1:
 結局、その後は会話が続かなかった。押し黙る以外にする事が無い。
 少しでも血の足しに、と渡されたサプリメント・スティックを齧って、もう一服を終えたところで彼らは出発する事にした。
 朝日が昇る前に、何処かしらへ身を潜めなければなるまい。この場所はただ潜むには都合は良いが、何しろ周りに何も無さ過ぎる。食料の調達一つに苦労していては如何ともしがたい。
 ナンバーを叩き戻して、身体に付いた落ち葉屑を払い、エンジンを掛ける。吸いさしの一本が灰になる頃にはオイルも程良く回り、アイドリングが安定する。
 京二が跨ったのを確認して、彼女は滑らかにクラッチ・レバーを緩めた。
 先までとはうって変わって飽くまで一般車両を装いながら都内へと抜ける。
 落ち葉を隠すのなら森の中、本を隠すのならば本の中。そして、人を隠すのならば人の中、というわけだ。
 ヘルメットが欲しかったが、開いている店があるはずもない。かといって、駐車中のバイクからヘルメットだけ盗むと言うのもリスキーな話だ。サイズが合わなければ意味が無い。
 見つからぬ様に狭い一般道を抜ける手もあるにはあったが、いざという時に速度を出せる方がいい。考えた末にバイパス道路を使うことにした。
 切り裂くような風に代わって、まろやかな夜風が剥き出しの頬を擽る。時折すれ違うトラックの排煙が鬱陶しかったが、その他は順調だ。
 外環の立体交差を越えた辺りで信号待ちの最中に、京が振り向いた。
「ねぇ――」
 京二の聴力はそれなりに優れてはいたが、このイタリア製のジャジャ馬はどうにも排気音が凄まじい。足の下でバスドラを鳴らされ続けているようなものだ。これでは聞き取り様も無い。
 顔を近づけ、なんだ? と訊き返す。
「――く、――った方が良くない?」
「聞こえん」
「ああっもう!」
 見ると、歩行者信号が点滅を始めている。時間切れだ。
 諦めて顔を離そうとする京二を、京は左腕で止めた。後続車は居ない。
「――ん」

 ――唇に感じる柔らかな感触。触れ合っている――

 信号が変わった。
 慌てて振り向いてシフトを入れ、少し出遅れたタイミングでクラッチを解放する。と、ジャジャ馬は見事に機嫌を損ね、がくり、とストールした。
 回転数が足りなかったのだ。呆然としたままの京二に曖昧な照れ笑いを浮かべる。
「……ごっ、ごめん」
 スターターを押し込んで一握り分の爆音を轟かせる。
 何事も無かったかのように赤い車体は滑り出し、街灯のない宵闇にその身を躍らせて行った。


 便利な時代だ。と、京二は皮肉を漏らす。
 あれから、不気味なほど何事も無しに都内へと入ることは出来た。そう、刺客の追撃は兎も角として、警察の追走や検問、その他一切に至るまで何もなかったのだ。
 闘える状態とは良い難い以上ありがたくはあったが、酷く不気味にも感じられる。
 このままで終わる筈はない。そう、ないのだ。
 無論「便利な時代」と思ったのは追撃がないこととは何の関係もなく、立ち寄った24時間営業のジーンズショップのことだ。
 コンビニエンスストアは兎も角、深夜に服まで買える時代とは恐れ入る。それでも助かった事には違いはないのだが。
 なにせ自分で放ったスラッジを喰らっている上、左腕を固定するのに袖を使ってしまったのだ。
 シャツは既に原形を留めて居ない。おまけとばかりにジーンズの太腿部は見るからに不自然な穴が開いている上、どす黒い赤に染められたままだ。出血が止まった事は幸いではあったが。
 どうやら先刻の京は、あからさまに不審なこの状況を打破しようと「服を買ったほうが良い」と叫んでいたらしい。
 流石にこのままで店内に入るわけにも行かず、京二は外で暇を持て余していた。
 自分の物を選んでいる訳ではなかろうに、京は先から随分長い時間入ったまま出てこない。
「…………」
 考える時間が有ればある程、先の事を思い出してしまう。
 思考は何とかそれを逸らそうと藻掻くうちに、何故逸らそうとしているのかと考え始める。
 結果、彼の足下にはフィルターだけになったロング・ピースがちょっとした吹き溜まりの様に溜まっていくわけで。
――女は、わからん
 段々と思考が本筋を逸れ始めた所で、京が入り口に姿を見せた。
 が、一瞬眉を寄せたかと思うとすぐさま引き返す。

