取り、ハジメは多層高架道路(レイヤーズ)の上空へ。それを追うナル。
『だいたいハジメは……』
青空に刻まれるMAF航跡(ウェーキ)の確かな煌めき。ナルはそれを追いかけ、捉えて、放さない。
『馬鹿正直で! カンが鈍くて! すぐうじうじして!』
「ナルだって……」
再びビル群に飛び込み、絡まり合う空中通路の間を縫って飛び、
「わがままで! 気分屋で! 子供っぽくて!」
旋回。ナルの姿を正面に。
『大ッ嫌いよ!』
「大嫌いだ!」
二人は真っ直ぐ激突する。
超振動剣(バイブロカタナ)と単分子装甲(モノモラクル)が寄り添い合って火花を散らす。熱い炎を大空に飛ばす。凍り付いてなどいない。眠ってなどいない。ナルの刃は、ハジメの拳は、互いに互いの中心を、貫き通そうと燃え上がる。
「それでも!」
ハジメは叫んだ。
全ての力を言葉に載せて。
自分の持っている全ての想いをただ言葉に託して。
「ぼくはきみのそばにいたい!」
衝撃。
弾かれ合うハジメとナル。お互い推進器(バーニア)を全開にして、反動の全てを抹殺する。そして訪れる一瞬の対峙。惹かれ合い弾き合う二人の均衡点。その奇妙な均衡を。
「歳を取ったってかまうもんか。中年になっても、老人になっても、ぼくはずっときみのそばにいる。最期の瞬間まで、ぼくはきみを愛し続ける!」
叩き壊すために。
「ぼくが――」
言葉の後に残された、命の全てを。
「ぼくが好きなのはきみだけだ! ナル!!」
拳に託す!
『ハジメェェ――――ッ!!』
ナルの背中のポッドから、放たれる蜘蛛糸のような無数のミサイル。
「《アクティヴ》!」
――本当に。
稲妻と化したハジメの体は、全てのミサイルをくぐり抜け、捉えた。
ナルを。
わたしを。
――本当に、あなたは馬鹿正直で、鈍感で、うじうじして。
零距離(ナル)に迫った、たった一人の大切な人(ハジメ)を見つめる。
――でも、わたしは、そんなあなたが……
彼の最後の拳を。
かわす術は、ない。
――大好きだよ、ハジメ。
『《インパクト》ォッ!』
暗転。
一瞬、ハジメの世界が寸断された。
あの時と同じに。いつもと同じに。
ハジメはコックピットブースから這い出すと、いつの間にか集まっていた観衆(ギャラリー)に、目を丸くした。あちこちからハジメを賞賛する声が聞こえる。ありがとう。心の中だけで礼を言い、ハジメはすぐさま、隣のブースに駆け寄る。扉を開く。
ナルは、シートの上に、ぐったりと横たわっていた。
「ナル」
優しく呼びかけ、彼女を抱き起こす。首筋から神経リンクのケーブルを抜いてやる。敗北を告げる明滅する画面が、ナルの白くて、まだ十分に若々しい顔を、照らしている。
「ハジメ……」
ナルは静かに目を開き、弱々しく声をあげた。
「ごめんね、ハジメ……本当に、ごめんね……」
「いいんだ。そんなこと……一緒に帰ろう。ずっと、一緒にいよう」
ナルの体の震えが、手のひらを通じて伝わってきた。ナルは泣いていた。産まれて初めて、泣いていた。時々息に詰まり、苦しそうに肩を震わせるナルを、そっと抱き寄せる。胸の中に。かつてナルが、ハジメにしてくれたのと、同じように。
「ねえ、ハジメ……」
「……ん?」
「キス、してもいい?」
ハジメはナルの顔を見た。涙を堪え、必死に笑顔を浮かべていた。
その姿は、美しかった。
「こんなおばさんになっちゃって……嫌かもしれないけど……」
ゆっくりと。
「キス、してもいい……?」
ナルを抱き寄せ、ハジメは唇を、彼女のそれに、触れ合わせた。
ずっと二人はそうしていた。唇の震えが止まるまで。互いの心が解け合うまで。二人を覆っていた厚い雲が、風に吹かれて消えるまで。
光が、差し込むまで。
ずっと二人は、よりそっていた。