 直感的な物だった。
 車体を撃たれてはたまらない。固定されたままの左腕が鬱陶しかったが、そのまま前に思い切り飛んで転がる。
 瞬間、爆竹の束に火を点けたような音と共にジーンズ・ショップの自動ドアが連続した弾丸の前に粉と砕け散った。
「――ち!」
 起き上がりざまにスライドを目一杯噛んで引き、射撃姿勢を整える。
 が、
「……な、んだと?」
 京二は引き金を引けなかった。
 恐怖ではない。あるのはただただ只管な驚愕。
 目の前に立つのは至極普通にスーツを着こなす、ただの中年男だ。
「久し振りだね、四方津君」
 だが、その声は低く暗く、まさしく地獄からの響きを伴っていると言えた。
 京二は自らの目を疑った。
 ゆらり、と立つその男は空になった弾倉を投げ捨て、ゆっくりと再装填する。
 京二の顔面に照準を付けると、にやり、としたいやらしい笑みを浮かべた。
 何故ならそいつは――
「いやはや、痛かったよ。ここに来るのに丸3ヶ月だ。礼はさせてもらうよ。“彼ら”の分もね」
「岸、武・・・」
 彼の獲物となった人間の一人、岸武礼二(きしべれいじ)だった。


 右手の銃――Vz61――スコーピオンが、唐突に火を吹く。
 その名の通り、鋼線で作られた銃床とバナナ型に曲がった弾倉が蠍を模したような特徴的なシルエットを形作るサブ・マシンガンだ。
 32口径の小さな弱装弾を使用する代わりに連射速度が凄まじく、尚且つ速度調整すら可能な特徴をもつ旧東側の銃。
 いくらこの国で拳銃の所持が可能となったとは言え、短機関銃――それも隠蔽携帯(コンシールド・キャリー)が可能な物の所持は、一般では先ず無理だ。
 けたたましい音と共に猛烈な勢いで発射された弾丸は、京二の頭ではなくその身を縫い付けるかのようにアスファルトを抉った。
 先とは比べ物にならぬ速度で弾倉が再装填される。
 再び笑みを浮かべた岸武は未だ固まる京二に近付きながら悠然と言い放った。
「不思議だろうねぇ。不思議だろ? 死んだ筈の人間が目の前に居たら、そりゃぁ誰だって不思議だろうさ」
 “不思議”で済む問題ではない。
 あの時、確かに岸武は京二の45口径弾を胸に喰らい、即死した筈なのだ。
 岸武はというと、可笑しくて仕方が無い、と言った様子だった。
 予断無く構えたままではあったが、その眼は只管に京二を嘲笑っている。
「いやいや、そんなに驚かなくても良いじゃないか。お互い仲間なんだ」
――仲間?
 そう。京二は人を超えた再生能力を持った――いや、持たせられた人類だ。
 だが、それが何も彼一人だけの事と限られた訳ではない。
 つまるところ岸武は、京二と同じ技術の上に死の淵から蘇えったのだ。
 旗瀬やあのタクシードライバー……大導寺の様に完全に肉体が死んでしまえば、さしもの不死技術も通用はしない。
 この技術は細胞から始まる身体組織の『現状維持』によって成り立つ不死術だ。
 彼の左眼の傷が一向に塞がらないのもこの特性の所為だ。
 1度目の不完全な処術時に行われた実験で、白衣の男は何の感慨も無くナイフを付き立て――塞がらぬまま彼の身体は『現状』としてそれを見做し、傷は塞がる事を拒みつづける事となった。
 あたかも、それは精神につけられた傷の如く。
 京二は視線を落とし、唇を噛み締めた。
 岸武は相変わらず得意げに、相手を何も判らぬ子供と見なすような語り口で話を並べている。
「仲間さ。お互いもう老いも病気も……果ては死ぬ事もない。これで遠い未来を限りなく見通すことが出来る。違うかい?」
「――違う」
 ほう、と岸武は内心感心した。
 京二が固まっていたのは決して驚愕だけではない。実の所最初に目を合わせた時点で、岸武の操る催眠術の間合いに入ってしまっていたのだ。感心したのは、それの解術が思ったよりも早かったからだ。
 だが、まだその余波は残っているらしく、京二は俯き加減のまま動かない。
 右手の45口径も、構えては居るものの銃口はあらぬ方向に向いたまま復帰する様子を見せていない。
 もう一歩近付いて岸武は京二の頭に銃口を押し付けた。
「……まぁ、話すと長い。この位にしておこう」
 敵は、余裕があるうちに殺すのが鉄則だ。そして岸武はその余裕の見積もりを見誤る男でもない。
 よく見れば京二の肩は小さく震えていた。
 恐怖から震えている? いや、術の余波が残るならばそれはありえない。京二の感情は驚愕のまま固定されている筈なのだ。
 ならばやはり術は解け、死への恐怖が――
――もういい。
 悪い癖だ。心の内で岸武はそう頭を振った。
 どうせ、ここで引き金を引けば終わる事なのだ。
 脳を破壊されれば、流石に施設の治療が必要となる。京二にとってそれは即ち“死”を意味する。
 彼らの不死はあまりに不完全なものだった。
 最後に笑いを付け加えて、岸武はこう呟いた。
「じゃぁ、さよなら。四方津君」
 人差し指の力を僅かに強める。銃爪が遊びの部分から硬い感触に変わり――

「――京二!」

――あの馬鹿。
 内心京二は毒づいた。
 折角狙撃のお膳立てを整えたというのに、自ら居場所をばらしてどうする。
 それでも、岸武が“撃てていれば”京二は脳漿を撒き散らす羽目になっていた事は間違いないのだが。
 岸武も流石に驚いていた。
 突如として消えた右手の感触に目を瞬かせて自らの右手を眺める。
 転がったスコーピオンに目を向けると、見事に銃爪が折れて吹き飛んでいた。岸武の人差し指ごと。
 射撃音が聞こえなかったのは恐らく高速弾特有の高周波だったのと、自らの発射音と勘違いした所為であろう。
 なるほど。タイミングと言い手法と言い、鷹の目と言って差し支えない見事な射撃だ。
 ゆらり、と上げた顔の先には、こちらに向かって銃を構えたまま走ってくる、どこかしら見覚えのある顔があった。
 不意に街灯に照らされたその顔を岸武は知っていた。
「……四御神 京」
 びくり、と足が止まる。
 だが、彼女は表情を消すと、構えを解かぬまま言い放った。
「誰?」
 たまらない、と言わんばかりの笑みを岸辺は浮かべた。
 状況など一瞬で読める。彼女は京二に自らの素性を明かしたくないのだ。
 面白い。
 口を開いてしまいたかったが、そう言うわけにも行かない。
 彼らを邪魔するに十分な音が遠方から徐々に迫ってきている――サイレンだ。
 岸武は再び嫌らしい笑みを浮かべると、徐に背を向けた。
 彼女は撃てない、そう判断したのだ。
「――本日はここまでだ。残念だよ。……また会おう」
 肩越しに振り返ると、何ともつかぬセリフを残し、岸武は駅の方角へと走り出す。
 夜の帳落ちてなお寄せ返す人込みに紛れ、瞬く間に消え失せていった。

 サイレンの音はもう程近い場所にある。
 呆然とする時間すらないのが京には辛かった。唇を噛み締めるかのようにしてただ立ちすくむ事しか出来ない。
 全ては岸武の思う通り――彼女は京二に素性を未だ明かしては居なかったし、また知られたくも無かった。
「――行こう」
 虚空に向け呟いたのかと思うほど、京には妙な憔悴の様なものが見て取れた。
 妙な、というのは決してやつれているだけではないからだ。瞳の奥には決意が感じ取れる。
 京二の返事を待たずに、彼女はバイクのセッティングを始めた。これも今までにはなかった事だ。
 人としてある筈の思いに駆られ、京二は口を開きかけ――つぐんだ。
 事情も知らぬまま言葉だけを掛けても、何一つ救うことなど出来はしない。かえって傷つけるのが関の山だ。
 そこで止める事は決して優しさではない。
 だが、京二はそれを己に納得させる以外、方法を思いつかなかった。
「行こう、京二」
 もう一度呼びかけられて、京二はやっとバイクの準備が終わった事に気付いた。中途半端な返事をしながら後ろに跨る。 2人は、目を合わせる事はしなかった。


2:
「――これはどう言う事だ」
 神暮は自室に招き入れた白衣の男を見るなり、開口一番にそう言った。
 手元には岸武が巻き起こした銃撃戦の通報内容と現場検証記録がリアルタイムで表示されていく端末が、めまぐるしくレポート配信を続けている。
 男は、眼鏡の奥に薄ら笑いを浮かべたままゆっくりと唇を吊り上げてから口を開いた。
「お言葉ですが神暮代表。四方津京二は組織にとって最早妨害要素以外の何物でもない――」
「敷島」
 その声は厳かに響き渡った。白衣の男――敷島洋介(しきしまようすけ)はぴくり、と眉を寄せて止まる。
 神暮の、白髪混じりの頭は到底20代には見えない。だが、だからこそ異様な迫力をもってその声が響く。
「私は芝浦谷の銃撃が京二目的のものとは一言も言っていない」
「しかし、それはお口を閉ざされ心中を明かされぬだけ――」
「黙れ」
 深い皺の向こうにあるその双眸が一瞬鋭さを増す。
 鉄面皮、と呼ばれた鬼の参謀の、ありえぬ怒りの表情だった。
 視線だけで人を殺す事が出来たなら、神暮は今まさに敷島を串刺しにしたに違いない。
 人殺しでもこうはいかぬ、という視線に敷島は今度こそ黙り込んだ。
「私は阿呆なあの刺客共が余計に事をしでかす事の方が妨害要素と思えた。それだけだ」
「ほう」
 敷島はあからさまに信じていない様子だった。当然だ。神暮とて己の言を信じているわけではない。
 真実は言うまでも無かった。
「それは良い。だが何故岸――」
 今度は彼が遮られる番だった。ぴりり、と小さな電子音が鼓膜を揺らす。
 視線を落とすが、レポートはまだ配信中だ。完了の音声ではない。
「――失礼」
 白々しく言って、敷島がポケットに手を入れる。タイピンに仕込まれた小型の無線機が着信を示したのだ。
 ちら、と神暮を一瞥し、彼は通話ボタンを押し込んだ。
 外部の至る場所に派遣されている諜報員の報告は常に、神暮ではなく敷島に届けられる。
 神暮は何も出来ぬ己の身を呪わずにはいられなかった。京二と、囚われの妹の身が、不憫でならなかった。
 だからこそ彼はここでもがき続けている。
 その思考を読み取ったかのように敷島はにやりと笑みを浮かべ、口を開いた。
「――岸武が敗走したようです。どうやら、可愛い妹君もご一緒の様ですな」
 息を飲み、神暮は眼を見開いた。
 状況が理解できない。それは彼にとって初めての経験だった。
 敷島には今眼前にある光景が心底面白く、たまらない。
 あの鬼とまで呼ばれた鉄面皮が自らの所業の上で見事に踊り狂い、自らの前で嘗て無い程の驚愕をまざまざと見せ付けている。
「ふ……ククク……クハハハハハハ!」
 堪えきれぬ笑いは何時しか爆笑となって彼を支配した。
 怒りに歪ませる余裕すらなく、神暮は脱力したまま驚愕の二文字を貼り付かせている。
 当然の反応だった。
 母親が違うとは言え妹は妹であり、守りきれなかった事を必死で悔やんだ存在の一人だ。
 親を旅の空で失い、その後のここまでを2人は必死で生き延びてきた。
 神暮を慕い、どんな時も彼の味方だった。彼を信じていた。
 思い出は悪魔の如き影をもって彼を捉えた。視界が揺らぐのを感じる。
 それでも端で働く彼ゆえの優れた思考は、残酷に事実を浮き彫りにしていく。神暮の左遷と共に捕らえられた筈の彼女が何故か今外部に、それも京二と共にいる。
 そして組織は、必要なものは決して手放さない。意味する所は、つまり――
「いいですなぁ。実にいい。実にいい表情ですよ、神暮“参謀”」
 敷島は興奮冷め遣らぬ中、その瞳に冷徹な芯を込めた。
 こうなっては何にせよ動かずにはいられないだろう。そうなればただ軟禁に甘んじてきた男の行動など、天から見下ろさんばかりだ。
 何をしようと彼の手の内から逃れる事など出来まい。
 ようやっと怒りが滲み出した神暮を背に、肩越しに言う。
「――では、私は岸武を診て参ります故、失礼」
 扉は閉じられた。
 暫しその前に立つ。
「――敷島ァァァァッ!」
 防音の利いた扉に遮られ、その声は微かに空気を震わせるのみ――
 敷島は鼻先にずれた眼鏡をくい、と持ち上げ、硬質な革靴の音を響かせながらその場を後にした。


 真実(ほんとう)の所、敷島にとっては今の状況など如何でもいいことであった。
 彼にとって、過去積み上げてきた事は過ぎ去った事でしかない。
 データとしての認識はあってもそこに感情や批評は無く、神暮を陥れ京二を、誰もかもを裏切り築き上げた今の体制も全ては自らが望む道を進む為の「糧」でしかない。
 先。
 「未来」とも呼ばれるそれを、人類の行き着く果てを彼は望んでいた。
 歪んでいると言えるかもしれない。
 だが、感情や精神のすれ違いを無視して言葉上のみで見るならば、それは“組織”として立った当初と変わらぬ謳い文句なのだ。
 人が人として生き、死ぬ。それならば――いや、そうであってはこの種はもう長くは持たない。
 そう考えた彼は「人類が人類として生き残る術」を模索し、ここに辿り付いたのだ。
 一切の感情を、人を操る術――ひいては自らの望みを叶える為とする敷島を人々は呪うに違いない。
 狂気。
 この言葉こそ相応しいと、皆は言うだろう。
 確かに相応しい。相応しいが的確ではない。彼の狂気は相手を操る為の物でしかない。
 最早彼は、人を超越した領域に居るのかも知れなかった。

 エレベーターを降りて革靴を響かせながら辿り付いた先は、診察室と表現するしかないような部屋だった。
 シンプルなアルミ・デスクの上にはカルテや資料などがずらりと並べられ、その脇の棚には消毒器具や洗面器などが整然と佇んでいる。この場のみを見たならば病院の一室と見紛うのも無理は無かろう。
 だが、ここは彼らの居城だ。
 “不老不死”を餌に撒き、今やこの国の限りなく全てに近い部分を裏から操れる――巨大な組織となった彼らの城だ。 神暮の居る最上階から幾分下にある階層にそこは存在する。
 部屋に入るなり肘掛付きのオフィス・チェアに凭れ掛かった敷島は鷹揚に声を放った。
「――手酷くやられましたね」
 声とは裏腹にその表情は笑顔だ。
 端から見ればまさに医師の診察に見える筈のその光景はしかし、目の前に恭しく傅く白髪混じりの中年男によって一種異様なものになっていた。
 男――岸武 礼二は一向に頭を上げようとはせず、敷島もまた顔を見ようとはしない。
「いえ……しかし、申し訳ない」
 声の神妙な表情に緊張が垣間見える。
 カルテに一通り目を通し、敷島はようやっと顔を上げさせた。
 まるで小動物のそれだ。
 そこに、一時とは言え京二を追い詰めた老練な暗殺者の姿は無い。
 明らかに怯えを帯びた瞳に、かすかに震える頬。悪くない、と敷島は笑う。
 岸武は震える唇でこう付け足した。
「……しかし、次こそは必ず――!」
「相手が彼ですから。仕方ありませんよ」
 そう言って右手を見る。吹き飛ばされた人差し指は既に修復済みだ。処術後の動作テストも問題はなかった。
 あとは岸武の腕次第だが、敷島にとってはそれも如何なろうと予測の範疇に過ぎない。
 京二から始まった“研究”の進度は加速度的に上がっている。今や岸武の身体など及びもつかぬ段階にまで来た。
 ――あの異常な例さえ除けば。
 そう、彼の予測の中で一つだけ、その結果を大きく外れた検体が存在した。
 結果からは何も読み取れず、次に繋ぐ物が何もない状態だった。当然それは彼にとって許し難い事実だ。
 しかも、その検体は全ての検証を終えぬまま、3年近くも行方が判って“いなかった”。
「……どうか、なされたので?」
 知らずと顔を顰めてしまっていたらしい。本心から来る表情など、彼には先ずないことだ。
 すぐさま表情は切り替えられ、微笑が整えられる。
「いえ――なんでも」
 一片の隙も無い、完璧な微笑だった。
 あからさまに安心した様子の岸武に彼は再び針を垂らす。
 立ち上がって扉に手を掛ける寸前、徐に敷島は声を掛けた。
「……では、失礼」
「ああ、そうだ岸武さん。息子さんのご容態は如何です?」
「……!」
 深く刻まれた皺の奥に、何時の間にか全てを突き通さんばかりの眼光が宿っていた。
 岸武はあの京二に戦いを教えた師たる存在だ。
 根は堅く、且つ、理想に燃えた最後の世代と言える人間。そんな人間を操るに何が最高か――その答えはそこにある。
「事故とは痛ましい限りで。何ならば休暇を出しますから、お見舞いにでも――」
「いや……有り難いお言葉、気持ちだけ頂戴いたします」
 そう言い残すと彼は先よりも些か乱暴に扉を出た。

 ――つまるところ先の怯えや服従は全て演技だ。敷島はその上で脅迫をかけ、彼に動きを取らせる。
 薄暗い空間で一人、敷島は嗤った。


3:
 結局、岸武撃退後の追撃は一度として無かった。
 相変わらず警察すら動きを潜めている事は不気味であることに変わり無い。だが、神経を張り詰めすぎても余計な疲労を招くだけだ。
 浮浪者が少な目の場所を選び夜営の準備をする。とは言え、襤褸屑になった京二の服と必要の無くなった京のコートを処分し、便所で着替えをする程度なのだが。
 着替え終わった京二は開口一番、ベンチにスーツ姿で佇む京にこう言った。
「……動きづらい」
 普段はラフな格好しかしないからだ。京二の脳内に“身だしなみ”などという言葉は存在しない。
 京はそのギャップに思わず顔を逸らした。笑いを堪えているのだ。
――に、似合わない!
 膝に置いた手が震えている。
 意に介す事も無く京二は顔を顰めながら腕を上げたり銃を構える姿勢を繰り返し試している。首を傾げて抗議の意を示すが、それが通らない事もまた良くわかってはいた。
 この辺りは所謂オフィス街だ。自然な格好と言えば先ずはこれだろう。それに何をするにも何かと融通が利く格好ではある。
 流石にオーダーメイドは出来なかったが、幸いにして京二の身長と体格は吊しの物でも事足りる物だった。彼女のスーツは、というと、どうやら持参した物らしい。
 身体、特に彼の左腕が完全に使える状態になるまで数日間は掛る。その間怪しまれずに行動するには仕方ない。
 京二は小さく溜息を吐くと彼女の横に腰掛けた。
 ようやっと復帰した彼女はバッグから、冷えた缶ビールを取り出す。
 車体後部の両脇に吊るされているバックには一体どれだけのものが詰め込まれているのか――苦笑を禁じ得ない。まぁ、考えても仕方がないことではあるのだが。
 一本を放り投げてからプルタブを引っ張ると、京は一気に半分程を喉に流し込んだ。
 暑さに渇いた喉が待ちかねていた水分に歓喜の声を上げる。
「――っはぁ。夏はやっぱこれでしょ」
 先までの憂鬱な表情は欠片も見せない。
 一見すれば、酔ったOLが飲み足りないからと公園で3次会を開いてしまっているようにしか見えなかった。
 京二もまた小気味良い音を響かせて、泡の湧き出したそれに口をつける。
 酒は久方ぶりだった。成人して間もない頃に飲んだ朧気な記憶しか残ってはいない。そこに感傷はないが、妙に懐かしい気分にはなった。
 ちびちびと啜るように飲んでいると、彼女は立ち上がって缶を投げ捨てた。
 どうやらもう飲み終わってしまったようだ。
「……足りない」
 ほんのり顔が赤くなっているところを見ると、どうやら酒に強い訳ではないらしい。
 やめておけ、という間もなく彼女は2本目に手をつけていた。
 彼の中でゆっくりと、しかし確実に苛立ちは進行しつつあった。
 それは“何かと振り回されている自分”に対してでもあったし“振り回す京”に対するものでもあった。
 俺は何故こんな状況(ばしょ)に居る。その問いは静かに心を揺らし始めている。
 一度浮かんでしまえば歯止めは利かなかった。酒の所為もあるのだろうか。
 彼女に助けられたのが全ての始まりだ。だが、それだけの理由で何故自分がここに居るのか。
 岸武に対した彼女の反応も気になる。あれはあからさまな顔見知りに対する反応だ。
 そもそも、この京という女は一体何者なのか。
 よくよく考えてみれば互いが――少なくとも京二は、随分と馬鹿げた話のもとに行動しているのだ。
 彼を動かす力は言わば復讐だ。己を己ならぬ存在にされたそれへの。
 一缶をようやっと飲み干した所で、京二は口を開いた。
「……おまえ、何を隠してる?」
 唐突で、あまりと言えばあまりな言葉だ。
 ふわふわと漂っていた彼女はどうやら意味を図りかねているようだった。暫しきょとん、としたまま焦点の曖昧な目で返す。
 やがて京は笑みを消し、膝の上に缶を置いたまま俯いた。
 押し黙る京二に雰囲気を飲み込んだらしい。だが、口は噤んだままだ。
 あてもなく続く沈黙に再び京二の苛立ちが募り始めた頃、ようやっと彼女は震える唇で言葉を紡ぎだした。
「その前に一つだけ」
「なんだ」
「……あのさ」
「言え。聞こえるように」
 最早彼は彼女を敵と見なしているも同然だった。実際、行動の妨げになっている時点で彼女も敵には違いない。
 京は微かな笑みを戻す。眉尻も下がったまま、にこ、と笑う。
「君を、愛してる」
 木々がざわめくようにその身を揺らす。夏の夜の風が企んだ下らない演出だ。
 この展開は予想のうちの一つだった。彼を利用しようとしたならば恐らく既に彼女はこの世に存在しない。
 妙に好意的な言動、それに彼女は彼の為に何度命を掛けた?――それへの義理はある。確かに存在する。 
 だが、“邪魔とあらば殺す”。それは京と出遭った時に京二自身が言った言葉だ。
 煙草に火を点けて白い息を吐き出す。
 ふわ、と漂ったそれを吹き乱して京二は彼女に向き直った。
「……それで?」
 乾いた、感情の篭らぬ響き――それは“灰色の彼”だった。
 “在りし日の彼”などどこにも居ない。
 今そこにいるのは最早、自らに課した命に食われつつある憐れな――
 ――気付けば、視界が揺らいでいた。
 知らず流れた涙だと気づく事すら叶わない。
 おぼつかない足で立ち上がりジャケットを脱ぐと、徐に京は銃を抜いた。
「っ!」
 反射的に抜き、頭に照準を合わせる。
 だが、彼女は涙もそのままにもう一度微笑むと、構えた銃を自らの胸に向け――
「やめ――!」

――引き金を引いた。

 炸裂音。
 僅かに漂う硝煙の向こうで、おろしたてだったシャツが見る間に赤く染まっていく。
 その小さな唇に薄っすらと紅を滲ませて、彼女は前のめりに倒れた。
 一体なんだ。
 何だと言うのだ、この女は?
 勝手な期待のもとに行動し、勝手な絶望の挙句自殺を図る? いや、それならば別段構わない。
 ただ、独りに戻るだけ――戦力の低下は否めない事実だが、彼にとってそれは寧ろ動きやすい状況に他ならないのだ。
 他の目的? だが、京は彼から情報を聞き出すでもなく――いや、報告役を担って居たのか?
 そこまで考えて京二は首を振った。どちらにせよ構わない。考えてももう意味が無い。放っておけば勝手に死ぬ。
 一応の確認の為にゆっくりと近寄り、細い首筋に指をあてがってから顔に手を翳す。
 脈も息もまだあるが、大口径銃で肺を撃ったのだ。
 幸いこの辺りには人が住んでいるような場所はほぼ無い。
 周りは茂みに覆われている上、向こうは海だ。流れ弾の危険がないことは最初から計算していたのだろうか。
 人通りそのものもないに等しく目撃者が現れる危険性はそれ程無い。無いが、それでも早くこの場を離れるに越したことはないだろう。
 最も、どう調べた所で彼女の自殺と判断するほか無いだろうが、余計な面倒は無いに越したことは無い。
 銃を仕舞うと京二は立ち上がった。
 背を向け、一歩目を踏み出さんとする――その時だった。

「……これで、わかった?」

 ぎくり、とした。
 喋る事が出来る状態ではない筈だった。
 まして、立ち上がる事など問題外にも程がある。
 ――そう、普通の人間ならば。
 驚きはある。
 だが、あの技術が半死人すら蘇えらせる事は確かな事。それはあの岸武が身をもって実証した。
 振り向く京二に、にこ、とあの笑みを返す。
 凄絶な光景だった。口の端から一筋赤を垂らし、微かに咳き込みながらの笑顔だ。
 服に付いた砂を払いながら、京は起き上がった。
 不死者。
 明らかに京二より数段優れた能力を持ったそれだった。
 京二がもし今の京と同じ事をしたとしたら復活するまでには2日は掛る。内臓系の損傷は修復が早いとは言え、京二の持つ“能力”とは桁違いと言っていいだろう。
 だが、そのものは脅威だったとしても、京二にとっては忌むべき物でしかない。
 もう一度銃を抜き、彼は訊いた。
「――その身体は、何処まで利く? 脳を撃たれればやはり同じか?」
 彼らは――いや、彼らでも脳の損傷は施設以外で再生することはできない。
 京二にとってそれは“死”だ。敷島が掲げた“商品”としての不死は、少なくとも京二にとっては意味を為さない。
 だが、彼女は如何なのか。
 ロック位置にあった撃鉄を起こす。照準はきっちりと額。
 乱暴に口を拭って、京は再び視線を起こした。
 無理矢理に作った鋭い視線で京二を睨み返す。
 声はもう震えていない。流れる赤も咳も止まった。ただ、空いている左手で作った拳だけが震えている。
「ねぇ」
「質問に答えろ」
「勝手なのってどっちなんだろうね」
 その問いはどちらにとも無く掛けられた物だ。
「――答えを聞いていない」
「京二の思ってた通り、あたしは確かに期待していたよ。してたんだよ」
「答えろと言っている」
「確かに勝手だよ。映画とかドラマでよくあるみたいに、顔を見れば思い出してくれるかも、って都合よくそんな事を期待してた」
「……それは残念だったな」
「残念すぎるよ。だって、あの時幸せだったから」
 京二の中に微かな引っ掛かりがあった。
 殆ど薄れてしまって輪郭すらつかめぬその記憶――京は続ける。
「何で今更こんなことする必要があるの?」
「あいつらが存在する事を許せぬほどには……憎んでいるからだ」
「なら、何であたしに振り回される? 君があたしを振り回して、利用するだけすれば良かったのに」
「勝手なことを言うな!」
「勝手なのはどっちだろうね?」
――お前に決まっている。
 そう叫びたかったが、京二には出来なかった。
 邪魔をするのは胸のうちにある微かな棘だ。
 小さく、飽くまで小さくそれは痛みを投げかける。
 笑みが変わった。憐れむような哀しむような表情だったそこから、怒りを滲ませたそれに変わっていく。
「利用するだけして、要らなくなったら捨てればよかったんだ」
「――っ!」
「そうでしょ? もしそうだったなら、あたしもこんなことしないで済んだし、君も余計に苛立つ必要なんて無かった。違う?」
 “こんなこと”を血に染まったシャツを指しながら言う。
 胸の穴は最早その痕跡を留めておらず、物語るのはその染み付いた赤だけだ。
「黙れ」
「黙らないよ」
 平然と言い放つ。
 唐突に京二は語気を弱め、銃を握りなおす。
 それは終わりの合図だった。
「……なら、もういい」
 そう言って、彼は人差し指に力を込めた。